この小説を、ネットで知り合った心の友、

そして同じ執筆家の主命氏に送る。


「刻み込む青春が、常に君と共にあらん事を」

Maxfill's Short Story : MA-BO-RO-SHI

そういった状況になる事が、こういう空間には在るらしい。誰もが体験し、そして感じる筈だ。
既観感とはまた違う、おかしな感じ。
ただ、それを見過ごしてしまうか、正面からぶつかるハメになるかの、僅かな差だけだ。
学校。
日本の最高学府である大学。
それなりの目標を立て、それなりの努力をして入った大学。もう二年も居た所為か、その時の苦労なんてのは、とっくに忘れ去っている。
そして自分の希望で入ったにも関わらず、それだけ月日が流れてしまうと、勉学をする自体が段々と面倒になってきた。
無論、単位を取り、卒業し、またそれなりの目標を見付けて、希望の会社に就職する為にはやらなければならない事だ。
溜めっぱなしの課題も処理して、毎日の様に受けなければならない講義に付いて行かなくてはならないのは重々承知だが、やはり面倒だから後回しにしてしまう。
講義の最中もそうだ。
教授の話は、本当に半分しか頭に入ってこない。いや耳にさえも入ってない時がある。
そんな山積みになった他の課題が気になったり、友人と談話を楽しんでいた事を思い出したり、彼女が欲しいと思いつつもアプローチしていない女のコの事など、雑な事や途方もない事を考えているので精一杯だったりする。
今もそうだ。
初老の教授が遅々と書き進めている黒板を機械的にノートに写していく。
梅雨が明け、夏ももう近くまで来ている所為か、広い講堂の中には、その広さを贅沢に思える程の生徒しか居ない。他は皆、遊びの準備に忙しいのだろう。
俺にも友人は人並みに居るが、今年は遊びに行く予定なんかはまだ立ててない。似たもの同士が多いのか、その日その日の流れに任せて遊びに行っているから、計画なんて大層なものは起てたりしないだろう。
それでも入学当時からの仲の良い連中とは、恒例の様に8月の半ばに熊本へと遊びには行っている。多分、今年も行くことになるだろう。
それが唯一の計画になる。去年もそうだったから、これは確実だ。
夕方に車で出かけて、そのまま高速道路を強行軍し、翌朝には熊本に到着。そして朝一番で温泉に入り、昼はバーベキューや観光を楽しんだりする。
『いいなぁ、学生は。』
インターネットで知り合った社会人の友人達は、口を揃えて言う。
『そういうのは、学生のウチにしか出来ないからね。』
そんな事は重々承知だ。だから今の内に遊んでいるんじゃないか。
講堂の窓に目を向ける。そこには既に夏の到来を示す、熱いくらいの日の光が挿しこんでいる。
もう教授の講義に耳を戻すつもりなど無く、その光を細い目で見ながら、去年の楽しい思い出に更け込んだ。
だが、それは予想よりも遥かに早く中断されてしまう。
「ああ、もうこんな時間か。言ってあったレポートは再来週までに提出する事。今日は以上。」
講義は聴いてない。だが、教授のその言葉だけはハッキリと聞く事が出来た。
教授が歩き出すのと同時に辺りが賑やかになる。
俺は背伸びをして、意味も無く広げてあった本とノートを閉じ、今日の最後の講義が終わった事を満喫しようとした。
……まただ。
前もそうだった。早めに終わる日に限って同じ事を感じた。
誰かの視線。いや、誰かじゃない、彼女だ。
決まって俺の二段前に座り、この講義を受けている。そして俺が帰ろうとする時、そのコから視線を感じるのだ。
だが、俺が見返すと、そのコはこっちを見ていた素振りなんて見せずに、帰り支度をしている。
今もそうだ。彼女は帰り支度をしている。
…何なんだ?
気にならないと言えば嘘になる。
他で会う事もないし、いつもここから遠めで見ているから分らないが、少なくとも彼女は可愛い部類に入るだろう。
ショートカットの小さい頭。その大きさに見合う細いラインの身体。彼氏くらいはいるだろうな、と思える女のコだ。
だが、一度も会話をした事も無ければ、共通項なんてのは同じ大学くらい。あとは赤の他人。分り易いくらいに「知らない人」だ。
俺がずっと彼女を見ていると、彼女は気付かないのか、そのままこの部屋を後にしていく。何時もそうだ。
横顔が少しだけ見えて、あとは姿を消す。
俺は見えなくなるのと同時に、後片付けをやり終えて同じ様に教室を出る。あとは遊びに行くなり、家に帰るなりするだけだ。
今日もそんな事だろうと思い、彼女の姿を見送らずにさっさと帰る準備を再開した。
「ねぇ、秀昭君…だったよね?」
それは俺の行動を1分近く止めるには十分過ぎるものだった。
驚く、という事を本当に久しぶりに感じてしまった程だ。
「え?」
長い間の後、俺の口からやっと出た言葉、いや音と言ったほうがいいかもしれない。擦れた声で答えるのと同時に、力の抜けた手から、最後に鞄に入れようとしていたノートを落してしまう。
「ゴメン、驚かせちゃった?」
笑いながらも苦虫を潰した様な顔をしながら、落した俺のノートを拾ってくれた「彼女」。
俺の推測の中では、既にこの講堂から出ていっている筈の、いつもの彼女が横に立って話しかけてきた。
始めて間近で見る彼女の顔。
どことなくあどけなさを残した幼顔。背は大きくは無いが、すっかりと大人に成長している身体とは少しアンバランスかもしれない。
「で、秀昭君…でしょ?」
ボーとしながら彼女の顔を見続けている俺に、もう一度同じ質問を繰り返した。
「あ、ああ…」
また言葉にならない音で返事をしてしまった。拾ってくれたノートをゆっくりと受け取った。
たぶん、俺の顔は驚いた表情のままだったのだろう。彼女は少しの間の後、クスクスと笑い始めた。
「何?」
俺はその事に気が付かないまま、笑ってる彼女に聞いた。
彼女は笑いを収め、今度は少し怒った様な表情に変り、少し上目づかいで答えた。
「そんなに驚かなくたっていいじゃん。」
何が起こったのか良く理解出来ない。そして今彼女が言った事も頭には入ってないのだろう。俺はキョトンとしながら、そこに突っ立ったままだ。
そんな姿を見て、また彼女は笑い出した。

