Sounds Of Singles

Kazusi Moriizumi Presents


新世紀エヴァンゲリオン アナザーアフターストーリー

<CANDY HOUSE>

第一話「どうしようもない世界、寛容な僕ら」


(the coarse world and our tolerance)


 時に西暦二〇一八年。

 ここは箱根駒ヶ岳の中腹に建てられた瀟洒なマンションの中にある、使い勝手の良さそうなキッチンルーム。

 いずこからともなくチェロの音が流れてくる。

 高い位置のポニーテールにまとめられた、赤みがかった金色の長い髪が、それにあわせて楽しげに揺れている。

 ダイニングの真ん中に置かれた小さめのテーブルには、ところ狭しと料理が並べられていた。

 サラダボウルに綺麗に盛りつけられているのは、プチトマトと茹でたブロッコリー。その真ん中には大量のマッシュポテトが鎮座ましましている。

 その隣の白い皿には、手作りとおぼしき少々不格好な腸詰めと、アルミホイルに包まれているサーモンの蒸し焼きが仲良く並んでいる。

 他にもフルーツの盛り合わせだのなんだのと、小さなパーティが開けそうなほどの料理の群だ。

 もっとも、そうした料理にもかかわらず、キッチンの一隅で炊飯器が湯気を立ててしまっているのが、ここが日本だということを如実に主張している。

 いずれにしても、作り手の並みならぬ思い入れがうかがえる料理が並んでいる。

 それを苦もなく楽しげにこしらえたのは、先刻のポニーテールの少女だった。

 光の加減によっては紅にも見える黄金の髪はつややかな光沢を放ち、深いブルーの瞳は見る者に否応なく静かな湖水を想起させる。

 日本とヨーロッパの血の良いところだけを掛け合わせたとしか思えない、白く肌理の細かい肌には、染み一つ認められない。

 そのせいもあって、彼女の年齢を正確に推察するのは少々難しかった。

 見かけには不相応なくらいの叡知を湛えて蒼い瞳は輝いていたし、秀麗な横顔に浮かぶ柔らかな微笑は彼女を実年齢以上に見せかけてしまっていた。

 それでも、ときおり妙に少女っぽい仕草が律動的な動きの端々に顔を覗かせたりもする。

 そちらの方が、本来の彼女の姿なのだろうが。

 身に纏う、ゆったりとした男物のオープンカラーのコットンシャツとルーズなシルエットのジーンズも、モデル顔負けの流麗なボディラインを隠す役には立ちはしない。

 その上に白黒ストライプのシンプルなデザインのエプロンをつけて、彼女は小さくハミングしながらコトコトと音をたてるスープの鍋に向かっていた。

 それとシンクロしているBGMは、先ほどから流れるチェロの独奏曲。

 技巧的にはまだまだ向上の余地がありそうだが、緩急をつけた繊細な調べはどうやらオリジナルの旋律らしい。

 ときおり最近の流行歌のメロディが混じったり、古典ロックのフレーズが挿入されたりと、インプロじみた玩具箱みたいな進行を聴かせてくれている。

 聴く人が聴いたら結構笑える音色に心地良く耳をくすぐられながら、彼女はスープが一煮立ちしたのを確認すると火を止めた。

 それを小皿に取り分けて、彼女は難解な実験に挑む科学者のような面持ちでじっくりと舌の上で味わった。

 たっぷり十秒は味見していたろうか。

 蒼の瞳が満足そうに輝き、彼女の顔に晴れ晴れとした笑顔が浮かんだ。

「よしっ!」

 彼女は小さくガッツポーズを決めると、女性だけに許されるエプロンという名の戦闘服を脱ぎ捨てた。

 自分の手による料理を思い通りの味に仕上げることができた歓びに足取りも軽く、彼女は廊下を駆け抜けて未だチェロの音が流れ来る部屋のドアを引き開ける。

「シンジっ、ごはんできたわよっ!」

 彼女の声に、開け放たれたベランダ越しの夜空に向かってチェロを弾いていた少年がゆっくりと首を巡らせた。

「ありがとう、アスカ」

 そう言って少年は弓引く手を止めると、アスカと呼んだ少女に微笑みかけた。

 一見、儚げな雰囲気を漂わせる少年だった。

 ともすれば少女と間違えられてしまいそうな線の細さが感じられる。

 しかし、この少年はかつてこの世界を救ったことがあるのだ。

 それは世界中の誰もが気づかない場所と時間に於いてのことだったが。

 シンジと呼ばれた少年は、さも大事そうにチェロをケースに収めると彼女、アスカの傍らに並んだ。

 シンジを横目に見上げるようにしながら、アスカは思う。

 ――三年前は同じくらいの背だったのにな。

 シンジの背丈は、アスカよりも頭半分ほど高くなっていた。それを実感させられるたび、アスカはほんの少しだけ悔しい思いをしていた。

 そんなこととは露ほども知らないシンジは、ごく自然にアスカの華奢な肩に手を回した。

「ごめん……アスカ。仕事で忙しいのにごはんなんか作ってもらっちゃって」

 そう言うシンジの口調は本当にすまなそうだ。

 しかし、ほころんでしまった顔は、その言葉を見事なまでに裏切っている。

 好きな人に手料理を作ってもらえる。

 それが嬉しくないはずもない。

 そしてそのシンジの心のこもる笑顔だけで、アスカの小さな不満は解消してしまうのだ。

「いいんだってば。アタシが作りたかっただけなんだからあっ!」

 そうと知りながらも、アスカは照れ隠しでほんの少しだけ突っ張ってみせる。

 以前はシンジが謝ると、心がこもってないだの、自己保身だの、内罰的だのと言って、シンジを罵倒し倒していたアスカだったが、いまではそれが気にならなくなった。

 それどころか、今ではこんな安っぽく、甘ったるいやりとりですら嬉しくてたまらない。

 だから、アスカはもう一度、そっと上目遣いにシンジの顔を覗いてみる。

「なに、アスカ?」

 微笑みとともにかけられる、優しい言葉。

「何でもない、わよ」

 ――前だったら、また喧嘩してたよ……ね。


 そう、今はあれから三年経っていた。

 二〇一八年、世界はおおむね平和だった。

 ゼーレも使徒(一部例外除く)もいない世界。

 あのエヴァンゲリオンも既に稼働しない時代。

 そんな世界の中で、かつて……いや、一応今でもエヴァのパイロットとされる二人は暮らしていた。

 サードチルドレン「碇シンジ」は市立の高校へ進学。それとともにひとかどのレベルに達していたチェロの腕前を買われ、第三新東京市の市民交響楽団(その実体はネルフの有志)にも籍を置くこととなっていた。

 セカンドチルドレン「惣流・アスカ・ラングレー」は、いまでは単なる研究実験施設と化したネルフに引き続き在籍、研究漬けの日々を送っている。

 その気になれば、故郷のドイツへ帰ることもできたはずなのだが、どういうわけかアスカは帰国しようとはしなかった。

 それとなくシンジが何度か探りを入れてみたが、そのたびにアスカは言を左右にして答えるのをはぐらかしていた。

 今ではシンジもあきらめたのか、そのことについてアスカに訊ねることはなくなっていた。

 そのシンジも、アスカと同様の立場にいたからだ。

 最終決戦後、初号機から再構成された母親の「碇ユイ」と、ネルフの総司令であり人類補完計画の責任者でもあり父親でもある「碇ゲンドウ」の許に戻ることをシンジは拒否していた。

 父と母を受け入れられないわけではなかった。

 いまではシンジも、ユイとゲンドウが選ばざるを得なかった方策が、全面的に否定できるものではないと理解していた。

 ただ、どうしても自分自身の心の整理がつかない。

 それをたった一つの心の拠り所にして、シンジは一人で暮らす途を選択していた。

 そしていま、両親の許にはかつてのパイロット仲間の一人、ファーストチルドレン「綾波レイ」がいる。

 それも理由だったのかも知れない。

 しかし、真相はシンジの胸の中だけに収められたままで三年という月日は流れていた。


「ねえ、シンジ。美味しい?」

 盛りだくさんの料理を載せたテーブルを挟んで、シンジの顔を見つめながら、甘えるようにアスカは小首を傾げ、問いかける。

 そのアスカの目の前の料理はほとんど減っていない。

 さっきからシンジが箸を伸ばす一品ごとに「美味しい?」と訊ねているのだから無理もない。

「うん、ホントにアスカ、料理の腕上達したよね」

 そのことに気がついているのかいないのか。相変わらず生真面目な返答しか寄越さないシンジ。

 その線の細さを裏切ってシンジは意外な健啖ぶりを発揮していた。その食欲が、アスカの料理が十分に美味しいということを証明している。

 勿論、アスカの手による料理ということも理由ではあるだろうが。

 ひょいと箸でつまんだ腸詰めを口に運びながら、シンジは悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「……でも、去年のアスカの料理はとても食べられた物じゃなかったからね」

 そんなシンジでも、今ではこれくらいの軽口は叩けるようにはなった。

 その邪気のない無駄口に、アスカは柳眉を逆立てることで対抗する。

「あんた、ミサトの料理より酷かったって言うつもり?」

 何の気なしのはずのアスカの言葉は、ほぼ同時に、二人の脳裏にまったく同様のビジョンを描いていた。

 家事全般において、対使徒戦以上に悪戦苦闘するかつての二人の保護者、葛城ミサトの姿。

 それを見て嘆息するミサトの伴侶、加持リョウジの情けなさそうな姿。

 一瞬の間を置いて、二人の視線が意味ありげに絡んだ。

「加持さん……あのカレーに慣れたと思う?」

 げんなりとした顔のシンジがアスカに訊ねる。

「慣れるわけないじゃないの。あれは人外の食べ物だってばぁ……あーもうっ、あの味思い出しちゃったじゃないのよっ、シンジのバカっ!」

「ごめん」

 シンジはぺこりと頭を下げた。

 けれど、なんとはなしに二人の顔に笑みがこぼれ、いつしかそれは過去を偲ぶ笑い声に変わっていた。


 しかし、何故この年端も行かぬ二人が同棲しているのか?

 それもまた、三年前に遡る。

 最終決戦の直後、アスカは「じゃあね」の一言を残してシンジの前から姿を消した。

 アスカなりに思うところがあったのかも知れない。

 自分を見失い、全てを拒絶して、生きることすら放棄しかけた絶望の刻。

 その昏く深い奈落の底で、アスカがただ一つ見つめることができたのは、憎悪という凶々しい紅い光。

 その対象となったのが「碇シンジ」だった。

 だが、その存在が柔らかな陽光だったということに気づいたときアスカの心は千々に乱れることになった。

 いままでと同じように、シンジとの同居を続けることが荒みきった自分の心に安寧を与えてくれるのは判っていたが、それにすがり続けることがどんな結果をもたらしてしまうのか、アスカには判っていたのだ。

 自分の母がそれに裏切られたときの姿は、決して脳裏から消えることはない。

 それに硝子のプライドは砕かれたとはいえ、女の矜持まで失ったわけではなかった。

 だからアスカはシンジから離れる途を選んだ。

 再び、一人で羽撃くことができるように。

 もっとも、姿をくらましたとは言ってもアスカが一人で暮らすようになっただけのことなのだが。

 そして一年前の冬の嵐の夜のこと。

 二人は再会したのだった。

 

 ぴほぴほぴほぴほんっ!

