時に西暦1860年 アメリカ合衆国 ネブラスカ准州
見渡す限りの大草原の中にその町はあった。
町というよりはむしろ集落と言った方が適切であるのかもしれない。
せいぜい十数軒の家屋しかない小さな町である。
この町の名はブルークリーク。
時折、旅の行商人が物資を運んでくるのを除けば、外界との接触がほとんどない隔絶された町でもある。
最近緊張の高まりつつあるワシントンの連邦政府と南部諸州との対立も、この町には全くの無縁であった。ここに住む人々の話題と言えば、天候と農作物の出来具合、子供の成長、新たな生命の誕生と、隣人の死ぐらいのものである。
そしてこの日、住人達の口にのぼったのは、ある女性に訪れた死と後に残された彼女の一人息子のことについてであった。
「灰は灰に、塵は塵に・・・。」
町外れの墓地に神父の祈りがおごそかにひびく。死者を弔うための祈りである。
それに耳を傾ける人々の顔はどれも暗い。葬儀に参列する人の数はそう多くはないが、それでもこの町の総人口を考えればそのほとんどはここにいると考えられる。
それらの人々が、墓地の一角に横たえられた棺を取り囲むようにして神父の祈りに耳を傾けていた。
「皆さん・・・、」
神父の言葉がつづく。
「今日、神のもとに召された碇 ユイさんは我々の良き隣人であり、また医師としてこの町を守ってくれた恩人でした。」
そう言って神父は参列者の顔を見渡した。
「ここにいる子供達は全て彼女に取り上げてもらった。」
子供達のかたわらに立つ両親がそっと我が子の手を握り締めた。
「ジャック、君が以前銃の暴発で大怪我を負ったとき、ユイ先生は凍える夜の荒野を20キロも駆けて君を助けに行ってくれた。」
恰幅のいい一人の中年男が黙ってうなずいた。
「メアリー覚えているかね、子供の頃ショウコウ熱にかかった君を先生は3日間寝ずに看病してくれた。」
一人の若い女性がうなだれてまぶたを閉じる。
「今更言うべきことではありませんが、私も含めてここに集まった者全員が彼女に助けられたことがあります。残された我々が彼女の恩に報いるには彼女と過ごした日々を記憶に留め、彼女が与えてくれたそれぞれの命を大切に使うことだと私は思います。」
そう言うと神父は目を閉じ目頭を押さえ、そして再び目を開けると人々に言った。
「最後に彼女の魂が天国でやすらかならんことを願って、ここにもう一度祈りを捧げましょう。」
参列者全てが手を胸の前で組み祈りを捧げた。
長い祈りの後、神父はその傍らに立つ黒い喪服を着た一人の少年を促した。
「さあ、お母さんに最後の別れを・・・。」
少年は軽くうなずくと横たえられた棺に近ずき、そっとその手を棺に当て、そして目を閉じた。
草原を渡る小さな風が、少年の黒い髪をなでる。
その風の中には、春まだ浅い時期特有の、ほのかな冷気があった。
それを感じた者に郷愁を感じさせる、そんな冷気である。
今、少年の胸に去来するのはどんな感情であるのか。
と、少年を見つめる参列者達は思った。
彼女の死がもたらした悲しみは参列者達にも大きなものであった。
しかし今この少年が感じているものに比べればどれほどのものであるのか。
その光景に参列者達は改めて自分達が失ったものの大きさに気づく思いであった。
やがて少年は目を開き、神父を振り返って小さくうなずいた。
それを見届けた神父が集まっている男達に視線を送る。
男達はうなずくと、棺にロープをまわしだした。
埋葬の準備のためである。
男達は黙々と作業を続け、それを見守る人々もまた無言であった。
やがて棺は深く掘られた穴の中へと静かに下ろされ、穴のかたわらに積み上げられていた土が穴の中へと入れられはじめた。
棺の上に土がかぶさり、時間とともに棺の表面が見えなくなっていく。
それらの光景を、先程の少年もまた無言で見つめていた。
しかしあと土をひとかけすれば棺が完全に見えなくなってしまう、その瞬間、少年がつぶやいた。
「さよなら、母さん・・・。」
それは彼の母親が亡くなってから後、ブルークリークの人々がはじめて聞く碇 シンジの声であった。
やがて棺がおさめられた穴は完全に土で埋まり、死者の名と生きた年月、そして「我が町の恩人」と刻まれた墓標が建てられ、葬式は終わった。
