Kanna-T's Original Short Novel - Never can't get it


隣合せのファンシーフリー
第八部

Fancy Free in diary life





第十四章
それもまた一つの選択肢






 この部屋にある視線が集中する。生きている人間の目が5対、そして無機質な目が一つ。その一つは揺れる事無く、俺のこめかみだけを見つめている。
 その目が無ければ余裕綽々でこの状況から抜け出せるのだが、やはり世の中はそこまでは甘く出来ていない様だ。
 その他の目線は、俺の次の行動に固唾を呑んでいるのだろう。洒落でクシャミの一つでもしてみようかと言う考えもあったりするが、自分と、そして腕の中に居る人物、背中の方に居る人物までの命を肩に持つと、余りの重さでそこまでする勇気も度胸も無い。
「で、ここまでわざわざ来て、何かな?」
 兎も角、考える時間は稼がないとならない。このオッサンの目的も判らずに無闇に動くのは危険と言うものだ。
 少なくとも、俺だけでなく他の人間の安全も多少なりとも確保しないとならない。ひとまず、抱いている柚希菜の身体を軽く押し、暗黙で俺の後ろに隠れる様に指示した。
…いや、擽ってる訳じゃない。こんな時に照れられても困るし、いいから指示通りに動いて欲しい。
「今更、俺達に銃を向けても無意味だろう?」
 出来るだけ余裕の態度を採りながら、相手を刺激しない様にゆっくりと立ち上がる。それと同時に分からない様に柚希菜を背中に隠した。
 もしかしたらこの時点で撃ってくるかもしれない、と危惧したが、幸いにもそれは免れた。
「…切羽詰まった人間が考える事など、単純だよ。」
 それでもオッサンは正確にこめかみを狙っている。よっぽど俺に恨みがあるのだろう。
「まったく残念だよ…ここまでの苦労を一瞬にして消してしまうなんて…」
「人殺しの苦労なんて、知った事か。」
 背後に居る悠子と香奈子の位置が掴めない。ハッキリとは覚えて無いが、オッサンと彼女達の間に遮蔽物は無かった気がする。いや、端末が一台あるが…そこに二人隠れるのは難しいかもしれない。
「動くな!…知っていると思うが、トリガーが結構軽いのだよ。」
 思っていた矢先、動こうとしていたのだろう。一瞬だけ俺を見ていた銃口が逸れて、多分その二人に向けられた。気配だけで、ピタっと止まったのが分かる。
 この隙で何かすべきだったのかもしれないが、流石に超人では無いので何も出来ない。だが、二人の位置は何となく掴めた。
「違うな。人殺しでは無く、人を守る為の技術だ。よく考えてみたまえ。」
「…」
 オッサンはそこから動こうとはせずに、ずっとこちらを見定めたまま淡々と喋る。もどかしいが、時間は何とか稼げそうだ。
「戦力バランスが崩れれば、今ある紛争の半分以上は無くなるのだ。それに人より超越した能力があれば、何も敵を殺さずに生け捕りする事も可能なのだ。また、テロに対しても要人のSSにもなれる。更に言えば、その技術を応用して義体技術も飛躍的に発展するのだよ。つまり、医療への発展さえも我々は見ていたのだ。」
「…最新技術は、軍事目的からって言うセオリーか?」
「残念ながら、お前の言う通りだ。特に経済再生中の日本では、必須だとは思うがね…」
「技術大国日本って神話は、もう崩れているだろう?そんな中で、軍事シェアを獲得してどうするんだ?」
「若いから分からないだろうがね…。日本は先進国と呼ばれている。先進国は文字通り“先に進まないとならない”のだよ。」
「…だから何なんだよ?」
 だんだんとこのオッサンの話が見えなくなってきた。一体、何が言いたいのだろう。
「食物連鎖と同じさ。日本はその底辺でも無く、頂点に居る訳でも無い。」
「…?」
「さて、長話は終わった…」
 オッサンはポケットから携帯端末を出して斜目でそれを見た。流石にこの距離では内容までは見えないが、それを確認するとゆっくりと銃口を下ろした。
「お決まりの台詞で悪いがね。君達には消えて貰うよ。」
「…」
「4人揃って生涯稼いでも足りないくらいの資金が掛かった、この設備と共にね。」
 悪態付く暇も無く、オッサンは背を向けると同時に、壁にあるドアのスイッチに触れた。
 機械は指示者に順応し、頑丈なドアを閉ざしていく。
 今更ながらに自分の迂闊さに気付いた。オッサンの下らない話こそ、時間稼ぎに過ぎなかったのだろう。
 ドアが閉め切られると同時に、パネルから火が出た。あの手に持っていた銃で壊したに違いない。
 俺は慌ててパネルに近付くが時既に遅し。スパークが飛び散り、パネルの操作は一切出来なくなってしまった。
 香奈子が状況をこれ以上無く分かりやすく言ってくれる。
「と、閉じ込められた…?」
 答える気力も無い。
