The West End of Eden
「ここでお別れだ・・・・・、葛城 ミサト君。」
そう告げるジャックの声が、風に運ばれ消え去ってゆく。
その日・・・
ブルークリークの町には強い風が吹いていた。吹く風は湿り気を帯び、そして少し肌寒い。
天候は曇り。分厚い灰色の雲が荒野の空を覆っている。
どこか空の高いところで雷が鳴っているのか、時々ゴロゴロという空気を振るわす低い音が響く。春雷である。
やがて雨が降り出し、嵐となるであろう。
春の到来を告げる嵐であった。
「道中達者でな。」
ジャックが再び馬上のミサトに声をかける。
場所は町外れの荒野へと続く道。ミサトの背後には寂寥とした荒野がひろがっている。
「それとこいつを帰しておこう。中の弾丸は全て抜いてある。」
ジャックがミサトに拳銃を投げてよこした。
ミサトがそれを空中でつかみ、腰のホルスターに収める。
「この様な別れ方は私としても本意ではないのだが、シンジ君のためだ・・・・。」
そう言うジャックの手にはライフル銃が握られている。
ジャックだけではない、彼の後ろに付き従っている3人の町の男達も同様である。
彼らの銃の使用目的は、はっきりしている。ミサトへの威嚇と、それに彼女が従わなかった場合の発砲のためだ。
それらの銃をミサトが馬上から悲しげに見下ろし、そして言った。
「・・・・・・もう一度、考え直してはもらえないでしょうか。」
「くどい!」
その悲しみを絶ち切るように、鉄の意志をもってジャックが答える。
「シンジ君は我々で守る。」
「しかし・・・・・・」
硬い金属音がミサトの反論を拒絶した。
男達の手にするライフル銃の撃鉄が起こされたのだ。
「もう一度言う。シンジ君は我々で守る。」
ジャックの声に力がこもる。
「君の手は借りない。」
本気であった。もしここでミサトが彼の言葉に従わなかったら・・・・・。
ミサトがその美しい顔を伏せた。
しばしの沈黙。
「・・・・・・・・わかりました。」
帽子のツバの下からのぞく彼女の唇が動いた。
ゆっくりとした動作で、ミサトが手綱を引いた。馬首が、灰色の雲が重く垂れこめた荒野へと向けられる。
ふと・・・・・
ミサトの視線が、ジャックの後方の町の一画にとまった。
悲しげな視線が、そこに立つ小さな影に向けられる。
しかし、それも数瞬。
ミサトはその視線を荒野へと向けた。
その前方に広がる寂寥とした大地が、こらから彼女が進むべき道。
ミサトが馬の腹に軽く踵を当てた。
馬がゆっくりと前進を開始する。
コツコツと響く蹄の音だけを残し、しだいに遠ざかってゆくミサトの後ろ姿・・・・・。
その光景を、ジャック達とは別に見送る者がいた。
先ほどミサトが去り際に見つめた町の一画、そこにたたずむ少年の影。
シンジである。
その顔にはやるせないような、悲しい表情が浮かんでいた。
「大丈夫・・・・・。あなたは私達が守ってあげる。」
シンジの肩に手がまわされ、その耳に優しい声が届く。その傍らに立つキャロラインの声だ。
彼女の顔をシンジが見上げる。
「良かったのよ、これで・・・。あなたにとっても、私達にとっても。」
シンジの顔を愛とおし気に見つめながら、キャロラインが言う。
シンジが再び前方を向いた。その目に、かなり小さくなったミサトの後ろ姿が映る。ミサトの馬は、町を臨む小高い丘の頂を目指して進んでいた。
その光景を見つめるシンジの頬に、ポツポツと小さな水滴がはり付いた。
とうとう雨が降りはじめたのだ。
みるみるうちに雨の勢いが強くなり、風もさらに勢いを増した。
「中へ入りましょう・・・・・。」
キャロラインがそう言った様に思えたが、その言葉がシンジの行動を促すことはなかった。
雨がさらに勢いを増す。
通りには人影が消え、ジャックとキャロラインの姿も消えた。
雨の降りしきる通りには、シンジだけが立ちつくしていた。
そしてシンジだけが、嵐の荒野に消えてゆくミサトの後ろ姿を見送っていた。
馬が丘を登りきり、ミサトの姿がその頂の向こうに消えるまで、ずっと・・・・。
話しは昨晩・・・・、正確には今朝の未明に遡る。
重苦しい雰囲気の中、4人の男女がその部屋にはいた。
シンジ、ミサト、ジャック、それにこの町の神父である。
いずれも、部屋の中央に置かれた四角いテーブルを取り囲むようにして座り、互いに顔を見合わせている。
場所はジャックの、つまり碇家の隣家の居間である。
この家の主婦、キャロラインの姿はその部屋の中にはない。ジャックがしばらく席を外すように言ったからだ。
銃撃騒ぎからは、すでに2時間くらいが経過している。
すでに時刻は真夜中をまわっていた。
あの後・・・・、ジャックは騒ぎを聞きつけてシンジの家の前に集まって来た者達に、とりあえずシンジが無事であることを伝へ、
『詳しい事情は後で必ず話すから。』
と言って、神父以外は家に引き取ってもらった。
そして神父の立会いのもと、シンジの家の居間と裏庭に横たわる3人の男の死体を片付け、その後シンジとミサトに事情を聞くべく、彼らを伴い帰宅した。その際、神父にも立会人としてご同道願った。
そして居間のテーブルに落ち着き、たった今、ミサトから彼女の依頼の内容と、それに付随するゲンドウとユイの過去を聞かされ終えたところだ。
「ずいぶんと身勝手な男だな、あんたの依頼人は。」
不快の情を隠しもせず、ジャックがミサトに言った。
ミサトの話しを終始無言で聞いていたジャックが、初めて発した第一声がその一言であった。
「おまけに恥というのも知らんらしい。だいたい・・・・」
嫌味の一つでは気が済まなかったのか、ジャックがさらにミサトになにか言おうとしたその時、それを咎めるような視線がジャックに向けられた。その隣に座るこの町の神父の視線であった。
ジャックがそれに気付き口をつぐむ。しかしその顔には、
『何故自分が咎められるのかわからない』
という表情が浮かんでいる。
神父がその視線を移した。ミサトの横に座り、黙って話を聞いていたシンジに向かって。
ようやく、ジャックが神父の視線の意味に気付いた。その顔に後悔の表情が浮かぶ。
「い、いや、すまないシンジ君・・・・。別に君のお父さんを悪く言うつもりはなかったんだ。ゆるしてくれ。」
「いえ・・・・。」
そう言うシンジの顔に気弱な笑みが浮かんでいた。そしてやや顔を伏せながら言う。
「僕も初めてその話を聞いた時・・・・・、そう思いましたから。」
「・・・・・・・」
・・・しばし、部屋の中に沈黙が訪れた。
「ミサト君と言ったね・・・・。」
重い雰囲気の中、神父が口を開いた。
「君の依頼の内容はわかった。しかしわからんのは、何故シンジ君が命を狙われねばならんのかね?」
「それも・・・・・、ゲンドウ氏の遺産に原因があります。」
ミサトがそれに静かに答える。
「先ほど私はゲンドウ氏に後継者はいないと言いましたが、彼の組織・・・・、ゼーレにはその後継者の候補がいないという訳ではないのです。」
「・・・・・と言うと?」
「ゲンドウ氏の妻であるメリッサさんの兄弟、つまりローレンツ家の者です。ゼーレの創始者キール ローレンツ氏はすでにこの世にありませんが、彼には3人の息子がいます。いずれも現在ゼーレの重役を務めていて、ゲンドウ氏の亡き後はこの内の誰かがゼーレの総帥になるだろうと目されていました。ゲンドウ氏がシンジ君を後継者に指名する以前までは・・・。」
「・・・・・・それじゃあそいつらのうちの誰かが、後継者に指名されたシンジ君を邪魔になって・・・・・・。」
神父に代わってジャックが聞いた。それにミサトがうなずく。
