カナカナカナカナカナカナ……
ヒグラシが奏でる、どことなくもの悲しい独唱が夕暮れ間近い空へと吸い込まれていく。
シンジの住むマンションの前は、過去の箱根を懐かしむかのように松並木に囲まれた駐車場となっていた。
だが、過去のような車の連なりが、再現されるはずもない。
そこに停まる車の姿はまばらで空白の区画が連なっている。
その寂しげな空間にシンジはただ一人、いた。
長く伸びた涼しげな木陰に腰を降ろし、赤を基調にするデュークと似たスタイルのバイクを目前にして。
その右手には、プラスティックの黒い柄を持つハゼット製のラチェットレンチが握られていた。しかしそのドイツ製の精密な歯車が立てるはずの音は、小一時間ほど前から聞かれないままだった。
不意に短い溜息を吐き出すと、シンジは茜色が近づく空を仰いだ。
手を休めていると、今朝のことが脳裏を掠めてしまうから。
かと言って、その思いから逃げようとして始めた整備に没頭することなどできるはずもなかった。
空へと向けた視線を木立越しに見える、陽の光りに漂白された街へと流してみる。
街は囲むように広がった光の乱舞の中で揺らいでいた。
芦ノ湖の小波の中に。
その対岸にぽつりと天に向かい屹立する、漆黒の尖塔が見える。
それが現在のネルフだ。
そこにいま、彼女はいる。
自分の言葉で、怒らせ、傷つけてしまった人が。
――ごめん、アスカ……
今朝からシンジは何度、この言葉を思い浮かべたろうか。
だけど、アスカはその謝罪の言葉さえ拒絶し、縋るシンジを見限った。
だからシンジは思い悩んでいた。
自分の行為が、間違っていたという事実に。
あの冷たい態度。そのわけは、おぼろげながらも判っていた。
昨晩のできごとなどに、アスカが怒っていたわけではないことを。
今朝シンジが口にした言葉にこそ、アスカは怒っているということに。
それでもシンジには、どうしたらいいのかが判らない。
――自分の心に正直でいたい……
仮初めの死から生還することのできた、あの決戦の後からシンジは思い続けていた。
自分の中に生まれた人としての正義感、或いは信念に正直でありたいと願い続けてきた。
――アスカを二度と、傷つけない。
それは自分に架した誓約のはずだった。
それがあるからこそ、自分の知らないアスカの過去を知りたがろうとする心を……殺した。
――謝ったくらいじゃ、足りない……
そのつもりがこんなことになってしまい、シンジは望まなかった結果に愕然とするしかなかった。
――どう言えばよかったんだろう……
――どうすればアスカを傷つけずに?
今朝から、何度となく思考の堂々めぐりに落ち込むシンジだったが、それから逃れようと何をしても、その事実から逃れることはできなかった。
当然だ。
何故ならそれは、既にシンジが口にしてしまった言葉なのだから。
放たれた言葉が還ることは、決してない。
それでも、これほどまでにシンジが悔恨に悩むのも無理のないことなのだろう。
アスカの「奈落」を垣間見てしまった唯一の人間は、シンジだけなのだから。
あのとき、少女の精神は真に追いつめられ、人間的存在としての限界の淵に揺らいでいた。
何もかもに脅え、震え、凍え、それゆえに全てを拒絶していた。
その荒れ果てた精神の地平へと、他者であるシンジが降り立ち、歩み続けることは生易しいことではなかった。
しかし、シンジは諦めなかった。
いままで諦めることだけで自分の人生を生きてきた少年が初めて、諦めることすら諦めたのだ。
エヴァに乗り続けていたときに、口癖のように呟いていた、あの言葉すら口にすることもなく、ただ黙々とアスカのために、自分自身にすら見捨てられた少女の為だけに看護を続けてきたのだ。
その存在をアスカが認めてくれたのは、シンジがアスカの世話を始めて二週間ほどのころだった。
それが早かったのか、遅かったのかはシンジには知りようがなかった。
けれど、あのときの舞い上がるような嬉しさを。
そして心臓を握りつぶされるような真の恐怖というものを、シンジは決して忘れることはできない。
弱々しくも「アンタ……バカァ?」と、いつもの台詞を自分にぶつけてくれたアスカ。
その蒼い瞳の中に、束の間揺らぐように現れた憎悪という名の炎。
その蒼い炎はアスカによってすぐに吹き払われたが、他者の悪意に曝され続けてきたシンジの心は気づいてしまっていた。
それは、圧倒的な絶望だった。
他者の憎しみが、自らの心を蚕食する経験はシンジといえども初めてのことだった。
シンジは自らを要らない人間と規定して生きてきた。
それゆえ、他人との接触を拒んだ。
だから憎まれることもなかった。
それなのに、自分が初めて関わりを積極的に求めた少女から返されたものは、偽りの優しさに「憎悪」を包み込んだ「想い」だった。
――アスカは……僕を憎んでいる……
恐怖に全身が粟立つのを感じながら、それでもシンジは黙って微笑った。
泣きながら、微笑んだ。
帰ってきてくれた、アスカのために。
自分に初めて返された「人の感情」のために。
瓦礫の散乱した、他に誰も祝福する者のない壊れかけた病室の中で、現実への生還を果たしたアスカを抱きしめたのだ。
――憎まれていたって構わない。
たとえアスカの望みが自分の死であったとしても、シンジはそれを受け入れるだけの覚悟をしていた。
そう、シンジは自分の気持ちがはっきりと判っていたから。
自分が好きなのは、救いたいと思えたのは、この少女だけなのだと。
そして、今もその気持ちに偽りはないはずなのに……
もう一度、シンジは深く溜息をつくと、目の前にある赤というよりは朱のマシンを見つめた。
むろんそのバイクはデューク2ではない。
アスカの愛車。BMW・ファンデューロ・ストラーダだ。
六五〇CCのシングルエンジンを搭載したデュアルパーパスマシンの純ストリート仕様。
二〇世紀末にこのバイクは誕生した。
当初はオンオフ両用の、今一つどっちつかずな印象が否めないマシンだったのだが、数年を経てオン専用というストラーダが派生した。
ストラーダもこの時代、モデルチェンジを経て現在は三代目となっている。
野暮ったい印象を拭えなかった初代、二代目に比べ、この三代目は曲線を基調としたオーガニックデザインを採用し、グラマラスかつ流麗なスタイルに一新された。
特にデザイン上で特筆すべきは、極小径のプロジェクターライトを四灯搭載したフロントフェイスにある。
この弐号機に似た顔に、アスカは一目惚れした。
外れたままになり、メッシュホースの絞首刑に処されていたキャリパーを、シンジはいま気づいたように見つめて救い上げ、そのボディにはめ込まれたAPというプレートを指でなぞった。
本来、ファンデューロにはイタリアのブレンボ社のキャリパーが搭載されている。
黄金色のキャリパーの性能は、広くGPシーンで採用されていることからも定評があった。
しかし、アスカは敢えてそれを換装していた。
APロッキード。
それがアスカの選んだブレーキだった。
コントロール性で定評のあるブレンボだったが、絶対的な制動力という点では、APに評価を譲っていた。
その選択は、実にアスカらしいと言えたろう。
絶対的な能力を重視し、ピーキーな扱いづらさは自らの技量で補う。
天才の名をほしいままにしたアスカだったが、それは周りが与えた評価に過ぎない。
そのことをいまではシンジも知っていた。
アスカは天才ではない。
確かに天賦の才はあったかも知れない。
しかし、それを伸ばすためにアスカはシンジの想像もできないほどの努力をしてきたのだ。
だからこそシンジは自分に欠けたものを持ち、努力を惜しむことのないアスカを愛しみ、傷つけたくないと思ったのだ。
――これを選ぶときも、一悶着あったものね……
知らぬうちにシンジの顔に思い出し笑いが浮かんでいた。
ただ、その笑顔はいまにも泣き出しそうに歪んでいたけれども。
それをきっかけにして、このバイクにまつわるアスカとの思い出が次々にシンジの脳裏に浮かび上がってくる。
シンジを驚かせようとして、アスカが黙って免許を取得してきた日のこと。
このバイクに決めるまでの、シンジを巻き込んだ楽しく辛い取捨選択の時間。
そして、ついに納車されたときのアスカの嬉しそうな姿。
そして一晩中、二人で走り回った箱根の峠。
――あのときは、二人揃って寝坊したんだっけ……
「あたしはメカ駄目だから、あんたが整備するのよ。いいわねっ!」
命令口調に隠された、アスカのシンジへの子供っぽい甘え。
「はいはい」
笑いながらシンジはそれを承諾していた。
仕事の忙しいアスカの休みを、整備などで潰してしまうのはシンジにとってもつまらなかったし、アスカの笑顔のためなら趣味の延長の整備くらい何でもなかったのだから。