…小説やゲームでしか見たことのない奇妙な出会い。
学校と言う特殊な空間がそうさせているのだろうか?
まさか自分が身を持って体験するとは思わなかった…。





〜 幻 〜




別に悪い気はしない。いや、むしろ嬉しいくらいだ。
時たま、街並みのショーウィンドウに映りこんでいる自分の姿を確認する。ニヤけた顔をしながら歩いていたら不様だからな。
多分、ついさっきまでの顔とは全く違うふうになっている筈だ。自分でもそれは分かる。
だが、何故そこまで急激に変化したのかは自分でも分らない。雰囲気に流され易いのか、ノリに弱いのか。


…電車の中は始終無言だった。
然程遠くではない新宿。その電車の中で俺は流れる風景を見ながら、憮然とした顔で考え続けていた。
「今日、何か予定は入ってるの?」
「え?…あ、いや…」
「じゃ、行こ。」
「え?…何所へ?」
「遊びに。」
教室でやりとりされたその会話に、俺は何かの釈然としないモノをずっと抱えていた。
彼女はそんな俺の顔をずっと見続けていたらしい。
「…不機嫌?」
「…いや…そうじゃないけど…。」
普通に考えれば、こんなにツマらない答えを出してくる男と一緒に遊びに行こうなんて思わないだろう。知らないのは当然だろうから、少し遊んだら多分彼女はつまらない思いをして帰る事になるかもしれない。
俺はそう心配しつつも、それを改善しようとはしなかった。電車を降り、地下道を通って地上に出るまで無言のままだった。
彼女はそんな俺の顔を、並んで歩きながらずっと不思議そうな顔をして見続けている。
「何所行く?」
だが、俺のそんな思考は余所に、彼女は本当に明るく答えた。
「どこでも!面白い所!」
そう言われても困るモノだ。大体さっき知り合ったばかりなのに「面白い所」と言われても、彼女が面白いと感じるものは知らない。
「……ゲーセン?」
「うん、いいよ!」
…アホか俺は。
彼女が同意したからいいものの、知り合ったばかりの女のコをゲーセンに連れていくとは…。
まるで初めて女のコと遊ぶような感じでイヤだ。
経験もあれば、彼女も何人か作った。残念ながら今は居ないが、そんな俺がこんな野郎共と遊びに行くのと同じ所に連れていくとはね。
金銭の事情もあるので、あまりゲーセンでは遊ばなかった。
だが、彼女は俺の予想を越えてはしゃぎ回った。
「こんちきしょ…あーもう!くやしいぃ!」
どうやらレースゲームが好きらしい。ハンドルを握ったままづっとゲームを続けている。俺はやり慣れたゲームなので彼女に負ける事が無かった。それが悔しいのだろう。ずっと俺に挑戦しつづけている。
「ふぁあ、上手いねぇ。」
手に掻いた汗を初夏らしいミニスカートのお尻で拭いている彼女。
俺はこの時、初めて彼女をまじまじと見てしまった。
黒のタンクトップにボタンを絞めてないブルーのシャツ。そして素足がモロに出ているミニスカート。
近くでみてもやはりセンの細い身体。力強く抱きしめたら折れてしまいそうだ。
その細さに比べて存在感がある胸。それほど大きくは無いが、手に収まるか収まらないかの丁度良いくらいの大きさだ。
そしてその手が叩いているお尻、張りのあるやや小さいものだ。
「何?どうしたの?」
イヤらしい顔つきになってない事を祈った。だが彼女は気にする事は無いらしく、キョトンとした顔で聞いてきた。
「いや、何でも…お茶でも行こうか?」


