コンソールの緑色と、祈りの様な駆動音。
 
 
それ以外の何者にも邪魔されない、完全な密室。
 
 
正面のディスプレイやHMDでは確かにセグメントの継ぎ目が高速で擦過しているのに、体感ではこれといった感触は掴めない。
 
エンジン音は稼働していないのだから聞こえなくて当然としても、微かな路面擦過音を除けば振動すら感じないのは不気味ですらあった。
 
 
 
「どうだいタカシ、隠遁走行の感触は?」
 
 
 
通信も音声ではなく文面で送られ、相手がテレーズ婆さんである事も送信元のIDで判別する。
 
デジタル文字通信のみなら歩兵規模で既に導入されているが、HIGH-MACSに正式に導入されたのはこれが初めての筈だ。
 
それに加えて完全にモーター駆動式に移行可能な脚部ローラーシステムにより、時速100kmまでの静穏走行を可能としている。
 
夜間の隠密作戦を実現する為に構成された、HIGH-MACS隠遁走行システムだった。
 
 
 
「確かに静かだし安定しているけど、こんなデカブツで隠遁も何も無いだろ普通」
 
 
 
ニュアンスを意訳する事無く、生の言葉が文字変換されて送られる。
 
音声より遙かに微少なデータ量の通信が何重もの暗号化を通して送られるので、探知も盗聴も極端に困難になる仕組みだった。
 
そんな環境で何の障害もない通路を延々と走る限りは、本当に深夜の砂漠を一人駆けるのと同じ虚無感に包まれる。
 
実際には地下大深度に埋もれた巨大環状坑道の中だというのに、照明を落として人影が失せれば、月光の照らす夜の砂漠よりも静かな闇になる。
 
そういう極端に限定的な条件ならば、このシステムも使えない事はないかもしれない。
 
あるいは、その全く逆の場合か。
 
 
 
「まるでアンダーウォーターの訓練みたいだ。坑道全てが水没した中を潜っているような、そんな感じがする…」
 
 
 
個人的な感想文を、しかしカレンはお構いなしに直訳の文面にしてテレーズに向けて送りつけた。
 
歩兵装備と同じ様に任意のタイミングで送信するレシーバーを付けるべきだった。
 
戦闘中のどうでもいい独り言まで送信されたら混乱の極みでしかない。
 
巡航速度96kmで走るカレンとタカシの傍らを、二倍近いスピードで万力の親玉のようなリニアトレイが追い抜いていく。
 
もう間もなく戦闘態勢で稼働する予定の『パケット』だった。
 
 
 
メジュゴリエにとって初の使徒襲来が迫っていた。

 

 


 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

  

2015 tokyo-3

―― the dark children ――

mission 6 「the Mercenary」(1)

 

――――――――――――――――――――――――――――――

  

 


砂漠の環境は一部の例外を除いて、昼は猛暑に晒され夜は極寒に包まれるというのが一般的である。
 
それはセカンドインパクトの後でも変わらない。
 
地球規模の気候変化をもたらした地軸の変化でも、タクラマカン砂漠の気候は何らの変化も見せず、日中は容赦のない直射日光と砂嵐に見舞われる。
 
実際には緯度の変化によって砂漠と緑地の境界線が僅かに北上し、砂漠の範囲自体は狭まっているが、刑務所等や収容所等は敢えてその範囲に入る形で建てられた。
 
その収容所に収監されている宇木忍にとって砂漠の熱は慣れ親しんだ物とは言え、日陰での労働を含む屋外での『矯正活動』が地獄の苦しみである事に違いはなかった。
 
宇木を含めて多数の軽微戦争犯罪者を収容しているこの刑務所では、四方に建っている監視塔と出入り口に張っている兵士、そして10mを越える高い壁のみが警備の全てだった。
 
かつてユーラシア内戦で転戦を繰り返した猛者達なら、武器が無くとも多少の犠牲を覚悟すれば逆制圧も可能に見える簡素な刑務所だったが、この暑さには誰も勝てなかった。
 
最低限の水と食料を与えた上で、生命を維持できるギリギリのレベルまで地獄の日光を浴びせれば、どんな巨人でも力を失う。
 
兵士や獄吏達は、日陰で涼みながら銃を構えていれば良いのである。
  
宇木にとっては、砂漠自体こそが延々と広がる刑務所そのものだった。
 
 
 
「1704番!1704番!」
 
 
 
熱に耐える為に身体が自然に覚えた緩慢な作業リズムが、自分を意味する記号の連呼で止められた。
 
もう何度繰り返したか思い出せない、建築セメントブロック形成作業の連鎖。
 
酷使される事よりも、頭の中で強固に形作られたルーチンを崩される事が苦痛を感じる身体になっていた。
 
 
 
「1704番!出頭しなければ総員外周走10周を課す!」
 
 
 
隣でセメントをこねていたロシア人のプロコロフが肘で小突き、ようやく宇木は枠組みから手を放して小走りに駆けだした。
 
通り過ぎる面々は気怠そうに宇木を睨み、宇木もまた光のない目でそれに返す。
 
皆、忌々しい中国人の目論見通りに体力と気力を奪われ、男同士で交わる力すら失い、互いの存在と行動を確認する信号のみを発するに留まっていた。
 
 
 
「…1704番、出頭致しました」
 
 
 
独立した家屋でクーラーとまではいかないが、熱風と日光を遮る崖の洞穴の詰め所で、扇風機と余裕のある水で楽園暮らしの兵士達。
 
今更羨む気にもならない。それだけ無駄なエネルギーが消費されるからだ。
 
 
 
「1704番、入室を許可する」
 
「1704番、入ります」
 
 
 
馬鹿のようなやりとりを経て境界線を跨ぐと、異世界の空気は明らかに違っていた。
 
単に風と砂粒が入らないだけで、ここまで環境が変わるかと宇木は純粋に感心した。
 
 
 
「扉を閉めろ。他の奴等に見られる」
 
 
 
宇木が振り返る前に、56式小銃を抱えた兵士が、これだけは頑丈にできている防弾仕様の金属扉を閉めた。
 
命令を出した所長は意外と若い漢民族の能面男で、見るからに左遷でやって来た元エリートという雰囲気だった。
 
おそらく綺麗な北京語を喋るのだろうが、あらゆる民族を収容するこの刑務所では、どんな身分の人間も英語を喋るのが暗黙の了解だった。
 
 
 
「今日はお前に客人が来ている…話が不成立になるまでは、お前を人間として扱ってやろう。休んでよろしい」
 
 
 
一瞬何を言われたのか理解できなかったが、詰め所の中央に鎮座する場違いな応接セットを見る限り、そのソファーに座れという解釈しかできなかった。
 
念の為に出来る限り頭を低く下げて最敬礼し、いつでも動作を止められる慎重な速度で座ると、目の前のテーブルに空のコップが置かれた。
 
所長が顎で兵士に指示して、コップに水を注がせる。
 
わざとそうしたのか、水は縁を越えて溢れるほどに満たされ、ガラスの壁を伝って滴り落ちた。
 
 
 
「一々許可を求めるな」
 
 
 
その声で宇木は一気に水を飲み干した。
 
氷も味気もない、人工的にミネラルを混ぜた蒸留水だったが、宇木の頭に思考能力を戻すには充分な刺激となった。
 
体中に入り込んだ砂粒が一気に剥がれていくような、そんな感覚に襲われた。
 
 
 
「もう一杯飲ませて落ち着かせろ。一気飲みはさせるな。客人を呼べ」
 
 
 
言われなくともそうするつもりだった宇木は、表面張力で丘状に張った水面から削り取るように液体を吸い取った。
 
恥も外聞も無い、飲んでしまえばこちらの物という考えだけが頭を支配していた。
 
だが、ようやく半分まで水が減った所で現れた男を見て、久しく眠っていた宇木の生存本能が鎌首をもたげた。
 
薄汚れているくせに破れの少ないアラブ服と、明らかに中国人の物ではないブロンドとスラブ系の顔。
 
雰囲気だけで見ればそれなりに風格があるくせに、何故か身体はそれほど大きくない。
 
典型的な『少年傭兵』の特徴そのものだった。
 
 
 
「日本人傭兵、宇木忍、だな」
 
 
 
仰々しく区切ったぎこちない英語が口から流れ出てきた。
 
本当にガキのチンピラなら無闇に威勢の良さを押しつけてくる所だったが、この少年は単純に宇木を見下す事で必要十分な優位を示している。
 
但し宇木は恐怖よりも、「俺より多く人殺してるかな」と、単純な感想を抱いたに過ぎなかった。
 
 
 
「お前を含む30名の囚人を、我々は買い取る予定だ。我々の、戦力として」
 
 
 
買い取ると言われても、そもそも自分達に値段が付く程の価値が有るのか分からなかったが、中国政府が商品と認めているのならば逆らう術はない。
 
だが、例え身分が奴隷兵士だとしても、使い捨ての労働力よりは遙かにマシなのは確かであり、『我々の戦力』という言葉と水の相乗効果によって、宇木の脳味噌は急激に回転を速めつつあった。
 
 
 
「戦力と言っても、ここにいるのは歩兵と砲兵、それに装甲車程度の運転が関の山の連中だ。よほど安値じゃなければ買う価値なんてないぞ」
 
「しかし、何よりも強みを持つのは経験だと我々は理解している」
 
「人に向かって引き金を引く速度が速い奴が欲しいって事か」
 
「そう考えても構わない」
 
 
 
こりゃ死ぬな、と思っても選択肢は二つしかなく、しかも宇木自身だけでなく外で緩やかな死刑を喰らっている連中も選ぶ答えは確実に決まっていた。
 
 
 
「…最初に俺に話を通したって事は、仕事場は極東か」
 
「日本だ。不満があるのか?」
 
「いや、別に。しかし条件がある」
 
 
 
立場をわきまえない宇木の言葉に所長と少年は一瞬面食らったが、構わず宇木は先を続けた。
 
 
 
「ここから出た後に、一週間ずつの休暇と訓練の時間が欲しい。ここにいたままでは誰も働ける状態にはない」
 
「再編成の予定は立っている。そのレベルの条件ならば既に充分満たされていると考えて良い」
 
「もう一つ、休暇の際にはアルコールと女を寄越して欲しい」
 
 
 
少年は露骨に嫌悪の表情を見せたが、その背後で所長は思わず含み笑いをこぼしていた。
 
酒と女に過剰な反応を示すのは、イスラム原理主義者の間違いのない証でもある。
 
原理主義者と言っても様々だったが、この場に兵士を買い付けに来る手合いがいわゆる穏健派である訳はない。
 
この時点で宇木はいよいよ残り少ない人生をどう消費するか計算を始めていた。
 
 
 
「…良いだろう。外国人用のコンパニオンを付ける。人員選別はお前にも手伝って貰う」
 
 
 