結局、シンジの思考が収斂する先は……
「アスカの、笑顔が見ていたいからなのに……」
熱くなりかけた胸を冷ますように、シンジは呟いていた。
そうでもしなければ、とても漏れ出そうとする嗚咽を堪えきれそうになかったからだ。
そしてそれは、シンジだけの独り言のはずだった。
なのに……
「あっらー、言うようになったわねえ。シンちゃんも」
一人ごちたはずの言葉に、あらぬ方向から返事が帰ってきてしまった。
慌てたシンジの手からラチェットが滑り落ちて、アスファルトの上で固い音を立てる。
「シンジ君らしくないなあ。壊れちまうぞ」
おたついたシンジのすぐ脇に、くたびれて少し汚れた黒のローファーと黒いスラックスが現れ、節くれだった力強い大人の手がレンチを拾い上げた。
顔を上げたシンジの視線の先にいたのは、かつての自分の保護者とその伴侶だった。
「ミサトさん、加持さんも……」
加持からレンチを受け取りながらシンジは立ち上がると、ぎこちない微笑を浮かべて見せた。
笑顔と言う名の仮面に、心を押し隠すようにして。
「いったい……いつから?」
にやにやした微笑を浮かべる二人に、シンジは訊ねた。
「いつからって……つい今しがただけどぉ」
わざとらしく言い、ミサトは隣に佇む加持に同意を求める。
「声を掛けようとしたら、シンジ君が一人ごちてたってわけさ」
シンジは恥ずかしさのあまり首筋まで赤く染める……ようなことはなかった。
仮面を被り、感情を押し隠したシンジにはその程度の感情コントロールはお手の物だった。
「結構なことじゃないか。アスカとは仲良くやってるようだね」
気にするな、と言いたげな加持の台詞だった。
「ええ……まあ」
その言葉に悪意がないのも判っている。
けれどもいまのシンジには、断言することなどできなかった。
そして、アスカを慮ることもできそうにない。
自分自身を守るだけで、シンジは精一杯だった。
「ところで、どうしたんですか。こんな時間に?」
深く追求されるのを避けるために、シンジは別の話題を持ち出して自己の保身を図った。
それは意識しての行動ではない。
かつてのシンジが憶えた、処世術。
加持も、ミサトでさえもそれには気づいていたかも知れない。
だが、そのことを指摘して何になるというのだろう?
だから何事もないかのように、ミサトはシンジの問いに答えていた。
「仕事の帰りなのよ……情報公開の件でね、政府とちょーっち、やりあってきたってわけ」
「やりあってきたって……」
「別に、ドンパチじゃないからねん」
「それは、判ってますけど……」
ネルフを離れてしまったシンジが知る由もなかったが、エヴァがらみの情報公開に関してはネルフと政府の間に、相当な軋轢が生じていた。
エヴァンゲリオンに関する技術。
それは各国が欲してやまないものだった。
もし、それを手中に収めることができれば、混乱さめやらぬこの地球上に再び覇を唱えることが可能なのだから。
それを阻まんとするゲンドウと冬月の指示で、グレイゾーンを奔走しているのが加持だった。
そしてネルフ幹部の中で一番交渉事に向かないと思われるミサトが、パイプ役に選ばれたのは故無きことではなかった。
ポーカーフェイスが苦手な彼女だからこそ、政府側の油断を誘うこともできる。
そしてその後ろに、常に影のように付き従う加持が適切なタイミングでミサトを補佐し、加工済みの情報を政府側へと流すのだ。
高度に加工された情報は一見、信憑性に溢れている。しかし、その正確な分析には恐ろしいほどの手間を要するのだ。
現時点に於いては適材適所の人事とも言えるが、ミサト個人にはストレスが溜まることだろう。
だから……
「シンちゃーん。何か美味しいもの作ってくんないかしらぁ?」
ミサトが後ろ手に隠していた大きなポリ袋をガサガサいわせながら顔の前に持ってきて、それごとシンジを拝む。
「仕事は、いいんですか?」
シンジは聞き返したが、決して料理をするのが嫌なわけじゃない。
ただ単にミサト達の仕事を心配したのだ。
それに、その袋の中身をシンジはほぼ正確に洞察していたのだから。
「いーのいーの。やんなきゃなんないことは全部終わってるから。報告書を書くのは加持の仕事だしぃ」
そう言われた加持に目をやると、加持は片手でシンジを拝み意外にチャーミングなウィンクを贈ってきた。
シンジの手の中で歯車の回る音がする。
その音が歪んで聞こえたのは、気のせいだろうか?
「もう……しょうがないですね、ちょっと待っててください。あまりろくな物はできませんけど、いいですよね」
そう言ったシンジは、二人に向かって薄い笑顔を浮かべてしゃがみこむとブラケットにキャリパーを取り付け始めた。
漆黒の尖塔。
辺りを睥睨する、威圧的な建造物。
それこそが現在のネルフだ。
しかし建物こそ物々しいが以前の閉鎖的な検問所などは既になく、その前にある広く取られた駐車場に車を止めて受付さえ済ませれば、何処の誰であろうともその建物の中に入ることができるようになった。
そのような物好きは、ごく少数であったが。
その塔の中の一室。最上階に近いところにある見晴らしの良い部屋。
遮光ガラスによって日の光を制限された部屋は、蛍光灯の白々しい明かりに満たされていた。
さほど広い部屋ではないが、この部屋に常駐する人間が二人だけということを思えば、充分すぎる広さは確保されていると言えるだろう。
向き合って据えられた机が二つ。それに沿って端末も二台置かれている。
部屋の主との会談用なのか、こじんまりとはしているが座り心地の良さそうなヌバック地のソファとガラステーブルが部屋の片隅には用意されている。
さらにその奥にはちょっとした給湯設備さえ、しつらえられている。
そこでは一台のコーヒーサーバーが、白い湯気をたなびかせていた。
部屋の中には二人の女性がいた。
一人の女性は、テーブルに山積みされた書類と端末の画面とを見比べては、書類に何ごとかを書き込み、また端末を操作して別のデータを呼び出して見比べることを延々と繰り返している。
そして、もう一人の女性も端末の前に座り込み、画面を見つめていた。
目の前を通り過ぎていく文字の羅列。
しかし、その蒼い瞳は何も見つめていなかった。
いや、見つめてはいたのだ。
ただ、それはディスプレイに踊る文字ではなく、脳裏に残る残像をだったが。
黒目がちな綺麗な瞳は脅えていた。
――アタシの……言葉に……
いつもは儚げな色を湛えて、自分を包み込んでくれていた優しい瞳が自分に縋りついていた。
――アタシは……頼られるほど、強くなんかないのに……
関節が白く浮き出るほど固く手を握りしめて、必死に言葉を探していた少年の姿。
あの言葉は、彼なりに考えに考え抜いた結果だとも判っていた。
――シンジのせいじゃないのに……
その思いだけが頭の中を駆けめぐり、アスカはたまらずに二、三度強く頭を振った。
豊かな金髪がさらさらと雪崩れてアスカの表情を隠す。
しかし思いまでを、隠すことなどはできない。
――判っているのに、許せなかったなんて……
そう思うだけで視界が揺らいでしまう。
今朝のシンジが見せた姿は、過去の歪んだパロディだった。
アスカが嫌い抜いた、情けなく頼りない姿。
他人に頼り、縋る、弱い人間の姿。
そして、その姿の中にいまの自分の姿を見てしまったからこそアスカは許せなかった。
シンジを。
そして、それ以上に自分自身を。
だからシンジを拒絶した。
自分自身を拒絶するように。
けれど、シンジがそうなるように仕向けてしまったのは今朝のアスカ自身なのだ。
それが判っていたから、アスカは手酷い自己嫌悪に陥っていた。
「……シンジ」
我知らず、アスカは少年の名を呟いていた。
その声に、アスカの前に座る女性が顔を上げた。
かつて金色に染められていた髪はもとの黒い色に戻っていたが、眼鏡をついと押し上げたのは赤木リツコだった。
髪の色を元に戻したせいかもしれないが、以前の険のある刺々しい雰囲気は消え失せ、成熟した女性の持つどことなく包容力のある優しげな雰囲気を、いまのリツコは漂わせていた。
あの頃とほとんど変わらないままのミサトとは、大分様子が変わっていた。
決して老けたというわけではない。
犀利な頭脳は当時より磨きがかかり、円熟味を増していた。
モニターの向こう側にわずかに見える伏せられて散ったアスカの金髪を見て、リツコは小さな溜息をつき、再び視線を画面に戻していた。
この部屋はアスカとリツコだけの専用だ。
二人が研究を続けているのは、エヴァの技術の民生転用に関してのことだった。
全てのセクションからの研究報告は逐一ここに送られ、その情報評価をこの二人が行っていた。
リツコがこの重要な部署の責任者だというのは判る。
しかし、何故アスカがこの部署に選ばれたのか?
