これはほんの少し昔の話。悲劇をまだ知らない頃の話。皆で笑いあえた日の話。

 

「過去よりの使者 10」

 

 

 2時間目の授業が終わろうとする少し前、教室の後ろのドアが開いた。

 

 「すいません・・・・・遅くなりました」

 「シンジ、もうええんか?」

 「退院できたの?」

 「心配かけやがって!」

 

  クラスが急ににぎやかになった。

 

 「静かにしなさい!碇、席に着きなさい」

 「先生〜〜〜、そらないんとちゃいますか。クラスメートが無事戻ってきたんでっ

  せ。みんなで祝ったるのが当然とちゃいますか?」

 「それは休み時間にでもゆっくりするんだな。鈴原!さっさとさっきの問題に答え

  ろ!」

 

  どうやらトウジは問題を当てられて困っていたらしい。シンジの登場をこれ幸い

 と利用して有耶無耶にしようとしたのだが見事に失敗したようだ。

 

 

  休み時間になると澪もやってきた。さっそく誰かが知らせたらしい。楽しげに交

 わされる会話、シンジを間においてかわされる三つ巴の争い。誰もが望んでいた平

 和な(?)学校生活が帰ってきた。ただシンジは澪の顔を見ると時折不思議そうな

 顔をしていた。

 

 

  昼休み、シンジ達が昼食を取っているとき、不意にアスカがぽつりと漏らした。

 

 「シンジ・・・一昨日のことだけど・・・とりあえず謝っておくわ。ゴメン」

 「えっ、何のこと?」

 「・・・初号機に向けて引き金を引いたこと」

 

  他の者の箸を動かす手も思わず止まってしまった。レイに関してはすまなそうに

 うつむいてしまっている。けれど、シンジは笑っていった。

 

 「なんだ、そんなことか。別にアスカも綾波も悪くないよ。あの場合しょうがなか

  ったと思うよ。彼奴に初号機を乗っ取られた僕が間抜けだったんだから。そのせ

  いで二人を傷つけそうになったんだからあやまらなきゃならないのは僕の方だよ。

  本当にゴメンね」

 

  彼が本心からそう思っているのか、それとも彼女達を気遣っているのかは分から

 なかった。だが少なくとも、シンジに彼の父親が攻撃を命じたことだけは伏せてお

 こうと心に決めた。世の中には知らされない方がよい事実というものが、確かに存

 在するのだから。

 

 

  放課後談笑する中、シンジは澪の顔をじっと見ていた。自分に向け殺気が注がれ

 ていることにも気づかずに。

 

 「澪・・・・ちょっと聞きたいんだけど」

 「なあに?」

 「僕・・・何か澪の気に障るような事したかな?」

 「どうして?」

 

  澪は首を少し傾げながらにっこり笑って答えた。シンジ以外の者なら誰でもイチ

 コロの笑顔だ。

 

 「だって・・・・・今日の澪、一度も笑ってないから」

 「なに言うとんね、シンジ!いつも通り笑いまくっとるやないか」

 「お前大丈夫か?まだどっか悪いんじゃないの?」

 

  皆の非難を気にする風でもなく、シンジはもう一度澪に言った。

 

 「笑って・・・・・無いよね」

 

  不意に澪の顔から笑顔が消えた。初めてみせる澪の弱々しげな顔、それは昨夜病

 室で見せていた顔だった。

 

 「・・・・まったく・・・・普段はとことん鈍いくせに・・・・何でこういう時だ

  け敏感なのよ・・・・・」

 「ねえ、どうしたんだよ。僕に悪いところがあったのなら謝るから」

 「そんなんじゃ・・・そんなんじゃないの・・・・」

 

  しばし沈黙が流れた後、澪は振り絞る様に声を漏らした。

 

 「本当は分かっていたのかもしれない。でも昨日まで気づかない振りをしていたの

  かもしれない。シンジ君が変わったことを」

 「僕が変わった?」

 「シンジ君、前よりも強くっていうか、男らしくっていうか、・・・・うまく言え

  ないけど前と全然変わったわ。おどおどした感じもなくなったし。学校ではアス

  カと楽しそうにしゃべってたし、綾波さんを気遣ってる風だったし。自己主張も

  前に比べて随分するようになった。嫌いなケンカも、みんなを守るためならする

  ようになったし、・・・それに・・・・それにエヴァに乗って戦う時も自分の意

  志であんな事まで出来るなんて・・・・・・」

 「・・・・そやけど、それって良いことやないんか?」

 「分かってるわよ!そんなこと!でも・・・でもね私は今までずっとシンジ君にそ

  んな風に変わって欲しいと思ってきたのよ。だから、そうなってくれるよういろ

  んな事をしたわ、努力したの。10年間いつだって、いつだって。なのに・・・

  変わってくれなかった。それがこの街に来たらほんの数カ月で変わっちゃうの?