「好み」と言えば少し違う気もするが、少なくとも俺はカワイイ部類に入ると思う。
そんな女のコにゲーセンを出てからずっと…かなり自然に腕を組まれたら、はやり悪い気はしない。むしろ嬉しいくらいだ。
自然と顔をほころばしてしまう。彼女もそんな柔らかくなった表情が嬉しいのか、殆ど前を見ずに隣を歩いている。俺の顔をずっと見ているのだ。
最初はかなり気恥ずかしさを覚えた。すれ違う殆どの人々が俺達の事を見るからだ。
恥ずかしい反面、少し優越感を感じてしまう。
「ここにしよう。」
ついた喫茶店は地下にある。6時を過ぎるとショットバーになる、少しシャレた店だ。歌舞伎町の略真中にある店だが、辺りの風俗店の雰囲気とはまったく違う店。彼女を連れてココに来るのは少し抵抗を感じたが、割と気に入っている店なので、連れてくる事にしたのだ。
「うわぁ、オットナぁ。」
茶化した口調で彼女が言った。
「どう?こんな雰囲気キライ?」
「ううん、好き!」

「もしかして…アタシまだ名前言ってなかったっけ?」
席につくなり、彼女は困った顔をしながら唐突に聞いてきた。
「そう…だね。」
…失敗した。俺は彼女の名前を聞くべきだった。俺自身も今の今まで気付かなかった。
多分、俺が彼女の名前を一度も口にしてないのを気付いたのだろう。
「ゴメンねぇ!無理矢理誘っといて名前も名乗って無いなんて…。」
両手を顔の前で合わせながら、テーブル越しに俺の方へ乗り込んで来た。
「アタシ、ミズキ!香田瑞希。宜しくね!」
「オレは…」
「知ってるよ!秀昭君でしょ?」
まるで子供の様に屈託の無い笑顔で答える彼女。懐かしい様な、そして新しいものに出会った感触がする。凄く新鮮な笑顔だった。
「なんでオレの…」
名前を知っているんだろう。その質問をしようとした矢先にウェイターが邪魔をした。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
まだ若いウェイター。会話の途中で割り込んでくる辺りが、まだ店に来てから間も無い事を示していた。
だがここで怒っても仕方が無い。彼女はミルクティー、オレはコーヒーを頼んだ。
「アハ、何か嬉しいなぁ!秀昭君とこうして遊んでるなんて。それでね…」
喜んでくれて何よりだ。それはいいのだが、彼女は俺に喋らせる隙間を与えない程、喋り続けた。本当に嬉しそうだ。
別にイヤじゃなかったし、確かに彼女の話す事は面白い事が多かったから、俺は相槌を打ちながら彼女の話しを聞いている。
「おっかしいのよねぇ!この前の勧誘員なんてさぁ…」
不思議とこのコと話しているとつまらない思いはしない。同じ様に喋り上手な女のコは居るけど、大抵は途中で飽きてしまうか、最初から聞く気がしない。だが、このコは違った。
表情が豊かな所為だろうか。時たま身振り手振りで状況説明までしてくれる。分り易い。
そのあどけなさが残る顔もあるが、表情が余りにも自然だ。何か大人びた雰囲気を持たず、素直な表情と声で話しつづけてる。凄く好感が持てるのだ。
ふと彼女はグラスを持ち上げた時に腕時計を見た。
「あ、もうこんな時間なんだ!早いねぇ…」
「そっか、帰るの?」
特に深い意味は無かった。単純に彼女が帰る時間になったのだろうと思っただけだ。
少し残念ではあるけど、今日知り合ったばかりで連れまわす訳にもいかないし、そもそも「彼女」にする様な雰囲気でもない。別に自分も何かを期待してた訳じゃなかった。
「…」
さっきまでの明るい表情は消え、彼女は俯いて無言になった。何か悪い事でも言ったのだろうか?
だが、その顔が少しだけ上がり、お願いする様な小さな声、そして上目遣いで俺の方を見た。
「…ねぇ、飲みに行かない?」
予想を遥かに越えた返事。
俺は驚き、返答に困ってしまう。
「…女のコからこういうの誘うのって…おかしいかなぁ…」
また俯いた。
何を焦っているのだろう?
いや、彼女がじゃない。自分が焦っている。何も答えてない自分が酷く不甲斐なく思う。
「…か、構わない…けど…。」
それでも考えた末に出てきた言葉がこれだ。全く気が利かない。いや、自分がそんなに不器用とは思わなかった。
「ほんと!?秀昭君は大丈夫なの?」
普段なら「何が大丈夫なんだ?」とツッコミを入れる所だが、今は何故か余裕が無い。それに自分の名前を言われたのがヤケに気恥ずかしかった。
俺は黙って顔をゆっくり縦に振る。彼女に躊躇してるんじゃないかと疑われても仕方の無い振り方だ。
「良かったぁ!じゃ、美味しい所知ってる?」
彼女は満面の笑みで聞いてきた。
然程美味しい所と言うのは知っている訳じゃないが、安くて居心地の良い場所は何件か知っている。また俺は小さく頷いた。

