The West End of Eden
広大な草原の上を風が渡って行く。
爽やかな、そして生命の息づかいが感じられる風であった。長い冬を終え、春に向かって活動を開始しようとする草花の臭いが、その風の中には溶けている。
見渡す限りに生えたくるぶしまで埋まるくらいの背の低い草が揺れ、その葉の動きが広大な草原の上に風の姿を映しだしている。
その草原を渡る風の中、一人の少年が立っていた。
碇 シンジである。
シンジは風に吹かれながら、同じくこの風の中に静かにたたずむ一人の女性の姿を眺めていた。
彼の事を相棒と呼んでくれる女性である。
そして彼をこの広い荒野へと旅立たせた女性である。
葛城 ミサトというのが彼女の名前であった。
草原を渡る風が、しきりにミサトの漆黒の長い髪をなびかせ、コートの裾をはためかせている。ミサトはその風の中に立ち、彼女の正面に目を向けていた。
シンジが、ミサトの見つめる方向にその視線を動かす。そこに、一本の棒が地面に垂直に突き立てられているのが見える。
ミサトの正面、10メートルぐらい離れたところだ。
棒の直径は3センチメートルぐらいであろうか、その辺に転がっているただの木の枝のようであった。それが地面にいくらか埋め込まれ、残りの部分、約1メートルぐらいが地面に垂直に突き立てられ、吹く風にさらされている。
その棒を、ミサトは先ほどから静かに見つめているのである。
『そろそろ退屈してきたんじゃない?』
再び視線をミサトに戻したシンジの脳裏に、先ほど彼女が言った言葉が甦る。
昼時にさしかかり、馬を止め、軽い昼食をとって一休みしていた時のことだ。
ソーダビスケットをコーヒーで胃に流し込んだ後、草原を渡る風の動きをぼんやりと眺めていたシンジに、ミサトがそう話かけてきたのだ。
シンジが旅に出て今日で1週間・・・・。
東を目指して進むシンジとミサトは、いまだ荒野のただ中にあった。
行けども行けども地平線は尽きることはなく、荒野の果ては見えない。
ミサトの話ではもうかなりネブラスカの外れまできていると言うのだが、いまだその兆候は見えない。どこまで行ってもそれまでと似たような景色がつづいている。
『そろそろ退屈してきたんじゃない?』
ミサトがシンジにそう声をかけてきたのは、単調な旅の日常に飽きたシンジを気遣うというよりも、あるいはミサト自身が単調な生活に飽きてきたからかもしれない。声をかけられたシンジはそう思った。
そしてミサトはシンジに言ったのだ。
『面白いものを見せてあげるわ・・・・。』、と。
その後ミサトはシンジを連れ、彼らの馬をつないだ場所から少し歩いた。そしてそこに転がっていた木の枝を見つけ、彼女はそれを地面に突き刺し、10メートルぐらいの距離をその棒からとったのである。
『見てて・・・。』
ミサトはシンジにそう言い、突き刺した棒に向きなおった。
それらのことを、シンジは今、ミサトの姿を見つめながらその脳裏に思い返していた。
あいかわらず、風がミサトの髪をなぶり、コートの裾を舞わせている。
と・・・・
ふいにミサトの右手が動いた。
動いたと見えた時にはもう、その手に拳銃が握られ、その銃口が火を吹いていた。
轟音。
と、同時に彼女の前に立つ棒の先端が吹き飛んだ。
吹き飛ばされた木の断片が地面に達するより早く、拳銃に添えられたミサトの左手が撃鉄を弾く。
再び轟音。
短くなった棒の先端がさらに吹き飛ぶ。
そしてそれは一度では終わらなかった。
続けざまに銃が火を吹き、轟音が草原に響きわたった。
彼女の前に立つ棒の長さが、まるで手品のようにみるみるうちに短くなっていった。
ミサトの銃が火を吹く度に、確実に棒の先端が吹き飛ばされてゆく。
そして銃に込められた6発の弾丸が撃ちつくされた時、棒は地上から姿を消していた。
その周囲に、四散した木の断片が残るのみである。
「ふう・・・・」
銃を下ろし、ミサトが軽く息をつく。
その様子を眺めながら、シンジがパチパチと小さな拍手を送り、ミサトに歩み寄った。
「凄いですね・・・・・。」
ミサトの射撃の正確さを目の当たりにして興奮したのか、幾分その声がかすれている。
「まね、これが商売だから・・・・」
ミサトがシンジを振り返り、手に持った拳銃をくるくると指で回しながら言った。その顔にどことなく自嘲するような表情が浮かんでいる。
「いつも・・・こうして練習してるんですか?」
「気が向いた時、ちょっと、ね・・・・」
「・・・すごいな・・・・」
シンジが、再び吹き飛ばされた木の断片を見つめながら、興奮冷めやらぬ口調でつぶやく。
そのシンジの横顔を・・・・・、ミサトがジッと見つめた。
その表情に、何故かかげりの様なものが見える。
しかしそれも一瞬。シンジがミサトを振り向いた時にはそのかげりも消え、いつもの明るい笑みがその顔に浮かんでいた。
「さてと・・・・、今日は調子が良いみたいだし、それにほめてくれる観客もいてくれるから、もう一頑張りしましょうか。」
そう言ってミサトがあたりを見渡す。もう一度シンジに今のと同じ技を見せようという心づもりらしい。ほどなく、少し離れたところに手頃な木の枝が落ちているのをミサトは見つけ、それを拾いに歩みかけた。
「あ、そうそう・・・・・」
ふいに、歩み出そうとしていたミサトの足が止まった。
そして、何事か思いだした様にシンジを振り返る。
「シンジ君、弾丸をこれに込めておいてくれない。私はあの棒を拾ってさっきみたいに立ててくるから。」
ミサトはそう言い、自分の持っていた拳銃をシンジに差し出した。
「えっ・・・、僕が・・・・・ですか?」
差し出された拳銃とミサトの顔を交互に見つめ、シンジが戸惑ったように言う。
「ええ、そうよ。」
はっきりとした口調でミサトがそれに答える。どこか・・・・、冷徹な感じのする声であった。
「・・・・・・」
差し出された拳銃を、シンジが無言で見つめる。
そのシンジの表情をミサトがジッと、まるで何かを探るような目で見つめている事に、シンジ自身は気付いていない。
「あの・・・、僕は・・・・」
「出来ないの?」
何か言おうとするシンジの機先を制し、ミサトが問い正すような言い方で聞いた。
一瞬、シンジの体が軽く震える。
「出来ないの?」
もう一度ミサトが聞く。
いつの間にか、会話の主導権をミサトが握っていた。
「・・・・・・・出来ます・・・・・」
短い沈黙の後、うつ向きながら、シンジがやっと聞き取れるくらいの小さな声を発した。
「・・・・そう、なら頼んだわよ。」
そんなシンジの様子を気にも留めない風に、ミサトは拳銃と、ポケットから取り出した弾丸と火薬の入った袋をシンジに手渡した。そしてそそくさとシンジに背を向け、木の枝を拾いに歩きだした。
