緑濃い箱根の山肌を通い抜けた、適度な湿り気を含んだ涼気が遠慮もせずに部屋の中に雪崩れ込んできた。
いっぱいに開かれた窓を飾る白いレースのカーテンが不躾な風になびき、それでも闇に映えながら窓辺に佇む人影をふうわりと優しげに包み込んだ。
体にじゃれつくカーテンを気にする風もなく、その人影は身じろぎひとつもせず長いこと窓辺に佇んでいた。
柔らかなラインを描くシルエットは、年頃の女性特有の危うげな存在感を浮き立たせてやまなかった。
部屋の明かりが落とされているために、それがいっそう強調されている。
しかし、空から放たれているはずの月の光は分厚い雲に遮られ、地上にその恩恵をもたらしてはいない。
それでも世界は真の闇にはほど遠く、様々な色彩にいろどられているのだ。
ほんのわずかな光さえあれば、世界を知ることをあきらめることなどない。
人々が生きていくために築いた光が地上には満ちているのだから。
彼女の眼下に広がっているのは、まるで奈落へ続くようにも思える黒々とした口を開いた芦ノ湖。
だが、その闇を越えた先には不夜城の尖塔を煌めかせるネルフがある。
そして、その右岸には彼らが守った第三新東京市がある。
その光と闇との対比を、彼女は蒼い瞳を凝らして見つめ続けていた。
予感めいたものでもあったのだろうか?
人工の光に据えていた視線を不意に外し、彼女は雲に覆われた空へと顔を上げた。
投げかけられた彼女の視線に呼応するかのように、雲が高空を流れる疾風に薙ぎ払われて分厚なベールを脱ぎ捨て、恥ずかしげに透明な夜の素肌を曝す。
その雲間から青白い光がさあっと降り注いで、世界が塗り替えられていく。
地獄の大穴のようだった芦ノ湖までがその表情を変え、まるでパンドラの箱の中に残された希望のように淡く、それでいて力強い光を水面に灯して輝く。
そんな夜の狭間を駆け抜けてきた風が、再び優しく彼女を愛撫して過ぎていった。
その風を胸一杯に吸い込んで、彼女は光を全身に浴びるように大きく手を広げた。
金色した髪が、青白い光に輝いてけぶる。
白い肌が、燃え立つように鮮やかに映える。
惣流・アスカ・ラングレー。
素足のままアスカは、月の光に誘われるようにテラスへと足を踏み出していた。
小綺麗に片づけられ、いくつかの観葉植物が置かれたテラスはそれでもどことなく寂しげな印象があった。
いままで、そんな印象を受けたことのないアスカではあった。
いや、気にとめたことすらなかった。
シンジに任せっきりにしていたから。
しかし、いま月の光の下で見つめるここは、まるで無彩色の世界のように感じられた。
シンジが手入れをしてやっているのだろう、よく手入れのされた植物達は月光の下でも生き生きとして輝いて見える。
しかし、何かが足りない。
それは、色だった。
花が、一輪もなかった。
そして、自分の選んだ色がここには存在していなかった。
どうしてシンジは花を一つも置かなかったのだろうか。
──アタシに、選べってことかしら?
不意にアスカはそんな思いにとらわれ、次には口許に苦笑を浮かべていた。
つい先刻まで自分が考えていたことに比べれば、それは余りにもちっぽけで、そして幸せな夢想だったからだ。
「……それでも、いいのよね」
誰にともなく一人ごちたアスカは、テラスの手すりに体を預け、風を感じた。
けれど、その心地の良い愛撫に身を任せながらも、蒼い瞳は閉じられることのないまま星と月の光る夜空へと向けられていた。
けれど、その瞳の色は夢想に浸ったままの硝子の色ではなかった。
強い意志を込めて鋼のような強靱な色が浮かんでいた。
それほどまでの強い意志を以て対峙しなければならないものとは何か?
極論すれば、人生に於いて見据えるべきものは二つしかない。
すなわち、過去と未来。
その二つの事象と、アスカは対峙していたのだった。
先刻の闇の中で、過去は回想し尽くした。
アスカにとって全てが始まったとも言える、惣流・キョウコ・ツェッペリンの自殺から昨夜のカヲルの告白までを。
自分が辿ってきた全ての過去を、アスカはできうる限り克明に自分の脳裏に描き、その時に抱いていた自分の思いというものを見つめ直した。
思い出したくないことも多々あった。再び絶望と対面しなければならないことは判っていたから。
けれど、それに怯えて目を背けることは終わりにしなければならなかった。
自分を取り巻く人たちが寄せる思いを知ってしまった今では。
アスカは静かに目を閉じる。
その瞼の裏に、自分の過去に関わってくれた人々の顔が浮かんでは消えていく。
いささか陳腐な表現かも知れないが、それは礼儀なのかも知れない。
夕べからの一件に関するだけでも、リツコ、シゲル、そしてトウジにレイの顔が浮かんできた。
もしかしたら、カヲルすらそうなのかも知れない。
そう思った瞬間、アスカは苦笑を浮かべるしかなかった。
──使徒のクセに、ね……
二年間、生活を共にした。
シンジの身代わりに抱いて、抱かれた。
それを「嘘」には決してできない。
その年月は間違いなく、自分の事実なのだから。
それをも自分の人生として噛み砕いた上で、アスカはここにいなくてはならないのだ。
アスカ自身が悩み抜いた末、シンジの許に身を寄せたのだから。
だからこそ、それを嘘にしてはいけなかった。
シンジに事実を認めてもらわなくてはならない。
自分がシンジを認めなくてはならないように。
決して、シンジのために生きる人生ではない。
それはアスカにも判っている。
自分自身のために生きてこそ、人生なのだから。
まず、それをしなければ人生など構築し得ないし、他人を自分の人生に絡めることなどできやしない。
他人が自分に向けてくれる思いを知ってしまったいま、それを知らないふりできるほどアスカが自己欺瞞に長けているはずもない。
だから、まず自分自身を見つめたのだ。
──そう……それでもあたしはシンジを……
そして、それはシンジも同じはずだと信じていた。
まず初めに、それを互いに知り合ったのが自分たちなのだから。
アスカはシンジの中に。
シンジはアスカの中に。
互いにどうしようもなく似通ったところがあり、それでいて、決して判りあえない部分もあるということを見いだしたのだ。
それでも、いや、それだからこそ……
先刻の思いの答えがこぼれる。
「あたしは、シンジと一緒になりたい……」
小さな独白となって。
胸の奥で、いつまでも消えない、小さく熱い想い。そのたった一つの存在の確かさを拠り所にして、闇の中でアスカは過去を思索し尽くした。
そしていま、降り注ぐ月の光の中で思うべきことは一つだった。
アスカの瞳がゆっくりと開かれてゆく。
蒼い瞳に月の蒼が射し込んで、果てしない色が乱舞した。
まるで宇宙をその瞳の中に取り込んでしまったかのよう。
するべきこととは、その瞳で未来を見つめることだけなのだ。
これからもずっと、二人で生きていくために。
そして未来に向けて思いを馳せることは、過去を思い出すことに比べれば遙かに単純なことだった。
だが単純であるが故に、それは困難でもあった。
単純だからこそ、自分の心が怖い。
単純だからこそ、自分の心を偽りやすい。
その容易く揺れ動く心を、いつ裏切ると知れぬ自分の意思で制御しなくてはならない。
ほんの少しだけ、勇気を持って、逃げださないようにすること。
しかし、たったそれだけのことのために、アスカは全身全霊をかけねばならなかった。
──これも、つけ、なのかしらね?