 

 冬休みの夜。

 とは言っても現在のように寒い夜ではない。

 現に部屋の中でぼーっとしているシンジの姿は、着古したよれよれのジーンズに、以前よりも進歩したらしい「解脱」と大書されたTシャツだけだ。

 セカンドインパクトによって、四季の消失したこの世界では、一年中、夏の陽気が続いていた。

 夕方から降り出した雨は、涼しげなカーテンを織りなしていたのだが、どんどんと雨足は強まり、いまでは窓ガラスを容赦なく叩く嵐となっていた。

 年末に面白いTV番組があるわけでもなく、さりとてすることもなく、ぼんやりとチェロを担ぐだけ担いでいたシンジは前触れもなく乱打されたチャイムの音に飛び上がった。

 シンジにはこんなことをする人間に心当たりがなかった。

 鈴原トウジ?

 あり得ない。彼ならば必ず二回だけチャイムを押して、じっと相手を待つ。

 相田ケンスケ?

 これもあり得なかった。彼は一回しかチャイムは押さない。そして相手が出てこなければ遠慮がちにもう一度だけ押してみることだろう。

 渚カヲル?

 さらにあり得ない。元使徒の彼ならチャイムなど意に介さず予告もなしに出現するか、ATフィールドでドアを吹き飛ばして入ってくることだろう。

 高校に進学し、それなりに交友関係の広がっていたシンジだったが、どう考えてもこんなことをしそうな相手には思い至らなかった。

 ここまで思うあいだにも、チャイムは悲鳴を上げ続けている。

 やかましいことこのうえない。

 やれやれといったていで溜息を盛大に吐き出し、シンジはようやく腰を上げた。

「うるさいなぁ……判ったよ。はぁい、いま出まぁすっ!」

 半ば投げやりに大声で応え、シンジはのたくさと玄関へと歩き、古めかしいが確実なシリンダー錠をひねった。

 カキンと固い金属音を立てて鍵が開く。

 その途端……

「おっそーいっ! いったい何してたのよっ、バカシンジッ!」

 もの凄い勢いで、ドアが向こう側へ引っ張られ、たたらを踏んだシンジに懐かしい罵声が浴びせかけられた。

「あ……あ……」

 目の前に彼女がいることに、シンジはとても実感が得られず、陸に上がった魚よろしく口をぱくぱくさせた。

「なぁにぼけぼけしてんのよっ! こっちはずぶ濡れなんだからねっ!」

 まだ愛らしさを残す美貌からは信じ難い、勢いのいい罵声がポンポン飛び出してくる。

 懐かしすぎる罵詈雑言は、機関銃の如く容赦なくシンジの意識をぶちのめした。

「う……うん」

 言葉の銃弾に、意識の半分がたを蜂の巣にされたシンジにはただ頷くことだけしかできなかった。

 アスカが言うとおり、その姿はびしょ濡れだった。

 金の髪からは間断なく水滴がしたたり、半袖の白いコットンシャツはぴったりと体に張り付いてしまって、とても十六才とは思えない魅惑的な肢体の三割がたが露わになってしまっていた。

 シンジの視線はうっすらと透けて見える、健康的な色香を漂わせる胸許あたりに釘付けになってしまい、動かしようにもシンジの意志だけではどうすることもできなかった。

 そんな視線にアスカが気づかぬはずもない。

「こ……この、エッチ、痴漢、変態っ! 信じらんないっ!」

 シンジの視線が自分の胸許に落ちたままなのを見て取ると、アスカは担いでいた荷物を投げ捨て、慌てて胸を左手で覆い隠して右手を鋭くスイングした。

 が、その絶妙のはずの平手打ちはシンジの頬に炸裂することなく虚しく空を切った。

「ごめん、アスカ。いまタオル取ってくるから」

 アスカの必殺の平手打ちを意外と華麗なバックステップで避けたシンジは謝りながら身を翻し、風呂場へと駆け込んでいった。

 その後ろ姿を見送り、アスカは小さくごちた。

「腕、鈍っちゃったのかな?」

 不思議そうに自分の手のひらを見たアスカは小さなくしゃみをして、雨に体温を奪われた体をかき抱いた。

「ごめん……僕が使ってるタオルしかなかったんだけど、いいかな?」

 ぱたぱたと子犬のように駆け戻ってきたシンジが、アスカの顔色をうかがうようにおずおずとバスタオルを差し出す。

「別に、いいわよ」

 ひったくるようにアスカはシンジからバスタオルを奪い取ると、濡れた髪を拭き始める。

 ふと、その手が止まり、アスカは知らず知らずのうちにタオルの端をぎゅっと握りしめていた。

 懐かしい匂いに包まれたのを感じたから。

 ――シンジの……匂いだ。

 同居をしていた長いとも短いともつかない時間。

 知らない間にシンジの匂いに馴染み、そしてその匂いを好ましく感じた自分に驚き、そのうえ胸の奥で何かが疼くのを感じてしまい、アスカは我知らず動揺してしまっていた。

「どうかしたの、アスカ?」

 手を止めてしまったアスカを見て、心配げにシンジが訊くと、アスカは余計に乱暴に髪の毛を拭い、バスタオルをぶっきらぼうに突っ返した。

「ちゃんと、洗濯くらいしてるんでしょーねっ!」

「や……やってるさ、それくらい。それよりアスカこそどうなんだよ? あの頃なんか洗濯なんて一度もしたことなかったくせにさ」

 シンジの言うとおりだった。

 当時、女性二人と同居していたにも関わらず、家事全般はシンジの仕事として存在していたのだ。

「アンタ、レディに向かってそーいうことを訊くわけぇ?」

 高飛車なアスカの言葉に水をぶっかけられて、シンジの小さな反撃の狼煙は立ち消えてしまった。

「ほらぁシンジ、荷物持ってよ。重いんだからっ」

 足許に放り出した大きなスポーツバッグを無理矢理シンジに押しつけると、アスカは有無を言わせずに家の中へと上がり込んだ。
「へえぇ、なかなかいいところじゃない」

 シンジの住むここは旧芦ノ湖を望む駒ヶ岳の南向きの斜面に作られている。

 第三新東京市へ若干距離があるのを我慢すれば日当たりも良く、天然湧出の温泉すら各戸へ引かれている、実に豪華なリゾートマンションだ。

 それでいて分譲価格は手頃なものだったので、パイロット時代に支給されていた給金の大半をつぎ込み、シンジにしては珍しいことにほとんど即決で、この物件を購入していた。

 ちなみにパイロット時代は中学生だったため給金の直接支給はなく、総て銀行の特別口座への積み立てという形で命の代償は支払われていた。

 そして高校生となり、一応自活ができる年齢と判断され、その貯金を自由にできる権利をシンジ達は与えられることになったのだ。

 このマンションが安かったのには、理由がある。

 実のところ、第三新東京市の経済状況というのはあまり芳しいものではない。

 本来、使徒との戦いが終了した後には、日本の新しい首都として、現在長野にある第二新東京市からの遷都が予定されていたのだが、予想以上のN2爆弾の使用、零号機の自爆、ジオフロントの崩落といった要因により遷都計画は頓挫。逆に第三新東京市の代替施設であった松代の実験場を移動し、完全な研究実験都市としてのみ第三新東京市は存続を許されることとなっていたのだ。

 すなわち住人のほとんどがネルフ関係者ということもあり、箱根の山の中という立地条件も手伝って人口の増減、及び移動がまったくないと言っていい、閉鎖都市としてしか機能しなくなってしまったのだ。

 その限られた購買人口を相手にする商売も自ずと限られてしまうし、その売り上げでやっていける商売人もまた限られてしまっていた。

 それに使徒の襲来はもはや有り得ないとはいえ、兵装ビルやらエヴァ用の電源供給ソケットだのがあちこちに擬装された街に、通常の感性の持ち主であれば住んでみたいとは思わないだろう。

 このマンションも遷都の読みを外された哀れな業者が建てたもので、三十戸ある部屋のうち埋まっているのは十戸程度というていたらくなのである。

 だから命を張った代償とはいえ、シンジの稼ぎ程度でも家が購入できたという訳なのだった。

 南向きの三LDKの角部屋。

 八・六・六に十二畳の一家族が充分に居住できるだけのゆったりとした間取り。

 そのシンジのプライベートな空間に上がり込んだアスカは、まずは玄関をじっくりと注意深く覗き込んだ。

 その行動は、ほとんど新しいねぐらを見つけた猫そのものと言ってよかったろう。

「ここを一人で使ってるわけぇ? あんたって意外と贅沢だったのねぇ」

 感心とも揶揄ともつかない言葉をシンジに投げながら、アスカは手近な部屋を覗き込み、その明かりをつけた。

 玄関に近い畳敷きの六畳間はシンジの部屋だった。

 勉強机と本棚があるだけの殺風景な部屋。

 その机の上にも、およそ個性というものが感じられない。

 置いてあるのは鞄と教科書ぐらいのものだ。

 モデルハウスも真っ青の没個性な部屋だった。

 肩越しに振り返ったアスカは、つまらなさそうな目でシンジを見つめた。

 その顔を見て、シンジは溜息をついた。

 何を言われるのか、大体の見当がついたからだ。

 アスカの表情は露骨に『相っ変わらず、つまんない奴っ!』と語っていた。

 だが、継がれた言葉は意外と悪意のないものだった。

「あんたもポスターの一枚くらい貼ったらいいのに」

 呆れたようではあったけれど。

「別に、いいだろ。僕の部屋なんだから」

「せめて、フォトスタンドくらい立てたらいいじゃないの。ファーストの写真くらい持ってんでしょ?」

 アスカの台詞に、シンジは驚いたような、傷ついたような表情を浮かべたが、すぐに俯いてしまった。

「綾波の写真なんか……持ってないよ」

 その返事は、妙に歯切れが悪かった。

「ホント、つまんないのねぇ」

 しかし、アスカはそんなシンジからあっさり興味を失い、次の部屋へとすたすたと向かう。

「ち……ちょっとアスカぁ」

 バッグを抱えたまま、慌ててシンジがそのあとを追う。

「この部屋はぁ?」

 と、アスカはドアを開いた。

「!」

 ドアを開いたまんま、その場でアスカは硬直する。

 その様を見たシンジは天井を仰いで嘆息した。

「あ……あんた、こんなに趣味があった……の?」

 ホラー映画の登場人物のような、音を立てるような首の動かしかたでシンジを見やったアスカが訊ねた。

「ち……違うよ。ここに、引っ越したから不便で……仕方なく買ったら、面白くって。それに音楽はずっと好きだったじゃないか……」

 先刻までシンジが呆けっとしていたのは、この部屋だった。そしてそこは、シンジが暮らしているとは思えないほど、散らかった部屋だったのだ。

 いや、厳密に言うと散らかっていたわけではない。

 物が多すぎるだけなのだ。

 壁面を大型のスピーカーとオーディオシステムが占拠し、それを囲むようにアナログレコード、CD、S/DATのソフトが積み上げられている。

 そしてどういうわけか部屋の真ん中には、キャスター付きの大型工具箱。それに立て掛けられているのはアスカにも馴染みのあるチェロのケース。

 部屋の隅には、クラシック音専誌のみならず、種々様々な音楽誌もバイク雑誌も一緒くたに、とりとめもなく雑然と積み上げられていた。

「凄いわねぇ……これは」

 しげしげと部屋の様子をうかがっていたアスカだったが、不意ににっこりと微笑むとシンジに言った。

「あんたも、ちょっとは面白くなってきたみたいじゃないの」

「なんだよ、それ」

 からかわれたと思ったのか、シンジはアスカから視線を逸らすと拗ねたように横を向いた。

 そんなシンジの幼い仕草を見て、アスカは慌てて取り繕う。

 いま、シンジを怒らせてしまうのはアスカにとって得策ではなかったからだ。

「ね、ね、シンジは何に乗ってるの?」

 できうる限り、アスカは可愛らしさを装ってシンジに訊ねて見せる。

「え、あ。け……KTMのデューク2だけど」

 こういう女の子特有の演技に、まんまと騙されてしまうのがシンジのシンジたる所以だろうか?

