The West End of Eden

第七話 彷徨


荒野に昇る朝陽が、東の空を紅く染めていた。

一筋の光りが地平線から覗き、荒野にたたずむミサトの横顔を照らしている。

うつ向いたその美しい横顔に、何故か疲れた様な影が濃い。

彼女が見つめる視線の先、その足元の地面に文字が書かれていた。

"Please don't look for me. (捜さないでください。)" 、と・・・・

そこは昨晩、シンジが毛布をまとって横になっていた場所であった。

彼女のそばにいるべき、そして彼女が擁護すべきその少年の姿はどこにもない。

見渡すかぎりの大平原のただ中、ポツンと取り残された様に、ミサトは独りたたずんでいた。

「家出・・か・・・・、無理もないわね・・・・。」

深い溜息とともに、そんなつぶやきがミサトの口からもれる。

考えてみれば思い当たるフシは幾つもあった。

あれから・・・・・

昨日、刺客に銃を向けながら、それを撃つことが出来なかったシンジをミサトが叱責してから・・・・

シンジはミサトを避けるようになった。

シンジの方から声をかけることはなくなり、それ以外は必要最低限の言葉しか交わしていない。馬を進める時もある程度距離を置き、食事も離れた所でとっていた。

二人の間のなごやかな雰囲気は消え、ただ黙々と荒野を進んだ。

結局、そうして一日が終わった。

その間、ミサトはそんなシンジの変化にあえて干渉しなかった。

例えしたとしても・・・・、事が好転するとも思えなかったからだ。

まだ14才の子供といっても、自我が無いわけではない。黙っていたい時には、黙っていていいし。離れていたい時には、離れていていい。それぐらいの自由はある。

やがて時間が解決してくれる。

ミサトはそう考えていた。

それゆえ、いつもは自分の近くに寝床を作るシンジが、少し離れた場所に寝床を作っているのを見ても、ミサトは何も言わなかったし、咎めもしなかった。

敵に襲われた場合を考えれば、それが危険このうえない行為であるとわかってはいたが、敢えて目をつむった。

要は自分が注意を怠らなければ良いことだと、その時、ミサトは思った。

しかしそれが災いした。

明け方、不覚にも彼女は眠ってしまったのだ。

シンジを連れて旅をすること1週間あまり・・・・

その間、彼女の気が休まる時間はほとんどなかった。絶えず敵の襲撃を警戒し、シンジの行動を気にかけておかねばならなかったからだ。隙をみてある程度の睡眠と休養をとるようにしてはいたが、彼女とて人間である。神経の擦り減らないはずがない。疲れも当然出てくる。

それにシンジとのギクシャクした関係も、彼女の神経に負担をかけたのだろう。

ほんの一時、彼女の耳に睡魔が囁き、その瞳は閉じられた。

そして・・・・

再び目を開けたミサトの前から、シンジは姿を消していたのである。

悲しい・・・・、置き手紙だけを残して・・・・・

近くにつないでいたはずの彼の馬も、何処かに消えていた。

「守ってあげなきゃならない人に逃げられるなんて・・・・、とんだ護衛ね・・・。」

そうつぶやいて、ミサトがその顔を上げた。

見渡せど、その瞳に映るのは寂寥とした荒野のみ・・・・。捜しもとめる少年の姿は何処にも見えない。

耳を澄ませど、荒野を渡る風の音すら聞こえてはこない。耳の痛くなるような静けさが、彼女の周囲に立ちこめていた。

「行くあてだってないのに・・・・、いったい何処へ行こうって言うのよ・・・・」

誰に聞かせるでもなくミサトはつぶやき、そして再びその視線を下に向けた。

片膝を付き、大地に刻まれた文字をそっと指でなぞってみる。

この文字を書くとき、シンジはどんな思いでいたのか・・・・・

そう思うミサトの胸に、苦いものが込み上げてくる。

「・・・シンジの・・・・バカ・・・」

そうつぶやくミサトの声が、微かに震えていた。

 

