Sounds Of Singles

Kazusi Moriizumi Presents


新世紀エヴァンゲリオン アナザーアフターストーリー

<CANDY HOUSE>

第三話「僕の心を取り戻すために」


(Baby,please go home -wave'2018-)


 金属とコンクリートで形作られた大伽藍。

 かつて、ネルフに勤務していた人々はその場所を「ケイジ」と呼んでいた。

 だが、いま、その檻の中に収容されるべき物体はなかった。

 限りなく人に似たモノ。

 そこに安置されるべき物体「エヴァンゲリオン」は、あの日歪んだ月光の中で永劫の時の向こう側に消えていった。

 あとに残された、エヴァのためだけに作られた施設は転用することも適わず、ただ、そこにそれがあったということを示す墓標としての姿を曝すだけだった。

 しかも、最終決戦時に於いて一時的に天蓋が抜けたがために、水量豊かな芦ノ湖の水がジオフロントには大量に流れ込み、ネルフにおける旧施設はほぼ全域に渡って水没する羽目になっていた。

 もちろんジオフロント深部にあったこの場所も、水没を免れるはずもなかった。

 だが、それから三年を経て排水作業もかなり進捗し、ようやくケイジの一部までがその姿を再び現していた。

 そして今、エヴァを拘束するために使われていた施設であるアンビリカルブリッジ上には忙しく立ち働く人々の姿があった。

 彼らは思い思いの潜水装備に身を包み、足下に黒々と広がる暗い水の中へとその身を投じていた。

 まるで、何かを探すように……

 実はその通り。

 彼らは発掘しているのだ。

 旧ネルフの遺産を。

 ここの復旧作業は日本政府にも通達されぬまま、極秘裏に行われていた。

 最終決戦時、初号機の放つ光に包まれた旧本部施設は全てが灰燼に帰した……と、いうことにされていた。

 そのときこの一帯が世界から消滅し、再生された世界だということを知るのは、あの瞬間まで生き残っていた人間だけだったから。

 実際、エヴァンゲリオン全機が失われたことは政府に対する牽制としては非常に効果的だった。

 政府側がネルフに対して行った軍事的な介入行動も、皮肉にもそれを裏付ける結果となってしまっていた。

 それゆえここの存在は、ネルフ内部でも極一部の職員以外は知らないまま秘匿され続けていた。

 現在ここでサルベージ作業についているのは、平時に席のなくなった作戦部や保安部関連の部署にいた人間達だ。

 彼らにも思うところがあったのだろう。

 ネルフに所属していたことを問わず、新しい職務を提供すると言う政府側の申し出を断り、ここに残ることを望んだのは決して少なくない人数だった。

 サルベージ作業は六サイクルのローテーションで組まれ、昼夜兼行での突貫作業が続いていた。

 その作業環境の厳しさゆえ、女性職員の姿は極めて希だったが、その中にあっても一際異彩を放つ存在が毎日のように姿を見せていた。

 青みがかった銀の髪に紅い瞳。

 白を基調にしたウェットスーツに包まれたしなやかなラインを描く姿態は、否応なく彼女の過去の姿を見る者全てに惹起させていた。

 その少女は手すりから身体を半分乗り出すようにしながら、各所に据え付けられた投光器の照明が乱反射する水面をじっと見据えたままでいた。

 時折、紅い視線がふらりと動くが、それは彼女の左手にはめられたお世辞にも似合うとは言えない男物のごついダイバーズウオッチにだけだった。

 その姿は、誰かを待ち続けるけなげな犬のようでもある。

 それは全ての物語の始まりの少女。

 かつて、ファーストチルドレンと呼ばれていた少女。

 綾波レイだ。

「大丈夫だよ、レイちゃん」

 一途に水面を見つめ続けるレイの肩を、軽く叩く者がいた。

 その優しい感覚に、レイは首を巡らして声の主を振り仰いだ。

 紅い視線の先には、ウェットスーツの前をはだけ、贅肉を削ぎ落とした筋肉質の胸元を露わにした男がいた。

 癖のない長い茶髪を輪ゴムでまとめ、少しだけシニカルに見える微笑を口の端に浮かべていたのは青葉シゲル「元」二尉だった。

 彼もまた、ここに残ることを選択した人間の一人だった。

 シゲルの言葉に小さく頷いたレイだったが、シゲルを見つめた紅い瞳は直ぐに水面へと戻されてしまった。

「マコトの奴が一緒なんだから、彼も前みたいなムチャはしないって」

 その姿に苦笑を浮かべ、自分の言葉に説得力のないことを少し空しく思いながらも、シゲルにはレイがこれほどまでに相棒を心配する理由も判っていた。

 いま、暗い水の中にいるレイの相棒が初めてここに来たとき、無茶な作業を行った彼はエアボンベの残量を読み違え、酸欠死の一歩手前まで行きかけたのだ。

 そのときの相棒がレイだった。

 救出された二人は何も言わなかったが、ともに責任を感じあっているのは周囲の人間にもひしひしと伝わっていた。

 そしてそのような組み合わせで、作業をさせてしまった自分たちにも責任を感じていた。

 だから、この時間帯の作業の監督官でもあるシゲルとマコトは互いに子供達を見守ろうとしていた。

 ただし、どちらがどちらを受け持つかで彼らの間で一悶着はあったようだったが。

「なら……いいけど」

 ぽつりとレイの唇から言葉が零れ落ちた。

 それが水面で弾けたかのように、レイの視線が彷徨う辺りに気泡がたゆたった。

「帰ってきたわ」

 短く告げるレイの言葉を受けて、シゲルは帰ってくる二人のためにタオルを用意すると、その片方をレイに手渡した。

 手渡されたそれを、レイは強く握りしめていた。

 自分でも知らないうちに。

 その姿を見て、シゲルは何とも言えない気分に襲われる。

 ──無事に帰って来いよ……

 それを何度思っただろう。

 この作業に二人が関わるようになって、はや半年が経つ。

 その間、シゲルはレイの「祈り」を見つめ続けてきたのだ。

 ──マコトの奴も……

 そう、マコトも「彼」の同じような姿を見つめ続けているのだろう。

 見る間に気泡は大きくなり、それを追うように黒い頭が二つ水面に浮かび上がった。

 二人はレギュレータを吐き出しながら、ブリッジの側面に溶接された即席の梯子に手を掛けて水の中から上がってきた。

「駄目だったか?」

 訊きながら、シゲルは日向マコトにタオルと眼鏡を手渡す。

 マコトは黙ったまま首肯すると、彼らしくもない荒々しい手つきで濡れた頭にタオルを掛けた。