「確証はありません。先ほどそれを男達に問いただそうとしましたが無理でした。しかしおそらく・・・・・。」
「なんてこった・・・・。」
うめくようにジャックがそう言い、天井を見上げた。その横に座る神父は手で顔を覆い、うつ向いてその顔を横に振っている。
今、その二人の思考の中にあるのは、
『大変なことになった。』
という一文だけである。
しかし、と彼らは思う。本当に大変なのはシンジ自身であると。
今朝母親を亡くし、その葬儀の後、生まれて初めて自分に父親がいると聞かされた。そして今度はその見知らぬ父親が残す遺産のために、命さえ狙われようとしている。この華奢で繊細な年端も行かない少年に背負わせるには、それらはあまりにも辛い事実であった。
神父が顔を覆っていた手をどけ、シンジを見た。
その瞳にうつ向いているシンジの姿が映る。
その表情に動揺した様子はない。この部屋に来る前に、今回の事件に関することは、全てミサトに聞かされていたからだ。賊を倒し、ジャックが部屋を出ていった後、ミサトはシンジに問われて、何故彼が狙われるのか、その理由を全て彼に話した。
そのことはジャックと神父も知っている。ミサトが一連の事情を話す前に、二人にあらかじめその事を断わったからだ。
神父がシンジの横顔を見つめ、重い溜息をついた。
一見取り乱してはいないが、今、シンジの内面をどのような苦悩がさいなんでいるのか、それを想像するのは難くない。
「・・・・・大事なのは今後の事だ、これからいかにシンジ君の身を守るかだが・・・・。その前にシンジ君、君に聞いておきたいことがある。」
神父が重い言葉で言った。
「お父さんのもとに行きたいかね?」
ビクン・・・
うつ向いていたシンジの体が一瞬、すくんだように見えた。
「お父さんのもとに行き、そこで裕福な暮らしをしたいかね?」
しばしの沈黙。
「僕は・・・」
つぶやくようにシンジが言う。
「僕は・・・、どこへも行きたく・・ありません・・・・。」
一句、一句、搾り出すように、小さな声でシンジは答えた。
その言葉にホッとしたような表情が、神父の顔に浮かぶ。
「そうか。なら話しは早い。君に遺産を受け取る意志が無いとわかれば、向こうも君の命を狙ってくるようなことはもうないだろう。」
「残念ですが、その見通しは暗いと思います。」
ミサトが堅い口調でその意見に反論した。
「どうしてかね? 敵は遺産が目当てなんだろう。シンジ君にその意志がなければ・・・。」
「例えシンジ君にその意志が無くても、ゲンドウ氏には遺産を渡したいという意志があるのです。シンジ君が遺産を受取りに来なくても、ゲンドウ氏が、『全ての資産をシンジに譲る』と書いた遺書を残せば、敵はゲンドウ氏の死後もゼーレの資産を運用できなくなります。受取人であるシンジ君が、生きているかぎりは・・・・。」
「では、こうしたらどうだろう。シンジ君に遺産を受け取る意志がないことを、直接彼の父親に伝えて、シンジ君を後継者にしないように説得するというのは。」
「もしゲンドウ氏の説得に成功して、遺産がそっくり彼らのものになったとしても、一度後継者に指名されたシンジ君の存在を、黙って見過ごしてくれるかどうか・・・・。」
「どういう意味だね?」
「現在、ゼーレという巨大な組織は、ゲンドウ氏のカリスマ性で一つにまとまっています。逆に言えば、ゲンドウ氏のいなくなったゼーレは烏合の衆。そこには反ローレンツ一族の勢力も厳然と存在しているんです。その勢力がローレンツ家の支配を嫌い、後継者に指名されたシンジ君を担ぎだせば、ゼーレに内紛が起こり、組織として機能しなくなります。そんな危険性を含んだシンジ君の存在を、彼らが黙って見過ごすかどうか・・・・。」
神父の表情が、また暗然としたものにもどる。
「ではまた、今夜と同じ事が起こると・・・・・・。」
ミサトがうなずきかけたその時、
「大丈夫だ!」
突然、ジャックが声をあげた。
「大丈夫、例えどんな事があったとしても君を守ってやる。私だけじゃない町の者全員でだ。君のお母さんが我々を守ってくれた様に、今度は君を我々が守ってあげる。だから心配するな。きっと君を守り抜いてみせる。」
うつ向いたシンジを励ますように、その声には力がこもり、強い視線がまっすぐにシンジに向けられている。
「残念ながら、それは無理です。」
ジャックの熱い言葉に冷水をかけるような、冷徹なミサトの言葉が響いた。
「あなた方では、シンジ君を守ることはできません。」
「なに!」
「相手はプロ。子供を殺すということに、何のためらいも感じない連中です。目的のためには・・・・・手段を選びません。」
「それがどうした、町の者が全員で向かえ撃てば問題はなかろう。それにシンジ君のそばには絶えず見張りを置くようにする。そうすれば敵もおいそれとは手だし出来まい。」
ふと、何故かミサトの顔に悲しげな表情が浮かんだ。
「そう・・・、それならば問題はありません。ですが・・・。」
「なにか他に問題でもあるのかね?」
「・・・・・いえ別に・・・・。」
ミサトが目を伏せながら言った。奥歯にものが詰った様な、歯切れの悪い言い方をミサトはした。
「なら話しは決まった。今日はもう遅い。町の皆には明日伝えるとして、今夜はこれで終わりとしよう。」
ジャックがそう言って早々に席を立とうとした瞬間、ミサトが言った。
「待ってください。」
「なにかね?」
「シンジ君を守ること自体は問題ありません。しかしいつまで・・・・。いつまでそれを続けるおつもりですか。」
「知れたことだ。敵があきらめるまでずっとだ。」
「・・・・敵があきらめなかったら?」
「あきらめさせる。絶対に。」
「・・・・・しかし、守るといってもあなた方には普段の仕事があるのでしょう。ずっと誰かがシンジ君のそばに付いているというのは無理なのでは? 必ず隙ができ、その隙をつかれることも・・・・。」
「さっきから気になってたんだが・・・・。なにが言いたいんだ、あんた。」
ジャックが視線を硬くし、ミサトを見据える。
その視線を受け、ミサトが意を決した様な表情で語りだした。
「・・・・・シンジ君の身を守る策が、もう一つあります。」
「ほう。」
さして興味もなさそうな声で、ジャックは返事をした。
「あんたなら、何かいい手があるというのかね。」
「シンジ君をゲンドウ氏のもとに連れていくんです。そしてそこで正式に遺産を相続する手続きをさせます。シンジ君がゼーレの全権力を手中に収めれば、敵との交渉材料ができます。その権力を使って彼らを葬り去ることもできるし、それを全て彼らに渡して身の安全を保証させるという手も・・・・。」
「ふん、何かと思えば。」
なにを馬鹿な事を、とジャックは言いた気であった。
「それはシンジ君のためというよりも、君のためじゃないのかね。」
遠慮のない視線をミサトに向ける。
「君としてはシンジ君を、シカゴに連れて行くことが仕事なんだからな。」
「・・・・・・・・。」
「それにだ。ここからシカゴまで、いったいどのくらいかかると思う。その道中、敵に襲われたらどうするね。」
「シンジ君の護衛は私がします。絶えず彼とともに行動し、無事彼をシカゴまで・・・。」
「もし無事にシカゴに着いたとしてどうする? 君は礼金をもらってさっさと引き上げればいいが、この子はそこに一人で残されるんだぞ。この子を捨てた男と、この子を殺そうとしている連中、そんなヒトデナシどもの巣窟にたった一人で。 」
「しかし、このままこの町で敵の来るのを待つよりは、その方が安全性は・・・・」
「だめだ!そんな危険な方法をシンジ君にさせる訳にはいかない。それに第一この子は行きたくないと言ってるんだ、それをどう考えてる。」