「けーてぃーえむうっ!」

 ところがせっかく可愛らしくしてみせたのに、意外なシンジの答えに驚いたアスカは素っ頓狂な声を上げてしまった。

「えっ? アスカ、もしかしてKTM知ってるの?」

 シンジもまた意外さを隠せずにアスカに尋ねていた。

「知ってるけど……ねぇ……」

 まだドイツにいた時分。

 アスカが大学に通っていた頃に、ときおり街で見かけることがあったからだ。

 オーストリアに本社を持つKTMは、オフロードバイクの生産で勇名を馳せたメーカーだ。

 そのKTMが初めて作ったロードバイクに冠せられた名前がデュークだった。とは言えデュークは、オフロードバイクそのままのシルエットにロードタイヤを履かせた〈スーパーバイカーズ〉と呼ばれる少々特殊なカテゴリーに属するバイクだった。

 シンジのデューク2はその二代目で、初代を踏襲したスタイルをアイデンティティとしていた。

 特に生産量の少ないデュークは、そのバッタのようなスタイルによって街中でも目立ち、アスカの記憶にも残っていたのだ。

 そのヨーロッパ製の悍馬に跨り、箱根の峠を疾走するシンジを想像しようとしたアスカだったが、どうにもアグレッシブにデュークを御している姿を想像することはできず、途方に暮れてしまった。

 仕方がないので、言ってやる。

「あんた、やっぱりちょっと変、よ」

「そうかもね」

 しかし、変。と言われながらもシンジは何処か嬉しそうな笑みを浮かべていた。

 ――少し、変わったのかしら。

 シンジの笑顔を見ながらアスカは思い、趣味の部屋をあとにした。

 そのアスカの後ろ姿を追いながら、シンジは安堵の小さな溜息を漏らしていた。

 それには理由がある。

 アスカは気がつかなかったが、工具箱の脇には写真が一枚、マグネットで留めてあったから。

 それは二年前に、シンジがケンスケから譲ってもらったものだった。

 第壱中学の制服姿のアスカ。

 何の変哲もない、登校途中のスナップだ。

 しかし、それが唯一シンジの持っている他人を写した写真だったのだ。


 最後に残された部屋。

 角部屋の六畳間のドアの前に来るとアスカは足を止め、すっと小さく深呼吸をした。

 ――行くわよ、アスカ!

 自分自身に気合いを入れて、ドアを引き開ける。

 部屋の中を見つめたアスカの顔にみるみるうちに悪戯っぽい笑みが刻まれる。

 ――ナーイスッ!

 この部屋にはほとんど荷物がなかったからだ。

 あるのはシンジのベッドと洋服箪笥だけ。

 しかも床は待望のフローリング。

 まるでアスカのために誂えたような部屋だ。

「決めたわっ!」

 思わずアスカは手を打って叫んでいた。

「決めたって……何を?」

 シンジは訳が判らないままアスカに訊ねていた。

 アスカの行動をシンジに理解しろと言うのは無理な注文だったかも知れない。

 それは犬に猫の行動を理解しろと言うのとおんなじことだろうから。

 アスカはビシッとシンジを指さすと高らかに宣言した。

「今日からここがアタシの部屋だからねっ! よろしくサードチルドレンっ!」

「ええーっ!」

 その爆弾発言に仰天するシンジを後目に、アスカはさっそくスポーツバッグをシンジからひったくると、それを一息にひっくり返して中身を床にぶちまけた。

「あ……アスカ、駄目だよ。いきなりそんなこと言われたって無理だよ」

 いきなりの同居宣言に動揺しまくったシンジはどうすることもできないまま、アスカの周りをぐるぐる回りながら懇願した。

「何が、無理だってのよ?」

「何がって……それは……」

 そこまで言って、シンジは下を向いてしまった。

 確かにちょっと口には出せなかったろう。

 そんなシンジの仕草に、アスカの勘が鋭く働き、細められた蒼い目に剣呑な光が宿った。

 シンジはそのアスカの眼光に気圧されたように、ほんの少し後ずさった。

「あんた……やらしいこと考えたでしょう?」

 追い打ちをかけるように、冷たい声でアスカはシンジを詰問する。

「そ……それは」

 羞恥の色に耳まで真っ赤に染まったシンジの顔を見たアスカは、思わず浮かびそうになる笑みを噛み殺し、苦労しながらも怒声を作り上げた。

「もう、出てってよっ! どうしてシンジってこうもバカでスケベなのかしらっ! ほらぁ、早く出て行きなさいよっ」

 手を出せずにおたおたしているシンジをぐいぐいと部屋から押し出して、アスカはドアを閉めてしまう。

「んふふ……相変わらず、ちょろいもんね」

 首尾良く部屋をせしめたアスカが舌を出して喜んでいると、背中で押さえたドア越しにノックの音が響く。

「何よっ!」

 いささかドキッとさせられて、アスカは少しだけ声を荒げた。

「あの……アスカ、お風呂ならいつでも入れるから、温まらないと風邪ひいちゃうよ。夜食作るから食べながらちょっと話そうよ。いいね」

 ドアの向こうのシンジの足音が遠ざかる。

 ――バカ……なによ、カッコつけちゃって。

 アスカはドアに向かって思いきりあかんべしてみせる。

 けれども、シンジが最後に残した「いいね」という言葉に、いままでに感じたことのない抗い難さが宿っていたのを感じ取っていた。


 それからしばらくして、シンジとアスカはダイニングでテーブルを挟んでいた。

 風呂上がりのアスカは濡れ髪にタオルを巻き、上気した白い肌を涼しげなライトブルーのタンクトップで隠していた。しかし、その胸許はささやかながらも二年前よりは過激さを増し、しかも、それでいて以前とおなじようにノーブラのままだった。

 果たしてアスカはシンジのことを挑発してるのだろうか。それとも、相も変わらずシンジが男だという認識が抜け落ちているのだろうか?

「それじゃ、いただきまーすっ。すっごく、お腹すいてたのよねぇ」

 箸を取ったアスカは、さっそくシンジの料理に舌鼓を打ち始めた。

 シンジの作った夜食は、しらたきのツナサラダ和風ドレッシング和え。カロリーも低く、アスカにも安心して食べてもらえるだろうとの配慮であった。

「それで……アスカは何の目的で僕のところに来たの?」

 自分は料理には手を出さず、緑茶を啜りながらシンジが訊ねる。

「それはさっき言ったじゃない……んーっ、これすごく美味っしーい! やっぱりシンジってば御飯作るの上手よねぇ」

 このアスカの言葉は掛け値無しに本気。

 あの頃からシンジの作る料理は絶品だった。

 ――ヒカリには悪いけど、あたしの口にはシンジのおべんとうの方が合ってたわよね。

「ごまかさないでよっ、アスカっ!」

 しかし、そんなことを一度たりとておくびにも出したことのないアスカがいま、シンジの料理を褒めてみたところで、シンジにはその場しのぎのごまかしとしか映らなかっただろう。

「何もごまかしてなんかいないわよ」

 美味しい食事の力は偉大だ。

 激して声を荒げたシンジにも、至極冷静にアスカは答えている。

「何もないはずないだろっ! 今度は何なんだよ、ミサトさんか? それともリツコさんに言われたのか?」

「本当になんでもないんだってば、ただ……」

 そこまで言ってアスカは下を向いてしまう。

「ただ……何だよ、どうしたんだよ、アスカ」

 そのアスカの姿はシンジには辛い過去を思い起こさせる。

 それでも、少し震える声でも先を促す。

 もう、アスカが立ち直っていることを信じていたから。

「ただ……ね」

 みなぎる緊張感にごくりとシンジの喉が鳴る。

 そして意を決したようにアスカの顔が上がり、蒼い視線がシンジの瞳を射た。

「アパート、追い出されちゃったのよ」

「……は?」

 シンジの顎がカクンと、落ちた。

 あまりにも世間話なアスカの言葉に、緊張の限界にあったシンジの思考は完全に弛緩してしまった。

「三ヶ月近く、仕事で家に帰らなかったのよ。家賃を振り込みにしておかなかったのが敗因よね、やっぱり」

 アスカはサラダの小鉢に向かって、一人うんうんと頷いている。

「それだけ……なの?」

 ようよう言ったシンジの言葉も、まさにそれだけ、だった。

「そう、それだけよ。だって他に行くところないじゃない。ファーストは碇司令のとこだし、ミサトのところへなんかとてもじゃないけど怖くて行けないし、ヒカリのところは前に迷惑かけまくっちゃったから行きづらかったしぃ」

「……それで、僕のところに?」

 シンジはテーブルに突っ伏したまま訊いた。それでも、手に持った湯飲みをひっくり返さなかったのは大したものだったが。

「そーよ」

 と、平然としてアスカはシンジに答える。

「一応、僕、男だよ」

「へーきよ、あたしは」

 しれっ、とアスカは応えてしらたきを口に運んだ。

「僕が平気じゃないって言いたいんだっ!」

 とうとうシンジはテーブルを叩いて立ち上がった。

 折角、こぼさなかった湯飲みもついに転がってしまった。

 その剣幕に、さしものアスカもびくりと肩を震わせてシンジの顔を見つめることになった。

 シンジは真剣な顔でアスカを睨みつけていた。

 その真摯な瞳が、シンジが本気で怒っていることをアスカに伝えた。

 続けられたシンジの口調は酷く静かなものだった。

「アスカ、僕だって男なんだよ。そりゃいまだって臆病だけど、それでも目の前で女の子が……それもアスカが、そんな格好してれば、どうしたって……その……」

 震え始めた声を抑えきれず、シンジはアスカから目を逸らすと、無理矢理言葉を変えた。

「……判ったよ、アパートが見つかるまでは居てもいいよ。だけど、必ずここから出ていってよ、頼むから」

 それだけを告げると、シンジはもうアスカを顧みることもないまま自分の部屋に逃げ込んでしまった。

 ぽつんとダイニングに、独り残されたアスカは、持っていることも忘れていた箸を静かに置くと両手で顔を覆い、今度こそ本当に下を向いた。

「ばか……」

 こぼれた言葉はどちらに向けられたものか?

