Agua De Beber PART2

 

 

 スターバックスのラベルが付いた紙のコーヒーカップから沸く湯気に、左京の白い息が混じる。

 舌が焼けぬようにゆっくりと流し込む。通行の邪魔にならぬよう、身体を路地に引っ込ませている。道行く人々は誰一人構う事なく、首を窄ませて歩いていく。

 首都高渋谷線との交差点、六本木三丁目側の東通り。ファストフードやパスタ屋の看板が入り乱れる。

「ウチは従業員のプライヴェートまでは取り扱わない事にしていますの」

 素気無いアリシアの返答。粘っても良かったが、客筋を考えてその内、外交官特権うんぬんで捜査にストップを掛け兼ねない。

 そこで直接ではなしに、アリシアの身辺から当たって行く事にした。とはいえ、同業者に顔は広く知れ渡っているが、何故か彼女の過去をはっきり知る者は六本木には一人も居なかった。

 左京はずっと前にはアメリカに居たと言う噂を便りに、外務省まで足を運ぶに至った。今はその帰りで、コートに彼女の関係書類を忍ばせている。

 コーヒーを飲みつつ、左京の視線は通行人から外さないでいる。

 どうも最近、誰かに付けられているような気がする。

 ただの思い過ごしではない。昨日も違う店で同じ顔に出くわしている。しかも内一人はあの千石だ。

 音羽の狸親父め。俺の方から炙り出す気だな。

 そう思った時、10m後方に対象物を発見した。九州ラーメンの立て看板の背後で、二人の男の姿が見え隠れする。一方はやはり千石。

 舌を打つ代わりに、残りのコーヒーを啜るように飲み干し、すぐさまコップを握り潰した。

 そのまま、地面に落として霞ヶ関方面へと足を向ける。合わせて背後の二人も付いて行く。

 素知らぬ顔で角を曲がり、小道へと入る。まばらになる人通り。

 二つ目の曲がり角。道路標識と一緒に付いている確認ミラーをちらりと仰ぎ見る。柄の悪い格好の男達がしっかり映っている。距離はまだ十分にある。

 突然、右へ駆け出す。呆気に取られそうになりながらも、後ろの二人も追いかける。

 また右へ曲がる。反対方向からピザ屋の配達バイクとすれ違う。千石と山崎は曲がった所で危うくバイクとぶつかりそうになる。飛び出す怒号。

 また大通りに戻るが、左京は他の人込みを掻き分けながらの逃走になる。対して手慣れた怒鳴り声といかがわしい格好のお陰で通行人はつい二人を避けて行く。

 今度は左へと再び脇道へ入るが、左京と千石の距離が前より縮んで行く。山崎は引き離されて行く。プロのボクサー崩れの千石、アマチュア止まりの左京では少々相手が悪い。

 眼の前に馴染みの看板が見える。ツキミ達の店だ。開いているかどうかも考えず、勢いでドアに突っ込んで行く。

 幸い開いたドア。すかさず鍵をかける。何事かと奥からツキミ達が顔を出してくる。

「あ〜ら、左京ちゃん。嬉しいけど開店はまだよ」

 驚きを見事に隠している。

「お構いなく。すぐ出て行くよ」

 息を切らしながら軽口を叩く。背後ではドアを連打する音と罵詈雑言。

「オカマの穴に潜る気か? ホモ野郎!」

 ツキミ達が左京に歩み寄る。左の親指を後ろに向ける。

「奥に勝手口があるわよ」

 にんまりと口の端が上向くツキミ。

「ただで穴に入っていいのか?」

 つられて前歯を見せる。

「この間の一万よ」

 

「いい加減開けやがれ!」

 痺れを切らせて蹴り上げようとする。それと同時に開く木製のドア。千石の足とツキミのストッキングが衝突する。

 爪先に違和感を感じ、頭を上げる。見れば、こめかみに青筋を立てたツキミの笑顔。

「ほ〜お、アタシのおみ足をサッカーボールと勘違いしたのかしらぁ? お兄さん」

 最後の呼びかけが妙に低くくぐもっている。千石達の顔から血の気が徐々に引く。

「な、何だよ……このオッサン達」

 山崎の最後の一言で、ツキミ達三人の堪忍袋の緒が切れる。

「いい気になるんじゃんねえよ! このガキんちょ共!」

 ドスの利いた怒鳴り声と共に、三つのハイヒールが二人を襲った。

 ツキミ達の店を出た左京は、息を整えながら裏手通りを歩み出す。

 彼の背後から一台の車が迫って来る。クラクション。振り返れば、フェラーリ456M GTA。左側のサイドウィンドウから現われたのは、サングラスをかけたアリシア。下ろした髪はボブカット。

「まだ昼だぜ?」

 やや呆気に取られている。

「昼だからお相手するわよ」

 

 

 テールパイプから豪快に発せられる甲高い排気音。黒のロングブーツを履いていても、繊細なアクセルワーク。スピードメーターの目盛りと共に加速していく景色。

 ただでさえ交通量の多い首都高を、ジャケットのインナーをボンテージ風に固めた女性は、車と車の間をすり抜けるように疾走する。

「隣に誰が乗っているかわかっているのか?」

 緊張の色は浮かんでいないが、ぼやきの一つが出てしまう。

「悪徳刑事でもスピード違反には大目に見てくれない訳?」

 店の時とは違い、横柄に突っかかってくる。

 こう態度が変わると反論する気が萎えてしまう。

「賄賂代わりに、俺を今から慰安旅行に連れて行こうと言うのかい?」

 ふて腐れるように、本革のシートにふんぞり返る。

「違うわよ。店でされたら困る話をしようと言うのよ。それにアンタ、店の近所でアタシの事をうろうろ調べているし」

 横目を向ける。ステアリングを握る長い指には、銀の指輪が光っている。

「ついでにアタシもここの所、アンタの事について色々と耳にした事を整理していたし」

「俺の?」

 思わず聞き返す。

「そう。音羽の息のかかった店のホステスを奥さんにしたために、音羽の小間使いをするようになった男の話しをね」

 一瞬、顔中の筋肉が硬直する。左京のその表情に目配せするアリシア。排気音が室内でこもるように響く。

「聞いたのか」

 ようやく、その一言を発する。

「割に時間がかからなかったけどね」

 あっさりと返す。

「奥さん、借金していたの?」

「いや。彼女の父親さ。町工場の親父だったが、不況で倒産して残った借金を払うためにホステスをやっていたのさ」

 思い返すように淀みなく語る。アリシアも腐る程聞いた似たような話。

「音羽の経営する金融屋で借りていたのね」

「そう」

 トンネルに入っていくフェラーリ。景色が黄色がかっていく。

「大学以来の再会となった俺が、借金のカタ代わりに音羽の小間使いをするに至ったのさ。音羽には俺も飲み屋の借金が少し残っていたし」

「本当にそれだけ?」

 左京の内奥に迫るように訊ねる。左京もアリシアの横顔を眺める。

 車が多くなってきたのか、景色の移動がやや遅くなり、最後には歩くのと同じ速度になる。

 二人の視線が重なりあったまま、アイドリング音が地をはうように漂う。それ以外には両者の耳には入ってこない。

「似ていたのかな」

 左京がふっと答える。徐々に他の車の速度が上がっていく。

「俺の母親にさ」

 視線が虚空に漂う。その様子をじっと見つめるアリシア。今まで数多く見てきた、過去が滲みでた表情。

 アリシアもそれ以上は訊ねず、開けた景色へとアクセルを踏み込んだ。

 

 

 十九世紀から取り残されたような建物群。どこか灰色がかっている。

 その中でも徐々に増えているヴァージン・レコードやマクドナルドの看板。

 色鮮やかなネオンサイン。その下で路上駐車するメルセデス・ベンツ等の西欧系の高級車。各々の店で毎晩繰り広げられる派手な散財。公民問わず己の資本を持て余している者達にしか得られない世界。

 道路にまで響くヒップホップ。道端で空缶の中の炎に屯するホームレスは少しも関心を示さない。

 共産勢力が崩壊し、次に代わる秩序がまだ決まらないセルゲスの首都、ハドリフスクの歓楽街の光景。

 その一角にある、煉瓦作りのクラブ。「Sweet Basil」と英語表記された筆記体が青白く輝いている。

 二年前、アリシアがハドリフスクで開いていたクラブ。

 結構広い店内の中心には、ステージを中心に様々な大きさのテーブルが不規則に並んでいる。客は多く、熱心に聴いている者、爆笑する者、派手に着飾った女性と戯れる者と様々。その間を燕尾服の女性店員が忙しなく行き来している。

 ステージの中央を陣取った白いスタインウェイのピアノ。休憩時間なのだろう、今は鍵盤の扉が閉じられている。後ろに控えるウッドベースもドラムセットも同様。

 その弾き手は今、奥の楽屋で鏡を前に、自身の小さな唇を紅く色づけようとしている。

「瑞恵ちゃん、いいの? 病院代借りたままで」 

 隣に居る若い女性が化粧中の瑞恵に声をかける。ショートヘアに色の濃いサングラス。

「いいわよ、春子さん。私も少しでもいいから、今までのお礼がしたいから」

 手を止めて、相手の方を向く。唇で口紅を馴染ませている。

「済まないわね」

 伏し目がちになる相手。

 元々彼女はこの店の副支配人で、日本のバブル経済崩壊後自己破産し、夜逃げ感覚で流れ着いた日本人だ。年齢は瑞恵よりは上。

 瑞恵もこの地に来て以来、オーナーのアリシアと彼女に色々と面倒をみて貰った。

 アリシアもそうだが、春子の面倒見の良さは瑞恵には心地良かった。

 その春子も付き合っていた男と口論になり、片目を潰されそうになったのだ。

 身篭っていた子供を一人で育てると言い張ったのが原因らしい。

 知らせがあって、病院まで連れていったのが瑞恵だ。しかもその時の治療費は彼女持ちだった。

「駄目ですよ。そんな風に落ち込んじゃ」

 柔和な表情を浮かべて、覗き込む。

「お腹の子にも悪いわ」

「瑞恵ちゃん……」

 春子の顔の筋肉が微かに揺れる。そして涙がはらはらと零れていく。

「ほらほら、化粧が落ちるわ」

 手元のハンカチを取りつつ、瑞恵はその表情を優しく見つめる。

「御免ね。この歳まで男運の悪さに付きまとわれるなんて……」

 サングラスの下から手を入れて涙を止めようとする。

「これからどうします?」

 瑞恵が訊ねると、春子は涙をどうにか止め、顔を上げて答える。

「産むわ」

「一人でも?」

「ええ。きっとこれが最後だと思うから」

「向こうからお金、止められても?」

「それでもね」

 穏やかな声だが、意志の強さが滲んでいる。

 その姿を瑞恵はただ見つめる。

「瑞恵ちゃんは、子供作らないの?」

「私?」

 いきなり訊ねられて、意外な面持ちになる。

「駄目ですよ」

 諦めの匂う、瑞恵の回答。

「どうして? まだアンタなら……」

 笑窪を作りながら、影のさした顔で瑞恵は続けた。

「男と居ても、なかなか落ち着かないの」

 

 休憩時間を終えて、再びピアノの前に戻っている。

 滑らかに、テンポ良く鍵盤を駆けていく瑞恵の十指。「リカード・ボサノヴァ」のメロディーが周囲に流れていく。

 追従するベースとドラム、そしてフリューゲル・ホーンにテナー・サックス、フルートも乱れずハーモニーを奏でる。それも全て瑞恵のしっとりとしたピアノの音色を引き立てるために。

 瑞恵はそれらの音に耳を澄ませ、瞼を閉じ、前のめりの姿勢で、ただひたすらに一音一音を紡いでいく。

 そして自然と、ざわめきもグラスの当たる音もなりを潜めている。

 曲に合わせて、瑞恵はゆっくりと顔を上げていく。真上の照明が彼女に降りそそぐ。

 最後のフレーズを奏でようとした、その時だった。

 客席の方から響いた、銃声が一発。悲鳴も上がる。

 一瞬止まるピアノの音。

 今度はやられた側の応戦も始まる。軽々しいマシンガンの音。

 危険を察知して、瑞恵とバックミュージシャン達がステージから離れていく。

 五対五の攻防。一人が引き金を引いたまま蜂の巣になっていく。目標も定まらずそのまま乱射される弾丸。行く手には逃げようとした客や店員達。

 流れ弾に当たった一人の遺体が、テーブルの下に隠れていた瑞恵の足元に倒れ込む。

 血で濡れていても、その顔はよく知っていた。春子だ。

「春子さん!」

 叫びたかった。しかし次の弾丸が瑞恵の近くを襲ってくる。また倒れ込む別の遺体。今度はウージーのサブマシンガンを持っている。

 いまだに続く攻防。グラスは粉々になり、照明は落ち、ピアノには穴が巣食っていく。

 怯えていた。母親の遺体、圭介の遺体、そして日本で自分が遺体になりかかった時の事が一気に押し寄せてくる。

 外からもどちらかの側の援護が来たようだ。更に増す銃声。また巻き込まれていく人々。

 どこに行ってもこんな目に合う。どこに落ち着けられるの?