そこでようやく宇木は立ち上がり、少年と形ばかりの握手を交わす。
 
子供の癖に指にナイフと拳銃のタコ、そして小指の先端が僅かだが欠けている。
 
その傷だらけの掌は紛れもない兵士の手だった。
 
 
 
「私はジュバロフ。ヴィクトル・ジュバロフ。肩書きは必要ない。ジュバロフと呼んで貰いたい」
 
「よろしく」
 
 
 
どう見積もっても自分より十二歳は若いであろう雇用主を前にして、宇木は自分の因果を呪うよりもその滑稽さを心中で笑っていた。



――――――――――――――――――――――――――――――

 
 
 
気が付いた時には既に最期の皿まで洗っていた。
 
それを後悔する必要などまるで無い筈なのに、ミサトは慌ててその場を離れた。
 
 
 
「ミサトさん、片付けてくれたんですか?」
 
 
 
驚くシンジに対して適当な言葉を並べ、身支度を始める為に早足で洗面所に入る。
 
無意識にシンジのするべき仕事を肩代わりしたのが後ろめたさ故なのか、それはミサト自身にも分からなかった。
 
あの『誤報』騒動の際にシンジは自閉症モードの初号機内に監禁される羽目になった。
 
自己防御と生命維持を最優先とする自閉症モードにおいては、原則的に外部との情報や物資のやり取りは発生せず、文字通りシンジは空白と孤独の中に取り残される状態にあった。
 
その上、騒動の顛末に対してミサトの気が立っていたお陰で、本来必要な時間よりも大幅に遅れた後にようやくシンジの状態を思い出す有様だった。
 
時間にして10時間余り、闖入者たる戦争屋達が姿を消してから更に3時間以上経過していた。
 
シンジ本人は、とにかく使徒が来なかった事実を知るとそれで納得したが、ミサトは長時間閉所に監禁される恐怖を想起する悪癖を止められなかった。
 
そして、ネルフとシンジを取り巻いている見えない真実については、言うまでもなく欠片たりとも伝えられていない。
 
知らぬ内に負い目と言うべき澱が心に溜まっていたのか、とミサトは鏡を睨んで自問した。
 
 
 
「珍しいですよね。何かあったんですか?」
 
「まあたまにはね、こんくらいは出来ないとお嫁に行けないじゃない?」
 
「あれ?彼氏の人とかいましたっけ」
 
「うっさいわね。早く準備しないと遅刻するわよ!」
 
 
 
その言葉には少しの誠実さもなかったが、実際それほど悠長にしていられる事態ではなかった。純粋な遅刻の危機と事態の収拾という現実が迫っていたのだ。
 
騒動から一週間でそれなりの状況判断の材料は揃ったが、それは集めれば集める程混迷を深めるタイプの悪質な情報だった。
 
そもそも、旧世紀から揉めに揉めている宗教と民族、それを取り巻く各国の政治経済状況、なおかつ軍産複合体まで出てきたのでは、手を付ける順番すら決めかねるのが現実だった。
 
しかも、ネルフという組織の性質上、この手の解析を旨とする部門も人材も決定的に不足していた。
 
それを専門とするのはこれまた懸案の対象の内である保安諜報部、そして問題そのものと言える自称『メジュゴリエ』こと特務師団そのものだった。
 
あの黒装束集団は名目上そういう方面の防衛を旨として送り込まれているのだから、ミサト達が独自に探りを入れようとしても目処が立つ筈も無い。
 
現状で頼りに出来るとすればマギの能力くらいだったが、一番近くにいるリツコがまた信用し切れない。
 
そうかと言って二番手たるマヤに任せられるかと言えば、彼女とリツコとの縁を考える限りこれも向いてはいない。
 
八方塞がりと言うにはまだ遠いが、前進する材料にも欠ける。
 
そういう状況は、実はミサトにとって非常に意欲をそそられるものなのだが、それはまた全体の勝率とは別の話である。
 
 
 
「ところでミサトさん、この前の騒ぎってどうなったんですか?」
 
「騒ぎって?」
 
「ほら、あの使徒が来たっていう誤報の時の」
 
「ああ、アレね」
 
 
 
あらかじめ用意していた言葉を脳の引き出しから引っ張り出そうとする。
 
しかしいざとなると、どの言葉も胡散臭く感じられて出すに躊躇う。
 
明らかに不自然な間が三秒程生まれ、その末にミサトが選んだ言葉次の通りだった。
 
 
 
「何かね、警報装置の故障だって言ってたけどね。リツコが」
 
「そう、なんですか」
 
「まあ詳しい事は分からないけど、ブラッドパターン判別機構の遠隔センサがダメになったんだって」
 
「それって直るんですか」
 
「多分ね。でも人工衛星に積んでいる分もあるから難しいみたいよ?」
 
 
 
ミサトの言葉が終わった後も、シンジは洗面所の入口脇に居座って無言の圧力を送ってきた。
 
シンジが明確な根拠も無いままあの騒動に何らかの疑念を持っていて、ミサトから何らかの言葉を期待していたのは明らかだった。
 
無論、長時間LCLの中に漬けられたまま監禁されていた彼には真相を知る権利はある。道義上ではミサトも分かっているし、真相を喋れたら自身としても少しは気が楽になる筈だった。
 
だが、言うまでもなく今進行してる状況を明かす訳にはいかず、シンジもそういった保秘に関する状況を何となく理解してはいた。
 
それでも何らかの言葉が欲しくて宛もなく口にしたシンジの疑問に、ミサトは実に分かり易い嘘で答えた。
 
結果として全てが二人の予想通りに運び、お互いに相手の思考を察した上での気まずい沈黙の中に沈む羽目になる。
 
ミサトの歯を磨く音だけが、洗面所の空間を支配していた。
 
 
  
「そう言えばシンちゃん、レイとは上手くやってんの?」
 
 
 
今度はミサトの問いにシンジが窮する番だった。
 
本部内で何があったのか知らないが、会話の最中にレイに叩かれたという報告を既に受けていたのだ。
 
こういう時には保諜部も役に立った。
 
 
 
「…別に、普通に話したりしてます」
 
 
 
思惑通り、それだけ言い捨ててシンジは自分の部屋に戻っていった。
 
少し意地悪したかとも思ったが、手を動かしながら状況を再考する内にそんな懸念は消えて無くなった。
 
 
 
「奴等の裏にいるのが委員会だけという事はあり得ないとしても…納得のいかない事が多すぎるわね」
 
 
 
空路と海路から流れてくる物資の出先を突き止めたとしても、馬鹿じゃなければ二重、三重のたらい回しで正確な国籍はもみ消している筈だった。
 
何よりそれら物資の全てが名目上は国連軍の物として扱われているから、おいそれと物理的な介入もできない。
 
突き詰めると監視を続けながら様子見、という最初から分かり切っている結論しか出ない事がミサトには腹立たしかった。
 
それでも無闇に藪を突いて蛇ならぬ悪魔が出ないようにするには、用心深く内偵するしか方法が無い。
 
現実は分かっているのだが、ミサトはそれを打破しうる何か突飛なアイディアが出ないものかと勝手に苦慮している。
 
 
いずれにせよ、傭兵屋や戦争屋が絡んでいるならば、絶対に油断してはならない。
 
それだけは忘れてはいけない。
 
 
結局、今は絡まった糸を脳内で解す作業を一旦放棄して、一番大事な結論だけを胸に収める事で落ち着いた。
 
先に進めない時にミサトが取るいつもの方針だった。
 
 
 
「シンジ君、用意できたー?」
 
 
 
自分の支度がこれからという所で他人を急かすのは、これは叱咤と言うよりも単純な甘えだった。
 
ミサト自身は、これから着替えをしなければならないのだ。



――――――――――――――――――――――――――――――

 
 
 
「視界情報野、異常なし」
 
「ウィンチセンサ、正常」
 
「タカシ、酔いは感じないか?」
 
「今回は大分良いよ…視覚に違和感は感じないから」
 
「よし、降ろせ」
 
 
 
タカシの背後で蚊の羽音程度のノイズが鳴り、ケプラー混編高炭素鋼線が高速で繰り出される。
 
元々重機用として作られたらしい内空高20mの格納庫内に、擬似的なビル街として鋼材の障害物が広がっている。
 
 
キリング・ハウス。
 
 
警察や軍隊の実働部隊が屋内や市街地での戦闘を前提に接近戦訓練を行う為に、建築物や通路等の障害物を配置した戦闘訓練用の空間。
 
通常ならば、管理された敷地内に監視用カメラを備え付けた一軒家や擬似市街地を丸ごと建造する所だったが、時間と資材に難がある現状のメジュゴリエでは、坑道に残された鋼材を溶接して仮設の市街を想定していた。
 
照明が落とされ、粘着質の闇に満たされた夜の市街地。
 
その真上からワイヤーに吊られたタカシが舞い降りてくる。
 
丁度最初に作戦司令室に降り立った時と同じように、天井からのワイヤー以外は何の支えもない状態で、ほぼ自由落下に近い形で降下していく。
 
地面の直前で減速し、音もなく着地する。
 
通常の降下作業と逆にワイヤーをタカシの側で巻き取り、そのまま平然と市街地セットに侵入を開始した。
 
 
 
「データ記録開始。ダミーターゲット起動」
 
「状況開始」
 
 
 
オペレーターの声と同時に、タカシの手にしたSIG552が弾丸を吐き出す。
 
フラッシュハイダーとサイレンサーにより、音も光も殆ど漏らさず、ただ5.56mm弾を標的に向かって着実に打ち込むのみだった。
 
管制室の端末には、次々と倒される標的判定が送られてくる。
 
タカシの視界は暗視に加えて各種情報がテキスト画像併用で表示されているので、純粋な視界としては相当の制限が加わった形になっている。
 
それでも、標的の補足速度は通常のそれより格段に早く、数値化されたデータは着実に既存の記録を塗り替えるレベルで進行していた。
 
無論、タカシにリアルタイムで与えられている情報は周囲20m範囲における脅威を先んじて示唆するものであり、活用できれば速度向上は当然の結果と言えた。
 
 
 
「しかし、相変わらず彼の吸収力は大したものですな」
 
「まあ、奴の売りはそれだけなんでね」
 
「いやいや、それが無ければそもそもこんなビジネスは成立しません。我々としてもようやく市場が開けたという所ですので」
 
「紛争ばかりでは却って顧客が減るというのも皮肉だな、ペンタゴンが一定の注文を保証するとしても」
 
「米軍も消費量が増えなければ結局頭打ちです。維持費とマイナーチェンジだけではとても食ってはいけません」
 
「他にまとまった大口が動かなければ、民生に売るわけにもいかないだろうしな」
 
「当たり前です。実はここだけの話、一時期本気でプランテーション管理事業に転換しようとしたのは、単なる噂じゃないんですよ」
 
「天下のライセオンが?バイオアグリ部門に人材なんていたのか?」
 
「その辺は、いくらでも確保できます。代わりに我々の居場所が無くなるだけで。幸い、そうはならずに済みましたが」
 
「お互い、大変だな」
 
 
 