 堪えた嗚咽とともに透明な水滴がはたはたと、アスカの膝を濡らした。


 それから二日。

 アスカは何事もなかったかのようにシンジの家からネルフへと通い、夜は遅くまで帰らなかった。

 シンジに言われたことを気にしているのか、部屋の中には住宅情報誌がこれみよがしに散らばっていたが。

 シンジは、そんなアスカを意識的に避け、昼間に眠り、夜になると家を抜け出して、デュークで箱根の山の中を走り回っていた。

 しかし、三日目の夜にシンジは運良くというか、悪くというか、マンション近くでガソリンの切れてしまったデュークをひきずって家へと帰ってきてしまった。

 そこらの公園で一夜を明かすことも考えたが、バイク泥棒と勘違いされるのもいやだった。

 シンジは静かにドアを閉めると、足音を忍ばせて自分の部屋に向かった。

 ――僕の家だっていうのに、一体何やってんだろう?

 シンジが廊下の奥を見ると、ぼうとアスカの部屋に明かりがついているのが見えた。

 ――アスカ、まだ起きてるのか?

 シンジは腕時計で時刻を確かめた。

 古めかしい自動巻のブレゲ針は、午前三時少し過ぎを指している。

 ――アスカの奴、人んちだと思って!

 僅かな怒りを胸に抱き、それでもシンジは足音を忍ばせて、ドアが開け放しにされたアスカの部屋へと滑り込んだ。

 ――やっぱり……

 シンジは、アスカの傍らに跪くと、吐息を漏らした。

 タオルケットにくるまったアスカは、横を向いて少し難しい顔をして眠っていた。

 シンジの脳裏に、あの夜のアスカの姿が思い起こされた。

 二年前、二人だけで過ごした夜。

 生まれて初めて間近で女の子の涙を見てしまったシンジ。

 高飛車でわがままなだけだと思っていたアスカの秘められていた一面。

 ――それから……だよね。

 シンジは溜息を一つ吐き出し、思い詰めたような表情でアスカの寝顔を見つめていたが、不意に唇を噛んで立ち上がると壁のスイッチに手をやった。

「おやすみ……」

 呟くように言って、シンジは煌々としていた部屋の明かりを落とした。

 後ろ髪を引かれないと言えば嘘になるが、シンジは月明かりだけになった部屋のドアを後ろ手に閉めようとした。

「いやああああああっ!」

 その途端、アスカの絶叫が部屋の中に響く。

 その絶叫はシンジの心臓と心とを鷲掴みにした。

「もう、嫌あっ! 一人にしないで、あたしを置いてかないでえっ!」

「な……あ、アスカっ!」

 驚き慌てたシンジはアスカの前にしゃがみ込む。

 泣き叫ぶアスカの姿は、二年前の病室での思い出したくもない切り刻まれるような記憶を甦らせる。

 焦点の合わない、なにも見えてないアスカの瞳を二年の時を経て覗き込んだとき、シンジは悪夢が甦ったことを思い知らされた。

「嫌あっ、暗いのはいやなのおっ!」

 玩具を取り上げられた幼児のように泣き叫びながら、アスカはシンジにしがみついた。

 その力はとても激しく、二の腕を掴まれたシンジは、アスカの爪が皮膚に食い込む鋭い感覚に顔をしかめた。

「アスカ、落ち着いて。アスカっ!」

 きりきりと走る腕の痛みにも構わず、? Vンジはアスカを揺さぶった。

「だ……れ。誰なの? パパなの?」

 幼児に退行したかのような、舌足らずなアスカの言葉にシンジは愕然とした。

 そのアスカの言動は、二年前と同じ症状を呈していたから。

 そして、それに答えられないシンジはただアスカの肩を抱きしめるだけだった。

「パパ……パパは嫌いっ! ママを捨てたからっ! 嫌い、嫌い嫌い嫌いっ!」

 シンジの腕の中でアスカは暴風のように荒れ狂う。

 爪が食い込んだままの腕からは赤いものが滲みはじめ、嵐に翻弄された小舟のように揺らぐアスカの頭がシンジの鼻にぶつかり、きな臭い匂いが鼻孔の中に広がる。

「アスカっ、しっかりしてよっ!」

 アスカの体を渾身の力で抱きしめ、シンジは願った。

 あのときと同じように。

 何もできない、無力な自分を感じながら。

 神に……祈った。

「お願いだよ、アスカ……しっかりして」

 痛みと哀しみでくしゃくしゃになったシンジの頬に、止めどもなく涙が流れ落ちてゆく。

「アスカ……僕だよ。ここにいるのは僕なんだよ」

 シンジは呪文のようにそれだけを呟きながら、なおも暴れようとするアスカの体を抱きしめていた。

 シンジの心に去来するものは何だったろうか?

 シンジはアスカがすっかり立ち直っていたものと思いこんでいた。

 だから、自分から離れていったのだと思っていた。

 それなのに、アスカはまだ心に傷を負ったまま癒せずにいたのだ。

 ――僕のところに来たのは、このためなの?

 かえしてもらえる筈のない問いを心の中に抱いて、シンジはただアスカのことだけを想い、彼女の体を抱きしめた。


 どのくらいの時がたっただろうか?

 アスカはもう暴れてはいなかった。

 ぐったりとシンジに身を預け、定まらぬ焦点の瞳を虚空に投げかけているだけだった。

 しかし、ぽつりとアスカの口から声がこぼれた。

「し……シン、ジ?」

 窓から差し込む蒼白い月明かりだけになった部屋の中、アスカの瞳に僅かづつ理性の色が還ってくる。

「そう。そうだよ、僕だよ、アスカっ!」

 アスカの手から少しづつ力が抜けてゆく。

 シンジの腕を掴んだ手だけは、アスカは決して離さなかった。

 まるで、母を慕う子供のように。

 シンジはその手をゆっくりと解き、アスカの肩をしっかりと抱いて言い聞かせる。

「いま、明かりをつけるからね。もう、だいじょうぶだよね」

 アスカの首が小さく縦に揺れ、シンジは安堵の息をつくと、アスカから離れて部屋の明かりをつけた。

 部屋の中に明かりが満ちる。

 その明かりに包まれながらも、振り向いてアスカを直視するために、シンジはありったけの勇気を動員しなければならなかった。

 背中越しに聞こえてくるアスカの嗚咽。

 その姿を一度だけシンジは見ていた。

 誇り高き、孤高の天才少女。

 そのプライドを砕かれた、使徒ゼルエルとの闘い。

 砕かれた硝子の心は元に戻ることはなく、アスカはむりやりかき集めた心の欠片だけに頼って、衛星軌道上に現れた使徒アラエルと闘い、心を犯されてしまった。

 そして使徒に犯されたアスカの心は、エヴァにシンクロすることを拒否した。

 それは、エヴァに乗ることで自分自身の存在意義を示してきた少女のアイデンティティを消失せしめた。

 自我崩壊による失踪。

 そのことをシンジは知らなかった。

 敢えてその情報はシンジには知らされなかったのだ。

 そして、シンジが再びアスカと巡り会うことができたのは第三新東京市が崩壊した後の、機能の半分以上を奪われたネルフ本部においてだった。

 そのときのアスカの姿をシンジは忘れられない。

「アスカ……」

 だから、シンジは細心の注意を払って、アスカの震える華奢な肩に手をそっと乗せた。

「お願い、見ないで……あたしを見ないで……シンジ」

 アスカの拒絶。

 けれども、シンジはアスカの涙に濡れた頬に優しく指を滑らせた。

 あのときのアスカとは違うことが判ったから。

 自分がいることすら判って貰えなかったときとは。

「アスカ……これが、理由だったんだね」

 そうシンジが問うと、声にならない声とともにアスカは小さく頷き、自嘲めいた表情を浮かべた。

「嘲笑ってよ……シンジ。十六にもなって暗いのが怖くて、一人で眠れないんだから」

 アスカは頬に触れるシンジの優しさと温もりから逃れるように、その手を邪険に振り払った。

「…………」

 振り払われた手のやり場もなく呆然とするシンジを見て、アスカはなおも続けた。

「そうよ、そうなのよ。結局アタシはずっとあの頃のままなのよ! 十四才の子供のままなのっ! 暗いのが怖くって、一人でいるのも怖くって……

 アスカはそう言いながら酷く歪んだ、それでいてどこか似合いの艶っぽい微笑を見せた。

 シンジは、アスカのその微笑みに訳もなくぞっとするものを感じた。

 そして、その予感は当たっていたのだ。

「あたしね……もう、処女じゃないのよ」

 アスカの言葉にシンジは反応しなかった。

 できずにいたのだ。

 どうしてアスカがこんなことを言い始めたのか。

 それすら判らず、ただ、困惑の極みにいた。

 ――アスカ……何を言ってるんだ?

 問いたくても問えるわけがない。

 羞恥と憐憫と、そして男なら誰でも抱いてしまうギトギトとぬらついた赤黒く淫らな想い……様々な形容のし難い感情が心の中で渦を巻き、シンジには到底、言葉を形作ることなどできなかった。

 そのシンジの混乱の沈黙を、アスカは軽蔑ゆえのことと誤解した。

「ゆきずりの男とでも……寝たわよ。あの怖さを忘れられるならねっ!」

 自分で紡ぎ出す言葉に荒ぶる心を抑えられないまま、アスカは哀しすぎる言葉をシンジにぶつけるしかなかった。

「軽蔑しなさいよシンジっ! アタシを蔑みなさいよっ!」

 シンジは、答えるべき言葉を持たなかった。

 ただ、黙って両の手を握りしめ、アスカの哀れな言葉の暴力にじっと耐えていた。

「こんなアタシにはお似合いよね。アンタもそう思うでしょ! 使徒に心を犯されて、体まで犯されて……いったい、なにやってるのかしらね、アタシ。最強無敵のシンジ様のところなんか来ちゃってさあ。シンジ様には、やっぱり優等生がお似合いよね……でも、こないだは何か言いかけてたわよねぇ。こんな女の体でもいーのかしらぁ、最強無敵のシンジ様もオ・ト・コ、だものねぇ、こんな傷物で良ければ幾らでも差し上げま……し……」

 沈黙を守ったままのシンジを弄うように、アスカはしなを作ってみせ、Tシャツに包まれただけのノーブラの胸を殊更に誇示してみせようとしたが、その破滅的な台詞を最後まで言うことはできなかった。

 シンジが、泣いていたから。

 声もなく、ただ真っ直ぐにアスカだけを見つめ、シンジは両の瞳から滂沱と涙を流していた。

 そのシンジの泣き顔を見た瞬間、アスカは自分の背に氷塊が滑り落ちるのを感じていた。

 しかし、口に出してしまった言葉はもう元には戻らない。

 どうすることもできないまま、アスカはただ慄然とするしかなかった。

 どうして、ここへ来てしまったのか。

 いまにして、ようやく悟ったから。

 そして、手に入れかけた、かけがえのない物を自分自身の言葉で粉々にしてしまったことも。

 だから、アスカは強がって見せるしかなかった。

 エヴァに乗っていたときと同じように。

 なけなしのプライドの欠片でもって。

 最後のサヨナラを言うために。

「な……なに、アンタが泣いてんのよっ! あいっかわらずウジウジしてんのねっ! 安っぽい同情なんてやめてよね、アンタなんかに同情されたらこのアタシもお仕舞いよっ! じゃあね、シンジ」

 床の上に散らばっていた荷物を適当にバッグの中へと詰め込みながら、一息にアスカは台詞を言い放った。

 もし、途中で言葉を途切れさせたりすれば、熱くひりついた喉が嗚咽以外の声を出せなくなるのが判っていたから。

 アスカにはもう、シンジを見ることができなかった。

 もう一度だけ、あの顔を見たかったけれど、それは許されることではなかった。

 それでもアスカは言わずにはいられなかった。

 それはいま、意味を為す言葉ではなかったけれど。

「……迷惑、かけたわね」

 最後の、そして精一杯のシンジへの謝罪。

 それだけを告げると、アスカはまだ口も閉めてないバッグを肩に担いだ。

 やけに重たいそれを、アスカは涙に歪んだ視界の中に睨みつける。

 ――どうして……こんなに重いのよっ!