 それは、不甲斐ない自分を隠すような仕草だった。

「すまんの……綾波」

 そして、もう一人帰ってきた、短く刈った黒髪の少年。

 酸欠で命を落としかけた少年が、レイに謝った。

「……いいの」

 それだけを言って、レイはトウジにタオルを渡した。

「あ……」

 何かを言いかけようとしたトウジだったが、結局それを口にすることはないまま、レイの手の温もりが残るタオルを受け取ると疲れたように冷たい床の上に座り込んだ。

 事実、トウジは疲れ果てていた。

 諦めたりはしていない。

 そんなことは、決してない。

 けれど、毎日ここへ来て、全く結果の出ない行為を続けることに疑問を感じるなというのは、十七才の少年の心にはあまりに酷だったろう。

 その横顔に宿る陰影は、いつしかシンジと同質の色を漂わせるようになっていた。

 ──今日も……か。

 しばらくそんなトウジを見つめていたレイは、不意に跪くとトウジのすぐ後ろにその居場所を定めて、じっとその背を見つめるのだった。

 機材の片づけを始めていたシゲルとマコトは、そんな子供たちの姿を盗み見ながら深い溜息が漏れそうになるのを堪えていた。

「あれさえ見つかれば、本当は後はどうだっていいんだけどな」

 溜息の代わりに、一人ごちるようにシゲルが言い、その台詞にほっとしたようなマコトが後を受けた。

「そうだな、あれだけでいいんだよな」

 二人の視線はどちらともなく、静かにトウジを見守るレイの横顔に注がれる。

 そうなのだ。サルベージ作業ということで様々なものを回収しているわけだが、その中でもとりわけ発見、回収しなければならないものがあった。

 それはダミーシステムの資材資料一式だった。

 発見、回収、そして完全な焼却処分と破壊。

 それをしなければ彼女を、綾波レイをこの世に唯一の存在たらしめることは出来ないからだった。

 ここでの作業に従事する人間全員の思いは、その点に於いて完全な一致を見ていた。

 自分たちの命は「生かされた」命だと判っていたからだ。

 子供達に救われた命。

 それを無駄に使うことは、大人達に出来ることではなかった。

 それを知ってしまってなお、自分の都合だけで生きようとする人間は少なくとも既にこの場には存在しない。

 だからこそ、自分たちに出来ることを精一杯にやっていたのだ。

 しかし、旧ネルフ本部は無情なまでに広く、使用できるテクノロジーと肉体の限界に阻まれて遅々として作業が進まないことに焦りも感じていたのだ。

 そして、今日も大した進展のないままに作業が終わろうとしていた。

 ブリッジの上が俄かに慌ただしくなり始める。

 交替時間が近づいていた。

「また、明日やな」

 そのざわめきに促されたように呟きながらトウジは立ち上がり、自分の使用した機材を片付け始める。

 その表情には、先刻までの影は微塵も無い。

 きっちりと気持ちを切り替え、トウジは立ち上がっていた。

 レイも無言のまま、トウジに倣う。

 それを見て、大人の二人は愚痴などこぼす必要のないことを知った。

 そう、子供達は諦めることを知らないのだから。

「そうだな、トウジ」

 シゲルは言いながら、大きく伸びをして気分を晴らした。

 いつの間にか気分が鬱屈していた。

 そんなことをしている暇など無いのは判っていた筈なのに。

 だから、シゲルは努めて明るく振る舞う。

「それじゃ、二人とも上がっていいよ。後は俺とシゲルでやっとくからさ」

 マコトの思いも同じだった。

 落ち込んでいる暇など無い。

 自分の持てる時間は、僅かで、限りがあるのだから。

 マコトはそう言ったが、二人は揃って首を横に振った。

「んな、水臭い。マコっさん、最後までつきあいますがな」

 トウジの顔に笑顔が戻っていた。

 そして、トウジのこの性格は皆に愛されていた。

 ずぼらで無頓着、ついでに傍若無人と思われがちなトウジだったが、自分の領分と決めたことはきっちりとこなし、他人のことも思いやれるだけの気遣いも見せていた。

「いーから、さ」

 シゲルがマコトのあとを受けて続けた。

「あんまり根を詰めるなって。ここのところ連日じゃないか」

 クリップボードに挟み込んだシフト表を取り上げながら、シゲルは言う。

「明日は、休みだな。いくらバイトったって、限度があるからな、たまにはゆっくりと骨休めしな……そうだな、今夜あたりレイちゃんに夕食でも奢ってやれよ」

 シゲルの言葉に、トウジの顔が真っ赤に染まった。

「な……な……なんちゅうこと言いますねん。わしと綾波はそんなんちゃいますねん!」

 ぶんぶんと勢いよく首を横に振ってトウジは否定したが、シゲルとマコトはニヤニヤするばかりだった。

 実際トウジはかつて自分に想いを寄せてくれていた少女、洞木ヒカリにきっぱりと別れを告げていた。

 だからといって、レイに告白をしたわけでもなかったが。

「奢ってくれるの、鈴原君?」

 レイは、ほんの少し変わった。

 本人自身が気づいているのかどうかは定かではなかったが、周囲の人間はその変化がトウジのもたらしたことだと気づいていた。

「わたし……ラーメンでいいから」

 レイの台詞を聞いた二人が吹き出した。

「……あのな、綾波」

 情けなさそうに呟いたトウジの姿は、誰が見ても我侭を言われて困っている恋人の姿にしか見えなかった。

「これで決まりだな!」

「連れてってあげなよ、トウジ。こっちは俺たちに任せてさ」

 憮然としていたトウジだったが、このまま言い争っても勝ち目は薄いと判断したか、二人に頭を下げるとレイを促して、ブリッジから出ていった。

「……ちょっと、いじめすぎたかなぁ?」

 眼鏡を外し、目尻に滲んだ涙を指で拭きながら全然そうは思ってはいない口調で、マコトが言った。

「たまには、いいだろ。本当にこの頃あの二人ここに来過ぎなんだよ。まだ、高校生なんだぜ、あの二人は。せっかくエヴァって呪縛から抜け出せたってのに……」

「そうだな……」

 そのとき、立てられたエアボンベに引っかけられていたシゲルの携帯電話が軽やかな音を立てた。

「はい、青葉ですが?」


 コトン、と小さな音を立てて携帯電話が机の上に戻された。

 深い溜息を吐き出したのはシンジだった。

 その吐息が意味することは何だろうか?

 後悔か、それとも安堵か?

