『不死鳥の系譜』−フェニックス・ライン−

 

第二章 始動 〜新中山競馬場4回4日6R 3歳新馬〜

 

新中山競馬場の4回開催というのは、2つの醍醐味がある。それは春競馬以来

休養していた有力古馬が再始動する時期であり、もうひとつは新たな優駿を目指す若

き新馬達の飛躍の時期である。

そのような時期の中にあって、芝・1600メートルが何故6頭立てであった

のか?

その答えは至って簡単であった。強力な新馬がいたからである。その名をサイク

ロンと言った。父の名はサクラローレル、母の父はフジキセキ。その良血と見事な鹿

毛の馬体が専門家、ファンの双方の目に適っていた。

そこに馬主である鈴原カズハルは何故敢えてこのレースを選んできたのか?

その答えも簡単である。賞金をより多くもらう為である。同じ日の1400メ

ートル(14頭立て)を選ぶよりも、確率の高い方を選んだ訳である。即ち、端から

「初戦勝ち」を望んではいなかった。それでも最低人気である持ち馬の単勝を勝った

のは、『欲の現れ』というものである。

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

「ふふ、こりゃあどっちにしろええ儲けになりそうやな」

 

親父はまたそう嘯いた。もういい加減にせいや!と叫びたくなった。何故俺の

親父はこんなにがめつくなったのか?俺は思い出せないでいた。

 

 

既に出走馬達は輪乗りに入っている。イヤホンからはもうサイクロンの次走の

話が漏れ聞こえていた。クラシックの第一候補。それがサイクロンだった。

親父がこのレースを選んだ時に、調教師の加持さん(彼の名は後々に判った事

だが)が別のレースを選ぶように説得したものの、頑として変えようとしなかった。そ

の理由がそんな事だったとは‥‥俺は最後の最後までシンジに話せないでいた。

 

「トウジ!ほら、もうすぐやで」

 

親父の声が汚いと感じたのは、これが初めてだった。

 

 

競馬場に実況の声が響く。

 

『皆様、お待たせ致しました。本日の午後の競馬、最初のレースは若駒達が颯爽

と駆け抜ける芝の1600メートルで競われます。既にゲート入りが順調に進んでお

ります。最後に大外のアスカラングレーが収まって体制完了です‥‥』

 

俺は祈るような気持ちでいた。アスカラングレーの敗北はシンジの精神崩壊に

直結しているように思えたからだ。かつてアスカラングレーが産まれて間も無い頃、

シンジは「名馬だ」と言っていた。だがそれは所詮碇シンジの主観でしかない。とあ

る奴が「なんとか騎手がこの馬が良いと言っていた」と言ったのに対し、ある奴が

「バカヤロー、レースをやるのは奴等だが、レースの読むのは俺らが専門なんだよ」と

怒号したというのを聞いた。そんなもんだろうか、ただ競馬専門誌を見るにつけその

言葉が実感できるようになっていた。

 

『さあ、総て枠入りが終わりました』

 

一瞬の沈黙。俺は息を呑んだ。

 

 

ガシャン

 

 

音と共に6つの頭が勢い良く飛び出した。

 

『6頭揃ったスタートを切りました。まずは先行争いです。するするっとマイネ

ルサンシャインが上がってきました、しかし外からヴァチカンウェイが追っ付ける。

どうやらヴァチカンウェイがハナを切るようです。先頭を窺っていたマイネルサンシ

ャインは2番手に控えました』

 

俺はまず緑色の帽子を探した。何処だ‥‥シンジは何処にいる!!

‥‥いた‥‥4番手。サイクロンをぴったりとマークしている。手綱を動かすこ

となく、スムーズにいっているようだ。

 

『向正面に入りまして先頭は変わらずヴァチカンウェイ。その後ろにマイネルサ

ンシャインが付けております。さらにその後方は5馬身、6馬身と離されました‥‥

ここにようやく1番人気のサイクロンです。さらに1馬身後ろにアスカラングレー、

今年デビューの碇シンジ騎手を鞍上にレースを展開しております。そこから後ろは6

馬身ほど離されてダイタクコース、チェリークロスと続いている。これはどうやら前

4頭の争いになった‥‥』

 

全力で疾走してゆく若駒。その中にあって黄金に見紛うばかりの馬がいた。

 

「??」

 

俺は目を擦った。見間違いではないのか?ただの幻想だったのではないのか?

