『桜の樹の下には屍体が埋まっている』

 

僕はそんな言葉を口の中で呟きながら川沿いを歩いた。

河川敷では子供たちがサッカーをしていた。

風はまだ冷たくて薄手のセーターだけでは寒さを感じる。

歓声が上がる方を眺めるとゆっくりとうねる川面が日差しで反射して眩しかった。

 

満開の桜が春風に吹かれて、辺りは舞い散る花びらで一面覆われていた。

あれは何の本で読んだんだろう。

高校の読書感想文だったからもう覚えていない。

昨日の雨のせいか土がぬかるんでいた。

僕は足を滑らせないように一歩一歩バランスを取りながら歩いた。

 

あの美しい桜の樹の下には何が埋まっているんだろう。

やはりドロドロに腐敗した屍が埋まっているんだろうか。

いっそのことそうであって欲しいなと思った。

全ての美しいものはきっと屍体に根を張っている。

そうやって吸った養分は、だからこそ傲慢なまでの美しさを醸し出すんだろう。

そんなことを考えながら、僕はあの頃のことを思い出していた。

 

 


 

く こ ろ に

 

− 前 編 −


 

 

思えば僕とアスカはいつも一緒だった。

どうしてと言われると判らないけれど、二人とも同じ高校だったし相談したわけでもないのに大学も一緒だった。

なんとなく朝は同じ電車で会って、学校に行き、授業を受けて、一緒に夕食の買い物をして別々のアパートに帰った。

淡々とした日常だった。

若さを謳歌してはしゃぐ周りの連中とくらべて僕達はずっと覚めていたような気がする。

 

「あいつら馬鹿みたい」

 

アスカは鼻で笑うような仕種で言った。

そして視線を空に向けて遠くを見るような目をして呟いた。

 

「本当に自分が何を望んでるのか判ってないのよ」

 

じゃあアスカは一体何を望んでいるんだろうと思ったけれどいつも質問しそこねた。

だからこの話は必ず二言で終わりだった。

けれどそれも悪くはないと思っていた。

僕達は沈黙に耐えられるだけ相手の息遣いを知っていたからだ。

 

僕は私鉄の駅から五分くらいのところにある景色のいい部屋に住んでいた。

目の前には川があって、河川敷の広場はサッカーが出来るくらい広かった。

土手には100mほど桜の樹が並んでいて、春になると青い空に映えて綺麗だった。

休みの日にはアスカと二人で土手に座って買ってきたパンを食べた。

金色の髪が風に吹かれてきらきらと輝いた。

 

(綺麗だな)

 

神様は女の人にだけ美しさを与えるなんて不公平だ、僕はいつも心の中でそう不満を漏らした。

その当時の思い出はそんな程度だった。

僕には特に彼女と呼べる人はいなかったし、アスカにも彼氏はいないみたいだった。

つまり僕達は幸せというほどでもないけれど、不幸というわけでもなかった。

 

 


 

 

カヲル君に再会したのは桜が咲き始めた頃だった。

彼が現れたのは本当に突然だった。

予告もなく現れた彼を見てひょっとしたら幽霊かもしれないと疑ったくらいだった。

白いシャツにストレートの洗いざらしのジーンズというシンプルな格好をしていた。

 

「やあ、シンジ君、調子はどうだい?」

 

古びた正門は構内に続く道に不釣り合いに大きかった。

僕とアスカを待ち伏せするように突っ立っていたカヲル君は笑顔で話し掛けてきた。

それは全く何年か振りに会ったことを感じさせない挨拶で、昨日あったばかりじゃないかと錯覚するくらいだった。

 

「あんた誰よ」

「やあ、初対面の人間にご挨拶だね」

「挨拶ってのはもっとちゃんとするもんでしょ」

 

左腕をたてかけて正門にもたれて親しげに話しかけるカヲル君に対して、アスカは腰を手にあてて指さして言った。

昔から変わらない居丈高なポーズだった。

僕にとっては見慣れたポーズだったけれどカヲル君を怒らせるんじゃないかと一瞬心配した。

でもカヲル君は案外平気だったらしくニコニコと笑っていた。

アスカとカヲル君の会話はそうやって始まった。

 