 俺が元の位置に戻り、4人で無言のまま途方に暮れていると、まだ一部生きている設備管理コンピュータらしい無機質なアナウンスが聞こえてきた。
『職員の待避完了。施設全域を封鎖モードに変更します。密封まで、あと2時間。』
 部屋だけでなく、この設備すらをも俺達の棺桶にするつもりだろうか。
 オッサンが端末を見ていたのは、多分職員退避の状況でも見ていたのだろう。こんな事をしながらも、人為的な事をしていたかと思うと、何となく片腹痛い。
 だが、そんな事を考えてる暇は無く…
「取り敢えず、生きてるマザーの部分を使って管理コンピューターに入らないとな。出入り口が一つだけってのは不自然すぎる。」
「そうね…そこは物理破壊されちゃったから人の力では無理だろうけど…どっかにダクトでも何でもいいから、出られる場所を見つけないとね。」
「封鎖モードってどれだけ影響出るんだ?」
「詳しくは知らないけど…あらゆるコネクト部分、つまり通路とかドアとかを閉鎖・ロック、循環設備や…大変!あらゆる供給設備もストップしてるわ!」
「…つまり?」
「空調すら動いてないって事よ!空気も無くなるの!」
 答えた悠子も、そして横で頷いていた香奈子の顔も、一瞬にして青ざめる。だが俺には訳が分からなかった。
「…空気が無くなる?」
「そうよ!言ってなかった!?ここは明石海峡大橋の下、つまり海底に造られた施設なのよ!」
「へ?海の…底?」
 分かってなかったのはどうやら俺だけだったらしい。柚希菜も思いだした様に焦りだした。
 巨大企業の酔狂さ加減には驚かされるばかりだ。まさか海底に自前の研究設備を造るとは…。
「って、関心してる場合じゃないな?」
 既に事の重大さに気付いた悠子と香奈子は、端末を再起動させて管理コンピューターへと侵入を始めようとしていた。
「ゆ、柚希菜はいいのか?」
「駄目よ。さっきので大分消耗している筈だわ。冷却もしなきゃならないから無理は禁物よ。」
 余計な事を聞いたのかもしれない。隣の柚希菜は申し訳なさそうな顔になってしまった。
「ご、ゴメン…」
 ぷるぷると大きく首を振る柚希菜の頭を、慰めるつもりで軽く撫でた。
 逆に、柚希菜に比べて今この時点でもっとも役立たずなのは俺かもしれない。他にする手立てが思いつかない。
 おろおろしていても仕方が無いので、二人の作業を見守るしか無いのだが、そんな俺達を揺さぶる事が起きた。
 そう、文字通り俺達は揺れた。
 何か大きな衝撃が部屋全体に響き渡り、数秒くらいの短い地震を感じたのだ。
「…何だ?」
 侵入されている途中にも関わらず、管理コンピューターは優しくも状況を正確に教えてくれる。
『浸水警報。施設の一部に亀裂発生。エリア5A−20。近辺の従業員は直ちに避難して下さい。浸水け…問題発生、浸水シールド作動せず。設備管理部は故障個所をチェ…現在、設備は封鎖モード中。復旧の見通しはありま…亀裂拡大。エリア5A−14から22までは使用不可能になりま…浸水警報…』
 一度に余りの量の警報が出ているのか、音声も追いつかないらしい。
「まさか…」
 香奈子の声が更に凍り付いた。
「…だな。あのオッサン、言葉通り俺達を海の藻屑にしたいらしい。この設備もろともな…」
 もはや大人げないと言う範疇を通り越している。たった四人であろうとも、証拠諸共この設備を破壊しに掛かったのだろう。
 もしかしたら、情報を外に漏らしたのは藪蛇だったのかもしれない。
「うぅ、警報処理が優先されて、上手く入れない!」
 それだけでなく、香奈子はかなり状況に切羽詰まっているのか、正確にオペレートすら出来ない状態らしい。彼女の顔から余裕の表情がまったく消え去ってしまった。
「と、兎に角、この部屋の周辺の情報を引き出して!」
 それに煽られてるのか、悠子さえも落ち着いて行動が出来なくなっている。
 柚希菜も訳が分からなくなっているのか、おろおろしながら俺の袖を掴んでいる。
 こういう部屋だ。出入り口が一つしか無いと言うのは不自然に思える。何かしら非常口かがある筈だ。
「柚希菜は、博士と一緒に。」
「は、はい…」
 5A−20エリアと言うのが何処を指しているか分からないが、入り口が塞がっているのもあり、この部屋に海水が届くのはまだ先だろう、と勝手に推測する。その間に俺は、冷蔵庫みたいなコンピューターの間を抜け、部屋の壁をくまなく探していく。
「駄目です!データベース、ロックされてます!」
「あのオヤジーっ!今度会ったら、殺してやるわ!」
 狭くないこの部屋に、香奈子と悠子の声が響き渡る。
 こんな状況でなければ笑える言葉だが、同意せざる得ない言葉でもある。
 兎に角、何とかしないと…
「あったぞ!」
 予感的中。やっぱり存在した。
 緊急時の非常出口のパネルが目の前にある。幸いにも管理コンピューターの制約を受けてないのか、ロックが外されていた。もしかして、既に使われた後なのだろうか?
