『不死鳥の系譜』−フェニックス・ライン−

 

第一章 アスカ、再び。

 

「トウジ!お客やで!!」

親父の怒鳴り声が家の中に響いた。いつもながらうざい声だ。妹が中国・重慶に

留学して以来、俺にとって我が家は居心地が悪くなった。なぜなら物心付いた時に

は俺はこの親父がどうしても好きにはなれないでいたからだ。

「わあっーたよっっ」

俺は気の抜けたというか投げやりな返事をして、玄関へと降りて行った。

「こんな時に人の睡眠邪魔する奴ぁ、どこのどいつやぁー」

俺は玄関の扉を突き開けた。

そこで待っていたのは、久しぶりに見た「親友」だった。

 

「センセ・・・センセやないか!」

「ああ、久しぶりだね」

 

驚きと喜びで俺は何も考えられなくなっていた。第三新東京市が水没して以来、

俺とシンジとの間には何の繋がりも持つ事が出来なかった。それはケンスケにして

も同様だった。ただその最後に『もう会えない』と伝えてきただけで。

今のところ連絡が付くのはイインチョぐらいなものだ。どうして連絡が付くのか

は・・・聞かないで欲しい。

 

「どないしたんや!しかし、よう調べたなあ。わからんかったやろ」

「大変だったよ。でも、トウジじゃなきゃ聞いて貰えないことだったから」

「・・・ははーん。なんか訳有りやな。よっしゃ、聞いてやるから話してみいや」

 

シンジは嬉しそうな顔をした。・・・俺がシンジと別れて1年と少ししか経って

はいない。それなのに容貌は一変したように感じた。シンジは俺が言うのもなんだ

が色が白くて華奢な美青年だ。それは変わらない。しかし、その上に儚げな憂いを

併せ持つようになっていた。少し影のかかった美青年。そこらへんの女だったら、

ひとたまりも無いだろう。事実、俺も性別を超えた魅力を感じていた。だが、一方

であまりにも「儚げ」であることに一抹の不安も感じていた。

 

「そうなんだ・・・実は・・・」

「なんや、どもっとらんと言うてみい」

 

シンジは俯き加減だった顔を上げた。そして俺の目を見つめて、こう言った。

 

「うん、実はトウジのお父さんに馬主になってもらいたいんだ」

「はぁ?」

 

俺は訳が解からなくなっていた。しかし、シンジが俺の眼を真っ直ぐ見て話す事

など、今までの記憶には無かった。

 

「買う時のお金とか、管理費とかは僕が持つから、名前だけ貸してくれないかな」

「んな事言ったって、センセがなればええやないか」

「・・・なれないんだ。まだ未成年だし、それに・・・」

「それに?」

「いま競馬学校に居るから」

「なんやて?」

「JRAに所属している関係者は馬主とかにはなれないんだよ」

 

俺の頭はさらに混乱した。突然の親友の告白はあまりにも現実離れしているよう

に思えたからだ。しかし、それを口にする少年の顔はいたって真面目であった。

 

いままで見てきた中で恐らくは最も真剣な願い・・・。

 

「わぁった。わしが親父に頼んできたるわ。心配せえへんでどーんとわいに任しとき」

「・・・ありがとう」

 

シンジの顔は喜びに溢れていた。

 

 

その日の夜。

 

「親父、ちぃっとええかな」

「なんや、急に。白々しい」

「頼みがあるんや」

 

親父は新聞を読みながら視線だけを俺に向けた。黒縁の眼鏡をして髪の毛は所々白い

ものが掛っているものの、その量は十分にある。ただ、その内側は何かを満たそうと、

いつも何事かを企んでいる。・・・俺はそう思っていた。

 

「なんや?金なら一文も無いぞ」

「今日、わしのダチが来てな。親父に馬主になって欲しい言うんや」

「アホか!そんな金、わしには一文も無いわ!」

 

やはり、そういう返事になるんだろう。こんな親父の性格が俺は全く好きにはな

れなかった。肉親だからこそその思いは一層強まっていたのだ。

俺は一番使いたくない文句を言わざるをえなくなった。

 

「金はそのダチが全部持つ言うとる。稼いだ賞金も親父のもんになってもいい言う

とるんや。せやから・・・」

 

俺はこれ以上この中年親父の前に居たくなかった。なぜなら『賞金が自分のもの

になる』と解った瞬間から、親父は醜い笑みを浮かべたからだ。大方頭の中で金勘

定でもしているのだろう。そのがめつさがどうしても好きにはなれなかった。

 

「よっしゃ!そこまで言うんやったらわしも男や!!引き受けたるわ」

 

貪欲な視線を俺に向けて、この業突張りは言った。俺は殴りたくなる気持ちを必

至になって抑えた。

 