なんとも情けない比喩で自分の心を見つめながら、冴え冴えとした月光の元で、再び静かにアスカは目を閉じた。
いままでは人の心の恐怖に怯え、決してしようとしなかったことをするために。
アスカの胸が大きく膨らみ、それからゆっくりと息を吐き出す。
まるで、心を惑わす雑念全てを吐き出すように。
その行為は禊ぎに近いものだったかも知れない。
そして、瞼が開かれる。
焦がすような熱のこもった視線が、星空を貫き通した。
──そう、大切なのは許しあうことではなくて……
導き出された解答を以て、過去の自分との決別を果たそうとしたアスカの思考が、不意に途切れた。
その原因は「音」だった。
大排気量並列四気筒が高回転域まで気持ちよく回りきる官能的とすら言える轟音が、アスカの鼓膜を叩いて思考を途切れさせていた。
夜空から視線を引きずり下ろして、アスカは湖岸をのたくる道路のあたりへと目を走らせた。
無論、ここからバイクが見えるわけではなかったが、その排気音は間違いなくここへと向かっていた。
小気味のいい、シフトダウンの音。
豪快に開けられたアクセルにレスポンス良く吹け上がるエキゾースト。
音だけでアスカには、手に取るようにバイクがどこを走っているのかが判る。
その音を聞く、アスカの顔には微笑が浮かんでいた。
手すりから身を乗り出すようにして、アスカは眼下に現れるであろうバイクを見守る。
その排気音自体は殆ど聞いたことはなかったが、彼がここに現れるだろうことは確信していたから。
そして、その排気音はみるみるうちに近づき、ヘッドライトの光が一瞬目を灼いたかと思うと足下の駐車場でその鼓動を止めた。
再び辺りは風の流れる音だけに包まれた。
その静寂の中で、小さな吐息が漏れた。
それは、まさしく安堵の溜息だった。
──アタシ達だけじゃ、ないのよね……
彼もまた自分たち同様に過去に決着をつけようとしているのが判ったからだった。
鋭いエッジの効いた直線を身に纏う漆黒の大型バイクはエンジンの鼓動を止め、金属が放熱収縮する独特な金属音だけを立てていた。
マンションの住人達に遠慮したというわけでもあるまい。
彼らに、自分が来てしまったことを気づかれるのを怖れていたのかも知れない。
エンジン近辺から聞こえる微かな音に耳を澄ませながら、駐車場にバイクを止めたライダーはヘルメットの中に盛大な溜息を吐き出した。
それは生ぬるい塊となって、チンガードの下にわだかまった。
口許を覆う気味の悪い感触を嫌い、ライダーは乱暴にヘルメットを脱ぎ捨ててミラーに引っかけると、大きく口を開いて清涼な空気を求める。
呼吸するために持ち上げた顔が月光に浮かぶ。
短く刈り揃えた髪。
意志の強そうな太い眉。
無論、ライダーとは鈴原トウジだった。
漆黒のマシンのサイドスタンドを蹴り出してバイクを安定させると、トウジは自分の傍らに停められている二台のバイクをちらりと見やった。
「何度見ても、けったいなマシンやのう」
わざと悪びれるように言ってみたが、それは成功しているとは言い難かった。
自分が乗るマシンとて、この時代に一般受けするマシンでは決してなかったからだ。
そのマシンは、カワサキGPZ900R。通称「ニンジャ」と呼ばれるバイクだった。
既に発表から三十余年が経過しようと言うのに、ニンジャは依然として新車で販売され続けていた。
サイクルの早い国産車の中にあって希有な存在と言えよう。
幾度となく生産中止の噂が流れたが、その度にこのマシンは人気を盛り返し、生産ラインを途切れさせることなく今に至るまで生き延び続けてきた。
ニンジャに匹敵する国産車は、一時生産中止の憂き目にあったが、再び生産を開始されそれからはロングランを続けているスズキのカタナだけだった。
トウジの跨るニンジャは、A−21と呼ばれる最新型であり、基本設計以外は全てが現代風にリファインされている。
エンジン、サス、ホイール、タイヤ。
フレームと外装以外は全てが変わったと言っても過言ではない。
そのフレームと外装も材質は遙かに良くなっていたが。
それでも、既に存在そのものが骨董品のこれをまともに走らせるのは、現代レベルの設計のバイクから比べてライダーに強いる負担が大きかった。
そのトウジの労苦を軽減するために一肌脱いだのが、人呼んでネルフのお気楽コンビのシゲルとマコトだった。
もちろんトウジは遠慮したのだが、二人はトウジの知らぬ間によってたかって好き勝手にニンジャに改造を施していた。
あるときなど、今朝乗ってきたはずのニンジャの姿がなく、代わりに原チャリの盆栽バイクと呼ばれるゴリラが置かれていたりすることもあった。
それでも、切れ者の二人のする作業だ。改良であって改悪などと言う結果になることはなかったのだけれど。
トウジに合わせたポジションからシートの変更、エンジンの味付け、サスチューニング、全ての変更がオーナーのためにだけ行われたスペシャルマシンにいつしかニンジャは変貌を遂げていた。
改造パーツの殆どはネルフの資材と工作機械を使えたから、人件費を無視すれば全くの無料で、だ。
どうしてシゲルとマコトがそれほどまでに拘ったのか?
これには理由があった。
強情なトウジはさほど顔に出すことはなかったが、あらゆる神経系フィードバックのテストモニターであるトウジは唐突に体調を崩すことがあった。
無理もない。
未だ試験段階のナノマシンさえも、トウジは自分の体内に飼っているのだから。
それゆえ何が起こったとしても、いつでもどこでも安全に止まれるように、逃げられるようなマシンに二人はニンジャを仕上げたのだった。
絞り出された出力はゆうに百五十馬力を越えるが、良く躾けられた吸排気系とエンジン内部によって過敏な神経質さを微塵も持ち合わせない、持ち主のトウジに似た太平楽な味付けのマシンとされた。
しかし、いまのトウジにそのニンジャの気性を求めるのは酷だった。
先刻言い放った軽口さえも空回りし、かえって自分の気持ちがささくれ立つのをトウジは自分自身で自覚していた。
目前に吊された空虚な言葉は、空回りしていた自分の行動を思い起こさせる。
──何度目や、ここに来るのは……
その思いの通り、トウジがここを訪れたのは決して二度や三度ではなかったのだ。
もっとも、この場所までバイクを乗り入れたのは初めてであったが。
なぜ今日に限って、ここまで進むことができたのだろうか?
鋲の打たれたごついグローブを脱ぎながら、トウジは己の行動を正当化するための理由を探していた。
──綾波を送らなあかんねん……
探し求めた理由は深刻な割にはあっさりと見つけれらた。
あの場所から逃げ出したあと、レイがアスカと連れだってここに来ただろうことは想像に難くなかった。
だから、せめてここからは自分がレイを送らなくてはならない。
レイとの約束を、トウジは忘れてはいなかったのだから。
一度かわした約束を反故にすることなど、トウジにできることではなかった。
確かに、それは事実だ。
つい、数時間前にかわされた約束だったのだから。
だが、それは滑稽なほどに表層的な理由の一つでしかなかった。
ここに来るがための言い訳、と言い換えても構わない。
それはトウジが心の奥底に沈めた気持ちを正当化するための理由だったのだから。
自分自身で覆い隠した心を、トウジはレイの存在にだぶらせてごまかしたのだ。
なぜ、トウジは気づかないのだろう?
レイとの約束を反故にしないように、自分が遠い過去にかわしたシンジとの約束を反故にしないために、ここにいるということが自分自身の本音だということに。
逢わない年月と交わされない言葉が、彼らの距離と心を隔ててしまった。
だからトウジには、自分の本心を見つめることができなかった。
それを思い出せずにいたから、至近に起こったできごとだけに理由を求め、自らを納得させようとしてしまう。
ニンジャに寄りかかってうなだれていたトウジの拳が、固く握りしめられる。
関節が浮き出すほどに、強く。
フユミの言葉を思い出して。
──シンジさん、お兄ちゃんに謝りたかったって……
頭の中で、その言葉だけがいつまでもリフレインしていた。
目も眩むような怒りが、ふつふつと湧き起こって心を苛む。
「…………」
小さな、けれど深い吐息がトウジの口からこぼれた。
その顔はいまにも泣き出しそうなまでに歪んでいたが、そのことに気づくほどの心の余裕を怒りという名の欺瞞に浸食されたトウジが持てるはずもなかった。
「それじゃ……碇君」
静まり返っていたダイニングに、レイの凛とした声が響いた。
外に止まったニンジャの音に気づいたというわけでもないだろう。
しかし、ほぼそれと時を同じくしてレイは椅子を引いていた。
「あ……うん」
静謐な時間を破られ、戸惑ったように答えるシンジを見つめながら、それでもレイは自分がしなければならなかったことを果たせたと感じていた。
自分が伝えなければならなかったことは、全てシンジに伝えたと思う。
そしてシンジの口から聞きたかったこと、いや、それ以上の答をレイは受け取ることができたのだ。
もはや、自分がここにいる必要はない。
自分の目の前にいる少年が、自分自身のものではない記憶の中に住む少年とは、決して重ならないことを知ったから。
そのことに一抹の寂しさも覚えてはいたのだけれど。
──わたしが……悲しいの?