あとには、手渡された拳銃を見つめ無言で立つシンジ独りが取り残された。
草原を渡る風の中に立つ少年のその顔には、何故か・・・・、深い苦悩の色が浮かんでいた。
シンジとミサトが旅をする1860年当時の拳銃は、今日我々が想像する拳銃とは異なっている点がいくつかある。現在我々が思い浮かべる回転式拳銃のおおまかなデザインは既にこのころ出来上がっていたが、まだいくつかの点で異なるところがあった。そのうちの一が、弾丸の装填型式の違いだ。この時代の拳銃はまだ、いわゆる前装式のものが主流であった。前装式とは、よく時代劇で見られる火縄銃の様に、銃口から火薬を入れ、その後に弾丸を押し込むといった装填の仕方をする銃全般のことをいう。
これに対して、弾頭と薬莢を一体にした、いわゆるカートリッジ式の弾丸を用い、銃の先端からではなく後方から装填する銃のことを、後装式の銃という。
これら二つの装填方式を比べた場合、後者の方がより優れていることは、現在用いられている銃の全てがこちらの方式をとっていることでも証明される。その理由は、前装式では弾丸の装填にある程度の熟練を要し、また装填自体に時間がかかるという欠点があるためだ。
シンジ達の時代は、ちょうどこの前装式から後装式への過渡期が始まろうとする時期であった。カートリッジ式の弾丸を使う拳銃もあるにはあったが、まだ技術的に未熟で、威力が小さいこともあり人気は少なかったのである。
ミサトの持つ銃、コルト・ネービーM1851はパーカッション式と呼ばれる発射型式を採用した拳銃である。パーカッション式の銃とは、シリンダー内の火薬を撃発させるのに、雷管と呼ばれる起爆点火装置を用いた銃のことであり、当時の銃の主流を占めていた。シリンダーに直結する部分に、起爆剤である雷汞(らいこう)を内側にはったパーカッション・キャップというキャップを被せ、このキャップを撃鉄で叩くことにより、火薬を激発させるのである。これにより、それまで用いていた火縄や火打ち石よりもずっと手軽にそしてずっと確実に、火薬を撃発させる事が可能となり、そしてなによりもこのキャップを用いることにより、従来単発であった銃が連続発射可能となった。
このパーカッション式の拳銃の弾丸の装填の仕方も、むろん前装式である。弾丸を発射するためには、まず銃身の根本に付属した回転式のシリンダーを取り外し、適当量の火薬を詰め、その後鉛で出来た弾丸を押し込み、そして再びシリンダーを銃身にセットしなければならない。そのためにはそれなりの技術が必要となる。とてもはじめて銃を手にした者に出来る芸当ではない。
しかし、それを今、ミサトはシンジにやらせようとした。
そして・・・・、シンジはそれが出来ると答えた。
この言葉が意味するものとはいったい・・・・
「どう? うまく弾丸はこめられた?」
標的の棒を地面に突き刺し終え、再び戻ってきたミサトがシンジに聞いた。
「・・・・はい・・・・・」
そうつぶやいてシンジが銃をミサトに手渡す。その瞳はミサトを見ず、地面に向けられたままである。
ミサトが銃を受取り、弾丸の込められたシリンダーの部分を確かめるように眺めた。
「うん。なかなか上手ね。ありがとう、シンジ君。」
「・・・・・いえ・・・・・」
「さとて・・・・」
そうつぶやいて、ミサトが手にした銃を再びシンジに差し出した。
それを見たシンジが驚いたようにミサトを見上げる。
「撃ってみて。」
「え・・・?」
「撃ってみて、この銃であの棒を・・・・」
「そんな・・・・、僕に・・・出来るわけありませんよ・・・・。」
茫然と、シンジがつぶやく。
「どうして?」
「どうしてって・・・・・」
「銃を撃ったことはあるんでしょう?」
「・・・・・・・・・ありません・・・・」
「そうかしら・・・・」
ミサトがシンジの瞳の奥を探るように見つめながら言う。
「じゃあどうして、この銃に弾丸を込められたの。撃ったことのない者がどうして弾丸を込められるのかしら?」
短い沈黙。
「・・・・・こ、これはブルークリークにいた頃、・・・・・ジャックおじさん・・・、そうジャックおじさんに狩りに連れて行ってもらって、・・・その時おじさんがこうしているのを見て・・・・。」
「それにしちゃあ随分馴れた手つきだったわよ。どうして?」
「・・・・そ、そんなこと・・・・」
「あら、それほどでもないって言いたいの? 私、銃に関してはこれでも詳しいのよ。さっきも言ったけど商売だから・・・・」
「・・・・・」
「さっき銃をシンジ君に手渡してからここに戻ってくるまで・・・、そんなに時間はかからなかった。その間に6発全部込め終わってるなんて、私から見てもたいしたものよ。」
「・・・そんなこと・・・」
目を伏せ、シンジがミサトの言葉を否定する。
「それにほらこの手・・・・」
そう言って、ミサトがいきなりシンジの右手首をつかんだ。とっさのことにシンジは驚いたが、ミサトは平然としている。なりふり構わずその手を引き寄せると、その掌が上をむくように、ミサトはシンジの手首をひねった。
シンジの手のひらがミサトとシンジの瞳に映る。
持ち主に似て、白くかぼそい印象を与える手のひらであった。
しかし、シンジのその手のひらには、それを見た者の気を引く特徴があった。
人指し指と親指の付け根の部分・・・、そこに大きなタコが出来ているのである。
かぼそいシンジの手には不似合いな、硬く、ゴツゴツとした印象を与えるタコであった。
「私の手にもね、同じところにタコがあるのよ。ほら。」
ミサトがシンジの右手の横に、自分の右掌をならべた。
白く、繊細で美しい手のひらがシンジの目に映る。
しかし・・・・、その手にも特徴があった。
ミサトの手のひらにも、シンジと同じ部分に、同じ様なタコが出来ていたのである。
「そこまでなるには相当練習したんで・・・・・」
そのミサトの言葉が終わらないうちに、シンジは自分の右手を引っ込めていた。
「こ、これは小さいときから馬の世話をしたり、薪を割ったりしているうちに出来たんです! だから・・・・・」
「嘘ね・・・・」
そろりと、ミサトがその言葉をささやいた。
「銃を撃ったことあるんでしょう・・・・、シンジ君。」
シンジの体が微かに震えた。
「あるんでしょう、シンジ君。銃を撃ったことが。」
「・・・・ありません。」
「嘘をつくのが下手ね・・・・。」
「・・・・・・・」
「撃ちなさい。」
目を伏せるシンジに、ミサトが銃を押しつける様にして差し出した。
その銃から逃れる様に、シンジが顔をそむける。
「・・・・ミサトさん・・・・、僕は・・・・」
「ここで撃たなければ、もう私はあなたと旅を続けるのをやめるわよ。それでもいいの。」