 とうの昔に涙は尽きていた。とうの昔に期待など捨てていた。

 別の男がこちらに寄ってくる。さっき殺した男にとどめを刺そうというのか。

 憎らしい顔が近づいてくる。下手をすれば瑞恵も巻き添えを食う。

 もう全てを捨てても構わない気がした。すかさず側のウージーに手を取っていた。

 ピアノを奏でる瑞恵の長い指。今度は無我夢中で銃声を奏でた。

 

 

「ここも久しぶりでしょう?」

「ああ」

 爆音にたなびく枯れ草達。その間からは、一台のフェラーリ456M GTAを挟んで二人の人物がボディに寄っかかっているのが見えるだけ。

 首都高から京葉道路まで尋常ならざるスピードで飛ばし、成田空港とは目と鼻の先の空き地にたどり着いている。

「ここで、アンタは瑞恵ちゃんを死んだと見せかけて逃がしたのね」

 グラサンを外さず、隣の左京の方を向かずに呟く。吐く息が白い。

 逃がした時、その道のプロを脅して作らせた偽造パスポートと餞別の航空券、旅費を渡してはいた。

「ああ。車で炎上死したと見せかけてね」

 別に左京も驚いた風でもない。

「旦那になる予定だった圭介が、音羽とセルゲス大使館の癒着を追っていた途中で奴等に殺されたのさ。ただその時既に圭介はレポートにまとめてあったので、そいつを俺が隠そうとしたがそれも奴等にバレて、瑞恵を殺すように頼まれた」

「逃がしたのは、単に友人への詫び?」

 アリシアからの鋭い一言。じっと左京の顔を睨むように見つめる。俯き加減にしばし無言になる左京。やがて顔を向ける。

「いや」

 首を軽く横に振り、その一言だけ。口元が緩くにやついている。

 全てを失い、己の過失を責める気力も尽きた人間が見せるような表情。アリシアもよく知っている。

 それを見ただけで、追求する気が徐々に失せていった。

 風の音だけが二人の周囲を漂っていく。

「聞いたのかい? 彼女から」

 今度は左京の方から訊いてきた。

「彼女と、セルゲスで会ってからしばらくしてからね。埃だらけでハドリフスクのベンチに座っていたのを見かけたのが最初よ。その時点で訳アリとは睨んでいたけどね」

 戸惑いと虚無に彩られた顔。今も思い出す。

「で、自分の店に引っ張ってきたと?」

 左京の顔がアリシアの方を向く。

「そうよ」

 アリシアは前を向いたままだ。

「ピアノの腕も歌も評判が良かったから、すぐに人気が出たわ。資本主義がどっと押し寄せてきた直後のあの国じゃ、西側系のクラブスポットなんて珍しかったから。だからあの子にはむしろ欧米のスタンダードやラテンナンバーを弾かせたわ。瑞恵ちゃんもそっちの方が上手かったし。アイツらが来るまでは」

「音羽達かい?」

「そう」

 自分の足元へと頭を垂らすアリシア。白い溜息。

「アイツらがあの国で日本への密出国斡旋や向こうのマフィアと手を組んでの武器麻薬密輸に手を染めてから、今度はハドリフスクの歓楽街を自分達のモノにしようとし始めたの」

 共産時代を色濃く引き摺った薄暗い歓楽街に、赤やライトブルーのネオンサインが徐々に浸透してきた頃。

 最初はアリシアも事なかれで済ましてきた。しかし他勢力との諍いを自分の店で起こされてしまった。

 派手な銃撃戦。客にも従業員にも犠牲者が出た。

「結局、どっちの側もほとんど生きて返って来なかった」

 締めくくったのは左京だ。アリシアは意外な風に、左京に振り向く。

「知っていたの?」

「まあ、日本に居ても噂として流れて来るからね。ただそれがアンタの店というのは俺の勘だがね」

「アタシはまだいいわよ」

 今度は左京が反応する。サングラスの向こうにあるアリシアの瞳を伺う。

「瑞恵が全部殺ったのか?」

 切れが悪い唇の動き。余り言いたくはない答え。

「そう」

 過ぎた事とはいえ自分の非を認めているのだろう、アリシアの返事も暗い。

「弁解する訳ではないけど、アタシも止められなかった。事が静まって最初に見たのは、マシンガンを握って呆然を突っ立って居る瑞恵ちゃんだったのだから」

 サングラスを外す。自分が虚偽を言っていない事を示すように、自分の顔を左京に見せる。

 潤みはない。しかし懇願も他者に内奥を探られないように覆う闇もない。

 悔恨と憂い。左京も数多く目にした、いや自分もしてきた顔。

 ふと疑問が浮かぶ。

「なあ、アリシア」

 アリシアの顔から逸らしつつ話を変える。

「今、事を起こしているのは、瑞恵なのか?」

 すぐには答えない。

「そうよ」

 諦めたようにアリシアは答えた。

「だとしたら、瑞恵は何故そこまで音羽に執着する? いくら圭介や向こうでの身内を殺されたからとは言え、少々念入り過ぎないか?」

 自分の中で引っ掛かる疑問を口にする。

「さあ。それを言う前に」

 意味ありげに口の端が上向く。何かを値踏みするような表情になる左京。

「アンタにも他に隠している事はないの?」

 左京の表情は変わらない。

 飛行機の爆音が二人の元へと降りていく。

 

 

 少し早い夕闇がサイドウィンドウから漏れ入る。

 運転席の背もたれをリクライニングした状態では、光が漂っているのが見えるような錯覚を瑞恵は抱く。

 横の助手席を向けばゴルフバッグがレッグスペースから伸びている。

 昭和島北緑道公園側の道路。この時のために中古で購入したジープ・ラングラーを路肩に停めてから十分近く経っている。

 アリシアが送ってくれたFAXによると、この通りが音羽とセルゲス外交官の落ち合う場所となっていた。信頼できる筋によると毎回必ずこの場所で密会するとアリシアは記述していた。

 その場所より、やや離れてシボレーを停めている。

 思っていたより、向こうの動きが早い。今日盗聴した電話によると、この密会を最後にしばらく活動を控えるらしい。ひょっとしたらこれで決着が付くかもしれない。

 はやる心を抑えたいのか、早く結果が見えそうなので逆に拍子抜けしているのかはわからないが、瑞恵の頭の中では別の事が思い浮かんでいる。

 予定通りならば今、左京はアリシアママと共に居るはずだ。そこできっとママは彼に事の顛末を話しているかもしれない。

 たとえ、音羽を殺して全てカタがついたとしても、立場上、彼は私に銃を向けるだろう。前は撃たないでくれたが、今度は多分無理だろう。

 それについての恐怖は、ない。中学時代には中年男にレイプされかかった事もあるし、不良だった高校時代からピアノで生計立てられるようになるまで、それ以上の出来事には腐る程遭遇している。

 やっと圭介という危険とは無縁の男と出会って、少しは落ち着くかと思ったけど、それもまやかし。男と関わりを持たなかったセルゲスでも同様。

 結局どこに行っても、私は男達から安堵を得られないでいる。

 母から受け継いだ血がそうさせているのかしら? 

 圭介を裏切って、左京に圭介以上のものを見出したから?

 それも今更言っても仕方ない事だけれど。

 気を取り直すように、身体を起こす。全身黒のライダースーツ。

 バックミラーに自分と同じ方向に一台の車が止まったのが見える。後を振り返ると青い大使館ナンバーがかろうじて見える。

 すると今度は、別の車が曲がってきて反対方向に停める。最初の一台とは道路を挟んで同一線上に並んだ格好だ。

 すぐに身体を曲げて、ゴルフバッグに手を伸ばす。ファスナーを下ろすと、黒光りする円筒が顔を出す。レミントンM700

 既に開いたジープのリアに向けて、銃身を構える。このためにわざわざリアウィンドウを取り外して貰ったのだ。

 慣れている筈なのに、どこか違和感のある重みを肩の辺りに感じる。

 左眼をつぶって覗き込むと、スコープの中心に車の後部座席から降りる音羽が見える。後ろに控えているのは山崎。

 音羽の側頭部の移動に合わせて、銃身を微かに横に移動させる。側頭部の中心とスコープ内の目盛りの中心が徐々に一致していく。

 引き金に掛かる指。ピアノを弾く時とは違う緊張が支配する。

 はあっと息を吐く。それを最後に喉の奥に呼吸を飲み込む。

 人差し指がいよいよ引き金を引こうとする。

 突如、別の車の排気音が襲い掛かる。それもかなり速い。

 リンカーン・コンチネンタルがジープの側を掠めていく。タイミングを崩した格好で引き金が引かれる。

 発砲音。リンカーンのリアウィンドウにヒビを生む。音羽達の側で急停止。派手なブレーキ音。運転しているのは小杉。

 邪魔されたのが分かると、瑞恵はすかさずレミントンを車内にしまう。シートを定位置に戻してシートベルトもせず、キーを掛ける。

 音羽はすかさず、自分が乗ってきたキャディラック・ドゥビルに寄る。山崎は大使館ナンバーのBMW750iLに乗り込む。中に居るのは千石ただ一人。

 焦りをぶつけるかのようにアクセルを踏み込む。派手な排気音と共に突進する。

 後ではBMWが既に発進している。追いつきそうだ。

 それをちらっと目撃すると、突発的にステアリングを右へ廻す。右手は思いっきりサイドブレーキを引く。

 小さな車体が逆方向を向く。響くタイヤのスキール音。直後BMWが横をすり抜ける。

 再びアクセル。今度は音羽達の方へ突進する。

 真ん前では小杉が音羽を隅へ押しやっている。一瞬、逃げる音羽と眼が合う。下唇を噛みそうになる。しかし今度は銃を構える小杉の姿が飛び込んで来る。

 二発目。思わず頭を下げる。フロントガラスに風穴が開く。それに構う事なく二人の側をすり抜ける。BMWも後に続く。

 二台が過ぎ去った後を音羽が呆然としつつも眼を追っていたのを、瑞恵には知る由もない。

 