それはリツコのたっての願いだったのだ。
リツコは、かつての壊れてしまったアスカに自分自身を重ねていた。
一つ間違えば、自分もああなっていたはずだったから。
それから逃れるために、リツコは碇ゲンドウに縋った。
その行為が間違っていると知りながらも、リツコは縋らずにはいられなかった。
そして立ち直ってからのアスカがわざとシンジを避け、無理に一人で生きていこうとしていたからこそリツコはアスカを手許に置きたかったのだ。
その心配は杞憂に終わったわけだったが。
いまではそれだけでなくリツコは、アスカの明晰な頭脳と判断力を頼もしく思っていた。
そして、今日二人が処理しているデータはかつてフォースチルドレンと呼ばれた少年、鈴原トウジの義足に関するデータだった。
トウジ個人に関して割かれる予算は、現ネルフの年間予算の七パーセントにも達していた。
何故なら、神経系の損傷を回復するためのナノテクノロジーを、トウジは一身に受けていたからだ。
エヴァで培われた神経制御の技術とナノマシンの技術。それの転用が現状のネルフにできる最大の、世界への貢献だったからだ。
そのテストケースとして、トウジは在ったのだ。
そして一昨日から続けられていた定期メンテナンスが終了し、この部屋に各部署から続々とデータが寄せられているというわけだった。
机の上に突っ伏したままのアスカの目の前を流れていたスクロールが不意に止まり、検索エンジンが類似データを拾い上げて比較検討の対象として画面上に提供を続ける。
しかし、機械の献身的な作業も虚しく、目を向けることもないアスカが気づくわけもない。
データ提示後、一定時間入力がないと小さなビープ音を発するシステムだが、それにすらアスカは気づいていなかった。
しばらくは黙ってそれに耐えていたリツコだったがビープ音が和音を奏でるに至り、さすがに口を出さざるを得なくなった。
「……アスカ、手がお留守よ」
その間もリツコの手が決して休むことはない。
「え……何か言った?」
目尻に滲んだ涙を手の甲で拭い、アスカは顔を起こすとリツコの顔をモニター越しに見つめた。
リツコはアスカの視線を真正面から捉えると自分の耳を指さして見せた。
そのリツコの仕草に、悲しみに歪み閉ざされていたアスカの感覚が正常に引き戻される。
突然耳に飛び込んできた警告音にアスカははっとなり、慌てて画面に視線を戻した。
「ご……ごめん、リツコ! ちょっと考え事してたからっ!」
謝るのもそこそこにアスカは猛烈な勢いでキーボードを叩き始めるが、覚醒しきっていない心が指の動きを妨げる。
ミスタイプを続出してしまい、アスカの口から「ちくしょ」だの「この」だのの罵倒語が漏れる。
そんなアスカをちらりと見てリツコは溜息をつき、はたと手を休めた。
「アスカ、少し休憩しましょう」
そう言いながらリツコは腰を上げると、サーバーの方へと向かった。
「あなたは紅茶にする? それともコーヒーでかまわない?」
「……リツコと一緒でいいわよ」
ふてくされた返事をかえし、マウスを二、三度クリックして端末を凍結モードにしたアスカは、ヘッドレスト付きの椅子にぐったりと寄り掛かると、疲れたように目を右腕で覆った。
胡乱なアスカの姿をリツコは見つめつつ、部屋の片隅にしつらえられたコーヒーサーバーから泥水のように濃いコーヒーを注いだ。
「はい、アスカ」
声を掛けられたアスカは、のろのろと背もたれから身体を引き剥がし、リツコが差し出したマグカップを両手で包むように受け取った。
空調の効きすぎたこの部屋でなら暖かいそれを一口含んでから、アスカは小さく言った。
「ごめんね、リツコ……」
どちらのことについて、アスカは謝ったのだろうか?
口許に薄く笑みを浮かべ、リツコはアスカの肩を軽く叩いて謝辞を受け入れた。
パイロット時代のアスカを知っているリツコにとって、素直に他人に謝るアスカというのはいまだに実感し難いものがある。
だが、シンジの許に身を寄せるようになってからのアスカは、他人の心を慮れるようになった。
他人の心遣いを正しく評価できるようになった。
「どうかしたの、アスカ。今日に限って?」
だから、リツコはアスカに尋ねる。
きちんと自分の非をわきまえ、謝罪をするということはアスカにとっても周囲にとっても非常に良い変化と言えた。
しかし、今日のアスカの態度は妙におかしい。
朝からずっと上の空で、声をかければ一応返事はするが心はここにあらずといった風情でイージーミスばかりを繰り返している。
仕事に関して言えば、アスカはリツコ以上の完璧主義者なのだ。「データ処理なんて、仕事じゃないわっ」と公言してはばからないアスカだったが、ルーティンのそれを溜めるなんてことは、一度としてなかったのだから。
――そのアスカが今日に限って……
それでも、リツコには何とはなしに理由は判っていた。
もう二年ものあいだ、この部屋で顔をつきあわせてきたのだから。
いつもはアスカの机の隅で微笑っているはずのシンジの顔が今日は突き飛ばされて、机の上とキスしていた。
苦すぎるくらいのコーヒーを一口飲んで、小さな溜息をつきながらリツコはふと思う。
自分が経験し得なかった、甘酸っぱい、小恥ずかしくなってしまうような感情に思いを馳せる。
そして、マグカップに視線を落としたまま、物思いに耽る少女の背を見つめた。
自分に何を言ってあげられるのか、それはリツコの明晰な頭脳をもってしても判らない。
それでも、リツコは何かをしてあげたかった。
年の離れた、けれど頼りになる同僚のために。
自分の椅子をアスカの隣へと引き寄せると、リツコは腰を降ろした。
どうやって切り出したらいいものか、しばらくの間考えあぐねていたリツコだったが、やおら切り込んだ。
「シンジ君と、何かあったのね?」
余りに唐突な質問にアスカの肩が震え、マグカップに小さなさざ波が立った。
リツコは二人がちょっとした喧嘩をしたくらいにしか考えていなかった。
だから、あっさりとアスカに尋ねることができた。
自分のしたことが、アスカを追い込んでいたなどとはリツコに知る由もない。
だから、返ってきた疑問の言葉に、リツコは要らぬ動揺を強いられることとなった。
「フィフスって……どんな人間?」
ぽつりと、力無く返されたアスカの疑問に、リツコは面食らった。
「な……渚…君?」
現在、リツコは渚カヲルの保護者という立場にあった。
フィフスチルドレン。
渚カヲルの処遇には、その存在を知る立場にあるネルフの全員が頭を痛めていた。
カヲルの行動は制限すればよいことだが、法的、人道的に問題有りとカヲルの正体を知らぬ方面からの糾弾がいつ来るとも知れなかったからだ。
カヲル自身はその制限を自ら守り、誰に迷惑を掛けることなどなかったが。
かと言って再び、葛城ミサトに預けるわけにもいかなかった。
既に結婚し、家庭を築いたものにこんな大きな養子を取らせるわけにもいかない。
一時は冬月が御稚児さんとして引き取る……などというまことしやかな噂が乱れ飛んだりもした。
そのとき、リツコが名乗りをあげたのだった。
その要請はあっさりと叶えられた。
リツコであれば研究対象が近くにいれば何かと都合がよいだろうし、使徒としてのカヲルの監視役にも適任であると思われたからである。
「渚君……彼は、いい子よ。とても」
そして、一年以上彼の世話をしてきたリツコにはアスカにそう告げるしかなかった。
「そういうことを訊いてるんじゃないわ!」
強く頭を横に振って、アスカはリツコの言葉を否定した。
その憎しみすらこもった強い否定に、リツコはアスカを問いたださずにはいられなかった。
「……アスカ、昨日彼となにかあったの?」
ゆうべの件を、リツコが知るはずもなかった。
リツコの許に戻ったカヲルは、さっさとベッドに潜り込んで眠ってしまっていたから。
リツコの他意のない問いに、アスカの横顔は凍りついた。
具体的には話せなかった。
たとえ、過去のことが周知の事実であったとしても、自分の過ちを自ら語ることなど、簡単にできることではなかった。