なおも嫌がるシンジに冷たくミサトが宣言した。
「え・・・・・」
「もう旅を続けるのはなしよ。私は私に隠し事をするような奴を、相棒とは思わない。そんな奴と旅を続けるつもりもない。後はあなた独りで行くことね・・・・・」
「そんな・・・・」
「それが嫌ならあの棒を撃ちなさい。」
冷徹にミサトが言い放つ。
「言っとくけど、私は本気よ・・・・」
その後、二人の間に長い沈黙があった。
シンジはミサトの差し出した拳銃を見つめ、そしてミサトはそんなシンジを黙って見ている。
やがて・・・・・
「・・・・・撃てば・・・・・いいんですね。」
かすれた声でシンジが言った。
「そうよ。」
ゆっくりとした動きで、シンジがミサトの差し出した拳銃を握った。
「さあ、撃って。」
ミサトが棒を指さす。
その横で、シンジが標的を見つめ、そしてゆっくりと銃を持ち上げた。
銃口を棒に向け、撃鉄を起こす。
そして・・・・
銃口が火を吹き、轟音があたりに響いた。
弾丸が発射され、その反動でシンジの体が軽く後方へのけ反る。
しかし、標的の棒に変化は無い。その長さは以前のまま、微動だにせず大地に突き刺さっている。
それを見たシンジの顔に、ほんのりと笑顔が浮かんでいた。
「・・・・・ほら、やっぱりあたらなかった・・・・」
そう言って、シンジがミサトに銃を返そうとする。
「・・・僕には無理なんですよ・・・・、銃なんて・・・・」
が・・・・・
「もう一度撃ちなさい・・・・」
標的から視線をそらさず、氷の声でミサトが言った。
「今度は本気でね。」
「そんな、何度やったって同じですよ。当たるわけ・・・。」
「いいからもう一度やりなさい!」
抗弁しようよしたシンジに、ミサトが怒鳴った。
数瞬の沈黙。
シンジが標的に向きなおった。無言で手にした拳銃を構え再び標的を狙う。
その顔に、怒りと嫌悪の表情が浮かんでいた。
何も言わずに撃鉄を起こし、引き金を引く。
轟音。
棒の近く、約1メートルぐらい右の地面が小さく跳ねた。
狙いが外れ、そこに着弾したのである。
「もう一度!」
ミサトが叫ぶ。
そんなミサトを見向きもせず、シンジが再び撃鉄を起こした。
轟音。
今度は棒の左側の地面が跳ねた。
「もう一度!」
「クッ・・」
シンジが再び銃を撃つ。その弾丸が標的を外れる。
「もう一度!」
ミサトが叫んだ。
・・・・・・以後、それは拳銃に込められた6発の弾丸が尽きるまで続けられた。
結局、シンジの撃った弾丸は1発も標的をとらえることはなかった。
弾丸を撃ちつくした後も、シンジの前にはそれまでと同じ長さの棒が起立したままであった。
それを見つめて、シンジが銃を下ろした。
そして手にした銃を、押しつけるようにしてミサトに差し出す。
「・・・・もう・・、いいでしょう・・・」
その声には明らかな怒りの響きが感じられた。
差し出された銃を、ミサトが無言で受け取る。
銃を受け取る時、ミサトがチラリとシンジの顔を見たが、シンジはその視線を避ける様に踵を返した。
「じゃ・・・」
そうつぶやいて、足早に馬をつないだ場所に向かって歩き出す。
「私のこと怒ってるんでしょ。酷い女だって。」
ミサトがシンジの背中に声をかけた。
「べつに・・・・」
足を止めずにシンジがつぶやく。
「でもね、死んだら怒ることも出来なくなるのよ。」
シンジの足が止まった。
「今のがただの棒じゃなくて、銃を持った敵ならどうなってたと思うの?」
ミサトの言葉がシンジの背中に突き刺さる。
「銃を持った相手にも、私と同じように嘘をついてごまかす気?」
ゴオ、と草原を渡る風が強さを増した。
その風の中に立つシンジとミサトの二人。
風が二人の黒い髪をなぶり、その衣服をはためかせる。
風はいつの間にか、少し冷たくなっていた。
数瞬の後、止まっていたシンジの足が再び歩みだした。
ミサトの問いにシンジは答えず、その背を見つめるミサトもまた再び声をかけようとはしない。
ミサトの瞳に映るシンジの背中がだんだん小さくなってゆく。
そんな二人に、風は一層強さを増して吹きつけてくる。
草原を渡る風の中に立つ二人、その距離が次第に遠ざかっていった。
「・・・・・もっと速く・・・・」
シンジの脳裏に声が聞こえてくる。
懐かしい声。その声の主を自分は良く知っている。
シンジはそう思った。
なぜならそれは彼の母の声であったからだ。
「もっと速く・・・・」
シンジの脳裏に響く声がだんだん大きくなる。
なぜ母さんの声が聞こえるんだろう? 母さんは死んだはずなのに・・・・
そんな思いがシンジの脳裏にぼんやりと浮かぶ。
「もっと速く。」
脳裏に響く声がいっそう大きく、そしてはっきりと聞こえるようになってきた。
それまでうす暗かった視界にほのかな明かりがさし、ぼんやりとまわりの景色が浮かび上がってくる。
その景色にシンジは見覚えがあった。
ブルークリークにいたころ、よく母と出かけたところだ。
なぜ僕はこんなところにいるんだろう? 僕はミサトさんと旅をしているはずなのに・・・・・。
ぼんやりとした疑問がシンジの脳裏に浮かぶ。
しかし何故かその疑問を解こうとする気が起きない。まるで頭の中に大きな石でも入っているかの様に、思考が働かない。
「もっと速く。」
再び声が聞こえる。
浮かび上がった景色の中に、一人の女性が立っていた。その女性がさっきからシンジに声をかけているようである。
風の中に凛として立つその姿を見た時、シンジの胸に言いようのない懐かしい感情が込み上げてきた。
母さん・・・・。
シンジがつぶやく。しかしそのつぶやきは彼の耳には届いてこなかった。
ふと、唐突に先ほどから浮かんでいた疑問が解けたような気がした。
・・・・・そうか、僕は夢を見ているんだ。
シンジの脳裏でそうつぶやく声があった。
そうだこれは夢なんだ。この時の事を僕は覚えている。あの日だ、これはあの時の記憶の中の情景だ。それを僕は今夢に見ようとしている・・・
「もっと速く!」
目の前のユイが鋭く叫ぶ。
わかってるよ母さん・・・、もっと速く抜くよ・・・・
銃を・・・・・
思考の中でシンジがつぶやく。
前から自分で考えていた方法があるんだ・・・・
銃を吊るす位置を変えるんだ。母さんがやるように体の側面・・・・腰の位置にホルスターを着けるんじゃなくて、体の正面・・・・太股の上に銃が乗るようにホルスターを着ける。
ほら、見てて・・・。僕は右利きだからこうして左足の太股の上にくるようにして、グリップの先が右手の方を向くように銃をホルスターの中に収める。
どう?
え? 銃を吊るす位置が低くすぎるんじゃないかって?
そんなことないよ、これが僕には一番あってるんだ。
やってみようか?