「良かったわ。ほんなら急いで手続きしてや。もちろん親父だけでな。そこまでダ

チは関れんさかい・・・」

 

渋い表情を浮かべた親父を俺は心の中で軽蔑していた。

 

 

その後は、とんとん拍子のことは進んだ。無事にレースが終われば入着せずとも

幾許かの奨励金が支給されることを知った親父が一刻も早く受入態勢を整えようと

した為だ。

 

 

その年の冬。

 

その子馬が、今まさに生まれようとしていた。

俺と親父は牧場に呼ばれた。そこは渡来ファームという競馬界でも屈指の生産者

であった。

 

「これがツェッペリンです」

渡来オーナーが母馬を指して言った。既に出産は終わっているらしい。

親父は辺りを見回すと、オーナーを呼び止めた。

 

「なんや・・・そこらの馬と変わらんやないか。だったらあっちの高そうな馬の方

が良かったんちゃうか?」

「親父!!」

「あれですか?あれは見栄えは良いんですけど産駒が走らなくて私共としても大変

困っているのですよ。或いは今年のは走るかもしれませんから、鈴原様が買われる

のでしたらお譲りしますが」

 

俺の代りにオーナーが口を挟んできた。どうやらこの人も親父の事を好いていな

いらしい。という事はこの人はシンジに惹かれてその子馬を手放そうとしているの

だろうか。

 

「・・・ところで、生まれた子馬っちゅうのは何処におるんや?」

気まずかったらしく、親父は話題を切り替えた。

 

「ええ、碇君が傍に居ますよ・・・ああ、それと二つばかり頼まれていたことがあっ

たんです」

「なんや?」

「碇くんは今、競馬学校で騎手になる為に頑張っています。順調に行けばこの子馬が

デビューする年には新人騎手として騎乗していることでしょう。そこでなんですがね、

この子馬の主戦騎手として碇君を騎乗させてもらいたいんです」

 

すると親父の目の色が変わった。

 

「なんでや!馬主はわしなんやろ!!わしがこいつと思った奴でええやんか!なんで

そないな若造に・・・」

 

オーナーは親父の言葉を無視した。

 

「いえ、まだ貴方のものではありません。これともう一つの条件を飲んで頂かないこ

とには、困るのですよ」

「・・・騎手の話はええ。 もう一つの条件ってのは何やねん」

「・・・子馬の命名を碇くんに一任することです」

 

オーナーの言葉に親父は胸を撫で下ろしたようだった。親父にとってはこの2つの

条件はさほど気に留めなくてもいいものだったからだ。

 

「・・・よっしゃ。二つとも飲んだるわ」

「それは良かった・・・では、こちらへ」

 

牧夫は俺達の奥の馬房へと案内した。そこからシンジの声も漏れてくる。

 

「・・・スカ・・・アスカ・・・」

 

俺はその声に言い知れぬ不安を感じていた。

 

 

そして、俺達はその栗毛の子馬を見て驚愕するのだ。子馬の傍で首を撫でているシ

ンジに思わず声をかける。

 

「やあ、トウジか。・・・この娘だよ」

 

そういってシンジが首を撫でたその子馬の眼は明らかに普通のものとは違っていた。

・・・蒼かったのだ。

 

「お、おい・・・こりゃあ一体どないなっとるんや?」

 

親父の質問は尤もだった。しかし、シンジは全く冷静にこう答えた。

 

「素晴らしい名馬ですよ。ええ、そうです。アスカに敵う者なんて誰もいません」

「アスカ?」

「はい、アスカラングレー。この娘の名前です」

「おい、センセ・・・その名前は・・・」

 

続けようとした言葉を俺は飲み込んだ。やはり・・・この碇シンジは俺の知ってい

る碇シンジではなくなっていた。

 

「保証はあるんか?」

「ええ」

 

元々『貰い物』の馬である。親父は全てを受け入れることにしたようだった。

この蒼い眼の牝馬と主戦騎手としての碇シンジと、そしてアスカラングレーという

名前を・・・そう、忌まわしき名前を。

 

惣流・アスカ・ラングレー。それは実在の人間だった。14歳の若さで鬼門に入っ

てしまったが、確かに才能と美貌に溢れた少女だった。あの頃のシンジとアスカは、

俺達がからかっていたように「夫婦喧嘩」の絶えない、そう、微妙な関係にあった。

或いは彼女が生きていれば「進展」なんてものがあったかもしれない。しかし、二

人にそれは許されなかった。

 

全ては芦ノ湖に始まり、そして芦ノ湖に終わった。

 

碇シンジという人格は、確かに屈折していたのだろう。否、人間というものはどこ

かに欠陥というか屈折した一面というものを持ち合わせているものである。それでも

シンジはどうにか正気でやってこれた。その支えは葛城ミサトという女性であり、綾

波レイ、そして惣流・アスカ・ラングレーという少女達だったのだろう。

 

だが、シンジはあの日に全てを失った。シンジが考えられる総ての大切なもの、そ

してシンジ自身の心。俺にはそう思えてならない。

 

シンジがこの牝馬にアスカラングレーという名を付けることに固執したのは一体な

ぜなのか?