  私達の10年間よりこの街での数カ月の方がシンジ君にとって大事なの?だった

  ら・・・私達の10年間って何だったのよ!シンジ君にとって私って何だったの

  よぉ・・・・・」

 

  シンジには答えられなかった。答えられるはずがなかった。彼自身は自分が変わ

 ったなどという意識はなかった。いや、あったとしても答えるべき言葉を彼は持た

 なかっただろう。今まで澪の気持ちに答えようとしたことがなかったのは、紛れも

 ない事実だったから。

 

 「ごめん・・・・ごめんね。シンジ君。こんな事聞くの嫌な娘だって分かってる。

  答えられるはずが無いって分かってる。でも・・・・明日まで待って、何とか笑

  ってみるから」

 

  澪はそう言い残すと帰っていった。

 

 「追わなくてもいいのかよ?」

 

  シンジは首を横に振った。彼には分かっていた、今彼女を追いかけても何もして

 やれることはない。かえって彼女の心を乱すだけだ。シンジは自分が澪に何もして

 やれないことを感じ、無力感にさいなまされた。そんなシンジを非難できる権利は

 誰にもなかった。

 

 

  翌日、澪は確かに笑っていた。昨日のことなど何もなかったように元気に話し、

 シンジにくっついていた。シンジは澪が笑っているかどうかをその後一度も言わな

 かったので、誰も澪の笑顔が本当の笑顔か分からなかった。

 

 

 

  NERVでは最後の3者会談が行われていた。

 

 「いろいろお世話になりました。上からの命令でして、今度はアメリカに向かうこ

  とになりました」

 「また急ですね。肝心のチルドレンの心理検査はどうなりましたか?」

 

  佐伯教授は疲れたように笑った。

 

 「皮肉をおっしゃらないで下さい。そのことが単なる表向きの理由であったことは

  もうお分かりでしょう。私の本当の依頼内容はあの実験体に関することですよ。

  完全なる復活を遂げられなかった・・・」

 「つまり、実験は失敗だったと?」

 「そういうことになりますか。ただ、失敗した理由が実験体が不完全な自我しか持

  たなかったせいのか、シンジ君が私の想像を超えるほどの成長を遂げたせいのか、

  分かりませんが。あなた方にとってはこれは大きな問題でしょうが、私にとって

  はどちらでも同じ事ですから。どちらにしても、今まで私が培ってきた研究が全

  てご破算と言うわけですよ。ま、私としてはこのままここに残り、シンジ君を中

  心に徹底的に研究をしたいのですが、あの方々はそうも言ってられないのでしょ

  う。既に実験を行ってしまった以上、せっかくの研究があなた方に利用される心

  配もあるでしょうし。タイムリミットですね」

 

  ここで初めてゲンドウが口を開いた。

 

 「我々があなたの始末をするとは考えなかったのですか?あの老人どもに余計な力

  を与えぬ為に、我々がそのような行動に出るとは」

 「興味のないことですね。もし私がここで始末されるとすればNERVも所詮それ

  だけの組織と言うことですから。内部派閥に権力の独占、そんな俗っぽい組織だ

  とすれば研究の価値もありません。未練も残りませんよ。私の命でそのことをは

  っきりとさせられるのならそれも良いでしょう」

 「自分自身さえも研究材料と言うことですか」

 

  初めて佐伯教授は無垢な笑顔を見せた。

 

 「ええ。私にとってこの世の全ての命、感情あるものが研究材料ですよ。私にとっ

  て研究対象でない者は二人しか居ません、私の妻と娘です。二人の前では私は夫

  であり、父です。そこだけがあなたと違いますね、碇指令。冬月副指令、私達に

  も違うところがあるとお分かり頂けましたか?」

 

  内心を見すかされたことに動揺を見せる冬月を見て彼は笑った。

 

 「驚くことはありません。私が心理学者でもあることをお忘れ無く。あなたが私を

  見る目は碇指令を見る目と全く同じでしたからね」

 (落ち込んでいるのかと思えば・・・・・全く食えない奴だ。こいつを引き取って

  くれるゼーレには感謝しなくてはならんのかもしれんな)

 「さてと、私を始末されないのならそろそろ失礼します。いろいろと準備もあるも

  ので。またいつか会える日もあるでしょう。その時はあなたのことを研究させて

  もらいたいものですね」

 「あなたの研究が私にとって役立つ物になっていれば」

 

  思い出したように冬月が質問をした。

 

 「そういえばあなたの娘さんはどうするのですか?確か以前、チルドレン達に重大

  な影響を与えるだろうと言ってらしたと思うのですが」

 「娘の意志に任せますよ。私と来るか、ここに残るか。私としては娘と一緒に住み

  たいのですが・・・・アメリカは遠いですしね。単身赴任も仕方ないでしょう。

  どちらにしても、その結果シンジ君達がどうなるかを見届けられないのは残念で

  すがね」

 (最後の最後までこの男は・・・・)

 

  こうして佐伯教授はNERVを去った。一人はまた会うことを望み、一人は二度

 と会わないことを望んでいた。そしてもう一人の考えていることは誰にも分からな

 い。

 

 

 

 「転校?澪が?」

 「そうなるかもね」

 

  学校中に驚きが走った、特に2年A組とB組に。澪は既に彼らの生活の一部、そ

 れもかなり重要な一部となっていたのだ。

 