グリップをこう握って、こう・・・・
ほら、速くなった・・・・
速く抜けた、こんなに速く抜けるようになったよ・・・、母さん。
・・・・・・・・・・・・でもどうして?
どうして僕はこんな事をしなきゃいけないの?
・・・・どうして母さんは、僕にこんな事をさせる時、そんな怖い顔をするの?
ねえ・・・・、どうしてなの、母さん・・・。
そんな疑問を漠然と感じながら、シンジは眠りの中に落ちていった。
碇 シンジには、幼い頃から母に課せられた事が二つあった。
一つは馬の世話。
そしてもう一つは銃の訓練であった。
馬の世話と同様、その訓練を開始したのはシンジが物心つくかつかないかの頃からである。
週一回、ユイはシンジを連れて荒野に出かけ、そこで銃の訓練をシンジにさせた。
このことは母子二人だけの秘密であった。ブルークリークの住人達、ジャックやキャロラインすらも知らない。彼らには荒野に出かける理由を薬草を摘むためだと言ってある。シンジは嘘をついている様で気が咎めたが、母のユイがかたく口止めしていたので、罪の意識を感じつつもそれに従った。
訓練の教官はユイ自身が務めた。
厳しい教官であった。いつもは優しい母が、この時だけは別人の様に厳しくなる。
そして有能な教官でもあった。彼女がどこでこれらの技術を修得したのか・・・、それはシンジも知らない事であったが、その銃の知識と腕は相当のものであった。銃の取り扱いや構造について、わからないところをシンジがユイに尋ねると、彼女はすぐにその答えを彼に授けた。しかもその答えは正確無比で、間違った事は一度もなかった。
銃の腕についてもそうだ。
幼い頃からこれまで銃の訓練をし、それなりの自信を持ったシンジから見ても、その腕は相当なものであった。
それを証明する事例としてこんな事があった。
シンジが10才の時の話だ。
いつものようにシンジを訓練に連れ出したユイが彼にこう言ったのだ、
『テストをしましょう』、と。
「テスト?」
幼いシンジが母に尋ねる。
「そうよ、拳銃の抜き撃ちのテスト。」
「どうするの?」
「今から母さんがこうやって手を打つから・・・・・」
ユイがその両手を胸の高さまで持ち上げ、それを肩幅よりも少し広めに開き、そして胸前で手を叩いてみせた。
手を叩く速さは、特に速い動きをしようと意識したものではない。
速すぎず、かと言って遅くもない。
普通の人が胸前で手を叩く時、自然にするような動作をユイはした。
「シンジは母さんの正面に立って、母さんがこうやって手を打つ間に、拳銃を抜いてそれを両手の間に差し入れるの。」
「・・・・・・・」
「もし母さんの両手の間に銃を差し込むことが出来れば合格、それが出来なくて母さんの手が鳴れば不合格。だけど一つルールがあるわ。シンジは母さんの手が動くまで、拳銃に触ってはいけない。母さんの手が動きだしたのを合図に、このテストは始まることにします。どう?やってみる?」
母の説明を受け、シンジはしばらく考えた。
今のユイの手の動き、それはそう速いというものではなかった。
もっと素早くユイが腕を振っていたとしたらとても出来ないだろうが、今のような速度であればなんとか・・・・・
幼い頃から訓練を続けてきて、最近は銃を抜く速度にもそれなりの自信が持てるようになってきている。それを考えると、ユイが手を打つ間になんとか銃をその間に差し込むくらいは出来そうな気がする。
シンジは決心した。
「やってみるよ。」
「そう、じゃ母さんの前に立って。」
シンジはユイのすぐ前に立ち、二人は向かい合った。
既にシンジの腰にはガンベルトが巻かれている。
「じゃ、いくわよ。」
ユイが両手を胸前で広げた。
シンジがやや腰を落とし気味にして構え、母の手を見つめる。
パン!
あっけないほど簡単にユイの手が鳴った。
「え・・・・・」
小さな驚きの声を上げるシンジの目の前で、母の両手が合わさっていた。
シンジの銃は腰のホルスターに収まったままである。
そのグリップにシンジの右手がかかっていた。それを引き抜こうとした瞬間に、母の手が鳴ったのである。
「そんな・・・・」
呆然とした表情でシンジがつぶやく。
そんなはずはないと思った。こんなはずはないと。
やる前にイメージしたのでは、絶対に自分の銃が母の両手の間に挾まれているはずだった。ゆっくりと母の手が動く間に、自分は銃を抜いてそれを持ち上げる事が出来る。そのはずだった。しかし今、実際に母の手は鳴り、銃はホルスターの中にある。
どうして・・・・
疑問がシンジの頭の中に渦巻く。
母の手の動きはさっきと同じだった。ゆっくりとした自然な動き・・・・
それで抜けなかった・・・・・、どうして・・・・・
「納得が行かないようね?」
そんなシンジをユイが見て言った。
「もう一度試してみる?」
シンジがうなずき、再び構える。
ユイが手を広げた。
「いくわよ」
今度こそ・・・。
気合いを入れてシンジが母の手を見つめる。
パン!