「こっちだ!非常口がある!」
 言いながら、パネルを操作するといとも簡単にそのドアは開いた。あのオッサンもこの通路の事までは知らなかったのだろうか。
 中を覗き込むと、明かりも無く暗い通路が口を開いている。人一人がやっと通れるくらいの小さな通路だし、何処に通じているのかも分からない。
「…この場所に留まってるよりはマシ、か…」
「たどり着いた先が、海水の渦…なんて事は無いですよね?」
「そういう事は思っても言わないものよ。」
 残された選択肢はそう多くは無い。皆、無言のままに頷き、通路の中へと入っていく。こういう時のセオリーか、やはり先頭は俺だったりする。
 殆ど光が入ってこない暗い通路を、手探りで進んでいくと、赤く光っている小さなパネルに当たった。
 考える間も無くそれに触れると、ハッチらしきものが開き、目の前に見慣れた通路の情景が入ってくる。
「助かっ…」
 …った訳では無いらしい。既に廊下には海水が入り込んでいて、床を濡らし始めていた。
 非常にマズい。一刻も早く、この設備から地上へと出ないと。
「博士。柚希菜の近距離レーダーとデータベースも使うと、負担が掛かるか?」
「短時間であれば、そんなに負担は掛からないわ。」
 多少心苦しくはあるが、やらなければここでお終いになってしまう。
「柚希菜、周辺の探索と現在位置の把握!脱出口とかの非常設備がある筈だ!」
「あ、はい!」
 多かれ少なかれやはり負担があるのか、柚希菜は軽くこめかみを押さえて意識を集中させた。
「現在位置、5C−17。一番近い緊急脱出口は…6B−05です。まずはここを、左に!」
「よし!」
 声を上げると同時に、段々と増えてくる海水が浸っている廊下に飛び降り、指示通りに左の方へと向かって走り出す。
 柚希菜の手を取り、耳を澄まして悠子と香奈子が遅れない様に、出来るだけ急いで走った。
「十字路を左へ!階段がありますから、それを上に!」
 自分達を狙う敵が居らず、気にする事無く走る事が出来るが、今の敵は足下を浸らせている海水だ。
 濡れたリノリウムで足を滑らしそうになりながらも走り続け、柚希菜の誘導のままに進んでいく。
 まさか自分がこんな思いをするとは思わなかった。
 パニック物やSF映画でありがちな海水の下と言うシチュエーションが、こんなにもその場に居る人間に対してプレッシャーを与える物だとは。
 まだ、靴底が浸るまでも満たない海水の量なのに、そんな水さえ怖く感じる。
 ある程度泳げると言っても、数十メートルの話じゃない。この設備の位置がどれだけ陸から離れているか判らないし、第一どの程度の深さなのか、海水の温度だって低いに決まっている。泳ぎ始めた所で、直ぐに体温を奪われて動けなくなってしまうだろう。
 それに、柚希菜の事もある。彼女は泳げるのだろうか?
 走りながらそれを聞こうと思ったが、直ぐに止めた。立ち止まってしょんぼりしながら、半泣きでブンブン首を振るのが安易に想像出来たからだ。
 脱出出来る何かしらの設備がある事を祈るしか無い。
「ここか!」
 6B−05。ドアの横に張ってある小さいプレートに書いてある。ご丁寧に「緊急時のみ使用」とまで注意書きが添えてある。
 だが、既に使われていたのか、ドアノブの紅いノッチは外されていた。
…残っている事を祈るしか無いな。
 香奈子も同じ事を思ったのか、不安気な顔を俺に向けると小さく頷いた。
 兎も角、こんな所で逡巡していても始まらない。祈りを込めつつ、ノブを押した。
 流石大企業と言うべきだろうか。部屋の中には、まるで宇宙船の脱出ポッドの様なものの発射口が幾つかあった。
 やはり既に使われていたのか、脱出ポッドそれ自体は殆ど無くなっている。残っているのは…僅か一機。
「一つ…か。微妙だな…」
 微妙と言うのは自分の祈りが何処まで通じたのか、と言う事。確かにゼロよりは随分とマシだが、どうしてこう、人を醜い争いに誘う様な真似をするんだろうか、と祈った先に少し愚痴を零しそうになる。
「さて、こんな所であーだこーだは言い合いたく無いし、第一時間が無いのは判っていると思う。」
 矛盾してると思われようが、ここは一拍間を置く。そしてわざわざ皆に聞かせなくても良い事なので、やや小さめに悠子に聞いた。
「俺の目に狂いが無ければ…博士、あんた結構泳げるだろ?」
「間違い無いわね。体型を維持するには水泳が一番なのよ…」
「すまないな、こんな決め方して。」
「構わないわ。確実な選択だと思うわ。」
 俺が言わんとしている事が理解出来たのか、肩をすくめてみせて彼女は答えた。
 ポッドは一人用。4人は無理。ならば、体型が小さめの二人を半ば無理矢理ではあるが、なんとか入る事が出来るので、柚希菜と香奈子が乗るのが妥当と言うものだろう。
 一瞬、深呼吸をしてから、その二人に告げる。
「何度も言わないし、言いたくもないから一度しか言わない。柚希菜と香奈子、二人で乗れ。」
「え?」
「何ですって?」
 冠詞の部分さえも聞こえなかったのだろうか…。ここでモタモタしてたら、まだ見えない微かな希望さえも消えてしまうじゃないか。
「乗って、地上に行け。そこで救助を出して貰え。それまでは俺達は俺達で手段を探す。」
「でも博士が…」
「嫌ぁっ!!」
 香奈子が言い返そうとした矢先、今迄に聞いた事も無いくらいの大声で柚希菜が遮った。
「そんな言う事、聞きたく無いっ!」
 俺だけでなく、悠子も香奈子も驚いた顔を柚希菜に向けていた。彼女がこんな顔をするのを、俺も含めて多分初めて見たのだろう。
「柚希菜…あのな?」
「もう離れるなんて嫌!それに私だって役に立てるモンっ!」