桜の下で言い争うアスカとカヲル君は二人ともとても綺麗で、桜の精がじゃれ合っているよう見えた。

僕はカヲル君と会った嬉しさでちょっとうきうきした。

このままアスカとカヲル君が仲良くなれば僕達は三人でいられるな、そう思った。

それは最近アスカ以外の人とつきあうことを避けていた僕からすれば、久しぶりに他人に興味を持った瞬間だった。

そしてカヲル君が僕から離れないのが幸していつの間にかなんとなく三人でいるようになった。

 

アスカには僕とカヲル君の関係は話さなかった。

彼が使徒だったかもしれないという過去やカオル君が僕の心に入り込んで来たこと、それでも僕はカヲル君が好きだったこと。

全部話すのは僕にとってはまだ重過ぎることだった。

だから昔の友達、それ以上アスカには説明しなかった。

 

「へぇ、あんたにも友達なんていたんだ。それにしてもキザなやつね」

 

フンと鼻で笑うアスカはソッポを向いて、カヲル君には良い印象は持っていないようだった。

だから三人で歩く時は僕が真ん中で両脇にカヲル君とアスカが並んで歩くのが普通になった。

三人になっても僕達の日常はあまり変わらなかった。

朝は同じ電車で会って、学校に行き、授業を受けて、一緒に夕食の買い物をして別々のアパートに帰った。

そして休みの日には河川敷に座って川の流れを見ながらとりとめのない話をしたりパンを食べたりした。

 

カヲル君は何でもできる人だった。

なんでも知っていたし、誰に対しても物怖じしなかったし、男のくせに綺麗といっていい容貌をしていた。

なにより話がとても面白かった。

普段ムスッとしているアスカまでもプッと吹き出したりした。

その頃アスカの笑う顔を殆ど見なかったので、それはちょっとした驚きだった。

ただカヲル君は僕たち以外に友達はいないようだった。

僕達といる時はフランクで気さくだったけれど他人にはとても冷淡に見えた。

まるで僕達以外には存在する価値はないと言わんばかりで、時々その冷たい視線にぞっとすることすらあった。

 

「人間には必要な人とそうでない人がいるよ」

カヲル君はよくそう言った。

 

「必要ってどういうこと?」

アスカは決まってそう尋ねた。

そしてアスカはその後決まって不機嫌になってカヲル君を激しく罵倒した。

 

僕は最初心配したけれど、何時の間にか毎度のことのじゃれ合いのようになっていった。

少なくとも僕はそう理解した。

そして嬉しかった。

僕はやじろべえの支点のように何をするでもなく二人の間でバランスを取っていた。

そして僕以外の人間にはそれが出来ないと思っていた。

 

 


 

 

僕達はどこに出掛けるのもいつも一緒だった。

騒がしいのはみな苦手だったけれど、どういう訳かビリヤードにはたまに出掛けた。

今思い出してみるとカヲル君の趣味だったらしい。

当時あまり流行っていないビリヤードが出来る店なんて街に数軒かしかなかったけれどカヲル君はどこからか探し出してきた。

 

「どうしてこんなのが好きなの?」

「一度突かれた玉が次々にぶつかって世界を変えて行く。自分の意志でなく偶然にね。面白いと思わないかい?」

「判らない奴ね」

アスカはフンと笑った。

 

「どうも9ボールって邪道じゃないかと思うんだ」

「じゃあ、全部の玉使えば?」

「15個も使うなんて大袈裟すぎるよ」

「なんで邪道なの?」

「だって9を落としさえすればお終いじゃないか。そんなのおかしいとは思わないかい?。人生には近道なんてないよ」

「ビリヤードは人生じゃないでしょ」

「似たようなものだよ」

 

そんなことを言う割にカヲル君は直接狙い玉を落とすのでなく、ガムシャラに9番の黄色いボールだけを狙った。

アスカは腕はなかなかだったけれど勢いが良すぎてコントロールにムラがあるようだった。

一方の僕は玉を突くのが慎重過ぎるらしく一番下手だった。

そしてお互いに下手だと指差して笑った。

 

