「後は一人で行け」

 リズムも無く上空に舞い上がって行く轟音。

「貴方はどうするの?」

 それと共に風が生まれる。

 二人分の背丈もある金網の上をボーイング747の腹が掠めていき、小刻みに揺らしていく。

 金網を介した滑走路の反対側で、距離を開けて向かい合う男と女。足元では色褪せた草叢がざわめいている。

「俺が居れば、後はどうとでもでっち上げられる」

 急かすような声。右眼のすぐ隣にある三日月状の傷。ウール地の黒いハーフコートに身を包んだ男の右手には、ニューナンブM60が握られている。

「こういう風になるしかないのね、私達」

 諦めに染まった一言。黒の上下で固め、地面にうずくまった女の右指、煤けた赤いマニキュア。しっとりとした長い髪が、横顔を覆うように風に流されていく。

 男の唇が、動くのを躊躇っているかのように固まっている。

 女はじっと男の表情を見つめている。

 少し距離を置いた所では、車が一台、赤黒い炎を上げている。

 その煙も、別の飛行機がかき消していった。

 

 

Agua De Beber

 

 

 安ベッドのスプリングが規則的に鳴っている。

 その張本人である、一組の男女が吐く息の間隔が次第に短くなっていく。

 徐々に挑発的になっていく言葉責め。

 たった一つの窓から差し込む、昼下がりの冬の陽光。色褪せたデスクに、クッションの破れた椅子。汚い壁には顔の部分が破れかけたアイドルのブロマイドが唯一貼られている。

「東欧セルゲス共和国の首都ハドリフスクから中継をお送りしています。共産圏からの離脱を図って以来紛争の絶えないこの国では、現職大統領と新興マフィア勢力との癒着を始めとする政府高官の腐敗が噂され、年明け早々に行われる大統領予備選挙に影響するものと思われています」

 14型のテレビデオから理路整然と流れるニュース番組に、気を向ける素振りは一切ない。

 女の喘ぎ声が一層甲高くなる。頂きが近くなったのか、上半身を弓なりに逸らせる。

 その直後、古ぼけたドアが派手な音と共に開いた。一人の男が蹴り上げた右足を戻して、中に押し入っていく。

「キャッ!」

 頂点に達しかけたのも忘れて、素っ頓狂な声を上げる。男の方もさっきまでの攻撃的な形相が消し飛んでいる。

「お楽しみ中失礼するよ、年末の予算調整だ」

 急かすように女を男から放し、ベッドに勢いよく腰を下ろす。

「ア、アンタは確か……」 

 顔はおろか、男性自身も怯えきっている。青い眼。東欧辺りの白い肌。

「俺の顔を知っているようなら、話は早いな」

 髪を短く刈り上げ、均整の取れた顔。しかしやや細い目が不機嫌さを更に強調している。

 右眼のすぐ隣に三日月状の傷が走り、目尻の皺がやや深めに刻まれている。

 黒いウールのハーフコートにルーズに絞めた細身のネクタイ。歳は三十の前半だが後半と間違えられても不思議ではない。

「ちょっとぉ、警察呼ぶわよ!」

 脱ぎ捨てた服を抱えて、威勢を取り戻すように抗議する。茶髪に鼻ピアス。鉛筆の芯のような細い身体。不自然な黒い肌と白い唇。

「御心配なく、警察ならここに居るよ」

 女の方を向かず、軽くいなす。

「え、そうなの?」

 首を傾げる。

「本当だよ、ほら」

 懐から出した警察手帳だけを差し出す。それをまじまじと見つめて、女の顔に徐々にきまり悪いものが浮かび出す。

「え、あ、いや……」

 発する言葉も歯切れが悪い。

「アンタには何も用がないから、とっとと出て行ってくれ」

「え、いいの?」

 拍子抜けする。

「ま、待ってくれ! ひ、一人にしないでくれ!」

 逆に男が懇願し始める。怯えを通りこして、泣きそうである。

「関係のない奴を署まで引っ張って行く程、こっちも暇じゃないんだよ」

 男のブヨついた頬をひっぱたく。情けない男の悲鳴。刑事らしき男の顔には笑みの一つも現れず、眼は冷たい。

「何したのよ、この人?」

「いや何、店の金をちょろまかしただけのケチなコソ泥さ」

 女の方を振り向こうとしない。

「しょうがねえよ! ソープで稼いでも音羽のボスに上前はねられるんだからよ!」

 全裸の男は涙ながらに事情を説明し始める。

「ついでに奥さんにも小遣い取られているって訳か?」

 何気言った刑事の一言に、女の両眼が衝撃を受けたように見開く。

「ちょっとお、奥さん居るって聞いていないわよ!」

 金切り声が狭い部屋中に響く。思わず男は頭を抱えて縮こまってしまう。

「まずい事言ったか?」

 他人事のようにとぼける刑事。

「店が終わってからキツイのを我慢してアンタとヤッていたのに、家に帰れば奥さんとも二度目を楽しんでいたの!?」

 先程の不安とは変わって、凄い勢いでつかみ掛かって来る。刑事が止めに入るが、茶髪を獅子舞の如く振り乱し、ちっとも大人しくならない。その剣幕に男の縮みぶりは更に酷くなる。

 しかし刑事が男に背を向ける格好になった時、男は下半身裸のまま、自分の着替えを掴んで出口へ駆け出そうとする。

「あ、こら! 逃げるの?」

 女がすかさず声を上げる。それに反応して刑事が男の方を掴み掛かろうとするが、男が投げた服が襲って来る。腰を低く屈めて避ける刑事。その直後、左足を大きく踏み出して右ストレートが放たれる。男の顔正面に食い込む右拳。離れたと同時に鼻血が舞う。

 次に左フック。達磨落としのように傾く太った体。膝を落とし、脇腹を抱える。顎めがけて右アッパーが放たれようとする。一瞬眼を固くつむる。女も両手で顔を覆い隠す。

 無音。恐る恐る眼を開けると、刑事の右拳は顎の寸先で止まっていた。体中の力を奪われたようにへたり込む。女も唖然としている。

「ほら、とっとと着替えろ」

 先程放り込まれた服を投げる。おどおどしながら下着をせせこましく身に付ける。

「刑事のくせにヤクザの肩代わりしやがって」

 鼻血と涙をだらだら流しながら、ボソッと呟く。

「言ったかい?」

 睨みつける。一度狙った獲物を地の果てまでも追いかけるような鋭い殺気。

「ひいっ!」

 電気ショックを受けたように、身体を震わす。慌て振りが更に加速する。

 やがて着替え終わると、男の右手首に手錠を嵌める。女はそのまま突っ立っている。

 部屋を出ようとする時、刑事がふと立ち止まる。

「あ、そうだ」

 思い付いたように、女の方を振り向く。

「お前さんの事、母親に知らせておいたよ」

「じゃ、アタシがこんな商売しているって黙ってくれる?」

 落ち着きはないが、首を傾げ、眼には何かしらの期待。声もどこか甘ったるい。

「もう言ったよ」

 素っ気無く背を見せて、立ち去っていく。

「何だよ、このムッツリ刑事! ふざけんじゃねえよ〜!」

 再び豹変し、ブラやらミニスカートやらを投げつける。それに構う事なく去っていく二人。

 階段を降りていっても、女の金切り声はまだ続いていた。

 

 

 回転するサイレンの光が夜の周囲を照らす。

 六本木のとある交差点に屯する市警のパトカーと警官,それに野次馬。路上には大きな赤黒い大きな血溜りが広がっている。その側には白い人型が一人分。

「この界隈で死体が放置されている位で何で俺達が引っ張り出されるんだよ?」

 革ジャンにネクタイの若い刑事らしき男が頭を掻く。

「仕方ないさ、杉野。今日はほとんどの奴がクリスマス前で非番だしな」

 相棒が答える。さっきの刑事だ。

 彼の言うとおり集まった制服警官の数もまばらだ。写真撮影を行う鑑識の邪魔にならないように一歩下がる。

「所持していた免許証から被害者の名は片桐啓三,三十八歳。麻布台一丁目で弁護士事務所を経営。額に銃弾を一発受けて即死したものと思われる」

 パトカー無線を使って制服の一人が本部に情報を送っている。

「とはいえ、このガイ者じゃ捜査は進まんと思いますよ、西村さん」

 若い方―杉野大介―が話を振って来る。

「ああ、いずれ上からのお達しでストップがかかるだろう」

 溜息が漏れ出る。

「ガイ者がガイ者だしな」

 そう呟いて、西村左京という名の男は近くに聳えるモノリス状の高層物を仰ぎ見た。

 株式会社ヘイブン。六本木一帯のキャバレー、ディスコを所有し、輸入車販売を始めとする貿易、最近ではインターネットのプロバイダ会社を子会社にしている程、近年の不況とは無縁の安定ぶりである。

 もっともヤクザまがいの密入国手配や銃器やコカインの密輸の疑いで以前から黒い噂が絶えず、つい最近も脱税の疑いで国税局の査察が入った。殺された片桐は同社の顧問弁護士。脱税騒ぎの際にTVの記者達に向かって抗議文を読み上げていた。

TVで観た時も変な面だったが、実際観ると余計変だったよ」

 路上に唾を吐き捨てる杉野。

 TVでならまだいい。

 左京の呟きも、足元の下水口から沸き上がる白い煙に消えて行く。

 ふと,携帯電話が胸ポケットの中で揺れた。 

 

 

「相変わらず時間ピッタリに来るのはこちらとしても有り難い限りだよ」

 本革のチェアにふんぞり返って、左京を呼び出した張本人は言った。

 中背だが恰幅が良く、二重顎も貫禄をさらに引き出しているようだ。ヘイブンの取締役社長、音羽正文。

「いいのか? 俺のような安月給の刑事をまだ遅くもない時間に上がらせて」

 コートのポケットに両手を突っ込んだままビルが訊ねる。

 一人で使うには広過ぎる部屋。応接用の調度品と窓をバックに配置したデスク。木目の色に安っぽさは微塵も漂っていない。音羽が使用するパソコンのディスプレイは薄い液晶型だ。

「アンタだからこそ呼んだまでだよ、いつものようにね」

 腰を上げた音羽が上体を反らして左京にゆっくり近づく。

「片桐が路上で殺されたそうだね」

「ああ、俺が現場で実際に見た」

 目線を合わせてやや下を向く左京。

「アンタとの契約交渉で揉め事を起こしたのかと思ったよ」

「いや、奴との契約の延長は今年の夏に済ませたばかりだよ。何の滞りもなくね」

「そうだとは思っていたが、一応、訊いておかないとね」

 淡々とした口調だが、その裏にある左京の疑惑を感じ取れない程、音羽も鈍感ではない。

「まあ、そう言うと思ったよ。確かに奴とはこれまでにも報酬のアップを急っつかれて揉めた事もあった」

 天井を見上げる格好で、事実を隠さず自分から公表する。

「しかしアンタもうすうす気づいているんじゃないのか? 私だったらあんな大通りで目立つように始末するかってね」

 再び音羽の視線と左京の視線が対峙する。両者共に鋭い光を発する。

 事実そうだ。音羽ならもっと目立たない方法を取る。巷で言うように東京湾に沈めるとか、人知れない山奥で車の中でのガス中毒による自殺に見せかける等。勿論自身の手は汚さず、暴力団等の第三者の手を借りて。これまで音羽が現在までの地位にのし上がるまでに障害となった人間は一つの例外なくそのやり方で命を落としている。