参列者達は故人の事をしのび、しばらくその場を離れようとしなかったが、やがて各自それぞれの別れの言葉を胸の中でつぶやくと家路についていった。
次第に墓地にたたずむ人の数が少なくなってゆく。
そんななかで碇 シンジはただ一人じっとある一点、碇 ユイの埋められた場所を穴の開くほど見つめていた。
「シンジ君・・・。」
いまだ帰る様子を見せないシンジに1組の中年夫婦が声をかけた。
先ほど神父にジャックと呼ばれた恰幅のよい男と、その妻キャロラインであった。
この夫婦は碇家の隣に住み、これまでこの母子の面倒を親身になってみてきた。
またこの夫婦には子供が無く、それゆえシンジのことを非常に可愛がった。
そしてシンジもこの夫婦のことが好きであった。
しかし今、シンジは二人の呼びかけに振り向こうとはせず、
ただこれまでと同じく母の埋められた穴を凝視するだけであった。
「シンジ君・・・。」
二人の呼びかけに反応を見せないシンジに対してジャックがもう一度呼びかけた。
その呼びかけにシンジはゆっくりと振り返った。
しかし夫婦が見たシンジの顔には、あらゆる感情がそげ落ちたように表情が無かった。
夫婦の表情が痛ましいものを見るように曇る。
夫婦はこの少年が葬式の間中、いや母親が亡くなって以降ずっと今のように何の感情も示さなくなった事に気づいていたからだ。
『いっそ泣き喚いてくれた方が・・・。』
夫婦の胸にそんな思いがよぎる。
この夫婦達にとって人の死に接するのはこれが初めてではなかった。
これまでの人生において家族、友人といった親しい者たちの死も経験したことがある。その度に彼らは死者のために泣き、泣くことで現実を受けとめ、そして悲しみを癒してきた。
死が神の与えた避けることが出来ない試練なら、泣くことはその試練を乗り越えるために神が残してくれた希望だとこの夫婦は思っていた。
しかしシンジは違った。
母親が死して後一滴の涙も流さなかったのだ。
当初、この夫婦はシンジが泣かないのは周りに人が多勢いて泣きずらいからだと考えていた。そこで二人は亡骸を墓地へ運ぶまでのしばらくの間、シンジを遺体のそばにいさせて他者を一切近ずけさせなかった。しかしその間、シンジ達のいる部屋の外に控えていた二人に、予想したようなシンジの号泣は聞こえてこなかった。そして時間が無くなり再びドアを開いた二人が見たものは、先ほどドアを閉じる前に見た時と同じ、母親の死顔をじっと見つめるシンジの姿であった。
「・・・シンジ君、お母さんはお気の毒だった。」
ジャックが今日一日に起こった出来事を振り返りながら、やっとのことでシンジにそれだけのことを言った。
「はい・・・。」
「何か私達に出来ることがあれば何でも言ってくれ。」
「はい、ありがとうございます。」
「さっき神父様も言われたが、ユイ先生には町の者全員が世話になっているし、君の事をみんな家族のように思っている。だから遠慮なんかすることはないんだよ。」
「はい・・・。」
ジャックはその後何度もシンジを元気づけるよう何度も言葉をかけた。しかし返ってくるシンジの言葉はどこかうつろで生気が感じられない。
『今日のところは何を言っても無駄か。いずれ時間が解決してくれるのを待とう。』
シンジとの会話を続けるジャックにあきらめの念が浮かんだ。
このまま会話を続けても、いい結果が出るとは思えなくなってきていたからだ。
「それじゃシンジ君、我々はこれで帰るが君はどうするかね。」
「僕は・・・、」
そう言ってシンジは振り返った。
自分の母の埋葬された場所に向かって。
「僕はもう少しここにいます。」
「そうか・・・。気が済むまでいればいい。」
ジャックはそうシンジの背中に告げると妻を促して墓地の出口に向かった。妻のキャロラインは何かシンジに言いたそうなそぶりをみせたが、結局何も言うことは出来ず夫の後についていった。
そして、墓地にはシンジ一人しかいなくなった。
「やはりだめでしたね。シンジ君、心を開いてくれなかった。」
墓地から町に戻る道をたどりながら、キャロラインは隣を歩くジャックに話しかけた。
「ああ・・・。」
「多分悲しくないわけではないと思いますよ、あの子。」