「近道は邪道なんじゃないの?」

「それが目の前にある以上はそこに進むしかないのさ。判っていてやらないのは正直さとは違う気がするね」

「じゃあなんなの?」

「可能性の魔ってやつだよ。人間って堕ちることが出来るときにはそれを選んでしまうと思わないかい」

「...よく判らないよ」

「そうか、ごめんよ、シンジ君」

「あんたって一度自堕落になったらとことん堕ちそうなタイプね。そういうのってつきあってられないわね」

「君につきあってくれなんて言ってないよ」

「ハン、こっちこそ」

 

またアスカがイライラしているのを見て僕は吹き出したけれど、アスカは真剣らしくその日は口を利いてくれなくなった。

僕はしまったと後悔したけれど遅かった。

 

それでも僕にとってこんな生活は楽しいことだった。

何ゲームかしたあとは必ず誰が勝って誰が負けたかを忘れていた。

そしてみなで笑った。

僕はそんな三人の関係を楽しんでいた。

そしてその関係は永遠に続くと思っていた。

 

 


 

 

何かが徐々に変っていったのは三人で飲みに行ったときだった。

その日は試験が終わったばかりでみんな開放感に浸っていた。

大学の近くの畳敷きのこじんまりとした内装の居酒屋だった。

入り口の暖簾をくぐるとカウンターの奥の畳の席に案内された。

まだ時間が早くて殆ど人はいなかった。

僕達は四人用のテーブルに三人で座った。

僕の隣りにアスカが座り、正面の真ん中にカヲル君が座った。

取りあえず中ジョッキのビールで乾杯をするとアスカが口を開いた。

 

「くっだらない試験だったわね。自由に学問すべき学生に減点方式の試験を受けさせるなんて無能以外の何物でもないじゃない」

「それは違うさ。世の中の常識者は自分の常識を常に確かめてみたいんだよ。儀式につきあうのは社会の成員としての義務さ」

「バッカばかしい。あんた日本的ことなかれ主義の代弁者ね」

「君こそ本質と全く違うところでムキになって批判を繰り返すなんてエネルギーの無駄遣いだね」

 

僕は二人が口泡を飛ばしながら議論をしているのを聞いていた。

合格点が取れればどっちでもいいじゃないかと思ったけれど、そう言うとアスカはきっと指差して馬鹿呼ばわりすると思って黙っていた。

 

「そうじゃないさ。本当に必要なこと以外で力を使うのは馬鹿馬鹿しいと言ってるだけだよ」

「あんたが言う本当に必要なことって何よ。聞かせなさいよ」

 

沈黙が流れて気まずい雰囲気を感じた僕は面倒くさくなってトイレに立ち上がった。

先客がいたのを幸いに5分くらいかけて戻ると雰囲気は変っていた。

アスカはちょっと上気した目でカヲル君を見つめ、そしてカヲル君は澄ました顔でテーブルに目を落としていた。

 

「フン、馬鹿ね、あんた」

「...どうしてそう思うんだい?」

アスカは黙り込んでいた。

 

二人は帰り道でも時々思い出したように議論したけれど、電車の音で何を言っているか判らなかった。

 

「送っていくよ」

「女だからって気遣ってやるって顔しないでよ」

 

カヲル君は酔って少し足元がふらつくアスカに手を伸ばした。

バランスを崩しかけたアスカは悔しそうな顔をしながらカヲル君にしがみついた。

そして僕には聞こえないような小さな声で伏し目がちに呟いた。

小首を傾げてニコリと笑うカヲル君がアスカになにかを囁くとアスカは顔を真っ赤にしてソッポを向いた。

そしてその後二人は黙り込んだ。

電車を降りて改札を抜けて、アパートに帰る分かれ道まで僕達は黙ったまま歩いた。

 

そして次の日からなにかが変った。

いつも一緒に乗っていた電車に三人が揃うことは珍しくなった。

カヲル君だけいないときもあったし、アスカだけいないときもあったし、二人ともいないときもあった。

そのことを尋ねてもカヲル君は笑って答えなかったし、アスカは怒って答えなかった。

 