ミサトのもとをそっと逃げ出した後、数時間と経たないうちに天候が崩れ、激しい雨となった。

シンジにとっては、旅に出てから初めて経験する雨である。

雨を避けようにも、見渡すかぎりの大平原の只中では、そんな場所すらなかなか見つけられない。

それにグズグズしていれば、ミサトに追いつかれてしまう事も考えられる。

仕方なく、シンジは降りしきる雨の中、馬を進めた。

その肩や背を、冷たい雨が容赦なく打ち付けている。

すでに季節は春になっていたが、大陸の気候はうつろいやすい。雨のひと降りが気温を一気に降下させ、夏でも旅人を凍死させてしまうことがある。

旅で体力の衰えた体に冷たい雨を浴びると、体温を維持できなくなってしまうのだ。

疲労凍死と呼ばれる現象である。

雨具を着てはいるが、長時間この雨にさらされて、もはやどれほどの役にも立ってはいない。シンジの体はすでに冷え切っていた。

馬も疲労しているのか、その足取りは重い。

時折、シンジは馬を止めて雨宿り出来そうな場所を求め辺りを見渡してみるが、それにふさわしい場所はいっこうに見つからない。

いや・・・・

そもそも何処へ行っていいのか、そのあてなどないのだ。

ブルークリークには今更戻れない。かといって、ミサトのもとを逃げ出した自分に、このまま一人で旅を続けられるとも思えなかった。どこにも行くあてなどない。ただこうして、何か得体の知れないものから逃げるだけ・・・・

周囲を見渡し終えた時、シンジの胸に去来するのはいつも、その冷徹な事実と不安だけであった。そして無言で馬の腹に踵を当て、再び黙々と馬を進める。その繰り返しであった。

暗い雨の荒野を、シンジは独り彷徨っていた。

やがて・・・・

どれほどの時間がたったのだろう・・・・・、シンジを乗せた馬はいつしか、荒野にたたずむとある町へとたどり着いていた。

 

それは暗く沈んだ感のある、小さな町であった。

重く垂れ込めた雲のせいもあろうが、灰色の荒野に浮かぶその町並みには、どこか重苦しい雰囲気がただよっていた。

それを確証づけるかの様に・・・・、その町中に人影は見当たらない。

目抜き通りを進むシンジの左右には、黒々とした家々が軒を並べているが、どれも固く窓や戸を閉ざしている。

中に人がいるのかどうか・・・・、その気配が感じられなかった。

物音ひとつ聞こえてこない。する音といえば、雨の音に混じってシンジの馬がぬかるんだ地面を踏む足音だけある。

そんな暗い町中をシンジを乗せた馬がトボトボと、重い足取りで進んでいた。

降りしきる雨は依然勢いを弱めず、馬上でうつ向くシンジを打ちつけている。

と・・・・・

不意にシンジの体が大きく揺らいだ・・・・・

と、思った刹那。

バシャ・・・・・、泥水を撥ね上げ、その体が地面に落ちた。

騎手のいないまま、馬が数歩進んで立ち止まり、自ら馬首を転じて主人のもとに戻ってきた。

その鼻先を、地面に突っ伏す主人の顔にスリつける。

しかし・・・・、その体にピクリとも動きだす気配はなかった。

あたりには依然、雨が地を打つ音が響いている。

まるで倒れる少年をあざ笑うかの様な、非情な調べのする雨であった。

 

.....何故撃たなかったのか?

・・・・・何故撃てなかったのか?

そう問う自分自身の声が、シンジの心の中に響いていた。

・・・・・・・・怖かったんだ。

その問いに答えるのもまたシンジの声だ。

・・・・・何故怖かったのか?