「前にね……」
ぽつりと、それだけを前置きしてアスカは続けた。
「ねえ、リツコ……フィフスには心があるの? 人を思う気持ちとか存在してるの……あのバカ、よりによって……」
そこまでだった。
たったそれだけで、アスカの心は焼き切れそうなほどの怒りと羞恥に曝され、行き場を失った。
蒼い瞳にも、小波が揺れた。
それを堪え、心の暴発さえも堪えて、言葉は途切れた。
リツコは、そのアスカの悲哀と赴く先を知らぬ憤りに彩られた横顔を見つめ、まだ、この少女が十八になったばかりだということを思い出していた。
どんなに明晰な頭脳を持とうとも、どんなに辛く昏い途を辿ってきたのだとしても、まだこの少女の精神は成長途上に過ぎないということに。
そして、その認識はかつてアスカとカヲルの間になにがあったのかを思い出させていた。
三年前、まだリツコがカヲルの保護者となる前にカヲルはネルフ本部内に設置された個室に独りで住んでいた時期があった。
仕事で家に帰れなくなると、アスカがその部屋で寝泊まりしていたことは周知のこととなっていたのだ。
――わたしの、ミスね……
カヲルを使いとして、シンジの許に送ったのはリツコだった。
良かれと思ってしたことだったが、結果的にはミスに違いない。
だから、リツコは責任を感じる。
そして、このうちひしがれた少女の心に答えなければならないとも感じた。
手にしていたマグカップを机に置くと、リツコはアスカの肩に手を置いて諭すように話し始めた。
「アスカ……彼は、カヲルは全き善とでも呼ぶべき存在だわ。そう、まさに我々にとって彼の存在は使徒そのものなのよ」
「善……?」
リツコの語る内容に、アスカは疑わしげな視線を向けた。
それでもリツコは続けなければならなかった。
アスカのために。
そしてなにより、カヲルのためにも。
「彼はわたしたちにとっての存在の鏡なのよ」
「存在の……鏡?」
「そう。彼はわたしたちが良かれと思って隠すことや、忘れようとすることを彼自身の知り得る範囲でそれを白日の下に曝すのよ」
「な……なんなのよ、それ?」
アスカは狂人でも見るような顔でリツコを見つめていた。
蒼い視線が助けを求めるように虚空を泳ぐ。
しかし、リツコの顔には真剣な表情しか浮かんでいない。
確かに、受け入れがたい話ではある。
〈存在の鏡〉
人外の者でなければ、決してなり得ない心の鏡。
それに投射された人の心は、どうなるというのだろうか?
カヲルの心に投射された人の心。
昨夜であれば、映し出されたのはシンジの心。
それがカヲルのATFを発動させたと言うのならば、シンジの抱いていた心がシンジ自身を拒否したということなのだろうか?
その事実がアスカを惑わせる。
シンジはシンジ自身を信じていない。
――あんなに他人に優しくできる奴が、自分自身を信じられないまま生きているっての?
そのことに思い当たり、アスカの心に絶望的な暗雲が拡がる。
――それじゃ、シンジは……
その先は思うことも嫌だった。
アスカは激発した。
そうしなければ、自分の抱いた嫌な予感に心を押し潰されてしまいそうだったから。
「じゃ……じゃあ、フィフスの言うことは全てが正しいわけぇ? あたし達のすることはみーんな間違ってるってリツコは言うわけっ!」
「落ち着いて、アスカ」
逆上しかけたアスカを一言で諭し、リツコはコーヒーを啜った。
「それは違うのよ、彼も神ではないわ。正しかろうと間違いだろうと彼は裁くことはないの。ただ『在れ』と告げるだけなのよ」
「在れ……?」
そのたった一言が、惑乱しかけたアスカの心を掴んだ。
「そう。自分の想いを、自分の心を偽らず、人間としてそこにいて欲しいと彼は望んでいるだけなの」
淡々とリツコは告げた。
そこには嘘も誇張もなかった。
学者特有の持って回った言い回しもない。
リツコの言葉がアスカには、にわかに信じられなかった。
その意味がではなく、リツコがこういった観念的な言葉を発しているという事実が信じられなかったのだ。
アスカはリツコの顔を見てさらに驚愕した。
リツコの瞳に輝くものが宿っていたからだ。
「リツコ……」
「わたしも教えられたわ、彼にね。MAGIシステム、憶えてるわよね?」
アスカは頷いた。
忘れるはずもない。
ネルフのネルフたるゆえんは、あのスーパーコンピューターシステムに支えられていたのだから。
「女と母と科学者の三つの人格……いつの間にかわたしも自分のことをそう考えるようになってたわ。わたしは母にはなれそうもなかったけれどね。
でも違うのよ、それは人がそう見ているだけで常に自分の中は一人なのよ。人格を分割して考えれば人を理解することはたやすくなるわ。それでも自分で自分を止揚することは意識上では可能でも無意識下では不可能なのよ……そこまで諭されてしまったら人にできることは何だと思う、アスカ?」
アスカは首を振った。
まだ、判らない。
けれど答にならない想いが心の奥底で渦巻いていることだけは判っていた。
エヴァに乗るがために小さい頃の記憶を自ら封殺し、パイロットの自分自身をプロデュースし続けた少女にそれが判らぬ道理はない。
ただ、言葉にできないだけなのだ。
答のないアスカを見つめ、それでもリツコは続けた。
「自分を愛することしかできないのよ。ナルシズムやエゴイズムではないわよ。在るがままの自分を受け入れて、そこから初めて高みを目指すしかないの。他人と共にある自分を自覚しながらね」
知らぬうちに、蒼の瞳からも涙がこぼれていた。
決してまだ、理解はできていない。
けれどもリツコの言葉が真実だと悟ったから。
たとえそれがリツコにとっての真実だったとしても、アスカの心もまた震えていたのだ。
だから、涙がこぼれる。
自分を許すということは、自分に負けることではないと初めて知ったから。
だから、アスカは一つだけは理解した。
シンジの在り方が間違っていることに。
己を許さずに、ただひたすらに誰かのために在り続けることによってのみ自身の存在を許す少年。
それは人間的存在として不自然だ。
人は矛盾した存在だが、その矛盾を意識しても自身を肯定することによってその存在を正当化することができる。
しかし、シンジはそれすら自らに許さず、他者の影に潜んでのみ生きてきた。
――だから、フィフスは……
そのアスカの思考は、リツコの続ける言葉によって途切れた。
「カヲルはね、わたしに女として、科学者として、そして母としての全てを教えてくれたわ」
わずかに頬を染めリツコは、大きく息をついた。
その姿を見て初めてリツコとカヲルの関係に、アスカは気づいた。
「リツコ……まさか!」
「ふふ……認めたくなかったけれどね。わたしはカヲルが好きよ、愛してるわ」
以前のリツコならば決して口に出さなかったであろう台詞。それを臆面もなく言ってのける、いまのリツコ。その少しだけ恥じらうような笑顔はまさに女であり母でもある慈母の微笑みだった。
「アスカ……」
リツコはアスカを呼ぶと、その顔に指を滑らせ涙のあとを拭った。
「わたしはね、母になんてなるつもりはなかった。でもね、彼のためにその役割を果たすのなら、それもいいと思う……いいえ、そうありたいのよ、わたし自身がね」
そう言って、リツコはアスカをその胸に抱いた。
普段であれば、こんなことをされたら烈火の如くアスカは怒ったろう。
けれど、いまはリツコの豊かな胸に抱かれて、静かに響く心音に耳を傾けることに抵抗を感じなかった。
「心臓の音……落ち着くわ。子供みたいね」
甘えるように、アスカはリツコの胸に顔を埋めたまま呟いた。
「人は誰でも子供のままなのよ。ただ、心の隠し方や耐え方が上手になるだけ」
アスカの甘えを見抜いたのか、それでも優しくリツコはアスカの頭を抱きしめた。
「初めて……リツコのこと、尊敬するわ」
「あら……ずいぶんね」
二人は笑う。
それは忍ぶような笑い声だったけれど、二人の、本当の心からの笑い声だった。
「お邪魔するよ」
そのときスライド式の自動ドアが開き、意外な人物が顔を覗かせた。