連れていったのは少し離れた和風の居酒屋。仲の良い慣れた友人であればチェーン店で済ます所だが、それでは申し訳無い気がした。チェーン店程ではないが安い店。料理もちゃんと作ってから出してくれる美味い店だ。
少し古びた田舎風の内装。同じ世代らしい人も居るが、そんなに五月蝿くは無い。程よい大きさの会話だけが聞こえてくる。BMGもささやかながら流れている。
白熱灯の丁度良い灯りの座敷に俺達は座った。
「生中二つ。刺身の盛り合わせと肉じゃが、粗引きソーセージにツナサラダ、あと牛タン塩焼きとホッケね、厚巻き卵も。…キライなモノはある?」
「大丈夫。」
「じゃ、それで。」
我ながらレパートリーが少ないかなとは思いつつ、居酒屋のスタンダードなメニューを選んでしまう。だが、ここの店の料理は他とは少し違う。彼女も満足する筈だ。
…何故、満足させたいんだ?
彼女が言った「美味しい所」だとは思う。だが、その言葉を真に受け、それを実行する事は無いのだ。別にこれから長い付合いになるかどうかも分らないコの為に、ここまでする事があるんだろうか。
「あ、ほんと!美味しいぃ〜!」
ビールが来た後すぐに、サラダと厚巻き卵が来た。彼女は早速箸を取り、それを口に入れた直後の言葉だった。
俺は満足げな顔をして答える。
「でしょ?」
出来たての熱い卵焼きを、口に頬張りながら嬉しそうに食べる彼女。俺はその顔を見ながらニコニコしているに違いない。
実際嬉しいのだ。連れてきた店で美味しい物を食べさせる、そして喜んで貰える。俺は料理を手にする前から、腹が膨れる様な思いだった。
ビールを流し込みながら彼女の顔を見続ける。
程よいタイミングで頼んだ料理が次々と運ばれてきた。彼女はそれらを摘みながら、にこやかに話し続けている。
そんなに酒に強くないのだろうか。ビール一杯目を飲み終わる頃には既に顔が上気し始めていた。
「お代わりは?」
自分のと、そして彼女の空いたジョッキを隅に寄せながら俺は聞いた。
「もちろん!」
意気揚揚で答える彼女。自分のペースを守って飲んでくれればいいんだが、と少し心配してしまう。
だが、それは無用な心配かもしれない。

既に三杯目になっても「潰れる」素振りは見せなかった。顔はもう赤くなってはいるが、喋り口調もトイレに行くときの足もまだしっかりしている。丁度ほろ酔い加減くらいなのだろうか。
「秀昭君って…カッコいいね。たまにスッゴク渋い顔する時もあるし。」
「へ?」
「あはははははっ!」
からかっているのだろうか?
時偶、彼女は会話の途中で唐突にそういう事を言ってくる。
「えへ、酔っ払っちゃったみたい。」
首を少し傾げ、両手で頬杖をしながら目を細めて笑う。
…かわいい。
心臓が飛んだ。いや、逆に無くなってしまったかと思うくらいに苦しくなった。俺はジョッキを持ち上げたまま、彼女の顔を見て止まっている。
久しぶりの感触。こんな思いは中学生以来体験してない様な気がする。同時に自分が随分と歳を重ねてきた事を思った。
「…怒ったの?」
俺の表情が曇ったらしい。彼女は心配した表情で顔を覗きこんできた。
「い、いや…違うんだ。」
はぐらかす様に、俺はグラスに残っていたビールを一気に飲み干した。
「おお!男意気ぃ!」



Maxfill's Short Story : Phantom Heart





夏が近いと言えども、まだ夜は少し冷え込む。酒で上気した体には、実に気持ち良い空気が肌を冷ましてくれる。
「そうなんだ!家近くだね!」
何故か俺と同じ電車に乗り、同じ駅で降りた彼女。更に一緒の方向へと歩きながら彼女は言った。
「…ってウソ…。本当は中野。」
…何て事を…
中野。新宿だったから電車に乗る時から全然違う方向じゃないか。
本当に俺を驚かせるコだ。走って駅に戻れば、まだなんとか終電には間に合う時間だ。俺は足を止め、駅へと連れていこうとしたが、彼女は付いてこない。
「今晩…泊めて欲しいな…。」
俺は思わずその場にうずくまってしまった。
…何故なんだ?今日知り合ったばかりの男の家に普通泊まるか?親は心配しないのか?
彼女が何を考えているのか本当に分らない。顔に手を当て、何とも言えない顔をする。
「…ゴメン…さすがに迷惑だよ…ね…」
俺の背中に話しかけてくる彼女。そしてその直後、背中の彼女の気配が消えた。
振り返り、その姿を確認しようとしたが既にそこには居ない。見渡すと随分先にトボトボと歩いている姿を見つける事が出来た。
流石にこんな夜更けに女のコを一人で歩かせる訳には行かない。放っておくという選択肢もあったが、俺の行動の中にはそれが含まれていなかった。
俺は走って追いかけた。
「いいよ、ウチに来なよ。」
彼女の腕を掴み、やや強引に振り返らせる。足を止め引っ張られる形になった彼女。
俯いて何も答えない。だが、ゆっくりと俺に近づきその小さな顔を胸に埋めてきた。
泣いているのだろうか?
確認は出来ない。ただ彼女のその温もりが胸全体に広がっているのは感じ取れた。
だが、いつもまでもこのままココに居る訳にもいかない。
彼女の手を取って、俺達は歩き始めた。


