その日の朝、いつものように碇 シンジは馬小屋での仕事を終えた。
その額には汗が光り、シャツの背や脇の下の部分が水をかぶったように濡れているが、その様子から疲労感は少しも感じられない。
むしろ一仕事終えた後のほどよい爽快感が、シンジを包んでいるように見える。
『もう朝のこの仕事をはじめてどのくらいになるのかな?』
道具をしまい、母屋へ向かって歩きだしたシンジの脳裏に、そんな考えがぼんやりと浮かんだ。
昔から碇家では馬を一頭飼っている。時々、母親のユイがブルークリーク近くに点在する農場へ、往診に向かう時に用いるためだ。
その馬の世話をするのが、幼い頃からのシンジの役目であった。
早朝に目を覚まして馬に餌をやり、床にしいたワラを新しいものに変えて、その毛並みをととのえてやる。
大きな馬を相手にこれだけの仕事をするのは、子供にとっては大変な重労働である。
それらの仕事を、物心ついた時にはもうやっていたような気がする。もちろんはじめは母に連れられて、それらの作業を手伝っていたにすぎない。
けれでも冬の寒い朝に起き、氷点下の世界で重いワラを運んだりするのは辛かった。また、初めのうちは馬がなかなか言うことを聞いてくれず、よく馬に突っ転ばされて幼いシンジは泣いたものだ。
しかし、それらの辛いことも母の感謝の一言でむくわれた。
どんな苦しいことも、母と働ける喜びには勝てなかった。
母に喜んでもらいたくて、仕事を続けた。
そして・・・、月日が流れ、その共同作業も、今ではシンジ一人で行うようになっていた。
そうなってからもう2年ぐらいが過ぎようとしている。
はじめて一人で朝のこの仕事を行った時のことを、シンジは今でも覚えている。
うれしくはあったが、同時にさみしさもほんの少し、その時シンジは感じていた。
そんな過去の出来事をシンジが思い浮かべながら歩いていると、母屋の戸が開き、中からユイが姿をあらわすのが見えた。
おそらく朝食の用意が出来たのをシンジに伝えに来ようとしていたのであろう、ユイはその顔に微笑みを浮かべると、ゆっくりとした足取りでテラスからのびる階段を降り、シンジに向かって歩きだした。
と・・・・
その歩みがいくらも進まぬうちに、ふいにユイの体が崩れ落ちた。
何の前触れもなく突然に・・・・
まるでろうそくの炎が消え入るようにゆっくりと・・・・
ユイの体はうつ伏せるように倒れていった。
「・・・・・・・母さん?」
あまりの突然の出来事に、しばらくシンジは何が起こったのか理解できなかった。
しかしそうしている間もユイの体はピクリとも動かず、地面に横たわったままでいる。
それまで明るかった世界が、急にかげったように感じられた。
『母さん!』
ようやく事態を理解したシンジが叫び、母に駆け寄ろうとした。
だが・・・、それは出来なかった。
いつのまにか足は鉛のように重くなり、いくら叫ぼうとしても声は出なくなっていた。
まるで深海の底に閉じ込められたように、シンジの周りに目に見えない壁が出現し、それがシンジの行く手を妨げているかのようであった。
『母さん!』
声にならない絶叫をシンジが放つ。
決して動かない足をユイに近づけようともがく。
しかし・・・・
すべては空しい努力だった。
倒れているユイの姿が、シンジの瞳に無情にうつる。
地に横たわるユイを目の前にしているのに、何もすることが出来ないシンジがそこにはいた。
言いようのない焦燥感と不安がシンジの内からこみ上げてくる。
「母さん!」
・・・・ようやく出た声とともに、あたりの風景が一変していた。
それまであった庭の風景も、横たわる母の姿も消え、それにかわって見慣れた天井がシンジの目に映っていた。
あたりは薄暗く、天井からつり下げられたランプからもれる光が、申し訳程度に部屋の中を照らしている。
「夢か・・・・。」
深い溜息とともに、つぶやきがシンジの口からもれる。