再び母の手が鳴った。
シンジの銃はホルスターの中である。さっきと同じ結果だ。
「・・・・・どうして?」
呆然と、先ほどから頭の中に渦巻いていた疑問がシンジの口をついた。
「トリックがあるのよ。」
ユイが言った。
「トリック?」
「シンジ、あなたは今こう思っているでしょう。こんなはずはない。自分の方が速いはずだって。」
シンジの心を見透かした様に言うユイに、シンジはうなずいてみせた。
「でもね、その考えはある意味であってるんだけど、ある意味では違っているの。」
「・・・・?」
「答えを教えてあげてもいいけど、その前に身をもって正解を出した方がいいわ。もう一度構えてみなさい。」
二人は再び向き合い構えた。
「ただし今度はシンジが好きな時に始めていいわ。シンジの手が動くまで、母さんは手を動かさないでいるから。」
シンジがうなずく。
そして・・・・
シンジの右手が銃にのびた。腰の拳銃を引き抜き胸前へ・・・・
手を打つ音は聞こえなかった。
シンジの瞳に、自分の差し出した銃が母の両手に挟みこまれている光景が映っていた。
その光景を見つめるシンジの表情に、何がしか思いあったったような表情が浮かんだ。
「わかったようね。」
ユイの言葉にゆっくりとシンジがうなずいた。
「相手が動いたのを見てから自分が動き出すまでの時間・・・・」
「そう。人間の体は物事を認識してからそれを行動に移すまでに時間がかかる。ふだんは気にも留めないようなほんの少しの時間だけど、その間は体が動かなくなってるのと同じ。今みたいな短い間の出来事なら、そのほんの少しの時間でも確実に遅れてしまう。」
「・・・・・・」
「実際シンジの抜く速度はそこそこのものよ。普通の人だったら、自分から始めても、手を打つ間に銃を差し入れるなんて簡単には出来ないから。」
「・・・・・・」
「でもそれだけではだめ・・・。それでは拳銃を撃つ技術、攻撃のための技術がうまくなっただけ。拳銃を出来るだけ撃たないで済せる、守るための技術が備わってない。」
「守るための・・・・技術・・・・?」
「そう、自分からは決して撃たない。相手が先に抜いても、自分を守ることが出来る技術。それがシンジには必要よ。」
「・・・・・・」
「さ、テストは終わり。訓練を始めるわよ。」
「・・・・・・・・・・・・どうしてなんだい、母さん?」
母の言葉を聞き、しばらく考え込むように下を向いていたシンジが不意に言った。
「どうして僕にそんな技術が必要なの・・・・? わからないよ。だって僕は銃なんて持たないもの。こうやって母さんと訓練してる時以外は、手の届くところにも置いておかない。それなにどうして僕にそんな技術が必要なんだい?」
「・・・・・・」
「・・・・・どうして・・・・、母さんは僕に銃を教えたんだい?」
「言ったでしょう、これはテストだって。」
質問には答えず、ユイが静かに言った。
「お前がこのテストに合格すれば、その理由を教えてあげる。」
「そんなの・・・・ずるいよ・・・」
「ずるい? 何が?」
「だってそうじゃないか、そんな、相手が抜いたのを見てから相手よりも先に抜くなんて出来るはずないよ・・・・」
「・・・・・ガンベルトを貸してごらんなさい」
「え・・・・」
「今から母さんが見せてあげる。一度だけね。ただしもし母さんがうまく出来たのなら、何も言わずに訓練を続けなさい。いいわね。」
「・・・・・・もし・・・母さんが出来なかったら?」
「その時はお前の好きにすればいいわ。もう訓練を続けたくないと言うのならそれもよし。何故銃をお前に教えたのか、その理由を聞きたいのならそれを教えてあげるわ。」
「・・・・・・」
シンジがガンベルトをはずし、それをユイに手渡した。
それをユイが身に付け構える。
二人が向き合った。今度はさっきと逆。シンジが胸前に手を広げ、それをユイが見つめる。
「いくよ。母さん。」
それにユイがうなずく。
数瞬の時が流れ、不意にシンジの手が動いた。
それと同時にユイの手が腰の拳銃にのびる。
電光のスピードで拳銃が引き抜かれ、そしてそれは光跡を引きつつ、シンジの手が動く軌道へと疾った。
次の瞬間、シンジはその掌に冷たい金属の感触を感じていた。
ユイの抜いた拳銃が、見事にシンジの両手の間に挟みこまれていた。
その光景を呆然と見つめるシンジに、ユイが静かに言う。
「約束よ。さあ訓練を始めましょうか。」
時は流れて・・・・、シンジは14才になっていた。
そして、母との銃の訓練はなおも続いていた。
いつものように荒野に出かけ、この日も抜き撃ちの訓練を行っていた。
腕を組んで立つユイの前で、シンジが銃を引き抜いてその銃口を彼の正面の空間に向ける。その動作を、繰り返し反復して行っていた。
シンジの銃を抜く速度は4年前、母にテストされた時よりもさらに速くなっていた。
なんの予備動作もせずに右手だけが動き、瞬きをする間に拳銃がその手に握られている。
4年前と変わったのはそれだけではなかった。銃を吊るす位置もこの4年間で変化していた。それまでは右の腰にホルスターを着けていたが、今ではそれが左足の太股の部分に移されている。
シンジが自分で工夫してこうしたのだ。
「もっと速く!」
シンジの姿を見つめるユイが鋭い声をかける。
その声がかかる度に、シンジの銃を抜く速度が上がる。
「もっと速く!」
「クッ!」
シンジは母の声に応えようと必死で銃を抜く。
その速度が限界まで高まった。
そして・・・
「もういいわ・・・」
いつになく、優しい声でユイが訓練の終了を告げた。
ホッとして息を吐くシンジ。その姿を見て、ユイが感慨深げにつぶやく。
「上手くなったわね・・・、シンジ。」
自然にシンジの顔に笑みが浮いた。
「初めてだね・・・。こうやって銃で母さんに褒められるの・・・・。」
母を見つめてシンジが言う。
「そうね・・・。」
そう言ってユイが微笑んだ。何故か・・・、その笑みはひどく寂しげにシンジには見えた。
「シンジ・・・、4年前のあのテストの事、まだ覚えている?」
「うん。」
「で、どう。今ならあのテストに合格する自信はある?」
「さあ・・・わかんないよ。」
「やってみましょうか。」
そう言ってユイがシンジのすぐ前に立った。
「・・・・・・・・」
その姿を見つめるシンジの胸に、どうしても聞いておかねばならない疑問がわだかまっている。
「・・・・・母さん、あの時言ったこと・・・・、覚えてる?」
「ええ・・・覚えてるわ。」
「・・・・もし僕がこのテストに合格したら・・・」
「ええ、その時はあなたが聞きたいことをみんな話してあげる・・・」
「・・・・・・・・なら、やるよ。」
シンジが構えた。
ユイが胸前に手を広げる。全ては4年前のあの時と一緒だ。
シンジの脳裏にその時の光景が浮かんだ。あの時、自分は銃を抜けなかった。でも今は・・・・・。
呼吸を整え、シンジはユイを見た。
何も考えない。ただ無心にそこに立つ。全身の力を抜いた。
しばらくして、ふいにユイの手が動いた。
いや、シンジには動いた様に感じられた。
と同時に流れるような動きでシンジの手が銃にのび、それを引き抜く。
・・・・そして、手を打つ音は聞こえなかった。
シンジの銃が見事にユイの手の間に挟みこまれていた。
「やった・・・・」
シンジが小さくつぶやく。喜びがその体の内から込み上げてくる。小さな頃からの鍛練が、一つの成果として結実した瞬間だった。
「やったよ!母さん。」