 「まだ決めてないんだ。父さんは残っても良い、ついてきても良いって言ってくれ

  てるし。・・・・・シンジ君、放課後少し付き合ってくれる?」

 

  この時ばかりはシンジも澪のいわんとすることが分かったのだろう。ただ黙って

 頷いた。

 

 

 

 

  放課後シンジと澪は川沿いのガード下まで来た。いつか二人で他校の生徒を叩き

 のめしたところだ。少し離れたところに野次馬が数名隠れていたが、二人は気づか

 ないようだった。

 

 

 「シンジ君・・・・・シンジ君はどうしたらいいと思う?私にこの街に残って欲し

  い?」

 「そりゃ・・・澪と一緒にいたいとは思うけど・・・・ずるいよ澪。僕にそんなこ

  と決められるわけ無いじゃないか」

 「それじゃ・・・私の事どう思っている?幼なじみとしてでもなく、友達としてで

  もなく」

 「・・・・それと転校のことと関係あるの?」

 

  野次馬連中はこけそうになった。

 

 (ここまで来てこの状況でまだ分からないわけ?)

 

  しかし、澪は笑って答えなかった。シンジに澪が笑っているかどうかが分かるよ

 うに、澪にもシンジが本当に分からないのか、ただ踏ん切りがつかないだけなのか

 が分かるのだ。長い沈黙が流れた。当たり前のことだが今度ばかりは澪も折れる気

 はないようだった。どのくらい時間がたったのだろう。シンジは澪から視線を外し

 たままようやく一言だけ言った。

 

 「・・・・ごめん・・・・」

 

  それで十分だった。それ以上の言い訳も説明も必要なかった。澪はシンジの側に

 よると、頭を垂れて額をシンジの胸に押し当てた。

 

 「本気・・・・だったんだぞ。・・・・一つだけ教えて、私の何処がいけなかった

  のかな?一生懸命努力したんだけどな」

 「別に・・・澪が悪い訳じゃないけど・・・・小学校の時のこと覚えてる?澪が言

  い寄ってくる奴への言い訳に僕を使わせてくれって言ったやつ。・・・・あの時

  から僕は、澪のことをそういう目で見なくなったんだと思う」

 「そんな前のことをまだ・・・・シンジ君らしいけど。あれってさ、・・・・私が

  シンジ君の側にいる理由を作るために言ったんだけどな。・・・それだけ?」

 「・・・もっと大きな理由は・・・・」

 

  野次馬の中のレイとアスカが息をのんだ。

 

 (まさか・・・あのことを言う気?)

 

 「・・・・僕が弱くて臆病だったこと。あの時の僕は居場所も友達もなかった。澪

  しか居なかった。だからその澪を失うのが恐かった。今以上のことを求めたら全

  てを失うことになるかもしれない。でも、求めなければ失うことはない。そう考

  えたのかもしれない」

 

  皆はシンジの背中が見える場所にいたので、二人がどのような表情で会話を交わ

 しているのか見えなかった。

 

 「・・・・悔しいけど、シンジ君のことを臆病者!って罵れ無いわ。シンジ君がど

  んな思いで10年間過ごしてきたかしってるもんね。今は恐くなくなったの?」

 「恐いさ、今だって僕は臆病者だよ。いまの僕には友達が居る。家族もいる。それ

  でも、いや、だからこそ失うのは恐いよ。もうあんな思いはしたくないから。で

  もね、今は昔と違って僕にも人に何かして上げられるような気がするんだ。ただ

  受け入れてもらおうとするだけじゃなく。それはエヴァに乗ることかもしれない、

  他の何かかもしれない、自分でも良く分からないけど。でも、そう思えるから何

  かをしようっていう気になるのかもしれない。自分のしていることが、存在が無

  意味じゃないって思えるから。もし、本当に僕が変わったって言うのなら、その

  ことが原因だと思う」

 

  澪の問いはこの間の澪の叫びに端を発した物であったし、シンジの答えはそのこ

 とに対する答えだと言えよう。

 

  シンジの胸から頭を離した澪は、視線を外したままうつむいて言った。

 

 「転校・・・・するね」

 

  シンジは何も答えなかった。本当はシンジにも分かっていた、シンジが何と答え

 ても澪が転校するだろう事は。佐伯教授は澪にとって「良いお父さん」なのである。

 そうである以上親子が離ればなれに暮らす必要はない。しかしそのことをシンジは

 言及しなかった。そのことを理由に、答えることから逃げようとしなかった。澪の

 気持ちに答えられなかった自分へのけじめだったのだろう。

  この様子を見ていたレイとアスカは同じ事を考えていた。

 

 (最後の最後まで、あのこと・・・言わなかったな。自分だけが悪いことにして)

 

  それはシンジの優しさだったのかもしれない、言うだけの度胸がなかったという

 者もいるかもしれない、単に真実を事実から目を背けただけだと思われるだけかも

 しれない。だが彼女達がそこに見た物は強さだった。ほんの一握りだけの、今にも

 消え去りそうな勇気に支えられた。

 

 

(続く)

 

 



メリーさんの部屋に戻る/投稿小説の部屋に戻る
inserted by FC2 system