カヲルだ。
昨日の今日だと言うのに、アスカがいないはずのないこの部屋に平気で足を踏み入れるとはさすがに人外の者と褒めるべきか。
しかし自分の視線の先に抱き合う二人の女性の姿を見たカヲルは、ひきっと笑顔を凍らせた。
「ほ……本当にお邪魔だったようだね」
言うべき言葉を失い、しどろもどろになったカヲルはじりじりと後ずさり、そこから逃げ出そうとしていた。
そんなカヲルをアスカは呼び止めた。
「待ちなさいよ、フィフス!」
強く、意志を込めた言葉でもって。
「な……何だい、惣流さん?」
動揺したままのカヲルが訊き返す間も与えず、アスカは風を巻いてカヲルの眼前に殺到していた。
アスカとカヲルの顔が触れあいそうな至近ですれ違い、直後、風を纏った何かが目にもとまらぬ勢いで突き出される。
カヲルの顔に僅かな驚きの色が現れ、それが瞬時にひしゃげた。
アスカの渾身の右拳が叩き込まれ、カヲルはドアの向こう側へと吹っ飛ばされていた。
「何を……」
椅子から腰を浮かせかけたリツコを、カヲルの声が制した。
「平気だよ。リツコ」
けれど、殴られた頬を押さえ、よろめきながらドアの向こう側から戻ってきたカヲルの姿はけかなり痛々しいものだった。
「殴られるというのも、痛いものだね。まさか拳骨が飛んでくるとは思わなかったよ」
そう言うと、カヲルはアスカに向かって微笑んだ。
「当たり前よっ、このバカッ! 殴る方だって痛いんだからねっ!」
カヲルを殴り飛ばした右手を振りながら、アスカは答えた。
「これで貸し借りなしよっ、カヲルッ!」
少し照れたようにそっぽを向きながら言い放つアスカの態度に、カヲルの顔にさらなる笑みが広がっていく。
「な……なに、にやにや笑ってんのよっ! アンタのそのしまりのない顔が嫌いなのよっ!」
うっすらと染まってしまった頬を隠すように、アスカはつっけんどんに言い返してカヲルに背を向けた。
「君は……驚くほど強くなったね。心を偽らないリリンがこれほど強いとは思わなかった。僕のフィールドが何の役にも立たなかったなんて」
そのカヲルの言葉はアスカを驚かせるに値した。
「あんた、ATFなんて張ってたの?」
昨夜、シンジが破れなかったATF。
それを、自分が生身のまま何を考えることもなく破っていると言う事実が。
「張ったよ。しかし君の……惣流さんの心に中和されてしまった。あの瞬間、君の心と僕の心は同じ事を考えていたってことさ」
「同じこと?」
「シンジ君のことと……感謝の気持ちさ」
また笑顔を浮かべようとしたカヲルだったが、今度ばかりは腫れてきた顔の痛みにしかめっ面を作るしかなかった。
「まったく……あんた達は」
見かねたリツコがついにカヲルの手を引いて椅子に座らせ、その腫れ上がり始めた頬に湿布薬を張り付けた。
「カヲル。あなたはもう少し表現の仕方を学ばないと、いつか殺されるわよ」
「それも、いいけれどもね……」
かいがいしくカヲルの面倒をみるリツコの背を見ているうちに、アスカはだんだんやってられなくなるのとともに、心の中でシンジのことが頭をもたげ始めるのを覚えていた。
――アタシ……行かなきゃ……
そう、急がなくてはならなかった。
シンジのために。
今度は、自分が何かを為さなくてはならなかった。
「リツコ、ちょっと時間いい?」
そして、それを為すためには自分だけの力では無理だということをアスカは知っていた。
だから、二人を連れて行かなければならなかった。
シンジの許へと。
「何処へ行くの?」
「ケイジ」
アスカの答は短いものだったが、それだけでリツコには理解できた。
そこに誰がいるのか知っていたから。
「行ってらっしゃい。今日はもう上がって構わないから」
「ありがとう、リツコ」
礼を述べて駆け出そうとしたアスカの背に、カヲルの声が掛けられた。
「シンジ君に、よろしく伝えてくれないか?」
アスカは振り返り、仁王立ちに立つとカヲルに指を突きつけてきっぱりと言った。
「アンタ、バカァ? もう一発殴られるのを、覚悟しときなさいよっ!」
シンクに手を突っ込んで、シンジは何枚もの小皿を洗っていた。
そんな羽目になったのには理由がある。
シンジはあのとき「大したものはできない」と言った。しかし、抜け目のないミサトは自分でもつまみのタネを買い込んできていたのだ。
酒蒸しにしてもらうつもりのアサリだの、しぎ焼き用の茄子だの、唐揚げ用の鳥肉だのと。
おかげで、シンジは台所に立ちっぱなしとなってしまっていた。
幸い、加持が手伝ってくれたおかげでさほどの労力は要しなかったが。
やはり、加持家の主婦業は加持が一人でやることとなってしまったらしい。
すぐ後ろのリビングのソファからは、規則正しい寝息が聞こえてくる。
その寝息を立てているのは、一人でピッチを上げて自爆したミサトだった。
ダイニングのテーブルでは、ようやく落ちつくことのできた加持が一人で日本酒をちびりちびりと飲っていた。
その加持は食器を洗うシンジの後ろ姿を何とはなしに眺めていた。
やがて、洗い物を終えたシンジはエプロンで手を拭きながらテーブルへと戻ってきた。
「加持さん。もう少しおつまみ要りますか?」
訊ねるシンジに、加持は手を横に振って見せ、シンジに座るように促した。
――それにしても、板についちゃったなあ。
向かいの椅子の背にエプロンを引っかけるシンジを見て、加持は微苦笑を浮かべた。
「なに、笑ってんですか?」
いまの自分の仕草が、加持の笑いを誘ったことなどシンジには到底思いつかなかったろう。
それほどシンジにとって家事は自然なこととなっていた。
「なんでもないよ、シンジ君……それより折角、男二人になったんだ。ゆっくり飲もうじゃないか」
と加持は一升瓶を持ち上げて見せた。
「僕……未成年ですよ」
酒の味を知らぬわけではないが、特にそれが旨いと思ったこともないシンジはそう答える。
「保護者同伴」
そう言って加持は自分の胸を叩く。
「それに、男二人で一人が素面なんて話がしづらいからなぁ」
判るような判らないような言い訳の裏にある、自分と飲みたがっている加持の気持ちをシンジは察していた。
「それじゃ、少しだけいただきます」
椅子に座ると、シンジは先刻までお茶を啜っていた湯飲みに加持の酌を受けた。
少しだけ、と言ったにも関わらず加持はシンジの湯飲みをいっぱいにしてしまう。
「加持さん……」
「まあまあ」
シンジは湯飲みを情けなさそうに見おろし、宥めるように手を振る加持を見て思った。
――加持さん、ミサトさんに似てきた……
なみなみと注がれたそれに、形ばかり唇をつけてシンジはソファにだらしなく横たわるミサトを心配げに見つめながら言った。
「……ストレス、溜まってるみたいですね。ミサトさん」
「ああ、使徒を相手にしていたときとは違うよ。人間だからな、今度の相手は。自分の立場もあるが、相手の立場もある。相手の面子を立たせつつ、こっちの要求を通していく……葛城の性格には、ちょいと辛い仕事かもな」
「どうして、ミサトさんは今の部署に?」
「無論司令の抜擢もあったが、基本的には彼女自身が選んだんだ」
「……そうですか」
そう呟くと、シンジは酒を、ずず……と啜った。
自分自身を追いつめるような立場に敢えて身を置くミサトの強さに羨望を覚え、未だに世間や立場、人との関係から逃げ回るしか能のない自分の卑小さを思い知らされたような気がして、シンジは一抹の辛さを感じていた。
「まあ、葛城がこうやって矢面に立ってくれるおかげでネルフは存続を許されているわけだ」
それを感じるからこそ、ミサトが矢面に立たねばならない理由をシンジは訊ねずにはいられなかった。
その理由を、加持が知っているのかどうかを。
「ネルフってそんなに大事なものなんですか? 使徒はもう来ないし、ゼーレだって消滅したじゃないですか? それなのにネルフだけは存在してる。いまのネルフの存在意義って一体何なんですか?」
そして、エヴァももはやこの世にはないのだ。
なのに自分の立場は、未だにチルドレンのままなのだ。