 

だが「あの小憎らしい女」はその全身が躍動感に満ち、栗毛の身体が輝きを放

っていた。そう、女神のように。

 

そう思ったのは俺だけではないようで、隣に居た親父も口をぼぉっと開けたま

ま何も言わずターフビジョンに集中している。その巨大なスクリーンにはその大きな

口を開けた親父の持ち馬が映し出されている。

 

『いよいよ勝負所に入りました。先頭はヴァチカンウェイですが、既にその直後

マイネルサンシャインが付けています。しかし2頭とも掛り気味。新馬戦にもかかわ

らず5ハロン(1000メートル)を60秒前後で通過しました。3歳馬にとっては

これは過酷なハイペースです。さあ、ここでダントツの一番人気、サイクロンが上が

ってまいりました‥‥その直後にアスカラングレーが続きます。3コーナーを回って

まもなく4コーナーにかかる!』

 

周りからは地響きのような怒号が響く。欲望と憎悪に満ちた言葉の鏃が騎手と

サラブレッド達に突き刺さる。

 

「行けぇぇ!!」

「差せえぇぇ!!」

「何してんだ!このボンクラがっ!!」

 

そう。碇シンジという青年が生きている世界はこんな所なのだ。昔のシンジだ

ったら恐らく逃げ出したかもしれない。日常よりも一層人を傷つけ、傷つけられる、

そんな世界なのだ。しかし、シンジは逃げずにここに居る。

 

俺はただ口をきゅっと締めて見守る事しか出来なかった。

 

『直線に入って先頭はサイクロン、サイクロンだ!圧倒的一番人気のサイクロン

が他馬を引離す。粘る二番手ヴァチカンウェイを3馬身、4馬身と引離す‥‥』

 

その時、場内が騒然とした。

 

『先頭はサイクロン‥‥2番手は‥‥大外からアスカ、アスカラングレーがやっ

てくる、これは脚色が良い!!ヴァチカンウェイを抜き去って2番手に躍り出まし

た』

 

俺はすぐに先頭の馬を見た。サイクロンは既に残り300メートルを示すハロ

ン棒を越えていた。

 

「駄目か‥‥」

 

俺は俯き加減に呟いた。しかし‥‥

 

『サイクロン独走か?‥‥いや、アスカ、アスカラングレーまだ伸びる!!あと

4馬身‥‥3馬身‥‥2馬身‥‥』

 

みるみる縮まる2つの影。そして‥‥

 

『並んだ!並んだ!!残り200で遂にアスカラングレーが並んだぁ!!』

そして栗色の天馬は内にいるサラブレッドに並ぶ事を許さなかった。

 

『さあ!今度はアスカラングレーが突き放しにかかる。アスカラングレー!!こ

れは強い!何も寄せ付けない!!8馬身、9馬身‥‥それでは収まりそうも無い!誰

にも影を踏ませることなくゴール板を駆け抜けるっ!!アスカラングレー、これは大

番狂わせか、それとも期待の新星の登場か!!二番手はそのままサイクロンのようで

す。時計は1分35秒7。上り3Fは35秒0となっております。1着アスカラング

レー、2着サイクロン、3着は追い込んだチェリークロスが入線した模様です。勝馬投

票券は勝馬が確定するまでお捨てにならないよう‥‥』

 

 

1分後。大きな声が辺りに響いた。

 

「よっしゃぁ!!よぉやったで!!」

 

電光掲示板に赤ランプが灯り、着順が確定したのである。親父は狂喜乱舞して

いる。

俺は俺でなんだか胸に圧し掛かっていた何かが一瞬だけでも取れたように感じ

た。

 

 

 

 

レースが総べて終わり、競馬場から出てきたシンジを俺と親父は笑顔で迎え

た。

 

「センセ、ご苦労さんやったな」

「ありがとう」

 

シンジは一言、それでも俺の眼を見つめて言った。そして、さらに言葉を続け

た。

 

「鈴原さん。いま、アスカのいる厩舎の調教師(せんせい)が一緒なんですけ

ど、みんなで食事にでも行きませんか?」

 

親父は偉く上機嫌だった。

 

「おお、いこ。今日は祝いじゃ、ぱぁーといこか」

「それじゃ呼んできますね」

 

数分して、俺は驚いた。

 

「か、加持さん‥‥?」

「‥‥加持セイジ調教師。栗東の若手調教師の一人だよ」

 

シンジの連れてきた男──それはあまりにも『加地リョウジ』に似ていた──

は、俺と親父にただ一礼をするだけだった。
 

<つづく>


 
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