本来、隊員以外の立ち入りは極端に制限されている筈のメジュゴリエ内部に、似つかわしくない背広姿の人間がいた。
 
いかにもアメリカンギーグあがりの技師らしい茶色の髪にカストロ髭、太めの胴から流れる汗が、スカイブルーのYシャツに滲んでいる。
 
体格からしてもおよそまともな生活を心がけていない事は明かだった。
 
 
 
「標的の15%をクリア。現在まで失点無し」
 
「1回目の弾倉交換終了。所要時間4.3秒」
 
「第二段階開始10秒前」
 
「いよいよですな」
 
「それより、暑いなら別室を用意するが。倒れられては我々としても困る」
 
「…いえ、何よりもこの目で確認しなければ…」
 
「ならご自由に」
 
 
 
タカシはウィンチに付属してあるセンサに従い、使用に耐え得る「枝」を探す。
 
マニュアルにはややこしい計算式が書いてあったが、実際に使う側からすればコツと目安で選ぶしかない。
 
考える前に感覚で標的との相対位置を計り、枝を決めた。
 
後はアクロバットの世界になる。
 
少なくとも事前テストで試した時には、頭よりも身体の反応に任せる以外に方法が無かった。
 
 
 
「ウィンチ射出確認。来ます!」
 
 
 
暗視カメラで複数ポイントから監視しているタカシの身体が、一瞬で画面内から消えた。
 
自動追跡するカメラの焦点は、地上ではなくやや斜め上の宙に移っていた。
 
その真ん中に、銃を構えたまま宙に浮かぶタカシの姿。
 
 
 
「おお…やった!」
 
「慌てなさんな。次が上手くいかなければ意味がない」
 
 
 
今まで降下する際の命綱として使われてきたウィンチとワイヤーを、能動的に任意の箇所に打ち込んで利用する『アクティブ・ウィンチ』プランだった。
 
これにより、理論上は足場の続く限り使用者は三次元機動を併用した移動が可能となる。
 
だが、夜間作戦用の装備に加えてウィンチを加えた重量を負った状態で、普通の人間においそれとそんなアクロバティックな真似ができる筈もない。
 
そもそもあくまで理論上可能というだけであり、本当に実現可能な地球上に人間が存在するのか、それすらおぼつかない異形の計画だった。
 
それでも本職のスタントマンを訓練すれば、辛うじて移動だけなら可能かも知れない。
 
だが、このシステムの本領は単に移動に限られてはいなかった。
 
 
 
「…見てください、標的が減ってる!ハハハハ…凄い、凄いぞ!」
 
「射撃効率はむしろ下がってます。単発からバーストへの切り替え確認」
 
「多少効率が下がっても、空中移動中に実際に撃てればそれで充分ですよ!」
 
 
 
監視画面のタカシはワイヤーに牽引で引き上げられながら、地上と家屋内の標的を次々とクリアしていた。
 
銃撃には向かない不安定な姿勢ながらも、三点バースト射撃で腰だめにしながら着実に鋼鉄の人型を倒していく。
 
実験の成功を目にしたライセオンの技師は子供のようにはしゃぎ回るが、河本はそれで満足してはいなかった。
 
 
 
「支点と本体の位置はどうだ?」
 
「仕様通りです。着地します」
 
「着地後の復帰時間は測定しろよ」
 
「やってます」
 
 
 
一往復分の振り子の真似事を済ませて、タカシはワイヤー先端のマルチフックを解除した。
 
制約を解かれたワイヤーは即座にバックパックに吸い込まれ、掃除機の電気コードよろしく綺麗に収まった。
 
だが、肝心のタカシ自身は丁度空中ブランコから飛び降りたサーカス団員と同じく、極めてデリケートなポジションにいた。
 
リリースした位置はマニュアルや視界情報に沿ったものだったが、その重力と反動のバランスを彼自身の身体が拒絶している。
 
「ここで離れてはならない」という違和感がストレスとして体中に満ちている。
 
果たしてタカシの視界に映る地表面の速度は、頭に描いていたイメージより若干速かった。
 
その結果として、着地点は予定よりも2m程前にずれ、T字路の丁度真ん中に降り立つ事になった。
 
左右には銃を構えたテロリストが描かれた標的が群れを成している。
 
即座に動かなければならない、タカシ自身はそう考えてはいたが、落下の衝撃に晒された身体は言う事を聞かない。
 
それは着地してから一瞬の停滞だったが、センサーの目からは逃れられなかった。
 
 
 
ようやく身体が動いた瞬間に、警報が鳴った。
 
射殺。戦闘続行不可能。
 
 
 
照明が戻り、夜間の市街地は鋼材を不気味に組み合わせた赤褐色の墓場に戻った。
 
二階の管制室には訝しげに話しかけている技師と、マイクを握った河本が見えた。
 
 
 
「タカシ、今のどこが悪かったか分かるか」
 
「…開放位置が間違っていたので、速度と着地点が狂った」
 
「それと、態勢が不充分だったせいで着地後の復帰速度が遅くなった事だ」
 
「はい」
 
「実戦だったら間違いなく今ので蜂の巣だ」
 
「はい」
 
「まあ、今回は跳ぶ事が目的だから良しとするが、調整はお前自身が片をつけろ。ここにいる頭でっかちのデブを使ってな。俺は打ち合わせに行く」
 
「分かりました」
 
 
 
タカシと河本は日本語で会話したのだが、何かを察したのか技師は尚も執拗に河本に食ってかかっていた。
 
ゴーグルを外して改めて管制室を見ると、技師の姿は表情までがイメージ通りのアメリカンギーグだったので、タカシは何故か少し安心した。
 
 
 
「…君、彼は何と言っていたのかね?」
 
 
 
早々に退散した河本の背を睨みながら、技師がタカシに言葉をぶつける。
 
 
 
「貴方と共にウィンチの調整をするように言われました。まず射出に関する設定を決めたいのですが」
 
「現状で何が問題なんだ?充分射撃可能じゃないか」
 
「着地の予測点と速度が合いません。それと、最低でも連続二回は空中移動ができないと実用は困難です」
 
「何だって?それでは空中で一旦完全にフリーの状況を作る事になるぞ?しかもそのままウィンチを使うと言うのか」
 
「同じ場所で同じ軌道の振り子運動しているよりは安全です。理想的にはジャングルの猿並の機動力が欲しいんだそうです。最も僕はそれがどういう物なのか良く知りませんが」
 
 
 
予想を大きく上回る要求だったのは、遠目でも見える顔つきの変化で明らかだった。
 
 
 
「…まあいい、とにかくコイツを形にしないと僕も成果が出せない。そっちに降りるから待っていてくれ」
 
「了解」
 
「ところで彼は僕自身の事について何か…その、悪口を言っていたかね?」
 
「何か、と言いますと」
 
「何となく分かるんだ。陰口を叩く時の呼吸はどの国のどの人種でも変わらない。絶対に何か言っていた筈だ」
 
 
 
タカシは先刻の会話を脳内リピートした上で数刻考え、それから淀みなく答えた。
 
 
 
「技師という奴は机上の理論しか考えないから困ったものだと、そう言ってました。お前が肝心な事を教えてやれと」
 
 
 

 *      *

 
 
 
形式上とは言え、一度は廃棄された施設であるジオフロント基殻工事区画の復活に際して、最も困難を極めたのは電源量の確保だった。
 
かつては復興日本において最大級の電力消費家だったジオフロント建設プロジェクトも、今ではその殆どを完成したジオフロント本体とネルフ本部に奪われ、現状ではリフトや照明、リニアレールに最低限必要な量を確保するのが精一杯だった。
 
当初は坑道全体に最後の補強剤として液体ベークライトや強化コンクリートを注いで丸ごと埋殺しにする予定だった事を考えれば、当然と言えば否定できない状況だったが、そんな理由で現実の慰みになる訳でもない。
 
日本国政府からの正式な受諾がなされない内に、ネルフ本部に向けられていた電力供給の内数%をちょろまかしたのも、全てはテレーズ率いる工作班の仕業であり、
 
彼等の存在抜きではこの大深度地下基地の計画は、語る事すらできなかった筈である。
 
 
 
「で、一番肝心なこの統合管制室の始動に時間が掛かった訳さ。まだ完全稼働じゃないし、この先どうなるんだか」
 
「今更愚痴を言っても仕方ないだろう。引き続きスポンサーに要求を送り続ける事は言うまでもない」
  
「とにかく、もう少し体勢が整うまでは人員を抱え込むのは止めた方が良いんじゃねえのか?」
 
 
 
本人の代わりに椅子に置いてある「SOUND ONLY」のA3サイズパネルから乱暴なダミ声が響く。
 
鳳から降りられずに衛星通信で会議に参加しているグラーフだった。
 
そのグラーフ代理のA3モノリスを含めて五人の老兵達が、まだビニールの外れない管制機器の並んだ部屋で机を囲んでいる。
 
即ち、バウアー、グラーフ、テレーズ、河本、ボビーであり、彼等『保護者』こそがこのメジュゴリエの事実上の支配者でもあった。
 
 
 
「大体、肝心の教導体勢と小火器が揃ってないんじゃ無駄にガキばかり増やす意味ないだろ」
 
「まあ当たり前の理屈だが、この前と違ってそこそこ人材の『在庫』が増え始めているからな。余り遅いと悩みが出るな」
 
「ボビー、まさか無責任な噂なんか流してないだろうな?ここは歌って踊って眠って暮らせる老人ホームじゃないんだが」
 
「いやいや、まだそんな段階じゃないんだな。残念だが」
 
「何だそりゃ予定に入っているのかよ…」
 
「悪いかね?」
 
「いいや別…見上げ…んだ」声の荒さにノイズが被って半ば騒音になりつつあった。
 
「それにしても、今日は随分と遠隔通信が荒れているな」
 
「ああ、今は地球の裏側にいるから仕方ないね。使える衛星が増えれば問題はないさ」
 
「しかし、こうやって通じない通信を聞きながら地下に潜っていると、まるで砂漠にいた頃のようじゃないか」
 
「これだけのハイテク機器に囲まれてもかね」
 
「動かないならただの残骸に過ぎん。それもあの頃と同じだ」
 
 
 
バウアーの言葉に誰もが沈黙し、無意識にミネラルウォーターのペットボトルをほぼ同じタイミングで口にした。
 
互いにその有様を確認しつつも苦笑するような事もなく、しばらくの間、誰もが気まずい沈黙を持て余して咳払いとペットボトルの繰り返しで取り繕うだけだった。
 
 
 