だけど二人が仲良くなったというわけじゃなかった。

カヲル君はアスカに冷たくなり、時々黙り込んで醒めた目で眺めるようになった。

アスカはカヲル君に対して常に不機嫌で、感情剥き出しで怒鳴るようになった。

アスカの目は昔と変らずに綺麗だったけれど、その視線にはますますプライドと不安が交じるようになった。

 

僕には全く理解できなかった。

ただ普段三人で一緒に行動することは変わらなかった。

どんなに二人が言い争いをした後も僕達は当たり前のように一緒に歩いた。

それだけは以前からの決まり事のように誰も異を唱えなかった。

 

 


 

 

カヲル君が倒れたのは再会して一年経った頃だった。

ネルフの総合病院に担ぎ込まれて結局入院することになった。

見舞いに来た僕とアスカに、カヲル君は優しく説明するように言った。

 

「心配しなくていいよ、すぐに退院できるらしいから。」

 

しかし言葉とは裏腹にカヲル君はものものしい看護体制の下に置かれていた。

だだっ広い部屋にポツンと置かれたベッドの上で、体に何本ものコードを取り付けられ腕には点滴をつけられていた。

ドアには絶対安静と書かれていて、関係者以外は立ち入り禁止だった。

染み一つない白壁は気持ちが落着かなかった。

 

それでも南向きの窓から見える桜の並木が僕達の目を慰めてくれた。

空気を入れ替えようと窓を開けると花びらが病室に風で運ばれてきた。

だけど咲き誇る桜はカヲル君から生気を吸い取るように思えて僕を複雑な気持ちにさせた。

 

カヲル君は自分は昔から体が弱かったんだと言った。

最近のように自由に動き回れたのが不思議なくらいだと言った。

そしてその理由を専門用語を交えて内蔵機能から細胞の働きに至るまで詳しく説明してくれた。

それが何を意味しているか判らなかったけれど、ただこの病気が容易に治らないことはおぼろげに理解できた。

 

それからは毎日カヲル君の見舞いに行った。

アスカを誘ったけれど彼女は何故か僕を相手にしなかった。

理由はすぐに判った。

彼女はいつも先に病室に来ていた。

何を喋るでもなくベッドの横に腰掛けて、カヲル君も黙って天井を見詰めていた。

 

白い病院着を着て胸まで布団をかぶったカヲル君はニコリと笑いかけて、やあ、と言ってくれた。

僕もカヲル君に、やあ、と返事をした。

アスカは黙ったままだった。

そして長い沈黙が訪れた。

二人ともまるで銅像のようで、僕は居辛い空気に無理して冗談を言った。

それでもアスカは寂しそうな目で視線を泳がせた。

彼女はやつれていた。

傍目から見ていてどちらが病人か判らないくらいだった。

僕達は沈黙したまま桜の花を眺めてた。

 

アスカを見て段々と僕は自分を理解するようになった。

 

(アスカをこんな気持ちにさせるなんて)

 

カヲル君に腹を立てていた。

そしてそれはとても悪いことのような気がした。

その頃僕にとって「友達」だとか「友情」だとかは、まだ地に足のついた言葉じゃなかった。

もしそんな人がいるとしたらカヲル君と、そしてアスカの二人しか頭に浮かばなかった。

だけど心の中で首をもたげた感情は段々と僕を変えていった。

二人が一緒にいるところを見ると、アスカに対しては切ない気持ちを抱く一方で、カヲル君にはやりきれなさが沸き上がってきた。

 

そして僕はあることに気づいた。

僕はアスカが好きだった。

今まで自分自身に隠していた感情だった。

僕は病院の入り口でアスカを待った。

そして僕はもう我慢ができなかった。

 

「ちょっと歩かない?」

「シンジ、待ってたんだ...」

 

僕達はカヲル君の病室の前の桜の並木を歩いた。

そしてベンチに座って青い空を眺めた。

暖かくなりはじめた春の空気と日差しが心地よかった。

 

「カヲル君大丈夫かな」

僕は聞いた。

 

「解るわけないじゃん。...治るんだったらそのうち治るわよ」

アスカは抑揚のない声で答えたけれど、すぐに悲しそうな顔をしてつけくわえた。

 