 まるで…いや、そのまま子供の駄々を捏ねている。
「いや、そうは言ってもだな…今は皆の命の問題でも…」
「だから余計なのっ!私は嫌っ!!博士と香奈子さんが乗ってっ!」
 言い終わる前に柚希菜は二人の腕を握って、やや乱暴にポッドに乗せようとした。
「おい、柚希菜!」
「ごめんなさい、これは譲れないの。お願いします。」
 呆気にとられたままの二人は半ば言いなりのまま乗せられて、ご丁寧にハッチまで閉められた。
「おいってば…」
 俺の抗議が聞き入れる間も無く、豪快な「ごんっ」と言う音と共に発進シーケンスが開始された旨を、パネルが静かに教えてくれる。
『安全確認完了。残り1分で注水・減圧。完了し次第に発進します。』
 今更解除する間も遣り方も分からない。既に事は進んでしまった事ではある、が…。
「お前なぁ…」
 多少の抗議は予想していたものの、まさかここまで強引に事を進めるとは微塵にも考えなかった。何時もは大人しい正確の裏には、こんな能動的な部分もあったとは。
「…一緒に、居るの…」
 俺に怒られるのを恐れているのか照れ隠しなのか分からないくらい、彼女は俯いてそうぼそっと呟いた。
「…後で償って貰おう。言ったからには、ちゃんとここから生きて出るぞ。」
「はいっ!」
 別に許した訳じゃないが、彼女は満面の笑みで顔を上げて、そう威勢良く答えた。のは良いが、命の危機だって事をちゃんと理解しているのだろうか。
 鈍い音と共に、多分呆気にとられたままの二人が、射出された。


 なかなか上手く行くもんじゃない。最後の希望は未だに見つからず。だが、時は人と物に同じく流れ、事態は悪い方向からなかなか余所に向いてくれない。
 柚希菜の様子を見ながら、負担にならない程度にレーダーを使って周囲を捜索してみたが、残っている脱出艇は残っていないらしい。
 警報によると、既に施設の四分の一は水没して閉鎖されている様だ。既にこの時点で、俺達の行動可能範囲がかなり狭くなっているのだ。
 時間が迫っている事もあり、何時までも自分の足だけでは希望の粕も見つからない。なんとか動く館内ビーグルを見付け、無人となっている施設内を滑走する。
…いちかばちか、出口から…
 そう思い、外側と思われる方向へと走っていたが。
「もうここまで…」
 そこに到達する以前に、海水が侵入していた。
 すぐに出口なら良いのだが、ここではまだ距離がある。海中に出れば上を目指せば良いのだが、こう距離があっては、海中に出るまでに体力が無くなってしまうだろう。
「畜生…」
 段々と水位を上げてくる海水を背後に、狭い通路で二三度切り返しさせて、方向を反転させた。
「柚希菜、何でもいい。ここから出るのに役立ちそうなものがある場所は無いか?」
「ええっと、ええっと…」
 流石に彼女も慌てているのだろう。あれから30分以上も脱出口を探しているのに、一向に希望の光が見えなければそうなってしまうのは当然だ。俺もそろそろ限界に近い。
「あ、このブロックの最上階に倉庫があります!」
 言われると同時に、今来た道へ逆戻りをする。ビーグルで上れるスロープはまだ安全だった筈だ。
 幸い、警報区域より少し外れていた所為か、スロープの防火壁はまだ閉じられてなかった。閉じられていたら、非常用の梯子で昇らなければならなかったが、そんな体力を消耗しなくて済んだ。
「ここか!」
 考える暇も無くドアのロック解除ボタンを押すと、これまた有り難い事に素直に開けてくれた。急いでノブを押し込み、中に入る。
 確かに倉庫、と言うよりは、どちらかと言うとどこぞの大きなガレージの様に物が乱雑に置かれていた。
「単なる物置か、大型ゴミ置き場って感じだな…」
 この中から役立ちそうなものを見付けるのは難しそうだ。だが、他に倉庫らしきもは無いし、何かしらをここで見付けないと活路は見いだせないだろう。
『完全密封・自閉モードまで、あと45分。施設の69%が浸水、完全浸水まで予想38分。』
 どれだけ冷静になったつもりでも、このアナウンスには神経が逆撫でされてしまう。何分か置きに流れるが、その度に「分かってる!」と叫びたくなる。口はそう動いてしまったが、声には出さずに辺りを探索する。
 壊れたのだろうか、市販されているパソコンの部品やらドライブ類、モニター。それに混じり、よく分からない部品や箱、何かの薬品でも入っていた様な大きなドラム缶にボンベ。柚希菜が使っていた様な「ベッド」の様なものまで、色々なものが転がっているが、肝心の役立ちそうなものは…。
「秀明さんっ!」
 諦め掛けた頃、柚希菜が大きな声で呼んだ。
 彼女に駆け寄ると、そこには埃を被った脱出ポッドが転がされていた。見た目には、汚れているだけで、どこか壊れている様子ではなさそうだ。
「問題は無さそうですけど…」
「いや、大ありだ。これに乗って、どう外に出るか、だ。」
 またしても一人用ではあるが、一人用だからと言って一人で運べる様な代物では無い。どう考えたって、時間も迫っているのに今から射出口まで運ぶ手段もありはしない。
「柚希菜はここで待っていてくれ。」
 さっき、なんでこんなものがここにと思ったものが転がっているのを見た。一か八かではあるが、それに掛けるしかない。
 ガスボンベ。しかもしっかりプロパンだ。空なのかと思いきや、転がしてみればちゃんと中身が入っている。用途は兎も角、ここに転がしているのは、やはり担当者の怠慢なのだろうか。
 だが、ボンベがあっただけじゃ足りない。何かその切っ掛けになる様なものが無いと意味が無いし、自分達の身も危険だ。