「…ま、昔の話はもう良いのさ。それよりこっちが問題でね」
 
 
 
男達のセンチメンタルを振り払うようにテレーズが乱暴に端末を操作する。
 
ポインタを動かして幾つかのフォルダを解放、パスワードとIDを自動認識させて、一つのテキストファイルを開く。
 
その過程を表示しているプロジェクタは、ネルフ本部の作戦司令室に無数に並んでいる半透過式モニタの予備を攫ってきて、仮設の卓上会議用に仕立てた物である。
 
暗号変換システムや各国の独自規格の素子は用意してあるものの、この手の基本的な機材は現場調達に頼るしかないのが、彼等国連特務師団の現状だった。
 
 
 
「これが例の死海文書という代物か?」
 
「いや、その死海文書を元にして立てられた予定だそうだ。仮に『使徒予報』とでも呼ぼうか」
 
「予報…は…ナメた…だな」
 
「そうだな。全くだ」ボビーは当てずっぽうで言葉を返した。
 
「で、こいつによると二週間後辺りに正体不明の『何か』が来るらしいんだがね。これをまともに信じる頭はアタシには無いんだけれども」
 
「信じようが信じまいが、その程度では何の役にも立たない情報に思えるが」
 
「構わん。我々が戦うのはその『何か』ではない。その『何か』と共に来るであろう我々の敵さえ分かれば十分だ。そう考えよう」
 
「せめ…場所く…のか」
 
「あーグラーフよ、後でそっちにも簡略化したデータを送るから確認してくれ。よろしく」
 
 
 
鳳にここと同じレベルの機器が揃っているのだろうかとバウアーは思ったが、いずれにせよXデーまでには各種条件データを一回は送らなければならない。
 
そもそも、この重要な情報をネルフ本部内には絶対に通達しないという碇総司令の方針自体が解せないが、それが顧客の注文である限りは、とにかく既にこちらの監視を始めているネルフ側に掴ませる訳にはいかなかった。
 
確かに半端な装備のカウンターゲリラとしてはあらかじめ予定が見えていないと防備を組みにくいという現実もあるが、それは情報を共有しない理由にはならない。
 
 
 
「だが、一番の問題は使徒が来るタイミングでは無い。人間が来るタイミングだ」
 
「ボビー、あんたの事だ。どうせ、この情報は向こうの筋にも流してあるんだろ?」
 
「いやいや、まあ…何と言うかな。こちらが何をしなくても知らされる仕組みは出来ているらしいんだな」
 
「ほう、誰が仕込んだルートかね。こちらの了承もなく」
 
「それは言わなくても分かるだろう?それでこちらを掌で踊らせているつもりなんだろう」
 
「結構な事だな」河本はあからさまに呆れてみせる。
 
 
 
グラーフのモノリスから切り裂くようなノイズが爆発した。
 
大音量で割れたグラーフの怒鳴り声だったらしいが、腹を立てている事を除いて内容は判別できなかった。
 
ボビーは躊躇う事無くスイッチを切って騒音の嵐を止めた。
 
いずれにせよ、現状では空からの手助けが必要になる事は無いのだ。
 
 
 
「わたしらが言うのも何だけど、ネルフの連中も不憫だねぇ。人類の未来を守る正義の味方が」
 
「確かに酷い話だ。むしろ我々の方こそ最初から下請けの使いっ走りで、今更コケにされても立てる腹もないんだがね」
 
「それは違いないな」
 
「それより、この使徒予報自体はどんな経路で来たのか、それを教えて貰いたいな」
 
「決まってるさ、ミスター加持だよ」
 
「なるほど、となるとようやくこっちに来るのか」
 
「事態がややこしくなる前に設備と人員は可能な限り揃えなければなるまい」
 
「そりゃそうだ…と、そう言えばヤロンの先生はいつ頃来るのかな?」
 
 
 
ボビーがプロセッサのイニシアチブを借り、手元の端末を操作して予定表を検索する。
 
「ゾフ・ヤロン」の名前と共にエヴァ弐号機の項目が記されていた。
 
 
 
「何だ?奴さんアメリカから空母で来るのか」
 
「向こうの支部の立ち上げに正式に参加しているんだそうだ」
 
「良い時代になったものだよ。かつてGPUの秘蔵っ子が米国で仕事と来た」
 
「今更冷戦も東西もあるまい」
 
「しかし、ミスター加持も確か同じ便でこっちに来る予定じゃなかったかね?」
 
「そうなのか?」
 
「確かに空母に便乗してくるという話だった…しかしそうなるとこれは」
 
「面倒ばかり起こるな」
 
「敵じゃないだけまだマシだろうさ」
 
「当然だ」
 
 
 
今度はバウアーが端末をいじってプロジェクタの画像を替える。
 
一般どころか機密レベルでも低級ではまずお目にかかれない、第三新東京市の衛星写真だった。
 
 
 
「いずれにせよ、使徒の襲来に併せて具体的な攻撃があるのは確実だ。その対策こそが最優先とするべきだ」
 
「となると手段と侵攻ルートを見積もらなければならないが、今の状態では材料に乏しいな」
 
「…そう言えば、搬入ゲート前に『ウニモグ』が来ていたね」
 
「ああ、貨物運搬用に来ているのが何台かあるな」
 
「ウニモグだと?何故そんな御大層な代物が来ているんだ」
 
「単に通常仕様のトレーラーに空きがなかったそうだ。で、数は少ないが手が空いていて局地に向いているからこっちに来ただけだとさ」
 
「国連軍も贅沢なのかケチなのか分からんね。相変わらずだが」
 
 
 
テレーズは一人あらぬ方向を向き、右手の親指と人差し指をしきりに擦り合わせる仕草を繰り返していた。
 
それを見たバウアーは掘り出し物を見つけた骨董爺のような笑みを浮かべて身を乗り出した。
 
 
 
「何か策でもあるのか、テレーズ」
 
「無いことはないね。動作保証も無いし出番があるのかも分からんが」
 
「では聞かせて貰えないかな。婆さんの知恵袋って奴を」
 
 
 
戦場における過去の兵器実用例を掻き集める事を使命の一つと信じているテレーズにとって、こういう開陳の場は人生の中でおおよそ三番目に喜ばしい状況だった。
 
二番目は全く新しい活用例を実現させた時で、一番目は無から有を造る瞬間である。
 
 
 

 *      *

 
 
 
「それじゃ何か、一々このメールに返事を出さないといけないのか?」
 
「そうなんじゃないの?まあ大丈夫だろ。ここに来た頃と違って今は暇だし」
 
「でもこれざっと見て500は軽く越えているだろ。全部分割転送と三重暗号処理するのかよ」
 
「ああ、確か少佐はそう言っていたな」
 
「他人事みたいに言わないで少しは助けてくれよ」
 
「仕方ないだろ。俺は蒸着機の調整途中だし」
 
「他の連中は?」
 
「最後の調整だって外に出ている」
 
「暇じゃねーじゃん」
 
「お前は暇だろ」
 
 
 
かつて薬剤倉庫だった場所に精密加工機材を詰め込んで作られたこの部屋は、他の施設と異なり軍事色の殆ど見えない特殊な空間になっていた。
 
そもそも居座る二人は戦闘服でも制服でもなく、白衣に安物のTシャツというポスドク崩れの格好をしている。
 
唯一下半身が制服のベージュパンツである事が軍属の一員である事を示していたが、靴に至っては履き古したサンダルだった。
 
銃や大砲ではなく、最新測定機器と技術力によって総合戦闘力をバックアップする事を目的とした組織。
 
 
それがテレーズ・プストス率いる整備・工科兵部隊『ウィザードマジャール』だった。
 
 
もっとも、現在は技科専門のビデルチとコシチュが居残りで機器調整とサーバ設置に取りかかっているだけで、実際に現場に出て工作を図る実働部隊は出払っていた。
 
人類補完委員会の申請が正式に日本政府に受諾され、発電所から電力が来る前に受け入れ態勢を整える最期の追い込みが迫っていた。
 
これによって来日当初から続いていた重電との格闘も終わりを迎えるが、その次には休む間もなく世界中の企業相手の折衝と技術取引の繰り返しが待っている。
 
ようやく立ち上げたサーバに受信した膨大なメールは、全て事前に契約が内定されている企業からの挨拶だった。
 
現状で動ける戦力としては裏方専門一個小隊に過ぎない『マジャール』達にとって、許容量を越える業務がしばらく続く事になる。
 
 
 
「なあ、『全員に返信』で同じ文面じゃダメなのか?」
 
「ただの挨拶文じゃないだろ。字面から内容を見るだけだと少佐に殺されるぞ」
 
「何言ってんだい、それだけじゃまだ足りないね。各社対応の暗号変換鍵に突っ込んで順方向、逆順変換したデータは保存しておきな!」
 
 
 
前触れも無しに割り込んできたテレーズの声に、二人は過剰なまでの反応を示した。
 
それまで全く軍人らしからぬ態度でいた所が、即座に直立不動の姿勢を取り、ともすれば失礼にも見える大袈裟な敬礼をして見せた。
 
 
 
「分かったから、そのウザったい敬礼をさっさと止めてくれないかね」
 
「…やっぱり嘘臭いですかね」
 
「進捗はどうなってる?」
 
「超音波とCTはどうにか動きますが、蒸着はもう少し…」
 
「遅いね。まずこいつを修正する仕事を始めないと」
 
 
 
そう言ってテレーズはスティンガーミサイルよろしく強化プラスチックの箱に収まった黒色の棒を作業台に置いた。
 
先日タカシがドラガンとの戦闘で使った伸縮型の槍だった。
 
 
 
「聞きましたよ、彼の話。俺達も顔だけは知ってましたから」
 
「まあ想像はしていたけど、まさか最初に来るとは思わなかったから、タカシには悪い事をしたよ」
 
「じゃあ、情報自体は掴んでいたんですね?」
 
「そりゃ、ボビー以外からも中央アジアやバルカンで兵隊かき集めている手合いがいるって噂は聞いていたさ」
 
「…それで結局『ナガサ』の初陣はどうでした?」
 
 
 
テレーズは『ナガサ』本体を箱から引き出し、まるで磯釣竿を扱うように手軽に最大長まで引き伸ばした。
 
実際にはグリップ部分のスイッチで長さを調節しているのだが、見た目では手で直接伸ばしているように思える程スムーズな変形だった。
 
伸ばしきった『ナガサ』はちょっとしたポールアーム程の長さにまでなった。
 
刀身の大きさ自体は最初のままだったが、得物としては東洋の長槍や長巻として使用に耐えうる形状と言えた。
 
 
 
「見ての通り機構は異常無いが、刃先が欠けたね」
 
 
 