いま、ここにいるレイにとっては、三年以上前の記憶は自分が経験したことではない。
しかし経験がないにも関わらず、それは記憶としてあるのだ。
体験の蓄積が経験を生みだし、その事実がなければ記憶は構築されないはずなのに。
他の人間では絶対にあり得ない、完全なる二重の自己。
それがレイを自分を人間と言い切ることをさせない、最も大きな要因となっていた。
──いいえ、彼女が……悲しいのね……
小さく痛む胸を感じながら、レイはそっと彼女の記憶を受け入れようとしていた。
いままでは、決してできなかったことだった。
自分の心を蝕む二人目の記憶を、レイは忌み嫌っていた。
それはそうだろう、自分のものではない記憶を押しつけられたら誰であろうと発狂しかねない。
なににつけ甦る、不自然でありながら鮮明な記憶と闘い続けて、レイは今の自分を構築してきたのだ。
二人目と自分を差別しないトウジという存在を拠り所にして。
しかし今、レイはシンジの思いを受け取った。
トウジ以上に二人目のことを知る人から、二人目と同質の思いを託されたのだ。
彼女はそれを自分の中で昇華して、シンジを守るために閃光の中に消えた。
しかし、レイはその思いの炎を消すことなく伝えなければならない。
生き続けようとする人たちに。
紆余曲折を経てはいるけれど、子供たちは一生懸命生きていることを。
それは、間違いなく嬉しい決意だった。
その意思をシンジは自分自身で人間と言い切ることのできないレイに託した。
そして、それほど大事なことをレイに託すことで、シンジはレイを肉親として認めようとしていたのだろう。
そのことは、レイにとって喜ぶべきことのはずだった。
けれど、どこかで……レイに残る二人目の彼女の感情が、その新たな事実を拒絶していたのかも知れない。
彼女はシンジをどう思っていたのだろうか?
他者のままであり続けたかったのかも知れない。
いま、レイの胸を刺す小さな痛みがその証拠なのかも知れない。
深呼吸をするようにレイは目を閉じて息を吸い、微かに広がろうとする胸の痛みを宥めようとした。
けれど、その痛みは大きくなるばかりで、いっかな消え去ろうとはしなかった。
痛みに耐えかねて、レイは思わず目を見開いていた。
その先には、シンジの黒い瞳が待っていた。
シンジの瞳が紅い視線を捉えて包む。
その途端、不思議とレイの胸から痛みは消え去っていた。
──どうして……なの?
却ってそのことに怯え、レイの瞳は不安げに揺らぎ、逸らされる。
シンジは黙ったまま、それでもレイを見つめていた。
レイの抱いた決意のことをシンジは気づいたのだろうか?
むろん、気づいていた。
レイが父や母に自分のことをありのままに伝えてくれると。
それを悟るくらいのことは、いまのシンジにならできる。
そして、これから先も。
だからこそ、シンジは何も言わなかった。
不安なのは、自分も同じだったから。
だから、シンジは黙ったまま立ち上がるとレイの手を優しく取った。
驚いたようにレイの顔が跳ね上がる。
二人で結んだ約束の視線の向こう側で、シンジは小さく頷き言葉を紡いだ。
「下まで……送るよ」
その言葉は、妹に向ける兄の優しさが込められたものだった。
加持がシンジに送った言葉とは、また違った優しさを散りばめて。
「……うん」
少し……ほんの少しだけ、レイは頬を染めて頷いた。
とても、嬉しかった。
自分にアスカが好きだと言いきった、シンジ。
それでも、自分を慮ってくれる「家族」への優しさがとても嬉しかった。
だから、抱いていた不安も消える。
何一つ、怯えることなどない。
ただありのままのシンジの姿を、父と母に伝えるだけでいい。
それから先は、また彼らの克服すべきこととなるのだから。
自分が必要になることもあるだろう。
そのときに、また彼の瞳を見つめればいいのだ。
そうすれば、語られない思いを分かち合うことができると判ったから。
それ故に、レイの脳裏にアスカの姿が浮かんでしまった。
シンジの選んだ唯一の「他人」である少女の姿が。
シンジを案じ、自分にまで見せたことのない涙を見せ、抱きしめてくれた少女。
レイにとっては「セカンド」ではない、ただの同僚に過ぎなかった少女。
その姿が浮かんでしまったから、レイはシンジの手を離さざるを得なくなった。
「碇君、惣流さんは……」
そう告げた瞬間、何とも形容しがたい感情がレイの小さな胸を締め上げた。
先刻の気持ちとは、また違う苦しさがこみ上げてくる。
トウジを待って、アンビリカルブリッジの上に立つときにも似た気持ち。
それが、レイにアスカの名前を呼ばせていた。
「綾波が、気にすることじゃないよ」
シンジはテーブルの足許につくねられていたレイのヘルメットを拾い上げ、それを手渡しながら微笑った。
取りようによっては、あまりに冷たいとも受け取られかねない言葉だった。
現にレイはその言葉の裏に隠されたシンジの真意を読みとることはできなかった。
無理からぬことだが。
悲しげな色が紅い瞳に浮かび上がって、シンジをなじるように光った。
それを見たから、と言うわけでもないだろう。困ったような微苦笑を浮かべてシンジは続ける。
「大丈夫、アスカとはきちんと話すよ。これからも二人で暮らしていくんだから」
苦笑とも微笑ともつかない、形容に困るような頼りない表情を浮かべて、シンジはレイに告げた。
その顔にレイははっと胸を衝かれる。
シンジが浮かべた表情は、自分自身のものではない記憶にあるものと同じだったから。
かつての自分に向けられた微笑みが、今はアスカに向けられるものと知った途端、またしてもレイの胸にかすかな痛みが走る。
その感情の動きを、わがまま……と言えるだろうか?
そんなことはあるまい。
何故なら、胸を刺す小さな痛みをレイにはまだ理解することはできないからだ。
嫉妬という、感情を。
レイの抱いた嫉妬は育ち始めた感情が持つ、まだ原初的なものだった。
それは肉親を他人に奪われるという、言うなれば兄を奪われる妹のような気持ちに過ぎなかったのだから。
シンジの差し出すヘルメットを受け取りながら、レイは頷くことしかできなかった。
安心はできたけれども、説明のつかない小さな哀しみに胸を襲われながらも、それを顔に出すわけにも行かないままに歩を進めるしかなかった。
軽やかな電子音を立ててエレベーターが最上階に止まった。
開いたドアを片手で押さえ、シンジはレイをケージの中に導いた。
騎士にエスコートされる姫君のように、レイは静かに足を踏み入れる。
その表情は曇ったままではあったけれど。
音も立てずにドアが閉まり、デパートやホテルに設置されるような三面ガラス張りの展望エレベーターが静々と降下を始める。
──静かな夜だな……
外を見つめていたシンジは何の脈絡もなく、ふと思う。
いまになって、シンジは自分の心が意外なまでに平静だということに気づいた。
昨夜からの一連のできごとは、シンジにあまりにも重い負担を強いていた。
けれど、それを恨む気持ちが生まれなかったのが、不思議だった。
カヲルの辛すぎる告白から始まった、過去という時間の逆襲。
自分が切り捨てようとした、自分自身からの手痛いしっぺ返し。
確かに、あの瞬間にはカヲルを恨んだ。
そして、アスカさえ憎んでしまおうとした。
けれど、過去が連れてきてくれたのはそれだけではなかった。
加持の諭しがあった。
フユミの思いがあった。
自分を認めることは苦痛を伴うことだ。
けれど、それを認めることができれば、なお他人を知ろうとすることができる。
そしていままでは決して気づくことができなかった、自分に向けられる思いの数々を今にしてようやく知ることができた。
鈴原フユミ、綾波レイ、碇ゲンドウ、碇ユイの思いを知った。
そしてこれから自分は惣流・アスカ・ラングレーの思いを知ることができるのだ。
それを教えてもらうための覚悟ができたのだ。
自嘲気味にシンジは心の中で思う。
自分が意識的に遠ざけてきたことに対して、ようやく向かい合うだけの心を持つことができるようになったのだから、一人で過ごしてきた時間も決して無駄な時間ではなかったのだ、と。
無駄に見えたとしても、それがあったからこそアスカをここに迎えられた。
そしてどんなに辛かったとしても、この短い時間に起こったことはそれ以前の人間関係を希薄にしていた数年よりも、遙かに充実していたことを理解させてくれた。
ふとシンジは顔を空へと向ける。
満天を覆い尽くす闇の中に、ひときわ明るい円盤のように月が輝く。
冴え冴えとした青白い光が降り注ぎ、シンジを照らし出す。
目を刺すような淡く冷たい光は、けれど、果てがないほど優しく感じられた。
いま自分がいる場所は小さなガラス張りの箱の中の筈だったが、不意にシンジは「最後の刻」のことを思い出していた。
全てが時空という海に溶けだした、あの瞬間もどうしてか月の光を感じていた。
全てが個に。
個が全てに。
けれど、それは人のありようではなかった。
たとえ人が不完全な群体に過ぎなかったとしても、それを完成させるのは時と人との長い長い相克の果てでなければならないのだ。
間違っても人の手によって、人の種としての完成を推し進めていいはずはない。
だから、シンジは世界を再創造した。
それはネルフを中心とした、世界の僅かな一部にしか過ぎないできごとだったが、確かにあの瞬間のシンジは神に等しかったのだ。