俺には解からない。おそらくは『そこ』で何かがあったのだろうが、今の俺では想

像の翼を羽ばたかせる事しか出来ない。

しかし、碇シンジという人格が正気のヴェールの裏でどこか壊れてしまっているよ

うな感覚を俺はその「アスカラングレー」という名に感じていた。

 

「委員長とは今でも付き合ってるの?」

と無邪気に聞いてくるシンジに

「何言うとんねん!イインチョは関係無いやろ」

とその小さな頭を抱え込みながら、俺はどうしてもその幻想から逃れられないでい

た。

 

 

 

2年。時は放たれた矢のように過ぎ行く。

 

長野県に「新中山」という地名が付けられたのは、旧東京崩壊後、再復興の時期で

ある。その地に旧中山競馬場のレプリカのように新しく競馬場が建設された。

そして、今日。季節も徐々に戻り始めたらしく涼しげな秋風が吹き始めた西暦20

18年新中山第4回開催の4日目。

 

アスカラングレーは遂にデビュー戦を迎えた。

 

俺と親父は馬主席からパドックを周るアスカラングレーとその騎乗の青年に目をやっ

ていた。周りからは黄色い声援が飛び交っている。

 

「きゃぁぁぁー、シンジ君、こっち向いてぇー」

「碇くーん!がんばってぇー」

「碇ぃー!!頼むぞぉー」

 

俺は呆気に取られていた。

 

「あの碇っちゅう騎手は、そんなに腕がいいんか?」

 

親父は隣にいた見ず知らずの男に聞いていた。すると男は大袈裟に答えた。

 

「ええ、そりゃあもう凄いって言ったらあの天才『福永洋一』とか名手『岡部幸雄』

そして神童『武豊』と比べても遜色無いという評判ですよ。現に今年の3月からの騎

乗なのに既に勝利度数が37に達しているんですから」

 

だが親父は納得していない様子だった。初年度で37勝もする事がいかに異例であ

るかを知らないのだ。

 

「それにあの容貌です。女性に人気があるのも仕方の無い事ですよ」

 

男は羨ましそうにそう言った。おそらくその事をシンジ自身は微塵も望んではいな

いのだろうが。

 

 

「とぉまぁーれぇー」

 

 

係員の号令がかかった。

親父がおもむろにシンジの方に近寄る。

 

「わしは競馬にゃ興味無い。だがな、絶対に勝ってもらわんと困るんや。最低人気ら

しいが大丈夫やろな」

 

シンジは親父に顔を向けることなく、真っ直ぐ前を見たままだった。

 

「大丈夫です。心配なさらないで下さい。アスカがこんな所で負ける訳が無いんです

から」

俺からは帽子の陰に隠れてシンジの顔は見えなかった。

 

「そか・・・ほんに頼むで」

 

親父は一言そう言うと、パドックの後ろにある電光掲示板に目をやった。

 

「単勝30.8倍か。こりゃあ儲かるで」

 

 

親父の呟きを背にアスカラングレーと碇シンジは本馬場へと姿を消した。

 

<つづく>

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註釈−武豊騎手は「神童」などとは呼ばれていません。福永洋一騎手との区別を

明確にする為に敢えて付けたものです。その点はご承知置き下さい。

 

用語説明

JRA −日本中央競馬会の略称。俗に中央競馬と呼ばれるものは同会が主催して

いる。同会は競馬法によって保護、規制されている。

競馬学校−騎手を目指す者の登竜門。ここを卒業しないと騎手免許を受ける事が出

来ない。

新人騎手−主に数え年が26歳以下で勝利度数が40回以下の騎手の事。特典とし

て一般(平地)競走において負担重量を減じている。特別競走・重賞競

走はこれに当たらない。

主戦騎手−レースで主にその馬に騎乗する騎手。あくまで原則的なもので拘束力は

ない。

勝利度数−自分の騎乗した競走馬がレースで第一着に入線した回数。

パドック−競走馬がレース前に状態を来場者に見せる為の場所。来場者はそこで競

走馬の状態を確認する。パドックの背後にはオッズを表示した電光掲示

板がある。

単勝 −どの馬が第一着に入線するかを賭けるもの。

本馬場 −競走馬が競走をする場所。現在はダート(砂)・芝の馬場がある。また、

パドックから本馬場へは地下道で繋がっている。



 
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