 大体、左京自身があまり表沙汰にならないように後始末をかって出ているのだから。

「それもそうだ」

 そう答えるしかない。

「実直なアンタならそう言うと思ったよ」

 音羽はやや大袈裟に口の端を上向かせる。

「ここまで言えば私の言いたい事はわかるだろう?」

「ああ、調べてはみるよ。ただしこれはあくまでも純粋な捜査としてだからな。別にアンタに頼まれたからやるわけじゃない」

 左京はきっちり念を押した。

「それはご自由に。ま、くれぐれも私の不利になるような事がばれないようにしてくれ。アンタの裏がばれることにもなる」

 音羽は目頭を押さえて独り言のように呟く。左京の方もそれに構うことなくやや急ぐように出口へ向かう。

「忘れてはいないだろうが、アンタには五年前の疑いがまだ残っている。今度も下手な動きをすると、さすがにアタシもアンタとの今後を再考しなければならない」

 その一言に立ち止まる左京。

「それで、これが今月の報酬」

 黄色い封筒をデスクの上に放り投げる。それに気付くや否や戻って取り上げる左京。

 片眼で中身を覗くと、福澤諭吉の束が。いつも通りの二十万。

 確かめたら、何の礼も残さずに、そそくさとドアへ向かう。

 そんな左京の毎度の行動に、音羽も嫌味の一つもこぼさず、チェアに腰を下ろす。

 部屋の壁にかかっている会社の支店の位置を示す大きな日本地図には一瞥もくれない。

 何度となくこの部屋に呼ばれるが、いまだに長居しようと思った事はない。

 社長室を出る時、左京はドアに唾を吐き掛けたかった。

 

 エレベーターへ向かう白い廊下。反対方向から三人の連中が歩いて来る。

「おう? 西村のダンナじゃねえか」

 一人が左京に気づいて、軽い調子で呼びかける。後の二人も含めて左京も知っている男達だ。

 呼びかけた男は千石という二十代前半の若い男。フェイクレザーのジャンパーがリーゼントにまとめた髪と共に妙にてかっている。

「また、ウチの社長に呼ばれたのかよ?」

 肩をいからせて近寄って来ても、左京は別に表情を変えようとしない。但し、千石が歯を見せてニヤついた顔をすると、前歯の金歯がやけに光っているのが相変わらず気にはなっているが。

「片桐の奴が殺されてすぐに呼ばれたとは言え、アンタもマメだねえ」

 中背で小太りの二人目が話しかける。ダブルスーツの紫の色が安っぽい。千石の兄貴分で山崎だ。

「面倒は早く済ましたいだけだよ」

 端的にまとめる左京。

「そう言えばよ、池袋のソープの店長が店の売り上げをちょろ負かしたままどっかにとんずらこきやがった」

「西口の『クリームメロン』か?」

「そう、あそこのマチェクって言うセルゲス野郎さ」

 話題がかみあったのか、三人で話し込む。

「そいつならついさっき、俺が秋葉原の激安パソコン屋の上でよろしくヤッていたのを引っ張ってきたよ。あそこの署に援助交際の仲介を行った疑いのある者を極秘裏に捜索中、通報を求むと言って見つけたのさ」

「いつもの手だねえ、さすが現職刑事」

 左京の情報に軽口を叩く千石。

「馬鹿言うなよ。こういう情報を手に入れるためにダンナが雇われているんだよ。で、奴はどうなる?」

 千石を制しながら山崎が次の質問をする。

「あとはそっちが保釈金積むなりして、ウチの署から引き取ってくれればいいさ」

「よっしゃ。後でウチの若い奴等を引き連れよう」

 淡々と語る左京に対し、的を得たようにニンマリとする二人。その間、左京の視線は距離をおいて突っ 立っている三人目に向けられていた。

 ただ立っているだけだが、ジャケットの前を止めて鋭い目付きを和らげようとしない。丸い頭が獲物を睨む禿鷹のような緊張感を醸し出す。

 両眼の周辺に漂う涼しさが日本人とは明らかに違う。音羽からは小杉重吾という名前しか聞いていないが、台湾から渡って来たと睨んでいる。もしそうなら徴兵制度のある台湾なら軍隊経験があるはずだ。

 一度、ここに居る三人が六本木の音羽経営のキャバレーで商売敵の暴力団と揉め事を起こした時の事。店の通報で左京が駆けつけた時には、小杉が一人で相手側の六人を倒していた。

 ただ掴み合み力で押し切っただけではない。キレのある動きで相手の関節を一人二人と外して行く、無駄は一切ない。

 喧嘩慣れしているのとは訳が違う。訓練されたような冷徹さが漂っていた、特に奴の双眸には。

 それを目撃した時、軍隊出という三文字が脳裏を掠めたのを左京は今も思い起こす。この状況のようにあの眼と合った時は。

「ところでさ、西村さん。今度ウチの店で一杯やらねえか?」

 ジェスチャーを交えて山崎が誘い掛ける。

 千石の馴れ馴れしさはこいつ譲りなのか?

 その疑問を顔には出さず。

「止めとくよ。隣の県に居る同業者のように、マスコミの前で振り子人形みたいな真似をしたくないしな。」

「大丈夫だよ。俺達の貸し切りにするからさ」

 千石も乗り気だ。左京が次の言い訳を繕うとした時。

「西村さんの言う通りだ」

 掠れ気味の声が突如割って入って来る。三人の視線が一斉に小杉の方を向く。

「国税局の査察が入った後なので、今は派手な行動は控えろというボスのお達しがあった筈ですよ、山崎さん」

 抑揚というものを完全に抑え切った口調。それだけで千石も山崎も旗色の悪さを顔に表わす。

「しょうがねえなあ。小杉さんに免じてまたにするか……」

 軽い溜息を吐きつつ、山崎は左京の肩を叩く。

「千石、行くぞ」

「はい、山崎さん」

 不貞腐れたように歩み出す二人。小杉もそれについて行く。

 左京の側を通る時、小杉の方から一瞥を与える。左京も同時だ。

 そのまま通り過ぎた後も、左京はじっと相手の後姿を見送っていた。

 

 

 年期の入った木製のドア。開けると充満した空気のように放出するグラスの接触音、紫煙、密やかな会話、そしてピアノの旋律。

 1995年。バブルという名の狂乱の夢が突然醒めて三、四年が経過した頃。

 六本木の薄汚れたビルの地下に入っているライブハウス。「LOVE NOTE」と書かれた看板。

 未だに先行き不明な景気を反映してか、平日の客の半々といったところ。カウンターにも、テーブルにも。

 刑事になってしばらく経った左京が狭い室内を見回している。子供の頃から味わった匂い。違和感は何一つ感じない。

 三日前、ツキミというニューハーフが勤めている店で、音羽の若い配下が店の者とのちょっとした口論が元で、ユキエなる店員が刺された。

 血の気が多さで音羽も扱いに苦慮していたらしく、これを機に破門扱いにしようとして、事後処理を左京に頼んだのだ。

 音羽の名前を出したお陰で、この店に屯しているという事がすぐにわかり、こうして参上したという次第だ。

 小さなステージに眼をやる。この日はピアノのソロ演奏のみのようだ。

 長い髪に黒のパーティードレス姿の若い女性が鍵盤に向かっている。

 曲は知らない。いたわるような音使いでピアノを弾く様、聴き入っている客の顔を観ていると、いい演奏である事は容易に察しがつく。それに何より、美人だ。

 このまま自分も客になってもいいが、仕事を優先する。

 カウンターにそれらしき人物。禿頭に悪趣味に照りかえる紫のシャツ。気付いている風はなく一人で水割りを飲んでいる。静かに近づく。

「そんな薄い味で酔えるのかよ?」

 気軽に訊ねる。しかし相手は血相を変えて振り向く。

「西村!」

 知っていたらしい。左京が更に近づこうとすると、飲んでいた水割りをかけて、逃げようとする。

 左京は顔を横に逸らしただけでタンブラーと衝突する事なく、左足を踏み込み右フックを相手の腹に入れる。転がる男。店員は勿論客も何人か注目する。

 起き上がって右腕を振るように拳を入れる。右に避けて今度は右ストレート。顔に命中、鼻血が零れる。

 鼻を押さえ、痛みと悔しさを露にする。上から冷たい視線を送る左京。

 今度はテーブルの方へ逃げ出す。悲鳴を上げて慌てて離れていく客達。男の行く先はピアノ奏者。懐から折り畳みナイフを取り出し、女の首筋に当てる。音が中断される。マニキュアの光る指は鍵盤に置いたまま。

 左京も近づこうとするが、男の必死な形相にひるむ。

「来るんじゃねえぞ! この女がどうなってもいいのか?」

 お決まりの台詞。どこか揺れている。それよりも左京が気にしていたのは、ナイフを突き付けられた女の様子だった。

 男に顔を向ける事なく、怯えを微塵とも表わさない。視線もピアノに向かっている。

 先程からそのままなので、男の方の不安が増す。

「お、おい。てめえわかっているのか?」

 女は眼だけを男に送る。

「一つだけ言っていいかしら?」

 感情が伺えない、冷徹な一言。男の顔から血の気が少し引く。

「演奏を邪魔する男って、デートをすっぽかす男よりも性質が悪いのよ」

 その台詞が男の自尊心と恐怖心を煽った。ナイフを振り上げる。左京も駆け出そうとする。

 直後、女はストゥールから身体を低くして離れる。姿勢を乱す男。ストゥールを中心にした回転の勢いを活かして肘鉄を男の顔面に正確に命中させる。歪む男の顔。

 そのままナイフを持った手首に手刀を打ち付ける。落ちるナイフ。

 連続した動きで男の手首を両手で掴み、テーブルに向けて背負い投げ。派手な音と共にテーブルを破壊する男の身体。

 大の字になり、苦し紛れに起き上がろうとする。痛みには勝てず、そのまま気を失う。

 女は男が気絶したのを一瞥すると、何事もなかったかのように髪を透かし、自分のドレスをはたいてピアノに傷が入らなかったか点検している。

 その鮮やかな様に、左京はおろか、他の客も唖然と眺めるしかなかった。

 