そして現人神となったシンジの決断を、後押ししてくれたのは間違いなく……
──一人ぽっちの僕を助けてくれたのは……
彼女の視線を感じたような気がして、シンジはふと後ろを振り向いていた。
けれど、そこにあるのは紅い瞳だった。
心の中で期待した、蒼い瞳ではない。
シンジの視線に気づいて、レイが小首を傾げる。
何でもないという風にシンジは首を振り、微苦笑を浮かべた。
そうしながらも、シンジはレイの変化に驚いていた。
僅かな仕草にすら、彼女の意志を感じることができる。
自分自身のために何かを知ろうとする、綾波レイとしての意志。
それを行う彼女は、もはや一人の人間以外の何者でもないのだ。
シンジは再び月を見上げる。
その傍らにそっとレイが寄り添い、シンジの視線を追いかけるように空を見上げた。
その途端エントランスの中にエレベータは吸い込まれ、無粋なコンクリート壁を嫌みのように見せつけ、代わりにロビーの明かりを提供した。
共有しようとした時間は残念なことに一秒と満たずに断ち切られてしまった。
残酷なくらい静かに、エレベーターのドアが開き二人をせきたてる。
足早にドアをくぐったのは、レイが先だった。
彼女を追いかけるようにして、シンジもエレベータを下りる。
「憶えてる……碇君?」
振り返りもしないまま、レイがそんな一言をシンジに投げかけた。
「え……?」
と、シンジは聞き返したが、次にはレイの言おうとしていたことが判った。
あのとき、彼女と彼に願ったのは他ならぬ自分なのだから。
時は断ち切られたが、つながれた思いは断ち切られたりしていない。
先刻、シンジが思い出したことをレイもまた思いだしていたのだ。
「憶えてるよ……もちろん」
「それなら……いいの」
それだけの言葉。
それなのに、シンジにはレイの後に続けられなかった言葉が理解できた。
最後の時に、隣にいることのできなかったレイ。
人生という長い時の果てに、決してシンジの隣には寄り添うことのできない存在。
哀しいけれどシンジの隣にいるべき人間が誰なのか知った、レイの精一杯の言葉なのだろう。
感情が芽生え始めたばかりの彼女に心配されるのも情けないと思うが、それは仕方のないことだった。
それが自分なのだから。
シンジは改めて、前を歩くレイを見つめた。
前にもこんなことがあった。
彼女の裸を初めて見てしまったとき、何と言って謝るべきか判らぬままレイの背中を見つめて歩き続けた日があった。
──終いには、父さんのことで叩かれたっけ……
でも、いまのレイの姿はあのときとは違う。
そして自分も、変わった……はずだ。
そう言えば……と、シンジは思う。
シンジはレイのこんな姿を見るのは初めてだったことに今更ながらに気づいた。
三年も経っているのに、レイの普段着姿を目にしたのは初めてだったのだ。
洗い晒したざっくりした感じの白いコットンシャツにタイトなストレートのジーンズ。
それが日本人離れしたレイの長い脚と細い腰とを際だたせている。
そして臍辺りまでの長さの黒い丈の短いサマーブルゾン。
こんなカジュアルな格好のレイなど、あのころには思いもよらなかった。
誰がコーディネイトしたかは知らなかったが、良くも悪しくも無機質な雰囲気をその身に纏わせ続けるレイには余りにも似合いのマニッシュな服装だった。
それでいて、十分すぎるほど女っぽくも見えるのだから、実に不思議だ。
「なに……?」
背後から送られる、不躾なシンジの視線に気づいてレイが振り返る。
「あ……いや」
思わずシンジはどもってしまう。
「あ……綾波のそんな格好を見たのは、初めてだったから……」
「似合わない?」
不用意なシンジの言葉に、思わずレイは自分の体を抱くように手を回して自分の姿を見直し、エントランスに張られた硝子に自分の姿を映してみる。
そんな姿を見せられると、本当に年相応な少女に見える。
「そんなことないよ。良く、似合ってる」
声を掛けてやらなかったら、いつまでもレイが夜の鏡を覗き続けていそうだったので、シンジはありきたりな言葉を掛けていた。
「ありがと」
それでも、レイにとっては十分すぎる言葉だったようだ。
嬉しそうに、くるりと振り向いてレイはシンジに微笑んだ。
その微笑を見ながら、シンジはほんの少しだけ不埒な想像をする。
──綾波を選んでいたら、どうなってたろう……
でも、結局その想像は実らなかった。
シンジに、そのつもりはなかったのだから。
それにレイを見守る人間が、他にいることを知っていたのだから。
「ねぇ、綾波。本当に送って行かなくていいの?」
レイの手から提げられる、美しい光沢を放つパールホワイトのヘルメットを見つめながら、シンジは訊ねた。
「平気……彼が来てくれるはずだから」
レイの言うように、その少年を知っていたからシンジの想像は実らなかったのだ。
「なら……いいんだけど」
口の中で呟きながらも、シンジはポケットの中のデュークの鍵を弄びながら、彼がここにくることはないだろうと思っていた。
しかし、エントランスを抜けたシンジは足許に影が落ちていることに気づいた。
駐車場側から月を背負い、長く影が伸びていた。
その影を踏みつけていると気づいた瞬間、何故か肌が粟立つような感覚に囚われる。
思わず上げた目に、一台のバイクと一人の男の影が映った。
月明かりを浴びながら佇む、黒い人影は強烈な印象をシンジに与えていた。
夜鴉のような、不吉な印象を。
「ニンジャ……?」
ライダーの顔は影となってしまい判別することができなかったが、バイクの方はその特徴的なシルエットのおかげで一目瞭然だった。
しかし、そんな間抜けにさえ聞こえるシンジの呟きも、レイの発した一言で凍りつくことになった。
「鈴原……くん」
「!」
レイにはトウジが来ることが判っていた。
トウジと約束を交わしたのだから。
あの日からトウジはレイとの約束を違えたことは一度たりとてない。
しかし今日だけは、その約束を破ってもらった方がいいとさえレイは思っていた。
シンジには心配掛けまいとして、あのように言ったけれど。
そのシンジは自分の目を疑うしかなかった。
トウジがここに来るとはとても思えなかったからだ。
謝るためには自分がトウジの元に出向くしかないと、覚悟していた。
それだけに、その覚悟を覆された衝撃は小さいものではなかった。
ふらりとトウジはバイクから離れ、エントランス側から放たれる光の支配する領域に足を踏み入れた。
懐かしい瞳がシンジを射た。
逢いたいと思っていた。そして謝りたかった。
逢いたくなかった。何を言うべきか判らなかったから。
けれど、ついに顔を合わせてしまった。
覚悟はしていたけれど、この出会いはシンジにとって少々唐突に過ぎた。
「トウジ……」
結局、何を言葉にしたらいいのか判らぬまま、思わずシンジは彼の名を呟いていた。
「……久しぶりやな」
シンジの言葉を硬質な表情で跳ね返しつつ、トウジは短く答える。
言葉を返すのすら、億劫といった体だった。
「帰るで、綾波」
吐き捨てるように言い放つと、トウジはシンジの全てを拒絶するかのようにきっぱりと背中を見せつけた。
想像を遙かに超えるトウジの行動に困惑して、レイはその場に立ち竦んでしまい、トウジの背とシンジの顔に慌ただしい視線を走らせた。
「ま……待ってよ、トウジ」
慌ててシンジは、氷壁のようにそびえるトウジの背中に声を掛けた。
たとえ拒絶されたとしても、それに甘えるわけにはいかなかったのだから。
「なんや?」
トウジが返す声には、酷く冷淡な響きが含まれていた。
その言葉の刺に自分の心が萎みそうになるのをシンジは感じた。
しかし、それは自分が償わねばならないものの一端に違いない。
怯えようとする心を抑えつけながら、シンジは言葉を継いだ。
「……脚は、大丈夫なの?」
肩越しにシンジを振り返りながら、横顔に似合わない冷笑を浮かべ、トウジは問いに答える。
「おう、なんともないで。ネルフの技術はまさに魔法や。メンテさえきちんと受けとりゃなんともないわ」
しかし意外なことに今度の言葉には、棘らしいものは含まれていなかった。
事実を事実として告げるトウジらしい、いつもの言葉に過ぎなかった。
「ごめん……僕のせいで」
しかし、それが現に起こってしまったことであるからこそ、シンジは自分にのしかかる責任を感じずにはいられない。
それがシンジに謝罪の言葉を紡がせていた。
「言うなや、シンジ」
けれどその言葉を背中で遮り、煩わしそうにトウジはそっぽを向いた。
はらはらしながら帰趨を見守っていたレイの目にトウジの横顔が灼き付き、レイは我知らず身を強張らせた。
その顔は、いつか目にしたシンジの横顔に酷似していたからだった。
レイの中で次第に、記憶が変容を始めていた。
変容というのは言い過ぎかも知れない。
二人目の記憶と自分自身の感情とが繋がり始めていたのだ。
その磨り合わせられ始めた記憶の中のシンジの表情をレイは思いだした。
全てを拒絶しながら、誰かに気にかけられることを望む顔。
どうしようもなく子供じみた、幼い表情。
それがトウジの顔に浮かんでいた。
それは酷く恐ろしいことのようにレイには思えた。
他人のためには自分の命すら顧みなかった人が、自分自身のことで変わってしまう。
──どうして……?