 貨物、食品関連の似たような倉庫が立ち並ぶ。橋を挟んで昭和島の隣にある平和島の光景。

 その中の一角にある、今は使われていない倉庫の中。すっからかんの屋内に乗り捨ててあったジープ。運転席側のドアが開けっ放しだ。

 導かれるように、今度は千石達のBMWがゆっくりと入って来る。静かに止むエンジン音。

 降りた二人が忍ぶようにジープに近づく。円い穴を中心にヒビの広がったウィンドスクリーン。そのままのゴルフバッグ。

 前部座席に誰も居ないのを確認し、千石が後部座席を覗き込もうとした時だった。

 空気が抜けたような一発の音。千石の脳天に小さな穴が開く。後に居た山崎にのしかかる。血相を変えて、千石の体を落としてしまう。

 次の弾丸が山崎の肩を襲う。情けないまでの悲鳴をあげて地面に倒れ込む。

 シートを倒し、後部座席から出て来る瑞恵。右手にはサイレンサー付きの銀色のグロック17。痛がる山崎に近寄って銃口を側頭部に当てる。

「ねえ」

 冷ややかに訊ねる。血相を変える山崎。

「教えて貰えない?」

「な、何だよ!?」

 無機質な女の声に、震える男の声。

「圭介を撃ったのは、誰なの?」

 瞳には、恨みや怒りが微塵も伺えない。それが山崎の恐怖心を煽り、なかなか答えを出せない。

「誰なの?」

 瑞恵の声がやや大きくなる。更に縮み込む山崎。ギリギリの所で心理的崩壊を防ぎたいのか、引きつったような笑いを発する。

「アンタが生きてるって事は、西村のダンナが見逃したって事だよな」

「それが何よ?」

 訝しがる瑞恵。苦しそうににやけながら、瑞恵に顔を向ける山崎。

「皮肉だよなあ。亭主を殺した男に助けられるなんてよ」

 大袈裟に事情をバラす。瑞恵は頭の中で何かが止まったような気がした。

 嘘。

 呆然とし、瑞恵はその言葉しか思い付かない。銃口が自然と下げられる。

 それを見て、山崎は優位に立ったように更に続ける。

「驚いてんのかよ? だろうよ。浮気相手にアソコぶち抜かれただけでなく、亭主も撃たれたんだからよ」

 腹の底から邪悪に笑う。

 左京の台詞、左京の肌の感触、私を逃がしてくれた時の左京の真剣な表情。

 その左京が圭介を撃った。額に一発で。

 瑞恵の中で浮かぶ光景。山崎の笑い声が続く。

 歯ぎしり。山崎を見つめる瞳には燃えるような怒りのみ。

 再び向けられる銃口。山崎は全く気付かず、ただただ笑う。

 広い屋内でほとんど響かない音。しかも六発。

 時間が死んだような静けさが、すぐに訪れた。

 

 

 淫靡に輝く街の灯。その下で蠢く人と車。

 それとは関係なく根津美術館の近くは暗い。静かにフェラーリは道路脇に止まる。

「ここでいい」

 アリシアの方を振り向かずに、フロントスクリーン向こうの景色を何気なしに見つめる左京。

「どうするの?」

 アリシアも左京の顔を見ない。答えを出そうとしない左京。

「別に。早いか遅いかの違いだけさ」

 ドアノブに手を掛け、出ようとする。

「今日の所はアンタに免じて店には立ち入らないでおくよ」

 左京の後ろ姿を見送るアリシア。思い付いたように立ち止まった左京は懐から封筒を取り出し、アリシアの方へと放り投げる。

「何よ?」

「アンタの経歴さ。外務省やら横田辺りのアメリカ軍に問い合わせたんだよ。父は在日アメリカ軍人、母は横須賀の売春婦。両親を失って以来、他の軍人仲間の間を行ったり来たりして育てられた後、現在もなお在日軍とのパイプを保ちつつ女として生活する」

 振り返り様にはしょりつつ説明する。

「瑞恵ちゃんの言う通り、調べるのが早いわね」

 感心している様子は、声に表れていない。

「この間来た時、店に居たアメリカ人だよ。顔覚えていたら、横田の奴だってすぐ調べがついたしな」

「他にはないの?」

「ないから返すんだよ」

「どうして?」

 これにはさすがに興味を引いたらしい。

「大体の想像はつく。言いたくなければ言わなくてもいい話はな」

 悟ったように呟いた左京。その言葉に惹かれてアリシアは左京の顔にしばし視線を固定したままになる。

 ドアを閉めようとすると、

「瑞恵ちゃんのママ、あの子を産む前に、横須賀に来た事があるのよ。在日軍向けのバーで歌いに」

 制止するようにアリシアが語り出す。左京は振り向きもせず、ドアに手を掛けたまま動きを止めている。

「父親に苛められ、腫れたままの頬で店の前を歩いていたアタシに、手当てをしてくれたわ」

 懐かしそうに視線を空に向ける。

「いつも歌ってくれたわ。優しく、寂しそうに」

 アリシアの言葉を聞き終えると、左京は一瞥もせずにドアを閉める。

 瑞恵の母が歌っている歌詞、顔付き。左京の中で何故か容易に想像できた。

 署の方へ人気のない裏通りを一人歩く。後からゆっくりとしたエンジン音とヘッドライトの光。左京が振り返るのと同時に車が止まる。中から杉野が助手席の方へ首を出している。

「どうした?」

 軽い調子で訊ねる。

「西村さん乗って下さい。音羽の子分が二人殺られました」

 杉野は急かすように促す。左京も疑問を顔に出す事なく乗り込む。

 シートに座った時、気付いた。後部座席に乗っているのが小杉だった事に。

 すかさず出ようとする。しかし運転席から集中ドアロックで鍵が掛かってしまう。

「慌てなさんな。アンタと飲み損ねた酒を飲もうというだけだよ」

 後ろから小杉が、落ち着き払った調子で首を突っ込む。その横顔に警戒しつつも軽口を吐き捨てる左京。

「バカラ注文するより高くつきそうだな」

 

 

 鍵盤全体が揺れんばかりに、叩き付けられる十本の指。

 それに注目する観衆は誰も居ない。

 滝の瀑布のように押し寄せるフレーズ。

 余計な雑音となるグラスを合わせる音は何も無い。

 振り乱すしなやかな髪から汗が迸る。

 それを照らすのは真上の照明のみ。

 瞼を閉じ、全力疾走するような瑞恵の必死の表情。自分の中にある、動揺や憤りを振り切るかの如く。

 ピアノの音が縦横無尽に流れていく、休業中のアリシアズの店内。

「程々にしないと、ピアノはおろか引き金も引けないわよ」

 注意を向けるような、二回手を叩く音。邪魔物を跳ね除けるように視線を鋭く向ける。

「ママ」

 声の主がアリシアである事を確認して、瑞恵は安心したかのように脱力する。ようやく指が鍵盤から離れる。

 汗で蒸したのかダンガリーシャツのボタンを片手で外していく。豊かな胸元が顔を出す。

 アリシアは長い髪の向こうにある、疲れに染まった瑞恵の表情に見とれつつも、ただならぬ様子に気にかける。

「車のラジオで言ってたわよ。チンピラが二人死んだって」

 瑞恵は何も反応せず、俯いている。アリシアも不動。しばし間。

「彼が、左京が圭介に手をかけたって」

 朦朧としたような声で、瑞恵はその台詞を呟いた。

「そう」

 一息空けて、アリシアは静かに反応する。

「彼も、撃つの?」

「わからない」

 瑞恵はアシリアの方を向こうとしない。足を組み、膝の上に肘をつき、手で髪をすく。

「いずれにせよ、彼はアンタを捕まえにやって来るわよ」

 アリシアの声からは感情の変化は伺えない。瑞恵もその後を続けようとしない。

「知ってる? 彼の奥さん、今入院しているって」

 見兼ねたように教える。その言葉に、瑞恵は我に帰ったかのようにアリシアを仰ぎ見る。驚きで両眼が少しだけ大きく開いている。

「精神病院だそうよ」

「いつからなの?」

 間髪入れずに質問を漏らす。

「ちょうど、アンタを逃がした後だそうよ。流産したって噂よ」

 瑞恵はそのまま止まったまま。その顔をじっと見つめるアリシア。

「何か飲む?」

 諭すように訊ねる。気を落ち着けるように、瑞恵はゆっくりと答える。

「ママに任せるわ」

 それを聞いて酒を取りにいこうとする。しかしすぐに思い直したように瑞恵が止める。

「あ、待って」

 振り返るアリシア。瑞恵はどこかきまり悪そうに言い直す。

「いつもの、ジンで」

 

 