その事実もシンジの神経に鑢をかけつづけていた。
シンジの台詞にきょとんとした加持だったが、やおら頭をかきむしると破顔一笑した。
「いやはや、シンジ君にそんなことを訊かれるとは。もはや、ネルフに存在意義なんてないんだよ。ただし、公的にはだがね」
「私的には、あると?」
本当はここまでで、シンジは加持が全てを納得ずくで生きていることが判っていた。
けれども、子供っぽい感情の激発がシンジを駆り立ててしまっていた。
「それは言わなくても判るだろう? 君ならば」
確信の瞳でシンジに問いかえす加持。
その加持の問いかけは、シンジを対等の位置に置いた言葉だった。
もはや、シンジには加持に訊くことはできなかった。
「……判ります」
言われずともシンジには判っていたから。
ネルフに縋らなければ生きてゆけない人々。
ネルフに関わってしまったが故に、二度と普通の生活に戻ることの叶わなくなった人たち。
ここにいる二人にしても、昨夜自分に手紙を送ったリツコにしても、そして父も母もここを離れては生きていけないのだ。
彼らの自由は、この小さな世界でしか保証されないのだから。
「だから、俺はここを守る仕事を選んだんだ……スイカも作れるしな」
最後に冗談めかしてみせて、加持はくいっと御猪口を空けた。
「ま、一杯あけなあ」
湯飲みを持ったまま黙り込んでしまったシンジを励まし、加持は次の一杯を手酌で満たした。
シンジはぐいっと半分ほどをあけて、熱い溜息をついた。
顔が火照り、気持ちが高ぶる。
思わず、シンジはぽつりと言ってしまう。
ずっと心に押し込めていた、けれど誰にも問うてはならないはずの問いを。
「それでも……僕には判らないんです。本当に生きていていいのか」
一瞬だけだが加持の瞳に鋭いものが疾走った。
すぐにそれは消え失せたが。
そして、いまのシンジがそれに気づくことはあり得なかった。
「おいおい、シンジ君」
言いかけた加持を自嘲めいた微笑で制してシンジは続けた。
「判ってます。ただ、僕は間接的にとはいえ人を殺しました。友人も傷つけてしまいました。それでも生きていくことに固執する自分がときどきとても情けなくなるんです……」
うつむき、湯飲みに視線を落としてしまったシンジの姿を見て、加持は続けたかったシンジの語られぬ言葉を汲んだ。
「俺は自分の手で人を殺したこともあるから……何とも言い難いんだが。生きるしかないんだよ、人は。あさましかろうが、何だろうが自分が生きていたい理由がある限りはね」
「ミサトさん……ですか?」
うつむいたまま、シンジが訊ねた。
「それだけじゃないが、理由の一つではあるよ。ときにシンジ君、君はアスカを抱いたかい?」
唐突すぎる加持の質問。
「何を……」
と顔を跳ね上げて言いかけたシンジだったが、加持の垂れ目が意外なほど真剣なのを見て、素直に頷くにとどめた。
「そうか……アスカのことを好きかい?」
加持の質問は続く。
何の意図があるのかシンジには知る由もなかったが、加持の言葉にシンジは素直に従った。
命令というわけではない。
加持の瞳が真剣だったから、シンジは従うのだ。
「はい」
「ふむ……人に惚れるのは瞬間なんだよなあ。それじゃ、アスカを愛してるって言えるかい?」
その質問にシンジは答え損ねた。
「愛」なんて使い古され、限りなく陳腐化してしまった言葉のはず。
それが、こんな状況であまりにも真剣に口の端にのぼった瞬間に、容易に口に出せる言葉ではなくなってしまっていた。
――アスカを、愛してる?
答えることのできないシンジに、加持は呟く。
また、御猪口をあけながら。
「人を愛するってのは、結構難しいんだよ。その人とずっと接して、その人を見つめ続けて許しあうことを少しずつ覚えて……そうして、ようやく愛って奴は育つんじゃないかな……俺はそんな風に思っているよ」
「許す……ことですか?」
「そうさ」
と短く言うと、加持は男臭い笑みを口許に刻んだ。
「シンジ君。アスカと喧嘩したんだろう、それもかなり本気の」
ここまで正確に洞察されてしまったら、もはやシンジにできることは肯定することだけだった。
「あれを……喧嘩って言えればいいんですけれど」
シンジは少しずつながら、湯飲みをあけつつ昨晩起こったことを全て加持に告げた。
「なるほどね……」
相変わらず無精髭の残る顎に手を当てて、加持はふうむと唸ってからシンジに訊ねる。
「シンジ君。君は先刻、アスカが好きだって言ったよな」
「はい」
「それじゃあ、そのアスカが既に他の男……まあ、今回の場合は渚君だったわけだが、抱かれてしまっていたわけだ」
「……はい」
加持の追求は容赦がない。
「その事実を君は知ってしまったわけだが、君は嫉妬したかい?」
「しますよ、それくらい」
――だから、僕はカヲル君を殴りたかった……
けれどそれは言葉になり得ず、シンジの眉間に深い皺を刻んだに過ぎなかった。
「……うん。じゃあ君はどちらに嫉妬したんだろう? アスカか、それとも渚君かい?」
声を出しかけたシンジは、それを思わず飲み込んでいた。
――僕は、怒っていた……けど……
「言いかえようか。渚君に抱かれたアスカが君を裏切っていたと感じたのかい? それともアスカを抱いた渚君が君を裏切っていたと感じたのかい?」
あの瞬間、シンジは怒りに我を忘れていた。
そしてカヲルに拒絶され、心が冷えた。
さらにアスカに心配され、心が揺らいだ。
だから両方とも当てはまるような気がした。
「両方だと……思います」
けれど、加持はその答えに首を横に振った。
「確かに、そうなのかも知れない。だけど、それだけじゃないだろう? 渚君は君に知ってもらいたかった。知らなければならないと言ったんだろう? ならば君はそれを知らなくちゃならないだろう?」
判らないと、シンジが拒絶したカヲルの言葉。
それを加持はいま、蒸し返そうとしていた。
「だから、判らないんですっ!」
抉り込むような視線を投げつける加持に心の奥底までを見透かされているような気にさせられ、シンジは思わず声を荒げてしまっていた。
「本当にそうか?」
そんなシンジに臆することもなく、訊ね返した加持の瞳は今までシンジが一度も見たことのない色を湛えていた。
それは酷く冷たい光りを放っていた。
背筋に冷たいものを感じるほどの眼光。
ほとんど殺気と同質と言えるものを、いまの加持はその身に纏っていた。
「いつまで、甘えれば気が済むんだ」
加持の言葉に感情の色はなかった。
しかし、それがシンジの胸に突き刺さった瞬間に言葉は爆炎となり氷刃となってシンジの身を焼き、切り刻んだ。
「ぼ……僕にどうしろって、加持さんは言うんですか?」
それが、シンジの最後の抵抗だった。
そして、加持にそんな抵抗が通用するはずもなかった。
両の掌を組んで、かつてのゲンドウのように居住まいを正した加持は、脅えるシンジの惰弱さを苛烈な言葉で断罪した。
「いつまで判らないふりを続けるんだ、シンジ君。きみは判っているはずだ。自分で判っていなければ答のない問いなど、問えるはずはないんだぞ」
その口調は恐ろしいほどまでに感情を抑えた、静かなものだった。
しかし、その裡に秘められているはずの感情は、シンジがいままでに聞いたどんな罵声よりも激しいものを予感させる。
――これが、加持さん……
シンジは、初めてこの男の本質に触れたことを感じていた。
諜報戦の最中に身を置き、熾烈な現実を生き抜いて自らの目的のためには自分の身命も問わなかった男。
加持リョウジの一面を初めて知った。
いつもの、宿六とまで言われてもへらへら笑っていられる男の別の一面。
隠匿されていた面を見せつけられ、シンジは加持に恐れを抱くしかなかった。
だが、その一方で冷酷としか思えない加持の言葉の正しさに、自分の心の一隅に光りを当てられていることも感じていた。
――そう……僕にも判っているんだ。
シンジが問い続けることを止められなかったのは、誰かにそれを正しいと認めて欲しかったから。
けれど、それを認められてしまったら、シンジはさらに先へと進まなければならなかった。