・・・・・それは・・・・・・、僕が臆病者だから。

『銃を手にするには、あなたはあまりにも優しすぎる。』

かつて、シンジにそう言ったユイの言葉が脳裏に浮かぶ。

・・・・・違う、違うよ母さん。僕は怖かったんだ・・・。ただ怖いだけなんだ。臆病なだけなんだ・・・・・。

『黙って敵に殺されるっていうの?』

『・・・・・・・人を殺すよりは・・・・、そっちの方がましだよ・・・。』

ミサトの問いにそう答えた自分の言葉が浮かぶ。

・・・・・違う、嘘だよ。みんな嘘さ。

僕は・・・・、僕はそんな人間じゃないんだ。

あの時、僕は銃を向けられて震えていた。怖かった。ただ怖かったんだ。だから震えていた。だから引き金を引けなかった。そんな・・・・、他人の事を心配するような、そんな人間じゃないんだ・・・僕は・・・・。

そのことを・・・・、そのことを僕は良く知っている。僕が臆病者だってことを、僕は良く知っている。知っているから・・・・、そんな・・・、そんな嘘をつくんだ。

その嘘を・・・・、僕が嘘を言っていることを・・・・、ミサトさんは知っている。・・・・知っているはずだ。

だから軽蔑された・・・

だから嫌われたんだ・・・

『シンジ君・・・・』

優しい微笑みをたたえて、自分の名を呼ぶミサトの顔が脳裏に浮かぶ。

・・・・知ってるさ。そうやって僕を呼ぶ心の内で、僕を嫌ってるんだ・・・・。

・・・・そうさ、そうに決まってる。

『シンジ君・・・・』

また声が聞こえる。

・・・・・・・だって怖いんだ。しかたないじゃないか!

『シンジ君。』

声は止まない。

・・・・・あの何でも見通した様な目が、何でも知っている澄んだ瞳が僕の事を見ている。

・・・・・その瞳が、臆病者と僕の事を呼んでいる。

・・・・やめてよ。やめてよミサトさん。やめてよ。

僕を・・・、僕をそんな目で見ないで・・・。

僕を・・・見捨てないで・・・・。

僕は・・・・・・・

シンジを見つめるその美しい唇が動く。

『運命と戦って、そして勝ちなさい。』

ハッ!

シンジは眼を開けた。

見開かれたその瞳に、見知らぬ天井が映っている。

窓から差し込むのどかな陽光が、部屋を白く染めていた。

シンジの知らない部屋であった。

呆然と・・・ベッドの上で身を起こそうとした途端、シンジの頭部を鋭い痛みが駆け抜けた。

思わず額を押さえてシンジがうめく。

なんだか体が熱っぽくてだるい。

シンジは額を押さえながらも、その記憶の糸を懸命にたぐっていた。

どうして自分がここで寝かされているのか? それに至る記憶が全くなかった。

訳のわからないまま、部屋を見渡してみる。8畳ぐらいの広さに、生活できるだけの簡単

な家具が並べらた、質素な部屋であった。部屋の主人の気質を反映してか、それら家財道具はきちんと片付けられている。

しばらくその光景をぼんやりと眺めた後、シンジはベッドを下り、少しふらつく足取りで窓に近づいてみた。部屋は2階に設けられたものであり、窓の下には通りが見えた。そして軒を並べた家々・・・・・。シンジの知らない町が、そこに広がっていた。