…にしても現金なコだ。
特に何も無い俺の部屋に連れていくのであれば、多少の飲み物と菓子ぐらいは買っておかないとならなかった。
コンビニに寄り、それらを買っていく。
家に着くまでは彼女は大人しかった。顔を俯かせたまま黙って俺と歩いてきたのだ。
だが、玄関を開け、部屋に上げた時。
「へぇ〜、秀昭君の部屋ってこうなんだぁ〜!」
まるで初めて一人暮しの男の部屋を見た様な言い方だ。
それからは居酒屋に居た時と同じく明るい表情に戻った。
少し散らかっていたが、今更見繕っても遅い。一先ず部屋を広くする為にそこら辺に転がっている本や雑誌を棚に戻していく。
彼女はこの質素な部屋、本棚に並んでいる漫画と大学のテキストや関連図書、ベット、こじんまりと置いてあるパソコンを見て廻った。
何となく、自分の部屋を見られるのは恥ずかしい。普段は友人くらいしか上げてないので余計だ。
飾りっ気が無いかな、とは自分でも思うが、そんな所に金を掛けるのも馬鹿馬鹿しい。どうせ就職したら他に引っ越す事になるかもしれないから。
「テキトーに座ってて。」
部屋を見渡している彼女を眺め続けるのもオカしいので、俺は買ってきたジュースを持ってこようと狭い台所へと行った。
普段、あまり使われていないコップを出し、水で洗う。ビニール袋からジュースを取り出し、二人分に注いだ。
ペットボトルを冷蔵庫に入れ、お菓子を持って部屋に戻る。
「ありがとぉ。」

それから40分くらいだろうか。
何気ない会話がぽつぽつと続き、日付も変ってしまった。
その会話の切れ目の所で彼女は何気なく言ったのだ。
「シャワー、借りていい?」
家に帰り楽な姿勢をした所為か、丁度良い酔い加減になっていた俺は流す様に答えてしまった。
「ああ、そこにあるから。」
ユニットバスの方向を指す。
「ゴメン、タオルも貸してくれる?」
襖の近くに重ねてあった、洗濯したてのタオルをまた指差す。
「そこのヤツ、自由に使っていいよ。」
「サンキュ。」
…ばたん。
ドアが閉じられてから気付いた。
…シャワーを浴びる??
いや、浴びる事自体は何もおかしくは無いのだが、無防備すぎやしないか?
彼女は何の躊躇も無しにユニットへと消えた。そしてシャワーのお湯を出す音が聞こえ始める。
しかもウチのユニットは何故か鍵がないタイプのドアだ。彼女はそれに気付いて無いのだろうか?
覗こうと思えばシャワーだってトイレだって覗く事が出来る。
俺は楽にしてた身体を起き上がらせ、悶々とした空気を断ち切るべく気合を入れなおした。
だが、向こうから聞こえてくるシャワーの音がそれを邪魔する。
単なるお湯が流れ出ている音でしかない。だが脳裏ではその音だけで彼女の姿を想像する事が余りにも容易に出来てしまう。
「…一体何を考えてるんだ俺は?」
つい独り言を声に出してしまう。
手持ちぶたさと何かをしなくては、と既に読んだ漫画を本棚から出し、別な考えに持っていこうとした。
本を開き読み始める。だが、内容は既に知っているものだし、特に再読しようとしているものでもなかった。
頭に入らない。
ページを見てはいるのだが、頭の中にあるのは彼女の姿。
「…何を期待してるんだ、俺は…。」
座椅子に深く座りこむ。その時、中途半端に興奮している下半身に気がついた。
「…ガキか俺は?」
持っていた漫画を顔に被せ、目の前を暗くし、無心にしようと努力した。
だが空しい争いも束の間、彼女がユニットから出てくる音が聞こえた。
「あー、サッパリしたぁ!アイガトねぇ!」
「ああ。」
視覚を閉ざしている所為か、嗅覚に神経が集中する。風呂上りの女性の独特な香りが漂ってきた。
中途半場だった下半身が、一気に自己主張を露にしてきた。ジーンズだったのが幸いしたのかもしれない。その形を彼女に悟られる事は無いかもしれない。
「洋服掛けたいからハンガー貸してね。」
「ああ、テキトーに使っ……え?」
俺はガバっと起きあがった。同時に顔に被せてあった漫画がずり落ちる。
何時の間にか部屋の電気が常夜灯のみになっていた。その薄暗い部屋の中に、タオル一枚巻いただけの彼女の姿があった。
「あ、な、お、おい…」
細いスタイルの良いラインがくっきりと見える。
少し短いタオルの所為か、ギリギリまで太股が露になっている。下半身が最大稼動を始めたのは言うまでもない。
恥ずかしいのか、彼女は胸元を押さえながら俺の直ぐ後ろに廻りこんだ。そして、風呂上りの上気した体を俺の背中に押しつけてきた。
「恥ずかしいから…あんまりみないで。」
恥ずかしいのなら、そんな格好を、というツッコミが既に出来ない状態になってしまった。
心臓の鼓動が一回大きく鳴る。そして暫く止まった。
「ねぇ…秀昭君…」
彼女の唇が僅かに耳元に当たる。止まった心臓が、今度は怒涛の連打を打ち始めた。
「して…欲しいな…。」
鼻腔の奥にやたらと熱いものを感じる。このままで行くと間違い無く流血するだろう。
「な…何を?」
俺は笑った。笑うしかない。明るい場所であれば、必ず極端に引き攣った俺の笑いを彼女は見る事が出来ただろう。
「……エッチ…。…秀昭君はそういう事女のコに言わせるのね…。」
彼女はそんまま俺を後ろから強く抱きしめた。そして僅かに触れていた唇を耳に当てる。
俺の動きは封じられた。
今度は唇とは違う感触が当たる。舌だ。
小さな範囲を舌の先だけで、弄る様に動かし始める。
俺の身体が僅かに震え始める。
最後の箍を外す様に、今度は耳を噛み始めた。
「ん。」
噛みながら吐息が当たる。
そして壁は壊れた。
俺は急に顔を彼女から離した。薄暗くて良くは見えなかったが驚いた彼女の表情が想像出来た。
そして身体ごと振り返り、彼女を強く抱きしめる。
何かを言おうとした彼女の唇を自らのもので塞いだ。
「ん……う……」
熱い。
しっとりとした彼女の背中に右手を回し、更に抱き寄せる。左手は彼女の頬に手を添えた。
「あん……んっ……」
一瞬唇を放し、今度は彼女が求める様にキスをしてきた。
手に濡れた感触がある…。涙だろうか?