どうして自分自身のことを騙そうとするのだろう?
それが怖くて、レイはトウジに声をかけようとした。
「鈴……」
白い手を伸ばしながら、レイはトウジに向かって足を踏みだそうとする。
言いかけたレイの言葉は、けれど、トウジの台詞によって遮られてしまう。
踏み出そうとしていた足も竦むほどの、激しい感情によって止められた。
「シンジ……今日、電話寄越したそうやな?」
全てを救えるはずだったレイの言葉は間に合わなかった。
トウジは言葉を始めてしまった。
破局とすら言える、滾るだけの思いの言葉を綴りだしていた。
「……うん」
シンジは頷く。
トウジ同様に、シンジもまた気づいてはいなかった。
自分たちの思いのベクトルが正反対の方向を向いていると言うことには。
「どういうつもりやったんや?」
決して自分の視線をシンジに向けないままで言葉を続けるトウジ。
あらぬ方向を睨みつけた視線が次第に固くなっていくのを、トウジ自身も知らぬまま。
無論、トウジの視線に氷の刃が育っていることなどシンジも気づいていない。
「どういうつもり……って」
決して、いまの二人が判りあえるはずがないのだ。
己自身を責め続ける二人に、まみえることのできる接点は絶対に存在し得ない。
だからトウジの紡ぐ言葉は、シンジには心外とも言える言葉になる。
「また、お前はワシの脚のこと蒸し返そうとしたんやないか?」
鳩尾を殴られたような重い殴打感が、シンジの顔に暗い影を落とした。
そんなつもりはない。
ただ、心を込めて謝りたかっただけだ。
いままでの時間の中ではきちんと謝ることができなかったのだから。
しかし加害者の立場のシンジが、被害者であるトウジにそう言われてしまったら、続けるべき言葉は全て否定されてしまったも同然だ。
「そ……そんなつもりじゃ」
だからシンジにはそう答えるしか手立てがない。
そして被害者の立場でありながらシンジを慮るあまり、自身をいつしか加害者の立場に貶めてしまったトウジには、もはや何を言っても聞き入れるだけの余裕がなかった。
「だったら、なんやあっ!」
それが故に、トウジはシンジの言葉一つ一つが気に入らなかった。
──悪いのはワシやのに、どうしてシンジはそれを認めないんや!
苛立ったトウジは一歩を踏み出した。
根本が間違っているとはいえ、その漲る気迫は本物だ。
シンジはトウジの放つ迫力に気圧され、脚を下がらせた。
それを追いかけ、トウジはシンジの胸ぐらを掴み上げる。
何をすることもできないシンジは、ただその苦しさに耐えるしかなかった。
「何でお前は、そう、自分ばかり責めよるんやっ!」
胸ぐらを掴んだ右手にギリギリと力が込められていく。
高ぶる感情そのままに。
「……と……トウ……ジ?」
固く握りしめられた拳に喉元を締め上げられ、苦しい息の下でシンジはトウジを見た。
そこに見える顔は、追いつめられ、何処へも行き場のなくなった人間の顔だった。
その表情をシンジは知っている。
直接は見ていない。
けれど、判るのだ。
それが、昨夜自分が浮かべていた自分の顔だということに。
トウジの中に、その表情をシンジは見つけていた。
「お前が悪けりゃ、みんな済むと思ってんのやろ!」
言い放ちながら、トウジはシンジを突き飛ばした。
喉元を強く押されて、咳き込みながらシンジは無様に脚をもつれさせ、よろめく。
──倒れたり、するもんか!
正直、自分がどうしてそんなことを思ったのか不思議だった。
けれどいまここで倒れることは正しくない、とシンジは感じていた。
しかし失ったバランスを回復させるのは容易なことではなかった。
──駄目だ……
と思った瞬間、確かな手応えでありながらも柔らかい感触が背中を支えてくれた。
「綾波……」
倒れようとするシンジを支えてくれたのは、レイだった。
小さな身体全てでシンジを抱きかかえるようにして、レイはシンジを受けとめていた。
「碇君……」
とっさに振り向いたシンジの視線を避けるように顔を伏せ、すまなそうにレイは謝っていた。
けれど、レイに責は毫ほどもない。
これは自分と、トウジの問題なのだ。
「大丈夫だよ、綾波」
胴に回されたレイの細い腕に思いを重ねるように自分の手を重ね、シンジはしっかりと足を踏みしめる。
そしてその腕を解きながら、シンジはレイの顔を見つめる。
哀しい紅い瞳がシンジを一瞬だけ見つめ、逸らされた。
他の誰をも責めることのできない無垢な瞳。
その瞳にこんな色を浮かべさせたのは、自分とトウジだった。
それがシンジには許せない。
謝らなくちゃいけない。
加持の言う通り、それも真理だ。
しかし、その前にするべきことがあった。
まず、自分がすべきことは……
シンジは昂然と顔を上げると、レイから離れた。
そう、自分を貶めていたら決してできないこと。
そして、顔を背けてふてくされたように立ちつくすトウジを見据える。
決して睨みつけるわけではない。
ただ、敢えて誤解を続けようとするトウジを断罪できるのは自分だけなのだ。
その当人達でしか為し得ないことを為すために、シンジはトウジをしっかりと見つめていた。
──これが、本当に逃げちゃいけないことなのかも知れないな……
そう思いながら、シンジは大きく息を吸い込んでその言葉を吐き出した。
「トウジこそ何を拘ってるんだよ」
トウジにとっては、思いもかけないシンジの言葉だった。
もちろんシンジの言葉は大きくもなかったし、詰問するような口調でもなかった。
それだけにトウジに与えた衝撃は大きかった。
トウジの顔が夜目にも鮮やかに朱く染まる。
けれど、トウジは声を出せずにいた。
白けた時間だけが、無為に流れる。
それでもシンジはトウジの言葉を、敢えて待った。
「な……なんやと?」
ようやく、トウジが震える言葉を口からこぼした。
図星を指された動揺がトウジの声を震わせていた。
トウジには傲りがあった。
シンジが自分に反抗したりしないだろうという傲りが。
しかし、それを見事にシンジは裏切った。
「言いたいことがあるなら、はっきり言ってみてよ」
シンジは更に言葉を続けた。
トウジが無意識下でもっとも怖れていた形をとって。
自分が臆病者だということをシンジは指摘しようとしているのだ。
「お……お……おんどりゃ……」
トウジの手が握りしめられて、震えた。
これ以上喋らせてはならなかった。
そうしたら、自分がいままで抱えこんできた思いと時間を無にされてしまう。
その認識がトウジに生まれて初めて感じる怖れを抱かせていた。
それを悟られたくはない。
ならば、とれる方法はなんだ?