 バッグの重みは、そのまま罪の重さだった。

 それを感じながら、アスカはシンジに背を向けた。

 でも、次の一歩。

 破滅と言う名の断崖への一歩を、踏み出すことはできなかった。

「行っちゃ駄目だ……アスカ」

 アスカの華奢な腰にシンジの腕が回され、抱きすくめられていたから。

 アスカは全身から力が抜けそうになるのを感じていた。

 全てを放棄してこのままシンジに身を預けてしまいたい。

 でも、それは出来なかった。

 彼女は「惣流・アスカ・ラングレー」なのだから。

「離して、シンジ……おねがいだから……」

 アスカの声はもはや哀願と呼ぶにふさわしい、弱々しいものだった。

 けれど、シンジの腕にはさらに力が込められ、そのくびきから決してアスカを逃そうとはしなかった。

「嫌だ。今度こそ、絶対に……離すもんか」

 アスカの耳許でシンジの力のこもった言葉が響く。

 しかし、不意にその口調が変わった。

「本当はね……僕にはアスカを止めることなんてできやしないんだ。僕のほうこそ、アスカに許しを乞うべきなんだっ!」

 シンジの振り絞る声は、アスカに負けず劣らず悲痛な色を帯びていた。

 それが判ったから、アスカはシンジの次の言葉を待たずにいられなかった。

「僕は……アスカが僕の前から消えてから、毎日のようにアスカを犯してたんだ。自分に都合のいい夢の中で……」

 思春期の少年の行為を誰が責められようか。

 夢想の相手が、かつて寝食を共にし心を寄せた、とびきり魅力的な女の子ならばなおさらだ。

 しかし、シンジはその邪な行為の中でアスカを汚してゆくたび、自分の中でも何かが汚れてゆくように思えてならなかった。

 何度となく夢に現れる屈託のない笑顔。

 昨日のことにの様に思い出される二人だけの夜。

 初めてのキスの唇の感触。

 それがシンジに、止めたくても止めることのできない、男としての性を突きつけた。

 アスカを抱いたシンジの腕から、僅かづつ力が抜けてゆく。

「僕は、アスカに……頼ってもらえるような男じゃないんだ。小狡くて、人の顔色を窺ってばかりで……僕だってあの頃の子供のままなんだよ、アスカを抱きしめる資格なんて……ありはしないんだっ!」

 自分で自らを断罪したシンジは、とうとうアスカから手を離そうとした。

 しかし、今度はアスカの手によってそれは阻まれることとなった。

 ほどけようとするシンジの手に、アスカは両手を重ねて、男にしては繊細な指にしっかりと自分の指を絡めた。

「シンジ……初めて、自分のことあたしに話してくれたのね。逃げないで……自分の気持ちを……」

 絡めた指に精一杯の力を込めて、アスカは続ける。

「シンジ、いまあたしがどんな気持ちか判る? とても、嬉しいの……そしてね、同じくらい悔しいの。自分自身に意地を張って、シンジと別れて……一人で生きていけると思ってたわ。でも、駄目だった。それにあたしだって一人で眠るしかない夜があるもの……そんなとき、あたしが思い出せたのはシンジの顔だけだったのよ。加持さんじゃなくてね……優柔不断で冴えなくて、ぼーっとしてるアンタしか浮かんでこなかったんだからっ!」

 アスカの心に架せられていた拘束は、いまこそ解かれた。

 お互いの心が、同じものを求めていたことを知ってしまったいまとなっては。

 アスカはぶつけるようにシンジに身を預ける。

 その熱い躰をシンジは支えきれず、二人はもつれるようにベッドへと倒れ込んでしまった。

「アスカ……」

 倒れた拍子に、真正面からアスカを抱きしめる格好となったシンジはかすれかかった声でアスカを呼んだ。

 そのシンジが見たものは、期待を込めたアスカの濡れたように輝く蒼い双眸だった。

「お願い……シンジ……」

 それだけで充分だった。

 シンジにもアスカの言った『悔しい』という言葉の意味が十二分に判っていたから。

 アスカの腰に回されたままのシンジの腕に、ぐっと力が入った。

 少しだけ息苦しいぬくもりの中で、アスカはたとえようのない安らぎを感じていた。

 永遠のような瞬間を互いに見つめあった二人は、その瞳の中の己れを見つめあって、やがて激しく互いの唇を重ねあった。


 ――風が、気持ちいい……

 汗みづくのシンジの胸に顔を重ね、頬を撫でていく風をアスカは心地よいものに思っていた。

 湖面を渡ってくる夜風は、激情に駆られた二人の心と体を優しく癒してくれた。

 シンジの胸に重ねたアスカの頬に、鼓動が伝わってくる。

 それはまさに生きている証そのもの。

 いま、ここに存在しているということ。

 自分がここにいることを許されているという事実が、アスカの心を優しい色に染め上げていた。

「ねぇ、シンジ」

 不意にそれを確かめたくなって、アスカはシンジに訊ねる。

「加持さんとミサトも、こんな感じだったのかしらね?」

「どうだろう……あの二人なら、もっと素直だったかもね。少なくとも加持さんはいまの僕ほど後悔してないと思うよ」

「……あたしを抱いたこと?」

「違うよ」

 きっぱり言いきり、シンジはアスカの頭を強くかき抱いた。

「もっと………もっと早く、アスカを抱きしめるべきだったって」

 しかし、言いきったはずのシンジの顔には苦渋の色がありありと浮かんでいた。

 しかし、シンジに抱かれたアスカにその表情を見ることができるはずもなく、ただ、シンジの力強い言葉に瞳からこぼれそうになる、嬉し涙を堪えるのに必死だった。

「……本当は、ファーストのこと後悔してるんじゃない?」

 その台詞は、相応の少女らしい甘えかた。

 しかし、いままで甘えられたことなどない少年が、その微妙な言い回しに気づくことはない。

 シンジは迷ったように答える。

「綾波のことは……正直言って判らないんだ」

 夜風に体が冷えてきたのか、シンジは夏掛けを手繰り寄せるとアスカごとそれで体をくるんだ。

「……アスカに逢う前に『ヤシマ作戦』があったことは知ってるよね?」

「うん……ミサトから聞いてる」

「そのときに、僕は綾波に守られたんだ。本当に命をかけて……それに第十六使徒のときも。そして僕たちの知っていた綾波は閃光の中に消えてしまった。次に逢ったときの綾波は僕らの知らない三人目の綾波……新しいクローンの綾波だったんだ」

 あのときのことを思い出すと、アスカは胸が潰されるような思いに囚われる。

 自分の時には、出撃しなかった初号機。

 それがレイの時には、あっさりと凍結が解除された。

 悔しくて、悲しくて、涙がとまらなかった。

 役立たずの烙印を押されたことを思い知らされた瞬間だった。

 そしてアスカは、自らを閉じてしまった。

 だから、今のレイが三人目だということに気づかなかった。

「だけど……ファーストは、あたしのこと知っていたわよ」

 シンジの抱擁から抜け出し、アスカは顔を起こした。

「知識としてね……それに僕は見ているんだ。水槽の中に何人も浮かぶ綾波のことを……誤解しないで欲しいのは、綾波がクローンだから魅かれなかったんじゃないんだ。僕は綾波の中に母さんを見ていたんだ。実際、それは間違いじゃなかったし」

 アスカにもそれは理解できる。

 再構成された『碇ユイ』

 彼女に幾度か逢う機会のあったアスカは、レイと相通ずるものをユイの面差しの中に見いだしていた。

 そして、シンジの面差しの中にも。

「それはエディプス・コンプレックスってこと?」

 そうアスカが問うと、シンジは困ったような微笑を浮かべた。

「そんな高尚なものじゃないよ。それに僕じゃ綾波を幸せにすることは、決してできないと思うんだ」

「どうしてよ、ファーストはシンジになら……」

 言いかけたアスカの脳裏に、唐突に閃くものが在った。

 自分の入り込む余地のない、レイとシンジの絆。

 あの頃は理解したくもなかった心の繋がりが、いまは判る。

 どうして、シンジに辛く当たったのか。

 ――シンジは誰かに頼る術を知っていたから。

 どうして、レイを敵視していたのか。

 ――ファーストは誰かを見守る術を知っていたから。

 アスカが母親に望み、得られなかったものを二人が持っていることを認めることができなかったがゆえに、自らを恃んで生きるアスカは二人に嫌悪感を抱いていたのだ。

 それは仕方のないことだ。

 使い古された言葉だが、人間誰しも生まれてくる環境を選べるわけではない。

 そして、生きていく途上で他人の様々な考え方や生き方に触れ、考え、自分に必要なものを取捨選択して人生というものを作り上げてゆくのだから。

 だから現在という時間でしか、アスカには二人の絆を感じることはできなかった。

 シンジとの絆を築いた、いまでしか。

「綾波の心がどうやって生まれたのかは、僕にも判らない……だけど、たぶんその心には僕の母さんの心が反映されてると思う。だから、僕は綾波を一人の女性として見ることはできない……綾波も同じだと思う。僕を守るためにきっと自分を犠牲にしてしまうと思う。だから綾波を幸せにできるのは僕じゃないんだ。それが誰かは判らないけど、綾波を一人の女性として見ることのできる誰かなんだよ」

 初めて触れるシンジの心。

 なにも喋ることのなかったシンジが、初めて開いてくれた裸の心。

 アスカはシンジという人間の一端を、ようやく垣間みることができた事実を嬉しく思っていた。

 そう思う反面、自分の心に押し込めた記憶をアスカは意識せざるを得なかった。

 決して他人に見せられない、知られたくない心というものがある。

 それは恥ずかしいことじゃない。

 触れ得ざる領域。

 無論、アスカの中にもそれはある。

 絶対に、シンジにさえも知られたくない心だってある。

 それをシンジに伝えなければいけない、或いは知られてしまうときが来るのかもしれない。

「シンジ……」

 その予感にわずかな怯えを感じ、アスカは思わずシンジの名を呼んでしまった。

「柄にもないこと、言っちゃったみたいだね」

 アスカの言葉を誤解したのか、シンジは照れたように微笑い、不意に真顔に戻ると続けた。

「結局、僕はまた逃げ出したんだよ。親っていう生涯つながれる鎖から……アスカこそ、後悔してない?」

 この台詞も、また甘えと呼ばれる行為なのだろうか?