 何発目かの拳が左京の頬に入る。口の中で血の匂いが一層深まる。

「それ以上殴ったって、保険金も出ねえよ」

 痛む頬を堪えて、口の端を上向かせる。再開される殴打。

 椅子の背もたれの後でかけられた手錠。足にも同じく。

 薄暗い部屋の隅に張り巡らされたパイプ。ヘイブンの本社ビル地下のボイラ室。機械の唸りが部屋の空気に張り付いている。蛍光燈の光が不似合いな位明るい。

 左京を取り囲むように、二、三人の男が立っている。内一人は杉野、もっとも、慣れないのか腰が引けている。

 三人をややおいて様子を眺めている音羽と小杉。音羽の眼の動きで、小杉が手を挙げて制止させる。道を空けさせ、進み出る音羽。

「なあ西村さん。私だってアンタとの付き合いを打ち切りたい訳ではないんだ」 

 頭を垂れる左京の顔を覗き込む。苦痛で眼が合わない。

「ただアンタが契約違反した事には、こっちとしてもキッチリ落とし前は付けておかないとね」

 柔らかい物腰。眼は笑っていない。

「いつもの金程度では、女一人殺すのは割に合わないんだよ」

 音羽の顔を見ずに呟く左京。

「旧友殺しは請け負ってかね?」

 皮肉には皮肉でやり返す。左京がようやく音羽と眼を合わせる、ただし片眼だけ。

「アンタだって奴からは脅されていたのだろう? それともあの女の身体の方が高かったって事か?」

「俺なりの個人的理由さ」

「アンタには不似合いな位安っぽい行動だね。もっとも、アンタが私の頼みを聞くようになった理由も安っぽかったが」

「ガキの頃からお涙頂戴の世界に居たからかな?」

 苦しげにへらず口を叩く。それを聞いて音羽は嘆息を吐く。

「残念だよ。これからはここに居る杉野さんをアンタの後任とさせてもらうよ」

 一瞬、杉野の方にチラリと眼をやる。左京もつられる。その隙を狙ったかのように、音羽からの一発。平手だがよく響く。うなだれる左京。

「じゃ、後でアンタの奥さんにも追わせてやるよ。稼ぎ口が居なくなったのでは、入院費もままならないだろうから」

 その一言で、左京の眼が大きく見開く。ベッドの上で呆然としたままの依子の姿。取り戻した気力。

「圭介のレポートを俺が隠し持っていたとしても?」

 左京のか細い一言。それで全員の動きが止まる。音羽も左京の顔をもう一度凝視する。

「何だと?」

 素直なまでの台詞が音羽の口から出る。その表情を左京は逃さない。

 効果あり。

「何かあった時のためにね、保険代わりだよ」

「てめえ、ガセネタ言うんじゃ……」

 音羽の子分の一人が掴み掛かろうとする。

「確かめる価値はあるんじゃないのか?」

 対抗する一言。笑みを浮かべるのも忘れない。眼はしっかりと音羽の顔に固定する。

 互いに無言。周りの連中も音羽に従うかのように、静止している。

 出方を待つ。今考えられる限りの唯一の反撃。一歩間違えれば、俺も依子もおしまい。喉が乾く。

 二、三分続いたかはわからない。終止符を打ったのは音羽。

「じゃ、確かめてはみるか」

 音羽の顔から緊張は消えていない。始末が先延ばしされた事に不満を露骨に表わす子分二人。杉野は少し安堵したように溜息をつく。

 音羽が後の小杉に目配せをする。それに従うように小杉が他の連中に退去を促す。

 子分達は怪訝を隠さず大股で出て行く。左京の方を申し訳なさそうに一瞥して、そそくさと去る杉野。小杉はその様子をじっと眼で追い、最後に鉄の扉を閉める。

 残ったのは二人。視線だけは逸らさない。白く漏れる息が互いの顔にかかる。

「何だい?」

 左京は音羽の腹の中を探りかねている。

「もう一つ訊きたい」

 感情が表れない声。左京はどこか違和感を覚えてしまう。

「奴の女だが、昔の事について何か聞いていないか?」

「瑞恵のか?」

 思わず聞き返す。無言の音羽。

「酔いどれ歌手の母親が水死した事か?」

 怪訝交じりに答える。音羽の顔に変化はなし。左京も眼が座ってくる。

 そして何もなかったように、立ち去る音羽。

 威厳はあるのだが、何かを抱え込んだような足取りの悪さが見える。

 その後ろ姿を、呆気に取られつつも左京はずっと追っていた。

 

 

 穏やかな冬の日差しがレースのカーテンを素通りしていく。

 それが自分に届いているのを、ベッドの上に座っている女は知らない。

 願望も絶望もない、先のわからない視線。

 自分も同じかも知れない。

 瑞恵は入口で立ったまま、目的の女性の横顔をずっと見つめている。

 足音を露骨に立てずに近づいていく。依子は気付く様子はない。

「依子さん」

 様子を伺うように、穏やかに訊ねる。反応はない。瑞恵は視線のやり場に困ってしまう。「Eu quis amar mas tive medo……(愛していたけど、恐かった)」

 微かな声。しかし瑞恵の耳は逃がさない。母が歌い、自分も歌った、あの曲。

E quis salvar men coracao(心を開く事ができなくて)」

Mas o amar sabe o segredo(愛には秘密がある) O medo pode matar  O seu  coracao(貴方の心を殺してしまえる秘密が)」

 初めて依子が反応する。見れば、瑞恵は後を続けていた。同じ位小さな声だが、澄んだ、儚げな歌声。感心したように見つめる依子と眼が合う。

 色褪せてはいるが、元気な頃の顔立ちの良さは見て取れる。

 瞳の奥に朧げに見える光。既視感を覚える瑞恵。

 そう、母のと似ているのだ。酒を浴びるように飲んだ後に、ふと見せる事のあった眼。

 それを見た時、いつも彼女との距離感が消えるのを感じていた。

「いい声ね」

 依子の声。存在感を感じさせない透明な声。

「貴女も」

 瑞恵も、依子が警戒しないよう気遣っている。

「知っているの?」

 笑みを浮かべて依子は訊ねる。

「母が好きだったの」

 自然と本当の事を言う。逆に瑞恵が問いかける。

「貴女はどうして?」

「彼が、いつも歌ってくれるの」

 依子の頬が更に緩むのを、瑞恵は見逃さない。

「いつからかはわからないけど、彼が歌うといつも落ち着くの。時々調子が外れるけど、歌ってくれるの」

 嬉しそうに語る。

 奥さんに母の歌を聴かせる左京。奥さんに寄り添って、子守り歌を聴かせるように小さな声で口ずさむ彼。

 左京のお母さんも、こういう風に彼に聴かせたのだろうか。

 瑞恵は、依子を通して左京の過去を垣間見た気がした。

「でも、いつも悲しそうに歌うの」

 依子の明るさに影が差す。

「まだ気にしているみたいなの。私がお腹の子を死なせた事を」

 徐々に不安が依子に忍び寄る。雲行きの怪しさを感じ取る瑞恵。

「私があんな目に遭わなければ、お腹の子も死なずに済んだのかな?」

 泣きそうになる。瑞恵も依子の側に座って宥めようとする。

「もういいわよ、依子さん。それ以上言わなくても」

 しかし依子の怯えは止まらない。

「私が、私が、彼に襲われなければ……」

 顔だけでなく、手にも震えが来ている。

「だからいいのよ。落ち着いて」

 依子の両肩に手をやる瑞恵。ただもう遅すぎたか、依子は嫌がってそれを払いのける。

「いや! やめて!」

 ついに頂点に達する。喚き。そして次の言葉が瑞恵を襲う。

「圭介さんやめて!」

 全身を硬直させるような衝撃。心臓が止まりそうになる。

 何故、圭介の名前が?

 瑞恵の中で出た言葉はそれっきり。口が思うように動かない。

 その後、看護婦や医者が駆けつけて依子を止めようとするが、その行為は瑞恵の視界の中には、もはや入ってなかった。

 

 

 吹き荒ぶ寒風。ヒビ割れたステンドグラスを揺らす。

 大使館の立ち並ぶ、西麻布三丁目の中にカトリック系の教会。黒く煤けた壁。割れた窓。ベンチは隅に無造作に押しやられ、神父も信者もいない。

 きしむ木目の床。一番前を行く男の頬は腫れ、口の端は切れている。

「何でこんな教会に?」

 三番目に居る、音羽の子分がポケットに手を突っ込みながら疑問を口にする。

「二、三年前ここでボヤ騒ぎがあって、それ以来使われないままになったのさ。やったのはここに施設を建てようとしたどこぞの新興宗教団体さ。もっともその団体も信者拉致疑惑や何やらで解散させられたがね」

「汝悔い改めよって奴ですか?」

 二番目を行く杉野が先頭の左京に冗談交じりに言う。

「カエサルの物はカエサルに、の方だな」

「どういう意味だよ?」

 四人目が先頭に聞こえるように声を上げる。

「ここの裏に圭介の墓があるのさ」

 背中を見せたまま答える。

 突き当たりのマリア像。左京は膝を落として、足元のパネルを外す。

「取られるとは思わなかったのですか?」

 杉野が批判めいた疑問を向ける。

「ここに居た神父がキャバレーを梯子していたのを見逃してやったのさ」

 最後の方は窮屈そうに言った。中に潜ったらしい。他の三人も揃って覗き込もうとする。暗くて奥までは見えない。

「ほらよ」

 声と共に手が帰って来る。MOディスクと書留用の封筒が輪ゴムで纏められている。

「封筒は何です?」

 杉野は奥に向かって訊ねる。

「写真だよ。俺が現像しておいたんだ」

 左京の答えを耳に入れながら、杉野の右手は懐からニューナンブM6038口径を取り出している。他の二人に向かって眼配せ。相槌を打つように首を縦に振る二人。

「西村さん。戻ってきて下さいよ」

 杉野の呼びかけ。徐々に銃身を穴の中に入れていく。首を四方に向ける。ちょうど正面を向いたその時。

 上から手首に衝撃が落ちて来る。放してしまうニューナンブM60。次に横から四角い物体が視界を突然覆う。衝撃と共に穴の外へと弾かれる。

 三番目に腹に当たる。しかも突っ込むように板の縁が。更に転がる杉野。

 姿を見せる左京。手には朽ちかけた木の板。間髪入れずに二人にも攻撃。一人目の膝の後を叩き、そのまま後頭部を叩く。

 その隙に残りの男が左京の背後を取る。抵抗を試みるがそう簡単には離れない。

 そのままの体勢でマリア像の元へ近づいていく。左京を前にして後退するように。

 左京が後ろの男を壁に押し付ける。二度も三度も。古くなっているのかマリアの顔が揺れている。

 何回目かで男がようやく左京を放す。撥ね付けるように説教台の方に放り出された左京が振り向くと男が突進して来る。そのまま説教台と男の板挟みになる。

 首を絞められる。苦悶の左京と興奮する男。苦し紛れに左京の右手は拳を作っていく。

 脇腹へ一発。当たり所が良かったのか、首を絞める力が緩まる。反射的に足で男を跳ね返す。壁に当たる。また揺れるマリア。

 向かいあって次の攻撃に備える。見えたのは痛みつつも起き上がる男、それに今にも倒れそうになるマリアの顔。

 男が前に出ようとするより早く、マリアの身体が男の上に振り落とされる。陶器の破砕音。

 割れたマリアに押さえ込まれるように、頭部から血を流して気絶。

 力が抜けたように説教台に寄りかかりながら、男の顔を一瞥する左京。

「子守り歌でも聴いていろ」

 息を整えつつ、離れてもんどりうっている杉野に近づき、馬乗りになって彼の懐から手錠を取り出す。後ろ手に掛けて、今度は身体をひっくり返して顔を突き合わせる。

「おい」

 首根っこを捕まえて顔を引き寄せる。痛みが退いていく代わりに怯えが侵食していく。

「結婚資金でも稼ぐ気なのか?」

「アイツに貢ぎ過ぎてカード破産ですよ、俺だってこんな…」

 その言葉が出た次の瞬間、杉野の身体が後ろから押されたようになった。

 異変に気付く左京。視線を変えれば、杉野の背中に銃弾が撃ち込まれている。しかも急所。

 続いて銃弾が窓から撃ち込まれる。発砲音が目立たないのはサイレンサー付きだからか。

 急いで身を低め、杉野の肩を持つ。

 マリア像のあった場所まで駆け出す。二人の後を追うように銃弾がベンチや壁に穴を空けていく。

 先程入った穴に潜る。同時に窓からある物体が投げ込まれた。手榴弾一個。

 それから間もなく、派手な爆音が教会全体を揺らす。

 窓や扉と共に、木片が飛び散っていく。そして広がる粉塵。

 しばらくして、三人程の声が離れていく。その中で指示を出しているのは小杉だ。

 彼らからは見えない教会の裏手では、一人の男が地面に突っ伏している。

 車が去る音。それが聞こえなくなって、ようやく顔を上げる。左京だ。

 マリア像の下から入る空間には、外に通じる小さな扉があった。中から簡単に鍵が掛けられるようになっており、その事を知っていた左京はその鍵を外して脱出したのだ。

「おい杉野」

 隣でうつ伏せになっている杉野に手を掛けて、仰向けにする。

 苦悶を通り越して意識が消えそうな杉野の表情。左京もどうする事も出来ない。

「こんな事、したい訳じゃないのに」

 辛うじて呟いた後、杉野の瞳孔が開く。

 杉野の死顔を思いつめたように見る。

「俺も、そうだったよ」

 左京はそっと、杉野の瞼を下ろした。

 

 