もっとも手早い方法が、一つある。
それは、暴力だ。
歪んだ視界の中にトウジはシンジの姿を捉えた。
ただ黙って自分を見つめるシンジの視線が針を刺すように痛い。
シンジにトウジを見下す思いなどない。
にもかかわらず、トウジはそんな視線を受け止めることができない。
受け止められないシンジの思いは、トウジのまわりにこぼれ落ちて散った。
「ワシを、なめとんかぁっ!」
過剰な期待、受け止めようのない思いは、人にとってたやすく負担となる。
それを払いのけるためには、戦うしかない。
対峙してしまったいま、逃げるという手段は使えない。
しかしそれを暴力で代行させるのは、あまりにも安易な方法だった。
けれど、いまのトウジにはそれくらいの手しか思いつけなかった。
生体義足が素早く大きなストライドを描き、シンジとの間合いを一瞬にして詰めた。
そして過誤の怒りに滾る右拳を、トウジはシンジの顔面に叩き込む。
はずだった……
シンジはあの時のように殴られることも覚悟していた。
それでも決して退かない決心もしていた。
だが、来るべき痛みに目を閉じてしまったことだけは仕方ないだろう。
けれど、顔を襲うはずの痛みはいつまで待ってもやってこなかった。
「な……なんじゃ、こりゃぁっ!」
代わりにトウジのひっくり返った声が、シンジの耳に届いた。
おずおずと目を開いたシンジの眼前で、トウジの拳が震えながら止まっている。
その拳と自分とを紙一重で隔てるものがあった。
昨夜、自分の拳を阻んだ光の壁が今夜もまた、目の前に出現していた。
『ATFっ!』
トウジも、シンジも自分たちを隔てる光の壁の出現に驚くしかなかった。
ゆうべ自分を拒んだ壁が、今夜は自分を守るのを見てシンジは背後に立つレイを振り向いた。
けれど、レイの瞳はシンジではなく真っ直ぐにトウジに向けられていた。
その、まだ幼い瞳に精一杯の感情を露わにして。
トウジは何とも言い難い色の瞳でレイを見つめ返していた。
けれど、レイはそのトウジの瞳には答えず、自分の抱いた疑問をぶつけた。
「どうして……あなたはそんなに怯えなくてはならないの?」
レイの放った疑問は、トウジの心を突き刺してかき回した。
そしてその言葉はトウジが後生大事に隠し続けていた心を粉々にし、剥き出しにする。
「あ……綾波……やっぱり、シンジが大事か?」
それはずっとトウジの心に蓄積された抑圧された思いだった。
自分で決して認めることのなかった、自分自身の欲望。
最後の時までのわずかな間、レイを見守ってきたときから気づいていたこと。
──それでも構わない……
なんていうのは、嘘だった。
──ずっと、見ていたかったんや、ワシは……
行き場のない拳を震わせ、顔に昏い色を滲ませてトウジが絶望を呟く。
そのあまりに間違った言葉に、レイはゆっくりと横にかぶりを振る。
情けない言葉に、紅い瞳が涙に濡れた。
その瞳にそんな哀しい色が浮かぶことがあるなどとは、トウジも、シンジさえも思っていなかった。
「なぜ……あなたがそんな悲しいことを言わなくちゃいけないの?」
壁の向こう側から、レイがトウジに問う。
「あなただけが……ずっとわたしを見ていてくれたと、思っていたのに……」
レイの頬に、一条の涙が伝った。
見る間にそれは早い流れとなって、アスファルトへと落ちていく。
月の光を映し込んで落ちるそれは、宝石のように輝きながら砕け散る。
けれど、その美しい煌めきはあまりにも悲しすぎた。
その輝きが、無言のうちにトウジを責める。
レイに、そのつもりがなくても、だ。
もはやトウジに、紅い瞳を直視するだけの力は残っていなかった。
自分とシンジとを分かつ光の壁に縋るように、ずるずると力無く頽れながらトウジはあまりに苦い思いを噛みしめていた。
──ワシは……大馬鹿や……
しかしトウジを見つめるレイの瞳は哀しげであったけれど、それでも限りなく優しい色を湛えていたのだ。
たとえATFでトウジの行為を阻んだとしても、レイはトウジのことを好いているのだから。
ふと、トウジは自分の肩が重くなったことに気づいた。
手が、置かれていた。
顔を上げると、ATFの向こうに微笑むシンジの顔があった。
その右手は聖剣のように、易々とATFを貫き通している。
その光景はトウジに過去の自分を思い起こさせていた。
かつて、自分も同じことをしたはずではなかったか?
使徒が張り巡らせたATFを中和ではなく、貫通した己の右手。
何故、今は貫くことができなかったのだろう。
その理由は、トウジにも薄々判ってはいたのだった。
「ありがとう……トウジ」
シンジが言った。
トウジが憶えている頃の、そのままの表情を浮かべて。
その顔と言葉とが、トウジが抱え続けていた胸の奥の青く硬い氷を溶かしてゆく。
それが溶けきったとき、燃え狂うような熱いものが胸の奥で沸き立つ。
熱血症のトウジだったが、それだけに自分自身のことで感動するなどということは、逆にごく稀なことだった。
しかし、いまトウジは本当に「歓喜」と言う気持ちを噛みしめていた。
自分でも訳が判らないくらい、目の前の少年がここにいてくれることが嬉しかった。
──なんやねん、これは?
目の前が、どうしても霞んで歪む。
だから、トウジは俯いた。
それを自分が流すのを見られるのが、無性に恥ずかしかったから。
けれど手だけは、肩に置かれたシンジの手首だけはしっかりと握りしめていた。
「すまん……すまんかった、シンジ」
謝罪の言葉がトウジの口からこぼれた。
今まで言いたくて、けれど面と向かっては決して言えなかった言葉。
自分で言うことができないから、誰かに遠回しに伝えてもらおうとしていた言葉をトウジはようやく口にした。
その瞬間。
輝き続けていた光の壁が、幻のように消え失せた。
あるかないか判らぬような気配が消えたのを感じ、思わずシンジもトウジも再びレイを見つめることとなった。
「違う……」
信じられないように、レイはかぶりを振った。
「わたしじゃない……鈴原君の気持ちが、消したの」
そう言ってレイは呆然としたまま、二人の少年のそばへと歩を進めた。
気を利かせて、シンジはトウジの手を解いて二歩ほど退がった。
彼女の紅い瞳は、トウジの顔だけを見つめていたから。
レイは座り込んだままのトウジの傍らにしゃがみ込むと膝をついて、何も言わないまま少々たれ目がちな彼の黒い瞳を見つめた。
しかし、沈黙の時間は長くは続かなかった。
「……好き」
沈黙を破ったのはレイのこぼした、たった一言だった。
しかし、その一言は聞いたもの誰しもが驚くような一言だったに違いない。
レイが自ら、自分の気持ちを語ったのだから。
驚いたようにトウジは目をしばたたかせ、レイの顔を穴が開くほど覗き込んでしまう。
ただ、シンジだけはレイがトウジに告白するのだろうと思っていた。
先刻、自分に示してくれた気持ちを知っていたから。
「あ……綾波?」
あまりに突然なことに、トウジは動転しきっていた。
先刻、レイにぶつけた気持ちはもちろん嘘ではない。
しかし、それは自分の気持ちだった。
レイの思いをトウジは知らなかった。
実のところ、知りたいと思ったことさえもなかった。