ビデルチとコシチュは無言で刀身部分に駆け寄り、それこそ壊れ物を触るように丁寧な手つきで刃の部分を撫で始める。
 
根本から先端に向かう途中、反り返りの部分に差し掛かる寸前の場所でビデルチの指に痛覚が走った。
 
コシチュが真横からハンドルーペで確認すると、確かに微妙に長いUの字型に刃が欠落している。
 
彼らには知る由も無かったが、そこはドラガンの指を切り落とした部分でもあった。
 
 
 
「硬度がキツ過ぎましたかね」
 
「刀身の歪み自体は測定しないと何とも言えませんが、ブレード部分の配分比は考え直さないと」
 
「そこら辺は任せるよ。ここの立ち上げと平行して急ぎな」
 
「急ぐのは良いですけど、もう少し人員はどうにかなりませんかね?」
 
「ならないね。技術系の人材なんてそうそう確保はできない事くらい知っているだろう?」
 
「そりゃそうでしょうけど・・・例の如く他所の企業から力技で引き抜くんですか」
 
「分かっているならさっさっと実績出しな!!出向でも何でも外の連中をこっちに来させないと話にならないんだよ!!」
 
「へいへい了解でーす」
 
 
 
頭を掻きながら、二人は『ナガサ』を持って隣の工作室に入っていく。
 
この『ナガサ』は体格に劣り格闘戦において不利な状況に陥りがちな少年兵向けに製作された物で、元々はHIGH-MACSを始めとする多脚型移動システム向けに開発されたESSFを用いるという新機軸の白兵戦兵器だった。
 
原案も試作も全て彼等ウィザードマジャールによるものであり、他企業からの注目も多い目玉の一つだった。
 
だが、テレーズは部下の様子を見に行く訳でもなく、先程までビデルチが張り付いていたサーバマシンを覗き込んで膨大な数のメールに目をやる。
 
その一つ、名だたる軍事企業や各国の政治機関の名が並ぶ中で、ごく質素で単純なタイトルのメールを開いた。
 
送信元の名はロンドン・ガナーズ通商。
 
内容は簡単な挨拶と、カタログと称する圧縮ファイルが添付されているのみだった。
 
テレーズはその圧縮ファイルを製造元の異なる5種+自作のアンチウイルスソフトに通し、更に個人用にネットから隔絶したスタンドアロ−ンマシンに移した上でようやく開いた。



――――――――――――――――――――――――――――――

 
 
 
一通りの欲望を満たした後に訪れる虚無感は、いかに能天気な歴戦の兵士でも誤魔化し切れるものではない。
 
ずっと昔、まだ日本で学生だった頃に見た中世の映画で、賞金を手にした傭兵が手近な欲望を全て満たした挙句に、泥沼のような停滞に沈んで衛兵に手も無く捕まるというシーンがあった。
 
その時は役者と舞台設定のせいで現実感の無い映像として捉えていたが、今、俺の目の前にある状況は正にその停滞そのものだった。
 
 
 
「暑いな。クーラーはもう死んだのか」
 
「生きてるだろ。人が多すぎるからろくに利きやしないんだ」
 
「こんなボロでゲスト用なんて嘘だろ。クソが」
 
 
 
三日前、俺達は忌々しい収容所から怪しげな少年傭兵に買い取られ、かつてそうであったように金で雇い主と繋がる「戦力」となった。
 
詳しい状況は明かされなかったが、周辺の大まかな地理的条件を教えられ、その上で同行させる面子を選ぶように命じられた。
 
それだけの権利を俺に与えたのは目的地が日本だからなのかもしれなかったが、俺がいた頃と今とでは相当変化している事は想像に難くなく、俺を頭目にするメリットがどれだけあるかは疑問だった。
 
面子の選別にはできるだけ私情を挟まなかったつもりだが、碌に無かったコミュニケーションの間にそれなりに信頼できると見ていた人間は優先的に名簿に載せた。
 
俺の目の前でクーラーを呪っているラマンベラ兄弟もその内の二人で、得意分野は爆薬と火砲と名簿には書かれていた。
 
実は専門技術に関してはその時に初めて知ったのだが、俺は酷烈な環境で飼い殺しにされていても、目が死んでいない奴として記憶していた。
 
信頼できるという事は、書類上の肩書きによるのではなく、つまりそういう事だ。
 
 
 
「止めろ止めろ。この前まで水もろくに飲めなかったくせにブー垂れるな」
 
「やりたい事やったらもう飽きた。あんなクソ溜の事はもう忘れた」
 
「じゃあもう少しそこの女の股に顔を突っ込んで黙ってろ」
 
 
 
そう言うプロコロフは最初から同じ女を可愛がり続け、今は肉布団として覆いかぶさる女の体重を甘んじて受け止めていた。
 
収容所で俺の次にプランを知らされた三人は、こっちの目論見通りに一も二も無く喜んで食いつき、兄弟の方に至っては俺を三人目の兄弟にすると言って抱きついてきた。
 
一口に傭兵といっても、実の所一定以上の企業に所属しているか否かで明確にランクが分かれてくる。
 
言うまでも無く俺達はその中でも低いカーストに位置し、故に中国政府に捕まっても何の保護措置も成されず収容所に放り込まれた。
 
傭兵派遣企業に属する連中は、もれなく幾ばくかの金と引き換えに元の場所へと返される。
 
そういう差があるからには、俺達ローカースト傭兵はどのような性質の仕事でもチャンスがあるなら間違いなく飛びつくようになる。
 
まして、それが強制収容所から抜け出す数少ないチャンスなら尚更だった。
 
たとえそれがいかに胡散臭い代物だとしても。
 
 
 
「あれから何日経った…お日様が見えないと感覚が掴めねえ」
 
「二日は過ぎているだろ。間違いない」
 
「今まで散々陽に当たりすぎて暗闇に慣れないな。輪郭がぼやけてる…」
 
「テメーは食い物と草のペースを崩しすぎだ、パトリック。ガッつくの止めろと言っただろう」
 
「そう言う兄貴だって散々飲み食いしてるじゃないか」
 
 
 
トラックで半日かけて街に着いてから、丸一日は水と食料を摂る事に集中した。
 
意識的にそうしたというよりも、まずそこに全員の執着が向いていたからだ。
 
次の日の昼まで泥のように眠り、シャワーを浴びてようやく人間に戻る。然る後に酒池肉林の始まりである。
 
女達は普段はゲスト用と言われているだけあって、それなりに顔も体型も揃っていた。
 
人種を意識したのか、アラブ系を基本に黒人、白人、アジア系まで揃っていた。
 
俺はお約束に従ってアジア系と言うには化粧の濃すぎる微妙な年齢の女を相手に、大体3時間程粘った。
 
無論、その最中には集中できたが、女の方が酒に傾いて一休みすると、もうその気は殆ど失せて復帰するタイミングも無くなってしまった。
 
気がつくと女はさっさと酔いつぶれ、俺は部屋中に満たされたヘロインの煙と腐った蜜柑のような匂いを吸いながら全員の荒れっぷりを観察していた。
 
使えそうな奴に声をかけて、答えたのは総勢57名。
 
20人単位でナンボという買い取り価格で、最大100名は考えているとジュバロフも言っていたから、本来ならもっと多く来る想定でいた筈である。
 
来なかった連中は、出られるという話を聞いても目的地が戦場だと分かると途端に尻込みしてしまった。
 
永遠に続くかという砂漠の暑さと単純労働の中で、戦う方法と精神を忘れてしまったのだろう。
 
他の連中はそんな奴等を嘲笑っていたが、俺には笑えない。もうあと一ヶ月もあそこにいたら、同じ選択をしていた可能性を否定できない。
 
どうせ今の俺達だって、決して自由の身とは言えない立場である事には変わりない。
 
 
 
「もう良いや。さっさと身体動かさないとなまって仕方がねえ。外はどうなってる?」
 
「どうせまだ砂嵐さ」
 
「いっそこのまま死ぬまでヤリ続けられればなぁ」
 
「どこ行ったって同じだろ。砂漠と廃墟だけさ」
 
「死んでからよ、その先に行く場所って今と同じような所なんじゃねーの?」
 
「そうかもな。まあ、その内行けるから気にするな。飲め飲め」
 
 
 
収容所では殆ど口を聞かなかった者同士が、鬱憤を晴らすように言葉を並べる。
 
一応まとめ役を任じられた俺は、端から観察して性格の志向をそれとなく把握するように努めていた。
 
20畳程の地下シェルターに潜んで、組んず解れつし続けた時間に終わりが近づいている。
 
砂漠を抜けた海の更に向こう、あの腐った日本がどうなっているのか、俺はまだ何も知らない。



――――――――――――――――――――――――――――――

 
 
 
さしあたってのキーワードは「少年傭兵」と「HIGH-MACS」、それに「メジュゴリエ」と主要構成員の名前だった。
 
ただ、HIGH-MACSに関しては、この前調べた内容以上の要素は余り多くは見つからない。
 
要するに21世紀初頭に開発された装甲歩行型砲塔システム−−略称AWGS−−から世代発展した兵器で、2010年頃から本格的な運用が各国で検討されていた。
 
これ以上に特に目立った背景は見えなかったが、何故この装甲歩行兵器の類が未だに戦略自衛隊や国連軍に採用されていないのか、その点は気懸かりだった。
 
 
 
「少年傭兵ってのは、思ったよりも広い地域に沢山いるらしいな」
 
 
 
青葉やマヤちゃんも僕と同じく命令された訳でもなく、自分の意思で例の特務師団に関する情報を集めていた。
 
もっとも僕には僕自身の少しばかり趣旨の異なる理由がある。恐らく二人は普通に自己防衛意識の現われとして行動しているのだろう。
 
言うまでも無く、二人の方が健全であって、僕の行動理由こそ不純そのものだ。
 
 
 
「正直、何も知らなかったです…各地で戦争や内乱が起きているって話は聞いていたけど」
 
「俺もさ。普通にテレビやニュースサイト見ていただけじゃ、海外の情報なんて何も分からないんだな」
 
「日本の報道がどっかしらおかしいのは昔からだよ」
 
 
 
僕自身は中学生の頃からネット上の情報を漁る事を愉しみの一つにしていた。だから、表に出てくる報道の大部分が捏造とまでは行かなくても、肝心な部分を逸らせた代物なのは分かっていた。
 
別に国内の事件事故に関してはどうという事は無い。だが、海外の都合の悪い情報や一般に興味を引かない話題は欠片も伝えられない。
 
日本国内に留まっている限り、海の向こうは文化は違えど自分達と似たような人間が生きているように思えるだろう。実状は大きく異なっていても、疑問を挟む者は滅多にいない。
 