 男はそのまま病院送りとなり、店では片づけが行われている。

 鍵盤の扉を閉じた女に左京が近づく。

「ピアノ同様、慣れた手つきだったな」

 大袈裟に言わず、軽く誉める。

「貴方の右ストレートもね」

 女の視線。別に感心を買おうという風でもない。

「見ていたのかい?」

 意外な顔をする。

「ここの雰囲気に嵌まり過ぎていると、余計目立つものよ」

 ようやく自分の顔を正面から見せる。

 ストレートロングの髪、きりっとした顔立ちに似合った鋭い眉に冷ややかな感じが漂う双眸。赤い口紅が控えめに主張する小さな唇。

 豊満過ぎる事のない形の整った胸。一寸の隙のないドレスの稜線。それは指の先まで変わらない。

 ウチの依子よりは落ち着いているな。

 一瞥して軽い品定めをする左京。

「アンタも同様だろ」

「こういう所で育ってきただけの事よ」

 軽く店内を見回す。既にテーブルの上に椅子が置かれつつある。

「酒とタバコの匂い。男女の他愛もない会話。気を紛らわすだけの音楽。言ってみれば吹き溜まりよ」

 目を細めて、悟ったように語る。左京も客席の方を向く。

「吹き溜まりにしか、居られない奴も居るさ」

 同調するような左京の一言。女はそれに誘われるように左京の横顔に目を落とす。

 左京の右眼のすぐ隣にある三日月状の傷。

 結構似合っているわね。

 女は素直な感想を自分の中に留めておいた。

「ここに来たのは初めて?」

「ああ。見ての通り、仕事さ」

「よくこういう店には出入りしているの?」

「いや。こういう所で育ってきた、ってとこかな?」

 二人の頬から緊張が消え、互いに苦笑する。

「名前は?」

「左京。西村左京。麻布一署の平刑事さ」

「私は瑞恵。高橋瑞恵。ただの弾き語りよ」

「この店は長いのかい? 高橋……」

「瑞恵でいいわよ。左京さん」 

 軽く微笑む。

「じゃ、俺は左京だ」

 左京も瑞恵に従った。

 

 

 街の灯を拒絶するかのように、水面に映る漆黒。

 激しい音と共に広がった波紋は、もう途切れている。

 さっき池に捨てたウイッグに開放された髪を整える女、しっとりとしたロングヘアだが乱れ気味だ。

 ハンドバッグを脇に挟み、両手を髪にやったままそそくさと歩み出す。木々に囲まれた中では黒のロングコートが目立つ事はない。それにこの辺りにはホームレスやカップルの類も滅多に現われないのもわかってはいるが、気持ちが自然と足を速めて行く。

 根津美術館の裏に止めてあったアウディTTクーペに向かう。低い車体なので一度左ハンドルのドライバーズシートに腰を下ろしてから、脚を揃えて乗り込む。まだ残る新車の匂いも今の彼女にはあまり気にならない。

 取り敢えず今は少しでも早くマンションに戻って、シャワーを浴びよう。さっき付いた硝煙の匂いを少しでも取り去ろう。

 頭の中で反芻しつつも、狭い車内でやや窮屈さを感じながらコートを脱ぐ。この時期ではやや生地の薄いベージュのブラウス。それでも身体の余分な熱が抜け切らない。

 助手席に置いたエルメスのハンドバッグが目に入る。あの中に入れた黒い物体を手にした感触はまだ覚えている。

 決して慣れていない訳ではないのに、何故か最初に手にした時のような緊張に襲われる。

 呆気ない位一発で決まったから? 私の顔を見た時の、あの男の驚いたともつかないような不思議な表情が妙に頭に残っている。

 これ以上思い出さないようにキーをかける。それだけでも少し落ち着いた気分になるから不思議だ。それに呼応してアクセルへの力のかけ方もゆっくりとしている。

 まだ聞こえる周囲の喧騒を乱す事なく、南青山の小さな通りを進んで行くアウディ。その中で女はさっき撃った男の事を振り払うように渇きを癒したがった。

 

 長方形の扉を開けると、暗闇に光が差しこんで来る。しかしそれもすぐに閉じられる。

 女はハンドバッグを放り投げ、金属製のドアにもたれ掛かる。

 眼が闇に慣れて、朧げながらも3LDKの部屋が自分の前に広がる。

 漏れ出る白い息。今度は大きく深呼吸。

 背中が離れ、中へと進む。ストッキングを通して伝わるフローリングの冷たさを感じながらリビングへ。

 ソファとテーブル、それにテレビとパソコン、卓上キーボードだけの素っ気ない部屋。それでも今のこの女にとっては十分過ぎる装備。

 身持ちは軽い方がいいから……。

 この部屋を眺めてつくづく思う。

 照明を付けずにキッチンへ。やはりすっからかんの冷蔵庫からソーダを掴み出し、慣れた手つきで戸棚から取り出したジンとわる。タンブラーの中でバースプーンを回す音が静かな部屋で大袈裟に響く。しかしそれも小さくなっていく、少しずつ。

 最初の一杯。喉を鳴らしながら、五臓六腑に行き渡るように飲み込んで行く。

 レモン、入れ忘れた……。

 気づいていたが、彼女の右手はさっきまでかさついていた唇からタンブラーを離そうとはしない。 そのままジンソーダを一気に飲み干す。

 彼がよくやっていたのとまるで同じね。

 今の自分の姿を、何故か容易に想像できた。

 

 

 東西の外苑通りそして六本木通りに三角状に挟まれた沿いには、昼の顔と夜の顔が入り交じっている。

 細い裏通りに足を踏み入れると、西欧やエスニック系のレストランが昼から開業しているかと思えば、キャバレーやクラブ等がどぎついまでの吸引力を夜に発する。

 六本木もここ近年の不況の煽りを受けて、1980年台後半から90年代初頭までの勢いは見られないものの、この界隈に金と憂さを落として行く人々は後を立たない。

 その外苑東通り沿いにあるキャバレーの一つ、「ナイトメア」。ベロア調のカーペット等、キャバレーの典型をゆく内装。

「嬉しいわ。久しぶりに来てくれて」

 間の延びた語尾、ハスキーと言うよりはガラガラ声。けばい色のワンピースに身を包んだ三人のゲイ達の間に座っているのは左京と杉野。左京の両脇に居るのがツキミとユキエ、杉野の側はハナエという名のホステス。中でもツキミがこの店のママだ。

「一応、聞き込みを兼ねて来たのだがな」

「じゃ、少し位アタシ達に付き合うのが流儀でしょ?」

「領収書を切るにも限度があるぜ」

「アタシ達に税金を返すと思ってよ」

 ツキミとユキエから自分の名前が入ったボトルを薦められる。軽い悪態をつきつつ、断る素振りを見せない左京。オン・ザ・ロックを口に運ぶ様に落ち着きが漂う。

 急所を外していたお陰で、ユキエは五年前の一件を忘れさせる位回復したが、今でもツキミ達は音羽関係の人間とは距離を置いていた。ただ左京だけは例外的に受け入れていた。

 しかもいつものように事件を公にしなかったし、口止め料としてユキエの慰謝料を音羽から出させるように取り成しもした。

 左京も、客の口コミから流れた裏情報を得る場所として利用してきたので、店の常連と化していた。

 一方、杉野は店の雰囲気とハナエの派手な化粧に当惑している。言うがままにウィスキーを注がれるばかり。他の席で乱痴気騒ぎを繰り広げるサラリーマン連中の勢いも、彼の不安を助長させているに違いない。

 昨夜の聞き込みで、左京は六本木近辺を当たっていたが、これといった目撃証言が引き出せなかった。

「相変わらず物騒よねえ、ここも」

「お前さん達位ならもっと物騒でも無事にやって行けるさ」

 頬杖をついて、左京は冗談を言う。

「え〜、それって刑事の発言?」

「ちょっとお、馴染みの店はもっと大事にしないとお」

「馴染みになる程、俺そんなにしょっちゅう来てるか?」

「そうよ。最近なかなか顔を出さないので気になっていたのに」

「店のみんなも左京ちゃん来なくて寂しくしてるのにい」

 ユキエとハナエの馴れ馴れしい口調に、別段気に障る所はない。口の端を軽く上向かせる左京。

「ところでツキミ、例のアリシアとか言うママはどうしてる?」

 タンブラーを置いてから訊ねる。

「相変わらず評判いいみたいよ。まだ店が出来てからそんなに日が経っていないのに、色々なお偉いさんが利用しているみたいだし」

 ツキミの言葉の節々に、軽い嫉妬が篭っている。

「あとあそこってライブハウスみたいに食事や酒と一緒に音楽も聞かせる所だけど、そこの専属ピアニストが結構評判いいって」

 ユキエが後を続ける。

「それ目当てに来るご贔屓さんも出たんだって」

 杉野に酒を注ぎつつ、ハナエも会話に参加している。

「じゃ、お前さん達の店にも、ピアニスト雇えばいい?」

「やめてよ。店の酒を只飲みされる位なら、アタシが弾いた方がマシよ」

 苦笑するツキミ。

「でもママ、ピアノ弾けたかしら?」

 首を傾げるユキエ。

「言ってみただけよ」

 拗ねるように言う。

「名前は?」

 興味本意な左京の台詞。

「やだ〜、左京ちゃんもその子に興味あるの? アタシ達を放っぽいといて」 

「店乗り換えたら、アタシら全員承知しないから」

「オカマ舐めると後が恐いのよ」

 三人揃ってやかましく非難する。

「誰が行くって言った? 俺にはあの店に行く程の暇も金もない位わかっているだろう?」

 少し間が空く。

「それもそうよね」

 三人のあっさりとした回答に、左京は舌打ちする。杉野の顔が、火傷したように真っ赤になっている。

 

 一時間もしない内に。

 左京は、しっかり立つ事ができない杉野の服を掴みながら、勘定を済ませる。

 ドアの取っ手に手をかけようとしたところで、

「あ、最近子供達はどうだい?」

 首だけをツキミに向ける。

「ええ、お蔭様で来年から保育園の年長組よ」

 一年前、ツキミの妻は帰宅途中にストーカーに遭い、腹部を刺されて命を落とした。

 妻も水商売を生業にしていて、ツキミと出会ったのもその筋だった。ストーカーの正体は彼女にしつこく付きまとっていた馴染み客で、犯行直後に青山霊園で逃げ込んだが、通報で駆けつけた左京に逮捕された。