右手で額をおさえると、冷たい汗の感触が手のひらにはりついた。
目を閉じ、ゆっくりと息を深く吸い込み、そしてゆっくりと吐く。
それを5回ぐらい繰り返すうちに、胸の動悸がおさまった。
『眠ちゃったんだな。』
シンジは思った。
日が暮れてから帰宅し、簡単な食事を済せた後、自室に引きあげて、服を着たままベットで横になっているうちに眠ってしまったらしい。
『無理もないか・・・、大変な一日だったからな・・・。』
今日一日に起こったことが、シンジの脳裏を駆け巡る。
母の死・・・、そして・・・。
「父さん? 僕に父がいたんですか!」
シンジとミサト、二人しかいない墓地にシンジの声が響いた。
「そうよ。」
それに答えるミサトの声は静かだった。
「そんな・・・・。」
そのつぶやきを最後に、シンジはミサトを見つめたまま絶句した。
「・・・・お母様からは何も聞かされていなかったの?」
「・・・・ええ。」
「あなたは聞かなかったの? お父さんのことについて」
「・・・・・。」
「・・・・ごめんなさい。答えなくていいわ。」
「・・・怖かったんです・・・・。」
シンジが視線を地面に落としながらぽつりとつぶやいた。
「怖かったんです・・・・、聞くのが。母さんなら、聞けば本当のことを言ったに違いありません。それでもし、僕の父親がどこかで生きているんだったら、僕は・・・・私生児ってことに・・・」
「よしなさい!」
ミサトの鋭い声がシンジの言葉をさえぎっていた。
「そんな言葉、子供が使うもんじゃないわ。」
「・・・でも、さっきの葛城さんの言ったことが本当なら・・・」
「シンジ君、親がどこの誰であろうとあなたはあなた。これまでとすこしも変わるところはないわ。」
「・・・・・。」
「それとも嫌いになったの、お母さんのこと? 裏切られたって。」
ミサトがシンジの肩を両手でつつみ、その身をかがめて、下を向くシンジの顔をのぞき込むような姿勢で言った。
「・・・・・。」
「町の人達が、あなたのお母さんのことを悪く言ったことがある?」
その問に、シンジは下を向きながらゆっくりと首を横に振った。
「あなたはお母さんを悪い人だって思ったこと、一度だってある?」
もう一度シンジが首を横に振る。
「だったら信じてあげなくちゃ、お母さんのこと。ね。」
その言葉にシンジはどのような反応もみせなかった。
うつ向いたまま、否定も肯定もしない。
しばらくして
「葛城さんは・・・・知ってるんでるか?・・・・母と父のこと。」
うつ向いたままシンジがミサトに尋ねた。それは小さな、つぶやくような声だった。
「いいえ、お会いしたことはないわ。でも今回の依頼には、お二人の過去も関係しているの。だからお二人の過去になにがあったのか・・・、ある程度のことは知っているわ。」
ミサトのその返事を聞いて、シンジがうつ向かせていた顔をゆっくりと上げた。そして、その視線をユイの墓標に向けると、再びミサトに言った。
「僕に聞かせてくれませんか? 葛城さんが知っている全てのことを。」
「・・・・いいのね?」
「ええ。」
墓標を見つめながらシンジがうなずく。
「知りたいんです。どうして母が僕を生み、どうして今まで会ったことのない父が僕を探すように命じたのか、その理由を。」
そう答えるシンジのことを、ミサトはしばらく見つめ、やがてミサト自身もユイの墓標に視線を移すと、静かに、碇 ユイと六分儀 ゲンドウの過去について語りだした。
碇 ユイと六分儀 ゲンドウ、二人がはじめて出会ったのは1844年、場所はマサチューセッツ州のボストンであったらしい。二人がどのように知り合い、どのような経緯を経て恋に落ちたのかは誰も知らない。ただ二人が付き合っている事を知った周囲の反応は、驚愕、懐疑、嫉妬、嫌悪、憎悪等の言葉でおおよそ言いあらわせることが出来た。