もちろん、それを怖がる気持ちもあった。
しかしそれ以上に、自分が裏切ることとなった少女の存在があったから、知りたがろうとする自分の心を殺していたのだ。
そんなトウジの葛藤を知らないレイは両の腕をトウジの首に回し、自分の頬をトウジの頬にすり寄せた。
わずかに濡れた感触が、トウジの頬に冷たく残った。
しかしレイの継いだ言葉は、何よりも熱く豊穣な言葉だった。
「きっと誰よりも、司令より、碇君より……あなたのことが好きだと思う。私の心をずっと見守ってくれたあなたのことが」
何と豊かに響く言葉だったろう。
ひどく拙い直接的な言葉にも関わらず、レイの紡いだ言葉の一語一語は水底へ沈みゆく木の葉のようにトウジの胸の中をたゆたいながら落ち、静かに積もる。
黙ったまま、トウジは寄せられたレイの細い体をかき抱いた。
体中が歓喜に震え、爆発しそうだった。
これほどまでに嬉しく感じることだとは、トウジは思いもよらなかった。
好きな人から、思いを告げられることが。
当初トウジは、レイには何となしに興味を惹かれただけだった。
初めてレイを意識したのは、自分がパイロットとしてエヴァに乗らなくてはならなくなった日だった。
自分専用のエヴァ参号機が来るまでのあいだ、ネルフ内部で極秘裏に行われ続けた訓練と実験の数々。
シンジもアスカも知らなかったそれにパートナーとして参加していたのが、二人目の綾波レイだった。
彼女の死を、トウジも知らなかった。
その事実を知らされたのは、シンジからだ。
けれど、トウジの目の前にはレイはいた。
「三人目」とシンジに言われた綾波レイが。
それでもトウジに彼女を区別するつもりなどなかった。
身も蓋もない言い方かも知れないが、トウジには判らなかったのだ。
現にトウジの目の前に綾波レイは存在していたのだから。
だからこそ全てが終わったあとでも、一緒に働いているだけの存在。
それだけで構わないつもりだったのだ。
洞木ヒカリの思いを犠牲にしたトウジは、それ以上を望むことはできなかった。
レイという存在の揺らぎを止めることのできない少女に、人間になってほしいと願い、その手助けになればと思って今まで一緒にいただけのつもりだった。
けれど、思いもかけないレイの告白はトウジの臆した心を一気に暴き出していた。
「トウジ……」
シンジの声が背中に聞こえ、答えるようにトウジは小さく頷いた。
トウジ自身も答えなければならないと感じていたのだ。
ここでもしトウジがレイに答えなかったとしても、レイにその理由が判ることはないだろう。
そしてこの先、その理由を知ることがあったとしても、おそらくレイはトウジを許してくれるだろう。
しかし、それがトウジにとって過去の自分を否定してしまうほどの恥ずかしさを伴う言葉であったとしても、自分がレイに対して抱いていた思いをきっぱりと告げなければ、この少女をその手に抱く資格はないとトウジは己を規定した。
真っ直ぐに前を見つめ、トウジはレイを抱く腕に力を込める。
「すまんの、綾波……わし、シンジに嫉妬しとったんや、きっと」
「どうして?」
しかし、その必死の思いで伝えた言葉に、無邪気で幼い疑問を返されてしまい、トウジは困った。
さすがに、その先の言葉までは考えていなかったから。
「ガキみたいな理由や、言えるか」
だから、思わず地が出てしまう。
「教えて」
レイにはそれが判らない。
判るはずもないのだ。
レイは、いま、初めて「他人」を好きだと言うことに気づいたばかりなのだから。
「トウジ、教えてあげなよ」
いっそ微笑ましいとすら言える二人のやりとりを苦笑混じりに見ていたシンジが、微妙なタイミングで茶々を入れた。
「あのなぁ……シンジ……ま、ええか」
一瞬、トウジは怒鳴りかけ、しかし、それを思いとどまった。
いまは、そういう時間ではないのだから。
初めて好きだと言い切ることのできる人に、自分の思いを伝えるための真面目な時間なのだから。
「あのな……シンジに逢いとうなかったんは、わしのことばかりやないんや。綾波をシンジに逢わせとうなかったからなんや」
とうとう隠していた心をトウジはさらけ出した。
その当事者が二人ともいるにも関わらず。
「どうして?」
その疑問はレイにとっては、当然のものだった。
またしてもトウジは窮地に陥った。
この言葉にまで疑問を向けられてしまったら、あとはどう言えというのだろう?
「だから……綾波を取られると、思ったからや!」
もはやトウジの台詞は、悲鳴そのものだった。
その恥ずかしい言葉を吐き出しながら、トウジはうすぼんやりと思っていた。
──ワシのこの先の人生、恥ずかしいなんて思うこた、もうないやろなぁ……
「そんなこと……ないのに」
白い頬を真っ赤に染めて、それでもトウジから離れることなくレイはぽつりと呟き、その瞳から更に大粒の涙をこぼした。
その言葉を、落とされる涙の代わりにすくうようにしてシンジが受ける。
「なくても心配なんだよ。僕だって、アスカがネルフに行ってるときは心配だもの」
そんな台詞を、何の気なしに口にしたシンジは、突然天啓のように自分が真理に辿り着いたことを悟った。
昨晩のカヲルの、語られざる言葉の意味に気づいたのだ。
そして、目の前のトウジの姿は昨夜の自分のカリカチュアであり、理想でもあったということに。
いまトウジを抱きしめているレイの手は、自分にとっての昨夜のアスカの手だった。
しかし、シンジはそれをはねつけてしまった。
けれど、トウジは差し伸べられた手を掴む術を知っていたのだ。
──自分を受け入れること……
嫌なことも嬉しいことも、素直に認めること。
その違いが、シンジとトウジにはあるのだ。
トウジの場合、言葉こそ素直ではないけれど、シンジのように自分で自分をごまかしたりするようなことはない。
そんなことを考える必要がないのだ。
今回のこともトウジ自身、自分をごまかすつもりはなかったはずだ。
ただ責任を感じるあまり、そういう結果に自分を追い込んでしまっただけのことなのだろう。
──でも、僕は……
そう、シンジは自分の心を欺き、それを正当化する術を知ってしまっていた。
だから、いくらでも逃げ続けることができた。
今回のことがなければ、シンジはいつまでも一人で逃げ続け、誰の心を知ることもないまま、ただ一人で死んでいくしかなかっただろう。
「……のう、シンジ」
首にかじりついて啜り泣くレイの背中を、まるで幼子をあやすように優しく叩いていたトウジがぽつりとこぼした。
深く暗いところにある心に思いを馳せていたシンジは、ふと瞳の焦点をトウジの横顔に合わせる。
身動きがとれないまま、それでも顔をわずかに動かしてトウジはようやくシンジの視線を捕まえて言葉を続ける。
「約束……憶えとるか?」
それは、決して忘れ得ないものだった。
初めて友情というものを示してくれた言葉をどうやって忘れろというのだろう。
「もちろん憶えてるよ」
そう言って、シンジは短い吐息をついた。
今度こそ、自分が殴られるべきだと判っていたから。
あのときのトウジの言葉。
──碇のこと、とやかく言う奴がおったら、わしがパチキかましたる!