「・・・・。」
「ただまだ実感出来ないんだと思います、自分の母親が死んだって事を。私だって心のどこかでユイ先生が死んだのを信じていないところがありますもの。血を分けた息子ならなおさらです。」
「なにしろ急だったからな。昨日まではあんなに元気だったのに。心臓発作とはな。」
その言葉にキャロラインがうなずく。
「もともと心臓が弱かったのではないかしら。時々顔色が悪いことがあったもの。一度医者に診せてはと言った事があったんですが、笑って何でもないから心配しないでっておっしゃって。今思えばもっと強く言っていればよかった、申し訳のないことをしたわ。」
「気丈な人だったからな。苦しい事があっても、それを我々に気づかせないようにしていたんだろう。」
「もともと西部で生きていくには繊細すぎた方だったのかもしれないわね。」
二人は改めて故人となった碇 ユイのことを思い出していた。
シンジと同じ黒い髪と瞳を持った女性。
可憐で繊細といった外見には似合わず、その内に強い意志と行動力を持った女性。
常に明るく、この荒野の真ん中の小さな町で大地に根を下ろし懸命に生きていた女性。
しかしもう、この世に彼女はいない。
「シンジ君これからどうするつもりでしょう。身内はユイ先生だけなんでしょう・・。」
「そうらしいな。私も先生に身寄りがいるのを聞いた覚えがない。」
「一人ぼっちになってしまいましたね、あの子。だからあんな顔をするんでしょうか。」
「かもしれん。だがシンジ君には私達がいる。町のみんなだっている。あの子は一人じゃない。」
「そうね。」
キャロラインは並んで歩く夫の手を握った。
「私はユイ先生の代わりに成れるなんて思ってもいないわ。でもシンジ君をこのままにはしておけない。誰かがあの子を導いてあげないと。」
「シンジ君を引き取るつもりかい。」
「いけない?」
「いけなくはない。私だってシンジ君は可愛い。しかしな、あの子は男の子だ。男の子はいつか巣出つ時がくる。」
「でもあの子はまだ14ですよ。」
「歳は関係ない。世の中にはあのくらいの年令で一人で生きている子だって多勢いる。それにシンジ君は賢い子だ。普通の者よりその時が来るのは早いかもしれん。」
「私にはそうは思えません。」
キャロラインは夫の言うことに納得が行かないのか、かなりきつい口調で言った。
それを聞いたジャックが妻をいたわるように優しく言う。
「私が言いたいのはね、もし我々がシンジ君を引き取ったとして、その時が来たら耐えられるかどうかということさ。」
「・・・・・・。」
「正直言うと私は耐えれんね。」
その言葉を最後に夫婦の会話は途切れた。
夫の質問にキャロラインは答えず、顔をこわ張らせたままでいる。
その後も二人は黙って歩き続けた。
『まあいい、そう早急に決めねばならない事ではない。いずれまた折をみて話そう。』
ジャックがそう考えていた矢先、二人の行く手、つまり町の方から誰かが馬に乗ってこちらに向かってくるのが見えた。
『旅の者か?』
その姿を見てジャックはそう思った。
まだ距離が少しあるのと、相手がツバ広の旅行帽を目深に被っているため顔だちまではわかなかったが、その服装や馬に取付けられた装備を見ればそれがどういう人物であるのかはわかる。
街道から外れ、ほとんど自給自足の生活を送るここブルークリークといえど、訪れる旅の者が皆無という訳ではない。
その多くは生活物資を運ぶ行商人であるが、それ以外にもごくたまに来訪する者がある。
例えば鉱脈師がそうである。未踏の地に金鉱を探し求める彼らが物資の調達のために立ち寄ることがある。まためったに無いことだが、ここよりさらに奥地に新天地を求める開拓団が訪れることがある。そしてそれ以外は無法者というのがこれまでの例であった。
『通りすがりの鉱脈師であればいいのだが。』
ジャックの旅の者を見る目が険しくなる。万一無法者であった場合の事を考えてのことだ。
ブルークリークのような外界から隔絶された小さな町は無法者の標的になりやすい。
罪を犯した者が追及を逃れるには、このような町に逃げ込むのが一番有効な手となるからだ。
それでもまだ逃げ込んでくるだけなら、住民としても対処の方法はいくらでもある。