 レインボーブリッジが右手に見える。

 目の前には防波堤。小型船のエンジン音が微かに聞こえる。

 人通りのない芝浦ふ頭。忘れられたように止まるアウディTTクーペ。

 ステアリングに乗り掛かるように膝をつく瑞恵。一人だけの一時。

 精神病院で魂が抜けたように呆然としていた依子。

 病む前はもっと奇麗な人だったのだろう。

 彼や私のように夜の世界で生きていた彼女。親の借金のカタにされて。

 その彼女を引っ張り上げるために、音羽に協力するようになった左京。

 彼が聴かせたという母の歌。

 嫉妬も少しは生まれていたのかもしれない。けれど全て最後の出来事が吹き飛ばしてしまった。

 取り乱したあの姿。左京でも私の名前でもない。圭介の名前を叫びながら。

 振り払いたくて、ついついアリシアから借りた車のアクセルを大きく踏み続けてしまう。他の車の脇を次々と掠めながら。

 でもそれも無駄。どうしても反芻してしまい、ついこの場所に立ち寄ってしまう。

 少しは落ち着いた。けれど、頭の中ではまだあの光景が焼き付いている。

 互いに相手が居ながら不貞に走った私と左京。

 彼が圭介を殺し、その圭介も依子さんに何らかの関係を持っていた。

 私の預からない所での出来事。

 それも全て、私と左京がもたらした事なのかも知れない。

 髪を梳かす。憂鬱を払うように。

 腕時計をみる。昼の三時。

 帰ってそろそろ仕事の準備と行きたい所だが、気が乗らない。

 空を見上げれば、ジェット機が遠くに見える。

 彼が逃がしてくれた時のように。

 

 

「これですか?」

「ああ、一語残らず正確に公表してくれ」

 コーヒーショップの椅子のないカウンター。ノートパソコンのディスプレイに顔を突き合わせる二人。一人は左京。もう一人は横回りが左京の二倍位ある男。髪もしばらく手入れしていないのだろう、無秩序に伸びている。

 この男、かつて圭介の先輩ジャーナリストで、現在は週間雑誌の編集長に納まっているらしい。

 左京は一度も会った事もなく、ただ圭介のかつての同業者を探している内に、妥当な人間として選んだだけの事である。

 自分のコーヒーに角砂糖を入れる相手。これで五つ目。

「証拠としては申し分ないだろう?」

「ええ、ヘイブン社の貿易ルートを通して入ってきた、人、麻薬、武器等のセルゲス共和国からの密輸品が事細かに記録されていますよ。こいつがありゃピューリッツアー賞も夢じゃねえかもなぁって、これは言い過ぎか? へっへっへ」

 興奮の余り奇声を上げようとする男の口を塞ぐ左京。周囲を見回すが、誰も気付いていないようだ。何事もなかったかのように冷静さを取り戻す二人。

「あとは小林が撮った、音羽と仲介をしたセルゲス外交官との密会のシーンもあるし」

 ただし、左京と音羽が繋がっている事を示す記述は一切見当たらない。別に左京がもみ消した訳ではない。圭介が死んだ時点でも、まだ加えられていなかったようだ。

「どうして今になって公開する気になったのですか?」

 訊ねられて、しばし思い付く台詞を考える左京。男の鋭い視線が突き刺さる。

 やや顔を背けるように答えが出た。

「先送りしていたツケが、また舞い戻ってきただけさ」

 自嘲。そのままレシートを持って去っていく左京。

 男は訳も分からず、その後ろ姿を途中まで見送るが、すぐに視線はディスプレイに戻る。 

 砂糖漬けのコーヒーを一気に飲み干した。

 

 千代田線の駅を上がり、コートの襟で顔を隠すようにして歩く。もっともクリスマスまであと二、三日となった外苑東通りを歩く人々にとって、左京の異変はさほど眼を惹くものではないだろう。

 杉野の遺体は既に運んでもらった。今頃アイツの女も対面しているだろう。

 警察が現場検証をやって俺が死んでいない事がバレているかもしれない。

 そう思うと、自然と足の運びが早くなる。署に戻ったら、辞表の一つでも書こうかとも考えている。

 いずれにせよ、こうなる結果だったのだろう。瑞恵を逃がした時から。

 そのうち彼女は真相を知って、俺も殺しの対象にするだろう。

 それはそれでいい。悪徳警官にして不倫の夫には似つかわしい結末だ。

 唯一気になるのは、依子だ。ツキミ達かアリシアに頼もうか。

 思いを巡らす左京を無視するようにすれ違う人々。仕事姿のサラリーマンや若いカップル。帰るべき場所を持ち、帰るべき時に帰っていく。

 逆方向に歩いているのは自分だけのような気がしてならない。

 誰かの肩と当たる。謝ろうと顔を上げるが、忌まわしき物と出会ったような相手の顔が飛び込んで来る。

「守屋?」

 引っ掛かるように声を掛けた途端に、逃げ出してしまう相手。直感的に追いかける左京。

 足が遅いお陰で、路地に入ろうとした所を捕まえる。そのまま首根っこを掴んで、路地の壁に押しやる。

「忙しいからって挨拶なしはつれないのじゃないか?」

 やんわりとした口調。笑っていない眼。

「べ、別に……」

 顔を背けるばかり。

「ま、気楽にしなよ」

 横腹に軽く拳を入れる。守屋の顔が断続的に歪む。

「わかった、わかったっすよ!」

 困惑を浮かべて、事情を説明し始める。

「さ、さっき、音羽さんの所の人が例のクラブに入ったのを見たんですよ」

 一瞬にして眉が釣り上がる。

「誰だ?」

「あの小杉って言うおっかない奴と取り巻きが二人程」

「何で奴があの店に入ったんだ?」

「し、知らないっすよ!」

 ますます声を荒げていく左京。逆にますます小さくなる守屋。亀のように顔を身体の中に引っ込めてしまいそうだ。

「おい」

 守屋の怯えぶりが、左京の勘を働かせる。

「小杉にアリシアの事何かタレコんだの、お前だろ?」

 その一言で更に縮こまる守屋。彼の胸座を掴み大きく振り出す左京。

「だって、見たんですよう! この間、西村さんがあのカマ野郎の車に乗り込むのを!」

 苦々しい表情。守屋の台詞は喚きに近くなっている。

「俺だってあの小杉相手じゃ言うしかなかったしよぉ、それに年末で俺も金欲しかったからさぁ」

 今にも泣きそうだ。そんな弁解に呆れたくもなるが、無視して先を進める左京。

「それで、いつ言ったんだ?」

 聞こえてないのか、自分で喚くばかり。

「いつなんだよ!?」

 声を張り上げ、更に身体を大きく振る。涙をダラダラ流しながら、答えを漏らし始める。「つい一時間前っすよぉ」

 殴る代わりに、守屋の身体を壁に押しやった。

 

 

「無理はしないものだぞ」

 携帯電話から入る声。感情が篭っているのか皆目見当がつかない。奥からは別の人間の息切れが聞こえる。

 小さいけど、間違えようもない。アリシアの声だ。となると男の方は小杉。もっとも瑞恵は名前程度の認識しかない。

「いい加減に答えたらどうだね。アンタのご贔屓はどこに居る?」

 男の声に耳を傾けながら、アリシアの安否を気遣う。

 自分が居なかった幸運を喜ばず、アリシアが居てしまった不幸を嘆きたくて仕方がない。

 電話に出た時に既にこのような状態だった。奴に気付かれないように携帯電話のスイッチを入れたのだろう。

 ずっと男に暴行されたままのアリシア。断続的に聞こえる彼女の悲鳴。それでも彼女は男に瑞恵の居場所を教えるどころか、瑞恵に助けを求めようとはしない。

 声を出したい。けれど出せばアリシアがわざわざやった行為が無駄になるかも知れない。

 どうする事もできず、こうしてただ耳を傾ける。唇を噛む。

「アンタみたいな仏頂面なだけの男は、客以下の扱いしかしないのよ」

 時々入るアリシアの台詞。疲れを見せつつも、気丈さはしっかり残っている。少し安堵を覚えてしまう瑞恵。しかし、またアリシアの苦悶の声が聞こえる。

「意地を張っていると、逆に男からそっぽを向かれるぞ」

 アリシアへの冷たい一言。男への嫌悪が一層深まる瑞恵。

「そういう台詞を言う前に、自分の顔を見たらどう?」

 更に一発。

「アンタの気が変わってくれれば、彼女込みでなかった事にしてもいいのだよ」

「そう言って殺すのがアンタの流儀じゃないの?」

「西村さんとは違うからな」

 彼の名前。落ち着くようで緊張も混じった複雑な心境。

「アタシ達を殺したら、今度は左京さんも殺すの?」

「あの男も例外ではない」

 喉が乾き出す。

「そうしたら、また元の鞘に納まるって訳?」

「いや、ボスはしばらくこの国から離れると。ただでさえ国税局の査察が入ってゴタゴタしていたというのにな」

「それも全て、あの二人がくれた情報をアタシ達が売ったからね」

 ふと間が空く。

「何だと?」

 男の声色が変化する。

「二人共アタシ達の客で、売った事をネタに強請ろうとしたから、彼女が殺したのよ」

 その台詞を吐いた直後の、アリシアのニヤリとした表情が何故か目に浮かぶ。

 素性を隠して情報を仕入れたのは自分。身体まで提供して。

 まるで自分が偉くなったかのように得意げに話してくれた二人。もっとも身体を預けている最中は上の空だった。

 圭介、いやむしろ左京の顔を思い浮かべていたような気がする。

 瑞恵の回想。それを断ち切るような音が飛び込んで来る。空気が抜けたような音。

 我に返り、アリシアの安否に意識を向ける。

 微かに聞こえる彼女の呻き。それでも胸の高まりは止まない。

「どこまでも油断のならない男だ」

 抑揚も付けずに吐き捨てる。

「アンタ、気を付けなさいよ」

 痛みを堪えつつも反論するアリシア。

「女よ。瑞恵ちゃん同様、アンタみたいな碌でなしに人生狂わせれた」

 叫んではいない。己の底から絞り出すような一言。

 二回目の音。それが小杉の返答。

 瑞恵は苦痛に耐えるように奥歯に力を込めて噛み合わせる。

 アリシアへの憐憫と小杉への怒りがさらに力を加えていく。

「その碌でなしに息の根を止められる前に、二人の事を教えてくれた礼だ。一つ教えてやるよ」

 何かを抑えるように一息ついて、小杉が語り出す。

「ボスは今日、セルゲス大使館側の計らいでハドリフスクに飛び立つ予定だ。今頃、成田に向かって本社を出た所だろうよ」

 何かに弾かれたような衝撃が襲う。今度こそ最後のチャンスかも知れない。

「おい。何を笑っている?」

 異変に察知したらしい小杉。その後何かをひっくり返したような雑音が入る。

「貴様!」

 小杉も携帯電話に気付いたのだろう。恨みの篭った台詞をアリシアにぶつける。

「瑞恵か!?」

 急かすような男の声。間髪入れずに瑞恵は切り返す。

「その忌まわしい声でアタシに話しかけないで。不感症」

 冷酷さが漲る声。自身の中にある全ての憎悪をぶちまけた言葉。そして瑞恵の双眸に光る刃。

 切られた電話。突然の静寂。

 瑞恵は改めて眼を見開き、電話を強く握り締めた。

 

 