空気が軽過ぎる。いや自分の体重が無くなった様な感じだ。
彼女の頭が自分の胸に乗っているにも関わらず、その重みを感じない。それどころが自分がベットから浮いているかと錯覚している。
彼女とそして自分の汗がシーツに染みている。
そして確認する事は出来ないが、最中に初めてだと言った彼女の証しがある筈だろう。
俺はその言葉を聞き、全てを彼女の為に集中させた。
壊してはイケナイ。痛い想いをさせてはイケナイ…。
その努力は報われたのか、彼女は然程痛みを感じずに、達する事が出来たらしい。
今は俺の胸の上でゆっくりと呼吸をしている。
やがて互いの息も落ちついた頃、彼女は頭だけを上に乗せていたが、今度は身体全体を預けてきた。
心地よい重みと温もりを感じる。
「…エヘヘ…すっごいキモチ良かった。」
照れながらも舌を出しておどける顔をした。そして自分の鼻を俺の鼻に遊ぶように擦り付けてくる。
「…どうして?」
どうして俺なんかと?
こんな時に聞く事じゃないかもしれない。けど、俺は何故かそんな事を口に出してしまった。
彼女はその遊びを止め、俺の肩に顔を埋めて答えた。
「アタシ…5日後には死んじゃうんだ。だから大好きな秀昭君に抱かれたかったの…迷惑?」
シーツ越しのくぐもった声。
「ずっと好きだったの…」
一体何の事だ?5日後?
俺がその事を聞こうとした時。
「ぷはぁ!!」
勢い良くシーツから顔を放す彼女。
「なぁ〜んてね!…でも大好きってのはホント!」
また俺の上に倒れこんできて、キスをした。
「だから…もっと抱いて欲しい…」
薄暗い灯りが彼女の潤んだ目に反射する。
火照った彼女の身体と、その表情に俺は感動すら覚えた。彼女を抱きしめ、そして深いキスをする。
折れるギリギリまで強く抱きしめる。イトオシイ…。
無意識の内に彼女の首筋から肩に噛みついていく。彼女はそれが嬉しいのかその度に可愛い声と同時に俺を強く抱きしめてくれた。
「愛してるの…秀昭君……」
もう何も考えられない。耳に入ってきたその言葉だけが、理解出来た。





それから俺達は数日間を共に過ごした。
「親にはちゃんと言ってあるから、心配しないで。」
そうは言ったものの、やはり少し心配してしまう。正直に言ったのかどうかは分らないが、親もよく何も言って来ないものだ。
そんな心配もあったが、俺は生まれて初めてと言っていいくらい、新鮮で充実感あふれる日々を過ごす事になった。
学校をサボり、色々な所に行く。遊園地、買い物、映画…。すごくスタンダードと言うかまるで高校生の初々しいカップルが行くような所ばかりだが、それでも俺は楽しめた。普段であれば、絶対に面倒くさがって行こうとはしないだろう。
だが、彼女と行くと何故か楽しい。それは彼女が心から楽しんでいる姿を見るのが…かもしれない。
いっその事、このまま…。
だが、彼女は三日目の夜には帰らなければいけないらしい。
「お願い、抱きしめて…キスして…。」
帰るのがイヤなのだろう。涙目で俺に訴えながら身を預けてくる。
俺も帰すのがイヤだ。だが、二度と彼女と会えない訳じゃない。ここは大人しく帰すべきだろう。彼女にも生活があるだろうから。
それでも名残惜しい。俺は折れそうな彼女の身体を強く抱きしめ、その温もりと柔らかさを身に刻み込む。
深く、そして長いキス。

俺はいやにガランとした自分の部屋を見渡し、性急な独り言を言ってしまう。
「次に…いつ会えるだろう…。」


また大学生としての生活が始まる。
講義に出て、ノートを取る。
だが、今まで以上にその内容は身に入ってくるものじゃなかった。いつもの席に彼女が居ない。
そして、その席は俺の隣に移っている事も期待していた。
彼女の姿はこの講堂の中には居ない。
…一体、何をしてるんだ?
嫉妬にも似た苛つきがグルグルと頭に駆け巡る。
もう一週間も経つのに…。