当時二人はまだ学生であり、ユイは医学の道を志すためにボストンの医学校に在籍し、またゲンドウも経営学と法律を学ぶために同都市に滞在していた。北部の名家の令嬢であるユイは、その神秘的な美貌と博識とによってボストン中の学生達の憧れのまとであった。一方のゲンドウといえば、その頭脳と才能は誰もが認めるものであったが、それ以上に非常な野心家であり、そのためトラブルが絶えず、周囲の者は彼を狂犬のように怖れ、嫌悪していた。
そんな二人が恋仲だという噂はたちまちボストン中を駆け巡り、学生達の間に一大センセーションを巻き起こすことになる。ユイに恋する学生のなかには、その絶望感をあますところなく日記にしるして自殺未遂を引き起こしたり、ゲンドウの帰路を待ち伏せて決闘を申し込んだりする者もいた。
やがて二人の関係がいよいよ本物だとわかり始めると、その周囲に様々な醜聞や憶測が飛び交った。そのなかでも最もまことしやかに、最も多くの人の間で語られた噂がある。
『ゲンドウはユイの実家の財産を狙ってユイにちかづいたのだ。』
というのがそれである。
この噂については誰もがほぼ真実であると信じていた。その根拠は、ゲンドウの日頃の言動にあったが、また彼が貧しい農家の出身であることにもあった。ゲンドウ自身は決して自分の生い立ちを他人に語らなかったが、風の噂に聞くところによれば、その人生は不幸の連続であったという。イリノイ州の入植者の子として生まれ、3歳の時に母を、6歳の時に父を亡くしている。それまでも暮らし向きは苦しかったが、両親が亡くなってからはさらに苛酷をきわめた。親戚じゅうをたらいまわしにされ、一時は孤児院にいたこともあるという。やがて成長した彼は苦学をし、ようやく現在のような、多少暮らし向きの良い生活を送ることになる。しかし、その生活資金はかなり出所が怪しいというのがもっぱらの噂であった。事実、彼の周りには絶えず黒い噂が付きまとっていた。目的のためには手段を選ばず、必要とあれば親しい者でさえ平然と裏切る。彼のその大きすぎる野心と非情な言動はその境遇の反動であると、彼を知る人々は考えていた。
そんな彼とユイとを結びつける接点を、人々がユイの父が経営する企業とその資産とに見いだすことはむしろ当然ともいえた。
むろんこれらのことは憶測にすぎず、真実がどうであったのかはゲンドウ本人にしか知りようがない。
しかしその後、碇 ユイにおとずれた不幸によって、人々の憶測は確信へとかわった。
翌年の1845年、ユイの父親が急死したのである。死因は乗り合わせた貨物船の沈没であった。ユイの父はその頃ちょうど新しい事業として綿花の貿易を始め、そのため貨物船に乗ってルイジアナ州の港町、ニューオーリンズまで出かけていた。予定ではそこで大量の綿花を積んでボストンに向けて帰るはずであったが、帰路の途中、運悪く船が嵐にあってしまったのだ。
ユイを知るものは全て、その不幸を悲しんだ。
しかし残されたユイだけは、父の死を悲しむ余裕を与えられなかった。
さらなる不幸が彼女を襲ったのだ。
それは、父の残した莫大な負債である。ユイの父はこの綿花の貿易を始めるにあたって、多額の借金をしていた。もともと会社の経営が行きづまっていたところを、なんとか再建を図ろうと手を出した事業が綿花の貿易であった。
それに失敗した。
そのため債権者達が、喪もあけぬうちから連日屋敷につめかけることになった。
ユイは父の死後、人前に姿を見せなくなったが、裕福な環境で育ち、繊細な印象のある彼女にどのような苦しみが襲っているのか、彼女を知る人々が想像するのは難くなかった。
結局、ユイがそれまで住み慣れた屋敷も、父の会社も全て人手にわたることになった。
すでにユイの母親は他界しており、兄弟も他にはいなかった。親戚と称する人々もいたが、ユイにふりかかったさらなる不幸が判明すると、それらの人々は潮が引くようにどこかへ行ってしまった。
一人残されたユイに残ったのはわずかばかりの金銭のみであった。
そのころゲンドウはどうしていたのか?