「僕は……」

 呟きかけ、シンジはやおら立ち上がると自分の部屋を後にした。

 部屋を出たシンジは、まっすぐに洗面所へと向かった。

 今朝、自分が招いた破局の現場へと戻った。

 ──僕は……僕でしかない。

 明かりをつけて、鏡の中に写る自分の顔をシンジは見据えた。

 涙に濡れて充血した瞳。

 良く言えば繊細な、悪く言えば神経質そうな顔立ち。

 見慣れた顔だった。

 朝に鏡の中に見つけた、誰だか判らない顔ではなかった。

 ――これが、僕の顔なんだ。

 シンジは笑顔を作ってみせる。

 鏡の中の顔は泣き笑いのような笑顔を形作る。

 わざとらしい、笑顔だった。

 けれども、それもシンジの顔なのだ。

 どんな顔であっても、それが自分の顔なのだ。

 作った表情であろうと、無意識に浮かべる表情であろうとそれが浮かぶのが自分の顔ならば。

 その事実を受け入れて、目を閉じて俯いたシンジは勢いよく水を出し、何度も何度も顔を洗ってから洗面所を後にした。

 ダイニングに戻ったシンジは、加持の背を見つめて脚を止めていた。

 加持は先程と変わらぬ姿で、一人静かに杯を重ねていた。

 その背に、シンジは自分に長らく不在だった「父」の姿を見る思いだった。

 シンジがゲンドウの背を見たのは、誰も眠らない墓地での別れ以来だった。

 どうしていま、他人である加持の背に父の姿を見ることになるのか、戸惑いながらもシンジはおぼろげに理解していた。

 結局、他人に縋ることなしに人は生きていけないのだと。

 あれだけ辛い言葉を、自分のために吐いてくれた加持。

 字面だけを取れば、それは断罪の言葉でしかなかったかもしれない。

 しかし、シンジは加持の「声」を聞いたのだ。

 その声は、間違いなく自分の背を優しく、そして力強く押し出そうとする「父」の手だったと理解していた。

 黙ったままシンジは加持の向かいに腰を下ろし、空のまま置かれていた加持の猪口に酒を注いだ。

 加持もまた黙ってそれを受け、口許に運んだ。

 沈黙のままに、時間がゆっくりと二人の間を過ぎ去っていく。

 かつてなら、シンジはこの沈黙に耐えることは出来なかったろう。

 だが、いまのこの沈黙が無為な時だとはシンジに思える筈もない。

 テーブルの上に落としていた視線を、ゆっくりとシンジは加持の顔へと運んだ。

 それに気づいた加持も、同じように視線を上げると口許に微笑を刻んだ。

 その微笑に促されて、シンジは言葉を紡ぐ。

 言葉がなくても伝わる思いはある。

 いま、確かにシンジの思いは加持に届いているはずだった。

 しかし、だからこそ敢えて言葉にしなくてはならない思いもあるのだ。

「加持さん……僕……」

「君の答えは、見つかったかい?」

 言いかけたシンジを制するように、加持が言葉を差し挟んだ。

「……答えじゃ、ないかも知れません。でも、自分が……今までの、自分が間違っていたような気がします」

「シンジ君、人生に間違いなんてないんだ。自分自身が後悔をするか、しないか。ただ、それだけのことなんだよ」

「それなら、僕の人生は後悔の連続ですね」

 自嘲めいた笑みが、シンジの頬に浮かぶ。

 その大人びたほろ苦い笑顔を見つめながら、加持は目の前の少年が大人への階梯を一歩踏み出したことを知った。

「俺だって、そうさ……シンジ君、そんな今までの人生を君は許せるかい?」

 だから、加持はシンジに同意した。

 悔やむことのない人生など、人にはあり得ないのだから。

 そして、問う。

 シンジが、自分の中で確たる答に至ったことを確信したから。

「許します」

 きっぱりとシンジは答えた。

 自分を許すということは、無批判に過去の自分を肯定することではない。

 過去の自分と向き合い、自分の犯した罪と対峙して、それを正すこと。

 それが、自分を許すということなのだ。

 それを、シンジは知ったのだ。

「そうか……話の腰を折ってすまなかった。しかし、それならなおさら君の言葉は取っておくべきだ。君が愛している人のためにもな」

 加持の言葉に、シンジははっとしていた。

 シンジには判った。敢えて加持がアスカの名前を出さなかったことに。

 先刻は認めるのに戸惑った言葉。

 けれど、いまならあの蒼い瞳を前にしても言えるだろう。

 不思議と照れることもなく、シンジは胸の奥底からふつふつとわきあがる彼女への想いを静かに受けとめていた。

 ならばこそ、シンジは加持に伝えなければならなかった。

 一言だけ、感謝の言葉を。

「ありがとうございます」

 と、だけ。


 そしてシンジはいま一人椅子に座り、アスカの帰りを待ち侘びていた。

 心の中には様々な思いが渦巻いていたが、その表情は意外なほどに穏やかだった。

 すでに加持とミサトの姿はない。

 気を利かせた加持が、手すきの部下をタクシー代わりに呼んでいた。

「職権乱用だよな」

 と、酔いつぶれたミサトを肩に担いだ加持はシンジに笑顔を残して去った。

 その笑顔を思い出しながら、シンジは腰を上げた。

 ──加持さん……か。

 初めて出会ったときから、カヲルとは違った意味で加持はシンジに警戒心を抱かせなかった。

 それは、加持が人との距離をよく知っていたからだ。

 その距離を知るために加持が辿ってきた道は、シンジに計り知ることなどできなかった。

 ダイニングの真ん中に立ったままのシンジの顔に、苦笑が浮かんだ。

 ──だから、アスカも……

 そうなのだろう。

 だからこそアスカも加持に惹かれ、あれだけ慕っていたのだろう。

 自分が知らない、ほかの理由があったにしろ、だ。

 その認識は少なからぬほろ苦さを伴って、シンジの臓腑に落ちた。

 けれど、その苦みをシンジは嫌な物だとは思えなかった。

 ミサトが残したエビスを一本だけ冷蔵庫から取り出すと、それを片手にテーブルに戻る。

 生まれて初めてシンジは自分のためだけに、そのプルタブを引き起こした。

 パシュッ!

 と、小気味のいい音を立てて開いた缶に口をつけ、ぐいっと飲む。

 苦い……けれど。

 他人に勧められるまま飲んでいたときには苦みしか感じなかった液体が、いまは何故かとても喉に気持ちがいい。

 心と、同じだった。

 理由の無い苦さは、辛い。

 けれど理由のある苦みならば、人はそれを知ろうと、理解しようとするのだから。

「なんか……美味しいや」

 そう言うと、シンジは熱い吐息を漏らして、テーブルに顔を伏せた。

「アスカ……」

 シンジの唇から、愛しい人の名がまろびでた。

 けれど、それ以上の言葉が紡がれることはなかった。

 そのときにはシンジは安らかな寝息を立てていたから。


 ケイジへと向かう直通の地下通路。

 と言えば聞こえはいいが、かつてのリニア用のトンネルを再利用した資材運搬路。

 かつてのような電力供給が行われなくなったトンネルは、奈落へと堕ちていく一本道のようにも思える。

 所々に高性能の夜光塗料でなにがしかの表示が描かれてもいるが、その浮き上がる朧な光は、このトンネルの不気味さを一層際立てる役割しか果たしていなかった。

 その暗い路に、光が一つ走っていた。

「なんだって、こんなに暗いのよっ!」

 静まり返った闇の中で、少女の悲鳴にも似た叫びが響きわたる。

 疾走する光は、連絡移動用に使われている共用スクーターのヘッドライトだった。

 スクーターの上で金の髪を風になびかせ、頼りないライトの光に目を凝らして、きびしい瞳で闇の先を睨み付けているのはもちろんアスカだ。

 スロットルを握りしめた右手は、全開の位置から微動だにしない。

 とは言ってもバッテリータイプのモーター駆動車のため、せいぜいがとこ五十キロも出ないのだが。

「ったく、こんなんで来るんじゃなかったわっ!」

 毒づいたところで、このポンコツになりかけたスクーターが速くなるわけではなかった。

 それでも、言わずにはいられなかった。

 彼らのシフトタイムが終わって、既に二十分が過ぎようとしている。

 何とか、彼らが帰ってしまう前に逢わなければならない。

 最終決戦時に於いて、旧ネルフで使用されていた通信網は戦略自衛隊にズタズタにされていたし、新ネルフの通信網を旧ネルフに繋ぐわけにもいかなかった。不法に行われているサルベージ作業を政府に気取られるわけにはいかないのだ。