笑みを浮かべてシンジが母の顔を見上げた。
「そうね。」
しかし、そう言う母の顔には、深い悲しみの表情があった。
「どうしたの、母さん・・・・?」
「なんでもないわ・・・・、それよりも約束だったわね。」
「う、うん。」
なんとなく違和感を感じつつシンジがうなずく。そのシンジにユイが言った。
「でもその前に一つ、お前にやってもらいたいことがあるの。」
「ええ!そんな・・・」
「心配いらないわ。そんなにたいした事じゃないから。」
抗議に声をあげるシンジを制し、ユイはある一点を指さした。そこにシンジ達がここまで来るのに利用した馬がつながれていた。シンジが幼い頃から世話をしている馬だ。
「撃って。」
なんの感情も含まれない無機質な声でユイが言った。
「え?」
「あの馬を撃ちなさい。帰りは歩きになるけど、かまわないわ。」
「・・・・・」
あまりの唐突な出来事に、シンジは驚くよりもむしろ呆れていた。母の悪い冗談かと思った。
「な、なに言ってるんだよ。やめてよ、冗談にしてもたちが悪いよ・・・」
苦いものを含んだ笑いを浮かべながらシンジが言った。シンジは思っていた、その笑いにつられて母が笑いだし、『今言ったのは冗談よ』と言うことを。
「冗談を言ってるつもりはないわ。母さんは本気よ。」
ユイは笑わなかった。その表情に、母が本気であることをシンジは敏感に感じた。その背中に戦慄がはしる。
「・・・・・う、嘘だろ、母さん・・・・。嘘だよね・・・・」
「これがあなたの最後のテスト・・・。本当のね・・・・・」
「そんな・・・・・」
「何を驚いているの。さっきも言ったでしょう。そんなにたいした事じゃないって。お前があの馬に銃を向け、引き金を引く。それで全てがすむのよ。」
「ど、どうしたんだよ、母さん・・・・・」
自分の咽から絞り出されるしわがれた声が、まるで他人が喋っているかのようにシンジは感じた。
信じられなかった。今、目の前に立っているのが、あの優しい母であるとはとても思えなかった。ブルークリークの町で、医者として病に苦しむ人々を救うために懸命に闘ってきた母が、そんな言葉を吐くとはとても信じられなかった。
「いったいどうしちゃったんだよ、母さん!」
「あなたこそどうしたの、シンジ。何をさっきからそんなに驚いているの? あなたの手にしているのは何? 人を撃つための道具よ。その使い方を練習してきて今更何を驚く事があるの?」
『人を撃つための道具』、その言葉がシンジの胸に衝撃を与えた。
「今までその腕を磨いてきて、実際にそれを使う時、躊躇してどうするの? そんなもの、なんの役にもたちはしないわ。」
きっぱりと、ユイが言い切った。
「お前のその甘さを・・・・、ここで断ち切りなさい。」
その後、長い沈黙があった。
やがて・・・・・・
「・・・・・母さん・・・、母さんは僕に・・・・、僕に人を傷つけさせるために、銃を教えたのかい?」
消え入りそうな声でシンジが聞いた。
「あの馬を撃ったら、その答えを教えてあげる。」
「・・・・・いいよ。」
シンジがつぶやく。
「もういいよ・・・・・。そんな答えなんかもういらないよ。」
そう言って、シンジが腰のガンベルトに手をかけた。やがてガンベルトが外れ、それが地面に落ちた。そしてそれをその場に残したまま、母に背を見せシンジが重い足どりで歩きだす。
「どこへ行くの?」
「・・・・帰るんだ、家へ・・・・。もう・・・銃の訓練も嫌だよ・・・・」
足を止めずにシンジが答える。
「待ちなさい!」
ユイのその一言が、シンジの足が止めた。静かな声であったが、今までシンジが聞いた事のないような、威圧感に満ちた声であった。
「シンジ、ここから逃げて帰ることは母さんが許さない。もし母さんの言うことが聞けないのなら、もうお前は母さんの子じゃない。このまま帰ったところで家の中には入れない。どこへでも好きなところへお行き。」
呆然とシンジが振り返った。
そこにまるで幽鬼のように立つ、母の姿があった。
その姿をシンジが脅えた様に見つめ、後ずさる。
悪夢を見ているようだった。
考えるよりも先に体が動いた。
次の瞬間、シンジは振り返ると、一気に走り出していた。彼の脳裏を、ここから逃げ出したいという欲求だけが満たしていた。
次の瞬間、シンジの足元を何かがかすめ、地面が弾けた。
荒野に轟音が響いている。
それが・・・・・、ユイが自分の足元めがけて撃った弾丸であると気付くのに、しばらくの時間を要した。
「言ったでしょう。ここから逃げたら許さないと。」
呆然と振り返るシンジが見たものは、シンジが捨てた銃を拾い上げ、それをシンジに向けて構えている母の姿だった。
「さあ、こっちへ来て銃を取りなさい。」
銃口をシンジに向けながら、ユイが言った。
しかしシンジは動かない。いや、動けなかった。
その足がガクガクと震えていた。
恐怖が全身を支配していた。
逃げることも、母の元に行く事も出来ず、その場に立ちつくすことしかシンジには出来なかった。
「お前が来ないなら、母さんからそっちに行ってあげる。」
ユイがそう言い、ゆっくりとシンジに向けて歩き出した。
「ヒ・・・・・」
小さな悲鳴がシンジの口からもれた。
怖かった。
ゆっくりと近づいてくる母の姿が怖かった。恐ろしかった。これまであれほど慕っていた母の姿が、人間以外の者の姿に見えた。
逃げ出したかった。
たまらなく逃げ出したかった。
このまま後ろを向いて、悲鳴を上げながらわき目も振らずに逃げ出したかった。
しかし・・・・、そうすれば母に撃たれるかもしれない・・・・
その恐怖がシンジをその場に釘付けにした。
ユイが一歩一歩シンジに向かって近づいてくる。
その姿を、シンジは目を背けることも出来ず、ただ見つめるより他なかった。
そして・・・・、シンジの目の前に、ユイが立った。
シンジの恐怖がピークに達した。
髪が逆立ち、その全身は震え、脅えた目でユイを見上げた。
「さあ、銃を取って。」
ユイがそれを差し出す。
しかしシンジは銃を取らない。いや、それを取ろうと手を伸ばすことが出来ない。
それを見て、ユイがシンジの手を取った。その震える手を強引に開かせ、シンジに銃を握らせた。そしてその震える肩に手をやり、シンジの体を馬の方に向けると、銃を握らせた右手を馬の方に向けて構えさせた。
「撃ちなさい。」
その母の言葉を、シンジはカタカタと鳴る自分の歯の音の向こうに聞いた。
前を見た。
自分の差し出す震える銃口の向こうに、馬が見えた。
馬はシンジを見ていた。
今、自分に起ころうとしている事態を知るよしもなく、その無垢な瞳がシンジのことを見つめていた。
視線が合った。
胸が張り裂けそうだった。
撃てる筈がなかった。
幼い頃から自分が世話をし、情も移っている。これまでに馬と過ごした記憶が走馬灯の様に、シンジの脳裏を駆け巡っていった。
でも、撃たなければ・・・・、自分は母に捨てられる。
これほどの恐怖を感じているのに、シンジはその母に捨てられるのが怖かった。
母に逆らうのが怖かった。
その恐怖がかろうじてシンジの体を支え、銃を構えさせている。
しかし・・・・・
銃が震える。腕が震える。体が震える。足が震える。
心まで震えていた。
見開いた瞳に、馬の姿が焼きつく。
その無垢な瞳が不思議そうに、震える主人を見つめている。
「グッ・・・・」
堪らずに、シンジは目を閉じた。そして引き金にかかった指に力を込めようとする。