彼は自分の恋人が父の死の悲しみと、責めかける債権者達とに耐えているころ、別の女性と婚約していた。
女の名をメリッサ ローレンツといった。ゲンドウの務めるゼーレという貿易会社の総帥の娘である。
ゲンドウがゼーレに務めだしたのは、ユイの父親が死ぬ2、3ヶ月前くらいだったらしい。そこでゲンドウは持ち前の才能を存分に活かし、業績を飛躍的に高めた。その才能を総帥であるキール ローレンツ氏に認められ、その娘との結婚をすすめられたのだ。
ゲンドウはその申し出を断らなかった。
その理由もわからない。
ただこれも確信に満ちた憶測として、
『利用価値の無くなったユイに用が無くなったのだろう。』
という言葉が人々の間でささやかれていた。
その憶測を補足するものとして、これも憶測に過ぎないが
『ゲンドウは、ユイの父の会社の経営が苦しくなったのに見切りをつけて、ゼーレに入ったのだ。』
というものがある。たしかにゲンドウがゼーレに務めだした頃、ユイの父は新しい事業に手を出そうとしていた。その理由が会社の経営危機を救うためだと考えるのは、ゲンドウの能力をもってすれば容易いことであろう。そしてその事業が失敗するとの予想をたてて、ゲンドウはゼーレに入ったのだという。
真実がどうなのか、誰にもわかりはしない。
ただ事実としてわかっているのは、その後、碇 ユイがボストンの町を出て、ほとんど身一つの状態で西部に向けて旅立ったこと。そしてその身にどうやら新たな生命を宿していたらしいということ。そしてゲンドウはメリッサ ローレンツと結婚し、ゼーレの総帥としての地位を確立したということだけだった。
「そしてあなたのお母さんはあなたを生み、このブルークリークの町に辿り着いた。
後はあなたの知っているとおりよ・・・・。」
ミサトがそう言って語るのを終えた。
語りだした時と同じく、それは静かな口調であった。
シンジはミサトが話している間そうであったように、今もなお無言でいる。
その目が見つめるのは母の墓標から、いつしか地平線のかなたに移っていた。
夕陽でオレンジ色に映える空と、緑の大地が交わる地平線の向こうに、シンジは何を見ているのか。
「シンジ君・・・?」
何も喋らないシンジにミサトが声をかけた。
「ひどいですよね、大人って・・・。」
「・・・・・。」
「はは、まったくなんて日なんでしょうね。一日のうちにこんなにいろんなことが起こるなんて。信じられないや。」
右手でその顔を覆い、こころもちうつ向きながらシンジが言った。
ひどく乾いた、どこか自嘲するような響きのある言い方だった。
「シンジ君・・・。」
その後しばらく二人に会話はなかった。
シンジは顔を覆った手をどけようとせず、今にも座り込みかねないような、ひどく疲れた様子で立ち、ミサトはそんなシンジを見つめるのみであった。
「・・・・でも、どうして今ごろ、どうして・・・・・その男が・・・、僕と母さんを探すように葛城さんに依頼したんですか?」
しばらくして、幾分落ち着いたのか、ようやく顔を上げたシンジが言った。
その男、すなわちゲンドウのことを、なんと呼べばいいのかわからなかったのか、その部分を言う時だけシンジの口調が堅くなった。
「遺産をあなたに手渡すためよ。」
どこか事務的な感じのする言い方でミサトは答えた。
「・・・・遺産? どういう意味ですか?」
シンジが戸惑う。ミサトの言い方、そしてその内容、両方に対してである。
「碇 ゲンドウ氏はもう長くはないのよ。死病におかされているわ。」
「・・・・・・」
「あと1ヶ月もたないそうよ。」
「そんな、嘘でしょう。」
「事実よ。」
ミサトが冷徹に言い放った。
一方のシンジは、ミサトを見つめたまま絶句している。疑念と混乱、その両方がシンジの内部で起こっていることが、その表情から読み取れる。
その混乱するシンジを無視するようにミサトが続けた。
「さっきも話したとおり、あなたのお父さん、六分儀 ゲンドウ氏はメリッサ ローレンツ孃と結婚し、ゼーレの総帥になった。その後彼の手腕によって、ゼーレはこの国で最大の貿易会社となったわ。でも二人の間に子供は出来なかったの。そのメリッサさんも2年前に死に、今またゲンドウ氏にも死が近づいている。ゼーレにとって、いえ、ゲンドウ氏にとって後継者がいないままにね。私の言ってる意味がわかる?」
ミサトの問にシンジは答えない、いや答えられなかった。
なんだか得体の知れない、ざわざわという音が、シンジの胸の中で渦巻きはじめようとしていた。
ミサトはそんなシンジを無視してさらに続けた。
「そこでゲンドウ氏は碇 ユイさんとの間にできた子供を、自分の後継者にしようと考えたのよ。つまりシンジ君、あなたをね。」