 だが、これをすることのできる人を得ることで人はようやく人となれるのだろう。

 他者に自分をおもね、己れを知る鏡とし、ようやく自己を形作れるのだから。

 しかし、甘え.と言うにはアスカを見つめるシンジの眼差しは不自然なくらいに真剣だった。

 そして、継がれた言葉はロンギヌスの槍の如くアスカの心臓を刺し貫いた。

「アスカに憎まれていることは、判ってたんだ」

「――!」

 バネ仕掛けの如くアスカは身を起こし、頼りなく形容し難い表情を浮かべたままのシンジを凝視した。

「……それでもね、僕は嬉しかったんだ。何もすることのできないアスカを見るよりも、僕を憎んでても生きる術を見つけてくれたアスカのほうが……」

 もう、言葉にはならなかった。

 揺らいだシンジの瞳に、みるみる涙が盛り上がり、ふちからこぼれた。

 それを拭おうともせず、深呼吸を一つしてシンジは続ける。

「一生、憎まれていても構わなかったんだ。僕はアスカを救わなきゃいけないときに救うことができなかったんだから……ううん、違うよね。僕には誰も救えない、自分自身ですら救うこともできやしなかったのに」

 ――違うっ、違うのよっ!

 心の中だけでアスカは絶叫していた。

 けれど、声には出せなかった。

 シンジの言ったことは事実だったから。

 奈落に差し伸べられたシンジの手。

 それをアスカは取った。

 だが、救いの手としてではなく、復讐の手がかりとしてシンジの腕を掴み、這いあがってきたのだ。

 傍目には、献身的なシンジの介護のおかげで、アスカが精神の魔境から立ち直ったかのように見えたかも知れない。

 しかし、それは巧妙な欺瞞だった。

 黄昏色の中で周到に練り上げられた精緻で陰惨な、アスカの密かな愉しみ。

 獲物は勿論、シンジ。

 アスカのプライドを砕き、心をかき乱した存在。

 だからアスカはふりをしてみせた。

 シンジに心を寄せる「ふり」

 シンジに甘える「ふり」

 シンジに頼る「ふり」

 ――そして、アンタの目の前で死んでやるわ!

 アスカの思い描いた自らの最期は、アスカの母親の死に酷似していた。

 やはり、あの事件はアスカの心象に深い影を落としていたと言わねばなるまい。

「……アスカ」

 シンジがか細い声で呼び、アスカは滲む涙にぼやけた焦点をシンジの瞳に合わせた。

「本当は、アスカに好かれていると思っていたかった。でも……どうしてなんだろう、判ったんだ。アスカが僕を好きになってくれるはずなんかないって。あたりまえだよね、僕はアスカの全てを否定しちゃったんだものね」

 シンジの紡ぎ出す言葉がアスカの胸に、痛い。

 氷で造られた銀針のように鋭く。

 溶岩で焼いた火箸のように熱く。

 返す言葉も見つけられず、アスカはシンジの胸を叩いた。

 酷く、弱々しく。

 シンジはアスカの手を止めることもないまま、最後の言葉を呟いた。

「もう、終わりにしよう、こんなこと。なりゆきでアスカのこと抱いたけど、本当は嫌だったんだろ……」

 ――嫌なはずなんか、ないじゃないの。

 そう、言いたかった。

 けれど言葉になんか、とてもできない。

 全部、自分の蒔いた種。

 いままでのつまらない意地と嘘とプライドのつけが、まとめてまわってきたのだ。

 ――謝るのよ、アスカ。ひとことシンジに謝ればきっと全部許してもらえる。

 それは都合の良すぎるアスカの願望。

 そしてその想いはあっさりと自分自身に砕かれた。

 ――それで許されると思う? アンタは何度シンジを裏切ったの? ううん、裏切りとも思っていないわよね。シンジのことなんか何とも思っていなかったんだから!

 ――違う、違う違うちがうちがうっ!

「違うのぉっ!」

 その一言だけを叫ぶと、アスカはシンジの首にかじりついた。

 ――お願い……判ってよぉ……

 それもアスカの勝手すぎる願い。

 だけど、いまのアスカにできることは、希うことだけだった。

 それでもシンジはなにも答えてくれない。

 シンジには答えられなかったのだ。

 ――アスカが本当に僕なんかを好きなの?

 エヴァのパイロットとしてしか、必要とされなかった少年。

 友人も少ないながらもできた。

 それを守るために戦ってきた日々。

 しかし自分のために犠牲になった存在も在る。

 その事実はシンジの心に暗い色した楔を打ち込んで消えることはない。

 そしてその後、自分を必要とする人はいなかった。

 そう思いこむことで、自分を守り続けてきた少年は他人の裸の心に接したとき、どうしたらいいのか判らなかったのだ。

 先刻、自分がアスカに裸の心を見せたことにも気づかぬままに。


 どれくらい、二人はそうしていたのか。

 アスカはなにも言えないまま、シンジの胸で泣き疲れ。

 シンジもなにも言えないまま、胸に流れるアスカの涙を感じていた。

 しかし、天井を睨んだままのシンジの瞳に困惑以外の何かが灯りはじめた。

 シンジの胸が大きく膨らむ。

 アスカもそれを感じていた。

 そして、シンジの言葉を待つアスカ。

 だが、言葉はなく、不意に背中に走った快感にアスカは打ち震えた。

 シンジの掌が優しく、白く滑らかな背中を愛撫していた。

 そっとアスカが目を開けると、間近に真摯な色を湛えたシンジの黒い瞳があった。

「本当に……後悔してないんだね?」

 それは他人におもねる問いかけではなかった。

 確実な自分の気持ちをふまえた上で、他人の気持ちを忖度する、自分が立つ地平を知った強い言葉。

 それはアスカに勇気を与えてくれる。

 胸の奥にしまい込んだ気持ちを引き出すための。

 だから…… 

「後悔なんかしてないわよ」

 涙に汚れた顔はそのままで、アスカは答えた。

 その答はシンジほど屈折してはいない。

「アンタ、バカァ……あたしは、アンタのこと……本当に、ホントに大好きなんだからねっ!」

 例え悔いが残ったとしても最後の最後に残されたアスカのプライドはそれを認めない。

 いまが幸せと思えるのならば、過去の苦痛は忘れられなくとも我慢することはできる。

 その幸せを与えてくれたのは、紛れもなく目の前にいる少年。

 だからアスカは微笑んで見せる。生まれて初めて心から愛することのできた他人に向かって。

「あたし……シンジに抱かれて、本当に幸せだと思ってるわよ」


「シンジ……シンジってば!」

 アスカの声にシンジは、はっと我に返った。

 両手で包み込んだままの、湯飲みの中の緑茶はすっかり冷めきっていた。

「ぼーっとしちゃって、どうしたのよ?」

「う……うん、アスカがここに来たときのことを思い出しちゃったんだ」

 シンジが言うと、アスカは耳まで真っ赤になってしまった。

「嫌なこと思い出させないでよっ! バカッ!」

「ごめん」

 あれから、一年。

 あの出来事が一夜の幻想に思えるような二人の暮らしだったが、それでもこのままごとのような生活が、現在の二人にとっての現実だとも認識している。

 だから、アスカは毎日ネルフに仕事に出かけるし、シンジは高校へと登校するのだ。

 人間として生きていくために。

「でも、一年なんてあっと言うまだね」

 冷めたお茶を不味そうに啜りながらシンジが言う。

「そうねぇ。こうしてみるといくら生き急いでも足りないみたい……それはエヴァに乗ってた頃よりも感じるわね」

 アスカは意味有りげな溜息を一つつくと、頬杖をついてシンジの顔をじっと見つめた。

「な……何、アスカ?」

 得体の知れない身の危険を、その視線の中に感じたシンジは、椅子ごと後ずさりしながらも訊いてみた。

「……結婚、してみよっか?」

 案の定、無茶苦茶なことを言い出すアスカ。

 しかし、いまでも大して状況は違わないと思うのだが。

 それでも、その儀式があるのとないのとでは心構えが違うのだろうか。

「な……何言い出すんだよアスカっ! ぼぼ、僕達はまだ学生じゃないか」

 どうやらそうらしい。

 動転のあまり、シンジはどこかから引っ張りだしてきたような、埃をかぶった台詞を棒読みするしかなかった。

「あたしは学生じゃないもの。ちゃんと収入だってあるし、シンジ一人くらいなら充分養ってあげられるわよ」

 口許に人差し指を立てて、茶目っ気たっぷりにアスカはウィンクしてみせる。

「やめてよ。僕にヒモになれっていうの?」

 シンジの言うとおり、アスカはシンジに給料を一銭たりとて渡していない。

 シンジが受け取ることを拒否したからだ。

 当面、二人で暮らしていけるだけの貯蓄はあったし、アスカにここにいて欲しいと言った手前、アスカから生活費を入れてもらおうとは思わないシンジだった。

 それはささやかな男の自己満足に過ぎなかったかも知れないが、アスカは素直にシンジの好意に甘え、そのほとんどを貯金へと回していた。

「嘘よ、シンジ……あたしもまだ、ママになるのは怖いもの……ね」

 冗談めいた口調に隠されていたが、それがアスカの本音。

 シンジと暮らし始めて、心の闇が吹き払われたかにみえるアスカだったが、それでも癒しきれないトラウマは残った。

 狂ってしまった母親……その自殺に自分が関係しているということ。

 幼いアスカの目の前に吊り下げられた死体。

 その光景が生々しくアスカの脳裏に映り続ける限り、この恐怖からは逃れ得ない。

「アスカ……」

 思わずシンジはアスカの手を握りしめた。

 アスカも強くその手を握り返す。

「大丈夫よ……シンジがいてくれれば」

 アスカは無理に微笑んでみせると、シンジの手を離してシンクに向かい、洗い物を始めた。

 シンジはしばらくの間、その後ろ姿を見つめていたが、やがて意を決したように腰を上げ、後ろからそっとアスカを抱きしめた。

「な……なによ、シンジ」

 突然の温もりに、アスカは戸惑ったような声を上げた。

「大好きだよ、アスカ」

 そう言って、シンジはアスカのおとがいに手をあてて振り向かせようとした。

 ぴんほーん!