 そのうえ、連絡を取ろうにもあの二人は携帯電話など持ち歩こうとしないタイプだったため、直接逢う以外に連絡の取りようもなかった。

「今時、携帯持ってないなんて骨董品じゃない!」

 毒づいても仕方ない、と判っていながらも焦る気持ちを抑えられずに言ってしまったアスカの視界を不意によぎる光があった。

「?」

 ──錯覚……かしら。

 そうではなかった。

 再び対向車線にぽつりとライトの明かりが浮かんだ。

 あまり、大きな明かりではなかった。

 その光は、一つだけ。

 輸送用に使われているトラックや、人員輸送用のマイクロバスの明かりではなかった。

 尋常でない速度で、相手は走っていた。

 軽く百キロは越えているだろう。

 その相対速度に幻惑され、アスカはその光を思わず見つめてしまっていた。

 その途端相手のライトがいきなりハイビームに切り替えられた。

 強いハロゲンライトの光がアスカの目を灼く。

「なっ……何よっ!」

 反射的に顔を背けて、アスカはアクセルを戻しブレーキを握りしめていた。

 打ちっ放しのコンクリートの埃にまみれたとてつもなくグリップの悪い路面。

 ろくな性能も付与されていないスクーター用の安物タイヤが、その上で踊らないはずもない。

 神経を逆撫でするような軽い音を立てて、両輪が滑る。

 目を閉じたままながらも、咄嗟にアスカは左足を突き出して自身に有利なスライド体勢を作り上げ、見事なカウンターを当てつつスクーターを停車させた。

 転倒せずにすんだのは、偏に卓越したアスカのバランス感覚によるものだったが、だだっ広い道のおかげもあった。

「なんなのよ……いったい?」

 網膜に残光が乱舞する目を瞬かせて、凄まじい勢いで近づいてくるバイクの音にアスカは耳を澄ませた。

「シングルの音……よね?」

 近づいてくるバイクが立てる音に、アスカは聞き憶えがあった。

 4ストシングルの小排気量の音。

 高回転域まで遠慮無く回しきることの出来る単気筒エンジンと言えば、オフローダーに使われるツインカムヘッドを持つエンジンの類だ。

 そこまでアスカが推察したときには乗り手の声が届くところにまで、そのバイクは近づいていた。

「おーい、アスカちゃーんっ!」

「青葉さん……」

 アスカが乗り手の名を呟いたときにはもう、吹っ飛んできた青葉がこれまた華麗に愛車のDR改の尻を滑らせてアスカの隣に並んでいた。

「どうしたのよ、青葉さん?」

 荒い息をついて自分を見つめるシゲルに面食らう。

 そんな姿は、シゲルには到底似合わぬものだったから。

「リツコさんから連絡貰ったんだ。後ろ乗って!」

 そう言ったシゲルの姿をみれば、まだ濡れたウェットスーツのままだった。

 サルベージ作業が終わってすぐに、駆けつけてくれたのだろう。

 目を灼かれた恨み言を言うのも忘れ、アスカは訊ねていた。

「こ……これ、どうするのよ?」

「後で誰かが拾ってくれるさ、急いで!」

 その誰かがシゲル自身であろうことは容易に想像できたが、有無を言わせぬシゲルの口調に急かされて、服が濡れてしまうのも構わずにアスカはタンデムシートに跨った。

「しっかりつかまってろよ」

 アスカが腰に手を回したのを確認すると、その場でシゲルはアクセルターンを決めて、来たばかりの道を全速で戻り始めた。

「安心しろ、アスカちゃん。俺が必ず間に合わせるから」

 普段ならば絶対に口走りそうもない、あまりにも似合わない熱のこもった言葉をシゲルは吐いて、ギアを掻き上げていく。

 マグネシウムヘッドを持つツインカムエンジンに金切り声を上げさせながら、軽い車体は一気に加速されていく。

 シゲルの道楽で改造されたDRは、あっさりと百キロを超えた速度を叩きだしていた。

 その息苦しい風圧の中で、アスカは初めて大人の本気というものを見た気がした。

 かつての戦いの中、あるいはその後のネルフでの仕事の中で、アスカは何度もその光景を目にしていたはずだった。

 けれど、そのことを知り、自身に関連づけられるほど、アスカの心は成長してはいなかったのだ。

 なにより、あの家にいる限りアスカはそれを学ぶ必要がなかったから。

 しかし、今は違う。

 偽りの甘さの中で漂い続けることができないことに、気付かされた今は。

「青葉さんっ!」

 体を伸ばすと、アスカはシゲルの耳許で叫んだ。

 決して誰にも訊ねなかったこと、訊ねられなかったこと。

 もしも訊ねてしまったら、その人との信頼関係が根底からひっくり返されない問い。

 けれど、シゲルは来てくれた。

 ──あたしのために、来てくれた。

 そう、ただの同僚となった今でも、アスカのことを心配してくれている。

 チルドレンでなくなった、ただの子供のアスカのために来てくれたのだ。

 この大人の人にならば、訊ねても許してもらえるような気がして、アスカは言葉を続けた。

「訊いても、いい!?」

 決意は揺らがなかった。

 けれど、言葉は揺らぐ。

 無理はない、初めての言葉を告げるのだ。

「俺に答えられることなら、どーぞー」

 それを知ってか知らずか、相変わらずのお気楽な調子でシゲルは答えた。

 考えてみれば、シゲルはチルドレン達の前で深刻な素振りなど見せたことなどない。

 無論仕事のときは、別だが。

 それはマコトにしても同じだった。

 少なくともマヤよりは、もしかしたらミサトやリツコよりも大人なのかも知れない。

 その大人に、アスカは甘えた。

 甘えてもいいのだ。

 まだ、アスカたちは子供なのだから。

 学ぶことは、山ほどある。

 大人に聞かなければならないことも、山ほどある。

 だから、訊ねるべきなのだ。

 自分に自信が持てなくなった今こそ。

「どうして、いま、こんなに頑張れるの?」

 その問いに、暫くシゲルは無言だった。

 しかし、その背に身を預けているアスカには、シゲルの身体が動揺に震えたのが感じられた。

 口を真一文字に引き結ぶと、シゲルは肩を竦めて溜息を漏らす。

 少しだけアクセルを緩め、風圧に邪魔されずに会話が出来るだけの速度に落とす。

「いつかは聞かれるんじゃないかと思っていたけどね……」

 それだけは口の中で呟いて、シゲルははっきりと口を開いた。

「贖罪だよ」

 短く、明快な答えが風に乗ってアスカの耳に届いた。

「それは……あたしにも判るけど」

 シゲルの言葉は続く。

「自分たちだけ安全な所にいて、アスカちゃんたちを危地に追い込むことしかできなかった自分の不甲斐なさのためだよ……けれど、その贖罪も決して君たちのためじゃない。いま、頑張らなきゃならないのは自分のためなんだ。二度とあんな思いをしたくないから、自分のためにだけ頑張ってるんだ」

 シゲルの言葉は、酷く淡々としていた。

 偽悪にも、自虐にすら受け取れる言葉だったが、そんな悲愴な色彩を一切排除してその言葉はアスカに届いた。

「でも……青葉さん」

 言い募ろうとするアスカを、シゲルは遮った。

「いいんだ、アスカちゃん。俺はそれでも感謝しているんだから……そうだなぁ、アスカちゃんなら知っているよね、コルベ神父の話」

 シゲルの挙げた名前は、アスカの記憶をドイツ時代へと引き戻していた。

「ええ……」

 マクシミリアーノ・マリア・コルベ。

 アメリカ国籍とはいえ、生活の大半をほとんどドイツの地で過ごしたアスカがその名を知らぬはずがなかった。

「俺、あの話を中学の頃に読んでたんだ。あの頃は他人のために犠牲になれる勇気を持ったコルベ神父に尊敬の念を抱いたよ。しばらくして世の中の仕組みとか、人との繋がりが判るようになると、あの生き残ったポーランド人の軍曹が酷く哀れに思えた。自分を助けるために犠牲になってしまった人を知るということが、どれほどの心の重荷になるのか……」