ミサトがシンジのことを見た。その目にはそれまでとはあきらかに異なる光りが現われようとしていた。
さらにミサトが続ける。
「そうなればシンジ君、ゼーレはあなたの物になるわ。資産価値としておおよそ1千5百万ドル・・・、それがあなたの手に入ることになるのよ。」
1千5百万ドル・・・・、西部の標準的な町でコーヒー1ポンドが数十セントであった当時としては、まさに天文学的な金額だ。
ちなみにシンジとミサトが話している12年前、アメリカがアリゾナ、カリフォルニアあたりの広大な土地を手に入れるのに、メキシコに支払った額が同じく約1千5百万ドルであった。その買い物が高価であったのか安価であったのかは、後世の歴史家に任せるとして、現実問題としてそれだけの金額が当時の一国家の予算の中で、かなりの割合を占めていたことはいなめない。1千5百万ドルとは、それほどの金額であった。
「か、葛城さん僕は・・・・」
思いもよらぬことを語りだしたミサトに、シンジがなにか言おうとした。
しかし、ミサトはシンジの心情をまたも無視するように、その言葉をさえぎって言った。
「シンジ君、あなたのお母様の過去にも、そのお母様を亡くしたあなたにも同情はするわ。でも私はピンカートンの探偵として、依頼された仕事はやり遂げなければならいの、どんなことをしてもね。」
シンジの目の前に葛城 ミサトという別人が立っていた。
「私の仕事はね、シンジ君。あなたを探し、あなたを無事に六分儀 ゲンドウ氏のもとに送りとどける。それが私にかせられた任務なのよ。」
感情の感じられないミサトの声が、暗くなりはじめた墓地に響いた。
その言葉をシンジに言ったとたん、それまであったミサトの中のやさしさ、と呼べるものが完全に消えたようにシンジは感じた。
いつの間にかシンジを見る目には穏やかさがなくなり、それにかわって非情な色がその中には見えている。
シンジがミサトの変貌ぶりに、はっとした様子で身を固くする。
「話は以上よ、さ、支度して。」
「支度って・・・、どうしてです?」
シンジが警戒するような声で聞いた。
「決まってるでしょう。行くのよ、お父さんのところへね。送っていってあげるわ。」
シンジをあざけるような響きがその言葉にはあった。
「・・・・僕はまだ行くって言った覚えはありませんが。」
「行くに決まってるわ。1千5百万ドルが手に入るのよ。一生遊んで暮らしても、おつりの方が多いような金額よ。そのためならみんな何だってするわよ。もちろんあなたもね。」
「・・・・母に酷いことをした男のもとに、行くことになってもですか。」
「もちろん。さあ来るのよ。」
そう言って、ミサトがシンジに近づこうとした。
それから逃れるようにシンジが後ろに下がる。
それを見たミサトが近付くのをやめると、シンジも下がるのをやめた。
「どうしたの・・・、シンジ君。」
剣呑な空気が、対峙する二人の間にながれた。
「それでも・・・、それでも僕が行くのは嫌だと言ったら?」
シンジの声が緊張のため震える。
それに対して、ミサトがふいに笑った。
冷たい氷のような、表情だけで笑みのかたちをつくった笑顔であった。
その目は笑っていない。
ミサトはその笑いを浮かべながらあたりの様子を見渡した。
すでに陽は没し、あたりは暗くなろうとしている。
「誰も・・・・いないわね。私達二人の他には。」
シンジに視線を戻したミサトがそう言い、そして右手で着ているロングコートの前を広げた。それまでコートの下に隠れていた拳銃がシンジの目に映る。ミサトがわざとその拳銃を誇示しようとしたのが、はっきりとわかる仕草であった。それがどういう意味を持っているのか、この状況ではいやというほどわかる行為である。
「もしここであなたがいなくなっても・・・、町の人達は誰も気づかないでしょうね。」
ミサトが腰の拳銃の握りの部分を、指先で触りながら言った。
「・・・・・・」
「誰もあなたを助けに来てはくれない。」
「・・・・僕を誘拐する気ですか?」
「失礼ね。私はあなたのお父さんに頼まれて、お母さんを亡くしたあなたをお父さんのもとに連れて行くのよ。世間ではそれを誘拐とは呼ばないわ。」
「たとえそれが僕の意志に反していてもですか?」
「そうよ。」
そして二人はにらみ合った。
ミサトはその口もとに冷たい微笑を浮かべ、シンジを見ている。
一方のシンジはそんなミサトを上目づかいにじっと見ていた。その表情は苦しそうに歪み、その瞳には緊張の色がはっきりと見て取れた。
「・・・・行きませよ、僕は。」
ふいにシンジがつぶやいた。
「たとえどんな怖い思いをしたって、行きたくありません。」
そんなシンジをミサトはじっと見つめている。
「僕はその男のもとには行きません。絶対に。」
シンジがミサトの目を怯むことなく見返しながら言い放った。