「それは・・・・・・・」
ジャックのその言葉に、ミサトは返事に窮し、顔を伏せた。
「・・・・・・シンジ君を助けてくれた事は感謝しよう。しかしもう君の用向きは終わった。帰って君の依頼主に伝えてくれ、『金輪際この子に手を出すな。』、とな。」
ジャックがそう言って席を立った。
今度はもう、ミサトは引き止めなかった。
「今夜はもう遅い。君ももう休み給え。この部屋を自由に使ってもらって構わない。」
ジャックがミサトにそう言い、ドアへと向かった。
「どうやら・・・・・、それしか手はないようだな・・・・。」
神父がそうつぶやき、ジャックの後に続く。彼の意見に賛同したということだ。
「シンジ君。」
ジャックがいまだミサトの横に座ったままでいるシンジを呼んだ。
シンジの視線が、入り口に立つジャックとうなだれているミサトの間を動く。シンジがミサトに視線を止めた。そして彼女に何か言葉をかけようと、口を開きかけたとたん、
「いらっしゃい、シンジ君。」
シンジを呼ぶ声が聞こえた。
開いたドアの向こうに、いつの間にかジャックの妻、キャロラインが立っていた。
おそらくこれまでのやり取りをドアの外で立ち聞きしていたのだろう、彼女は今のこの部屋の中の雰囲気を完全に理解していた。
「あなたの部屋は別に用意したわ。さあ、シンジ君。」
声は優しいが、そこには有無を言わせない無言の圧力の様なものが感じられた。
シンジが席を立った。ゆっくりとした足取りでキャロライン達の待つドアへと向かう。しかし、絶ち切れない思いを残すかのように、シンジは何度もミサトを振り向く。
しかし、ミサトの顔は伏せられたままだ。
シンジがドアに辿り着いた。
『この子は我々のものだ。』
そうミサトに宣言するかのように、シンジの肩にジャック夫婦が手を置いた。
「葛城君、君も次の仕事があることだろう、出立は早い方がいい。」
ジャックがミサトにそう告げ、扉を閉じた。
シンジの瞳に映るうなだれたミサトの姿が、閉じられたドアの向こうに消えた。
『眠れない・・・・。』
幾度となく繰り返した寝返りを再びうちながら、シンジは思った。
居間での話し合いが終わった後、キャロラインにこの部屋をあてがわれ、シンジがベッドにもぐりこんだのが1時間ほど前であった。それから眠ろうと必死に努力した。
しかし眠れない。体はヘトヘトに疲れ果てているのに、きのう1日に起こった出来事の記憶がそれを許してくれなかった。
目を閉じると浮かぶ母の死顔、まだ見ぬ父の幻影、そして先ほど自分に銃を突き付けた男達の顔。いくら忘れようとしても、それらの光景は消えてくれない。
『眠りたい。』
シンジは目を閉じ、痛切にそう願った。
『もうたくさんだ。もうどうでもいい。』
そんな自分の声が、頭の中で鳴り響いているのが聞こえる。
眠ればこの苦しみから少しでも開放されるかも知れない、そう思った。
ここで眠り、再び目を覚ませば、またもとの生活が戻ってくるかも知れない。また、母と二人で暮らした平穏な生活、それが目を覚ました時の自分の前に現われる、そう信じたかった。
一昨日まではこのままずっとこの町で母と暮らしていくのだと漠然と考え、そして当然そうなるものと思っていた。
しかし、その母が死んだ。
そして父がいることを知らされた。
遺産、そして命を狙われているという事実。
当然のことだと思っていたこれまでの生活が、音をたてて崩れていった。
『もう、今までのような生活は戻ってこない・・・・。』
そんな暗い事実が、シンジの心の奥底から聞こえてくる。その声が聞こえる度に、シンジの体が震える。
『僕は・・・・どうすればいい。』
震えながらシンジが自問する。
確かにジャックが言った様に、この町で守られ暮らしていければそれでいい。しかし・・・、いつまで誰かに命を狙われるという状況のまま、暮らさなければならないのか。ジャックの言うように、町の者たちは命を賭けて自分を守ってくれるかもしれない。でも・・・・、もしそれが原因で、誰かが命を落とすような事があったら・・・。不吉な考えがシンジの身をさらに震るわせた。
『町の人達には迷惑をかけたくない、でも・・・・・、この町は出たくない。』
町を出る、すなわち父のもとに行くということだ。
それだけは嫌だと、シンジは思う。
『こんな苦しい思いをさせたのは、そもそもあいつじゃないか。』
母を捨て、自分を捨てた。そんな男を、今更父と呼ぶことなど出来ない。
遺産の事もとんだありがた迷惑だ。そのことで自分は先ほど危うく命を落としかけた。
死が近づいて過去のことを自分に悔いようとしても、自分は許さないだろうと、シンジは思う。
そんな男のもとには行きたくない。
この町を出たくない。
この町で暮らしたい。このまま平穏に、母の思い出が詰まったこの町で暮らしていきたい。祈る様な気持ちでシンジは思う。
『でも・・・・、僕がいれば町に迷惑がかかる。』
葛藤がシンジの脳裏に渦巻いていた。
『僕はどうすればいい・・・・母さん』
シンジがそう思ったとき、シンジが寝る部屋のドアが小さな音をたてた。シンジが目を開けドアを見ると、すでにそれは半分くらい開いていた。そしてその透き間から、人影が滑るように部屋の中に侵入してきた。
恐怖がシンジの背筋を這い、悲鳴が思わず喉元まで出かかった。
「私よ・・・・、シンジ君。」
影が喋った。シンジにとって、それは聞き慣れた声であった。
「・・・・・葛城さん・・。」
ほっとしたような声が、しばらくしてシンジの口からもれた。
ベッドの上でシンジが身を起こす。
「ど、どうしたんです。こんな時分に。」
ミサトの影がベッドに近づく。
すでにランプは消されていて部屋の中は暗かったが、窓からもれる月の光りでなんとか相手の表情ぐらいは読み取れる。
その月光にミサトのシルエットが浮かんだ。
それを見たシンジの顔に怪訝な表情が浮かぶ。
ミサトはロングコートと旅行帽をその身に着けていた。そして腰のあたりで光っているのは、ガンベルトの飾りのようである。
先ほど居間では着ていなかったそれらのものを、何故今身に着けているのか? シンジの脳裏にそんな疑問が浮かんだ。
『これじゃあまるで、今からどこかへ旅に出かけるような服装じゃないか。』
「葛城さん、どうして・・・・・」
そんな格好をしてるんですか?と、聞こうとしたシンジの口に、ミサトの指が軽く当てられた。
「・・・・・・・」
シンジが沈黙する。そして訳のわからないままミサトの顔を見る。
そこに悲しげなミサトの瞳があった。
「シンジ君・・・・・。」
ミサトが囁くような小さな声で言った。
「シンジ君・・・・、このまま私とこの町を出て。」
シンジの瞳が大きく見開かれた。
「あなたはこの町にはもういられない・・・。いればあなたは傷つくことになる。」
ミサトが悲しい視線をシンジにそそぎながら言う。
「今のあなたにはわからないかも知れない。でももし私の事を少しでも信じてくれるのなら、私と一緒にこの町を出て。」
そう言い終わると、ミサトはシンジの口に当てていた指をそっと離した。
「ど、どうして・・・・・」
シンジが呆然とした表情でつぶやく。
「さっきはジャックさん達の手前言えなかったけれど、この町ではあなたを守れない理由がもう一つあるの。」
「・・・・・・」
「町の人達に守られれば、あなたは安全でしょう。しばらくは平穏な日々が続くわ。でもね・・・・。」
ミサトがその瞳にいっそう悲しみの色を浮かべながら言った。
「・・・・ある日誰かが気付くのよ、町の子供が一人いなくなった事に・・・・。」
ドクン!