そんな事が4度も続くと慣れてしまったのだろうか。
既に一月も経つのに姿もなければ連絡も無い。
…遊びだったんだろうか?
最近はそう考えてしまう。そう考えた方が気が楽になるのもあった。
もう彼女の姿を探す事も無く、ダラダラとした生活に戻るだけだ。
学校も休みがちになり、今日も久しぶりに出てきたというくらいだ。

「よぉ、秀昭。大変だったな?」
キャンパスを出る校門の前で、久しぶりに会った友人が話しかけてきた。
コイツは何かと衝動的に遠出に出かけるヤツだからキャンパスでは滅多に会う事が無かった。今度は何所に行ってたのか聞きたい所だが、何やら意味深な表情をしているので聞けなかった。
「何が?」
別に大変な事なんかはしてない。確かにここら辺ずっと不機嫌な顔を露にしているかもしれないが。
「あのコだよ、あのコ。香田瑞希って女のコ。付合ってたんだろ?街で見かけたよ。」
そんなに広い交際をしている訳じゃないが、友人と言うものは恐ろしい。いや、世間の狭さが怖いな。一体何時、何所で見かけたんだろう。
だが、その友人は俺がその質問をしようとしたが、お構いなしに話しを続ける。
「交通事故だったなんてなぁ…。葬式にも出たんだろ?」
妙に深刻そうな顔で言った。
…交通事故?…葬式??
「何の事だ?」
「だからミズキってコだよ!先月トラックに轢かれて…その…亡くなったんだろ?」
「はぁ?」
一体何を言い出すんだ、コイツは?
「ショックだよなぁ…。ここん所、お前の姿見かけなかったから、大変だったんだろうって。電話しようかとも思ったんだけど…なんかさぁ…」
友人の話しは続いた。だが俺の頭にはその言葉は入ってこない。
ふと、頭に彼女の言葉が過る。
『アタシ…5日後には死んじゃうんだ。だから大好きな秀昭君に抱かれたかったの…迷惑?』
…まさか…。
『お願い、抱きしめて…キスして…。』
彼女の物悲しい訴える目。
…そんなバカな…。
俺は話し続ける友人を余所に、校舎へと戻り公衆電話を探し始めた。
こういう時に携帯電話を持っていない事が悔やまれる。携帯が普及し、そんなに使われなくなっている公衆電話の数はめっきり減っている。探し出すのに時間が掛かってしまった。
だが、電話の前に付いた途端、自分がとてつもない失敗をしている事に気付いた。
…彼女の家の番号を知らない…。
学校で何時も会えると踏んでいたのが失敗だった。何かあった時に聞けばいい、その考え自体が失敗だった。こんな「何かあった時」が直ぐだなんて。
俺はそのまま事務局に飛び込み、彼女の電話番号を調べ様とした。
「…学部三年の香田瑞希さんの電話番号を教えて下さい!」
だが、その事務のおばさんはいかにも事務らしく答えるだけだった。
「そういう個人情報は教える事は出来ないわよ。」
こちらに振り向く事さえせずに、ぶっきらぼうに答えるおばさんに、俺は衝動的に掴みかかった。
「緊急なんだ!彼女に何かあったのかを知りたいんだ!教えて下さい!!」
カウンターから身を乗り出し、切迫な顔でおばさんに掴みかかる。ヘタをすれば、そのまま首を絞めかねない勢いだ。
「は、放しなさい!!」

「キミは何なんだね?」
「彼氏です。」
事が事だけにサラっと言ってしまった。だが別に俺はそれでいいと思う。
後から来たおばさんの上司らしき人に事情を話した。押し問答をしている間に日が暮れ始めていた。
「…仕方が無い…。特例は見とめないのだが…。」
言いたい事は理解しているつもりだ。だが今は番号を聞くのが最優先だろう。俺は手をカタカタと震わせながら、限界までその上司の長い話しを聞いていた。
「お手間を掛けさせまして、申し訳ありません。」
嫌味っぷりをたっぷりと含ませながら、俺は事務局を後にする。そしてもう一度電話の前に辿り着いた。
事務局で教えてもらったのは実家の電話番号。そこでも事故の話しをされたが、俺にはとうてい信じられない話しだった。ともかく電話をして確認したい。
『もしもし、香田ですが。』
8回目のコールで電話に出たのは、多分母親だろう。
「あ、あの…」
何故か緊張してしまう。心臓が高まり、さっきとは違う震えが受話器を揺れさせている。
「わ、私…大学の…その…」
『秀昭さん…ですね?お話は聞いております。』
「は、はい、そうです。」
何故俺だと分ったのだろう。あの数日間の事は真面目に親に話していたんだろうか?
『お話したいことがあるんですが…電話ではなんですので…』
分りました、今からお伺いします、とは言える時間では無くなっていた。いやまだ夕方は夕方だが、彼女の実家は電話番号からすると静岡にあるらしい。
「その、宜しければ…明日にでもお伺いさせて頂けないかと…。」
『構いませんよ。お待ちしております。』