 ボンベの栓を開ける方法と、着火させる方法を考えなくては。
 比較的早く見つかったのは、開ける方法だ。余り頼り無さそうではあるが、ミニウィンチが転がっていた。床に何とか固定させ駆動させれば、ゆっくりではあるが栓が開けられるだろう。
 着火の方法は手間取った。壊れた蛍光灯とかもあったが、時差を付けて着火させるまでには至らない。他の方法で時限爆弾みたいに、時差を付けたいのだ。
 で、我ながら確証の無い方法を採る事にした。
「秀明さん?何でパソコンなんか…?」
「いいから。壁に穴を開けるんだ。柚希菜は周りのガラクタで、脱出ポッドの周りにバリゲートを作っておいて。」
「あ、はい…」
 ま、藁をも掴むと言う思いだ。
 壁際にボンベを並べ、床に他のガラクタで固定したウインチの鉤先を、栓に引っかける。ここまではいい。
 で、空箱とかを重ねて、そのガス口の前にモニターを置く。モニターはカバーを外しておく。そのモニターにパソコンを繋ぎ、起動してみた。
 幸いにもそれは起動する。壊れたと言うよりは、古くなったから棄てたといった感じだ。ハードディスクに入っているOSもかなり古いものだ。
 中身を消さずに棄てるとは不用心な、と思いつつ、モニター出力の設定を変えていく。入力が無くなってから1分でスクリーンセーバーが働くようにし、更に3分後に適当なソフトを立ち上げる様に設定した。
『完全密封・自閉モードまで、あと30分。施設の75%が浸水、完全浸水まで予想23分。』
 分かっている、ここで失敗したら後が無いって事だろ。
 苛つきながらも、自分の設定が上手く行くかを試してみた。
 ちゃんと1分後にモニターが消え、3分後にモニターがもう一度点きソフトが起動した。
「柚希菜、そっちはどうだ?」
「な、なんとか…」
 心許ないバリゲートがポッドの周りを囲んでいた。女の子一人でやったにしては頑張っている方ではあるが。
「よし、手伝う。」
 一度、スクリーンセーバーの設定を無しにし、柚希菜と二人でもう少し頑丈そうなバリゲートを作る。
 最後に、乗ってきたビーグルを無理矢理室内に入れて、ボンベに横付けした。
「柚希菜、先にポッドに乗ってて。…大丈夫だって、ちゃんと俺も来るから。」
 俺だって生き延びたいと思う。柚希菜一人乗せて消える事は無い。なのに彼女は不安気な顔のまま、ポッドに乗り込んだ。
「上手く行かなくても…最後まで諦めるなよ?」
 半分以上、自分に言い聞かせる。
「うん」
 ゆっくりではあるが、彼女もしっかりと頷いた。あとはやるだけ。
 脱出ポッドの電源を入れて、動く事を確認する。何度か点滅して俺達を不安にさせたが、何とか動き始めた。また止まらない事を祈りつつ、パソコンへと向かう。
 スクリーンセーバーの設定を元に戻し、画面が消えるのを待つ。そして1分後、画面が消えたら、裸にしたモニターの高圧部分のコイルの何本かを千切ってショートさせる様にする。間を置かずにウィンチの電源を入れて駆動させた。
 キリキリと軋みながら何とか栓が開いて行く。微かではあるが、ガスが吹き出してきた音も聞こえた。
 ダッシュでバリゲートを迂回し、急いで脱出ポッドに乗りハッチを閉じた。
 やはり一人用なので狭い。文字通りギュウギュウ詰めになり二人で抱き合う様に乗っている。こんな場合でも、やはり気恥ずかしいものがある。通勤中の満員電車の時の様だ。
 それでも万が一、爆発の衝撃でポッドが耐えきれなくなったとしても、彼女が安全な様に出来るだけ全身を覆う様に抱え込む。
「秀明さん…こんな時ですけど…」
「なんだ?」
 抱え込んでいるので彼女の顔が見えない。だが、俺の肩に直接彼女の声が響いてくる。
「ずっと、こうしていたいです…」
「生き残ったら、また今度な。」
 そして衝撃。外が見えないのでどうなったかは分からない。
 幾つかの破片が当たったのか、ポッドの中に鈍い音が連続した。その直後に、何とも言い難い浮遊感に襲われた。
 まるで宇宙に放り出されたかの様に、突如として上下の感覚が無くなる。どういう体勢になっているのかが分からない。掻き混ぜられているのか、グルグルと世界が廻っている。
 正直、酔いそうだ。柚希菜も同じなのか、必死に俺に抱きついてこの感覚に耐えている。
 何かが当たる度、もしかしたらこのポッドがどこかに当たっているのか、鈍い衝撃音がまるでドラムの乱打の様に響く。
 この状態があと何分も続いたら正気も保てなくなりそうだったが、そんなに長く待つ事無く、落ち着き始めた様だ。
 何となくではあるが、上下感覚も戻ったみたいで、水平が取れている様に思える。
「柚希菜…大丈夫か?」
「はい、何とか…」
「何かそこから見えるか?」
「計器は、壊れてるみたいですね…。」
 俺は背中を向けているから見えないが、見えたとしても役に立っていない様だ。だが、壊れているのが計器だけで良かったと思う。
「でも、微かですがGPSの電波は私にも届いてます。ノイズが多くて正確には分かりませんけど…ゆっくりですが、浮いているみたいです。」
「そうか…よかっ…」
 安堵の息を漏らそうとした矢先、背中に冷たいものが走る。
 それが単なる悪寒だったら良いのだが、どうも悪寒以上に悪い現実らしい。
「ゆ、柚希菜…」
…ぴしっ…
「今の、聞こえたか…」
「は、はい…」
…ぴきっ…ぱきん…
「酸素ボンベなんて、無いよなぁ…」
 どうも詰めが甘かったらしい。ここまで上手くいったのに、いや、上手く行きすぎてたんだろう。幸運もここまできて、底尽きたのかもしれない。
「秀明さんっ!キスして下さい!」
「へ!?」
「早く!私には非常用の…!」
…バキンッ!