その時、シンジの中で得体の知れないものが動いた。そして全身の血が凍りつく様な感覚がシンジの身を襲う。
「そしてどこかの家の軒先に手紙が置かれているの。それにはこう書かれているわ。『子供の命が惜しければ、シンジを渡せ』、とね。」
「・・・・・そ、そんな。」
「あなたもさっき彼らがどういう連中かわかったでしょう。」
シンジの脳裏に、自分の頭に笑いながら銃口を押しつけた男達の顔が、まざまざと浮かび上がった。
「それが嫌なら・・・・、このまま私と一緒にこの町を出て・・・・。」
ミサトがシンジの肩に手を伸ばした。それを拒むようにシンジが顔を背ける。
「・・・・・・い、嫌だ・・・・」
ミサトから顔を背け、うつむきながら、搾り出すようにして声を出した。
「シンジ君・・・・。」
「ぼ、僕はここで暮らしていくんだ、これまでと同じように。それが普通なんだ。当たり前なんだ。なのにどうして・・・・、どうしていきなり命を狙われたうえに、この町を出てかなきゃならないんだ。そ、そんなのってないよ・・・・。」
震える声でシンジが言う。
「確かにそう・・・・、あなたはなにも悪くない。」
ミサトがふりそそぐ月光の様に静かに言う。
「でもね、人生には色々な事が起こるの。悲しいこともね。」
「・・・・・・」
「そして悲しみはいつも仲間を連れてやってくる・・・・。お母さんの死、お父さんの事・・・・・、あなたの辛い気持ちはわかるわ。だけど・・・・・。」
「動くな・・・。」
撃鉄の起きる堅い金属音とともに、ミサトの背後でジャックの声がした。
「動けば背中からでも遠慮なく撃つ・・・・。」
いつの間にか部屋の入り口に、ライフル銃を手にしたジャックが立っていた。そしてその銃口はまっすぐミサトの背中に向けられている。
ミサトの動きが止まった。
「シンジ君を連れ出すつもりだったんだろうが、そうはさせん。」
「・・・・・話しを聞いてください・・・・。」
顔を前方のシンジに向けたまま、ミサトが背後のジャックに言った。
「いや、断わる。聞くまでもない。君は明日この町を出て、我々はもとの静かな生活に戻る、それだけだ。他にはなにもない。」
断固としたその声にミサトが唇をかんだ。
「シンジ君・・・・、その女の銃をとってくれ。」
ジャックが、ベッドの上でミサトから顔を背けるようにうつむくシンジに言った。
「大丈夫・・・、ここからしっかり狙っている。だからその女の銃を取り上げてくれ。」
しばらくして・・・・
シンジの体がよろよろと動きだした。
その手がミサトの腰に伸びた。
「シンジ君・・・・・。」
そのシンジの行動を悲しげに見つめながら、ミサトがつぶやく。
シンジは、ミサトの目を見ない。
やがてホルスターから、ミサトの銃がシンジの手によって抜き取られた。
「さあ、こっちに来てもらおうか。」
ジャックの声がかかる。
ミサトがもう一度、目前のシンジを見た。
しかし、シンジはミサトの銃を両手に握り、うつむくようにして、ミサトと視線を合わせようとはしなかった。
「来るんだ!」
強い声でジャックが言った。
ミサトが立ち上がり、踵をかえす。そして、ジャックが銃を構えている部屋の入り口へと歩きだした。
部屋を出る直前、ミサトは背後を振り返ったが、ベッドの上には先ほどと同じく、うつ向いたまま座り込むシンジの姿があった。
その姿を悲しげにもう一度見つめ・・・・、ミサトは部屋を出た。
そしてその翌日、ミサトはブルークリークの町を追い立てられるようにして、去っていったのだった。
ミサトがブルークリークの町を去って、一週間が過ぎた。
その間、ブルークリークの町には何事も起こらず、平穏な日々が続いた。
この町を突如として襲った銃撃騒ぎも、人々の記憶から忘れ去られようとしている。
しかし・・・・
シンジの脳裏からは、あの夜のミサトの言葉がまだ消えない。
『あなたはこの町にはもういられない・・・。いればあなたは傷つくことになる。』
そう語った時の、ミサトの悲しそうな瞳が忘れられない。そしてその後彼女が言った言葉・・・・・・
「シンジ君!」
自分を呼ぶキャロラインの声が、彼を現実の世界に引き戻した。
「どうしたの、呼んでいるのに返事もしないで? 具合でも悪いの?」
自分の傍らで洗濯ものを干していたキャロラインが、その手を止めてシンジの顔を怪訝そうに見つめていた。
「い、いえ・・・・。なんでもありません・・・・。」
そう言って、シンジが手にしているまだ濡れたままのシーツを、慌てて目の前に張られたロープに再び掛け出した。
春の日差しの温かな昼下がり、ジャックの家の中庭でロープにかかった洗濯ものが吹く風になびいている。
そこに立つシンジとキャロラインの二人。
他人が見れば、彼らのことを本当の母子と思うかも知れない。見た者の顔に微笑みを浮かべさせるような、そんなほのかな光景の中にシンジはいた。
「そう、ならいいんだけど。無理しちゃだめよ。」
キャロラインも再び手にした洗濯ものを、シンジと同じようにして掛けだした。
「はい。」
手を休めずにシンジが答える。
そうして、時間が流れていく。
黙々と、シンジとキャロラインは手を動かし続けた。
と・・・・・
ふいにシンジの手の動きが止った。
その顔が隣のキャロラインを見上げる。
「・・・・お、おばさん・・・・」
「なに? シンジ君。」
「・・・・・実は・・・・、」
『話しておかなきゃいけないことがあるんです。』
頭の中ではそう言おうと思った。しかし、シンジの口からは別の言葉が出ていた。
「・・・・い、いえ。なんでもありません。」
シンジがその顔を伏せた。
「・・・・・そう。」
しばらくそんなシンジを見つめ、キャロラインがつぶやく。
それ以上彼女は何も言わない。その手が、再び洗濯ものを干すために動きだした。
ほどなくシンジもそれにならう。
まるで今の出来事などなかったように、二人は再び作業を続けた。
しかし・・・・、目の前で自分の手が動くのを見ながら、キャロラインは思う。
『今、自分の横で、自分と同じようにして働いているシンジの心は、ここにはない。』
と。
その胸の鼓動が先程よりも早くなっている。
この一週間、キャロラインはシンジを引き取り、その様子をそれとなく見ていたが、シンジの様子に別段変わったところはなかった。彼の母の死がもたらした、感情の喪失も今では見られない。時には彼女に笑顔を見せてくれることもある。
でもどこかが違うと、キャロラインは奇妙な違和感を感じていた。
時々、何かを言いたそうなそぶりで自分の事を見ている事があるし、それに気付いて問いかけると決まって今の様に口を閉ざしてしまう。どこかよそよそしいシンジの態度に、キャロラインは気付いていた。
初め彼女は、そのシンジのよそよそしさを、引き取ることが急だったので、その緊張感のためだと思っていた。いくら自分になつき、自分も引き取ることを強く望んだシンジとは言っても、やはり血のつながらない者がおいそれと家族になれる訳はない。そこにはやはり他人に対しての気遣いや、緊張感が生まれてくる。その緊張感が、シンジの態度をよそよそしく自分に見せているのだと、キャロラインは当初思っていた。
しかしそれが日が経つにつれてそうではないと、キャロラインには思えてきた。
それをはっきりと感じたのは3日前のことだ。夕方、家の中にシンジがいないのにキャロラインは気付き、慌てて家の外に飛び出していた。
この一週間、シンジのまわりには常に誰か護衛の者がいた。彼を殺し屋どもの魔手から守るためであるが、四六時中、屈強な町の男がその側にいたわけではない。この辺境の町では生活のための労働が、1日のたいはんの時間を占める。そんな暮らしの中で、シンジ一人を守るために、絶えず誰かを彼の護衛に付けることは事実上無理であった。時には男が彼の見張りに立てないこともある。そんな時、シンジを守るのはキャロラインの役目であった。シンジを家の中にいれて外に出さず、夫に操作を習ったライフル銃を近くにおいて、その時間が過ぎるのを待った。