「おや、起きてて大丈夫かの?」

シンジの背後でドアの開く音がし、と同時に皺枯れた男の声が聞こえてきた。

振り向いてみると、部屋の入り口に小柄な老人が立ち、シンジのことを見つめていた。

その両手に、白い湯気が立ち上がる皿を乗せたトレイを持っている。

白いシャツを着、その上に茶色のチョッキを引っ掛けた老人であった。

その髪、髯、眉、どれもが見事に白い。

深い皺が刻まれた顔の中に、柔和そうな光りを湛えた茶色の目があった。

その柔らかな視線が静かにシンジに向けられている。

「もうそろそろ目が覚める頃じゃと思うて、食べ物を持って来たんじゃが・・・・・」

老人がその手に持ったトレイに視線を落とした。

「あ、あの・・・・・ここは・・・?」

「まあ話なら後じゃ。あんたもまだ病み上がりだし、ベッドで横になっとった方がいい。」

「で、でも・・・・」

「いいから。病人が遠慮なんかするな。」

「・・・・・は、はい・・・・じゃ・・・・」

少しきつめの言葉に、シンジは恐縮しながらそれに従った。

その間に老人は手にしたトレイをテーブルの上に置き、シンジが横になったベッドの脇に椅子を運ぶと、それに腰を下ろした。

「昨日のこと・・・・どうやら覚えてはおらんようじゃの・・・」

シンジの顔を見つめ、老人がそうつぶやく。

それに、シンジがうなずいた。

「昨日・・・・、あの雨の中、お前さんこの前の通りで倒れとったんじゃよ・・・・。凄い熱でな。それで部屋に運びこんで、このベッドに寝かせた・・・と、いう訳じゃ。」

体を打つ冷たい雨の感触が、シンジの脳裏によみがえった。

それが思い出し得る最後の記憶だった。

それにブルークリークの町を出てからずっと野宿続きだったので、その疲れが出たのかも知れない・・・・。

「そうだったんですか・・・・・。申し訳ありません・・・ご迷惑をおかけして・・・」すまなさそうにシンジが頭を下げた。

「礼には及ばんよ・・・、それよりも元気になって良かった。」

かぶりを振りながら老人が答える。

「わしゃソーントン。この町でしがないバーテンをやっとる。あんたは?」

「・・・・碇・・・・ シンジです」

「シンジか・・・・。いい名前だの。」

老人が微笑んだ。

「あの・・・・、ここは・・・・なんという町なんですか?」

「ロッククリークという・・。」

「ロッククリーク・・・・」

シンジがその名を口の中で小さくつぶやく。さりとて、生まれてからこれまで故郷のブルークリーク以外の町を知らないシンジにとって、それはどれほどの意味を持つ言葉でもなかった。

「知らない町へ・・・馬が勝手に連れてきたか?」

老人のその言葉にシンジの脳裏に衝撃が走った。

馬。そう言えばシンジが乗ってきた馬はどうなったのか?