 一旦シゲルは言葉を途切らすと、車体を傾けて左へと曲がる。

 その先は道路ではなく「通路」だった。

 旧ネルフ本部内へと続く「人間用」の通路だ。

 こちら側には電力が供給されているのか、ところどころにルミネッセンスの淡い光が見える。

「アスカちゃん、もう喋るなよ。舌噛むぞ」

 呆然とするアスカの目の前を、すさまじい勢いで壁が流れてゆく。

「ちょ……ちょ……」

 悲鳴を上げる間もなくDRの後輪が滑り、壁がアスカの目前に迫った。

 さしものアスカも悲鳴一つ上げられずに、目を瞑ってシゲルの背にしがみつく。

「よっ……と」

 しがみつかれたのも苦にせず、シゲルは神業的な体重移動でDRを抑え込むと、カウンターを軽く当てて直角交差する角をクリアーする。

 それでも、僅かに滑ったフロントがハンドルを壁にヒットさせる。

「ひっ!」

 その衝撃は、無論後席のアスカにも伝わった。

 思わずアスカは息を飲み込んでいた。

 自身も優秀なバイク乗りであるアスカにとって、これは拷問にも等しかった。

 せめてアスカが免許を持っていなければ、その恐怖も半減したろうに。

 けれども、そんな恐怖にさらされながらも、アスカは告げられぬままに終わったシゲルの思いを受け取っていた。

「重荷」

 と、シゲルは言ってくれた。

 残された人にできるせめてものことは、その事実を把握し、踏まえて生きていくことだけなのだ。

 それを、シゲルは知っていてくれた。

 そのことを教えてくれただけで、アスカには十分だった。


 ようやくDRが停まったのは、かつてチルドレン達が使っていた更衣室の前だった。

 そして、今でもそのうちの二人はここを使用しているのだ。

「どうやら、間にあったな」

 片眉を持ち上げると、シゲルは満足そうな笑みを口許に浮かべて見せた。

 更衣室のドアの前に佇む、少女に向かって。

 その笑みを向けられた少女は、咎めるような視線を非常識な闖入者に注いでいた。

「なに……してるの?」

 いつもと変わらぬそっけない口調だったが、若干の辛辣な響きが混じっていたことは否めない。

 電力供給量が限られているため、最低限の換気装置しか働いてないことを意識しながら、シゲルは小さなアイドリング音を立てるエンジンを停めた。

「悪いね、レイちゃん」

 今度ばかりはばつの悪そうな笑みを浮かべながら、シゲルはサイドスタンドを立てた。

 シゲルの態度はレイを前にしてもなんら変わることはない。

 彼女の透徹した紅い瞳を前にして、平常心を保てる人間は少ない。

 自らを隠すように饒舌になるか、黙り込むか、そのいずれかが大半を占める。

 数少ない例外の一人がシゲルだった。

「アスカちゃんが、君たちに話があるんだってさ」

 紅い視線が、ふらふらとDRを降りるアスカに注がれた。

 足許こそおぼつかなかったが、アスカはそれを真っ向から受けとめると、レイに向かって頷いて見せた。

 二人の少女の視線がしっかりと絡んだことを見届けると、シゲルはふっと肩の力を抜いてスタンドを蹴りあげ、それ以上の声を掛けることもなくDRを押し始めた。

 それをアスカは、見咎めた。

「待って、青葉さん!」

 思いも寄らぬ強いアスカの声に呼び止められて、振り向いたシゲルの頬に暖かな感触が見舞われた。

「あ……アスカちゃん?」

 アスカの唇を頬にいただいたシゲルは、びっくりしたように目を見開いていた。

「ほんとうに……ありがとう」

 微笑を浮かべて、アスカは精一杯の思いを使い古された表現に込めた。

 自分の頬に残る、唇の温もりに手を当てるとシゲルは困ったような微笑を浮かべたが、結局、何を言うこともないまま二人に手を振ると廊下の奥へと姿を消した。

 シゲルの姿が見えなくなるまで、アスカはその背を目で追っていた。

 自分がシゲルにしたことも、シゲルが返してくれた仕草も他愛のないことだった。

 けれど、そんな些細なことが積み重なって人との信頼はようやく築けるのだと、アスカは心の底から感じていた。

「なに……?」

 そんな思いに耽っていたアスカを現実に引き戻したのは、背中に掛けられたレイの一言だった。

 そう、今アスカが為さなくてはならないことは、シンジのために、そしてこれからも自分に関わっていくだろう彼女との関係を築くことなのだから。

 蒼い瞳に決意の色が漲る。

 きびしい色を宿した眼差しを虚空に投げつつ、アスカは振り向き、言った。

「あんた達に、つきあってほしいのよ」

 この紅い瞳と対峙するのは、何年ぶりだろうか?

「わたしと……鈴原君?」

「そうよ」

「何処へ?」

 アスカが返す答えを、レイはどう受けとめるだろう?

 アスカは瞬時、逡巡した。

 しかし、言わねばならなかった。

「シンジに……逢ってほしいの」

 その名前が挙がった途端、レイの表情に初めて感情めいた物が浮かんだ。

 事実、彼女は自分の胸底に蠢く何かがあることを感じていた。

 ──これは……あのときと同じ気持ち?

 それは紛う方無き、不安という感情だった。

 その感情をレイは三年前にも経験していた。

 ──嫌な気持ち……

 けれど、それは人であれば必ず誰もが抱く感情だと言うことを、四人目の少年にレイは教えられていたのだ。

 レイがそのような反応を示すだろうことは、アスカにも判っていた。

 三年という、決して短くはない時を子供たちは互いに避けあって生きてきたのだから。

 その心の奥底では互いの存在を求めあっていたにも関わらず、表現をする術を知らない不器用で孤独な魂たちは、再会を恐れるしかなかったのだ。

 その怯えた魂たちは互いが選んだ、たった一つの拠り所に縋りついたまま、他人を見ようとは決してしなかったから。

「ファースト。あんたがシンジに逢いたくない……ううん、逢うのが怖い気持ちはあたしにも判るつもりよ。でも……それでも、あんた達にシンジに逢って欲しいの……もう駄目なのよ、このままじゃ、シンジが壊れるの……」

「碇君が……壊れる?」

 アスカの悲痛な叫びを聞いたレイの瞳に、驚きの色彩が宿る。

「どうして……碇君はあなたと一緒にいて幸せじゃないの?」

 ──幸せ……

 確かにこの二年、アスカは幸せな筈だった。

 愛した人との暮らしは、幸せなことだと思いたかった。

 それなのに……

「……幸せな振りをしてるだけよっ!!」

 顔を俯かせ、アスカは思いきり頭を振った。

 そして、レイは見た。

 アスカの足許に、ぽたぽたと小さな水滴が落ちるのを。

 ──あれは……涙。

 それと一緒に、言葉も零れ落ちる。

「そうよ……もうごまかしきれないの……優しいのも嘘、弱いのも嘘……誰かのためになんて、みんな嘘っぱちなのに……自分を救わなきゃ、誰も救えるはずなんかないのに、アイツは一人でみんなを助けてきたわ、優しい嘘ばっかりついて。その度に自分が傷ついているはずなのに、その傷さえ見ようとしないで……だけど、もう、限界なのよ。いま、みんなでシンジを救ってあげなきゃ、アタシなんかより確実にアイツ壊れちゃうのよっ!」