 言い終わる前に大きな音が響く。それと同時に、半ば奪われる様に柚希菜がキスしてきた。
 勝手にハッチが開き、俺達二人は海水に飲み込まれる。
 二人で抱き合いながら何度か回転して外に放り投げられた後、彼女はゆっくりと俺の頬に手を添えながら言葉にならない声を出した。
「(ゆっくり…)」
 俺は返事にと同じく頬に手を添えて、唇を離す。そして言われた通りに、ゆっくりと息を吐いた。
 肺で使い切った空気は泡となり、上の方へと上っていく。お陰でどちらが上か、ようやく把握する事が出来た。
 俺が吐き終わるのが分かると、柚希菜がもう一度口付けしてくる。やわらかい口から新鮮な空気がゆっくりと入ってくる。
 俺はそのまま、彼女を抱きかかえながら、遙か遠くに見える陽の光を求めて、空気を無駄にしない様にしながら泳ぎ始めた。
 
終章
そしてまた日々は流れる








 陽の光。暖かい。
 確か俺はそれを目指していた様な気が…。何か口に…。
「ゲホッ!ガハッ!」
「…良かった、気が付いた様ね。」
 咳き込み、水を吐いている間にかろうじて聞こえた懐かしくも思える声。
 その姿を見ようかと思ったがまた咽せ返し、反射的に体を翻して、詰まっていた水を全部吐き出した。
 その後ようやく見れた姿は、悠子だった。どれくらい時間が経ったのかは分からないが、酷く懐かしく思える。
「ほんと、悪運強いわね。」
 言われて、拙い記憶を辿り、ポッドが壊れた所までは思い出した。どうやら、海水にまみれたのに生き残っているらしい。それに、これだけ光に溢れていると言う事は、上には戻ってこれた様だ。
「げほ…柚希菜は?」
「うぁ、感謝の言葉の前に“柚希菜は?”だって…傷付くなぁ。」
 少し離れた所に香奈子も居る。
「済まない…有り難う。…ここは?」
 まだ頭が重い所為で、何時もの調子が出てこない。軽くこめかみを押さえながら、もう一度辺りを見渡してみた。
 どうも、地上と言うよりは船の上らしい。小型のクルーザーの甲板だ。
「どうしたんだ、この船?」
「アタシが手配したのよ。柚希菜ちゃんと秀明君はお尋ね者でしょ?救助頼めないから、知り合いからクルーザーを借りたのよ。」
「クルーザー持ってる知り合いが居るとはな。」
「私と何度か寝てるんだから、クルーザーの一隻や二隻じゃ足りないくらいよ。」
 そういう事か。
 まぁだが、そんな彼女のお陰で命拾いしたのも確かだ。
「柚希菜は、中で寝てるわ。少し消耗が激しかったから、休ませてるわ。」
 改めて聞く前に、悠子は軽く指さして教えてくれた。無事が確認出来ればそれでいい。
「そうか…有り難う…」
「別に感謝は要らないわ。こっちも助けて貰った身だし。」
「…そか。」
 もう一度新鮮な空気を肺に送り込み、鈍い頭をゆっくりと稼働させる。
 ふと見た海上には、無数の泡が立っていた。多分、海水に飲み込まれた施設が、圧壊したのだろう。
「…これから、私達、どうすれば…」
「そうね…」
 俺と同じ様にその泡の群を見ていた香奈子と悠子がポツリと呟いた。
 軟禁生活が長かったのだろうか。いざ自分達が自由になったら、何をすべきか分からなくなっているのかもしれない。
 いい加減二人とも大人なのだから、それくらいは自分達で考えろよ、と言う思いもあるが、ここまでくれば一蓮托生だろう。
「…取り敢えず、だ。陸に付いたら、パソコン一台とネットに繋げられる回線。それがあれば何とかなるさ。」
「どうするの?」
「手伝えば、分かる。」




 “現金商売”と言うのは、前世紀の遺物に成りつつある。特に新世紀になってから、ICカードやらデビットカード…兎に角、携帯出来るカードに全ての情報を入れるのがスタンダードになりつつある。
 なので、自分の銀行口座があったとしても、金額がデータとしてあるだけで、実際に自分の“現金”と言うのを見るのは稀だろう。金額が大きければ大きい程、組織だって大きくなれば余計に、生で見る事は無い。
 つまりは、データさえ弄ってしまえば、現金など無くても生きている世の中になった。
「…ま、結局は違法行為だけどね…。」
 これでまた、警察に捕まっても文句が言えない事が増えていく。減る事はもう無いだろう。
 大昔の貝殻や米、鉱物や紙幣に変わりデータとなっただけだ。実際、俺みたいな者にでも便利になったと思うだけにする。
 手に入れられない金額を手に出来る。だが、過ぎた金はやはりゴミ以上の何ものでもない。必要な時に使える金があればそれでいいのだ。
 生活の三大要素、衣食住。強いて言えば、あとはそれにインフラと機器があればいいのだ。
 有り難い事に国政のお陰で、今では閑散とした山奥の別荘地にまで回線が延びている。人が一年中そこに居ないと分かっていてもだ。普通に働いていたら「そんな事に無駄金使うな」と言いたくなるが、この場合は幸いだろう。
 その土地の例外として、柚希菜と俺は別荘宅を購入し、そこを家とした。悠子と香奈子は流石に不便を感じるのか、もっと街に近い所のマンションを購入して住んでいる。
 彼女達はそれぞれやる事があるのか、それとも俺達に気を遣ってか、相当暇な時に飲みたいと言う理由と柚希菜のメンテ以外では顔を出すことは無い。それでも月に2度も会えば十分だった。