沈黙が二人を支配した。
シンジの返答に対して、ミサトは無言だった。
こころもち、その顔をうつ向かせたので、シンジからは帽子のツバが邪魔になってミサトの表情は見えない。しかし、その口もとには、あいかわらずあの冷たい笑みが浮かんでいる。
シンジはそんなミサトを油断なく、じっと見つめ続けている。
しばらくして・・・・・・
ふいに、プッ、という音がした。
ちょうどミサトの顔のあたりからだ。
『なんだ?』
と、シンジが思うまもなく、突然ミサトがその身をくの字に折った。
そしてその腹を両手で押さえると、今度は小刻みに震えだした。
その姿はなにかの苦痛に耐えているように見えた。
やがて、そんなミサトから
「プッ・・・、プッ・、プップップッ・・」
という、例のあの奇妙な音が、また聞こえだした。
今度はその音のする間隔が序々に短くなっていく。
「プッ、くく・。も、もうだめ我慢できない。」
ミサトがそう言い終わったかと思うと、
薄暗い墓地に、死者も目を覚ますような笑い声が響きわたった。
ミサトは大声を上げて笑っていた。
あまりにおかしかったのか、ミサトは笑い過ぎて立っていられなくなり、手近な墓標に手をつくと、それを支えにしてさらに腹を抱えて笑いだした。
ときどき、”死ぬ死ぬ”、とか、”ヒー苦しい”、とかの単語が笑い声のなかに混じっている。
そうして・・・・・・
どうにかこうにかミサトが正気を取り戻したのは、たっぷり10分はたった後だった。
その間・・・、シンジは目の前で起こるこの光景を茫然と眺めるより他なかった。
そしてどうにかミサトの笑いがおさまる兆候が見えはじめたころ、
「あの・・・・」
という言葉をミサトにかけた。
「はははは・・・・、あ、ご、ごめんなさい。驚かせちゃったみたいね。」
ミサトはそう言ってどうにかこうにか立ち上がると、涙をふき、その居ずまいを正しだした。そう言った声には先ほどの冷たさが少しも感じられなかった。
人なつっこい陽気な響きがそこにはあった。
「やっぱり私に悪役は無理ね。」
「どういうことなんですか、いったい?」
苦笑を浮かべてつぶやくミサトにシンジが聞いた。
シンジのその表情には先ほどまでにはないにしろ、まだ多少の警戒感が残っている。
「冗談よ、冗談。そんなにこわい顔しなくってもいいわよ。どこへも連れてったりしないから。」
「冗談?」
「ええそう。と、言ってもあなたのお父さんから受けた依頼や、その他の事は全て事実よ。ちょっとあなたを試してみたかっただけ。」
「試す?」
「あなたがどんな男なのか、見てみたかったわけ。だってもし私が連れて行くことになれば、道中何日も一緒に旅を続けなくちゃならいでしょ。それでもし相手が、”はいはいそうですかって”、尻尾振ってついてくるような奴だったら幻滅じゃない。だから試したのよ。」
「・・・・・。」
「あなたは、金の魅力にも、銃の脅しにも屈しなかった。」
ミサトが笑った。明るい、またもう一度見たくなるような笑顔だった。
「合格よ、碇 シンジ君。」
ミサトがウインクしてみせた。
『・・・・・何がどのように合格なのか?』
シンジはミサトの言った意味がよくわからず、そんな疑問がふっと頭の中に浮かんだ。しかしそれをシンジは素直に口に出さなかった。なぜなら、今のシンジはもっと別の感情に支配されていたからだ。なんだか無邪気に笑うミサトの顔を見るうちに、だんだん彼女が腹立たしく思えてきたのだ。それに対応して、その顔にはムスッとした、怒ったような表情が浮かびはじめていた。
「あら、うれしくないの?」
「褒められたって、僕は一緒になんか行きませんからね。」
シンジはスネたような言い方をした。いや、スネていた。
それは14才の男の子が誰でもするようなスネ方だった。
母が死んでから感情を示さなくなったシンジを悲しんだジャック達夫婦が見たら、ほっと胸をなで下ろすような、そんな表情が今のシンジには浮かんでいる。
「そんなに怒らなくってもいいじゃない。まね、信用出来ないのも無理ないけど、嫌がるのを無理に連れて行っても寝覚めが悪いし、ま、その気になってくれるまで気長に待つことにするわ。」
「いくら待ったって僕は行く気にはならないと思います。」
「その時は、その時。なにもそんなに急ぐこともないんだし、ゆっくり考えてみてよ。」
『考えるまでもないです。』
シンジはそう答えようとした。しかし楽天的で能天気そうなミサトの笑顔を見ると、不思議にそう言うことはできなかった。
「しかし・・・、さっきは面白かったわね。笑い過ぎて死ぬかと思ったわ。」
ミサトがニヤニヤしながら言った。
「なにがです?」
憮然としてシンジが聞く。