「そうか。じゃ、その子に何か買ってやってくれ」

 そう言って、くすんだ財布から一万円を差し出す。

「……え、いいわよ。それ位だったら、ウチの店で落としてよ」

 つい箸を持った手で断ろうとする。かと言って驚いている風でもない。

「音羽の金の洗浄さ」

 札を引っ込めようとはしない。

「まあ、他ならぬ左京ちゃんからなら、ありがたく頂いておくわ」

 あっさり引き下がる辺り、何度もこのようなやり取りをしているのだろう。受け取った札を指に挟んで、拝むような仕草をする。

 他の二人の頬が緩んでいる。

「ねえ」

 ツキミがふと訊ねる。

「奥さん、どうなの?」

 その問いが出ると、左京は僅かに視線を反らして、少し沈黙する。

「相変わらず、あのままさ」

 どこか諦めも混じった、左京の呟き。

「アンタも損な男ね」

 ツキミの顔から、先程までの商売人の慇懃さが消えている。

「皆そうさ」

 左京はそう言い残して、ツキミに背を向ける。

 杉野を引っ張るようにして、ドアを開ける。

 その姿をじっと見送るツキミ。店の奥の方からユキエとハナエのガラガラ声が届く。

「左京ちゃ〜ん。お店で愛情込めて待ってるからね〜!」

 ツキミはその台詞を言いそびれてしまった。

 

 夜の冷たい風。地面に向かって嘔吐を催すサラリーマン。酒の勢いか、唾液の音が耳につく位キスを交わす若いカップル。気弱なホームレスに威勢よく絡むチンピラ。

 子供の頃から見慣れた光景。かと言って素知らぬ顔をするのでもない。

 ここまで来ると腐れ縁だな。

 自分の世界を確認するように、その雰囲気に浸るように、左京は黙々と歩き続ける。

 落ち着けるようでどこか落ち着けない世界。

 どこかで他人にすり寄っているようで、どこかで他人を警戒している。

 人の欲望と挫折が入り交じった世界では、それが唯一の自己防衛。

 彼女もそうだったのかも知れない。そしてピアノと共にこの世界に浸っていた。

 今でも生きていたら、また同じ世界でピアノを弾いているのだろうか。

 別の誰かの事を回想する。

 隣では、杉野がいつの間にか寝息を立てていた。

 

 

「まさかお前が刑事になっていたとはね」

「そのお前も新進ジャーナリストとか言ってとなって俺の聞き込み先でバカラ開けているんだからな」

 白いちゃぶ台の上にはカルパッチョと二つのブランデー・グラス、コニャック。それらを挟む二人の男達。

「それに二人共カミさん貰っちゃって」

「お前の方はまだ入籍してないだろ?」

 両者の顔は赤く染まってもいないが、アルコールが口の端を緩ませて行く。

 三十代の手前に居た左京。語り合う男は高校時代の友人、小林圭介。

 二人共都内の高校で席を並べてからの付き合いだが、進学先の大学が異なっていたので十年近く会わずにいた。

 整った髪とふっくらとした頬の旧友の3LDK。棚に収まった36型のワイドテレビにフルサイズのオーディオシステム、その横にズラリと陳列したブランデーの数々、白い壁にはクリスチャン・ラッセンのリトグラフ。

 キッチンでは誰かが炊事しているらしい。水の流れる音と皿の触れ合う音がする。その音の方に顔を向ける左京。

「引っかけたのも六本木か?」

「ああ、仕事の仲間と飲みに行った時に色々口説いてな」

 圭介も同じ方向に首を回す。洗い物を終えたエプロン姿の女性が入って来る。

「実は俺も瑞恵も結婚する気はさらさらなかったクチだったけど」

 圭介は得意げに恋人の瑞恵の肩に手をやる。

「そう言って先に切り出して来たのは誰なの?」

 軽く窘めるように切り返す瑞恵。

「おいおい。俺はお前がそろそろいいかなって言うから……」

「夜中の誰も居ないオフィスに誘い出した後にね?」

「そういう言い方じゃ俺が全くの悪に聞こえるじゃないか」

 先程までの威勢の良さが見られない。

「その辺はご心配なく。ご主人は昔からやり込め上手だったのでね」

 コニャックで口の中を濡らしながら、左京も加勢する。

「あ、お前はまたそう言う余計な事を」

「これも昔からだよ」

 声が高くなっている圭介に素っ気なく応答する左京。瑞恵も知らない、夫の昔の姿。見ている内に表情が和んでいく。

「どうせお前はそんな澄ました顔で、奥さん引っかけたんだろう。高校の時ボクシング部のメンバーでナンパに繰り出した時もそうだ」

「別に。お前の好みにそぐわなかった女がこっちに来ただけだよ」

「奥さん、いらっしゃるのですか?」

 不意に瑞恵が問いかけた。

「ええ、入籍してそんなに経っていませんけど」

「お仕事は?」

「今は専業主婦ですよ」

「その前は?」

「……まあ、客商売かな。ある事件の聞き込みで知り合ってからの縁ですよ」

 何気なく問答を交わす二人に

「ほら見ろ! そう言うちゃっかりした所は昔のまんまだ」

 意を得たように大声を上げる圭介。左京は苦笑する。

 

 数分後、気持ちよさそうな鼾を立てる圭介。寝相を乱さないように毛布がかけられている。

「人の事言えるのかよ? 昔のまんまなのはそっちの方だよ」

 不貞腐れながら、タンブラーの中でステアする。

 ちゃぶ台の上にはさっきのコニャックの他に、ジンとソーダの瓶が加わっている。おまけに小皿の上にはスライスされたレモン。

「悪いね。我が侭言っちゃって」

 悪びれつつも、ステアする手を緩めない。

「いいえ。貴方こそ彼の我が侭に付き合って貰ったのだから」

 にこやかな表情を、鼾の主に向ける。

「時々、こいつが羨ましいって思った事があるよ」

 圭介を横目で見遣りつつ、レモンの一切れを絞る。

「どういう風に?」

 乗り出すように、耳を傾ける。

「他人のいる中で、こういう風に呑気に寝顔を見せられるところかな?」

 羨みと一緒に、ソーダを飲み出す。

「……そうね」

 間をおいた同意。

「こんな風に眠った事があったかしら」

 髪を掻き上げる。次に圭介を見つめる顔はどこか寂しげだ。

 しばしタンブラーを口につけたまま、流し込もうとしない左京。

「……一人で眠ってはいたけど」

 自身の一言に、思わず唇の動きを止めてしまう。

「落ち着く所自体、そうそうないさ」

 さらっと言い流して、再びソーダを飲み出す。今度はその顔を意外な面持ちで見る瑞恵。

 それに気付いて、調子も変えず、

「俺のガキの頃もそうだっただけでね」

 左京の眼が、瑞恵の視線が合う。

 瑞恵のくりっとした瞳。薄目の左京。互いにじっと注視したまま。

「ねえ」

 ようやく漏れた瑞恵の声。穏やかに沈黙に終止符を打つ。

「アタシもいいかしら、それ」

 一度顎をしゃくる。その動作で左京は自分のタンブラーに目を落とす。

「作ろうか?」

 頬杖をついて、瑞恵はゆっくりと微笑む。

「今飲んでいるのでいいわよ」

 

 

「奥さんの病状ですがね。西村さん」

 禿頭で小太りの主治医が目頭を押さえている。

「確かに以前のように、置物を投げつけたり看護士に噛み付いたりはしなくなりましたので、隔離室から一般病室に移しましたよ。それでも時折発作的に大声を上げたりするので、まあ予断はできませんがね」

 厄介事が一つ減ってせいせいした感じの、主治医の口調。

 その言葉を耳に傾ける左京は俯くばかり。彼の視線の先にある、足を組んだ主治医のガラの悪い靴下も男の注意も引かない。

 埼玉は所沢の郊外にある精神病院。民間の施設だが経営管理が行き届いているのだろう、部屋の調度品はいずれも新品で、デスクの上で山積みされたファイルを押しのけるように配置されたパソコンの本体もディスプレイも皆薄型だ。

「今まで通り催眠療法やら試しているのですが、いまだに大きな効果が現われておらず、まだ退院には時間が必要ですね、残念ながら」

 左京の表情を伺おうとするが、俯いていては何も判別できない。

「他に妻は?」

 視線を変えずに訊ねる。ディスプレイ上のカルテに目配せをする主治医。

「時間があれば相変わらず口ずさんでますがね、何か歌みたいなのを」

「歌を?」

 男の顔がようやく上がる。

「よく聞き取れないのですがね」

 左京の表情を覗き込むように首を傾げる主治医。しかし左京は感情を押し殺すように何も答えなかった。主治医は嘆息を漏らす。

 

 白い壁にたった一つの窓に一つのベッド。あとは背の高くない棚とパイプの円椅子があるだけ。風がレースのカーテンを撫でるようにはためかせて、ベッドの上で座っている女性の顔に当たる。しかしそれも呆然とした表情を変えるには至らない。

 白髪交じりのくすんだ黒髪はよく梳かしておらず、唇はカサついている。生気といったものが奪われたようである。

 その彼女を入口で佇んで、ジッと見つめる左京。

 この五年間、今までに何度、依子のこのような光景を目撃しただろう。

 既視感が沸き上がる。

 ゆっくりとベッドの側に近づき、円椅子を自分に寄せる。床を引き摺る音。

 彼の存在に気づいたのか、妻の顔がようやく夫の方を向く。

 左京は何かを言おうとするが、言葉が出てこず、口がやや間抜けに半開きになる。

 その様をじっと見つめる依子。

 所在なげに腰を下ろしながら、自分の左手をベッドの上にあった彼女の右手の甲に重ねる。

 依子の視線はそれに捕われる事なく、じっと左京の顔に固定される。

 何かを求めているという訳でもない、変化のない依子の表情。ややこけた頬にまとわり付く枝毛。

 それを見ているだけでも、不安が忍び寄る。

 左京は依子の右指の間に、自分の左指を入れていこうとする。依子はそれを拒まない。

 絡み合う二人の指。左京が自分の力を少し加えていくのに反応して、依子もそれに習う。

 遠くで放送されたナースコールがそこはかとなく二人の間を漂う。

 結局、そのまま何一つ会話する事なく左京は仕事場に戻った。

 

 

 寒風が吹き荒ぶ。キリスト式の墓標の前に置かれた花束が揺れる。

 その中でじっと突っ立ったまま、墓標を見据える一人の女性。

 手袋に始まり、コートやブーツに至るまで全て黒。しかもサングラスまでかけている。

 同じ形の墓標が立ち並ぶ中、彼女以外には誰も居ない。

 昔からあったのだろう、大使館の多い西麻布三丁目の中でも割に広い敷地。

 通路に散らばった枯葉が地面を転がり、彼女の足元を通り過ぎていく。

「正直、貴方に合わす顔もないけど」

 墓標に向かって呟く。

「でもそっちに行っても、同じかもね」

 返って来る訳のない答え。それでも彼女は続ける。

「貴方のためにここに帰って来たとは言えないから」

 彼女のしっとりとした長い髪が風に吹かれて、顔に絡みついた。

 