 それは、事実だった。

 ようやくアスカが知り得た、自分とシンジの事実だった。

 哀しいけれど、それが嘘偽りのない自分とシンジの心だったのだ。

 だからアスカは吐き出すように言うしかなかった。

「なんやねん、惣流。そないな大声上げよってからに」

 少し軋んだ音を立ててスライド式の自動ドアが開き、エヴァに選ばれた最後の少年、フォースチルドレン、鈴原トウジが現れた。

 切断された彼の片足は回復していた。

 ジーンズタイプの革パンツに包まれたトウジの脚は義足ではない。

 レイを創った技術を応用した、クローニングによる促成栽培の脚。

 そしてそれを繋ぐのはエヴァを創った技術による、神経の接合。

 だが、そのためにトウジはネルフに縛り付けられることになった。

 既に定期メンテナンスを必要としなくなったレイとは裏腹に、常に最新鋭の技術を投入され続けるトウジはネルフでの頻繁なメンテナンスが必要な体になってしまっていた。

「鈴原……」

 トウジは片手をポケットに突っ込んだ姿で、開いたドアの角に寄り掛かった。

 決してアスカに視線を向けないようにして。

「話は、聞こえとった」

 あさっての方を向いたまま、トウジは言葉を継いだ。

 普段は意志の強さを感じさせる瞳が、今は依怙地な光だけを湛えていた。

「けどな、わしはまだ、シンジには逢えへんねん……惣流の話が本当ならなおさらや」

「な……なんでよ?」

 その問いから、縋りつくようなアスカの視線から逃げるように、トウジは顔を背けていた。

「わしかて、シンジには逢いたいと思うとった。あん時以来、逢うてへんもんな……けど、ムチャクチャ怖いねん。何言うてええのか判らへんねん。惣流やみんなの話で、シンジが元気なのは、よう判っとる。けどな、シンジがまだわしに負い目を持っとったら……わし、そんなん耐えられへんねん……わし、自分に何ができるかなんて、さっぱり判らんかった。せやけど、今はわしは足を無くしたおかげで人様の役に立てとる。わしの体のデータが世界中の障害者の人たちの役に立てとるんや、それがわしにはごっつ嬉しいんや」

 トウジには生きていく意義が明確にある。

 シンジに欠けているものは、まさにそれだった。

 その差がアスカには妬ましくさえ感じられてしまう。

 そのことが自分にも当てはまることを痛感していたから。

 そして、純粋にその強さが羨ましい。

 トウジが脚を無くしたことは傷ましい事故だった。

 そして、それを再生してもらえたことは、エヴァのパイロットであり、ネルフの一員であったことの特権だった。

 その特権を、アスカなら当たり前の「権利」として受けとめていたはずだ。

 あの頃の自分なら、そんなことを意識することさえなかったはずだ。

 しかし、トウジはその権利が、特権だということを知っているのだ。

 そしてその特権を得たからには、それに伴う義務を支払うべきだということを誰に教えられることなく理解しているのだ。

 もしかしたらトウジはそんなことを意識してはいないのかも知れない。

 おそらく、そうだろう。

 自分の思うまま、感情の赴くままにトウジは行動しているに過ぎない。

 けれど、その青臭くさえ思えるトウジの純粋な行動力に、アスカは羨望を覚えずにはいられないのだ。

「……鈴原、それをシンジに伝えてよ。あいつバカだけど、言われたことが本当か嘘かくらいは判るから」

 その純粋さを、シンジにぶつけて欲しかった。

 シンジも純粋だ。

 けれど、シンジのその純粋さは自分自身にしか向けられないものなのだ。

 いつしか、それはシンジにとって重荷になり、彼自身を破壊する……

「けどな……それでも、わしはシンジには逢えんのや!」

 ポケットの中の手を固く握りしめ、そう言い捨てると、トウジは行く手を塞ぐ二人を押しのけるようにして駆け出していた。

 結局、アスカを一顧だにすることのないまま。

「鈴原っ!」

 トウジを追いかけようと、アスカは身を翻しかけたが、伸ばされた細い手がアスカの二の腕に絡んで引き止める。

「ファースト!」

 怒気を含んだ声が、レイに向かう。

 けれど、レイは静かに頭を振った。

「……無駄。無理に鈴原君を連れていっても駄目」

 幾度かアスカの瞳は小さくなっていくトウジの背とレイの瞳とを往復していたが、小さな溜息と共に、やがてその振幅も止まった。

「それも、そうね……」

「それより……惣流さん」

 レイが、溜息をついたアスカに訊いた。

「どうして、人は自分を信じられないの?」

「ファースト……?」

 不意に問われた言葉は、アスカの胸に重い固まりとなって落ちた。

「わたしは、ずっと碇君に会いたいと思っていた。でも、会えなかった。とても怖かったから」

「…………」

「鈴原君の気持ちを考えると、会うことなんかできなかった。わたしは今、あの人に見捨てられるのが怖い。三人目のわたしと知っても、あの人は何も変わらなかったから」

 レイの言葉は容赦無くアスカの胸に突き刺さる。

 自分を断罪するレイの言葉は、そのままアスカ自身のことだった。

「もう……やめて」

 その痛みに耐えきれずにアスカは言ってしまった。

 けれど、レイの言葉は続いた。

 何故ならレイも吐き出しようのない不安を、長い間その心の中に封じ込めてきたのだから。

「わたしは、人なの? 心をみんながくれた。あの人が育ててくれた。でも、怖いの、淋しいの、自分が信じられないの!」

「やめてっ、レイっ!!」

 同じ心を共有していたとは知らずに、三年の時を過ごしてしまったことに激しい後悔を抱いてアスカはレイを抱きしめていた。

 レイの言葉は確かに正しい。

 けれど、それを認めて自分自身を貶めてしまったら人間ではいられない。

 だから、その怖さを叩き潰してでも前に進まなければならないのだ。

 いつの頃から、レイはこんなに少女らしくなっていたのだろう?

 うわべはあの頃のままなのに、これだけの感情をその胸の中にどのようにして育てたのだろうか?

 たった三年という時間のあいだに、これだけの感情を育てた少女の心は傷だらけのはずだった。

 それなのに……

 その傷だらけの心で、鈴原トウジという人間とともにいることを選択したレイを、もはやアスカが人形などと思えるはずもなかった。

「いいの……もう、なにも言わなくていいから、ね……レイ」

 レイの背中に回した腕に力を込めて、告げようのない言葉にありったけの思いを込めてアスカはレイを抱きしめていた。

「わたしは、碇君に会ってもいいの?」

 アスカに抱きしめられたまま、視線は宙に彷徨わせたまま、レイの唇から許しを乞う言葉がこぼたれた。

「誰がそれを咎めるのよ? あんたはあんたの意志でシンジに会うんでしょう? 誰もそれを止めることなんかできやしないわ……あたしにだって、止められないわよ」

 心の底から、アスカは後悔していた。

 今まで、レイに会うことを避け続けていたことに。

 自分とシンジだけがいればいい。

 そう思って、ままごとの暮らしを続けていた。

 ある意味に於いて、それは正しい面も持っている。

 けれど、人として生きるために人を想って生きるのであれば、他者との関わりを持ち続けなければ「生きる」ことすらできなかったのだ。

 ──人形だったのは、あたしたちなのね……

 苦い思いを噛みしめて、アスカはレイを抱いた腕に再び力を込めて囁いた。

「レイ……ありがとう」


 ガンッ!