老人はさっき自分が通りに倒れていたと言った。なら馬はいったい・・・・

「心配はいらん。ちゃんと馬小屋にいれて面倒見ておいた。倒れとったお前さんの側を離れようとせんかった・・・・賢い馬じゃ。」

その言葉にシンジがホッと胸をなで下ろす。

「そうじゃ、スープを作ってきたのを忘れとった。どうじゃな? 腹は空いておらんか?」

「・・・・はあ・・・・少し・・・・」

実を言うとあまり食欲は無かったのだが、老人の厚意を無にするわけにもいかない。

シンジは老人がテーブルから持ってきた皿を、無言で受け取った。

「・・・・それじゃお言葉に甘えて・・・・・、いただきます・・・・」

添えられたスプーンを取り、皿の中で湯気を立てているスープをひとすくいして、それを口に運ぶ。

「どうじゃな、味は?」

「美味しいです・・・・、すごく・・・・」

「そうか・・・・。」

その後しばらく、シンジはスープを口に運び、老人がその様子を微笑ましげに見つめるという光景が続いた。

「ところでの・・・・若いの・・・・」

しばらくして・・・・、やや固い表情で老人が切り出した。

「お前さんの格好や、馬の装備を見て思ったんじゃが、旅を・・・・しとったのか?」

スープを口もとに運ぶシンジの手が止まった。

「・・・・はい・・・・」

短い沈黙の後、シンジが短く答る。

「まさかあんたみたいな年の者が、独りで旅をするとも思えんが・・・・?」

「・・・・・・はい・・・・」

「連れの者と、はぐれてしまったのか?」

「・・・・・・いえ・・・・・」

「ならいったいどうしたって言うんじゃ・・・・?」

「・・・・・・」

シンジが答えに窮する。

「そうか・・・・訳有りってことじゃな。・・・・・・まあいいわい、別に無理して言うこともない。人に知られたくないことも・・・・有るもんじゃて・・・・。」

そんなシンジの様子を見て、老人が言った。

「・・・・すみません。」

「じゃがな、年寄りの愚痴と思ってもらって結構だが・・・・、どんなに嫌なことがあっても・・・・親に心配をかけてはいかんぞ・・・・。」

老人はシンジがどこかの町から家出してきたものとでも思ったらしい。そう言う言葉の中には、どこか子供を諭すような響きが感じられた。

「・・・・・それは・・・・ないです。」

ぽつりとシンジが答えた。その顔に少し、自嘲するような表情が浮かんでいた。

「どうして?」

「・・・・もう、いませんから・・・」

沈黙が二人の間に流れた。

「・・・・・そうか。悪かったな・・・」

「いえ・・・」

またしばし会話が途切れた。

「・・・・・それで・・・・、この先どこか行く所はあるのか?」

「・・・・・・・」

「・・・・・帰る所でもいいぞ・・・・」

「・・・・・・・」

「・・・・・・どちらも無しか?」

その言葉に、黙ってシンジはうなずいた。

「それはまた・・・・辛いことじゃの・・・・・」

老人が窓の外に視線を転じ、独り言のようにつぶやいた。

「・・・わかった。もう何も聞くまい。とにかく今はゆっくり休んで体をもとに戻す事じゃ。」

「・・・・でも・・・・それじゃ・・・・」

「さっきも言ったじゃろう。病人が遠慮なんかするな。それに年寄りの言うことは聞いとくもんじゃ・・・・。なに、ここには儂独りで住んどるからな、気兼ねする必要はない。」

「・・・・・・・・すいません・・・・。」

沈黙の後、シンジがペコリと頭を下げた。

「それじゃあ儂は下におるで・・・・、何かあったら遠慮なく呼んでくれ・・・・。」

そう言ってソーントン老人は部屋を出ていった。

閉じられた扉をしばらく見つめた後、シンジはベッドの上で上半身を起こし、窓から外を眺めた。

そこに、昨日とはうって変わった青空がひろがっていた。

その青空を眺めるシンジの脳裏にミサトの顔が浮かぶ。

あの雨を、ミサトはうまくやり過ごせただろうか?

今ごろどうしているだろう?

自分を捜しているか、それとも愛想を尽かしてどこかへ行ってしまったか?

そんな考えがとりとめもなく浮かんでくる。

その胸の中に、はっきりとした罪の意識があった。何も言わず、勝手に逃げてしまった事に対する罪。ミサトを裏切ったという罪の意識であった。

『どうするつもりだい、これから?』

心の底でそんな囁きが聞こえてくる。

「わからないよ・・・・」

シンジは声に出して、その問いに答えていた。

「わからない・・・・、本当にわからないんだ・・・・僕には・・・・。」

そうつぶやくシンジの瞳に、光り溢れる青空が映っていた。その青さがなんだかいつもより眩しいように、今のシンジには感じられた。

 

翌日の昼過ぎ・・・・・

「おい、もう起きてきて大丈夫なのか?」

カウンターの中でグラスを磨いていた老人が、階段を下りてくるシンジを見つけ、声をかけた。

「ええ、おかげさまでなんとか。」

シンジはそう言うと階段を下りきり、老人のいるカウンターへと近づいた。

あまり大きいとは言えない店内には、数人の客がいた。ある者はテーブルに座ってポーカーに興じ、ある者は黙ってグラスを傾けている。まだ陽はだいぶ高いのだが、何分娯楽の少ない辺境の地である、こういう手合いも半ば黙認されているのだ。

それらの男たちの視線が、シンジに向けられている。

辺境の小さな町によく見られる、他所者に対する固い視線であった。

「この子は儂の客じゃ。」

老人が男たちに声をかけた。その話し方からすると、皆この町のなじみであるらしい。

シンジが男たちに軽く会釈する。

何事もなかったように、男たちの視線がシンジから離れた。

「どうじゃ、ゆうべは良く眠れたか?」

カウンター越しに前に立ったシンジに、老人が声をかけた。

「はい、とっても。」

「そりゃよかった。」

そう言って微笑むソーントン老人の背後の棚に、様々な形の瓶が並んでいた。

その中に入っている酒の量も様々だ。まだ風も切られていないものもあれば、ほんの一口分を残すものもある。いかにも辺境の酒場に置いてあるという風情の安酒もあれば、風格漂う高級酒もあった。それらを背後に、ソーントン老人は静かにグラスを磨いている。