キャロラインがシンジを見失ったのは、ちょうどそんな時である。ちょっとした家事の用があって、ほんの少しシンジから目を離した間の出来事であった。
キャロラインが銃を引っ掴み、慌てて玄関から飛び出した。
『もしや、シンジ君が・・・・・』
不吉な考えが脳裏をよぎった。
と・・・・・・
玄関を出たキャロラインの目にシンジの姿が映った。
家の前の通りに一人、遠くを見つめシンジはたたずんでいた。
その姿を見た時、キャロラインはほっとした安堵を感じるよりも、むしろ一抹の寂しさを感じていた。シンジの見つめるその視線の先、そこには小高い丘があった。一週間前、ミサトの姿がその頂の向こうに消えた丘が・・・・・。
「シンジ君・・・・」
キャロラインが立ちつくすシンジに近づき、声をかけた。
「シンジ君・・・・、勝手に一人で外に出てはだめよ。」
そう言うことが、精一杯だった。
「・・・・ごめんなさい。」
シンジが振り向いて言った。小さな、つぶやくような声だ。
「中へ入りましょう・・・・。」
キャロラインがそう言い、シンジの肩に手をまわす。
「はい。」
シンジが小さくうなずいた。
キャロラインの手にシンジの温りが伝わる。
その時ふと、キャロラインの胸に、シンジがこのままどこかへ行ってしまうような、そんな不思議な喪失感が去来した。
その脳裏に、かつて夫のジャックが言った言葉が甦る。
『・・・・あの子は男の子だ。男の子はいつか巣出つ時がくる。』
「キャロライン!」
彼女の名を呼ぶ声が、キャロラインを現実の世界に引き戻した。
「え・・・・」
キャロラインが慌てて振り向いたその先に、一人の女性が立っていた。年令はキャロラインよりも少し若い。この町に住むオブライエンという農夫の奥さんで、その名をローラと言った。そのブルーの瞳が怪訝そうに、キャロラインのことを見つめていた。
「どうしたのよ、さっきから呼んでるのに返事もしないで・・・・。」
「い、いえ、今ちょっと考え事をしていたもんだから・・・・・。」
「ふうん・・・、ならいいけど、あなたちょっと顔色が良くないんじゃない?疲れてるんじゃないの?」
「そ、そんなことないわよ。いつもと変わらないわよ。」
その言葉に慌ててキャロラインが首を振る。
「それよりどうしたの?なにか御用?」
「いいえ、用と言うほどのことはないんだけど・・・・」
ローラがすこし困ったような表情で言った。
「うちのキャリーを見なかった?」
「キャリー?いいえ、見なかったわよ。」
キャロラインの脳裏に一人の少女の姿が浮かんだ。ローラの娘で名前はキャリー。今年確か7才になるはずだった。母親譲りの金髪で、愛くるしい顔をした、明るく活発な女の子、それが少女キャリーの印象である。
「そう・・・・、さっきまでそこら辺にいたと思ったのに、探したらいないのよ。ま、いつものことだし、どうせ後でひょっこり姿を現すと・・・・・」
バサ・・・・
キャロラインの横で、何かが地面に落ちる音がした。
その音がキャロライン達の会話を中断させた。
彼女達がその音のした方を見ると、まだ干されていないシーツが、シンジの足元に落ちている。
「どうしたの・・・・・」
シンジ君?、と呼びかけようと、その視線を上げたキャロラインが息をのんだ。
そこに蒼白になったシンジの顔があった。その体はガタガタと震えている。
「ど、どうしたのシンジ君?」
「ロ、ローラおばさん・・・・・、さっきキャリーを見たのはいつごろ?」
震える声で、シンジが言った。
「さ、さあ・・・1時間ぐらい前だったかしら。」
シンジの異様な行動に、あっけにとられたようにローラが答えた。
「・・・・・僕・・・・・探してきます。」
シンジはそうつぶやいたかと思うと、次の瞬間には通りに向けて駆けだしていた。
「ま、待ってシンジ君。一人じゃ危ないわ。」
キャロラインがそう声をかけたが、シンジは振り向かなかった。何かに取り付かれたように、わき目も振らずに疾走していた。
とにかくシンジを一人にしてはおけない。キャロラインはシンジの後を追いかけた。
その数分後、ブルークリークの町を走るシンジの姿があった。
「キャリー!」
通りを駆けながら、シンジは叫んでいた。
胸が痛い。呼吸が苦しい。しかしそれでもその足が止ることはなかった。得体の知れない恐怖がシンジの心を捕え、その恐怖がシンジの体を突き動かしていた。
「キャリー!」
声を限りにシンジが叫ぶ。
『出てきてくれ、キャリー。』
叫びながらシンジは願った。
そんなはずはない。これは何かの間違いだ。きっとキャリーがふざけてどこかに隠れているんだ。そうだ、そうに違いない。
『・・・・ある日誰かが気付くのよ、町の子供が一人いなくなった事に・・・・。』
シンジの脳裏にミサトの言葉が甦る。
『違う!』
その言葉を打ち消すように、心の中でシンジは叫んだ。
『違う、違う、絶対に違う!』
今にも泣きだしてしまいそうな表情が、シンジの顔に浮かんでいた。
しばらくして、
ふいに・・・・・
シンジの足が止った。その視線が町の一画に釘付けになる。ある家の軒下、そこに落ちている一枚の紙切れに・・・・。
『そしてどこかの家の軒先に手紙が置かれているの。』
シンジの足がよろよろとその紙切れに向かって動いた。
『それにはこう書かれているわ。”子供の命が惜しければ、シンジを渡せ”、とね。』
震えるその手が紙切れを拾い上げ、そしてそこに書かれている文字がその瞳に焼きついた。
しばらくして、ようやくキャロラインは町の一画に立ちつくすシンジの姿を見つけた。
これまで町のあちこちを駆けまわったため息が切れているが、それでも大急ぎでシンジのもとに駆け寄る。
シンジはうつ向き、何やら紙の様なものを手にし、それを見つめていた。
「シンジ君、どうし・・・・」
シンジに声をかけようとしたその途中で、キャロラインは言葉を失っていた。
シンジは泣いていた。手にした紙に目を落し、肩を震わせて泣いていた。
「僕のせいだ・・・・」
頬を伝わる涙の間から、声がもれた。
「僕のせいだ・・・・・、僕が、自分のことばかり考えていたから・・・・」
「シンジ君・・・・・」
「あの時・・・・、僕が葛城さんの言ったことを皆に話していれば・・・・」
「・・・・・」
「おばさん!」
シンジがキャロラインにすがりついた。
「おばさん。僕をあいつらのところへやってよ。キャリーを助けてあげてよ。そのためだったら僕なんでもするよ!だからキャリーを助けてあげてよ!お願いだよ!」
ブルークリークの町にシンジの絶叫がこだました。
ブルークリークの町より西へ約5キロ、そこに荒れた岩場がある。大小様々な形をした岩がゴロゴロと転がり、町の者でも滅多に近づかない場所であった。
そこに、焚火を囲む二人の男の姿があった。薄汚れた身なりをした男たちである。二人とも、所々ほつれた長い髪をざんばらに肩まで垂らし、その顔には不精髭が生えている。そしてその身にまとう粗雑な雰囲気と腰のガンベルト、それだけで彼らがどういった人間であるのか大抵の者にはわかるだろう。
そのうちの一人が、その視線を巡らせた。その巡らせた視線の先に、一人の少女の姿があった。
その両手が無残に縛られ、背後の岩を背もたれにするように地面に直接座らされている。
キャリーであった。
その顔には普段の愛くるしい笑顔はなく、無数の涙がその表面をはった跡がこびり付いてた。それを証明するように、閉じられたまぶたには、いまだ大粒の涙が光っている。
「泣き止んだか・・・・。」
さして興味もなさそうな声で男が言った。