人との、絆を求めて。
それはアスカのことのみならず、父と母のことも友人のこともだ。
かつてシンジが関係を持ち、いま途切れてしまった人々との関係性を再び求めることだった。
しかし、シンジにとってそれは恐怖と同義だ。
人との繋がりを自ら断ち自分の殻に閉じこもり、上辺だけのつきあいですませられる人との関係で自らの心を糊塗していた少年には辛すぎる選択だった。
言い切ってしまうのであれば、いまのシンジはエヴァに乗っていた頃よりも、いじけた存在なのかも知れない。
エヴァがあった頃、シンジは自らが要求されていることを認識できた。
だが、いまでは誰もシンジを要求しないのだ。
そんな状況下で、生温いだけの人間関係にシンジが逃げ込もうとするのは無理からぬことだった。
アスカ、彼女のことは別だ。
アスカは自らシンジの中へと入っていったのだから、彼女の存在がシンジに影響を及ぼすことはできない。
しかし、昨晩からの一連のできごとがアスカをシンジの中から引きずり出した。
本当に等身大の女性として、アスカは初めてシンジの眼前に現れたのだ。
だから、シンジは自分の顔を見失った。
シンジの退路は加持によって全て絶たれた。
もはやシンジは何も言えず、何もできず、ただ唇が白くなるほど噛みしめてそこに立ち尽くすしかなかった。
加持はそのシンジの顔を見つめ続けていた。
依然、その瞳は厳しい光を帯びてはいたが、その中には、弟を見つめる兄のような優しさが確かにあった。
だから、加持は手を差し伸べる。
加持自身は、答を出すのに三十年以上生きねばならなかった。
いま目の前で苦悩する少年は自分の半分の年で、同じ問題に直面し、生きねばならないのだ。
「シンジ君……俺にも君がアスカに対して抱く思いは判るよ」
と言って、加持の視線は一瞬ソファで寝こけているミサトに注がれた。
たったそれだけの仕草が全てを物語った。
シンジも、それだけで加持の意を了承した。
――他人の昏い心を覗いたのは、僕だけじゃないんだ……
シンジはうなだれていた。
自分自身のどうしようもない傲慢さに気づかされて、己を恥じていた。
その姿で加持にも判ったはずなのに、敢えて加持は続けた。
「アスカが辿った道のことは、俺もミサトから聞いてる。だから君がアスカに接するのに気を遣ってしまうのも判るさ。しかし、夕べのことがなければ君は普段と変わらずにアスカと接していたろう?」
今朝の自分の姿が、シンジの脳裏にまざまざと思い出される。
――自分の顔が……思い出せない。
「だから、アスカは怒ったわけだ。でも、そのことでアスカが怒ったってことはけっこう重要なことなんじゃないか。アスカは君にそのことを知って欲しかったんじゃないのかな?」
「まさか?」
そんなはずがない。という思いがシンジの顔を上げさせていた。
「いや、アスカも苦しかったんじゃないかな。君に隠しごとを続けることが。意識の上では判らないだろうが、無意識のうちに苛まれ続けていたんじゃないかな。俺は心理学者じゃないから言い切ることもできないがね」
――かくしごと……
その言葉は、アスカと再会した頃にシンジを引き戻していた。
――あの夜、僕はアスカに嘘をつけなかった。
そう、全てをぶちまけたシンジを、アスカは受けとめてくれたはずではなかったか。
そして、全てをぶちまけたアスカを、シンジは受けとめようとしたはずではなかったか。
「僕は……」
言いかけるシンジを、加持は言葉で押し止めた。
これ以上、シンジを追いつめてしまうのは加持の本意ではなかった。
ただ、道を指し示すだけのつもりだったから。
「あやまることさ、シンジ君。誠心誠意謝ることだけだよ、できることはね。人に許して欲しければ、まず謝ることから始めるしかないだろう……それを認めてくれない人もいるかも知れない、けれど罪を償う最初の一歩は謝ることしかないじゃないか」
加持の言葉は、楔となってシンジの心に突き刺さった。
いや、心にではなくそれを覆っていた殻に。
「頭を下げて御免なさいって言えばいいんだ。それから償いのことは考えればいい。もし、償う方法が判らなければ当人に訊けばいい。
とにかく自分を否定しちゃ駄目だ。反省はするべきだ。後悔だってしてもいい。けれど、自分を否定してしまったら、そのさき何もできなくなっちまう。何かをしてあげたいのなら、まず自分を肯定して何ができるかを考えなくちゃな」
加持の語る言葉はとてつもなく強く正しく、そして優しい。
しかし、その殻はそう簡単に打ち破れるものではなかった。
人の言葉で、心の殻を砕くことなどできやしない。
自分自身が、願わねば。
「少し……考えます」
ようやく、シンジは言葉を絞り出すと加持に背を向け、ダイニングから重い足取りで出ていった。
一人残された加持は、空になった猪口に酒を満たして、また口許に運んだ。
シンジが逃げたとは、思ってはいなかった。
一人で考えるべき時間も、確かに必要なのだ。
そして、いまシンジに必要なのは独りで考える時間と、独りで暴き出す自分の心と向き合うことだった。
加持は、祈るように目を瞑り猪口を重ねる。
「加持ぃ……あんた、酔った勢いで説教垂れたわねぇ」
眠そうだが、割としっかりした口調の言葉がソファから投げかけられた。
「お……葛城ぃ、目、覚めたのか?」
すっかり普段の調子に戻って、加持が訊ねる。
「先刻から覚めてるわよ。あんた本気で言ってたの、あんなこと」
ミサトの口調の端々には、そこはかとない怒りが感じとれる。
それが判っていながら、加持の返答は普段と変わらない。
「まあな。一般論を借りたけどさ、何も言わずに判れってのは酷だろう?」
「そりゃ……そうだろうけど。シンちゃんはアンタみたいなワイヤー製の神経とチタンの面の皮と違って繊細なのよ、それをあんな風に追いつめなくたっていいじゃないのよ」
あまりとも言えるミサトの暴虐な比喩を苦笑で受け流し、加持は続けた。
「そうだとしてもさ。つまずいたとしてもシンジ君は自分で決められるよ。いまは俺がいたから、彼は俺を頼りにしたけどな」
ソファから小さな溜息が聞こえた。
「……そうね、アスカがいるんだものね」
こころなしか、ミサトの台詞は少し寂しそうにも聞こえた。
それはいままで面倒を見てきた弟に、恋人ができた姉の心境に近いものだったかも知れない。
「そういうこと……これからもヨロシクな、葛城」
そんなミサトの心を知ってか知らずか、加持はいつも通りのお気楽な口調で告げた。
「今夜のお相手だけは勘弁願いたいものね」
だから、ミサトの口調もついついいつもの通りになっていた。
「またまたぁ」
「違うわよ、ばぁか。あんたこのままシンジ君置いてくつもり? きっちり責任はとんなさいよ! それと明日までに提出の今回の報告書ね」
「あ……」
硬直した加持を後目に、ミサトは掛けられたタオルを首もとまで引き上げると小さくあくびをして、再び夢の中へと潜り込んでしまった。
自分の部屋に戻ったシンジは机の前に座り、その上につくねた携帯電話をじっと見つめていた。
その瞳は、もはや揺らぐことはなく、何かをただ一心に見据えていた。
――僕は、ずっと嘘をついていた。
シンジが見据えていたのは、己が心。
卑怯で、惰弱で、臆病で矮小な自分自身。
しかし、いまシンジはそれを肯定しようとしていた。
開き直るわけじゃない。
事実をありのままに受け入れ、それを糊塗するのではなく、自身でそれを正そうとしていた。
――だから、僕は人に優しくしていた。
それは、人に優しくされたいから。
しかし、それは偽りの優しさ。
見返りを求める下衆の優しさだったから。
見返りを求めるな、とは言わない。
人に優しくされたいときも、生きている間には必ずある。
誰かに縋って、優しく抱きしめて欲しいと願う夜は必ずあるのだ。
だが、見返りを求め続けることで人生を構築するのならば、いつの日か必ず偽り続けた心に破綻を来す日が来ることだろう。
それを、加持との会話で悟ることができた。
――僕には、何ができるんだろう?