皆が力を合わせて追い出すか、あるいは他の町の保安官に応援を要請するなどが出来るからだ。
しかしこういったケースの場合、そうした無法者のほとんどが逃げ込んだ町を己の自由にしようと画策する。
銃の腕をひけらかし、逆らう者を容赦なく殺していく。
恐怖で人々を支配し、静かだった田舎町が一夜にして死の牢獄と化す。
さらにひどい例では、このような田舎町を強盗団がまるごと占拠し、そこを根城に付近一帯を荒らしまわったということも実際に起こっている。
もし前方の旅人がそうであれば、ブルークリークの住民にとって、とても歓迎出来る来訪者ではない。
過去、ブルークリークにもそういう危機が訪れたことが何回かあった。
幸いその時は大事には至らずに無事無法者を撃退できたが、その幸運が何回も続く保証はどこにもない。
ジャックが抱く懸念と同様のものを隣を歩くキャロラインも前方の旅人に感じたらしく、いつのまにかその手を夫の腕にやり、そしてそれを強く握っていた。
「このまま普通に歩きなさい。いいね。」
ジャックは自分の考えをあえて隠そうとはせず、この場で必要な指示を妻に与えた。
そしてそう言う夫の言葉のなかに緊張の色を敏感に感じたキャロラインは、返事も出来ぬまま、ただ夫に言われたとおり歩調を変えないよう懸命に努力した。
そうして双方の距離が縮まってゆくあいだ、ジャックは旅人への観察の目をゆるめはしなかった。
『どんなに巧くごまかそうと、無法者かどうかは見ればわかる。』
ジャックにはその自信が有った。
ジャックは若いころ陸軍に所属しており、メキシコ戦争に参加した経験を持っていた。
その経験から、このブルークリークで過去に起こった無法者騒ぎに対しても銃を片手に先頭をきって戦い、町の者からは保安官的な存在として頼りにされている。
それなりの修羅場を幾度かくぐったという自負がジャックにはある。
その経験がジャックに示した教訓が一つある。
それは生死を賭けた場所では、出会う人間を瞬間で見極めねば命が危うくなるということだ。
その教訓が鍛えたジャックの眼光が今、旅人に向けられている。
しかしすぐにその目は信じられないものを見たように大きく見開かれた。
『なんと、女か・・・。』
ジャックはようやくのことで、出かかったその言葉を腹の中に飲み込んだ。
旅人の服装・・・、黒の旅行帽や薄い灰色のロングコートなど、砂塵にまみれたそれらはいずれも本来男が身に付けるものであった。
しかし今、旅行帽の下には漆黒の豊かな長い髪が風になびき、黒真珠のように輝く大きな黒い瞳、すっきりと通った鼻筋、朱色の唇、そしてそれらがきめ細やかな白い肌の上に絶妙のバランスをもって配置された顔が帽子のツバの下からのぞいている。
遠目にもはっきりとわかるくらいの美貌である。
ジャックはそれまで抱いていた疑念に加えて、ある種の、感嘆と言っていいような感情を持って、この旅の麗人を観察しだした。
その感嘆の裏には、
『女の身で、しかも一人でよくこの荒野を旅してきたものだ。』
という思いがある。
この時代、荒野を旅するにはそれなりの覚悟がいった。その覚悟とは苛酷な自然環境への危険に対する意味も含んでいるが、同じ比率で犯罪に遭遇する危険があるという意味も含んでいる。
見渡す限りの荒野は法の手が届かない無法地帯ともいえる。強盗に襲われても助けを呼べる筈もなく、頼れるのは己一人の力のみ。大の男でも荒野を一人で旅するにはそれなりの覚悟と武装が必要であった。
その荒野を女が一人で旅するなど常識では考えられない。
『それをこの麗人はやりとげたのか。』
旅の成功が単なる幸運の賜物ではないことを、腰につるされた拳銃と、鞍に取付けられたライフル銃が如実に物語っていた。
それらから漂う緊張感を伴った雰囲気は、幾度も修羅場をくぐり抜るような激烈な使われ方をしないと出ないということを、ジャックはよく知っていた。
しかし、麗人に対する賛美と敵味方の区別は別である。
ジャックは彼女に対する観察の目をゆるめたりはしなかったし、目の前の麗人が単に女であるからといって油断出来る相手ではないことを充分承知していた。