「悪足掻きは程々にするものだ」

 斜めに構えたサイレンサー付きのベレッタM92A。その銃口を上眼で眺める傷だらけの顔。

 照明の付けられていない店内。所々テーブルやチェアが無造作に倒されている。居るのはたったの二人。

 小杉が引き金を引こうとしたその時。

「アリシア!」

 入口のドアが勢いよく開かれる。激しい靴の音と共にニューナンブM60を構えた左京が現れる。

 その姿を認めるや否や、左京に向けて発砲する小杉。身をよじって床に滑り込む左京。

 ニューナンブを上に向けて撃つ。小杉は既に裏口の方へと退路を進めている。

 その姿を認めると左京も後を追わず、アリシアに近づき彼女の容態を確かめる。アリシアの顔が緩くなるのがわかる。

「大丈夫か?」

 やや息は荒い。

「ぎりぎりデートの時間に間に合ったってとこね」

 減らず口を叩く。殴られ、肩を撃たれてはいるが、命に別状はない。

「それよりも早く成田へ行った方がいいわ」

「成田?」

「瑞恵ちゃんも音羽もそこへ向かっているのよ」

 その言葉に後押しされたように、左京の表情がまた変わる。

「本当か?」

「車貸すわよ」

 胸の谷間からキーを取り出す。左京が取ろうとするが、アリシアは自分の右手の中に隠してしまう。

「他にアンタに借りがあったか?」

「アタシも連れて行きなさいよ」

 軽い調子、両眼からは威圧するような鋭さ。

 それを見て、左京も彼女に肩を貸すしかない。

 

 外に出て、東通りを渡ってすぐの所にある駐車場へと進む。やや心許ない足取り。

 金網に囲まれた中はと入ろうとした時、背後から車の排気音が猛スピードで迫ってくる。

 身をよじって避ける二人。通り過ぎてブレーキ音を立てる一台のリンカーン・コンチネンタル。

 その車を見ただけで誰の仕業かすぐに分かる。小杉だ。

 駆け足で中に入り、お目当ての車を探す。バックするリンカーン。

 アリシアのフェラーリ。キーレスエントリーで近づきながら鍵を開ける。

 敷地内に侵入したリンカーン。リアを振り、他に止まっていた車と当たりながらターンしていく。

 リンカーンが近づいたと同時に勢いよく発進するフェラーリ。間一髪で接触を免れる。

 敷地を出ていく二台。細い道には不似合いなスピードで駆けていく。

 ある角を右に曲がるフェラーリ。危うくバイクと衝突しそうになる。

 急ブレーキ。バイクは進路を失って電柱に軽く当たっていく。再び左京はアクセルを踏み、そのまま進む。何故か追ってこないリンカーン。

 しかしそれもすぐにわかった。曲がり角の先を小杉の車が自分達よりも早く通り過ぎていくのが見えたから。 

 再びブレーキを踏む。派手なスキール音。オートマティックのギアレバーをRに入れる。

 後退を始めるフェラーリ。クラクションを鳴らして道を開けるよう促す。

 突然、前から小杉が自分のフロントスクリーン越しに銃弾を浴びせる。思わず頭を低くする左京。

 側を通り過ぎる通行人も危険を察知して、物陰に身を隠していく。

 最初の曲がり角に戻ると、左京はバックの体勢のまま入っていく。その側を小杉の車が反対方向へと曲がって行く。そのまま進んだかと思えば、豪快なスピンタ―ンで車を反対方向に戻していく。

 二台が向かい合わせになる。距離は100mもない。

 しばし動かない両者。互いに相手の出方を待っている。

 小杉の顔をじっと見つめたまま、左京は唾をゆっくり飲み込む。

 眼光をぎらつかせる二匹の狼。次に動いた時で全てが決まる。

 左京は軽くサイドウィンドーのボタンを押す。右手にはニューナンブ。

 小杉はひびの入ったフロントスクリーンを押し外して、視界を確保する。

 アリシアは感じとったように、自分のシートの背もたれを倒す。

 全てが静まり返ったような刹那。

 同時に発生するホイールスピン。発進する二台。互いの運転席側をすり抜けるように加速する。 

 今まで見た事のなかった、喜色満面の小杉の表情が眼に入り、左京が一瞬身を引いた直後だった。

 すれ違い様に銃弾を放つ二人。たった一発。

 左京の方は銃弾が頬を掠めていく。そして小杉は脳天へ。

 急停車するフェラーリ。リンカーンはそのまま東通りへと突き進んで行く。

 左京の背後でクラクションが鳴り響く。そして衝突音。

 チラリと見やった後、左京はステアリングを抱きこむように肩を落とす。

 アリシアの方を向く。何故か彼女の顔に苦悶が浮かんでいる。

 視線を外してみれば、彼女の右の脇腹から血が流れている。流れ弾が当たったらしい。

 自分のハンカチを当てる。血の流れは止まりそうもない。

 左京は歯噛みする。己の中で広がっていく後悔と焦り。

「待ってろ。今救急車呼ぶから」

 アリシアと自分を宥めるように言う。しかし、アリシアの右手が左京の袖を掴んで来る。

「呼ぶ必要ないわよ。どうせ元々助かりっこないのだから」

 弱々しい声。それでも左京の動きを止めるには十分だった。

HIVポジティブなのよ、アタシ」

 唖然としたようにアリシアの顔を見つめる。その様が可笑しかったのか、薄ら笑みを浮かべるアリシア。

「五年前にセルゲスで男に伝染されて以来、よく持った方よ」

 すぐに笑みを打ち消す。

「お願い。このまま、連れて行って」

「バカ言うな」

 左京の眉が上がる。しかしそれ以上にアリシアの表情に注目していた。

 まだ光を失っていない瞳。残りの命を差し出すような懇願が露になっている。

「左京……」

 左京はそれ以上反論することなく、再びステアリングを握る。

 東通りに出た時、小杉のリンカーンがアリシアズの正面に突っ込んでいるのが二人の眼に入った。

 

 

 首都高全体に冬の夕日が滲んでいく。

 比較的スムーズに流れていく中を抜けるように走って行くフェラーリ。ついて来るのはその影のみ。

 ステアリングを握る左京は、助手席に身を沈ませるアリシアの方を絶えず伺っている。

 左手に縛られたハンカチは左京の物。脇腹を押さえず、外の過ぎ去っていく景色を寂しそうに見つめている。

「本当なら、アタシが音羽を撃たなければならなかったのに」

 思い返すように呟く。

「その身体だったから瑞恵が一手に引き受けたのか?」

 アリシアに一瞥もくれずに訊ねる。

「それだけじゃないわよ。瑞恵ちゃんと音羽には浅からぬ縁があったのよ」

「母親絡みか?」

 即答した左京に、視線を奪われるアリシア。

「知っていたの?」

 縛られたように聞き返す。

「音羽がそれとなく訊いてきた」

 視線を向ける。尋問をしている風ではない。これから真相を言うアリシアを気遣うように。

 それを見て、アリシアの身体から緊張が徐々に抜けていく。

「音羽はまだ組のトップに立っていなかった頃、瑞恵ちゃんの母親と関係を持っていたわ」

 天井の一点を見上げながら語り出す。

「奴が」

「そう、父親よ。後で瑞恵ちゃんの家に振り込まれていた金の流れを調べてみたけど、全て音羽の口座からだったわ」

 予想していたようにタイミングよく後を続ける。

 瑞恵の母親が貰った慰謝料。今の組の前身で、幹部にのし上がっていた頃の音羽と時期が合う。

 左京の胸算用。薄々気付いていたとは言え、きまり悪い感じが残る。

「他には?」

 何となくその先も読めたような気もするが、やはり訊いてみたくなる。

「アタシが二十歳前半で既に女になっていた頃、偶々観たのよ。彼女と音羽が口論している所を」

 天井を見上げて淡々と語る。時折痛みの声を軽く上げる。

「そしてもみ合いの末、音羽が彼女の首を絞め、そのまま、川に突き落とすまでも」

 最後の所はかみ締めるようにゆっくりと述べた。

 予想通りの答えに、左京は何も言えずただ眼の前の景色を見つめる。

「あの時音羽に感づかれたようで恐くなり、逃げたけど、その後瑞恵ちゃんに出会った時は、まるで彼女がアタシに恨みを言いに舞い戻ってきたような気分がしたわ」

 眼を瞑る。自分の過失を内奥に染み渡らせるように。

「瑞恵は、知っているのか?」

 ようやく左京の口が開く。

「ええ。それもアタシが教えて、初めて全部知ったようよ」

 閉じた眼のまま答える。

 音羽が父親である事を隠し通し、その音羽に殺された瑞恵の母。

 父親の居る生活も、母親も、仲間も、そして恋人も全て音羽に奪われ、ピアノを弾くだけでは自分の感情を抑えられなくなった瑞恵。

 それに荷担したのは、自分だ。

 左京は自分の業と瑞恵の生い立ちを、骨の髄まで刻むように、黙していた。

「だからアタシは少しでも、この結末を見届けたいのよ」

 徐々に弱まっていく声色。しかし決意の程が言葉の節々に漂っている。

「いずれにせよ終わりさ。圭介のレポート、今日俺がマスコミにタレコんだよ」

 その一言で、左京の横顔を見つめるアリシア。しばし言葉が出ない。

「アンタって損な男ね」

 アリシアは穏やかに笑みを浮かべる。

「皆そうさ」

 彼女の方を向く事なく、左京は小さく呟く。

「あ〜あ、アンタのお陰で店、台無しになったわね」

 退屈したような溜息をついて、話題を変える。

「いっその事、移転して営業再開するといい」

 左京も調子を合わせて、軽く薦めるように言う。

「地獄で?」

「そうしたら、常連になってやるよ」

 互いに顔を見合わせる。打ち解けたように軽く笑みを浮かべる。

 アリシアの視線は再び外の景色に戻っていく。どこか懐かしむような眼差し。

 フェラーリは他の車を振り切って独走する。あとには甲高い排気音が切なく響いていく。

 

 

 闇が降り、はるか前方に小さな光の群れが地平線に這いつくばって蠢いている。

 アウディのステアリングを握る瑞恵。はやる心を抑え、あの光の群れの中に辿り着こうとする。

 自然ともうアリシアの事は気にしていない。もう彼女の声は聞けないかもしれない。

 だけど彼女はただでさえ危うい命を削って、私に音羽の居場所を知らせた。無駄にするわけにはいかない。

 自分も本当はセルゲスで死んだ子と、母の仇をとりたかったのだろう。だけどそれも全て、私が一手に引き受けた。

 仇うち? 母の? 圭介の? 春子さんの? ううん。結局のところ、私個人のエゴかもね。

 あの男を殺した所で、何の興奮も満足も得られない事位わかっている。大体はそんなもの。本当はもうどうでもいいのかも。

 あとは、彼。

 彼も仇の筈なのに、何故か憎悪が消えている。彼だけでなく、依子さんも頭の中でちらついている。

 だから、彼に関しては、何もわからない。自分が何を期待しているのかも。

 彼も同じなのかしら。

 戸惑い。それでも瑞恵はアクセルを踏む力を緩めない。

 暗い空の中から、飛行機の爆音が近づいてくる。

 

 

 成田空港の入口ロビーに食い付かんばかりに止まるキャディラック・ドゥビル。ナンバーは青い。

 前部座席からSPらしき黒服の男が出て来て、後部座席のドアを開ける。もう二人のSPに挟まれる感じで登場する音羽。

 部下達は皆本社に置いていった。柄が悪いので一緒に行くと怪しまれる。

 落ち着いていれば、こんなのも悪くない。しかし今の状況ではゆっくり味わっていられない。

 女一人。よりによって昔の女に孕ませた娘のお陰で、今頃雪に覆われた東欧の地に逃げなければならないとは。

 腸が煮えくり返ってもいるし、どこかで予想していた向きもある。

 あの女はつれない奴だった。俺が認知してもいいと言うのに、アンタに私じゃ割に合わないと慰謝料だけ要求して、俺の前から姿を消した。確かにあの頃の俺も色々と女をとっかえひっかえしていたから、避けたくなるのも無理はないが。