「シンジ君よ。さっき私がちょっと脅したらマジになって、『僕はその男のもとには行きません。絶対に。』、なんて言うんだもん。・・・・・なに、あれ言った時自分で、『かっこいいな俺』、とか思ったりしなかった?」
ミサトがシンジの言ったセリフのところだけシンジの真似をし、からかうように言った。そしてさっきのことを思い出したのか、またもや吹き出しはじめた。
「べつに・・・・。」
薄暗いなかでもそうとはっきりとわかるくらいに、シンジの顔が赤くなった。
「あら、怒ちゃったの? そうね、おっとこの子だもんね。」
そう言ってミサトはさらにケラケラと笑いだした。
そんなミサトの笑い顔をシンジはさらにムスッとした顔で見ていたが、やがて
「僕、暗くなったから帰ります。それじゃ葛城さん、さようなら。」
と言うと、頭を下げてミサトに背を向けて歩きだした。
「あっ、ちょ、ちょっと。待ってよ。」
笑っていたミサトは慌ててシンジの後を追いかけはじめた。
シンジはベットの上で再び目を開けた。
「葛城・・・、ミサトさんか・・・・。悪い人じゃないみたいだ。」
天井を見上げながらシンジがつぶやく。その口もとにほんの少し、笑みが浮かぶ。
やがてシンジは小さく息を吐くと、ベットからその身を起こした。
どうやら、さっき見た悪夢のことはなんとか思考の外へ追い出せたようだ。
そしてシンジは軽く頭を振ると、吊るしてあったランプを手に取り、台所を兼ねた居間に向かった。
やがてシンジは居間に着くと、そこに備え付けられている大型のランプに火を灯した。
ゆらめく炎があたりを照らし、居間に置かれた様々な家具が闇の中に浮かんだ。
居間の中央には四角いテーブルがあり、そのテーブルの両側には椅子が一つずつ置かれていた。
そのうちの一つにシンジは座った。
背もたれに体をあずけ、目を閉じる。
しばらくそうしていると、馬小屋の方から馬の小さないななきが聞こえてきた。
シンジが世話をしている碇家の馬ではない。ミサトが乗ってきた馬のものだ。
その馬と一緒に、今はミサトも馬小屋で休んでいるはずだ。
『あの・・・、あたし今夜寝るとこ無いのよね。よかったらシンジ君の家に泊めてくれない。馬小屋でも納屋でもいいから。』
歩み去ろうとするシンジに追いついたミサトが、まずシンジに言ったのがその一言だった。
さして断る理由もないので、シンジはミサトを家に連れて帰ることにした。
そしてシンジは簡単な料理をつくり、それをミサトとともに食べた。
その後シンジはミサトのために部屋を提供しようとしたが、ミサトはそれをガンとして断った。馬小屋の方がいいと言うのだ。
『食事までごちそうになったうえに、そこまであまえる訳にはいかないわ。雨露がしのげればそれでいいのよ。』
そう言い残して、ミサトは馬小屋に歩いて行った。
『さっきは気長に待つって言ってたけど、いったいいつまでいる気なんだろう葛城さん?』
シンジは目を開け、ミサトのことを考え出した。
両手を頭の後ろで組み、天井を見上げるような姿勢をする。
いくらミサトの任務のためとはいえ、母を捨てた男のもとにいく気はシンジにはない。例えこの先いくら待っても、この考えが変わるとは思えない。冗談めかしているが、シンジがそう考えていることを、ミサト自身もわかっているはずだ。なのに何故、ミサトは待つなどということを言ったのか。何か考えでもあるのか、それとも本当にシンジの心変わりに期待しているのか。シンジにはミサトの考えていることがよくわからない。
しかし、待つにしろそう長くは待てないはずだ。もしゲンドウの余命が本当に1ヶ月ならそんなに猶予はないはずだからだ。
『お父さんは、今イリノイ州のシカゴにいるわ。』
ミサトの言葉がシンジの脳裏によみがえる。墓地から戻る途中でミサトがシンジに話してくれたのだ、もし旅に出るならそこが目的地になると。シンジはその言葉を聞くともなしに聞いていたが、もしシカゴまで行くなら、ここブルークリークからでは、1ヶ月は行程として、それほど余裕が無いのではないかとシンジは考える。
『いったいどうする気なんだろう?』
シンジがぼんやりとそんなことを考えていると、玄関の戸を誰かがノックする気配があった。
『気のせいかな?』
最初、シンジが空耳ではないかと思ったほど、それは小さなノックだった。
しかし、しばらくするとまた戸をノックする音が聞こえだした。
『誰だろう、いったい?』
玄関に向かいながら、シンジは思った。最初は隣のキャロラインか誰かが、シンジが一人でいるのを心配して来てくれたのかとも思ったが、ブルークリークの住民ならば玄関を何回もノックするようなことは滅多にしない。全ての住民が家族のような関係のこの町では、他家に入る時は、まず一声かけるのが習慣になっていた。それをしないとはいったい?