 上昇を続ける、狭いエレベーターの中に鉄を殴りつける鈍い音がこだました。

 ドアを殴りつけたのはトウジ。

 その姿のまま、トウジは身じろぎもしなかった。

 ──なにやっとんのや、ワシは……

 己のどうしようもない心を、トウジは持て余していた。

 シンジに会いたいのは間違いなく本心だったが、今更会って何を話せばいいのかが判らなかった。

 敢えて、いま自分が顔を出してしまうことで、互いをまた傷つけあってしまうのではないかと恐れていたのだ。

 それは、トウジが知らず知らずのうちにシンジに対して抱いてしまった負い目だった。

 エヴァンゲリオン参号機パイロットとしての抜擢。

 それは、トウジが自ら望んだことではなかった。

 しかし妹の脚を治すことという条件のほかに、かつてプラグの中で見たシンジの闘う姿がトウジの心の何処かで消えずに残っていたのだ。

 シンジだけに闘わせている。

 そんな負い目がトウジにエヴァに乗る決断をさせたのだった。

 だが現実には何もできないまま、ただシンジを傷つけ、苦しめるだけの結果に終わってしまった。

 脚の再生後、自分がどれだけシンジに尽くしたとしても、その原初の後悔がある限りトウジも「現在」から容易に抜けだすことはできなかった。

 チン、と音を立ててエレベーターがかつてはリニアの駅だったフロアに到着した。

 そのときになって初めて、トウジは自分がドアを殴りつけたままなのに気づいた。

「ほんま、なにやっとるんや」

 年に似合わぬ苦い笑みを口許に浮かべると、トウジは薄暗いホームへと降り立った。

 そのホームはいまや、ここに従事するものたちの駐輪場と化していた。

 何台ものバイクや自転車の間に混じり、ぼうと浮かび上がる物がある。

 この建物の中で、唯一外部との連絡が取れる機械。

 一台きり生き残った、緑色の公衆電話だった。

 普段は気にも留めたことはなかったし、それがあることすら気付いていなかった。

 それが今日に限って、その存在感を色濃くしていた。

 アスカの運んできた不安が、彼にそうさせたのかもしれない。

 財布の中からカードを取り出すとトウジはスリットに滑りこませて、自宅のナンバーを押していた。

 この時間なら、彼の妹は夕食の支度をしているはずだった。

 脳裏に自宅の様子を描きながら、トウジは待った。

 菜箸を振り回しながら、手際よく夕食を作り上げてゆくフユミの姿。

 そんな元気な姿を再び見ることができたのも、全てはシンジのおかげなのだ。

「はい、鈴原です」

 幼い声が、受話器の向こうで弾ける。

 実際にその声は、普段のフユミの声よりも弾んでいた。

「あ、わしや」

「お兄ちゃん、どうしたの電話なんかしてきて?」

 不意に、先刻マコトとシゲルにからかわれた言葉が脳裏をよぎる。

 理由もなく、電話したつもりだった。

 けれど、トウジの胸には先刻のレイとの約束が抱かれていた。

 逃げるようにして、あの場所からは離れてしまったが約束は約束だった。

 そして、それを破るようなトウジではないのだ。

「あ……あのな、今日な、帰り少し遅うなるねん」

「え〜っ」

 不満そうな声が、耳に届く。

 フユミの膨れっ面を眼前に見ているような気になって、トウジの口調は柔らかなものになった。

「スマンのう、綾波と食事しに行くねん」

「それじゃ、綾波さんにも家に来てもらえばいいじゃない。今夜はごちそうにするのに」

 フユミの声が、一転して明るくなった。

 それ以上にトウジは、フユミの発した「ごちそう」と言う言葉にびっくりしていた。

 いま、鈴原家の財布はフユミががっちりと握っている。

 ──お父さんや、お兄ちゃんに任せてたら貯まるお金も貯まらないわよっ!

 とばかりに家事一切を取り仕切っているのだ。

 別に生活費を切り詰めなければならないほど、お金に困っているわけではなかったが自分の入院やトウジの脚のことなどで、危機感に似たものを感じていたのだろう。

「……なんぞ、ええことあったんか?」

「え〜、んふふ、ないしょだもん」

 けれど、そのトウジの問いにフユミは、もったいをつけた含み笑いでしか応えない。

「なんやねん、兄ちゃんにも教えてんか?」

「……うーん、本当は帰ってきてから教えようと思ってたんだけどなぁ……仕方ないなぁ。お兄ちゃん、シンジさんから電話があったよ、今日」

 フユミの言葉はトウジの頭の中で剛雷と化した。

 ──なんで、シンジが……

「シンジさん、お兄ちゃんに謝りたかったって」

 ──謝る、やて?

 心の中で疑問が渦を巻く。

 ──謝らなならんのは、わしのほうやないか!