そういう僕も国際公務員としてネルフに関わるようになってからは、自ずと身の回りの事情にしか興味が向かなくなった。
 
人類補完委員会を中心にして、世界中の様々な国家や企業体が繋がり、一つの巨大な輪を形成している事実は知っていた。
 
だが、世界の半分以上が未だにセカンドインパクトによる被害状況すら正確に把握されてない状態で放置され、実は復興を遂げているのはごく僅かな先進国のみに限られている事は知らずにいた。
 
テレビで流されている世界中の復興「らしき」映像を見て、それを素直に受け止めていたのだ。
 
そして今、こうして再び検索と閲覧の繰り返しの中で知った現実は、想像以上に悲惨極まりないものだった。
 
 
 
「アフリカ大陸の沿岸部に存在した国家の半分以上は、既に存在自体が無いものとして扱われているな」
 
「残った国々も例のごとく部族紛争と資源の奪い合いで10年以上内戦を続けているってさ」
 
「国連は弁務官すら送らないで、モロッコの駐留アメリカ軍と衛星から得た情報だけで内情把握を続けているそうです・・・」
 
 
 
あの武装したメジュゴリエの少年達の中には黒人の姿もあった。
 
ここまで集めた情報と、彼ら少年傭兵の正体が正しければ、アフリカ諸国からもかなりの数の人員が来ているに違いない。
 
食いあぐねた戦争屋達が、人類存亡を賭けた戦いの場で何をするつもりなのか。
 
本当にネルフ全体を狙うテロ活動が存在するのか。
 
恐らく葛城さんが知りたがっているこの点だろう。
 
それは即ち、僕自身の狙いでもある。
 
 
 
「中央アジアや中東は天候異変の度合いこそ低かったけど、生存権を巡って異なる宗派、民族の間で大規模な紛争が起きていたのはアフリカと同じみたいですね」
 
「で、そこで起きた最大の戦争が葛城司令の言っていた第二次中東内戦という訳だ」
 
「その周辺からフランツ・バウアーという名前だけならすぐに見つかったけど…」
 
 
 
そう、そこまではすぐに辿り着いた。
 
EUとアメリカ向けに提出されていた国連軍のリポートには頻繁に彼の名前が出てくる。
 
曰く、港湾施設の奪取作戦を指揮して成功した。曰く、大規模な攻勢を事前に察知して阻止した。曰く、占領されていた航空基地を逆占領した。曰く、敵の機甲二個大隊をその半分の戦力で殲滅した。死者はゼロ。
 
決して有利とは言い難い戦況の中で、唯一と言って良いような連戦連勝の記録を残し、それに比例するように国連軍自体の戦況も有利に傾いていった。
 
とは言え、全体的に見て国連軍の陣容は万端という訳ではなく、旧サウジ一帯を制圧できる最低限の兵力よりも更に二割程足りないというレベルでしかなかった。
 
政治的思惑の絡んでいた旧世紀と異なり、純粋に石油資源を確保する為に各国が苦肉の策としてなけなしの軍備を出し合って搾り出した、正に寄せ集めの軍隊だったのだから、これは仕方の無いことだった。
 
しかもその供出軍力も、一歩間違えば自分たちの共同体も中東や東欧と同じ目に遭うという危機感の為か、各国が必要な種類の戦力を等しく分担するという単純な基本も守れない有様で、介入前には無謀な作戦と揶揄すらされていた。
 
そんな中で、フランツ・バウアー大佐率いる第501戦闘旅団を含む国連派遣多国籍軍第101機甲師団は、何かに導かれるように破竹の進撃を続けていたのだ。
 
 
 
「大体、大佐クラスで旅団率いるってのも少し異常だよな」
 
「准将格を辞退したらしいね。それで通じる程優秀って事なんだろうけど」
 
「でも結局、彼の所属していた部隊内部に関する情報が殆ど削除されているんだよな。散々誉めている癖に」
 
「そっちでも同じか。こりゃEU中流辺りの国を踏み台にして、多国籍軍に参加した主要国のデータベース覗くしかないな」
 
「で、でも今の状態でそこまでする必要は無いと思いますけど…本来どうしても必要な情報ではないんですから」
 
「そりゃまあ、そうだ。もっと差し迫った問題があるしな」
 
「だけど海の向こうの宗教テロ組織なんて、国連軍の隠蔽記録より探しにくい情報じゃないか?」
 
 
 
正直、僕には未だにネルフを狙うテロ組織の存在自体を素直に信じる事ができなかった。
 
確かに、実際に自爆覚悟の完全武装を纏った侵入者を目撃したし、それを大した混乱も起こさずに収拾してみせた彼らの実力は低くないのかもしれない。
 
しかし、それ以上に闇夜を駆けるあの漆黒の機体と、一時的にせよネルフやエヴァの機能を完全麻痺させた攻撃のインパクトの方が強烈であり、最終的に残った物はあの少年達に対する微妙な畏怖と敵意だけだった。
 
大体、騒動を誤魔化す為に広報部は一般向けに「誤報」の方便を使い、関係省庁や内部には「使徒の取り逃がし」という苦肉の言い逃れを使っていた。
 
要するに二枚舌、三枚舌であり、早晩見破られかねない一時凌ぎでしかない。
 
こんな不安定で行き当たりばったりな計画を実行する集団をそのまま信用しろ、という方が常識外れではないのか。
 
 
 
「実行する前に諦めていては、見つかる物も見つからんだろう」
 
 
 
言葉を発するより先に立ち上がり、半自動的に敬礼で迎える。
 
目上の人間の声を聞くと反射的に身体が動くようになって久しい。
 
例外は葛城さんくらいだろう。
 
 
 
「冬月副司令、碇総司令はいつお戻りで?」
 
「うむ、もう少し各国間の調整に時間がかかる。あと三日はかかるだろうな」
 
 
 
何とも言えない虚脱に近い安心感が沸いてきた。
 
顔に出す訳にはいかないにしても、総司令の圧迫感は尋常なレベルじゃない。いるといないでは天地程の差がある。
 
当然、責任者がいないのも居心地が悪いから、冬月副指令単独という稀な形が一番気楽に感じる。
 
まだ会話の中で出した事は無いけど、恐らく他の二人も同じ感覚でいるんじゃないだろうか。
 
 
 
「ところで、調査に行き詰っているようだが」
 
「はい、戦闘体制移行時の都市機能凍結について詳細なデータが…」
 
 
 
冬月副司令は碇総司令に比べれば常識の範囲で動く人間であり、時々表に出る露骨な侮蔑の表情を除けば穏やかで話の通じる上司と言えた。
 
だが、やはり僕達とは頭の出来が違うのか、こちらの行動を手も無く見透かす事がある。
 
 
 
「下らない隠し立てをする必要は無い。例の特務師団について調べているのだろう?」
 
 
 
そういう点では遥かに総司令よりも怖い側面を持つ人だった。
 
 
 
「…ええ、まあ、そうです」
 
 
 
あっけない陥落。
 
しかし考えてみればバレない方が変なのであり、ただその時期が異常に早かっただけだ。
 
 
 
「別に規定違反行為ではない。勿論本来の義務を優先するのは言うまでも無いが、止める理由もありはしない。好きにするが良い」
 
「え?」見事に僕達三人の間の抜けた声がハーモニーになった。
 
「但し、それによって我々の組織が不利益を受けた場合、責任は君達自身で取ってもらう。それがどういう形になるかは、決めるのは向こう側だろうがな」
 
「それはつまり…私達に死ね、とおっしゃるんですか」
 
「繰り返すが強制はしない。これは総司令の意向と同じと考えて貰っていい」
 
 
 
自己責任。
 
言葉は綺麗だが要するに手出し無用、またはその一歩手前という意味でしかない。
 
副司令の言葉を文字通りそのまま捉えれば、「余計な真似をする必要はない、使徒に比べればメジュゴリエなど大した存在ではない」という事になる。
 
しかし、仮に尻尾を踏んだ場合は組織としては庇えないという。明らかな矛盾だ。
 
これは一体どういう事なのか。
 
 
 
「参考までに言っておく。彼らの所属は表向き国連軍となってはいるが、事実上人類補完委員会の私兵扱いだ。
 しかも構成員の一部は世界中の軍事組織と強い繋がりを持っている。一概にどこの国の、どの組織に従属するという断定のしがたい集団と言えるな」
 
「あの、それはどういう事なんですか?」
 
「つまり、地球上の大方の諜報組織や軍隊の出先機関という事さ」
 
「それじゃ目を付けられたら戸籍ごと消されちゃうじゃないですか!!」
 
「はっはっは、些かそれは大袈裟だな。伊吹君」
 
 
 
副司令は余裕の面持ちで笑う。
 
でも彼女の言い草だって決して世迷い言という訳じゃない。
 
そんな裏側を持つ組織だとしたら、ただテロからの防御のみを目的としているのではなく、明らかにもっと物騒な使命を帯びている可能性が非常に高い。
 
そうなれば、事は面子やら縄張りやら信用というレベルでは済まなくなる。
 
冗談抜きでジオフロントの地下湖に沈められたとしても不思議じゃないし、だとするなら彼らが対抗するというテロ組織以上に危険な敵性勢力を身内に抱き込む形になる。
 
果たして副司令は、そこまで分かっていて余裕を見せているのだろうか。
 
 
 
「では、一つだけ教えて頂けませんか」
 
「何かね」
 
「何故、国連軍やウチの警備部保諜部に対テロ防衛を任せられないんですか?戦自だって十分すぎる程の戦力を持っているのに」
 
「そうですよ。日本に来てテロを行うとするなら、それを止めるのは戦自か公安の仕事じゃないですか」
 
 
 
副司令は、むしろ哀れむような目で僕達を見つめて言った。
 
 
 
「本来存在しない敵を叩くには、やはり存在しない味方を使わなければならない。今の私に言えるのはこれだけだ」
 
 
 
そうして下層への階段を下りていった。
 
何食わぬ様子で他の職員達と話す副司令の声を聞きながら、僕は混乱極まる頭の中を整理するのに精一杯だった。
 
危険ならば、何故調査活動を堂々と禁止しないのか?
 
「本来存在しない敵」を叩く為の「存在しない味方」とはどういう意味なのか?
 
そしてメジュゴリエの少年達の、本来の狙いは何なのか?
 