出来ない。
震える奥歯を噛み、全身に残っている力をその指にかけようとする。
閉じたまぶたの裏に、見えないはずの馬の姿が映った。
その瞳がシンジを見ている。
出来ない。
閉じられたシンジの目尻から、とめどもなく涙がこぼれ落ちた。そしてその口からは、いつしか嗚咽がもれ始めていた。
ゆっくりと・・・・・シンジの膝が折れた。
地面の上に正座をするような格好で座り込む。銃を突き出していた両手が下がり、銃が膝の上に乗った。その銃の上に、ぽつぽつと雫が落ちる。シンジの頬を伝わる涙であった。
「グッ・・ガ・・・・」
伏せられたシンジの顔から、嗚咽の声がもれる。
大地の上に座り込んだまま、シンジは手にした銃を膝の上に置いて泣き伏していた。
長く、長く、泣いた。
どのくらい時間がたったろう・・・・
「もう・・・いいわ。ごめんなさい、シンジ。」
ユイの声が聞こえた。その声は先ほどとは別人の様に悲しみと優しさに満ちていた。
「もう、いいわ。許してシンジ。」
そう言ってユイが座り込む我が子を抱きしめた。シンジの頭を抱え、それを自分の胸に埋めさせた。
「ごめんなさいシンジ・・・。私にはわかっていた。あなたが撃てないということを・・・、あなたが苦しむということを・・・・。でも、それでも私は、母さんはやらなければならなっかった・・・・、お前に教えなければならなかった・・・・、銃が持つ痛みと苦しみを・・・。・・・・・私にはもう・・・・あまり時間が残されていないから・・・・。」
そう言うとユイはシンジが握っていた銃を取り上げた。そしてポケットから火薬の入った袋を取り出し、シリンダーの中に多量の火薬を押し込んだ。そして銃口に、転がっていた小石を詰め、撃鉄を起こしてそのまま遠くに投げた。
地面に銃が落ち、その衝撃で撃鉄が落ちる。銃身が破裂した。銃口に詰められた小石によって、シリンダー内のガス圧が限界を超えたためだ。
「よく聞いて・・・、シンジ。母さんはあなたに銃を教えた事を後悔している。銃を手にするには、あなたはあまりにも優しすぎる。その優しさはいつかあなたを苦しめる、あなたを滅ぼす・・・・。だからこれから先、もうあなたは銃を手にしちゃいけない。いつか運命が・・・・、あなたの運命があなたに銃を持つように仕向けたとしても、あなたは決して銃を持ってはいけない。約束して、シンジ。」
ユイはそう言うと、まだ泣き崩れるシンジを立たせ、馬の方へと供に歩きだした。
深い暗闇の底から体が浮かび上がってゆくような感覚・・・・
シンジは目を覚ましていた。開いた瞳に、夜明け間近の薄暗い空が映っていた。東の空はすでに輝き始めている。
首を傾け周囲を見ると、焚火の火がくすぶっており、その前でミサトがライフル銃を枕もとに置いて眠っているのが見える。
シンジは再び首を巡らせ、空を見上げた。
『その次の日だったな・・・・、母さんが死んだのは・・・』
シンジは思った。その最後のテストがあった翌朝、碇 ユイは帰らぬ人となったのである。
その時はわからなかった母の行動も、母の言葉も、今となってはなんとなくわかるような気がシンジはした。
もしかしたらユイは、シンジがこうして旅に出ることを、あらかじめ予想していたのかもしれない。ゼーレの総帥であるゲンドウの息子。その自分が何らかの危険にさらされることを、ユイは予見していたのかもしれない。
だからこそ、幼い頃からシンジを鍛え、そして銃の訓練をさせたのかもしれない。
そしてわかっていたのかも・・・・・
シンジの身に危険が及ぶとき、自分はすでにこの世にはないことを・・・・・
だからこそユイはシンジに、自分の持つ技術を伝えたのでは?
全てはシンジの憶測であったが、現実に今、シンジはその技術を必要とする事態に陥っている。
しかし・・・・
『これから先、もうあなたは銃を手にしちゃいけない。』
そう言った母の言葉がシンジの脳裏に甦る。
持ってはいけない。持てばそれを使う時がきっと来る。その時、自分はあの時と同じ苦しみを味わわねばならない。
その時、自分は撃てるだろうか・・・・
シンジは自問する。いくら自分の命を狙ってくる者といっても、それをこの手で撃てるだろうか・・・・
あの時・・・・、馬に銃口を向けた時に感じた苦しみ、命を絶つという重さ・・・
それに自分は耐えられるだろうか・・・・・
『死んだら怒ることも出来なくなるのよ。』
そう言ったミサトの言葉が甦る。
確かにそう・・・・、ミサトの行動にあの時自分は怒りを感じたが、ミサトの立場からすればああ言うのは無理もない。全てはシンジの身を案じてのことだ。
そう言えばミサトさんとも、あれから口を聞いていない・・・・
シンジは思う。
どうする? このまま本当の事をごまかしたままにするか?
それとも真実を話すべきか?
シンジがそう考えていると、近くで物音がした。
それは小さな音だった。草の葉が擦れあうときに出るような音。ふだんなら、風が引き起こすそうした音と区別出来ないような、些細な音だった。
しかし、この時は違った。周囲が静か過ぎた。耳に、草原を渡る風の音は聞こえてこない。
それが証拠に、今まで眠っていたと見えたミサトが、枕元のライフルを掴んで跳ね起きたではないか。
ミサトは跳ね起きると、腰を屈めたまま素早くシンジの元に走り寄った。そして、すでにシンジの目が覚めていることを彼女は知ると、シンジの耳元に唇を寄せ囁いた。
「周りを見てくるからここにいて。もし何かあったら・・・、出きるだけ足を狙って。」
そう言ってシンジに持っていたライフルを渡した。
「ミサトさん・・・」
シンジが何か言いかけたが、その時には彼女はすでに腰の拳銃を引き抜き、闇の中に腰を屈めて飛び込んで行っていた。
薄暗い闇の中に残されたシンジは上半身を起こし、そしてその手に握らされたライフルを見た。既に弾丸は込められている、後は撃鉄を起こして引き金を引けばいいだけだ。
撃つのか? 本当に撃つのか?
ライフルを見つめ、シンジが自問する。
『もうあなたは銃を手にしちゃいけない。』
母の言葉が甦る。
その時・・・暗闇に銃声が響いた。
シンジが驚いて、身をすくませる。
『今のは? ミサトさん? それとも敵?』
緊張がシンジの全身を満たした。
『ここにいちゃいけない。』
シンジの本能がそう告げ、彼は素早く近くにあった木の根本に移動した。その木を背中にして座り、周囲の気配をうかがう。
周囲は静けさに満ちていた。先ほどの銃声が嘘のように静まり返っている。
その静けさの中、シンジは自分の心臓が早鐘の様になるのを感じていた。
ミサトの安否、見えない敵への恐怖、銃を撃つことに対する恐怖。それらがシンジの全身を這い回っている。
『撃つのか? 本当に撃つのか?』
その静けさの中、シンジが自問する。ライフルを握る手が震えた。
その時・・・・
シンジの前方で音がした。
シンジが目を凝らして見ると、闇の中に何かが動いているのが見えた。
そしてそれはしばらくすると、はっきりと人の形としてシンジの目に映った。
男だ。鐔広の帽子を被った、長い髪を後ろに垂らした男がそこにいた。男は何かを探しているようだった。あたりを注意深く探り、慎重に足をすすめている。そしてその手に拳銃が握られているのを、シンジは見た。
男はまだシンジに気付いていないようだ。
男の行動を見つめるシンジの体が震えた。
その間も男は一歩一歩シンジに近づいて来る。
どうする? どうする?