「危ないかもね。医者の態度見てるとなんとなく判るわよ」

「どういう病気なの?」

「極秘扱いになってるみたい。院長以外は誰も本当のこと知らないわ。最初に口止めされたの」

「えっ?」

「他の人はただの内蔵疾患だと思っているみたい」

「そんな」

「黒服もうろうろしてるわ。どういうことか判んないわよ、あたし」

 

アスカの横顔を見たけれど、目は何の感情も映し出していないように見えた。

僕は聞かなければ良かったと思ったけれど気を取り直して言った。

 

「アスカはカヲル君のことどう思ってるの?」

僕は質問した。

 

「カヲルのこと?...別になんとも思ってないけど」

アスカは気のなさそうに答えた。

 

「そう?。最近仲良さそうだったからひょっとしたらと思った」

「馬鹿ね、変に勘ぐるんじゃないわよ」

「そうなんだ。そうは見えなかったけど」

「あんた妬いてるわけ?」

「うん」

「えっ...」

「妬いてたよ、僕は。」

「ちょっと、それってどういう...」

「アスカのこと好きだから」

「...困るわよ」

 

アスカは端から見ても明らかに動揺していた。

そしてうつむいて顔を上気させながら考え込んでいた。

僕は一喝されなかったことが意外だったのと、アスカの動揺を見て勢いづいて言った。

 

「僕は好きなんだ。今の僕にはアスカしか見えてないと思う」

「な、なんでよ。あたしなんかの、どこが良いのよ」

「僕はアスカ以外にはもっと知りたいと思う人間はいない」

「どうして?」

「他の奴等には生きることの重みも大切さも判らないよ。あの時一緒だったアスカだから共感できるんだ」

「でも、あたしは...」

「アスカのこともっと知りたいんだ。僕はアスカを理解できると思うし、アスカになら理解されたいと思う。

今はまだなにも理解してないかもしれないかもしれないけど、でも時間をかければきっと判り合えるよ。

僕達には時間はたくさんあるんだ」

「あたしが言いたいのは...」

「勿論うまく行かないこともあるかもしれない。でも今の気持ちは本当なんだ。

だからアスカの気持ちがどうであれ、今アスカに気持ちを伝えたことを後悔はしない。

僕だって大人になったと思うんだ。もう14歳の頃とは違う」

「本当にそれが理由?」

 

アスカは横目で僕を見た。

そして口元をすこし歪めた。

 

「も、勿論...アスカが綺麗だってこともあるよ。僕は...いつもアスカに見とれてた」

僕はつけくわえた。

 

「ありがとう、そう言ってくれる方が信用出来るかもしれない」

アスカはニコリと笑った。

 

「とにかく僕はアスカのこと...好きなんだ」

「...」

「それとも、カヲル君のことが...」

「...違うわよ」

 

アスカは目を伏せたまま大きく息を吸い込んだ。

そして肩を震わせた後で、上目遣いに僕を見た。

 

「あたしを見てくれる?」

「アスカを見るよ」

「あたしだけを見てくれる?」

「アスカだけを見るよ」

「あたしがあんたを見なくても?」

「そうなっても後悔しない」

「あたしがひどい人間でも?」

「後悔しない。その気持ちは本当だから」

彼女は惚けたように口を開けてもう一度上目遣いで僕を見上げた。

 

「どうしよう。今どきどきしてるよ。足が地についてない感じがする。変だよね」

「...」

「今はまだ実感が湧かない気がする。でもあたしすごくドキドキしてる。きっとシンジの気持ちが嬉しいんだよ」

「...アスカ」

「今すぐは答えられない。でも嫌だって意味じゃないの。判ってくれる?」

「今答えなくてもいいよ。もう少し考えてからでも」

「うん、ごめんね。きっとあたし考える時間が欲しいんだよ」

 

結局その日はそこで別れた。

家に帰ると急に不安になった。

ひょっとしたらアスカにうまくかわされたかもしれないという考えに捕われた。

僕はベッドに横になって何度も天井の染みを数えた。

けれど、5まで数えるといくつ数えたか判らなくなって何度も最初からやり直した。

電話が掛ってきたのはイライラして枕元の本を天井に向けて投げつけた時だった。

 