 その側にある。カトリック系の教会。

 黒く煤けた壁。割れた窓。風でヒビ割れたステンドグラスが揺れる。

 中ではベンチが隅に無造作に押しやられ、神父も信者もいない。居るのは左京ただ一人。

 きしむ木目の床。奥の方へと歩を進める。

 ふと天井を見上げる。蜘蛛の巣が大きく張っているのが見える。

 そして中央のマリア像の足元に辿り着く。マリアの顔も塗装が剥がれ、神々しさが薄れている。

 そのまま左京は膝を落として、足元のパネルを外す。

 コートの内ポケットから取り出したペンライトを点けて、中に潜る。壁の木の隙間から光が漏れている。

 低い天井を照らして、所望の品を探す。

 紐で木の梁に付けられた封筒。それを発見するとペンライトを口に咥えて、紐を緩めて取り出す。

 中を開ける。MOディスクと写真が数枚。

 まだ誰にも手に付けられていないのを確認して、安堵の溜息を漏らしたいが、口に物を入れた状態ではそうもいかない。

 そのまま元の位置に戻して、出て来る。身体に付いた埃を軽く払う。

 五年前の事件のきっかけとなった物。

 一人の男の命を奪い、もう一人の女まで殺しかけた物。

 これを自分が持っている事が知られたら自分も危ないが、逆に自分の切り札にもなるから、こうして今も隠している。

 いや、それだけじゃないさ。

 いつかやってくるであろう、ツケを返す日のために今も持っているのだ。

 誰に対して? そんなのは決まっている。

 もっとも、それをやった所で、彼女への罪が消える訳がないが。

 ふと窓を覗く。墓地の方向。そこにはあの物を作り、そのために命を落とした男の墓がある。

 左京が見た時には、もう墓地には誰も居なかった。

 

 

 外に出て、しばらく歩く。杉野が乗る覆面車と偶々落ち合い、自分も乗り込む。

 聞き込みを終えたばかりなのか、杉野が浮かない表情でステアリングを握っていた。

「黒づくめの格好をした謎の人物、精々わかったのはこれだけ」

「この時期だからコートを着込んでいるだろうから、女という可能性もあるな」

「それじゃ犯人と思しき奴は、いくらでも居るって事じゃないですか。西村さん」

「犯行時刻が夜の八時半から九時台だと、人の出入りもまだある方だから、逆に特定が難しくなっちまった」

「あ〜あ。これで俺のクリスマスの予定は全部パーだ」

 天井を見上げて落胆の声を上げる杉野。特に身を乗り出すという程でもなく左京が話を持ち掛ける。

「例の大学時代からの娘か?」

「ええ、まあ」

 余り嬉しそうでもない。

 杉野が今二十七だから、六、七年の付き合いって事か。

 左京の頭の片隅で、つい暗算が始まる。

「そろそろ結婚なんて話はないのか?」

「それが向こうも話を持ち掛けてこないんですよ。まだアタシのキャリアが固まっていないからと言って」

 言葉の端々から不満が見え隠れしている。

 確か杉野の彼女って、大手アパレル会社の広報だったっけ?

 現在の職業の方もちゃんと記憶しているようだ。

「昔とは逆だな」

「アイツも仕事が今いい所らしくてね、俺との新婚生活よりも仕事の方を取りやがったんですよ」

「お前も大変だな」

 左京の苦笑混じりの感想に、嘆息を漏らす杉野。

「西村さんも今の俺位の時に結婚したのでしょう? 確か奥さんもホステスだったって聞きましたが」

「元、ね」

 素っ気なく答える左京。

「彼女とは大学時代の合コンで知り合ったのが最初で、この署に配置された時にまた出会い、まあ結婚にたどり着いた、と言うとこかな」

「結婚を切り出したのは、西村さん?」

「いや、彼女の方だよ」

 淡々とした左京に対し、杉野は意外という面持ちになる。

「まあ、その時店で色々あったらしく、それで自分の仕事に嫌気がさした女房が結婚退職を決めたんだ」

「何があったんですか?」

 いかにも興味あり気に聞き出そうとする。

「まあ、そうだと答えておこうかな?」

 軽くいなす。

 借金のアテがついたから、なんて言えるか?

 腹の中での呟きを表に出さないように努めた。

「でも俺の場合はさておき、別にお前さんが早く結婚しなけりゃならないという法もないしな」 

 杉野の肩を軽く叩く。

「それに、俺の女房は、今じゃベッドの上だし」

 左京の顔に浮かぶ自嘲の笑み。初めて見る表情の中で、杉野は左京の眼の光がかそけくチラついているような気がした。

 その直後、無線機から抑揚のない声が飛び出る。

「殺人事件発生。青山墓地の敷地内」

 

 

 夜風が大理石の柱の群れに吹き付ける。

 枯葉が舞い上がる中を黙々と仕事を続ける鑑識の面々。

「見た所、三日前と同じく9mmパラベラム弾で額に一発。多分即死」

 左京達よりも早く駆けつけていた仲間の北村という刑事が、太った体から白い息を吐きながら説明する。手帳を持つ手が震えている。

「しかし問題はそれだけじゃないぞ。前は弁護士だったが、今度はセルゲス共和国の外交官秘書だ」

「セルゲス? あの政情不安定で相変わらずマフィアがうようよしているっていうあのセルゲス?」

 素っ頓狂な声を上げる杉野。世界情勢を少し齧っているらしい。

「そう。名前はヴィアンコ・ルグラン、44歳」

「死亡推定時刻は?」

 左京が何やら面妖に訊ねる。

「午後四時から四時半にかけて」

「確かここって五時前に閉まるんじゃないですか?」

 杉野は首を窄めている。

「そう、夕暮れ時に堂々とやってのけたのさ。管理人は電話があったらしくて外に出ていなかったからわからないのだそうだ」

「一般の目撃者も?」

 左京の目配せ。

「ゼロ。全く大胆と言うか、俺ら警察を何だと思ってんのかね?」

 北村の呆れ返った回答。その間、左京の視線は白い人型に集中している。

「なあ、ここ」

 誰に向けると言う訳でもなく呟く。

「はい?」

 怪訝そうに杉野が問いかける。

「ここ、五年前に起こった事件と同じ場所だよな?」

「はい?」

 配属されてそんなに経っていない杉野ならではの反応。

「ああ、そう言えばそうだよな。あの時は若いジャーナリストだったっけ……」

 北村が記憶の底からある事件を、いかにも過ぎ去った事であるかのようにほじくり返した。

 埃が舞い、他の面々が煽られる。

 それも今の左京にとっては蚊帳の外だった。

 

 

 外苑東通りに面するように脇道に入ってすぐの場所にある、地上一階、地下一階の高級クラブ、「アリシアズ」。

 黒い壁の薄暗い、かなり広い室内。唯一明るいシャンデリアは本物の舶来品。入口の床も大理石とかなり本格的だ。開店前なのか、客は一人も入っておらず、店員達が自分の身だしなみを整えている。皆、女性。

 そんなあわただしい店の中を、ピアノの音が流麗に流れて行く。

 中央に鎮座ましました白いグランドピアノ。ブルーのワンピース姿の女性が一人、しなやかで長い指を鍵盤の上でしなやかに踊らせる。

 ウォーミングアップなのだろう、ガーシュインの「アイ・ラヴズ・ユー・ポーギー」を一音一音、戯れるように弾いていく。曲に合せて軽くスウィングする頭。音を己の深奥に染み込ませるように、閉じられた二つの眼。楽しさと寂しさがない交ぜになった、不思議な表情。

 店員の中には手を休め、聴き入っている者も居れば、弾き手の表情に見入っている者も居る。

「瑞恵さーん。ママが呼んでますよー」

 間の延びた若い女性の声が響いて、ピアノの音が止む。他の何人かは残念そうな顔をする。

「ありがとう、レイコちゃん」

 落ち着き払った返答。よく通る透き通った声。鍵盤のフードを下ろし、ストゥールから立ち上がる姿もしなやかだ。

「どう、もう慣れた?」

 瑞恵が入ってしばらくしか経っていないレイコに訊ねる。

「はい。これもママや瑞恵さんがよくしてくれるから」

 照れ混じりに答える。その仕草に可愛さを覚え、瑞恵の顔も綻ぶ。

「貴女みたいに素直だと、ついつい構いたくなるのよ」

「私も瑞恵さんみたいに、人の面倒が見られたらなあ。いつも人から面倒を見られているから」

 羨ましさの篭ったレイコの台詞。

「見られている方がいいわよ」

 瑞恵の囁きが、レイコの表情を変える。

「え?」

「安心して男に依存できるから」

 眼は笑っていた。寂しさを隠すように。

 瑞恵のその表情に、レイコは言葉を続けられなかった。その彼女を置いて、瑞恵は店の奥へ向かう。

 同僚達の間を掻き分けながら。

「ああ、瑞恵ちゃん」

 一見すれば、店員や瑞恵に寸分劣らぬ容姿の妙齢の女性が待っている、やや鷲鼻だが。礼服の店員達や瑞恵とは異なり、彼女だけスーツ姿だ。ややハスキーな声。頬がやせこけているのを隠すためか、明るめの色の化粧を施している。

「お呼びですか? アリシアママ」

 アリシアという名前は本名ではないというのが専らの噂である。しかも実は男性であるという事はこの界隈では周知の事実だ。日本に駐留しているアメリカ海兵隊員と日本人の娼婦との間に生まれたというらしいが、どういう経緯で現在の地位にのし上がったのか知る者は少ない。

「相変わらず指はちゃんと動いているわね?」

「ええ。ママの店って落ち着いてピアノが弾けるから」

「何言ってんのよ。これもアンタの腕と器量の成せる技よ。やっぱりアタシの眼に狂いはなかったわね?」

「そんな、ママに言われると……」

 にこやかに交わされる。アリシアの口の端に窪みが。しかし次の瞬間には

「今、テレビでやっているわよ」

 小声と共に、アリシアの眼が鋭く光る。

「そうですか……」

 瑞恵も同調する。二人共周囲に悟られぬかのように、額を付き合わせる格好になる。

「もう二人目ね?」

「ええ……」

「いいの? 今更言うのも何だけど、後戻りはきかないわよ?」

 ややアイシャドウの濃いアリシアの双眸に釘付けになる、瑞恵の顔。僅かな沈黙。

「わかっています……」

 絞り出すように瑞恵の口から漏れ出る言葉。

「ハドリフスクでああやった時から、こうなるとどこかで感じていたから……」

 瑞恵も何かを決めたように、じっとアリシアを睨み返す。薄化粧ながらも艶のある表情。それに気圧されたのか

「そうね……アンタが一度言った考えを引っ込める訳ない事位わかっていた筈なのに……」

 諦めがついたように、アリシアは肩をすくめた。

「この稼業を何年もやっていると、ささいな事でにっちもさっちもいかなくなっちゃった人間を結構見てるからね。ついついお節介が出ちゃって……」

 照れるように視線を反らし、左手を後ろにまとめた髪に当てる。明るい表情ではあったが、それを見ても瑞恵の緊張はなかなか解けない。

 ママに迷惑かけちゃってるわね。

 決心してはいたものの、瑞恵の中で良心が疼いた。

「でも」

「何?」

 心配するように訊ねる瑞恵に、明るく相槌を打つ。

「ママも大丈夫?」

 一瞬、アリシアの顔が強ばる。すると僅かに唇を上向かせる。

「駄目ね、アタシも。本当はアタシの方が心配されなきゃいけないのに……」

 どこか自嘲の匂いが漂う。

「ママ、私は」

 弁解しようとする瑞恵の前に、右の掌を申し訳程度に差し出して制止させる。

「いいのいいの。その気持ちだけでもとっておくわ」

 明るくはぐらかす。瑞恵もアリシアの心境を察して、その先が続けられない。

 ママ……。

 内奥で彼女の名前を唱えるのが精一杯。

「さ、瑞恵ちゃん。もうすぐ開店よ。今日も例の曲、お願いね」

 軽いおねだり。それを見ただけで、もうこれ以上詮索する気が失せていく。

「はい」

 瑞恵も彼女が安心するように穏やかに快諾する。そしてアリシアと共に店の中央へ歩を進める。

「さあ、皆集まって。そろそろ時間よ!」

 アリシアの甲高い声が店中に響く。ぞろぞろと整列する店員達。その中で何かを振り切るように明るい表情を浮かべる瑞恵が居た。

 