 年月かけて何とか探し当てて、見た事のない娘に会おうと相談を持ちかけたら、会う会わせないで口論になり、いつの間にかあの女の首を絞めていた。

 それで俺も娘の事も忘れて、今のような組に改変する事に努めていった。

 今になって巡ってきたツケ。性質の悪い冗談。

 年末なのか知らないが、往来の激しいロビー。ひっきりなしに放送される搭乗案内。

 SPの格好を見て避ける者も居れば、構わずに大きな旅行トランクをこっちに接触させて転がす者も居る。

 ヤクザも小さくなったものだと、苦虫を更に深く噛む。

 喧騒の奥へと進む四人。どこにでもある光景のどこか不自然な一行。

 

 

 タクシー乗り場が続く一方通行の通り。その反対側に滑り込むように止まるフェラーリ。

 コートを羽織らず、やはり黒い肩パッドのないジャケットだけで左京が出て来る。

 助手席にはコートを被り、燃え尽きたようにうな垂れるアリシア。二度と開かない瞼。

 入口まで小走りで道路を渡り、偶々居た一人の空港警察員に声をかける。

 手帳を見せたり、フェラーリの方を指差したりの問答が続いた後、警察員は了承したらしく、入れ違いに車の方へ向かう。

 その姿を眼の前を過ぎ去る車の間からしばし見送る左京。丁重に扱ってくれる事を願わずにはおれない。

 発進と停車がひっきりなしに続く乗り場。そのざわめきも全て空の轟音がかき消していく。

 

 

 各航空会社の搭乗チェックカウンターが立ち並ぶ。トランクの滑車の音が這い回り、最終便案内の放送が天井を漂う。一人で旅券チェックを受ける者。団体客を先導するツアコンダクター。出張帰りのビジネスマン達。別れを惜しむ家族連れ。キスを繰り返す若いカップル。

 それらを全て、瑞恵は縁の細いサングラスを通して眺めている。ベンチに深く腰を下ろしながら。トレンチコートを始め、タイツや底の薄いブーツまで黒で固めている。

 普通に学校を出て、普通に生活をしていれば手に入ったであろうやり取り。決して遠くはなかっただろうに、結局手に入らないまま。

 こんな場所で音羽を撃つのは少々気が引ける。それでも撃つとしたらこの場所しかない。

 前の方から声をかけられる。浅薄で気安い男の声。さっきのカップルだ。

 近くまで駆け寄って来るが、途中で止まってしまう。

「何かしら?」

 感情を表に出さずに訊ねる。ストリートダンサー風の格好をした茶髪の男。手には使い捨てカメラ。言い出すタイミングを計り兼ねているようだ。

 ふと向こうの居る男の彼女らしき女性に眼をやる。やはり茶髪でジーンズそれに厚底ブーツ。

 全部彼が買った物かしらね。

 瑞恵の勝手な想像。

「あ、あの……」

「いいわよ」

 サングラスを外し、素っ気無く答える。

「え……」

「写真、撮って欲しいのでしょ?」

 男の顔を覗くように後を続ける。

「あ、ああ、そ、そうっすね」

 しかし男の関心は、別の方にいっているらしい。

 カメラを渡される。その時、男の両手が被さるように握ってきたが無視した。

 写真を取る前に、彼女が男の足を踏んだのが見えた。

 フレームに入った恋人同士。互いに腰に手を回している。

 そう言えば左京とはおろか、圭介ともこんな写真を撮っていない事に気づく。

 こんな風に片時も離れない二人も居れば、別れざるを得ない二人も居る。

 もし彼女が私のようになったら、彼は彼女に対してどういう行動を取るのだろう? そして彼女は彼にどうして欲しいのだろう?

「済みません」

 前からの呼びかけ。ついシャッターを押すのを忘れていたようだ。

 気を取り直して押す。間延びした礼の言葉。

 これから私が起こすだろう騒動を目撃したら、どんな顔をするのだろうか。

 

 

 反対方向から来る帰り客とぶつかる左京。詫びだけ言って、落とした荷物を拾わずに走り去っていく。

 セルゲスへの直行便はない。精々パリで乗り換えるしかない。あと少しでパリ行き最終便の案内が出るだろう。

 奴らが飛行機に乗り込む前に見つけられたらいいが、それは悠長過ぎるというものだ。

 果たして自分が瑞恵を止められるか、確たる自信はない。そんな事も余計な考えでしかない。

 一段飛ばしで階段を上って行く。その時間すらも勿体なく感じる。

 

 

 チェック場。サングラスをかけ直した瑞恵は入口の方を向く。

 三人の黒服に囲まれた年配の男。間違いない。音羽だ。

 なるべく回り込んで、後ろの方から近づく。四人は気づく事なく、固まって目指すカウンターに移動している。

 視点を音羽の背中に固定する。下手に近づきすぎないように、駆け出したくなる足を堪えて。

 途中で幼稚園位の子供が瑞恵の前を横切っていく。眉をひそめた所で軽く接触する。転ぶ子供。

 無視したい所を座って怪我がないか訊ねる。泣き出されたら困るという不安もよぎる。

 泣き出しはしない。ところが今度はその子の母親らしき女性が駆け寄って、こっちが怪我をしたみたいに頭を下げ出す。

 困惑。掌で制止を懇願し、眼は四人の背中を追う。どうやらエールフランスのカウンターに行くようだ。

 母親の顔を見る事なく、軽く一礼して立ち去る。

 カウンターには既に列が出来ている。最後尾に居座る四人。瑞恵も足音を立てないように近づく。一歩一歩が妙に感じる。

 歩を止める。まだ自分に気づいていない。息を殺してコートの懐に手を伸ばす。四人の眼の動きをじっと追ったまま。

 忍ばすように取り出した、サイレンサー付きのグロック。最初の標的にゆっくり向けようとした時、天井からチャイム。最初の案内放送。

 上を見上げようとしたSPの一人と眼が合う。それも刹那。人差し指が滑らかに引き金を引く。

 脳天から小さな飛沫。残りのSPが自分の銃を取り出そうとする。

 それを確かめる間もなく、一発ずつ撃ち込んでいく。のけぞる二人の男。うち一人の背中が別のカウンターにぶつかる。

 受け付け嬢の金切り声。前に並んでいた客が振り返る。皆も同様に悲鳴を上げる。

 音羽と視線が交わる。その直後、音羽が駆け出していく。

 銃口を向けようとするが、後ろで別の叫び声が動きを止める。

「瑞恵!」

 忘れもしない声。思わず振り返る。

 最後に別れた時と変わらない。右眼側の三日月状の傷。引き締まった顔付き。でも冷酷な感じは微塵ともしない。左京だ。

 今度は前の方で悲鳴。音羽が隊列を乱して奥の方へ逃げていく。

 どうやら撃たれたSPの懐から銃を掠め取ったらしい。それを突きつけて退路を作っていく。

 すぐに左京から視線を外して、瑞恵も追いかける。それに合わせて悲鳴も前へと進んでいく。

 その中に先程のカップルが居たような気がしたが、構うことなく瑞恵も奥へと進む。

 左京も当然それに習った。

 

 

 税関に向かって行く人々の通路。逃げる音羽とぶつかり、非難の声を上げようとする者。すぐに銃を持った瑞恵を見て怯え出す。その横を左京が通っていく。

 廊下の突き当たりで警備員の立っている方へ走る。行く手をはばむような素振りを見せるが、音羽のシグ・ザウェルP220を見てすぐにひるむ。瑞恵との距離が縮まる。

 開いた鉄の扉。完全に閉じずに非常階段を駆け降りていく。

 上からの銃弾。音羽も振り返って反撃する。慣れないのか片手で撃つと反動で銃口が上を向く。舌打ち。

 音が止み、また下へ降りていく。音羽は途中でまた鉄扉を開けて、中へと入る。

 荷物の集配所。ベルトコンベアの畦道が入り組んで続いている。

 コンベア上の荷物をどけて中へと押し入る。トランクから服が零れる。二人も同様。

 止めようとする係員も脅して道をこじ開けていく音羽。瑞恵は何もせずに怯える横を通り過ぎる。

「警察だ! 皆離れろ!」

 周囲に退却を促す左京の大声。それを聞いて逃げる者、何事かと動きが止まる者。

 途中、音羽は機械の物陰に隠れて座り込む。自分の歳を無視して走ったせいで、息切れのペースも早い。ネクタイを緩める。

 自分の側で金属の弾く音。音羽も苛立ち混じりに発砲。

 瑞恵は身体を低くして、コンベアから覗き込む。ゆっくり進む荷物の間から音羽の動きを伺う。

 左京は這うように奥へと進む。ニューナンブを手に握っている。

「音羽! どこに居る!?」

 呼びかけ。返って来るのは重々しい機械の作動音。返事をしたくても気づかれそうで言えない音羽。

「瑞恵! 聞こえるか!?」

 今度は矛先を変える。瑞恵はその声の出所を向きたくなる。

「俺はここだ。銃を置くから出てきてくれ!」

 左京の説得。しかし瑞恵は出ようとしない。その間にも空港警察隊がやって来る。

「音羽も出るんだ。俺が保護するから」

 止む事のない機械音。身構える音羽。自分の前で物音がする。

「警察だ。銃を捨てろ」

 その台詞を聞くや否や、発砲する。若い空港警察官が後ろ向きに倒れる。

 ざわめき出す一同。音羽の逃げる姿を見て、瑞恵がコンベアを飛び越える。銃を拾う左京。その時、瑞恵に銃を向ける警官の姿が眼に入る。

「皆撃つな! ここは任せるから、後は俺が追う!」

 再び両手を横に広げる。その間に音羽と瑞恵が別の扉から出て行く。

 他の警官に任せて、自分も後を追う。荷物から零れた服を構わず踏んでいく。

 撃たれた警官に屯する残りの者達。コンベアに載った荷物群が出口へと向かっていく。

 

 

 冷え切った外気に晒された手と顔の皮膚。それでも熱い身体の奥。

 滑走路。交叉するのは高周波のタービンの音、鯨のような胴体を示す灯火類。そして風。

 口から漏れる白い煙。断続的に滑走路灯にかき消される。

 舗装路を横切り、芝生の上で立ち止まる左京。膝を突いて上半身を前に倒す。息がやや荒い。

 顔を上げると、地面の光の上を走っていく者が眼に入る。瑞恵だ。

 再び走り出す。横風が半身にかかって来る。

 前方で微かに聞こえる銃声。足の運びが早まる。

 滑走路の端に沿って駆けていく。背後から近づいて来る轟音。振り返ればボーイングの前方灯が両眼に襲いかかる。

 自分の足をはるかに上回るスピードで急接近して来る迫る巨体。大きくなる音にたまらず、身体を地面に倒れ込ませて、両耳を塞ぐ。

 自分の真上を掠める乱気流、そしてジェットエンジンの雄叫び。たまらず顔をしかめる。

 収まったら、遠くなっていく瑞恵の背中をじっと追う。

 