「惣流ですけど」

受話器の向こうからアスカの声が聞こえた。

 

「あ、碇です」

僕は返事をした。

 

「...シンジ、さっきの話ね。OKだよ」

「OK?」

「うん。あんたの気持ち凄く嬉しい。だからOK」

「...ありがとう」

「でもね、一つだけ覚えておいて。多分あたしあんたに好かれるような良いところなんて何もない人間だから。

だから失望したときは早くそう言って欲しいの。そうじゃないと...」

「そうじゃないと?」

「あたしあんたのこと離せなくなると思う。自分の幻想を相手に押しつけ合うのって多分すごく大変なことだよ」

「うん...じゃあアスカも僕のことに失望したら言ったらいいよ」

「あたしは多分だめだな」

「え?」

「また明日会おうね、シンジ」

 

そう言うとアスカは電話を切った。

僕は大きく息を吸い込んで、その日は寝ることにした。

それは今まで感じたことのないような安心感につつまれた夜だった。

 

 


 

 

だけど翌日カヲル君の病室を訪れたとき、僕は嫌な気分になった。

アスカは同じ格好でベッドの横に座っていたからだ。

以前と同じように寂しそうな目で視線を泳がせていた。

カヲル君も、アスカも、僕も、そして桜の花も、何も変っていなかった。

多分その時僕は猛烈な嫉妬に捕われた。

やっと手に入れようとした幸せをカヲル君が奪おうとしている。

一瞬耳鳴りがして、心の中でなにかが壊れた気がした。

 

「カヲル君、早く良くなるといいね」

僕は出来る限り優しい表情と声を作ってアスカに聞いた。

アスカは何も答えなかった。

まるで昨日のことはなかったようだった。

看護婦さんが入ってきたのはちょうどその時だった。

 

「あら、面会の方ですか?。お薬の時間ですけどちょっとよろしいですか?」

「ちょうど寝たところなんですよ」

「あら、困りましたね。今日から新しいお薬飲んでもらわないといけないのに」

「起こしましょうか?」

「でももうすぐ起きますよね。すみませんけどお見舞いの方でこれ飲ませて上げてくれます?」

「ええ、いいですよ」

「三食食後に一回づつ飲ませてあげてくださいね。必ずですよ」

 

看護婦さんは忙しいのかそそくさと出ていった。

小さなビンに入った牛乳のように白い薬だった。

この看護婦は何も知らされていないんだ、僕はアスカとの会話を思い出した。

頭にある考えが閃いた。

それはとても嫌な考えだったけれど、でも僕は押さえることができなかった。

 

「アスカ、もう帰りなよ」

「いい。まだいる」

「だめだよ。それじゃアスカが倒れちゃうだろ。今日はかえって休みなよ」

「いいじゃん、あたしの勝手でしょ」

 

僕は文句をいうアスカを必死に説得した。

アスカは最初僕を睨みつけてたけれど、やがてしぶしぶ帰ることを決めた。

彼女の後ろ姿を見ながら僕は天井を見上げて呟いた。

 

(ごめんよ、カヲル君)

 

ドアに鍵が掛っていることを確認して、僕は白い薬を流しに捨てた。

頭の中が真っ白になった。

カヲル君が目を覚ましたようだった。

 

「おはよう」

「おやよう、シンジ君。来てくれてたんだね」

「調子はどう?」

「うん、まあまあかな」

「しばらくは薬飲まなくて良いって」

「そう。少しは良くなってるってことかな?」

「看護婦さんもそう言ってたよ、きっとすぐに退院出来るんじゃないの?。そうしたらまた三人で集まろうよ、今まで通りにさ」

「そうだね、僕も待ち遠しいと思ってた」

「...」

「ねえ、シンジ君、僕はやはり君に会うために生まれてきたのかもしれない」

 

そしてカヲル君は笑った。

春の柔らかい日差しの中で輝く、ドキリとするような優しい笑顔だった。

窓の外では日差しを浴びながら桜の花びらが散っていた。

 

カヲル君が消えたのは翌日の朝だった。

彼がどこに行ったのか誰も教えてくれなかった。

それどころか今までここに入院していたことすら記録から消されていた。

 

 

 

to be continued

 


 

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