 

「お子さんが生まれるの?」

「ええ、まだ四ヶ月位だけどね」

 その年の春に起こったテロ行為で、都内の警察官がいつになく神経を尖らせていた頃。

 まだ照明が付いていない看板。「LOVE NOTE」という流線形の文字。

 時刻はまだ昼の二時半なのに、夜の時と大差ない程薄暗い。

 黒いグランドピアノと椅子が載った僅かばかりの円テーブル、それにカウンター。壁には以前演奏したミュージシャンの写真が無造作に貼られている。

 瑞恵が教えてくれた、彼女の活動拠点の一つ。

 非番の左京がつい足を向けると偶然居た。店のオーナーの好意で閉店時に練習させて貰っているらしい。店員の一人が二人の邪魔にならぬよう、モップで床を磨いている。

 左京の側のテーブルには、妊娠中の夫婦生活について記されたガイド本が無造作に置かれている。

「忙しい中大変ね」

 ストゥールに腰を下ろす瑞恵。楽譜の上にはコード進行だけが書かれた楽譜が整然と置かれている。ダンガリーシャツの外したボタンから、胸の谷間が見え隠れする。

「今日だけ暇を貰って、女房の使いっ走りさ」

「でもわざわざお休みを取るなんて。圭介は仕事ばかりで家にも中々戻ってこないから」

 軽く答えてはいるが、恋人への不満の匂いを左京は感じ取る。こちらはネクタイを付けず、襟の大きいブルーのシャツを着ている以外は、普段とほとんど変わらない。

「いや、俺も似たようなものさ」

 左京も笑って、その先を深く追求しようとしない。

「奥さん、客商売とか何か……?」

「興味あるかい?」

 瑞恵の意図を読んだのだろうか。

「あ、御免なさい。ただ、どんな方なのか、ちょっと興味があって」

 決まり悪さで弁解する。それでも仕草には落ち着きが漂う。それを見て、左京は暫し唸りつつも、答えを出した。

「六本木でホステスを」

 親の借金のカタにな。

 あっさりとした物言いで内心を隠す。

「……お奇麗な方なのでしょうね」

 僅かな動揺を隠しつつ答える。

「母に似ていたからね」

 左京は懐かしむようで寂しさの漂う眼で呟く。

 瑞恵はその表情をじっと見つめる。まるで自分自身の表情が眼の前にあるかのように。

「私の母も似たようなものなのかも」

 頬杖をついて、浸るように発する。

「君のお母さんも?」

 意外な回答に、思わず眉毛が上がる。

「ううん。私の母は若い頃歌手としてデビューしたけど、売れずにそのまま場末のバーの雇われに。そこで駆け出しのヤクザと関係を持って、母のお腹に私が居たとわかると掌を返したようにソッポを向かれて。腹いせ余りに慰謝料を高く請求したお陰で教育費には困らなかったけど」

 呆れ返ったかのように瑞恵の小さな口から澱みなく流れ出る。間髪を入れずに、

「ピアノはその影響かい?」

 ボソっと突いてくる。瑞恵は軽く唸った後、

「そうかもね。結構子供の頃から、彼女が歌っているのを聴きに、こっそり忍び込んでいたりしていたから」

 柔らかい表情で語る。どこか寂しげ。

「子守り歌かい?」

「と言うには、グラスの音と男達の怒号が響くような、恐い所で聴いていたけど」

「俺もよく店から追い出されたりしていたよ。店の前で顔くしゃくしゃにして待っていたっけな」

 苦笑する。空虚が見え隠れした笑い。瑞恵も覚えがあるのか、妙に引き付けられている。

 互いの顔を見つめ合ったまま、止まる二人の会話。モップの水を絞る音が響く。

 沈黙に耐えられないのか、譜面に目を落とす瑞恵。

「何かリクエストある?」

 右の五指を鍵盤に乗せる。

「済まないが、音楽方面に暗くってね」

 再び苦笑。

「じゃ、私の趣味で弾いていいかしら?」

 瑞恵も頬の緊張を緩める。

「いいとも」

 穏やかな一言。

 それを合図に、瑞恵の視線が鍵盤の方に向く。長い指を軽く沈ませる。

 シングルトーンで始まる短いイントロ。次にテーマが淀みなく流れ出す。しなやかな指使いで鍵盤から発せられるボサノヴァ・チューン。

Eu sempre ti veu ma certeza……」

 曲に合わせて歌詞を口ずさむ瑞恵。幽かだが当たりの柔らかい歌声。目を細め、懐かしむようで、切なさも混じったその表情。

 心を奪われたように、じっと見とれる左京。まるで以前どこかで見た光景に、もう一度出会ったかのように。

 歌と演奏に没頭する瑞恵。

 左京の足が自然と一歩一歩ピアノへと近づいていく。

 それに気付く事なくメロディーを綴っていく彼女の指。

 ピアノのボディに寄っかかる左京の身体。彼女はまだ気付かない。

 ふと、指の動きが止まる。

 顔を上げると、左京の顔と合ってしまう。

 沈黙。互いの瞳の中を探るように、視線を固定したままの二人。

「そのまま、続けてくれ」

 やっと左京の口から出た言葉。瑞恵の口の端が微かに上向く。

「じゃ、もう少し近づいた方が聴こえるわよ」

 再び放たれるピアノの音。左京は更に上半身をピアノに預ける。

 ジーンズを履いた瑞恵のお尻が徐々にストゥールから離れていく。まだ見つめ合ったまま。

 メロディーは先程よりテンポを落として進行する。

 ゆっくりと二人の唇が近づく。そして互いについばむように塞いでいく。

 瑞恵の指はまだ動いているが、テンポはさらに落ちていく。

 モップ拭きは、いつの間にか奥に引っ込んでいた。

 

 

「ルグランさんが殺されるとはね」

 安楽椅子でふんぞり返って、他人事のように呟く音羽。爪を削っている。

 しかしデスクに隠れて見えない下半身は、女が音羽の男性自身をしゃぶっている。

「片桐はともかくルグランも絡んでいるとなると、セルゲス筋でしか考えられないだろ」

 コートも脱がず、ソファの膝置きに腰を下ろす左京。

 左京と同じ予想をしていたのか、音羽の表情には変化が見られない。

 時折、女が物を飲み込むような声が聞こえてはいるが、左京は別に関心も示さない。

「わざわざこの日本でかい? そんな物好き居るかね?」

 あっさりとした否定に、虚偽は感じられない。

「むしろ別口で考えた方がいいかな?」

 音羽の横目が左京の顔と合う。

「別口?」

 思わず聞き返す左京。音羽は爪の手入れを止めている。

 下では女が隆起した男性自身を最後の頂点に向かって、精力的にしごいている。

「例えば五年前とか?」

 一瞬、左京の両眼が見開く。それを見つめる音羽の双眸には鋭い光が点る。

 両者の間に漂う沈黙と緊張。

 突然、デスクの上の電話が鳴った。受話器を取ってそのまま集中する音羽。

 その姿を認めて、左京は声を掛ける事なく、そっと退出していく。ドアをゆっくりと閉じられる。

 その直後、音羽の口から相手の小杉に向かって、次の指示が飛んだ。

「しばらく西村を見張れ」

 すぐに切られた電話。

 直後、音羽は精を放ち、ゆっくりと背もたれに背中を沈める。

 眼は虚空を見つめ、右手は引き出しを開けて、慣れた手つきで小さな額縁を取り出す。

 視界を覆うように出された額縁の表、一枚の写真。それも少し色褪せ、よれた感じだ。

 写っているのはストレートヘアの女性が一人。濃い化粧を施し、紫のドレスに身を包んでいる。そして相手を見透かすような、どこか醒めた眼。

 音羽はその双眸からじっと視線を離さない。

 今はもう居ない昔の女。金もなかった駆け出しの頃に付き合った女。

 俺の前から姿を消し、娘も一人で勝手に産んでいた。

 未だに会った事のない、俺の娘。

 大きな富を手に入れて今なら迎え入れてやるのに。

「ねえ、何見てるの〜?」

 下から間延びした声。茶色い髪の女が上気したままの表情で首を出してくる。

 不必要なまでの化粧に、派手なフリルのついた黒のパンティだけの姿。

 這い出た後、音羽の安楽椅子の後に回って写真を覗き込む。

「結構いい女じゃない。どこで知り合ったの?」

 薄っぺらいにやけ顔で訊ねる。その答えとして返ってきたのは、頬への平手打ちだった。

「気安くきくな、馬鹿者が!」

 音羽の怒号。鬼のような形相で女を睨む。

 女は唖然として、反論するのを忘れていた。

 

 

 外苑東通りをつらつらと歩く。ヘベレケのサラリーマンの群れや軽くホロ酔い気分のカップル達の間をすり抜けるように。クリスマスも近づいているので、サンタの格好をしたプラカード持ちやティッシュ配りもちらほらと見かける。

 その中にあって達磨の如く背中の曲がったサンタが左京の眼に入る。ティッシュを渡せば、

「おありがとうごぜえます」

 とかすれた声で物乞いのように弱々しく文句を発する。そのまま左京は他の通行人と紛れ込み右手を差し出して彼に近づく。

「おありがとう……」

 ティッシュ配りのフレーズが途中で止まり、顔を見上げる。

「に、西村のダンナ……」

 決まりの悪い反応。ただでさえすくんでいる首が余計にすくむ。

「しばらく。守屋のオッサン」

 対する左京はにこやかに挨拶する。

「な、何ですか一体? あっしはもうポン引き商売から手を引いているんすから」

「でなけりゃ俺がここでお前さんを商売させているか?」

 肩に手を回して、親しそうに近くの路地に誘う。が、守屋の方はこれっぽっちも有難そうな顔をしない。かつてこの街で悪どくポン引き商売に手に染めていた頃、暴行を与えた女が知り合いだった左京に告げ口したために、左京に手酷く痛めつけられた経緯がある。