ジャックとキャロライン、そして馬上の麗人との距離がさらに縮まり、もうほんの数メートルというところまで近ずいていた。
その時ふと、ジャック夫婦と麗人との視線が合った。
すると馬上の麗人はごく自然な動作で自分の右手を帽子に持って行き、そしてツバに人指し指をかけると、それを下に引くようにして軽く会釈した。
それを見たジャック夫婦は、それまで彼女に対して持っていた緊張が嘘のように、こちらも自然に会釈をかえしていた。
夫婦と旅人が擦れ違った。
そして旅人は何事も無かった様にそれまでと同じく馬を進め、ジャック達はしばらく歩いてから立ち止り、そして振り返った。
しばらく夫婦は旅人の背をちょうど見送る様なかたちで眺めていた。
「あなた・・・。」
しばらくして心配そうな声をキャロラインが発した。
その理由はジャックにもすでにわかっている。
旅人は彼らが後にした墓地を目指していた。
墓地にはいまシンジが一人きりでいる。
キャロラインの心配はシンジの身を案じてのことだ。
「シンジ君、大丈夫でしょうか・・・。」
その問いにジャックはしばらく返答しないでいたが、やがて
「まあ・・・、大丈夫だろう。悪い人には見えなかったよ。」
と答えた。
確かにシンジのことは心配であったし、何故あの旅人が墓地に向かったのか、そこにいるシンジと関係があるのか等、気がかりはあったが、妻に言ったようにジャックには彼女が悪人には見えなかった。どこがどうとはっきりした理由はないが、あえて言うとしたらジャックのこれまでの経験がそう判断し、彼はその自分の判断を信じることにしたのだった。
そしてジャックはまだ心配そうに墓地の方を見やる妻を促して、町の方へと再び歩みだした。
ジャック達夫婦と擦れ違った後、馬上の麗人は、やはり彼らが予想したとおり墓地へとやって来ていた。墓地の入り口で馬を止め、墓地の中に一人たたずむシンジを彼女は見つめていた。やがて彼女は馬の背を下りると、まっすぐシンジの方に向かって歩きだした。
彼女の身にまとうロングコートの裾が歩くリズムにあわせて軽く舞う。
亡き母の墓標を見つめ、ただ茫然と立つシンジに旅の麗人が近づいてゆく。
しかし、とうのシンジにそのことを気づいている様子はない。
その姿はまるで、彼の魂が母を追ってどこかへ行ってしまったかの様にも見えた。
麗人はそんなシンジのすぐ横に何も言わずに立った。
そして帽子をとると、彼女はシンジと同じく目の前に立つ真新しい墓標を見つめた。
一方のシンジもそんな彼女を気にするでもなく、ただそれまでと同様に墓標を見つめている。
まるでこの墓地には自分一人しかいないかのように。
シンジと旅の麗人は並んで、何の言葉も交わさず碇 ユイの墓標を見つめつづけ、そうしてかなり長い時間が過ぎた。
葬儀が始まった時には高かった日も、かなり西の空に傾きだした。
その頃になってようやく、シンジが横に立つ麗人の顔をゆっくりと見上げた。
シンジの表情がかすかに、まるでなにかに驚いたかの様に変化した。
もしこの場に先ほどのジャック夫婦がいれば、そんなシンジを見て驚いただろう。
なぜならそれが母親が亡くなって以来、はじめて見せた彼の感情を伴った表情であったからだ。
事実、シンジは驚いていた。その理由はもちろん彼の隣に立った見知らぬ女性が思いの他美人であったからではなく、その女性に今は亡き母の面影を見たからであった。
いや、面影というのは少し言葉が違うかも知れない。
確かに彼女は母と同じ黒い瞳と髪を持ってはいたが、その容姿は碇 ユイとは明らかに異なっていた。
シンジが見た面影とは彼女の内面のものを指していた。
亡き母が持っていた、荒野のなかで生き抜こうという気力、というか覚悟と呼べるものが彼女からは発せられている。
それにシンジは反応したのだ。
「あの・・・、あなたは?。」
シンジは隣に立つ麗人の横顔に向かって声をかけた。
「お母さん?」
シンジの問に彼女は答えず、それまでと同様に墓標を見つめたまま、逆にこの墓標の主のことをシンジにたずねた。
「・・・・・はい。」
かなりの間をおいてからシンジが答えた。
「そう・・・。お気の毒に。」
墓標を見つめる麗人の表情がくもる。
そして今度はその視線をシンジに向けた。