考えた所で分かる筈もない疑問が次々生まれてくる。
 
 
 
「なあ、どうする?これ以上はヤバいんじゃないか?」
 
「そうですね。このまま惰性で調査を続けていても危険だと思います」
 
 
 
他の二人は至極真っ当な結論を導き出している。
 
当然僕にはそれを止める権利など無い。
 
 
 
「お前、どうする」
 
 
 
諸般の事情の混ざった計算が頭の中を駆けめぐり、その末に僕の出した結論は、
 
 
 
「僕は…もう少し調べてみるよ。別に機密レベルの情報に触れなければ多分大丈夫だよ」
 
 
 
自分に言い聞かせる意味合いの方が大きかった。
 
しかし実際問題として、誰かが保諜部お仕着せの資料を凌ぐ深度の情報を集めなければならない。
 
その役目を僕が担うしかないのならば、むしろ望む所だった。
 
集めた情報を葛城さんに渡すのは、間違いなく僕自身になるのだから。



――――――――――――――――――――――――――――――

 
 
 
第一陣としてやってきた『人材』1052人の内、初期選別の上澄み約300人を預かったJJとカンターが最初に取りかかった仕事は、兵士としてまともに働ける人間を選別する作業だった。
 
 
 
連れてきたチャールズは五体満足の人間ばかりと言ってはいたが、実際に一人ずつ検分すると、手足の細かい箇所が抜け落ちていたり、あるいは存在はしても動かない者が混ざっていた。
 
見逃したチャールズと一党の間抜けさ加減を恨むか、あるいは巧く誤魔化して潜り込んだ連中を讃えるべきなのは微妙だったが、来てくれるだけマシという一つの現実もある。
 
ひとまず全員を横に並ばせて前に突き出した手の平を開閉させ、それから1km走らせて正常な脚部そのものと体力があるかを確認した。
 
続いてごく簡単な体操をさせて、一通りの通常運動が可能な人間を選別すると、300人が103人に減った。
 
やがて事実上第一陣の内でトップとなった彼等は『セカンド』と呼ばれるようになり、そのまま具体的な名称として定着するようになった。
 
そうして選別されたセカンドでも、ごく単純な命令しか実行できない者から、一通りの部門において戦闘経験を積んでいる即戦力まで玉石混交の集団になる。
 
JJとカンターは色々思考した末に、彼等をまだ施工工事が終わったばかりの射撃場に連れて来き、一番単純な秤にかける事にした。
 
 
 
「で、貴様らの中で一回でも弾を撃った事のあるのはどれくらいいる?」
 
 
 
最初に手を挙げた人数は全体の三割程だったが、それにつられたのか次第に少しずつ人数が増えていき、結局はほぼ全員が挙手する状態になった。
 
 
 
「…来て早々ナメてんのか貴様ら。遠足にでも行くつもりか?」
 
「落ち着けカンター、撃っただけなら誰でも経験はあるに決まっている」
 
 
 
代わってJJが正規兵の経験を訊ねると、最初に挙手した三割の面子がそのまま立ち上がった。
 
正規兵と一口に言っても、ゲリラ同然の反乱軍や食いつなぐ為に駆け込んだ現地採用枠ならば訓練を施した素人同然である。
 
対照的に、場合によっては正規兵以外の中に歴戦の猛者が紛れている事もある。
 
それを判断する為には実際に撃たせる他にない。
 
実に単純で率直な判定法だった。
 
 
 
「用意したのは君達も見慣れているだろう、AK47だ。無論実弾が入っている。そこで射撃場となれば意味は分かるだろうが…」
 
「向こうにある的を、撃てば良いんだろ?」
 
 
 
それまで無言で従ってきた集団の中から、ようやく自主的な声が挙がった。
 
 
 
「そうだ。小難しい事は抜きにして、的の真ん中を撃てば良い」
 
「俺、訓練でやってたんだ。他の奴等より上手だったぜ」
 
「そうか。では、まず貴様が手本で撃って見ろ」
 
 
 
カンターが子供相手に買い言葉で応じ、AKを取って少年に差し出した。
 
JJはJJで、そのまま流れに逆らわず勇気ある少年にデモンストレーション役を任せるつもりだった。
 
その出来がどうであろうと、犠牲の羊は必要となる。
 
アシェミアンと名乗った少年は、意気揚々と銃を手に土嚢を積んだ射撃ポイントに向かった。
 
強がりな口調もいざ実際に銃を構えると全くの無言になった。
 
 
 
「肘をもっと内側に引け。足の幅をもっと狭く!」
 
 
 
余りの我流ぶりにカンターが吠えた瞬間に、乾いた銃声が二発響いた。
 
アシェミアンはセミオートで二発発射し、弾は10m先のゴングに当たって鈍い金属音を鳴らした。
 
160cmもない少年が立射で7.62mm弾を撃てば、一般人なら反動によって上半身が引けてしまう。
 
しかし経験を豪語するだけあって、そんな醜態は見せなかった。
 
あるいはこの場だけの痩せ我慢である可能性もあったが、ともかく少年はそのまま50m間隔のゴングに向けて不規則に射撃を続けた。
 
一番近い10mには、ほぼ銃声と同じタイミングで金属音が鳴る。それが30、50、100と離れると距離に比例して音の割合が少なくなる。
 
姿勢こそ乱れはしていないが、衝撃を抑えきれずに銃身全体がブレてい証拠だった。
 
1マガジン撃ち終えたアシェミアンは、それでも誇らしげな顔で集団の中に戻っていく。
 
お国ではそれで割と優秀な成績だったのは目に見えていた。
 
カンターは露骨に首を振ってAKを取り返すと、
 
 
 
「よく見ていろ」
 
 
 
言うなり射撃ポイントに直行して無造作に撃ち始めた。
 
視覚的に分かり易くする為に使っている曳光弾が、まっすぐ正面に飛んでいって8つ目のゴングで遠い音を鳴らした。
 
その距離300m。
 
それもセミオートで秒間一発で放たれる弾丸は間違いなく命中し続けている。
 
歳の割には頑強な180cmの身体が反動をしっかり受け止める事もあるにせよ、それを差し引いても命中精度の格差は明らかだった。
 
きっちり30回ゴングを打ちのめしたカンターは、呆然としている少年達の前まで戻ってくると、冷静に言った。
 
 
 
「言っておくが、俺の専門は格闘であって屋外戦や狙撃じゃない。つまりこれが立射における最低限のグレードという事だ」
 
 
 
これはトップチームとしての話だ、というJJの遅れたフォローもあまり効果はなかった。
 
先程までの勢いは完全に砕かれ、全員が黙って体育座りするだけの集団になってしまった。
 
 
 
「おいおい、これがウチらの面子に入ろうって奴のレベルか?これからこんなのばっかりになるのかよ?」
 
「サテライト導入って言ったって、いきなりそうそう上手くいくもんか。まずは基本から、だな」
 
「基本ねぇ…で、その基本ってのは何だい、JJアコンチャ先生?」
 
 
 
少年達は、いつの間にか満面の笑みを浮かべているカンターを戦々恐々として見ていた。
 
よほどの馬鹿でない限り、彼の笑みが少年達の受難を予言するものだと分かる。
 
果たしてJJは優しい声で冷淡に現実を突きつけてきた。
 
 
 
「まずは、ランニングだな。一日5kmから初めて3日ごとに1km増やしていく。その次には貨物運搬を兼ねた筋トレだ」
 
「良いねぇ。昔を思い出すよ。実に楽なトレーニング法だ」
 
「で、基本的な英語と基礎知識を詰め込む学科を挟んで、一ヶ月でここにいられる最低限の能力を身に付けてもらう」
 
 
 
「英語」と「学科」という単語に反応して、少年達の間から露骨な非難の声が挙がった。
 
幾ら学力のない半端な少年兵といえ、この二つの単語に関する知識くらいは持っていた。つまりは厄介な頭痛の種、としてである。
 
それに比べれば、ランニングや荷物運びなど苦しくても克服の余地はあるだけマシだった。
 
 
 
「嫌なら今からでも砂漠に帰ってもらう。ここまでの運搬費は特別にまけてやる。あの地獄の釜に戻りたくなければ、死力を尽くす事だ」
 
 
 
毅然としたJJの言葉に再び沈黙が訪れる。
 
しかしこの少年達の沈黙は戸惑いではなく、元いた場所に帰る場合と訓練を身を任せる場合を比較し、ここまで砂漠を生き抜いてきた薄汚い生存本能と次の選択について相談しているのだった。
 
英単語や武器のデータを覚えられなくても、損得と命の値段を計算する速さは誰にも負けない。
 
実のところ、メジュゴリエの必要とする人材にはそのポイントこそが最も重要視されているであり、メジュゴリエ全体が、かつての自分達と同じ境遇の子供達から人材発掘を行うという方針を固めていたのは、正にこの為だった。
 
だから、カンターもJJも急かすような真似をせず、ニヤニヤ笑いながら見下ろしているだけだった。
 
二人には、彼らがどういう思考を巡らしているのかがほぼ手に取るように分かるのである。
 
 
 
「…で、どうする」
 
「分かった。やるよ、俺達。もう二度と向こうには戻りたくない」
 
 
 
アシェミアンが全員の意志を代表する形で宣言したが、それに異論を唱える者もなかった。
 
もっとも、仮に訓練に落伍しても、単純労働者としてこの地に居座る事くらいはできる。
 
これまでの選別で落とされた連中がそういうルートに進むのであり、彼らもそれくらいは読んでいる筈だった。
 
 
 
「決まったな。ではその言葉を吐いた事を後悔させてやるから覚悟しておけよ」
 
 
 
言葉と裏腹に、カンターの笑みは顔から剥がれない。
 
多分に毒を含んだ胡散臭い笑いだったが、嫌味ではなかった。いずれにせよ仲間が増えた喜びに違いはないのだ。
 
問題は彼等が弾避け程度としてでも本当に使い物になるか否かであり、転じてそれはカンターとJJ自身の評価にも繋がっていた。
 
 
 
「今日の所は肉体労働や頭の体操は勘弁してやる。その代わりにコイツに慣れるまではメシ抜きだ」
 
 
 
カンターが引いてきた半電動式カートには、ちょうど軽自動車程の大きさはある小山が盛られていた。
 
オレンジ色のビニールに覆われたそれは、姿を現す前から無数の突起や黒光りする露出部を晒していて、ビニールカバーの存在は半ば意味の無いものになっていた。
 
カンターも分かっているのか、何の焦らしもなくさっさとビニールを捲ってその正体を明かした。
 
それは通常ならバスケットボールを入れるケイジに、ボール代わりに山と詰め込まれた自動小銃の塊だった。
 
判別のできる人間が見れば、それがM16やG3、LA85、FA-MASといったいわゆる旧西側の兵器である事は一目で分かっただろう。
 
しかし、少年達には見慣れない物であり、そいぜいそれが銃であるという認識しか持てなかった。
 
 
 
「君達には馴染みがないだろうが、これらは我々が使っている基本的な小火器だ。最新とは言えないし、物によってはどうしようもないクズも含まれている。だがこれらの操作や射撃に慣れなければ、君達は永遠に荷物運びだ」
 
「そうだ。飯を食って水を飲んで生きるくらいはできる。だがろくに娯楽もなく10人単位の部屋で暮らし、地上には月一回も出られないし、従って女も買えん」
 
 
 