自問の声がシンジの脳裏に渦巻く。
そして男が約5メートルの距離に近づいた時、耐えられなくなったシンジは行動を起こした。
「う、動くな!」
上ずった声を張り上げて、シンジが銃口を男に向けて構えた。
男は暗闇の中からいきなり声がかかって一瞬動きを止めたが、それが子供の声であることに気付くと、平然とその声のした方に向き直った。
男とシンジの視線が合う。
「そんな所に隠れてたのか・・・・」
平然と男が言う。その手に拳銃は握られているが、その銃口はシンジの方を向いていない。シンジのライフルが自分に向けられていることに気付いたからだ。しかし、だからといって男に怯んだ様子はない。むしろ自分に銃口を向けた少年が、今後自分をどういなすのか、その事に興味がありそうな様子である。
「動くな・・・・、動くと・・・・・・・撃ちます。」
シンジが再び言う。
「威勢がいいな・・・・、と言いたいところだが声が震えてるぜ。おまけにその銃口もな。」
男が笑った。
「そんなに震えてちゃあ・・・当たるものも当たらないぜ・・・・。」
そう言って男がシンジに近づいてきた。その銃口は以前下げられたままである。
「く、来るなあ!」
悲鳴の様にシンジが叫ぶ。しかし、男の前進は止まらない。
「人を撃つのは初めてかい、坊や?」
そう言って男が平然と歩いてくる。
シンジが後じさった。その背が木の幹に当たる。
「おい、そんなに逃げるなよ。これから命の取り合いをしようってんだ。仲よくしようぜ・・・・」
「ヒ・・・」
シンジが小さな悲鳴をあげた。それを見た男がまた笑った。
ゆっくりとその拳銃を持ち上げ、シンジを狙った。シンジの銃口は以前より男を狙いつづけているのだが、それが何の威嚇にもなっていない。
「死ぬ前に一つ教えといてやるが・・・・、抜かない剣は怖くない。撃てない銃も怖くない。」
男がつぶやく、シンジは必死に引き金を引こうと指に力を込めるのだが、どうしても引けない。恐怖が全身を這いまわった。
「坊や見たいなのは銃を持っちゃいけなかったのさ。恨むなら、引き金を引けなかった自分を恨むんだな。」
そう言って男が引き金にかかる指に力を込めた。
思わずシンジが目を閉じる。
轟音。
しばらくして目を開けたシンジが見たものは、肩口を射ぬかれ、傷口を押さえて転げ回っている男の姿だった。そこに銃を構えたミサトが走り寄ってくる。
ミサトは転がっている男の元へ行き、無言で男に銃を突き付けた。
「た、助けてくれ・・・、た、たのむ。」
「勝手なことほざいてるんじゃないわよ。」
「わ、悪かった。この子を殺せば大金が手に入るって噂を耳にして、つい。勘弁してくれ、もう金輪際悪事は働かねえ。本当だ!」
男が喚く。
「それを信用しろっての?」
「お、俺を殺すのか? この坊やの目の前で殺すのか? そんな事が出来るのか? こんな子に銃を持たせやがって。てめえのドジの腹いせを俺でしようってのか。この女ぎつね。よう坊や気を付けな、こんな女に付いて行ったら命が幾つあっても足りやし・・・ガガ・・・。」
男の喚く声が途中で聞こえなくなった。ミサトがその拳銃を男の口に押し込んだからだ。
「そのよく動く口、ずっと喋れない様にしてやる!」
そう言ってミサトが撃鉄を起こした。男が涙を浮かべて懇願する様な視線でミサトを見るが、彼女は容赦しない。冷徹な瞳で男を見ている。
「ミサトさん!」
シンジが叫んだ。
ミサトが何かに耐えるように、歯を噛む。
「どこへでも行きなさい。二度と私の前に現れるな。」
忌ま忌ましそうに男にそう吐き捨てると、ミサトは男の口に押し込んでいた銃口を引き抜いた。男が跳ね起き、ホウホウの態で逃げ出していった。
その姿をミサトはしばらく見つめ、そしてシンジを振り返った。シンジを見つめるその瞳に、怒りの色が見える。
「一体今のはどういう事? 運よく無事でいられたけど、もう少し私の来るのが遅かったらどうなっていたかわかってるの?」
「・・・・・・」
「此の期に及んで、まだ自分は銃を撃てないなんて言うんじゃないでしょうね?」
「・・・・・・」
「・・・・何とか言ったらどうなの?」
「・・・・ごめんなさい。」
ミサトがシンジに詰めより、その胸倉を両手で掴み、強引に引き立たせた。
「甘ったれてるんじゃないわよ! アンタの命なのよ! 他の誰でもない、アンタが狙われてるのよ! 本当に撃つ技術がないならまだしも、どうして撃とうとしないの!」
ミサトが強い視線でシンジを睨み据える。その視線を避けるように、シンジが顔を背けた。
「・・・・・・撃てないよ・・・」
ぽつりとシンジがつぶやいた。
「撃てないよ・・・・そんな・・・。人が死ぬんだよ・・・・。命を奪うんだよ・・・・。そんなこと・・・・僕に出来るはずないよ・・。」
「それじゃ、黙って敵に撃たれるっていうの?」
「・・・・・」
「黙って敵に殺されるっていうの?」
「・・・・・・・人を殺すよりは・・・・、そっちの方がましだよ・・・。」
その言葉をシンジが吐いた時、ミサトがいっそうその両の手の力を込め、シンジを引き寄せた。そして怒りに顔を歪めながら、顔を背けるシンジに何か言おうとした。が、結局、何も言えずにその手を放した。
シンジの体が地面に落ちる。
ミサトはそんな地面に座り込むシンジに目もくれず、踵を返して自分達の馬をつないだ場所に向かって歩きだした。
「出発するわよ。支度しなさい。」
足を止めずに、無感情な声でミサトがシンジに告げる。
「悪かったわ。あたしの間違いだった。もうあなたに銃を持たせるのはやめる。そのかわり今後はずっと私の背中に隠れていることね。でないと死わよあなた。確実に。」
そう言い残して立ち去るミサトの後ろ姿を、シンジは見ることが出来なかった。
嫌われた・・・・
軽蔑された・・・・
シンジはそう思った。それが当然だと思った。
結局・・・、僕は意気地無しで・・・、駄目な奴なんだ・・・・
ブルークリークでは母さんの・・・・、そして今はミサトさんの庇護の元でしか何も出来ない・・・・・・、そんな駄目な奴なんだ・・・・・
地面に座り込むシンジに猛烈な自己嫌悪が襲った。
銃を向けられても震えるしか能のない・・・・・
引き金を引く勇気もない、駄目な男なんだ・・・・・
そんな蔑みの感情がシンジの体をさいなむ。
その耳に・・・、ミサトの足音が次第に遠ざかって行くのが聞こえる。
うつ向くシンジの頬をいつしか涙が伝い、そしてそれはやがて地面へと落ちていった。