その光景を見ていると、不思議と心がなごむ様にシンジには感じられた。老人のその姿、いやその雰囲気がこの店のたたずまいに溶けているのだ。

自然と、シンジが老人のことをジッと見つめるようになる。

「こういう所は初めてかの?」

シンジの視線に気付いた老人が聞いた。

「・・・・はい・・・、前にいたところは、雑貨屋が一軒あっただけで・・・・」

「あんまりお前さんの様な年の者が来る場所じゃないんだがの・・・・」

「す、すいません・・・・・」

老人の固い声に、シンジが慌てて言った。

「ホホ・・・・、冗談じゃ。どうせそうしばらくもせんうちに、お前さんも通い詰めるようになる。今の内に経験しとくのも、まっ、いいじゃろ・・・・」

そう言って老人はまた黙々とグラスを磨き出した。

その様子をまたシンジが眺める。

やがて・・・・

「あ、あの・・・・・」

シンジがオズオズときり出した。

「なんじゃ?」

「あ、あの・・・・何か僕にお手伝い出来ることはありませんか?」

思いつめた様な顔をしてシンジが言う。

「僕、料理をつくるの得意だし、掃除や洗濯も嫌いじゃないです。」

「どうした薮から棒に?」

「・・・僕はおじいさんに助けられました・・・・その・・・・恩返しをしないと・・・・。」

そう言うシンジの顔を、老人が無言で見つめた。

「・・・恩返し・・・、そんな言葉がまだこの西部で生きとったのか。お前さん・・・・よっぽど育ちがいいと見える。若いのに律儀なことじゃ・・・・。」

老人の口許が微かにほころんだ。

「だがその気持ちだけで充分じゃ。老いたりと言えどこのソーントン、『子供からの見返りを期待して助けた』、なんぞと言われては困るでな。」

「でも・・・」

「いいから! それよりも立てるようになったんだったら早く馬の所へ行ってやれ。お前さんを乗せてここまで連れてきてくれたんじゃ。礼ならば馬に言うがよかろう。」

「いや、でも・・・・・」

珍しく、シンジが食い下がった。

それを見て、老人の表情が突如一変した。

その顔にさっと朱が差したと見るや、いきなり手近にあった包丁を掴み、それを振り上げ大声で怒鳴った。

「うるさい! わしゃしつこい奴が大嫌いなんじゃ!!」

「わわ!」

あまりの剣幕の凄まじさに驚いて、シンジが慌ててカウンターから跳びのいた。

「いいか! 一度しか言わんからよく聞け! 馬小屋ならこの裏手じゃ。この場でグダグダ言う暇があったら、さっさと行ってこい!」

そう怒鳴って老人が店の入り口を指し示すが早いか、シンジは転がるようにしてそちらに駆け出していた。

「馬の世話が終わったらここへ帰ってこいよ! じきに昼飯だ!」

スイング・ドアの向こうに消えかかるシンジの背中に、ソーントン老人の怒鳴り声が届いた。

騒々しい足音が序々に遠ざかっていく・・・・

ふふん・・・・

と、バネのきしむ音を残して大きく揺れるスイング・ドアを見つめ、老人が笑った。

先ほどの怒気が嘘の様に、老人の顔から消えていた。

その背に声がかかった。

「おい・・・・ソーントン・・・」

店の奥、テーブルでポーカーを興じていた男の一人だ。

「どうするつもりだ・・・・・あんな子供を拾ってきて・・・・・」

老人が振り返った。

店にいる全ての者の視線が老人に集まっていた。

皆、男と同じ意見らしい。老人を責める様な眼をしていた。

「どうもせんよ・・・・・」

固い声で老人が応じた。

「しかし・・・・もしハンターに知れたら・・またやっかいなことに・・」

「奴には儂から後で話す・・・。あんたらに迷惑はかけんよ。」

男の声をさえぎる様に断固たる声で老人が言う。そこにいる全員に告げる口調であった。「それにあの子はじきここを出て行く。なにも・・・・問題はない。」

そう言って老人はまた、シンジの消えた扉の方に眼を向けた。

シンジが通った名残を留める様に、スイング・ドアがまだ小さな軋みを立てて揺れていた。

 