実際、男達はこの少女に興味はなかった。彼らが興味を持つのは、この少女と引換にする少年である。そしてさらに男達が興味を持つのは、その少年を殺した後にもらえる金であった。その金の前では、わずか7才の少女をさらい、泣き喚く少女の両手を縛り上げることも、意に介するところでは無い。まして泣き疲れて少女が眠ったことなど、この男達にとっては、”静かになった”と、思う程度のことだ。
「で、これからどうする。」
相棒がそう声をかけ、男が視線をもどした。
「しばらく様子を見る。奴らもすぐには決められねえだろうからな。」
「しばらくって、どのくらいだ。」
「ま、ざっと3日は見とかねえとな。」
「3日か・・・・、ああ、早く金を手に入れてえもんだぜ。」
「まったくだ。」
男達が笑った。その時、
ザッ・・・・
男達の横手から、小さな音がした。靴底が、固い土を踏みしめるような音。
男達がその音のした方向に目を向ける。
男達からほんの数メートルの離れたところ、そこにいつのまに現われたのか一人の女が立っていた。
黒の旅行帽に灰色のロングコートをその身にまとった美女が、男達のことを見下ろしていた。
「なんだ、てめぇは!」
聞く者を震え上がらせるような、ドスの効いた声を発し、男達が立ち上がった。
しかし、その前に立ちはだかる麗人の顔に、向かい風を感じたほどの表情の変化もなかった。まるで目の前の男達がそこに存在していないかのように、飄然とそこに立っている。
その黒い瞳が動いた。
その視線の先にキャリーがいた。後ろ手に縛られた両手、力なくうなだれた頬に残る涙の跡、それらの痛々しい姿がこの麗人の瞳に映った。
「おい、聞こえねえのか!」
男が怒鳴る。
麗人がその視線を、ゆっくりと男達に向け直した。
あいかわらずその表情は冷ややかなままだ。だがしかし・・・・、男達は気付いたであろうか、彼女の黒い瞳の中に燃える怒りの炎を。
「このクズども・・・。」
麗人がつぶやいた。
「なに!」
「ピンカートン探偵社、葛城 ミサト。」
ミサトが名乗った。
とっさのことに男達は、数瞬、彼女の言った言葉の意味が理解できなかった。あっけにとられた表情が、しばし男達の顔に浮かんでいた。その後、事をようやく理解した男達の顔が驚愕に彩られ、その手が腰の拳銃に伸びた。
銃声があたりに轟いた。
夜のとばりが降りようとする頃・・・・・
シンと静まりかえった教会の礼拝所に、女のすすり泣く声だけが聞こえる。
ローラの泣く声だ。その横に付き添う夫の胸に顔を埋め、肩を震わせ泣いている。
もうどのくらいの時間、そうしているだろう。人がこれほどの涙を流せるのかと思うほど長い間、彼女は泣き続けている。
その姿を見る度に、そこにいる全ての者の胸が締めつけられるように痛む。しかし、彼女にかけるべき慰めの言葉を、誰も持ってはいない。
それは、そこにいるシンジも同じ。ローラの泣き声が、その小さな体に針の様に突き刺さる。出来れば耳をふさいでその泣き声を消してしまいたい、このままどこかに逃げてしまいたい、シンジはそう思った。
でもそれは出来ない。
なぜなら彼はそれを、自分に課せられた罰だと感じていたからだ。
もしミサトの言った事を、町の者に話していれば、こんなことにはならなかったろう。少なくともあらかじめ何らかの手段は講じられたはずだ。
しかしシンジはそれを誰にも言わなかった。
それを話せば、自分はこの町を出ていかなければならない・・・・。
自分の存在が他の子供達の危険につながるとわかれば、もう町の者は自分を守ってくれないかもしれない・・・・、そうシンジは思った。
この町にとって自分は有害な存在・・・、シンジは人々にそう思われるのが怖かった。
その恐怖がこの少年の口を閉ざし、今回の悲劇を生んだ。
全ては自分の存在のため、その存在を認めようとしなかったこのエゴのため・・・・・。
自分がいなければ、自分さえ・・・、あんな父親を持つ自分さえいなければ・・・・・・。
唇を噛みしめ、膝の上に置いた拳を固く握りしめて、シンジはその泣き声を聞いていた。
「とにかく、こうしていてもはじまらん・・・・・・・。」
ジャックの沈んだ声が礼拝所に響き、そこに集まる町の男達の顔を見渡した。
「とにかく手分けをして、キャリーを探さなければ・・・・・・。」
「しかし・・・・、どこを、どうやって・・・・・。」
神父がさらに沈んだ声で言った。それにジャックは答えることが出来ない。
神父の言う意味は痛いほどわかる。荒野のどことも知れぬ場所に潜んでいる賊を、それも日の落ちた今から、一体どうやって探せばいいのか。それに万が一見つかったとしよう、それでどうする? 一体どうやって銃を突き付けられたキャリーを、奴等の手から奪い返す?
答えなど誰も出せる訳はない、全員の胸に去来するのは深い絶望感だけだ。
ローラの泣き声がいっそう高くなった。
「・・・僕を・・・、あいつらに渡せば・・・キャリーは戻ってくるよ。」
ぽつりと、つぶやくような声が聞こえた。
礼拝所にいる全員の視線が、シンジに集まる。
「・・・僕を、引き渡してよ、あいつらに・・・・」
「・・・・だめだ、そんなことは出来ない・・・」
ジャックが震えながら言った。
「でも・・・・、このままじゃ・・・キャリーが・・・・」
「大丈夫・・・・、なんとかする。だから君がそんなことを考えるな。」
「いいえ・・・・」
抑揚の感じられない低い声が、ジャックの背後から聞こえた。
振り返るとそこに幽鬼のように立つローラの姿があった。
「いいえ・・・・、それしか・・・・もう手はないわ・・・・」
その口から感情の感じられない、単なる言葉の羅列がもれる。
「待って、ローラ。落ち着いて・・・・。」
その傍らにキャロラインが歩み寄り、彼女の言葉を静止しようとその肩に手を伸ばした。
「だめよ!」
ローラの鋭い言葉に、伸ばされかけたキャロラインの手が、空中で止った。
「シンジ君・・・・、私の事をひどい女だと思ってもらってもいい・・・・、あなたのお母さんに受けた恩を忘れたと思われてもいい・・・・、私は・・・・キャリーを救いたい・・・・。」
そう言うローラの瞳が、まっすぐにシンジを射抜いていた。
その視線を・・・・、シンジは泣きそうな顔で受けた。
「だからシンジ君・・・・、奴らの・・・・」
「キャリーが見つかったぞ!」
歓喜に満ちた声が、呪いの言葉を途中で打ち消した。
そこにいる者、全ての目がその声のした扉の方を向く。
開かれた扉の前に、一人の青年が幼い少女を抱いて立っていた。ここにいる全ての者が見たいと願っていた少女の顔が、その腕の中にあった。
若者が少女を床に下ろした。少女が一目散に駆けだしていく。呆然と立つ、彼女の母に向かって。
「ママ!」
少女が叫び、その胸に飛び込んだ。
「・・・キャリー・・・・」
呆然とした様子でローラがつぶやく。そしてよろよろと動くその腕が少女を包みこんだ。静かに、彼女の内から震えをともなって感情が込み上げてくる。
「キャリー!」
ローラが絶叫していた。もう後は言葉にはならない。号泣がその口から溢れ出ていた。そしてその腕が、二度と我が娘を離すまいと抱きしめていた。
礼拝所を包んでいた重くるしい雰囲気が和らいだ。
人々の口からほっとした安堵の吐息がもれた。
それとともに皆の顔に笑顔が浮かぶ。
「お手柄だな!」
しばらくして、ジャックが抱き合う母子の姿を微笑ましげに見つめながら、入り口に立つ青年に言った。ジャックだけではない、礼拝所に集まる多くの者が彼を取り巻き、英雄に対する畏敬の眼差しを彼に向けていた。
その青年の事を、町の者はよく知っていた。この町に住む農夫で、名はブライアン。まだ20代前半の若者である。
「しかし・・・・一体どうやったんだ?」