「かなり時間が掛かったけど、リ・プログラムは一応完了したわ。」
 香奈子はまだ何かをしているらしい。柚希菜の部屋に閉じこもったままだ。代わりに悠子が、台所でニュースを見ている俺の所に報告しに来ている。
 あれからもう半年近く経つ。それだけ時間が掛かったのだから、悠子も香奈子も相当苦戦したらしい。
 こればかりは自分の中身の事なので、柚希菜は何も出来ない。柚希菜の力を借りる事無く、危険要素を排除しなければならなかった。
「とは言っても、俺には相変わらずブラックボックスだけどね。」
「私達の管轄よ。安心して任せて頂戴。」
 開発者の言葉だけに心強い。
「まぁ、何があるか分からないからね。一概に絶対安全とは言い切れないわ。その時は直ぐに連絡して頂戴ね。」
 無論、そうするつもりだし、そうして貰わないと困る。流石に専門外と言うよりは、まったくの素人だから。
 それでも俺なりに努力して理解しようと思ったし、こういった専門家の手ほどきを受けてもなお、Doris-Systemと言うのは難解なものだ。
「目的は兎も角、こんなものを実験段階にまで漕ぎ着けたのは、正直凄いとは思うな。」
「科学の業と罪よ。理由はどうあれ、一端を担った事には深く後悔するわ…」
「後の祭りだろ?こういった事は、闇から闇へ、さ。」
 自分が使っていたノート端末のモニターを悠子の方へと向ける。そこには新聞社が公開しているホームページの記事が載っている。
『河崎重工業、証拠不十分で不起訴、逆訴はせず。警察に情報出所の調査を要請。』
 そして記事の端には、広報室長と並び河田取締役のコメントが添えられていた。
『誠に遺憾。確かに弊社は義体関連の開発を行ってはいるが、医療福祉に限られている。軍需とはまったく関係無い。更に流出されたと言われているデータは弊社のものではないし、現実から懸け離れたものだ…』
 良くも悪くもこれが現実だ。内閣を始め衆参議員がひっくり返る程の大騒ぎにはなったものの、結局は企業間闘争の一部で決着が付き始めている。当然、公になる事は無いだろう。
「呆れたものね。私達が知らない間から、こういう事が繰り返されていたのね。」
「大昔から、政治と民衆は分け隔てられているのさ。」
「結局は、暗闇の中へ、か…」
 郷には入れば郷に従え、この場合は闇と言い換えるべきかもしれない。
 表沙汰にならなければ、俺達の生活も表沙汰には出来ない。した所で、マスコミを制御出来る訳でもなく、世論もこんな馬鹿げた話は信じないだろう。
 元の生活には戻れない、が人並みの生活に近い形は維持したいものだ。でなければ、こんな不便な山奥には住まないだろう。これはこれで静かでいいんだが。
「終わったわよ〜」
 何度繰り返して考えても答えは同じ。そんなループから抜け出させる様に、メンテを終えた香奈子が帰ってきたが。
「どうした?」
 やけにニヤけた顔をしている。結構時間が掛かってたから、てっきり疲れた顔をして戻ってくるかと思っていた。
「へへぇ、後のお楽しみ。博士、さ、早く。」
「だから私はもう博士でも何でも無いのよ…。じゃ、私達は帰るわね。」
「あ、ああ…」
 二人で何か約束でもしたのだろうか。今日に限って香奈子は悠子の背中を押してそそくさと家を後にしていった。
 玄関が閉まる音がすると、途端に辺りが静かになる。聞こえるのは機械の微かな排気音と森の鳥達の声だけだ。今日は風も少ない。
 裏家業を生業とするこの生活にも大分慣れてきた。柚希菜も落ち着いた生活が気に入ってきたらしい。
 二人とも在宅勤務。日がな一日、パソコンの前に居るかのんびりするかの生活だ。悠子に言わせれば「いいご身分だこと」だそうだ。
 ニュースも見終わり、俺はパソコンの電源を切ってゆっくりと腰を上げた。
 何時もならば、メンテが終わると顔を見せる柚希菜だったが、今日は違う様だ。疲れて眠っているのならそれもいいが、様子だけは見ておこうと思った。
 ベッドルームの前で足を止め、小さくノックする。
「あ…」
 寝ている訳では無いらしい。ドア越しに小さな彼女の声が聞こえてきた。
「大丈夫か?入るぞ?」
「あ、う、えっと…」
 どちらともつかない返事。このままここで待っていても仕方無いので、ノブをゆっくりと回して部屋の中を覗き込む。
「疲れているんならまた後で…って、柚希菜?」
「あ、え、えっと…こ、これは、ですね…!」
 しどろもどろになりながら、何かを言おうとしている柚希菜。だが、俺にはその声が届かない。
 柚希菜はベッド脇にちょこんと腰掛けている。それはいい。問題は、その格好だ。
 何を考えているのか、まだ昼間だと言うのに…ここから見ても判くらい、見事に殆ど身につけてない。唯一付けているのが、シンプルな黒のエプロンだ。下着すらも付けてない。髪は珍しくポニーテールにして上げているし、首には同じ色のリボンまで付けている。
「…あー…」
 言葉が出ない。
 そんな俺の反応を見て、柚希菜は項垂れた。
「あの…香奈子さんが無理矢理…。お気に召しませんか?」
 俯いた柚希菜がゆっくりと俺に近づいてくる。怒られるのを怖がっているのか、恥ずかしさの為かは判らないが、体全体がうち震えている。よく見なくてもわかるくらいに耳まで真っ赤だ。