「お前が僕をここへ連れて来てくれたんだってね・・・・・。ありがと。」

そう言ってシンジが愛馬の頬を撫でる。

ソーントンの店の裏。その馬小屋での光景である。

馬がその頬をシンジにすり寄せてくる。

シンジを乗せ、あの雨の中を歩いたはずなのにその様子に疲れの色は見えない。

きっとソーントン老人がきちんと世話をしてくれたのだろう。

馬小屋の中には新しい干し草が敷かれ、飼い葉も充分与えられた跡がある。

さっき馬の面倒を見てこいと怒鳴られたが、来てみればなにもすることがない。すでに充分な世話がなされていた。

『またおじいさんに、面倒をかけちゃったな・・・・』

馬の頬を撫でながら、シンジは思った。

その顔を、物言うこともなく、馬が見つめていた。

目が合った。

「どうしてるかな・・・・・ミサトさん?」

馬の瞳を見つめ、シンジが言う。

「怒ってる・・・・よね?」

馬はシンジを見つめている。

「これから・・・・・どうしようか?」

無論、馬は答えない。

目を伏せ、シンジが溜息をついた。

「おい・・・・・」

不意に横手から野太い声がかかった。

見ると5メートルくらい離れた所に大きな男が立っていた。

身長は180センチを超えていると思われる。がっしりした体付きの、精悍そうな顔をした

男だった。

その身に灰色のスーツを着、同色の鐔広の帽子を被っていた。

腰にガンベルトが巻かれていた。

「見ない顔だな・・・・・・。旅の者か?」

顎に手をやり、怪訝そうな表情を浮かべて男が聞いた。

「・・・・・はい・・・・・」

突然のことに、シンジは身をすくませてそう答えることが精一杯だった。

「ふーん・・・・」

生返事を残し、男がシンジに近づいてきた。

すぐ手前に立ち、シンジのことを爪先から頭のてっぺんまで舐めるように見る。

その視線は冷たく、そして刺があった。

シンジの背中に、太い棒を差し込まれたような恐怖が生じていた。

目の前に立つ男の視線、それにシンジの中の何かが反応したのだ。

これまで、何回か体験したことのあるその視線に・・・・・

「いつからこの町にいる?」

男が、シンジのことをしげしげと見下ろしながら言った。

「・・・・3日前からです。」

その視線に何とか耐え、平静を装い、シンジが声を振り絞った。

その声がわずかに震える。

「あの雨の日か・・・。だがそれにしちゃあおかしいな? この町のホテルにはここのところ誰も泊まってないはずだが?」

「雨の日に行き倒れた僕を、酒場のおじいさんが助けてくれたんです。」

「酒場? ソーントンのことか?」

男の声が少し高くなった。

シンジがうなずいた。

「そうか・・・・、ソーントン、あの老いぼれの所にいるのか。そうか・・・・」

男はシンジから目を離し、何か考える様に遠い目つきをした。

「・・・・あの・・・僕・・・行ってもいいですか?」

心臓が飛び出るくらいの思いをして、ようやくその言葉が出た。

「ああ・・・・いいぜもう用は済んだ。」

ぞんざいな言い方で男が手を振る。

シンジが踵を返した。

数歩歩いたところで、また男に呼び止められた。

心臓が止まるかと思った。

ゆっくりと背後を振り返る。

「ボウズ・・・・、帰ったらソーントンに言っとけ。後で話があるってな・・・・」

男はそう言い残し、背中を向けた。歩み去るその後ろ姿がシンジの瞳に映る。

なぜか不安を予感させる、そんな後ろ姿であった。

 

『誰なんだろう? ひょっとして・・・・』

自分を狙う刺客か?