 西村のダンナが昔ボクシングをかじっていたとは、ついぞ夢にも思わなかったんだ。

 当時の事を思い出すと、守屋はいつもそう舌打ちをする。

「景気は?」

「そんな質問はダンナに給料を払っているお偉いさんに訊いたらどうです? 最近この辺りにも通り魔がうろついているって言うのに何してんだか……」

 ただし切り返しに遠慮はない。いつもの事なので、左京はそれに構わず本題に入る。一人分しかの幅がないから、横並びで肩を寄せ合うしかない。

「この間ここで殺された二人だけどな」

「国公認の高給取りっすか?」

「弁護士と外交官の秘書だよ」

「あっしにはどっちだって同じようなもんですよ」

「まあ正論だな」

 実際左京も似たようなものと思っている。

「その二人なんだが、この辺りで密談していたとか口論していたとかそう言う噂は聞いていないか?」

「何でアッシがそんな連中の話を聞いていなけりゃならんのです? 大体知っていたら只で教えると思います?」

 何かを期待するかのように横目を向ける。

 またかよ。

 左京は軽い嘆息を漏らしながら、懐から財布を取り出す。その行為を待望していたかのように、守屋は盗み見している。

 福澤諭吉を一枚、忍ぶように手渡す。

「一枚?」

 やや沈んだトーン。左京は軽く歯ぎしりさせながら、もう一枚差し出す。守屋の口の端が微かに上向く。

 金の事になると警察特権も利かなくなるんだよな。

 問題を起こした訳でもないから、下手に手を出せず弱腰になる。

「済みませんねえ。近頃競馬がなかなか当たらないものでね」

 一転してうやうやしい口調。そのまま滑らかにネタをバラしていく。

「クレープ屋に勤めている加瀬の話だと、その二人、最近までこの御時勢にしては同じ店に足繁く通っていたらしいですよ。勿論二人別々での話ですがね」

「どこの店だ?」

 狙いを定めたようにキリッと問いただす。

「例のアリシアとかいうオカマがオーナーの店ですよ」

 

 

「母親はアタシを産んだ後も夜になれば場末のバーで歌っていたわ。そうでない時は大抵酒浸りでよく叩かれたりもしたっけ」

 鏡貼りの天井に自分の肢体が万華鏡のように乱れて映っている。五年前、渋谷道玄坂界隈に紛れ込んだ、あるラブホテル。

「それでも学費はキッチリ出していたんだ」

 傍らにいる左京はベッドの側に置いてあったマイルドセブンに手を伸ばす。

 薄暗い照明に霞むピンクの壁。すりガラスの窓に外のネオンがうっすらと漏れ入る。

「父親という人から大分せしめていたけど、大学に上がった頃に足りなくなったので自分で学費を稼ぐしかなかった。夜に」

「ピアノが役に立った訳か」

「そう言う意味では、あの母親に感謝すべきかしらね」

 長い睫毛の奥に潜む瞳は天井の一点を見据えている。今の自分ではなく過去の自身を見出すかのように。

「貴方は、どうなの?」

 瑞恵は自身の右腕を枕にして隣を向く。左京は五体に染み渡らせるように、最初の一服を長めに吸っている。タバコを口からようやく放すと、紫煙が霧散する様をぼうっと眺める。

「高校時代にはロクな奴が周りにいなかった。仲間とバイクで夜の国道を乗り荒らし、似たような女の子の集団と河原で乱交パーティーに明け暮れたり。もっとも俺にはそんな馬鹿な真似をしても怒る奴は居なかった」

「これはその時の勲章?」

 人差し指で、左京の右眼のすぐ隣にある三日月状の傷を軽く当てる。

「いや、つまらないツケさ」

 面白くなさそうに呟く。

「偶に教師にバレて呼び出される位で。ボクシングをやっていた圭介と出会ってからは、そういう真似をしなくなったよ」

「クスリは?」

「田舎の高校だったから、そこまでは出回ってはなかった」

 瑞恵は上から見下ろす体勢になって、右手の人差し指の先を左京の胸から腹筋へと滑らしていく。程よく段差がついた引き締まった身体。

「そう。アタシはやったわ。少しだけね」

 あっさりとした物言いに、左京が気だるそうに振り返る。

「少しだけ?」

「ええ。不良やっていた友達から話を持ち掛けられてね。ちょうど学校が面白くなくなってきた時だったので、講堂の用具入れの中に入ってね。あんまり好きになれなかったけど」

 瑞恵の中で、ヘロインの注射針を身体に刺す時の、異物が身体の中に無理矢理入って来る感覚が蘇る。

「そういう行為に対する違和感はなかったんだ」

 左京の分析。瑞恵の生い立ちからの想像。

「ただあの時は、自分が母親と似たような事をやっているんだって言う、嫌な感じしか残らなかった」

 吐き捨てる。もっとも彼女はまだ吐き足りないのかも知れない。

「母親は?」

「もう土の下よ。川に落ちて」

 水ぶくれした、血の気の失せた母の顔。

 それを見た時の震えも、まだ思い出せる。

 どこかの男と口論になって落とされたという噂までたった。

 けれどそれな話題も自分以外の人間には、すぐに忘れてしまう物。

「貴方は?」

「似たようなもんさ」 

 左京も母親の死に様が、頭の中で蘇っていた。

 酒場で見つけた男と口論になり、殴られて頭を強打されての死。瞼を閉じてはいたが、今にも開いてくれるのではないかと、何故かあの時望んでいたのを忘れない。

 漂う沈黙。二体の裸体は死者の顔によって縛られている。

 ふっと、呪縛から開放されたように左京の口から声が漏れ出す。ただし、メロディーが外れているだけでなく、歌詞もまともに続かない。

「エー、セン……、ターラー……あれ、次何だっけ?」

 慣れない歌に苦心している左京を見て、瑞恵の顔から頬を緩める。そのままゆっくりと左京の上に乗り掛かる。二人の指が優しく絡む。

Eu sempre ti veu ma certeza……」

 助け船を出すように、歌詞を綴る。それもゆっくりと。

 彼女の声に、左京も照れたような表情を浮かべる。

「母親仕込みだと違うね」

 瑞恵は柔らかく微笑む。

「彼女の持ち歌だったのよ」

 

 

「いらっしゃいませ」

 何度となくこの界隈で聞いて来た挨拶。しかしこれまでのとは違い、品の良さを匂わす。

 客はそれなりに入っており、アメリカ人や東南アジア系も混じっている。しかし大声も上がらず、酔いにあわせてゆっくりと時間と会話が流れていくのを楽しんでいるかのようだ。

 本物の大理石のようだな。

 入口で待たされている間、ちらと足元に目を落とす左京。靴の先で床を軽く叩く。

 この街だけではない。子供の頃母親の顔を見に来て以来、数多くの店に足を踏み入れた。 

 大抵はラスベガスのカジノにでも足を踏み入れたようなケバさが漂うベロア調の絨毯に、イタリア製のブランド物を不格好なまでに身を纏った女性が待ち構えている。そして大枚をちらつかせて、昼間の高い地位を忘れて無邪気にはしゃぐ黄金虫達。

 それを嫌という程見てきている左京にも、この店には心地よい違和感を覚える。

「今日はお一人で?」

 礼装の女性店員がテーブルへ誘おうとする。すぐに懐から警察手帳を忍ばす。

「アンタ達に迷惑をかけるつもりはないんだ。人を探しているんでね」

 店員の顔が曇る。それでも丁寧に詫びの言葉をかけて奥に引っ込む。

 代わって別の女性が登場した。

「お目にかけるのはこれが初めてですわね、西村さん」

 ハスキーな声にスーツ姿。後ろに纏めた色合いのいい金髪。歩く姿勢に乱れがない。

 噂に違わずだな。

 一瞥しただけで左京はその女性がアリシアだと認めた。

「この店だと悪徳刑事は門前払いされるんじゃないかと思ってね」

「いえいえ。仲間内から色々伺っていますのよ、西村さんの事は」

 軽く笑いながら、右手を口にかざす。

「それは予想していたよ。最近この六本木でも一、二位を争う店にのし上げたアンタの事だ。この辺で屯している奴等の話を聞いていない訳ではない」

 女と見まごうばかりのアリシアの顔立ちを見つめながら、皮肉を吐き出す。

「そういう話しぶりも、お噂通りですわ」

 笑顔を振りまきながらも、アリシアの視線はじっと左京に据えられたままだ。

「オーナーのアンタが出てきたのなら話は早い。アンタも知っていると思うが、最近この近くで立て続けに殺された二人というのが、この店の馴染み客という話を耳にしたので」

 アリシアの口の端が一瞬硬直する。

「ああ、片桐さんとルグランさん? 確かにお気の毒でしたわねえ。お陰でウチの子達も恐がちゃって」

 それでも口調に変化は見られない。

「それで、二人は何か変わった所はなかったかい?」

 ペンを取り出し、手帳に書き付ける体制をとる。

「いえ別に。お二方共にお元気で、何か悩んでいるという風ではなかったですよ」

 すんなりと答える。

「何時頃から二人はここに足を運ぶようになった?」

 手帳から覗くように質問を続ける。

「ルグランさんの方は去年からのお客さんでしたけど、片桐さんはルグランさんの紹介でほんの二ヶ月前かしら?」

 首を傾げつつも答える。

「応対したのは?」

「ここの子全員お通ししていますが、主に応対したのはアタシですわ」

 アリシアの表情に現われる変化を見落とすまいと視線を固定してはいるが、別に怪しい所は感じられない。それよりも視界にちらちらと入るある物体が気になっている。

 白いグランドピアノ。スタインウェイの刻印。今は誰も弾いていない。

「ピアノにご興味ありますの?」

「正確にはその弾き手だよ」

 もう一つの核心に迫る。

「今日はちょっと外しているのですが、ウチの目玉としてお客様からも好評ですのよ」

 笑みが戻る辺り、実際評判がいいのだろう。

「念のため聞いておこうかな? その子の事」

 手帳に向ける。

「いきなり容疑者扱いですの?」

 アリシアの瞳に一瞬、睨み付けるような光が点る。しかも冷たい。

「そんな大層なモンじゃないよ。一応、顔通しさ」

 ついくだけた口調での弁解。眼つきだけは負けじときつくなる。

 途切れる事のない客達の喋り。豪華なフランス風のフルコース料理。グラスの触れる音。それらも今の二人の間には入る事ができない。

「それなら私達も安心ですが」

「俺の方も、別にこの店で揉め事をおこしたくないのでね」

「信用してよろしいのかしら?」

「この界隈で生きて行くための知恵さ」

 警戒心という名の緊張が二人の背中に張り付いていく。その中でようやく、アリシアは回答を発した。

「彼女の名前、瑞恵と言いますのよ」

 