と考えながら、シンジは携帯電話を見つめ続ける。
――だけど、いまの僕には何もできない。具体的なことは何一つとして。
そう、まだ徒手空拳の少年のシンジにできることなど何もないのだ。
――できることは、謝ることだけ……
シンジは電話を取り上げると、何を見ることなくボタンを押した。
電話番号は、指が憶えていた。
何度、こうやってボタンを押したろうか。
けれど相手が出るのを待ちきれず。或いは恐怖に声をさらわれてしまい、一度として喋ることなく電話を切るしかない夜を何度もシンジは越えてきた。
呼び出し音が耳の中に響く。
一回、二回……
それとともに動悸が激しくなるのを深呼吸することでなだめる。
三回、四回……
「はい、鈴原です」
明瞭な声がシンジの耳に届く。
ただ、その声は幾分か幼さを残した女の子の声だったけれど。
その少女が誰なのか、一瞬シンジには思い出せなかった。
「あ……あの、碇と申しますが」
少しばかり緊張しながらシンジが名乗った途端に受話器の向こうの声がひっくり返った。
「えっ、シンジさんっ!?」
その甲高い声に、鼓膜を撃ち抜かれたシンジは思わず受話器を耳から離していた。
「あの……トウジ君は?」
少し耳から電話を遠ざけ、シンジは電話の向こうの少女に尋ねた。
シンジの問いに、少女の声のトーンが落ちた。
「ごめんなさい、お兄ちゃんは一昨日からネルフに検診に行っちゃって……」
すまなそうに言う少女の声を聞きながらも、僅かな安堵がシンジの心にあったことは否めない。
そして、その安心感がシンジに大事なことを見落とさせていた。
「そうですか……じゃあ、ネルフへかけてみます。すみませんでした」
そう言って電話を切ろうとしたシンジだったが、少女の必死に振り絞った声に呼び止められた。
「あの、シンジさん……少し、いいですか?」
震えたように響く少女の声に、シンジは耳を澄まさずにはいられなかった。
少女の声は、かつてアスカが上げた声無き叫びと酷く似通っていたのだから。
「構わないよ」
少しだけ打ち解けた声をシンジは作り、少女が話し始めてくれるのを待った。
待つことには慣れていた。
アスカが目覚めるのを、シンジは待つことができたのだから。
やがて、少女がぽつりと言った。
「あ……あの、お兄ちゃん淋しがってます」
「え……?」
疑問を差し挟む間もなく、少女は堰を切ったように話し始めていた。
「お兄ちゃん、何にも言わないけど、ときどき綾波さんにシンジさんのこと、それとなく訊いてるんです……もし、お兄ちゃんと会わないのがわたしのこととか、お兄ちゃんの脚のせいなら気にしないでください。
前に、お兄ちゃんがシンジさんのこと殴ったの、わたし知ってるから……わたしの脚は、もうすっかり良くなったし、お兄ちゃんの脚も大丈夫だって話でしたから……
わたしがこんなこと頼んだの知ったら、きっとお兄ちゃん怒ると思うけど、お願いですシンジさん。お兄ちゃんに会ってください」
呆然とシンジは兄思いの少女のいたいけな告白を聞いていた。
――謝るべき人が、ここにもいたんだ……
エヴァに乗った自分が傷つけた少女は、とうにシンジのことを許してくれていた。
それどころか、さらなる願いを抱いてシンジと兄との絆が甦ることを望んでいる。
我知らず頬を伝う熱いものを、シンジは感じていた。
そしてそれが後悔の涙であるとともに、歓喜の涙でもあるということに思いを至らせることのできた自分に驚いてもいた。
「ごめん……ごめんね」
知らぬうちに口をついて出たシンジの謝辞を、少女は拒絶と勘違いしてしまう。
「会って……もらえないんですか……」
幼い絶望を滲ませて、少女の声は昏く翳った。
慌ててシンジはそれを遮った。
「ちがうよ……違うんだ。僕は今日、トウジに一言謝りたくて電話したんだよ。だけど、君にも謝らなくちゃいけなかったのに、僕は君のことを忘れていたんだ。
トウジに殴られるようなことを……僕はしたっていうのに……」
言い始めたはいいが、高ぶる自分の心が抑えきれずに、シンジは漏れそうになる嗚咽を堪えるのに懸命だった。
それを救ってくれたのは、少女の一言だった。
「わたしのことなんか、どうでもいいんです」
その返答は、至極当たり前のように響いた。
どうでもいい。
かつて、シンジが自分の生き方を正当化するために使っていたフレーズ。
けれど少女の口から発されたその言葉は、微塵も拗ねたところがなく清々しささえ感じる言葉となってシンジの耳に響いていた。
そしてシンジは教えられたことを知った。
自分よりも年下の少女に。
許しとは待つものではなく、自ら乞うて初めて与えられるものだということを。
そして、人に「許してあげる」と言われることだけが、決して許されるということではないことを。
「……ありがとう」
「シンジさん?」
シンジの葛藤を知らない少女は、感謝の言葉に戸惑う。
自分の何気ない一言が、どれほどシンジを勇気づけたか知らないまま。
そしてシンジは言葉を続けることができる。
数年来、不在のままだった友誼を取り戻すために。
「一度、遊びに行かせてもらってもいいかい?」
受話器の向こうで少女が息を飲み、歓喜の言葉と感情が爆発した。
「は……はいっ! お兄ちゃんも喜んでくれると思いますっ!」
シンジは身体全体で少女の喜びを受け取る。
今度ばかりは耳から電話を遠ざけるような真似はしなかった。
少し、耳は痛かったけれども。
その僅かな痛みは、かつてトウジに聞いたことのある少女の名前を思い出させてくれてもいた。
「……フユミちゃん、だったよね?」
「は……はいっ!」
少女は自分の耳を疑っていた。
自分の名前をシンジが知っていたことに。
それは彼女にとって、とても嬉しいことだった。
「また、電話するから……ありがとう」
「ぜひ遊びに来てくださいねっ! わたしも待ってますからっ!」
「うん、それじゃ」
期待に弾んだフユミの声を耳に残して、シンジは通話を切った。
――僕も、楽しみにしてるから……
たった数分間の、やりとりに過ぎなかった。
けれども、それが確たる人との絆の一歩なんだということをシンジは実感していた。
溢れる涙を堪えることもなく、シンジは深い満足を憶えながら椅子の背にもたれ掛かっていた。
――僕も、まだ自分のために泣けるんだ。
という思いを抱きながら。
「……やっと、半分終わったのね……(虚笑)」
「お疲れさま、アスカ(嬉笑)」
「まったくよ。この作者バカじゃないの? 泣きのシーンばっかりで話が進まないったらありゃしない。おまけにもう一本はこのバカとの絡みなんかさせられるし……ま、いいわ。しばらくはストックが無いって頭抱えてたから。ホラ、さっさと帰るわよバカシンジ」
「あ、アスカ先に帰っててよ。僕まだちょっと仕事が残ってるんだ」
「しごとぉ? ギャラ分はちゃんと仕事してるじゃないのよ」
「宣伝だってさ」
「……いいの? そんなことして?」
「判らないけど、言うだけならいいんじゃないかな? 駄目ならDARU様が削除してくれるだろうし」
「それもそうね。それじゃ、さっさとやっちゃいなさいよ」
「うん……えーと、夏コミケ無事スペースが取れました。16日(土)東1ホール、L−42aで氷風竜Ice&Wind Dragon。17日(日)東5ホール、ヌ−12bでSounds of Singlesで出ています……って」
「判らない人には、ほとんど暗号よね。それだけ?」
「うん、終わり。帰ろうか?」
「……シンジ……アンタ、杜泉に何か貰ったわね」
「え……(汗)」
「何貰ったのよ! このアスカ様を差し置いてえっ!(怒)」
「ミ……ミッシェルのアナログ盤」
「……なにそれ?」
「あ……あはは、アスカが知らなければ、いいんだ。レコード、ただのレコードだよ」
「……杜泉。アタシにはなんにも寄越さないとはいい度胸よねぇ(堪怒)」
「あ……」
「絶対に後悔させてやるからねっ!あのバカっ!(大激怒)」