と、ソーントン老人の店に戻る道すがらシンジは思った。

先ほど出会った奇妙な男のことである。

あの男の発する雰囲気、そしてその目つき。それらはこれまでシンジを襲った刺客たちのものに良く似ていた。それゆえ、もしかして自分を追いかけて来た刺客かと思ったのだが・・・・

しかしそれではわからないことがある。

何故、自分を見逃したのか?

単に敵が自分の顔を知らないから、ということはないだろう。それなら自分の名前を確かめようとするだろうし、他にも手はいくらでもある。しかし、男はそうはしなかった。

それに疑問はもう一つある。男がソーントン老人のことを知っていたということだ。それにこの町の事情にも詳しい話し方だった。

シンジを追ってこの町に来たというなら、それではつじつまが合わない。

『思い過ごし・・・・かな?』

そうも思う。先日襲撃された恐怖がまだ抜けきっておらず、そのために過敏になっているのかも・・・・

単に見慣れぬ他所者に対する固い対応を、自分が過度に受け取ってしまったのかも・・・そういう気もする。

どちらにしても・・・・・・

シンジの口から溜息がもれた。

『長くは・・・・ここにはいられないな・・・・』

逃げる者に安住の地はない。生涯逃げ続けるだけ。

スイング・ドアを押し開け、店内に入ったシンジの胸にそんな考えが浮かんでいた。

「どうじゃった? 馬は元気だったか?」

陽気なソーントンの声がした。

「・・ええ。とっても。」

無理に笑顔をつくって、シンジは言った。

「そうか・・・」

そう答えるソーントン老人の顔がシンジの瞳に映る。

先ほどの男のことを老人に聞くべきかどうか・・・・

その胸に葛藤があった。

男のことは知りたい。でも、この老人に迷惑はかけたくない。

男のことを聞く過程で、もしかしたら老人は自分の境遇を聞いてくるかもしれない。

そうなったら・・・、自分はそれを話してしまうかもしれない・・・

でももしそうなれば・・・・

ブルークリークでの辛い思い出が、シンジの胸に痛みを与えた。

万が一にもこの老人にだけは迷惑をかけられない。

でも・・・・

カウンターについてもその葛藤は消えなかった。逆に、ますます大きくなった。

そんなシンジの内面を知るよしもなく、老人が目の前で、またグラスを磨いている。

『いっそこのまま・・・・』

そんな思いがシンジの脳裏に浮かぶ。

いっそこのまま何も言わず、何も聞かずにこの家を出た方が良いのではないか。

老人に迷惑をかけないのであれば、それが最良の方法かも・・・・

老人に対する恩を返すのであればお金を黙って置いていけばいい。

万一の時のためにミサトに貰ったお金がいくらかある。

それを置いていけば・・・・・

不本意ではあるが、それで老人に迷惑がかからなければ・・・・・

その時、スイング・ドアの軋む音がした。

先ほどの男が来たのかも・・・・・

そう思い、扉の方にシンジがその瞳を向けた。

「ほう・・・・女の客とは珍しいのお・・・」

カウンター越しにすぐ隣にいるはずのソーントン老人の声が、遠くに聞こえた。

老人の視線が、シンジと同じく店の入り口に向いていた。

そこに立つ人影に向かって。

黒い鐔広の旅行帽に薄い灰色のロングコート。

シンジの目がそこに釘付けになっていた。

入り口に立つその人影の黒い双眸も、またシンジを見つめている。

「どうした・・・・知り合いか・・・・?」

シンジの顔を見つめ、老人がつぶやく。

知っている・・・・

忘れようはずはない・・・・

そこに・・・・

その両手でスイング・ドアを押し広げながら、葛城 ミサトは静かにたたずんでいた。

 

<第八話へつづく>

 


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