「碇・・、シンジ君ね。」
「どうして僕の名前を?」
「私はあなたを探してここまで来たの。」
再び帽子をかぶりながら麗人が言った。
「僕を? 何のために? あなたは一体?」
数々の疑問が連続してシンジの口から飛び出した。
「ごめんなさい、自己紹介がまだだったわね。私の名前は葛城 ミサト。ピンカートン探偵社の探偵をしているの。」
旅の麗人、葛城 ミサトは名乗った。
「葛城 ミサトさん・・・? ピンカートン探偵社の探偵?」
シンジはそれらの語句を口の中で反芻していた。
彼女の名前にこころあたりは無い。物心づいてからこれまでこの町を出たことがないシンジにとって知人の数はたかが知れている。それらの記憶をどうたどっても、葛城 ミサトなる人物にいきあたることはなかった。
しかしピンカートン探偵社の名前は知っていた。確か以前にこの町を訪れた行商人が話していたのを聞いたことがある。
何でも腕利きのガンマンやカウボーイを集め、依頼によって州にまたがり無法者を追跡し捕えることを生業とする集団だったと記憶している。
『しかしそんな危険な事をこの目の前の美人がするんだろうか・・・』
ピンカートンの探偵が何故自分を探す必要があるのかよりも、そちらの方がシンジには気になった。
今自分に向かって優しい眼差しを向けてくれるこの女性が、屈強な荒くれどもを捕まえる仕事に就いているとはとてもシンジには思えなかった。
「そういつもいつも無法者を捕まえるって仕事ばかりじゃないのよ。それだといくら何でも体がもたないから。他にも人を探したりする仕事もあるの。」
シンジの内に浮かんだ疑念を見越す様にミサトが微笑みながら言った。その笑顔のなかにはほんの少し苦笑が含まれている。これまでにもそういった目で見られた経験があるのだろう。
「さっき僕を探しに来たっていいましたけど、それは仕事で?」
まだ疑念を完全に拭いされないのか、多少のぎこちなさを見せながらシンジが言った。
「ええ。でも正確にはあなたを探しに来た訳ではないの。本当はあなたとあなたのお母さんを探すのが私の依頼の内容。」
「かあさんも?」
「そういうこと。」
「でも、かあさんは・・・・。」
シンジは墓標の方へ視線をやった。
「わかってる。もう少しはやく来ればよかったわね。」
ミサトも再び墓標に目をやった。
「でも一体誰が僕ら親子を探せなんて依頼をしたんですか?」
「シンジ君、これは本当はあなたのお母さんに話すつもりだったけど、あなたにも関係のあることだからあなたに話そうと思うんだけど。いい?」
ミサトの澄んだ瞳がまっすぐにシンジをいぬいた。
その瞳をシンジはしばらく見つめ、そして言った。
「べつに・・・、それを聞いたからって僕の人生がこれ以上変わるって訳でもないんでしょう。」
シンジは少し冷めたスネた様な言い方をした。
今日、母が死んだ。ものごころついてから母子二人っきりで過ごしてきたのだ。
その母が死んだ。もうこれ以上のことが今日起こるとはシンジには思えなかった。
たとえそれが母子二人を探すために、ピンカートンの探偵をこんな辺境の地まで使わせる事だったとしても、もう今の自分には関係が無い、とシンジは思った。
今の自分にある世界はこの墓地のこの小さな一角だけ、そこで出来ることはこうして茫然と立ちつくすことのみだ、とシンジは思った。
そんなシンジをミサトは何も言わずに見つめた。
同情も、怒りも、軽蔑も、憐れみもその瞳の色には無い。
なにも言わず、ただ静かにミサトはシンジのことを見つめていた。
そんなミサトの視線から逃げ出す様にシンジは顔を伏せた。
何故だか自分が責められているように感じたからだ。
『ちがう、僕自身が嫌な奴だと僕が気づいたから、だから僕は逃げ出したんだ。』
顔を伏せシンジは思った。
その後しばらく二人は動かなかった。
シンジは顔を伏せたまま、そしてミサトはそんなシンジを見つめるのみであった。
しばらくして、
「いいです。言ってください。」
シンジは再び顔をあげると、何事か決心したように言った。
そしてミサトの美しい唇が動いた。
「シンジ君、あなたを探すよう私に依頼したのは、あなたのお父さん。六分儀 ゲンドウと言う人よ。」