称賛の光りをその目に宿しつつも、少し戸惑いを含んだ様な言葉をジャックはブライアンにかけていた。ジャックが知る彼、つまりブライアンは勇敢という印象を持たれる青年では決してなかった。荒野のこの町にはふさわしくない、どちらかと言えば、都会のどこかの大学の図書室で、本を読んでいるのが似合っていそうなタイプの青年だった。
「いや・・、僕がキャリーを助けたんじゃないんです。」
そう言うブライアンにも、戸惑いの表情が浮かんでいる。
「実はさっき町を見まわっていたら、町外れでとぼとぼ彼女が歩いているのを見かけたんで、それで慌てて連れてきたんです。」
「歩いていた?」
「ええ、なんだか彼女を見つけた時、どこかで馬が立ち去って行くような足音がしましたけど。まったくどうなってるんだか。僕にもさっぱりですよ。」
ブライアンも首を傾げていた。
「キャリー・・・・一体いままでどうしていたんだい。」
ジャックがキャリーに近づき、そして泣き声やまぬこの少女にそっと聞いた。
「おねえさんに・・・助けてもらったの。」
時々しゃくり上げながらも、キャリーは答えた。
「おねえさん?」
「うん。黒い帽子をかぶった。とってもきれいなおねえさん。」
『ああ・・・・』
ジャックは胸のうちで声をあげていた。彼は全てを理解したのだ。この子を助けてくれた主がミサトであることを。
ミサトはこの町を出た後もこの地に留まり、荒野で野宿を繰り返しながらも、この町の事を見守っていたのだ。いずれこうなると予想して・・・・・。
その・・・・恩人であるミサトを、この町から追い出したのはジャック自身だ。
『申し訳のないことをした・・・・』
ジャックの胸に慙愧の念が去来した。今からでも探せば彼女を見つける事ができるかも知れない、そして彼女に礼と詫びを言えるかも・・・・。
ジャックがそう考えていた時、安堵感に包まれる礼拝所を再び絶亡感で満たす言葉が響いた。
「しかし・・・・、これからどうする・・・・」
重い神父の声であった。
そこにいる全員が互いの顔を見合わせた。
これから・・・・一体どうするのか? 敵はシンジばかりでなくこの町自体をも標的にした。そんな非道な者達を相手に、この標的にされた町の中でどのような生活が送れるというのか。
無理だ。
もはや事は、シンジ一人を守るというレベルの問題ではなくなってしまった。
「私と、キャロラインが・・・・、シンジ君を連れてこの町を出よう・・・・」
苦しげにジャックが言った。
「それしかあるまい。」
ジャックのその言葉に誰も反論する者はいなかった。しかし賛成する者もいない、誰も声を出さず、皆うつ向いている。
「シンジ君・・・・、すまないがもうそれしかない。わかってくれるね。」
ジャックがシンジの同意を得ようと、それまで彼が座っていた席を見た。
そこにシンジの姿はなかった。
「シンジ君?」
ジャックの視線がシンジの姿を求めて礼拝所の中を巡った。しかし彼の姿はそこにはなかった。
いつの間にか、シンジの姿は礼拝所、いやブルークリークの町から消えていた。
その翌日の夕暮れ、亡き母の墓標の前に立つシンジの姿があった。
夕陽の色が映えるその顔に、疲労の色が濃い。着ているその服も砂埃にまみれている。
昨晩、礼拝所を飛びだして以来、ずっと荒野をさまよい歩いた結果だ。
『僕がいれば町に迷惑がかかる。この先また誰かがさらわれることになる・・・・。』
その思いが彼を町から飛び出させた。
『自分さえいなければ、町にはまたもとの平穏な暮らしが戻ってくる。』
泣きながら、暗い夜の荒野を歩き続けた。
しかし彼にはどこにも行くあてはなく、もはや帰る場所もなくなってしまった。
そんな行くあてのないシンジにとって、唯一のより所は彼の母のもとしかなかった。いつしかシンジの足は町外れの墓地へと向かっていた。
「もう疲れた・・・・・」
墓標を見つめるシンジの口からつぶやきがもれる。
「疲れたよ母さん・・・。」
シンジの体が力なく崩れ落ちた。その両手を地面に付き、その場に倒れこんだ。
「どうして・・・、死んじゃったんだよ、母さん。」
うなだれ、地面を見つめるシンジがつぶやく。
「何にも言わないで一人で行っちゃうなんて、ズルイよ・・・・。」
シンジがその顔を上げた。目の前には母の墓標が静かに立っている。
「・・・・・これから・・僕はどうすればいい?」
母の墓標にシンジが問う。一昼夜、荒野を歩き続けて考え、そしてついに答えの得られなかった事を、彼は聞いた。
「僕は・・・、この町で静かに暮らしたいだけだったんだ。誰にも邪魔されず、静かに・・・・・。でも・・・、もう町には戻れない。戻ればまた昨日みたいな事が起こる・・・。もう・・・、戻れないんだ・・・。・・・・戻っちゃいけないんだ・・・・。・・・・・でも、あの男のところへは行きたくない。母さんを・・・、僕を・・・・捨てた男のところへなんか行きたくない・・・・。行って、父さんなんて呼びたくない・・・・。・・・行きたくないんだ・・・・。・・・・嫌いなんだ・・・・。・・・・怖いんだ・・・。・・・・僕にはもう・・・・どこにも行くところがない・・・・。」
ぽつりぽつりと、シンジがつぶやく。
「・・・・僕はどうしたらいいんだよ。」
シンジが墓標に、すがるような視線を向ける。
しかしもとより、亡き母の墓標は沈黙し、それに答えてくれることはない。
「ねえ! 母さん、教えてよ。僕はどうしたらいいんだよ! ねえ! 母さん、答えてよ!!」
「運命と戦って、そして勝ちなさい。」
シンジの問いに静かに答える声があった。
シンジが背後をゆっくりと振り向く。
そこに、その全身を夕陽の色に染めながら、ミサトが静かに立っていた。
その姿を呆然とシンジが見つめる。
初めてここで出会った時と同じく、その姿は美しく、そして荒野に生きてきた者のみが持つ厳しい雰囲気をその身にまとっていた。
「運命と戦って、勝ちなさい。」
シンジを見つめながら、再びミサトが言った。
「自分の運命からは誰も逃げられない。例え一時は逃れられたとしても、必ずそれは再びやってくる。だから人は自分の運命と向かい合わねばならない。向かい合って、それと戦わなければならない。未来を切り拓くために。未来をその手につかむために。どんなに苦しくても、どんなに悲しくても・・・・・。」
「・・・・・・。」
「でもシンジ君・・・、あなたはまだ子供・・・・、その苦しいことや悲しいことに逃げ出しても、誰もあなたを責めることは出来ないわ。」
そう言ってミサトがコートのポケットから小さな革袋を取り出し、それをシンジの前に放った。それがシンジの膝先の地面に落ちる時、小さな金属音がその中から聞こえた。
「そこにお金が入っているわ。もしお父さんのところにどうしても行くのが嫌なら、それを持って誰も知らないところへ行き、そこで暮らしなさい。私はもうこれ以上なにも言わない・・・・。」
シンジがその地面に落ちた革袋のことを、穴の開くほど見つめる。
「でも、もし・・・・・」
その言葉にシンジが再びミサトを見上げた。
「でも、もしあなたに自分の運命と向き合う意志があるというのなら・・・・・」
そう言って、ミサトがシンジにゆっくりと近づいた。
「もしあなたに自分の運命と戦う勇気があるのなら・・・・・」
シンジのすぐ目の前にミサトが立った。
「力を貸すわ。」
ミサトがその右手をシンジに差し出した。
目の前に差し出されたミサトの白い手、それをシンジが呆然とした表情で見つめる。
「どうするかは、あなた自身が決めなさい。」
ミサトが静かに告げた。
右手を差し出すミサトと、それを見つめるシンジ。二人の姿が夕暮れの墓地に、彫像のようになって動かない。
その姿が、荒野の大地に長い影絵となって映る。
しばらくして・・・・
凍り付いた様に動かなかったシンジの体が動いた。その右手がヨロヨロと動く。
緩慢な動きではあったが、それは地面に落ちている革袋には向かわず、空中へと伸びた。
シンジの意志は逃げることを望まなかった。