「秀明、さん…」
 柚希菜が目の前に立つ。明るい内からこんなに彼女を目の前にしたのは初めてじゃないかと思うくらい、何か新鮮なものに写る。思わず、露出された首から肩のラインに見入ってしまい、溜め息が出そうになった。
 柚希菜は、恐る恐る俺のシャツをぎゅっと握って顔を上げてきた。赤くなった顔に、泣き出す寸前の様に目が潤んでいる。
「あの…た、お誕生日、おめでとうございます。こ、これは、その…ぷ、プレゼント…だ、そうで…」
 言われて、我に返った。自分でもすっかり忘れていたが、確かに今日はそんな日だった。
「あ、ありがとう…と、言うべきかな?…しかし、また何で…」
「か、香奈子さんが…これ以上のものは無いって…」
 あの女狐め…
「あの…私、どうすればいいんでしょう?」
「俺に聞くなっ!」
「で、でも、は、恥ずかしいですっ!」
 だったら着替えろ、と言う前に、柚希菜は逃げる訳でなく、逆に俺に抱きついてきた。
 お陰で理性を総動員しないとならない羽目になる。
 こんな格好で真っ赤な顔でエプロン一枚だけで下着すら付けてないで俺の胸の中に顔を埋めて何故か凄く暖かく思えてやけに柔らかくてしかも滑らかな背中がまる出しで目がそこから離せなくて…
 どう見積もっても理性が負ける。
「ぷ、ぷれぜんと…だめですか?」
 言葉で答える前に、どうやら俺は受け取ってしまったらしい。





 流れに乗せられた様になってはしまったが、過去を振り返った所でどうしようもない。選択肢の多さは後になってから気付くもの。
 悔いがあるのか、と問われれば完全には否定出来ないものの、それこそ今更である。今は今、先の事は先にならないと見えない。少なくとも一人じゃなくなった分、色々な事が起こり続けるが、まだ気は楽なのかもしれない。
 普通だったら出会えなかったかもしれない存在。そう考えれば、相対的に見てもかなりプラスの方になったのだろう。
 その存在は今、シーツに顔半分を埋め込んでじぃっと俺を見上げている。それを半ば無視しながら悶々と考えていたのだが、遂に耐えきれなくなり背中を向けてしまう。
 まぁ、今後は成る様にしてしか成らないのだが…老後の事まで考える様な歳でも無いけど、先の事もある程度は決めておかないと…
 だが、そんな考えも直ぐに中断させられる。今度はまるでペットの様に、痛くない程度ではあるが背中を爪でかき始めた。
 そういえば、彼女と一緒になってから一人で考える時間と言うのは激減している様だ。当たり前と言えば当たり前だが。
 ここで鬼になって突き放してしまうと“やっぱり男の人って終わった後に冷たくなる”なんて思われてしまうだろう。そういうのも癪だ。
 ここは一つ深呼吸をして、大人の対応をするに限る。
「どした?」
 ゆっくり振り返ると、“う〜”という呻り声を上げそうな顔をした彼女が居る。そして、俺と目があうと嬉しさと不満が交互に表情に出て、どうやら忙しいらしい。
「言わないと分からないぞ?」
「う〜…」
 結局、呻った。やや間を置いてからか細い声で答える。
「あ、あの……だっこ…」
「え?」
「その…ぎゅ〜ってして欲しいんです…」
 言い終わる前に、耳まで真っ赤にした彼女は半ば強行手段で俺に抱きついてきた。こうなってしまったら手の遣り場は一つだけ。
 言われた通り少しきつく抱き返した後、ゆっくりとその力を緩めながら彼女の背中を柔らかく撫でていく。
 彼女の心臓の高鳴りが直接聞こえてくるが、不思議と身体からは力が抜けているのがよく分かる。
 ま、余計な事は今は考えるなと言う神の啓示だとでも思っておこう。今後どうなるかは分からないが、今はこうしている事の方が彼女も望んでいる。
「あ、あのですね、秀明さん…変だと思われるかもしれないけど…」
「なんだ?」
「…あの…今とっても…その…秀明さんの……ところにキスマーク付けたいっていう女の子の気持ちが分かるなぁって…」
「あぁ。俺も今、猫耳カチューシャの存在の偉大さを思い知っていた所だ。」
「……」
「………」



 結局、どう足掻いた所で何も変化の無い一遍した日々というのは手に入らないものなのだろう。誰かと出会い、それが偶然だとしても、自分の生きている内に何らかの影響を与えてしまう。
 普段何気なく過ごしていた一般的と思われる日常でも、こんな変化が常に隣り合わせになっているのかもしれない。
 俺は偶々、そこに足を深く踏み入れた一人に過ぎないのだ。



「秀明さん…特殊性癖?」
「お前もな…」
 余り深く踏み入れるのも、考え物だろう…















おしまい









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この物語はフィクションです。
物語中に登場する国家・場所・団体・企業・個人等、
それらを含めた全ては、実存のものとは一切関係有りません。
それらについてお問合せの無い様、お願いします。
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