 が、見事なまでに間の抜けた音が二人の間に割り込み、盛り上がりかけた二人の気持ちに冷や水をぶっかけた。

 苦虫を噛み潰したような顔を作ってシンジは力無く首を振った。その情けない顔を見たアスカは思わず吹き出してしまい、シンジの肩を叩く。

「お願いね」

「はいはい」

 不承不承アスカから離れると、シンジは無粋な訪問者の待つ玄関へと向かった。

「はーい、どちら様ですか?」

 それでも礼儀は忘れないシンジ。

 声をかけながらドアを開く。

「え……?」

 シンジの顔に惚けたような表情が浮かんだ。

 そこに立っていたのは、シンジよりも幾分大人びて見える少年だった。

 顔つきは確かに年相応なのだが、彼自身が発散する雰囲気が妙に達観しているとでも言えばいいのだろうか。

「やあ、久しぶりだね。シンジ君」

 自身の紅い瞳に合わせたのか、鮮紅色のワイドスプレッドのYシャツを無造作に素肌に着こなし、細いストライプの入った鴉色の細身のスラックスでモッズを気取った銀髪の美少年が、涼やかな声でシンジを呼んだ。

「か……カヲル君!」

 かつてシンジがその手にかけた、ゼーレから送り込まれたフィフスチルドレン「渚カヲル」

 また、最終決戦に於いては「ヒトの名を持つシト」として共にゼーレに立ち向かった友人が、あの頃と変わらぬ、けぶるような笑みを湛えていた。

「上がっても、構わないかい?」

 途切れることのない笑顔のまま、カヲルが訊く。

「うん……うんっ!」

 シンジは力一杯頷くと、嬉々としてカヲルを部屋の中に招き入れた。

 シンジがカヲルと再会するのは実に三年ぶりのことだ。

 ネルフを離れたシンジが自分からネルフへと出向くことは有り得ず、所用によって訪れなければならないときも用件のみをさっさと済ませて退出していた。

 怖かったのだ。

 かつての友人に出会ってしまうことが。

 シンジ以外のチルドレン達は、何らかの形でネルフと関わり続けていた。

 アスカしかり。

 レイしかり。

 そして、カヲルしかり。

 さらに、もう一人。

 どうしても、出会いたくない親友が一人……


「シンジぃ、誰だったのぉ?」

 洗い物を終え、人の気配に振り向いたアスカは足許が消失するような感覚に襲われた。

 そこにいたのはシンジではなかった。

「……フィフス」

 震える声と視線で、アスカは招かれざる訪問者を見つめた。

 カヲルはつかつかとアスカに歩み寄ると、その耳許に唇を寄せた。

「君が、ここにいるとは意外だったね」

 謎めいた言葉をアスカに囁いて、カヲルは微笑った。

 しかし、その笑みの中の紅い瞳はシンジに見せるそれとは違い、どこか諦観したような心のない色を浮かべていた。

「カヲル君、紅茶でいいかい?」

 かいがいしく靴でも並べ直していたのか、遅れてきたシンジは二人に目もくれず茶箪笥に向かいながら訊いた。

 傍目から見てもシンジは浮かれていた。

 無理もない。

 心の中で望み続けていた許しが、向こうから訪れてくれたのだから。

「ああ、お構いなくシンジ君。僕はすぐにでも帰らないといけないんだ」

 つれないカヲルの言葉に、シンジの顔にありありと落胆の表情が刻まれた。

「そんな……今日は泊まっていってよ、カヲル君。僕の部屋でよければだけど」

「それは、惣流さんに悪いよ。シンジ君」

 ちらりとアスカに一瞥をくれるカヲル。

 向けた視線はまるでカメラのように無機質。

 その蔑むような視線に耐えることができず、アスカは我知らずカヲルから顔をそむけていた。

 しかし、背後でそんなやりとりが行われているとは気づきもしないシンジはアスカに同意を求めた。

「ね、アスカ。いいよね?」

「え、ええ……そうね」

 アスカには、そうとしか言えない。

 ほかにどう答えようがあるというのだ。

「ほら、カヲル君。アスカもこう言ってるし」

 嬉しそうにシンジはカヲルに笑ってみせる。

 そんなシンジにカヲルは小さく肩をすくめてみせ、お手上げというように両手を開いた。

「仕方ないね、シンジ君の好意に甘えることにしようか。でも泊まることはやっぱりできないんだ。僕の行動には多数の制限がついてるからね」

 カヲルの言葉は正しく事実だった。

 元、使徒。

 現在でもエヴァを媒体とすることなしにATFを展開することのできる存在。

 そんな存在に不用意な行動が許されるはずもない。

 ネルフにおける現在のカヲルの立場は、モルモットとそう大差のあるものではなかった。

「まあ、たまにはこうやって外にも出してもらえるけどね」

 紅茶をいれながらカヲルの言葉を聞き、シンジはアスカにその言葉を確認しようとしたが、シンジの視線はアスカの瞳を捉えることができなかった。

「お茶受け、出すわね」

 取ってつけたようにアスカは言い、席を離れた。

「君が気に病むことはないんだよ、シンジ君」

「でも……」

「いいんだ。それに僕はね、いまの立場もけっこう気に入ってるんだよ。君たちリリンのことも、少しずつ判ってきたからね」

 そう言いながら、カヲルは意味有りげな視線をアスカの背に注いだ。

 シンジはその視線の意味が判らずに、曖昧な笑みを浮かべ、ティーカップをカヲルの前に置いた。

「……どうぞ」

 二人の前に茶菓子を盛った器を置き、アスカは仕方なさそうにシンジの隣に腰をおろした。

「アスカ……」

 そんなアスカを見て、ようやくシンジも気づいた。

 アスカの顔色が蒼白になっていることに。

「顔色が?」

「なんでもないわよ」

 まるでシンジがそう言うのが判っていたような素早い否定と拒絶。

 けれど、シンジは手を伸ばしてアスカの額に手を当てる。

「熱は……ないみたいだけど」

「ちょっと疲れただけだってば。料理に頑張りすぎちゃったみたい。ありがと、シンジ」

 アスカは微笑を浮かべると、シンジの手から逃げた。

 そんな二人のやりとりを、カヲルは興味深げに見つめていた。

 いや、それは観察に近いかも知れない。

 喉の奥で笑う、くぐもった笑い声が聞こえ、シンジはきょとんとした顔で、アスカは不安げな顔でカヲルを見つめた。

 その二人の視線に気づき、カヲルは笑いながら手を振った。

「ああ、ごめんよ二人とも。それにしても二人はとても仲が良いんだね」

「からかわないでよ、カヲル君」

 真っ赤になりながら、シンジはカヲルの言葉を否定しようとしたが、やにさがった目尻がそれを台無しにしていた。

「照れることはないよ、シンジ君。それに惣流さんのネルフでは見られない顔も見ることができたからね」

 カヲルを一瞬睨みつけたアスカだったが、蒼と紅の視線が絡むと悔しそうに俯いた。

 それに気づかなかったシンジは、カヲルの発言に興味を見せる。

「アスカって、ネルフではどうなの?」

「いつも凛々しいよ。真面目に仕事に打ち込み、定時には仕事を終える。残業をしないのは何故だろうと思っていたんだけどね、シンジ君と同居しているとは寡聞にして僕は知らなかったよ」