空中へ伸びるその腕は、未来をつかみ取ることを望んだ。
シンジの手が・・・・・、差し出されたミサトの右手を握っていた。
その翌早朝、まだ陽も登らぬ時分・・・・・
碇 シンジは生まれ育った自分の家を出た。
冷たい朝の冷気が彼の頬を撫でる。その顔に昨日の疲れた様子は微塵もない。
その服装も昨日とは違っている。こげ茶の色の鐔広の旅行帽をかぶり、その身には同じくこげ茶色のハーフコートとズボンを着ていた。
旅裝である。
感慨深げにあたりを見渡すシンジの目に、見慣れた光景が映る。
裏庭に植えられた木々、テラスに置かれたベンチ等、普段は気にもとめなかったそれらの全てが、今となっては皆なつかしい。様々な思い出が、その胸に去来しては消えてゆく。そしてそれらの思い出がシンジをこの場に留まらせようと、甘い感情となって彼の胸に押し寄せる。
だが・・・・
シンジはそれに首を振り、その瞳をまっすぐ前に向けた。
振り向かずまっすぐに馬小屋へと向かう。
馬小屋の扉をくぐったシンジを向かえる様に、彼の馬が小さくいななき、そばに近づいた彼にその頬をすり寄せてきた。その頬をシンジの手が優しくなでる。
「もう・・・・、この小屋には帰ってこれないんだよ・・・・。」
馬の瞳を見つめながらシンジがつぶやく。
「長い旅になるんだ・・・・。」
そのシンジの言葉が理解出来たのかどうか・・・・、馬はもう一度小さないななきの声を上げた。
やがてシンジはその馬の背に鞍を載せはじめた。てきぱきとした様子で準備をすすめる彼の表情に迷いの色はない。そして彼の足元には、毛布や大きな革袋等が置かれていた。それら昨晩用意した物の全てが、旅に出るための道具であった。
ほどなく、それらの荷物も全て馬の背に載せ終えた。
「行こう・・・・。」
シンジが手綱をとり、馬を引いた。これからこの小さな主人が向かう長い旅を知るかのように、馬も従順にそれに従う。
馬を裏庭に引き出し、シンジがその背にまたがった。
しばし・・・・、馬上でシンジの目は静かに閉じられた。
その脳裏に声が聞こえる。
『運命と戦って、そして勝ちなさい。』
昨日、ミサトが言ったその言葉・・・・、しかしシンジの脳裏に囁くその声は亡き母の声によく似ていた。
シンジが大きく息を吸った。朝の冷気がその胸の中を満たしてゆく。
シンジの瞳が開いた、まっすぐに前を見る、そしてその口からは鋭い声が迸った。
「ハアッ!」
シンジの踵が馬の腹を蹴った。
馬がいななき、その蹄鉄が土を蹴った。たちまちシンジを乗せた馬はシンジの家の裏庭を抜け、町の通りへと走り出た。その通りを、馬はシンジを乗せて素晴らしいスピードで駆け抜ける。朝の、まだ眠りについているブルークリークの町に、蹄鉄が土を蹴る音が響く。
馬を操るシンジの目に、ブルークリークの町並みが映る。見慣れたそれらの家々が、すごい勢いで後方へと消え去っていく。
その行く手に・・・・・、町と荒野との境界が見える。
そこを越えればもうなにもない。
そこを越えればもう戻ってはこれない。
しかし、その境界をシンジは怖れることなく見つめ、そしてさらに馬の速度を上げた。
一気に馬が境界線を走り抜け、荒野へと飛び出した。
シンジの前に・・・・、雄大な西部の大地が広がった。
それを待っていたかのように、地平線の彼方に朝日が登り、その旅立ちを祝福するかのようにシンジの顔を照らしだした。
シンジは振り返らない。ただ前だけを見て、馬を走らせる。
馬も主人に応えようと、その脚力の限りに疾走する。
広大な大地の中を、シンジはいま風となって走っていた。
その瞳に迷いの色はもうない。
もう逃げない。もう迷わない。
己の運命と向き合い、そして未来を切り拓く。未来をこの手につかむ。
そのために、この思い出深い町を出て行く。
そのために、母の眠るこの地を離れる。
そのために、もう帰れないかもしれないこの旅に出る。
シンジは振り向かない。
シンジが馬を走らせるその先に小高い丘があった。かつてミサトが姿を消したその丘の頂に、その時と同じ騎手の姿があった。
馬が丘の頂へと駆け登ると、シンジは手綱を操り、その騎手の横に馬を並べた。
「町の人達には言ってきたの?」
シンジの横に並んで馬にまたがるミサトが聞いた。
それにシンジが首を振る。
「そう・・・、心配してるんじゃないかしら・・・・」
「僕の家のテーブルの上に手紙を置いてきましたから、多分大丈夫だと思います・・・。」
「それで・・・・いいの?」
「・・・・もう僕の事を誰も気にかけちゃいませんよ。あんなことになったんだから・・・・。」
「・・・・・・・」
「それに、夕べ家に帰ったって、誰も僕のことに気付いてない様子だったし。・・・・これでよかっ・・・・・」
『これでよかったんですよ。』
そう言いかけたシンジの耳に、町の方から澄んだ音が聞こえてきた。
「教会の鐘の音ね・・・・・。」
ミサトがつぶやく。
シンジが初めて振り返った。
丘の頂から臨むブルークリークの町、その町外れにたたずむ人々の姿があった。
先ほどシンジが走り抜けた境界線のところに、町の人々が集まり、こちらを見つめていた。
その中にジャックの姿があった。キャロラインの姿があった。ローラも、キャリーの姿もあった。そこに集まる全ての人々の事を、シンジは知っていた。
生まれてからそこで暮らし、家族同様に付き合った人々の姿がそこにはあった。
「知っていたのね。あなたがこの町を出ることを・・・・。」
ミサトがその光景を見つめながらつぶやく。
シンジは悟っていた。何故自分が、昨夜誰にも気付かれずに家に帰れたのか。何故自分が誰にも気付かれずに旅の準備を出来たのか。
彼らはシンジの事を忘れた訳ではなかった。
知っていたのだ、シンジがこの町を出る決心をしたということを・・・・。
知っていてそれを黙っていた。
もし言えば、シンジに辛い思いをさせることになる。皆のために町を出ようと決心したシンジに彼らが何かを言えば、シンジはその言葉の中に同情を感じていただろう。憐れみを感じていただろう。
そんな思いはさせたくない。このまま、なにも言わず、ただこうやって見守ろう。そしてこの旅の無事を祈ろう。いつか彼がこの町に、彼の母の眠るこの町にきっと帰って来れるようにと・・・・。
教会の鐘の音が聞こえる。その鐘の音とともに、人々の祈りの声をシンジは聞いていた。
「いい町・・・・。あれがシンジ君の故郷なのね・・・・・。」
ミサトの言葉にシンジがうなずく。その頬に光るものがある。
「いいのよ、別れを言いに戻っても・・・・・」
シンジが首を振った。
「・・・・・いつかきっと帰ってくるから・・・・・」
「・・・・そうね・・・・・」
「・・・・いつかきっと・・・・」
そうつぶやいて、シンジがその右手を高くかかげた。
それが見送ってくれた人達への返礼。
別れではなく、いつかきっと戻ってくるための誓いの証。
「行きましょうか・・・・、葛城さん・・・・。」
「ミサト、でいいわよ。」
ミサトが笑った。
「これから一緒に旅を続けるんですもの、もう相棒よ。だからミサトでいいわ。」
そう言うミサトにシンジも笑いかえしていた。その頬にはまだ涙が光るものの、いい笑顔がその顔に浮かんでいる。
「わかりました・・・、それじゃミサトさん、行きましょうか・・・・・。」
「OK! それじゃ、いくわよ!」
ミサトが掛け声をかけ、馬の腹を蹴った。
走り去って行くミサトの後ろ姿を数瞬見た後、もう一度シンジはブルークリークの町を振り返った。
「いつかきっと・・・」
そうつぶやき、馬の腹を蹴った。
シンジの馬がミサトの後を追って走りだした。
すぐにミサトの馬に追いつき、そして馬首を並べてともに荒野を走る。その二人の行く手の地平線に、眩しい太陽が登っていた。
一路、東へ・・・・・。
碇 シンジの運命が、いま動きだす。