 水分の抜けた芝生の上を踏み越えて行く。

 管制塔からの光の筋が、前を走る男の姿を捉える。銃を向けている。

 身体を低くする。前方からの銃声。その上を弾丸が掠めていく。

 自分も構える。が、すぐには撃たない。飛行機のライトが来るのを待つ。

 地上にも空中にも走るジェットの雄叫び。耳を塞ぎたいのを我慢して、姿勢を乱さない。

 飛行機のライトで浮かぶ音羽の姿。銃を下ろし、肩を揺らす男の姿。自分と眼が合ったような気がする。

 滑走路を疾走するボーイング。前輪が路面から離れていく。

 引き金を引く長い指。轟音が飛び立つのと同時に発射される弾丸。

 右肩に命中。独楽のように回転する音羽の身体。地面と衝突するまでをじっと見つめる。

 銃を下ろし、瑞恵は一歩一歩を踏みしめるように近づいて行く。

 期待か不安か。胸の高鳴りが少しずつ大きくなるのを感じる。

 芝生の上でもんどりうつ丸い身体。低く呻き声を漏らしている。

 その姿にどこか哀れみを感じる。

 歩を止める。それを感じ取ったのか、音羽の顔がようやく上を向く。足元に眼を落とせば再び眼が合う。遠くの照明で辛うじて表情が見える。

 脂汗が浮かぶ音羽の顔。何かを言おうと唇が微かに動き出す。

 瑞恵の唇からは白い息が漏れるだけ。

 飛行機が空の果てへと去っていく。

「昔からそうだった。アイツは俺の手は借りないと頂く物だけ頂いて、お前さんを俺の前から遠ざけてきた」

 瑞恵の顔色を伺いながら、語り出す。彼女の方に変化は見られない。

「俺がやっと探し当てて、今度こそ迎え入れようと思ったら、お前さんがヤクザの娘なんて知らせたくないと言いやがった。ああする以外、俺がのし上がって行く方法はなかったというのに」

 瑞恵がずっと耳だけを傾けている間、風向こうで左京がようやく二人の姿を認める。

「そこで口論になり、気付いた時には、もう何も言わなくなっていたよ」

 嘆息を漏らす。瑞恵は銃口を音羽にゆっくりと向け出す。

 鋭さが増した瑞恵の眼。音羽はうろたえもしない。

「それだけじゃない。貴方は左京を使って圭介を殺し、セルゲスでも私の仲間を殺した。お腹の中に居た彼女の子も」

 感情を抑えつけるような、瑞恵の静かな声。しかし、彼女の仮面を打ち壊すような台詞が返って来る。

「圭介? あんな男のために自分の手を汚そうというのか?」

 ぞんざいな音羽の物言い。瑞恵の顔が一瞬強ばる。

「あんな男?」

「あの男は俺の裏をネタに金を巻き上げようとしたのさ」

 音羽は苦虫を噛み潰すような顔をする。瑞恵の両眼が広がる。

「それだけじゃないぞ」

 瑞恵の僅かな動揺を察したのか、上眼遣いで自分の話に誘い込む。

「お前さんと西村が密会を重ねていたのを知って、その腹いせに西村の女房を犯したのさ」

 瑞恵の身体の全てが凍り付く。引き金を引く指先、そして長い睫毛の先まで。息をするのも忘れてしまう。

 まだ元気だった頃の依子さんを襲う圭介。怯えきった表情の彼女の全てを圭介が踏みにじっていく。

 魂の抜け殻となった依子さん。彼女にずっと寄り添う左京の後ろ姿。

 想像もしなかった光景。私の眼の前を覆う。

 生気の抜けた瑞恵の顔。それを察知するや否や、音羽が逃げ出す。

 瑞恵がやっと気付く。音羽の右手が落ちたままのシグに伸びる。

 音羽のシグが瑞恵に向く。瑞恵もグロックを持った腕を反射的に伸ばす。

 切れのいい破裂音。風に乗って左京に届く。

 駆けだした途端に止まる左京。見えたのは、背中を反らして芝生へと倒れ込む音羽。瑞恵は、銃を突き出したまま、直立不動で立っている。

 腕と共に徐々に力を抜いていく瑞恵。

 彼女の横顔。喜びも達成感もなく、呆然と動かなくなった父親の身体を見つめ始める。

 戸惑いと喪失が彼女をじわりじわりと染めていく。

 それを確かめるように、左京は視線を離さない。

 ゆっくりと歩み出す。右手のニューナンブを下ろしたまま。

 気づいたのか、瑞恵の顔が左京に向けられていく。

 向き合ったままになる二人の顔。左京の足が止まる。

 止んでいた飛行機のタービンの音が、遠くでまた生まれる。

「依子さんに会ったわ」

 躊躇いで思うように唇が動かない。左京の内心の驚きは表に出ない。

「口ずさんでいた。貴方が聴かせた歌を」

 囁くような瑞恵の声。左京は自身の内奥までその言葉が染み渡るように、じっとしたまま。

「そして叫んでいた。圭介の名を」

 ボーイングが唸りと共に滑走路を進み出す。強くなった風が瑞恵の顔に髪をかける。その向こうに揺れる彼女の瞳の光。

 左京は少しも視線を外さない。

 瑞恵もそれ以上の言葉を続けようとしない。懇願。左京の唇が動くのを待っているような。

 それを察知したのか、ようやく左京は言葉を発した。

「犯されたのさ。圭介に」

 低い声。瑞恵の内奥を突き刺すような声。

「アイツは、俺と君の関係を知っていた。それをきっかけに俺や音羽の関係を洗い出し、それで音羽を強請りだした。元々借金する寸前の贅沢三昧だったからな」

 瑞恵はふと思い出す。圭介の家にあったラッセンのリトグラフや高級ブランデーの数々。

「俺への腹いせだったかは、はっきりとは言えない。奴は妊娠してまだ腹が膨らんでいない依子を襲った」

 今でも思い出せる。家に帰ってみれば、服もはだけ、光を失った瞳で圭介になすがままにされていた依子。その身体を貪る圭介。

「押さえて問い詰めた時、奴は言ったよ」
 ただ突っ立っている瑞恵。

「お前は薄汚れた水商売の女しか味わえないのかって」

 瑞恵の息が止まりそうになる。

 私をただの薄汚れた商売女としか見ていなかった圭介。

 彼のために私のした事は、何だったのだろう。

 憎悪が湧いた訳ではない。ただ急速に圭介の姿が自分の中から消えていくのを感じていた。

 飛行機のタービン音が大きくなる。

 左京は瑞恵の様子を伺いながら、右手を前に差し出す。放り出されようとするニューナンブ。

「待って」

 瑞恵の声で動きを止める。

「これ以上、私に撃たせるの?」

 高まる轟音の中でもしっかり届く瑞恵の疑問。

 瑞恵の表情から迷いやうろたえが、いつの間にか消えている。

 彼女の瞳の中にあるもの。何かを決めたような強い意志。

 左京も右手の動きを止める。代わりにゆっくりと右足を前に出す。

 それに倣って瑞恵も左京の方へ足を進める。

 風の舞う中、二人の距離が徐々に縮まっていく。

 滑走路では飛行機が機首を下げて、発進体勢を取り始める。

 そして、くっ付かんばかりに近づいた二人。視線は互いの瞳を捉えて離さない。

 瑞恵が銃口を左京の腹部にそっと押し当てる。

 左京も視線を変えずに瑞恵に倣う。

「こうなるような気がしていたわ」

 左京の耳元で瑞恵が囁く。突き刺すような音に混じって。

 飛行機が最後の加速を始める。

「遅かったかも知れないが」

 返すように左京。

 疾走していくボーイング。機首が徐々に上がっていく。

 両者の人差し指が引き金を引こうとしていく。

 地を這う轟音が空へと放たれる。

 その直後、瑞恵の身体が左京にもたれ掛かった。

 異変に気づいて、瑞恵の顔を起こそうとする左京。

 その時気付いた。自分の身体には銃弾が入っていないのを。

「瑞恵!」

 叫びに答えるように、瑞恵がゆっくりと瞼を開いていく。

 血相を変えた左京の顔を見て、瑞恵はゆっくり微笑む。

「前も言ったでしょ? こういう風になるしかないのねって」

 見開く事もなく、ずっと瑞恵の顔を捉えたままの左京の双眸。

 それを見届けるように、再び瑞恵の瞼が閉じられていく。

 彼女の髪が後ろへと更に靡いていく。

 力を失ったように芝生に落ちていくグロック。

 轟音はもう黒い空の向こうへと過ぎ去っていた。

 

 

 ずっと変わらない白い壁。ただし白いレースの代わりに分厚いベージュのカーテンが閉じられている。

 ベッドから足を出して座っている依子。呆然としている顔はいつもと同じ。

 彼女の側に静かに腰を下ろす左京。依子は顔を向けようとしない。

 左京は手を彼女の肩にやる。

 俯いたままの左京。彼女に視線を向けようとしない。

 あの後、瑞恵の遺体はやって来た救急隊員の下まで担いでいき、彼らに後を任せた。

 多分、数日もしない内に全ての一件が明るみになり、音羽の会社やセルゲスの外交官にも捜査の手が伸びるだろう。勿論、本庁も自分の処分について動き出す筈だ。

 下手をすれば手錠もかけられる事になるかも知れないが、いずれにせよ、もう警察を辞めなければならない。

 それは承知の上での行為だから、まだいい。

 けれど、瑞恵を撃つ事になったのが、未だに尾を引いている。

 委ねるのは俺しか居なかったのかもしれない。しかし、気の重い役目であった事に変わりはない。

 本当なら五年前に、あのまま瑞恵を撃った方が、瑞恵にも良かったかもしれない。

 自分の中で疼く。

 その時、ふと左京の頬に触れる者があった。

 依子の右手。彼女も自分の顔を覗き込んでいる。

「どうしたの?」

 囁くような依子の声。久し振りに聞いたような気がする。

「少し、疲れただけだ」

 妻を宥めるように、左京も優しく答える。

 依子の右手首にゆっくりと伸びていく左京の右手。そのまま手首をそっと掴む。

 彼女も拒絶する事なく、滑るようにして自分の右手を左京の右手に重ね合わせていく。 

 互いの指の間に絡めていく二人の指。そのまま固く握り合っていく。

「ねえ」

 左京の顔を見つめたまま、依子が訊ねる。

「歌って」

「もう君の方が俺より上手だよ」

 照れるように辞退しようとするが、

「いいの」

 子供のような無心さと、大人の仄かな色気がない交ぜになったような依子の表情。

 それを自分の中に焼き付けるように見届けてから、左京は口ずさみ始める。

Eu quis amar mas tive medo……」

 依子の頬が徐々に緩んでいく。

E quis salvar men coracao

 依子の顔を見つめながら、左京は瑞恵がこの歌を歌う姿を思い起こしている。

 懐かしそうに、寂しそうに歌っていた瑞恵。ピアノと戯れながら。

 瑞恵にとって唯一、自分の思うようにいられた一時。

 俺と同じように世間の裏で育ち、結局、その世界に居るしかなかった瑞恵。

 その二人が出会った所で、何かが変わる訳でもなかった。

 ただ、最後の結末をつけただけ。

Mas o amar sabe o segredo

 左京の歌声は変化しない。静かに静かに綴っていく。

O medo pode matar

 依子がゆっくりと腰を上げて、左京の顔を自分の胸元に埋めていく。

O seu  coracao……」

 左京もなすがままになりつつ、歌を続ける。

 依子の掌が左京の髪を撫でていく。

 それが心地よくて、左京は自分の瞳を閉じていった。

 

 

FIN

 

 

Agua De Beber

Words By VINICIUS DE MORAES

Music By ANTONIO CARLOS JOBIN

©1961 by EDIZIONI CAMPIDOGLIO

©1968 assigned to ZEN_ON MUSIC CO.,LTDfor the terrieory of Japan

 

あとがき

 




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