 

 跳ねるようにして起き上がる身体。荒い息遣い。乱れた髪が唇にまとわり付く。現実に戻ったのを確かめるようについ周囲を見渡す。

 ブラインドから漏れる街の光。がらんどうな室内では当たる物は何もない。

 横にちらりと眼をやる。下腹のついた男の身体が呑気に横たわっている。

 店に足繁く通って来るネットプロバイダ社の若社長。仕事もベッドの上も精力的なのだろうが、ゴリ押しで挿れるだけの無節操な男。

 言葉で辱めようとするが、ただの自己満足。向こうが果てるまで待つ時間がやけに長く感じた。

 男の右指三本に嵌められた異様に大きい指輪。

 それを思い出すと、緊張が萎える。漏れる溜息。

 薄暗い中でもぎらついていたのが、目障りで仕方なかった。

 行為の最中、自分が昔、他の男に抱かれていた時の事を思い返していた。

 自分の恋人、そして、その友人。

 特に友人の方は忘れられない。単純に男と抱かれているのとは少し違う感覚があった。

 私と同じ世界の空気を吸ってきた人。自分と同じ匂い、同じ体温が伝わってきた。

 快感とは違う、どこか寂しさが混じった共感。

 あの感覚が今でも自分の中に残っている。

 汗で下着の生地が肌にねちっこくまとわり付く。垂れ一つない豊かな乳房。それから下腹部へ続く曲線にも隙がない。

 血にまみれた夢。眼の前で恋人が息絶え、その旧友が私に逃げろと急き立てる。

 何度見たか知れない夢。現実さえもその夢の中ではないかと思ってしまう。

 折角の非番もうなされては、明日の仕事に響く。

 着信メロディ。電子音の「イパネマの娘」。

 鬱屈を引き摺るようにベッドから立ち上がり、携帯電話の載った円テーブルに向かう。床に散らばったブラジャーの紐が足に絡みそうになる。

「ママ?」

 雑音交じりでも聞き覚えのある声。

「瑞恵ちゃん? お休み中御免ね」

 悪びれた感じではあるが、明るい返事。

「どうしました? 今日はちゃんとお休みだった筈ですが」

 声にまだ眠気と不機嫌さが混じっている。

「その方が瑞恵ちゃんにもよかったかもね」

「え?」

 怪訝そうな回答。

「彼、今日お店に来たわよ」

 トーンから明るさが影を潜めている。その言葉が耳に入った時、瑞恵を時間が止まったような錯覚が襲う。

 そう、もう来たのね。

 いずれはそうなると予期してはいたが、少々早かったようだ。

「そうですか」

 僅かな空白の後、ようやくその台詞が漏れた。

「一応、アンタの名前だけは教えたけど、居場所までは言わずにそのままお引き取り願ったわ」

 その時の応対を掻い摘んで説明する。

「彼の事ですわ。きっとすぐに調べてしまうと思います」

 努めて冷静さを失わないようにする。

「いいの? 何か手を打たなくて」

 声に鋭さが加わったのを感じる。瑞恵は気圧されそうになりながら、絞るように反論する。

「そうなったら、早く進めるだけです」

 互いの意志を推し量るように、緊張が漂う。男の鼾が入る余地はどこにもない。

「あと例の場所は?」

「ああ、あれね」

 ようやく動き出した瑞恵の唇に、アリシアが意図を察したように反応する。

「すぐにFAXして送るわ」

 鋭さは消え失せ、快く応じる。

「お願いします」

 動揺を振り払うように、低い声で礼を述べる。

 そのまま二人の会話は終了した。

 携帯のボタンを押し、しばしぼうっとする瑞恵。

 とうとう、彼が来たのね。

 電話口で受けた衝撃を、思い返すように味わう。

 最初に見た彼の瞳、彼の肌の感触、逃げろと言った後の彼の沈黙。

 私は、彼に何をして欲しいのだろう。

 男の事を考えると、胸の奥で仄かな熱さと荒涼とした冷たさが沸き上がるのを感じる。

 流されそうになる自分。それを振り払うように電話を握る右手につい力を入れた。

 一旦背筋を張って、絨毯に転がった自分の衣服を摘み取っていく。

 着替えている音に気付いたのか、若社長がもんどりうって寝ぼけ眼を開く。

「……もう帰るのかよ?」

 上半身を立ち上がらせて、髪を掻き乱す。

「ええ。準備したい事があるから」

 男の方を向かず、面倒臭そうに答える。ハイヒールを履き終わり、両方共黒のジャケットとミニスカートを身につける。

 化粧を確かめる事なく、白いハンドバッグとコートを手にし、長い髪を軽く振って立ち上がる。その様に若社長もついつい見とれる。

「なあ」

 ベッドに腰を下ろしたまま、男が呼びかける。その声に女も振り向く。

「今度、いつ会える? アンタに俺のマンション見せたいんだ」

 不自然に白い歯を見せて笑う。緊張感の欠片も見出せない。

 鼻を微かに鳴らし、背中を向ける。

「何だよ? マンションじゃ物足りないって言うのかよ?」

 駄々をこねるように不満を露にする。ドアに向かったまま、瑞恵は醒めた口調で呟く。

「安心できる場所ってそんなにないのよ。女にも男にも」

 若社長の唖然とした表情を振り返る事なく、静かに部屋のドアを閉めた。

  

 

「圭介の事は何と言ったら……」

 心底済まなそうに弁解する左京。しかし今よりは若い。

「いえ、いいの。貴方にそこまで気を遣って貰わなくても……」

 喪服姿の若い女性は感情の揺らぎを表に出す事なく返答する。

 喪服のせいか、ただでさえ引き締まっているボディラインがさらに強調されているような気がする。

 六本木のカトリック系教会の裏にある小さな墓地。葬式が行われた後なのだろう、神父を始め弔問客は既に引き払っており、左京と親族らしい女性が一つの墓の前で立っているだけだった。

 埋められたばかりの土が盛り上がっている。

「これから、君はどうする?」

「すぐにマンション引き払って、東京からしばらく離れようと思うの」

 ポケットに手を突っ込んだままの左京に対し、ハンドバッグを手にして背筋の伸びを保つ瑞恵。

「いつまで?」

「気が済むまで」

 黒いベールに覆われた彼女の顔。沈んだ表情でいる事だけは容易に想像できる。

「結局、私には落ち着ける所なんてないのかもね」

 左京は「皆同じさ」と言いかけたがやめた。同時に土の下に眠る圭介に向かってこう思う。

 怒っているだろうな?

 自嘲交じりの、声にならない声。

 足元の花束が揺れる。風が出てきたようだ。

「瑞恵」

「何?」

 二人は少しも顔を合わせようとしない。

「アイツから何か、渡されていないかい?」

 首を傾げて考え込む。すぐに思い当たったのか、ハンドバッグから一枚のMOディスクと写真のフィルムを取り出す。

 その仕草を左京の眼は追っている。

「これよ」

 MOのラベルには何も明記されていない。

「中身を見たのかい?」

 予感に従うように、すかさず訊ねる。

「ええ」

 重々しく答える。

 沈黙。少しずつ緊張の糸に縛られるような感覚。

 強くなる風。花束が横へと押し退けられる。

 その中でも、二人の動きは止まったまま。

 彼らの後ろで、一人の男、五年前の小杉が木の陰に隠れて覗いていたのを、知る由もない。

 

 

「そう怯えなさんなよ。別に決まった訳でもない」

 泰然となだめる男の声。耳障りな雑音がちらつく。

「これで落ちついていられるかね? 音羽さん」

 受話器から漏れる、ややイントネーションの高い日本語。しかも怯えが端々に聞き取れる。

「アンタの所の弁護士と、ウチのルグランが殺されたんだぞ。次に狙われるのはアンタか私かのどっちかしかないではないか」

 昔の無線機のような大柄な装置。ツマミを調節する長い指。

「そうだとしても、狙われたらやり返すだけですよ」

 長い睫毛の奥で獣のような瞳が光る。ヘッドホンから聞こえる会話の一句一句を聞き逃さぬように。瑞恵だ。

 蜘蛛の巣と埃の目立つ、六本木のとある廃虚ビルの最上階。ここにアリシアが在日アメリカ軍の馴染み客から譲って貰った盗聴機器を隠している。

「それよりも、この間送った品物を最後に、しばらくおたくとの商売を控えさせていただきたいのだが」

「何ですと?」

 予定にもしていなかった話が持ち上がって、驚いているらしい。

「何せそちらも大統領とマフィアとの癒着がバレて、失脚も時間の問題だ。これ以上、大統領閣下のお供をするのも、少々気が引けるというものでしょう?」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。東欧に勢力を伸ばしたいというアンタの頼みを聞いて、私が向こうの連中を紹介したのだぞ。だったらもう少し付き合って頂かないと」

「ウオッカの飲み過ぎと、異民族排斥で西側諸国に睨まれているようではね。これはちゃんと向こうの組織との協議の上での決定ですよ」

 一方的なやり取り。部屋の狭さも何の関心も引かない。

「た、頼むよ。私も任期もそんなに長くないのだ。その間に閣僚入りするためにも、アンタとの取引で点数を稼ぎたいのだよ」

 冷静さが消え、自分の本音が出てしまっているのに気付いていない。呆れ返ったのか、しばし間があく。

「では、交換条件として私の方の要求を飲んでもらいましょうか」

「要求?」

 

 程なくして会話は終了し、瑞恵もヘッドホンを外した。

 そのまま、部屋の隅にあったロッカーの鍵を開ける。中からはゴルフバッグ。

 ファスナーを下ろす。出てきたのはゴルフ用品ではなくライフルだった。

 スコープ付きのレミントンM700。黒いフレームとシルバーの銃身のコントラスト。

 手に取るや否や、瑞恵は射撃体勢を取る。素早く、そして無駄な動きは一切ない。

 スコープを貫く視線から、引き金にかけられた右の人差し指に至るまで漲る緊張感。

 水を打ったような部屋の空気。どこか心地良さを感じずにはおれない。

 ハドリフスクでの一件をきっかけに覚えた銃器の扱い。元々器用だったせいか、インストラクターが誉める程上達は早かった。

 インストラクターを紹介したのはアリシアだ。ハドリフスク駐留のアメリカ軍人だった辺りから、アリシアの人脈が伺える。

 セルゲスに行っても落ち着かず、こんな事を覚えて舞い戻って来てしまった。

 後戻りが利かない事は承知している。

 こんな事が判ったら、左京は私に銃を向けるだろう。

 私は抵抗して、彼に銃を向けるのだろうか。

 いや、自分だって気づいている筈だ。そうなったら自分がどう動くか。

 薄々気づいている答え。

 それを自分の内奥に飲み込むように、瑞恵はやっと銃を下ろした。

 

To PART2

 




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