 取り澄ました顔でカヲルは言い、紅茶を啜った。

 またしてもシンジは真っ赤になってしまった。

「と……ところで、カヲル君」

「なんだい?」

「今日は、いったい?」

 さすがにこれ以上からかわれるのはシンジといえども嫌だったので、強引に話題をねじ曲げた。

「ああ、そうだったね。赤木博士に頼まれておつかいに来たんだったよ」

 そう言ってカヲルは胸のポケットから、きちんと畳んだ紙片を取り出すとシンジに差し出した。

 差し出されたその手紙を受け取りながら、その手が震えていることにシンジは気づいていた。

 赤木博士からの手紙。

 それはシンジに極度の緊張を強いた。

 E計画責任者。

 すなわちエヴァシリーズを産み出した天才科学者。それが赤木リツコ。

 その彼女が、シンジあての手紙をカヲルに託した。

 シンジでなくともエヴァがらみ、或いはネルフがらみの件だと予想できるだろう。

 しかし、その紙片を開いたシンジの表情は緊張したものから、やがて困惑へと変わっていった。

 顔を上げたシンジは、小首を傾げて呟いた。

「新年会……のお誘い?」

「僕も出ていいらしいんだが。ところでシンジ君、新年会というのはなんなんだい?」

 確かに、ゼーレにも使徒にもそんな習慣はあるまい。

 シンジは眩暈のような違和感を憶えつつも、カヲルに説明する。

「一年の初めにね、親戚とか職場の人と集まって、今年も一年宜しくやりましょうっていう、いわば儀式みたいなものだよ」

 カヲルの顔から微笑が一瞬消え、難しそうな顔をしたカヲルという世にも珍しいものが現れる。

「リリンには、変わった儀式もあるとは聞いていたけれど」

「まあ、社会的な慣習なんだ。要するに、みんなで集まってお酒を飲むのが目的なんだから」

 その台詞を聞いて、カヲルの顔に合点がいったという表情が浮かんだ。

「そうか……そうなのか。そういえば、発案者は葛城部長だと言っていたよ」

 どうやらミサトの酒豪ぶりは相変わらずらしい。

 こんな手紙に緊張していた自分がバカみたいで、シンジはがっくりと肩を落とした。

 そのとき、カヲルの右腕にはめられた腕時計から断続的な電子音が甲高く響いた。

 リュウズを押して音を止めると、カヲルは残念そうな微笑を浮かべた。

「僕の保護者が呼んでいるようだ。やはり、長居はできないようだね。それじゃあ僕はもう行くことにするよ」

 そう言うとカヲルは残りの紅茶を一息に飲み干し、椅子から離れた。

「もう、帰るの?」

 シンジの表情は遊び足りない子供のそれだった。

「今日は楽しかったよ、シンジ君」

 シンジに向かって笑いかけ、カヲルはアスカに視線を移した。

 紅い視線の先には、少しだけほっとしたようなアスカの顔があった。

 それを見て、カヲルはほんの少しだけ辛そうな顔をすると、スラックスのポケットに両手を忍ばせた。

 その姿は弐号機を操り、セントラルドグマへ侵入を果たしたときの姿に酷似していた。

 カヲルはゆっくりとシンジに視線を移し、告げた。

「……だけど、僕は最後に君を不愉快にさせなければならないようだね」

「やめてよっ!」

 椅子の倒れる大きな音。

 同時にアスカの叫び声が上がる。

「アスカ?」

「……」

 アスカがカヲルを睨み付けていた。

 その瞳はまるで蒼い炎が燃え上がったかのよう。

 真っ向からカヲルはその視線を受けとめ、不敵な笑みを口許に刻んだ。

 ようやく、シンジも気づく。

 ――何か、あったんだ。

 シンジの知らないところで、この二人に何かが。

「出てって、フィフス」

 しかしカヲルは哀しそうに首を振り、呟くように終末の言葉を吐き出した。

「惣流さんの初めての相手は僕だったんだよ……シンジ君」

 カヲルの言葉は剛雷の如くシンジの鼓膜を打ち、シンジの思考は完全に麻痺してしまった。

「な……何を言ってるんだ。カヲル君」

 そう言いながら、けれどシンジにも判っていた。

 もう、あの頃の子供ではないのだから。

 カヲルの言葉をシンジの理性は了承していた。けれど、納得することのできない感情がそれをシンジに言わせていた。

「う……嘘なんだろ、カヲル君」

 けれど、カヲルが「嘘」をつくとは思えない。

「嘘だって言ってよ、カヲル君っ!」

 シンジは全身でカヲルの言葉を拒絶していた。

「もう、やめてっ!」

 アスカの悲鳴。

 だが、カヲルの告白はそれを易々と突き破る。

「僕は、惣流さんを抱いたと言ったんだよ」

 今度こそカヲルの言葉は、シンジの心に深々と突き刺さった。

 その傷口から、シンジの心をじくじくと蝕んでいく感情があった。

 いつか、どこかで感じたことのある思い。

 ――嫉妬……なのか。

 心の中で冷静に思う部分があった。

 しかし、それとはまったく別にシンジの心を満たしきった感情がある。

 怒りがあった。

 シンジは生まれて初めて、自分の意志で人を殴ろうとしていた。

 しかし、渾身の力を込めて突き出した拳はカヲルの寸前で停止し、六角形の光が、ATFの光芒が部屋の中を満たした。

 アブソリュート・テラー・フィールド。

 かつてカヲルが「心の壁」とシンジに告げた、絶対的な防護フィールド。

 それを打ち破るには、エヴァンゲリオンでATFを展開して位相中和するしかない。

 しかし、ただの人間のシンジにそれを望むべくもない。

「すまないね、シンジ君」

「なんで……どうしてこんなことを言うんだっ!」

 シンジは初号機でしたように、カヲルの展開するATFをこじ開けようと爪を突き立てる。しかし、それは虚しく光の壁の上で滑るだけだった。

「それは、僕が言うべきことじゃない。君が自分自身で知らなければならないことだよ」

「わかんないよっ、僕にはっ!」

 絶叫したシンジに、カヲルは酷く哀しそうに顔を伏せた。

「それでも、君は判らなくてはいけないんだよ」

 カヲルが諭すように言うと、ATFの光芒が一際光り輝き、シンジを壁へと弾きとばす。

 弾き飛ばされたシンジは、テーブルを巻き添えにして壁に叩きつけられた。

 肺の中の空気が全て絞り出されるような感覚に、一瞬シンジは意識を失いかける。

「ち……くしょう」

 床に這いつくばりながらも、シンジは顔をあげてカヲルの紅い瞳を睨みつけた。

「……君が判ってくれることを、神に祈るよ」

 元使徒とは思えぬ言葉を残し、壁に打ちつけられて立ち上がることのできないシンジに真紅の一瞥を投げ、カヲルは泣き崩れたアスカには目もくれずその身を翻した。

 音のなくなった部屋に、ドアの閉まる音は痛々しいほど大きく響いた。

「……どうして……なんだ?」

 ようやく動けるようになったシンジは床を殴りつけ、誰も返すことのできない問いをぶつけていた。

「シンジ……」

 立ち上がることもできずに、だからといって問い続けることもやめられないシンジの背に、アスカがそっと手を添えた。

 しかし、シンジの瞳を覗き込んだアスカは、そこに己を焼き焦がす煉獄の炎を見ることになった。

 いまのシンジに何が信じられるというのだろう。

 またしても友人に裏切られ、アスカにまで裏切られたという思いに凝り固まってしまったシンジに。

 ――信じてたのに……

 しかし、それこそが甘えなのだ。

 いつか、加持がシンジに伝えた言葉。

「人は自分を、他人を知ろうと努力する。だから、おもしろいんだな人生は」

 おもしろいかどうかは別にしても、人が他人を完全に理解することは不可能だ。

 理解できるのはあくまで、他人が見せる一面だけなのだ。

 それをいくつか把握することで、他人の姿を自分の中に構築していく。

 それが他人を知るということなのだ。

 そのときそれが判らなかったから、シンジはこう答えたのだ。

「僕には大人の人は、判りません」

 そして、いまでもシンジはそれが判らずにいた。

 だからこそ、シンジの視線は限りなく冷たかった。

 意識しようとしまいと、瞳は心を映し出す鏡だから。

 その信じられないほど冷たい視線に曝されたアスカはシンジから顔をそむけると、何も言いだせないままに脱兎の如く逃げ出した。

「あ……」

 アスカを呼び止めようとしたシンジだったが、かけるべき言葉を持たない自分に驚き、困惑してしまう。

「痛っ……」

 アスカの背に向けて手を伸ばした拍子に、シンジの体に激痛が走り抜けた。

 その痛みは、決して体だけのものじゃなかった。

 しかし、いまシンジは我が身の痛みにただ独りで耐えるしかないことに、酷い孤独を感じるしかなかった。


 翌朝。

 まんじりともできなかったシンジは、寝不足による頭痛と吐き気を抱えて、おぼつかない足取りで洗面所に向かった。

 鏡を覗き込んだシンジは、そこに別人のような表情を浮かべた自分を見つけてしまい、名状し難い感覚に囚われる。

 ――僕は、アスカが好きなんだ。

 鏡の中にある見知らぬ顔に、言い聞かせるようにシンジは願う。

 しかし、そんな願いも虚しい。

 なぜなら、顔が思い出せなかったから。

 アスカに話しかける顔。

 アスカに笑いかける顔。

 アスカに怒ってみせる顔。

 ――どんな顔をすれば、いいんだ?

 鏡を見つめたまま、シンジは慄然とした。

 どれだけ考えても思い出せない。

 自分の顔が思い出せない。

 どんなに焦って、考えてみても普段自分がどんな表情をしてアスカに接していたのかが判らなくなってしまった。

 シンジもまた、過去のつけに悩まされているのだ。

 いまでこそ他人とのつきあいというものを憶えたシンジだが、自分の殻を打ち破れたわけではない。

 他人との関わりの距離を、測れるようになったに過ぎない。

 そのために必要な仮面を揃えたに過ぎなかった。

 仮面。

 誰もがそれを被らずに現実を生き抜くことは難しい。

 いや、それなくして人は生きてはいけない。

 しかし、それにも関わらず人がそれを意識することはほとんどない。

 一部の人間を除いて。

 だが、シンジは自分の仮面に気づいた人間だった。

 必要にも関わらず、他人に良いところを見せるための仮面をかぶり、別の自分を演出するうちに本来の精神的な意味での自分が枯死し、肉体的な意味の自分だけが肥大していく分裂質症的な傾向をシンジは自ら気づいていたのだ。

 だから、自分の顔が思い出せないでいた。

「いったい、僕は……」

 どうしようもなく、鏡の中の見知らぬ顔に向かってシンジは呟いていた。

「アンタ、何やってんのよ」

 その背中にいきなり声をかけられ、シンジは飛び上がらんばかりに驚き、振り向いた。

 そこにはアスカの姿があった。

「顔洗いたいの。使わないんなら、どいてよ」

 とりつくしまのない、冷ややかな声。

 その声はシンジに嫌な過去しか連想させない。

 以前の同居時代、お互いを知ろうとしていなかった頃の記憶。

 その頃のシンジは、他人の顔色をうかがわずに、自分の行動を決めることができなかった。

 そしてアスカはそんなシンジの煮えきらない態度に、苛立ちを募らせるばかりだった。

「ご……ごめん」

 だからシンジは反射的に謝ってしまう。

 それが自身の過去の繰り返しだということに気づく余裕もないままに。

 人はそう簡単に変われるものではない。

 どのように望んでも、それまで生きてきた方法を己の表層意識によってねじ曲げていくことなど到底不可能だ。

 人はそう望み続け、それを常に心に留めて日々の生活を続けていくことによってのみ、ゆっくりと変化しうるのだから。

 もし一朝一夕に、そんなことをできる人間がいるとしたら、それは既にヒトと呼ばれるべき存在ではあり得ない。

 シンジは二年という月日を、たった独りだけで過ごしてしまった。

 他人と触れあう機会を自ら極力避けていた人格が変化しうるはずもないのだ。

 それをシンジに求めるのは酷なのかも知れない。

 たとえアスカと再会し、自分にも人を愛することができるかも知れないという可能性に気づいたいまでも。

 譲られた洗面台に向かい、アスカは身だしなみを整えはじめた。

 そこが混乱と怯えに彩られた場所だとしても。

 シンジはアスカに何か声をかけなければいけない強迫観念に駆られて台詞を必死に探していた。

 あの頃のまま、アスカに嫌われたくない一心で。

 それが墓穴を掘る行為だとも知らずに。

「あ……あのさ、アスカ」

「タオル取って」

「う……うん」

 シンジはアスカに言われるままにタオルを手渡す。

「……あ、昨日のことだけどさ」

「なによ?」

 にべもないアスカの返答にシンジの心が揺らぐ。

 ――言わなきゃ……アスカに伝えなくちゃ……

 その動揺した心のまま、シンジは取り留めのない言葉を紡ぎ出しはじめてしまった。

「あ……その、いきなりだから驚いちゃったんだ。カヲル君があんなこと言い出すとは思ってなかったしさ……」

「だから?」

 アスカの蒼い瞳に、みるみるうちに氷の炎が宿る。

 だが、言葉を探すことにのみ必死なシンジがそれに気づくはずもなかった。

「その……ひとこと言ってくれれば良かったんだ。アスカとカヲル君の間になにがあっても僕は気にしてないから……僕は、アスカのこと信じてるから。だから、アスカも気にしないで……」

 シンジは自分の吐き出す言葉に酔っていた。

 拙い言葉にもかかわらず。

 そしてその言葉が、自分の願う虚偽に満ち満ちていることにすら気づかずに。

 べらべらと続けるシンジを冷然と見据え、アスカは冷え切った瞳を蒼氷色の刃に換えて容赦なくシンジの台詞をぶったぎった。

「そう、ありがと。遅刻しそうだから、アタシもう行くわね」

 タオルを洗濯機に放り込み、アスカはシンジに向かってそれだけを言い放つと、自分の部屋へと姿を消してしまった。

 洗面所にひとり残されたシンジは、訳が判らずに呆然と立ちつくすだけだった。

 シンジが我に返ることができたのは、アスカがヘルメットを持って部屋から出てきたときだった。

 ぎこちなく、怯えた子犬のようなシンジに、アスカは冷たい一瞥だけを下賜した。

「今日は遅くなるから。じゃあね」

 突き放すようにアスカは言うと、ドアの向こう側へと身を翻した。

「アス……」

 言いかけて、シンジはアスカの背中を追った。

 しかし残酷にも、シンジの目の前でドアは閉じた。

 その様は、まるでアスカが展開したATFのようだった。

「アスカ……?」

 残された三和土で一人ごちるシンジの声。

 それが扉の向こうのアスカに届くはずもなかった。


第二話「二人は未完成」に続く。


杜泉一矢 law-man@fa2.so-net.or.jp

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