忘れようのない、嬉しい言葉だった。
だからこそ、殴られるべきは自分だったのだ。
いくつもの言い訳や嘘を用意して自分を欺き、自分自身のためと偽って無味乾燥な理論武装を続けてきたのは他ならぬ自分だったのだから。
しかし、トウジから返された言葉は意外なものだった。
「殴らんぞ……ワシは」
ぽつりというと、トウジはレイを抱え上げるようにして立ち上がった。
「え?」
シンジは思わず訊き返していた。
「なんや……不服か?」
そう問い返されて、シンジは言葉に詰まった。
「不服……ってわけじゃないけど」
「ええやないか、もう」
そう言いながらトウジは晴れやかな笑みを浮かべ、シンジを見やった。
「ワシらが約束を覚えとれば、それでええやないか。けどな、それがお前の重荷になってしもたら、ワシの方がつろなってしまう」
トウジの言葉にシンジは息を呑む思いだった。
大人の加持がシンジに教えてくれたのは、過去の見つめ方。
そして、まだ子供でしかない自分たちが教え合ったのは、未来なのだ。
だからこそトウジは過去に縛られてくれるな、と言うのだ。
「そないなこと気にするより、おまえにはせなあかんことがあるはずやで?」
そう、シンジがしなければいけない、あと一つの大事なこと。
それをトウジは知っていた。
シンジが気に掛けなければならないことは自分の脚のことなどではなく、シンジのために行動した少女のことなのだから。
そう、あのアスカが、わざわざ自分のところにまで出向いてくれたのだから。
だからそのことをシンジに、トウジは知っておいて欲しかった。
「わしな、惣流に逢うたんは、一年ぶりくらいなんや」
トウジはゆっくりと思い出すように慎重に言葉を紡いでいく。
「前に逢うたときは、なんちゅうか、あの頃に比べて随分と大人びたっちゅうか……」
そこでトウジは言葉を切り、腕の中のレイに視線を一時落とす。
レイのことを引き合いに出していいものか、悩んだのだった。
それに気づいたのか、レイが顔を上げトウジを見つめた。
その顔は、構わないと言っていた。
そう、トウジには思えた。
レイに頷き、トウジは言葉を続ける。
「せやな……昔の綾波みたいやった。我関せず、ちゅう感じや。それが今日久しぶりに逢うたら、また別人やった……けど、その方が惣流らしい、ちゅうか年相応ちゅうか……ま、わしに言えるこっちゃあらへんけど、なんちゅうか「女」やったわ」
照れくさそうに笑い、トウジは鼻の頭を掻いた。
「シンジと惣流との間に何があったのかは訊かん。けどな、傍から見ててもお前らはええコンビなんや。それだけは忘れんといてな」
シンジは黙ったまま、トウジの言葉を噛みしめていた。
自分たちが望むだけではない、自分たちが関わりを持った人たちも、それを望むのだ。
責任……ではないだろう。
けれど、そう期待されていることは、やはり重荷なのかも知れない。
とはいえ、それはいずれにせよ、誰を選んだとしても架される十字架なのだろう。
それに答えることのできる言葉は一つしかない。
そして、シンジはその言葉をアスカに告げることを心に決めていたのだから。
「判ってる……忘れたりしないよ、トウジ」
だから呟くように言いながらも、シンジは毅然と顔を上げて二人を見つめた。
「僕は……アスカを……アスカを愛してるから」
ついにシンジは決然と、その言葉を他者である二人に向かって口にした。
シンジの口から放たれた言葉は、まるで永遠の宣誓のようにトウジとレイの耳に響き渡った。
セルの回る、少々耳障りな音が響き、数瞬後にはサイドカムの金切り声を添えてニンジャのエンジンが重厚な鼓動を響かせ始めた。
「いい音するね、ニンジャって」
しばらくの間、それに耳を澄ませていたシンジは世辞でも何でもなくトウジに言った。
「当たり前や、男はやっぱりカワサキやで」
シンジの言葉に腕を組んで自慢げにトウジは言うと、シールド越しの瞳に何かを思いだしたような色を浮かべた。
「なに?」
シンジもそれに気づき、訊ねる。
「そうやシンジ。お前新年会の話聞いとるか?」
シンジはきょとんとした顔をしてしまった。
すっかり忘れていたが、そもそもそれが今回の騒ぎの発端だったのだから。
「やっぱり、知らんかったんか?」
「……あ、聞いてるよ」
誰から、とは言わなかった。
自分が彼に抱く感情と、この二人が彼に抱く感情が判らなかったから。
「みんな、待ってるで……特に、ユイさんがの」
言いにくそうだったが、トウジは言葉を付け加えていた。
「母さん、が?」
あれからシンジがユイに逢ったことは数えるほどしかなかった。
それすら逢いに行ったわけではなく、ネルフの中で通りすがりに顔を見かけたという程度のできごとに過ぎなかった。
「シンジ……必ず来いや、でなけりゃ今度は本気で殴るで」
「え?」
トウジの言葉は、今度こそ本気だった。
それは当然のことだ。
今まではトウジもシンジが一人で暮らす道を選んだ過程を垣間見ているから、何も言えなかった。
だが母を失うことの喪失感は、シンジの選んだ道をトウジに容認させなかった。
だからせめて顔だけは合わせて、元気でいることくらい伝えて欲しいのだ。
「ワシ、何度も綾波のところにはお邪魔しとる……だから、ユイさんには何度となく逢うとるねん。あの人は、本気でお前のこと心配しとる。忙しすぎんのと、変な遠慮があるせいでここには来れへんけどな……」
「碇君」
不意にタンデムシートに座ったレイが言葉を発した。
「ユイさんを、悲しませないで」
レイの一言は杭のように、シンジの胸を鈍く重く殴りながら突き刺さる。
「……あの人にとって、わたしは代わりでしかないわ。それは別に構わない、それでもユイさんが私に与えてくれる愛情は本当だと思うから……でも、それを本当に与えたいのはどうしても、あなたのはずなの」
シンジは二人に答えるべき言葉を胸の中に探す。
どうして自分が帰らないのか。
けれど顔すら合わせないでいる理由はどこにも見つからなかった。
それに、シンジは自分を説得させる必要などなかったのだ。
答えは既に決まっていたのだから。
だから迷ったとしてもシンジは頷く。
「行くよ、必ず……僕も話したいことがあるんだ。先刻、綾波には話したけれど家にはもう戻らない。それでも父さんと母さんに言うべきことはいっぱいあるんだ」
「そっか……ならええ」
ゴクッと鈍い音がしてニンジャの車体が身震いした。
ニュートラルに入っていたギアが、一速に入れられたのだ。
「……碇君のこと、信じてるから」
シールドを跳ね上げ、小さい言葉を届かせるようにレイが言った。
力強く、シンジはもう一度頷いた。
期待を込めた紅い瞳に答えるべく。
「待っとるからの、シンジ」
その言葉を残すと、トウジは無造作にクラッチを繋いだ。
強大なパワーで地面を蹴り上げ、ニンジャの姿は見る見るうちに小さくなる。
そんな豪快な別れがトウジらしい。
あとのことなんて何も考えてない。
これが今生の別れになるかも知れない可能性だって、ないとは決して言えないのに。
「捨て台詞……に近いかもなぁ」
苦笑混じりに一人ごちながら、シンジは消えゆく赤い尾灯に向かって手を振った。
紅い光が視界から消え去り、その手を下ろすと、シンジは小さな吐息を吐き出した。
どうしてか、胸が苦しかった。
何かが胸いっぱいに詰まっていて……それでもその苦しさを吐き出したくはない。
その苦しさを大事にしたい。
言葉にしてしまったら、とても陳腐だったろうが。
きびすを返しながら、シンジはふと思う。
──自分の、家か……
二度と帰ることのない、父と母の住む家。
それは一抹の淋しさをシンジに憶えさせる。
──僕の家は、ここなんだから……
そう、アスカの待つこの場所こそがシンジの帰るべき場所であり、全てを始めるための場所にしかなり得ないのだから。
そして、始めるべきはこれからだった。
自分の全てをさらけ出してでも、アスカと話さなければならない。
エレベーターに乗り込みながら、シンジは静かに閉じられていくドアを見つめていた。
家のドアを音を立てないように静かに閉めたシンジは、不意に背中に感じた感触に動くことができなかった。
背中に添えられた両の手の感触。
この二年の間、何度となく握りしめた暖かく、愛おしい掌の感触だった。
「アスカ……」
彼女の名を、まだ呼ぶことができる。
そのことが、限りなく嬉しい。
そしてこれからもその名を呼び続けたかった。
だからシンジは振り返ろうとした。
けれど、それをアスカは押しとどめた。
「待って……シンジ」
そしてアスカの手は滑るように動いて、シンジの腰に絡みついた。
抱きしめられるままに、シンジはアスカの言葉を待つ。
アスカが何を言っても構わない。
その覚悟はしていた。
しかし、アスカが発した言葉はシンジの想像を遙かに越えて厳しく響いた。
「アタシ達って……嘘吐きよね」
いつも読んで下さる皆様、長らくお待たせしました。
キャンディハウス作者の杜泉一矢です。
本当に申し訳ありませんでした。
自分の力量もわきまえずに、沢山のキャラに頼ったためにこのような仕儀になってしまいました。
書くのをやめてしまったのかと、心配してメールまで下さった方。
コミケの会場で「続きを待ってます」と言ってくださった方。
「トジアの密秘」で叱咤激励(?)してくれた書き手や読み手の皆さん。
みんながいてくれなかったら、今までと同じように放り出していたかも知れません。
本当にありがとうございます。
さて、キャンディハウスもあと一話を残すばかりとなりました。
冬と呼ばれる季節が終わるまでには書き上げるつもりです。
本編はそれを持って終了しますが、なんかしらんうちにキャンディは外伝がスタートし、結構それも好評だったりするんで暫く書き続けます。
ネタもまだまだ浮かんできますしね(笑)。
青葉ものは完結してますが「トジアの密秘」で「調教」という外伝が好評連載中です(とは言っても、これも半年くらい更新してない(爆))。
次の更新は「調教」の第三話になるでしょう。
それを今年中にやって、最終回は来年頭でしょうか?
また、気長に待ってやって下さい。
それでは、失礼します。