とにかくシンジは玄関に行き、鍵のかかっていない戸を開けた。
扉の向こうには男が3人立っていた。がっしりした体格の、背の高い男達であった。年令は皆30才前後であろうか、三人とも高級そうな黒いスーツを着用し、腰にはガンベルトをつけている。シンジの想像したとおり彼らは町の人間ではなかった。たった今このブルークリークに到着したらいしのか、いくらか払い落してはいるが、男達のスーツは砂埃で汚れていた。
もちろん三人ともシンジの知り合いではない。
「夜分に失礼。ここは碇さんのお宅かな?」
三人のうちの一人が、かぶっていた帽子をとり、丁寧な言葉づかいでシンジに言った。口髭を生やした、精悍そうな顔だちをした男だった。その物腰や態度からすると、この男が三人のリーダー役らしい。
「そうですけど・・・・。」
「ひょっとして・・・、君がシンジ君かい?」
「ええ。」
男達が互いの顔を見合って笑った。その行動をシンジが不思議そうに見る。
「いや失礼。申し遅れたが、我々はピンカートン探偵社の者なんだ。実はシンジ君・・・、君に重要な話しが・・・・・」
「葛城さんの同僚の方ですか?」
ピンカートン探偵社、自分に重要な話、その言葉を聞いてシンジは男達の目的がミサトと同じであると思った。それゆえ男の話しを途中でさえぎったのだが、その言葉に男達は非常に驚いた様子だった。そしてその途端、三人は緊張した面持ちであたりをちらちらと気にしだした。
「か、彼女がもうここに来ているのかね?」
男の声からは驚きと、しまった、という後悔の念が感じられた。
「ええ、昼間この町に着いたようです。」
多少のぎこちなさをシンジは男達に感じたが、それでも男の問に素直に応じた。
「そ、そうなのか・・。・・・ところでシンジ君・・・、その・・・、葛城 ミサトは今ここにいるのかな。」
「裏の馬小屋にいますが、もう休んでいると思います。」
「そうか・・・。」
男達の表情が多少柔らかくなる。
「あ、いやすまない。葛城から詳しいことを聞いているんだったらそれでいいんだ。・・・・にしても驚いたよ、もう彼女がここに来ているとはね。これでまた彼女に嫌味を言われるな。」
「どうしてです?」
「実はおじさん達も彼女と同じ依頼を受けてね。それで彼女と賭けをしたんだ、どっちが早く君を見つけられるか、ってね。どうやら・・・・おじさん達の負けらしい。」
そう言って男が苦笑を浮かべた。
シンジもつられて笑みを浮かべる。男達のとった態度に対する疑問も、その説明で納得がいった。
「こうなったらしかたがない。せめて負けた仕返しに、いきなり行って彼女を驚かせてやりたいんだが、中にいれてもらっていいかな。」
「ええ、どうぞ。」
シンジは男達を家の中に招きいれた。
「すまないが馬小屋はどっちだい?」
「この廊下をまっすぐ行けば裏に出られます。そこからすぐです。」
シンジが振り返って説明した。
「そうかい。ありがとよ。」
男が背後でそう言ったかと思うと、いきなりシンジの口が男の大きな手でふさがれた。
「ぐっ・・・・。」
何が起こったのかわからないシンジは、瞬間的にその手から逃れようともがいた。
そのシンジのこめかみに堅くて冷たいものが押し当てられた。
拳銃の銃口であった。
「騒ぐな、騒げば今ここで殺す。」
押し殺したような男の声がシンジの耳元でささやいた。
そしてシンジは耳元で、自分に押し当てられている拳銃の撃鉄が起きる音を聞いた。