 その疑問に答えは出ない。

 トウジ自身に答を見出すことは不可能だ。

 傷つけ合うことを恐れている、いまのトウジには。

 だから、抱かれた疑問は怒りへと転嫁されなければならなかった。

 フユミの脚を傷つけられたときと同じだった。

「お兄ちゃん、聞いてる?」

 返事のない兄を訝しみ、フユミが声のトーンをあげた。

「聞いとるわ……スマン、やっぱり少し遅うなるわ。綾波も連れてくから、用意は少し遅めにしてんか?」

「はいはい、判りましたよーだ」

「ほいじゃな」

 トウジは努めて、いつもの口調を作った。

 しかしゆっくりと、静かに受話器を戻したトウジの口からは、歯ぎしりをする嫌な音が漏れた。

 ──行ったろうや、ないか……


 何処か、遠くで、声が聞こえたようだった。

 それは二人の少女の声。

 小さな囁き声だったけれど、その声は楽しげにシンジの耳に響いていた。

 一つの声は耳慣れた、いつまでもそれで耳をくすぐっていて欲しい甘い声。

 もう一つの声は感情を抑えているせいで冷たく響くけれど、彼には懐かしい声だった。

 ──夢……を見てるんだ。

 その声が、シンジを覚醒させ始めた。

 なぜなら、その声がここで聞こえるはずがないのだから。

 ふっと、シンジの瞼が開く。

 もう、声が耳に響くことはなかった。

 ──なにを、期待してるんだ。僕は……

 いつの間にか眠ってしまっていたことに気づいて、シンジは瞬きを何度か繰り返しながらやけに重く感じる頭を持ち上げた。

「起きたの?」

 シンジの見開いた瞳が凍りつき、心臓が早鐘を打つ。

 自分の視線の先にあるのは、紅い瞳だった。

 銀の髪をさらりと揺らし、小首を傾げたレイはシンジに尋ねていた。

「あ……綾波?」

 自分の目を疑ったまま、シンジは目の前にいる少女の名を呼んでいた。

 その名を呼んでもらえたことに安堵したかのように、レイの瞳に柔らかな色が浮かんだ。

「久しぶりね、碇君」

「……う、うん」

 それだけをようやく返し、シンジの脳細胞が全力運転を開始する。

「あ……アスカ……アスカは一緒じゃないの?」

 助けを求めるように視線を泳がせて、シンジはアスカの姿を探した。

 ここにレイが居るということは、アスカが連れてきたとしか考えられなかったからだ。

「惣流さんは、いま着替えてるわ」

 レイの返してくれた答えは、シンジにとっては痛みを伴うものだった。

 それはシンジに孤軍で戦えと言っているのだから。

「そう……なんだ。あ、お茶……お茶いれるよ」

 言いながら、シンジは立ち上がった。

 あまりにも唐突な状況に、シンジの思考は混乱の極みに陥っていた。

 後悔もした。

 反省もした。

 自分も許した。

 けれど、心の準備だけはまだ出来ていなかった。

 昨夜とは違う。

 昨夜のカヲルの出現をシンジは「救い」と感じて、カヲルに縋ろうとした。

 けれどカヲルはそれを突き放し、シンジに現実を突きつけて去った。

 その現実は辛いものだったけれど、加持の諭しでそれを受け入れることが出来た。

 そして、今夜。

 レイが現れた。

 あまりにもめまぐるしく変わる状況をシンジは恨みたくもなった。

 けれども遅かれ早かれ、この現実にシンジは直面しなければならなかったのだ。

 ここに来てくれた、レイの思いがどのようなものかを確かめなければならなかった。

 そして、その思いに自分自身で、自分の言葉で応えなければ……

 シンジがお茶を入れているあいだ、終始レイは無言のままだった。

 台所に立つシンジの背を黙って見つめていた。

「はい、綾波」

 客用に用意していた上品な湯飲みに、緑茶を注いでシンジはレイに勧めた。

「ありがとう」

 レイはそれを受け取ると、そっと口許にそれを運んで喉を湿した。

 シンジはそんなレイの仕草をじっと見つめていた。

 あの頃と何一つ変わらないままの、白い肌に紅い瞳。

 けれど、その雰囲気は僅かながら変わっていた。

 あの頃には感じられなかった、女らしさがそこはかとないながらも仕草の端々に見受けられるようになっていた。

 そんなシンジの視線に気付き、レイは少し頬を染めて湯飲みを置いた。

「あ……ごめん」

 自分の不躾な視線に気付いたシンジは思わず謝っていた。

「ううん、謝らなければならないのはわたし」

「な……なんで、綾波が謝るの?」

「わたしが碇君の望んだ物を全て奪っているから」

 レイの言葉に、シンジは掛けるべき言葉を奪われた。

「…………」

「司令も、ユイさんもわたしが奪っているから……」

 そう言うとレイは、顔を俯けてシンジから視線を外した。

「それは……綾波が謝ることじゃないよ」

「どうして?」

 再びレイの顔があがり、シンジの瞳を紅い視線が射抜く。

 けれど、今夜は紅い光をシンジは見据えることが出来る。

「……前はそう思っていたんだ、綾波の言うとおりにね。綾波がいるから僕の居場所はないって思い込んでいた。そして僕は、この家を買った。それからアスカがここに来てくれて、少し考えが変わったんだ。綾波がいるから父さんと母さんは大丈夫って」

 本当は他にも理由はあった。

 けれど、それはレイに告げるべきことではなかった。

 シンジと、そしてアスカとで話し合うべきことだったから、そのことについてだけはシンジは黙ったままでいた。

「司令も、ユイさんも碇君のことを心配しているわ」

 レイの言葉が嘘ではないことは判っている。

 ユイがなにくれとなく電話をくれているのも知っていた。

 決してシンジがそれに出ることはなかったけれど。

 ──そうか……そんなことすら、僕はしようとしなかったんだ……

 そういったことを全てアスカに任せ、自分が何をしていたのか、いや、何もしなかったのかが今になってシンジには理解できた。

「……そうかも知れないね。でも僕はもう、戻らないよ」

「何故? まだ憎んでいるの、司令のことを……」

 そう訊いたレイの顔は酷く辛そうだった。

 父と子の相剋。

 シンジがここに呼ばれたときから始まったそれをつぶさに見つめてきたレイは、この親子の間に掛けるべき橋がないほどの深い溝を見ていた。

 だからこそ全てが終わったいま、人の親として子に接したいと願うゲンドウを間近に見てしまうから、レイはシンジに聞きただしていた。

 ゲンドウの願いが身勝手なものだというくらいのことはレイにも判っていた。

 しかし血の絆を持つ、本当の親子が解り合えないはずはないとレイは信じたかった。

 そうでなければ、人ですらない自分が人を信じていることが嘘に思えてしまいそうだったから。

「違うんだ、綾波……僕は父さんのことを憎んだりしたことなんかないんだ。今なら判るんだ、憎んだ振りをしていただけだって。父さんを憎む振りをすることで僕は父さんとの絆を感じていたかったのかも知れない。綾波の言う絆とは違うかも知れないけど、憎んでいると思うことでその人を思っていることを忘れずにいられたから……」

 振りを続けること。

 それが、どんなことなのかレイには理解しようがなかった。

 しかし、それが酷く辛いことだろうとは判った。

 人と使徒との狭間で揺れていたレイには……

「碇君……それなら、戻って」

 レイの瞳に涙が宿っていた。

 そしてレイが願いを口にしたとき、溢れる感情と共にそれも零れる。

 シンジはレイの瞳から流れる涙を美しいと思う。

 人を想って流れる涙。

 頬に光る水滴が秘めている価値が、どれほどのものなのか。

 判る。

 しかし、その願いを叶えることは不可能だった。

「それは、できないよ……僕は、アスカと生きることを選んだんだ」

 シンジはきっぱりとレイに告げた。

 両親と訣別することを。

 レイは一度顔を伏せ、堪えるように肩を震わせた。

「……それで碇君は、幸せなの?」

 ──幸せな振り……

 先刻、アスカが言い放った辛すぎる言葉。

 それを思い出しながら、レイは絞り出すように言葉を並べた。

「綾波……僕が家に帰れば幸せになれると本当に思ってるの?」

 シンジは諭すような口調で、レイの震える肩に手を置きながら訊ねた。

 肩に置かれた手を見つめてから、レイは再びシンジに視線を合わせた。

「碇……くん?」

 レイの瞳と同じように、シンジの瞳にも涙が光っていた。

「僕は……嬉しいんだ。綾波がこんなに僕のことを、父さんや母さんのことを心配してくれるのが……それでも、僕の居場所はここなんだよ」

「帰りたくは、ないの?」

「……帰りたいと思うこともあるよ。それにね、アスカと生きる限り、きっと辛く思うこともたくさんあると思う」

「辛くても、生きるの?」

 レイの言葉にシンジは頷く。

「そうだね、エヴァに乗っていた頃よりずっと辛い思いをすると思う。アスカが僕に話してくれないことはいっぱいあるから……それでも、アスカがそのことを話してくれる日がくると思うんだ。そのとき僕はアスカの力になりたい。それができるのは、僕だけだって思いたいから」

 幸せは、楽しさの中にあるわけではない。

 楽しさの中に幸せがあることも事実だが。

 けれど、愛した人がいるのなら、その人の苦しみも痛みも全て分かち合って、ようやく幸せを掴めるのだろう。

 ──鈴原君……

 レイの脳裏に、四人目の少年の姿が浮かんだ。

 彼が何のために自分の側にいてくれるのか?

 自分が何のために彼の側にいることを選んだのか?

 レイはシンジの手に自分の手を重ねた。

 そして、シンジの手を包み込むと自分の思いを伝えるように強く、強く握りしめた。

「判ったわ……そう、伝える」

「ありがとう、綾波」

 シンジもまた、自分の思いを伝えるべくレイの手を強く握り返していた。


「ばか……バカシンジ……」

 廊下の壁に寄り掛かり、アスカは嗚咽を噛み殺していた。

 立ち聞きするつもりなんかなかった。

 けれど、シンジの言葉達がアスカの心を捉えて離さなかった。

 幸せとは、楽しいことや嬉しいことだけで綴られる記憶ではなかったのだ。

 初めて肌を重ねたときの想い……

 それすら忘れてしまっていた、自分。

 全てを曝け出しあったからこそ、互いを求めあったはずだったのに……

 喜怒哀楽、人として持てる全ての感情が渾然一体となって、アスカの心を苛んでいた。

 けれど苛まれる心とは、エゴやプライドと言う名の体面上の心なのだ。

 その鎧の下に潜んでいる心は……

 そっとアスカはその場を離れると、開け放したままだった自室のドアを静かに閉じた。

「ばか……は、あたしよね……」

 ぽつりと呟くと、アスカはベッドに身を投げ出して枕に顔を埋めた。

 涙が止まらない。

 泣いても泣いても、泣き足りなかった。

 バカな自分、バカなシンジ。

 だけど、そんなことに気付いても、自分が、シンジが愛しくてたまらなくて。

 だから、アスカは泣きながら決心していた。

 ──シンジになら、全部話してもいいんだ……


第四話「胸いっぱいの愛」に続く。


杜泉一矢 law-man@fa2.so-net.or.jp

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