寝つけなかった。
結局寝不足のまま静岡へと来てしまった。だが、電車の心地よい揺れの所為で少しは眠る事が出来たのは幸いかもしれない。
彼女の面影を僅かに残した母親が、俺に冷たいお茶を入れてくれた。
「どうぞ。」
母子家庭なのだろうか。他の家族が住んでいる気配が無い。少しやつれた顔で事情を話してくれた。
「確かに娘は先月事故で死にました。家に帰る途中で轢かれたそうです。」
既に泣きつかれただろう母親の顔がそこにある。
「時が経ってから秀昭さんから連絡があるだろうと、その時は暖かく迎えて欲しい、と娘は言ってました。優しそうな方なので安心しました。」
目を細くして笑みを浮かべる。その顔に俺は懐かしさを感じられずにはいられなかった。
「…そう………ですか……。」
この時初めて俺は、彼女の事故が本当の事だと理解できた。
背中にこれ以上無いというくらいの重さと、同時に自分の中身が全て消え失せた感覚に捕らわれた。
そしてガックリと項垂れてしまう。
時が余りにも過ぎ去ってしまった所為か、不思議と涙は出てこなかった。
「お墓、是非ともお参りして頂けないでしょうか?」

二人でタクシーに乗り、彼女の眠る場所へと向かった。
市街地からは離れ、ゆったりとした山の方へと進んでいた。
車中、母親は気を使っていてくれているのだろうか、俺に何気ない会話を投げかけてくれた。
「学校はどうですか?一人暮しは大変でしょう?」
と。俺は細い笑いかもしれないが、その会話に返事をしていく。
こじんまりしたお寺の前でタクシーは止まった。
東京と違い空気が澄んでいる。そして緑に囲まれた中にひっそりと立っている寺が印象的だ。
俄に話しが信じられなかった俺は、ここに来るまで彼女が居なくなったとは実感できずにいた。その所為で何も用意はしていない。
「これを。」
この母親に頭が上がらない思いだ。お供え用の花と線香を俺に手渡してくれる。
「す、済みません!」
「いいですよ。お気になさらずに。」
深々と頭を下げる。
そして、彼女の家の墓の前まで案内された。
『香田瑞希 享年20歳…』
その文字を見て、俺はまた愕然としてしまう。
「私は向こうでお待ちしております。それと…コレを。」
母親が差し出したのは一通の手紙。そして俺がそれを受け取ると、彼女は本堂に戻っていった。
その姿が見えなくなり、俺は暫くその墓を見つづけたが、何も考えられなくなった。
そして手に持っているものを想いだし、半ば機械的に動き出す。
すっかり夏になり、熱せられた墓石に水を流し込む。借りたライターで線香に火を付け墓の前に立て掛ける。
古くなった花瓶の水を取り替え、そこにさっき頂いた花を供えた。
ゆっくりと手を合わせ、短い黙祷をする。
そこまでしてでも、はやり信じられない部分があった。悪い夢でも見ているんじゃないかと。
雲一つ無い済みきった空に煌々と光る太陽が、その幻想的な思いを一層引き立ててしまう。
だが、母親を待たせているのもあり、いつまでもここに居る事は出来ない。俺は手紙の封を破り、中に入っているものを取り出した。

大好きな秀昭君へ
ごめんなさい。こんな形で貴方に伝える事しかできなくて。
でも、信じてもらえないでしょう。いえ、信じろと言うのが無理な話です。
思いきって言ってはみたものの、やはり貴方は信じていませんでした。でもそれが普通ですから…。
私の家系は不思議と自分の死に関する事だけ、先に見えてしまうらしいです。それも直前になってから。
本当に迷惑な能力だと思うけど、今は凄く有難いなぁって思ってます。
だって、秀昭君と想いを遂げる事が出来たのですから。

きっと貴方は少し月日が経ってからここに居る事でしょう。
私は何も残さずに居なくなっている筈ですから。
でも、それでいいんです。何か残してしまうと貴方に迷惑が掛かるかもしれませんから。

私は大学に入ってからずっと秀昭君の事を見ていました。でも勇気がなかなか出ずにあんな形になってしまいました。少し性急すぎた様に見えたでしょう。
でも、そうせずには居られなかったのです。
自分の死を予感してから、居ても足っても居られなかったのです。
だからせめて死ぬまでに貴方を愛したかった。抱かれたかった。

私は貴方が好きです、大好きです。…愛しています。
貴方に触れられた事、抱かれた事は一生の思い出です。僅かな一生ですが、それで全てが満たされた気分です。
贅沢を言えば、貴方に抱かれたまま死にたかったな…。

貴方との思い出で刻み込める事が出来て、私は幸せです。
秀昭君は次があるでしょうから…頑張って生きてください。
突然姿を消す私を許してください。ゴメンナサイ。
では、お元気で…。
瑞希



読み終わると同時に、今年最後の蝉の声が聞こえてきた。
全身から力が抜ける。手に持っていた手紙が石床に静かに落ちた。
何時の間にか目線の高さが墓よりも下にある。
膝が落ち項垂れている。
取り替えたばかりのお供えの花。
僅かな香りをだしている線香。
蝉の声。
蒼い空。
照り尽くす夏の太陽。
…そして後悔。
何故もっと彼女を…。
落ちた手紙を拾い上げ、そして握り締める。






「バカだよ…大馬鹿だよ…」
ここ何年も忘れていた涙が、全てを埋め尽くしていった。




蝉の声が止んだ。
幻の様な夏に終わりを告げる…














筆者後書き


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