先程まで嫌らしくニヤついていたカンターが、突然JJと同じくクソ真面目な表情になって女の話をした事で少年達は緩く笑った。
 
 
 
「おいバカ共、女の確保を疎かにはできんぞ。俺達の仕事は、基本的に人殺しだ。一人二人ならまだしも、銃で撃てば場合によっては二桁くらいは殺す事もザラだ。
 そうするとだな、不思議な事に身体が勝手に女を抱きたくなる。嘘じゃあない。しかもここの規定では、特定の女と仲良くイタす事もできない。
 そうなると、その手の商売人を宛にする以外に方法がない。例え荷物運びだとしても、いずれは女が欲しくなる。これは避けられない話だ」
 
 
 
再び訪れた沈黙に、JJが咳払いをして再度のフォローを投下した。
 
 
 
「あー、勿論、地上に出てどうするかは個人の自由だ。カンターの言っている内容は極論に基づいた物と思って貰って構わない」
 
「何言ってるんだ。お前だって良くお世話になってたじゃねーか」
 
「ここに来てからはまだ禄に地上にも出れないだろ。それに、タカシやゲルトみたいな奴だって中にはいる」
 
「ゲルトはともかくタカシを比較対照にするお前の方が余程極論だろが」
 
「ん?奴だって立派な仲間に違いないだろ。何がおかしい?」
 
「奴は変態だ、間違いない。実力があるにしてもクレージーなマシンに違いないさ」
 
「確かに少し変わっているかもしれんが、そういう言い方は無いだろう…」
 
 
 
内輪ネタに終始した二人の会話が理解できない少年達は、それでも何となくこの地下世界の空気だけは感じ取ったような気がしていた。
 
教官である所の先輩達も、基本は自分達と同じ子供であり、つまりは経験と訓練度によっていずれは同じ地平に立てるチャンスも来る。
 
ここには砂漠のように、ただ威張り散らしたり、食料を強奪したり、レイプしたり、簡単に自分達を死に追いやる大人はいない。
 
皆の役に立ちさえすれば、その力に準じた環境が得られる世界。
 
例え困難な訓練や任務が立ちはだかったとしても、この原則さえあれば不可能だって可能にできる。
 
口にこそ出さなかったが、アシェミアンを含めた誰もが同じ希望を胸に抱いていた。
 
 
 
二人の漫才は、結局通りがかったバウアーに止められるまで10分余りに渡って続いた。
 
 
 

 *      *

 
 
 
腕部に標準装備されたタッチパネルで地図ファイルを展開したタカシは首を捻った。
 
目の前に広がる地形と、画面上の等高線を照らし合わせても上手く適合しない。
 
GPS上では確かに座標が一致しているのに、存在しない筈の隆起や渓谷が数多く見られる。
 
何よりも今現在自分が立っている、直径10mはあろうかというクレーター状の窪地が全くフォローされていなかった。
 
 
 
「おい、それはインパクト前の奴だ。今見たって役に立たないぞ」
 
「え、こんな単純な規模のデータも揃ってないの?」
 
「だから俺達がここに来たんじゃねぇか」
 
 
 
ステファンの指摘に納得してPDAを諦め、タカシは霧立ちこめる斜面を見下ろした。
 
駒ヶ岳。
 
常夏の新箱根湯本でも、この山の中腹を越える標高から急激に気温が下がり、その温度差次第で濃い霧が発生する。
 
本来ならむせるような緑と熱に包まれる所だったが、この空間では全てが湿った霧と時折吹く強風に支配され、強烈な日光も線から粒子へと分解されて叩き付ける力を失う。
 
タカシとステファンは、正にその太陽から光を受け取って鈍く輝く闇の中にいた。
 
作戦中の兵士はGPSによって平面座標は確認できても、正確な地形や高度はその記録がなければ把握しきれない。
 
その為の実地調査だっだ。
 
 
 
「しかしこの霧は計算外だな。夜間も出るなら視界はまず期待できないぜ」
 
「射撃は難しいね。今回の仕事なら誘導できるから問題ないけど」
 
「ああ、しかし歩兵で防衛する事に変わりはない。厄介なのは同じだ」
 
「スターライトは使えないから、赤外探知でどうにかするしかないよ」
 
「銃もまともに撃てない新兵じゃとても無理だな。お前か俺が頭になって、最低でもサブの連中を張り付けないと話にならないだろう」
 
「人数足りるのかな」
 
「お前がダメなら俺がやる。それだけの事だ」
 
 
 
ステファンは停めてあるハンビーの荷台に潜り込み、地形スキャンの準備に掛かった。
 
ハンビーの外装色は純白で、扉には大きく「UN」の文字が描かれている。二人の装備も外見だけなら国連軍一般兵装備と同じだった。
 
原則として、メジュゴリエの面々が地上に出る場合は、国連軍か戦自の外装を纏う事になっており、肩書きでは確かに双方の組織に属する形になっているので、これは理屈の上では問題のない行為だった。
 
 
 
「ほら、走査の邪魔だからそこどけよ」
 
「ああ、悪い。ちょっと待って」
 
「何だろうなぁ、どうしてお前は実戦以外だとそうトロいんだよ」
 
 
 
慌ててクレーターから抜け出し、タカシは車の停まっている台地まで登り上がる。
 
舗装が剥げ落ち、無数の陥没が空いた二車線道路は、更に剥き出しになった焦茶色の斜面から漏れる湧水に晒され、いぎたなく哀れな姿になっていた。
 
かつては貨物輸送かバス道路に使われていたのか、一般的な登山道よりは幅が広く、また露出した土面の基礎もそれなりに頑丈だったので、ハンビーやトラックでも登坂可能なのが唯一の救いだった。
 
その道の終点近くに広がる、これも道路同様に全く保全のされていない傷だらけの待避エリアが、二人の立っている台地だった。
 
現状において、タカシの閲覧した国土地理院のデータからも無視されている様に、日本政府ですらこの地に関心を示す事は無かった。
 
実際、さすがに保諜部には何らかのデータがあるだろうと高を括っていたタカシ達は、むしろ意外な表情をした職員からデータの不在を告げられる羽目になった。
 
直接ジオフロントの保安に関与しないという、ただそれだけの理由で地形データが存在しないという事実は、メジュゴリエの面子に端的な恐怖を与えた。
 
「ジオフロントの保安に影響を与えない」とんでもない話だった。現にこの台地からは第三新東京市が丸々見渡せる。
 
仮にここからそれなりの火力で撃ち下ろせば、使途より遙かに少ない破壊力で効率的にジオフロントの機能を封じる事も可能だった。
 
地下の連中の注意が使徒に集中する合間に、計算外の攻撃を受けるだけでも重大なダメージに繋がりかねない。
 
そういう可能性を摘み取るのも大事な任務だった。
 
 
 
「よし、衛星同調完了。タカシ、前に出てくるんじゃねえぞ」
 
「分かってるよそのくらい」
 
 
 
タカシはアサルト型M4を抱え込み、アイドリングを続けるハマーの隣に腰掛けた。
 
霧の中とは言え真昼にも関わらず暗視スコープを掛け、惚けたように中空を見つめたまま動かない。
 
一見すると当て所もなく視線を遊ばせているような態度だったが、この状態でタカシは単独で周辺の状況を逐一把握する歩哨の役目を果たしていた。
 
彼のスコープの視界は、いわゆる一般的な光倍増管を通したモスグリーンの世界ではなく、極めて明瞭な濃淡によって対象を鮮明に捉えるモノクロ映像と、その周りを囲む更に小さな無数のウィンドウに支配されている。
 
これは暗視機能のみならず高度の連携能力と探査能力を付加された索敵スコープと言うべき代物で、外見こそ一回り大きい暗視スコープに過ぎなかったが、赤外や熱探知、動的静的電波探知能力に加え、周辺に配置された監視装置との直接リンクも実装されていた。
 
性能だけを並べれば、次世代型統合監視ユニットと言うコンセプトに恥じない物だったが、肝心な所に一つ欠点があった。
 
結局、機械が集めた情報を捌いて処理及び判断するのは人間であり、その観点で見るといささかこの機械は無理がありすぎた。
 
具体的に言うと、狭い視界に余りに多くの情報を詰め込みすぎているのである。
 
 
 
「…ダメだ。へこたれそう」
 
「あ?我慢しろよ。あと15分だ」
 
「目の奥が…焼けそうだよ。マジで」
 
「文句ならあのライセオンの技師に言えよ」
 
「パランパンさん」
 
「何だと?」
 
「ジョセフィン・パランパン。あの技師だよ。徹夜で実験したのにシャワーも浴びないでソファーで寝てる。結構根性あるよ」
 
「お前は同じ事やって連チャンでこんな山奥で仕事してるじゃねーか。何言ってるんだ」
 
「同じじゃないよ、実際にオモチャ担いで飛び回っていたのは僕だよ。労働量は全然上」
 
「よし、分かった。次のポイントは俺が監視をやるから今は我慢しろ」
 
  
 
ステファンは戦場であろうとプライベートであろうと、所かまわずタカシに兄貴分を気取った態度を取る。
 
しかしその殆どは口だけで行動には反映せず、結局尊大に見下すだけで終わる。
 
実際、兵士としての能力は申し分なく、判断力や全体を把握する統括力も優れているので、実力に裏打ちされた態度と言えば誰も否定できなかった。
 
その実力がようやく性格的な余裕に転じたのはごく最近の事であり、渋々タカシの実力が自分を上回っていると認めたのが直接の切っ掛けになっていた。
 
 
 
「大体、お前は自分の立場が分かってない。俺から指揮権を奪った分際で余計な荷物を背負いすぎる」
 
「そうかな」
 
「試作品のテストなんぞカンター辺りに任せれば良いんだ。兵士ってのはな、常に目を光らせていないと確実に規律から外れる物だ。お前がやらないで誰がやるんだ?」
 
「カンターやジャックにテスターが務まるとは思えないけど」
 
「じゃあニキータでどうだ。あいつなら電子制御や精密機器も扱えるだろ」
 
「『誰も使った事のない兵器なんてナイフ一本でもイヤ』だってさ。彼女は動作保証された物しか使わないよ」
 
「ならレオナは……すまん、奴には無理だな」
 
「うん、無謀すぎ」
 
「だったら尚更俺がテストを代わってやる!それで文句はなかろうが」
 
 
 
性格的な余裕と言っても、せいぜい他人の仕事を肩代わりしようとする節介としてしか発現しようのない稚拙な物だった。
 
それでも単に威張り散らして縛ろうとするかつての姿に比べれば万倍の差だと仲間達は口にして憚らない。
 
確かに部隊の解散と軍事法廷、収容所生活を通しでこなした上で性格に何の変化も起きなければ、それは単に鈍感なだけだった。
 
ステファンは傲慢ではあっても決して鈍感ではなかった。
 
 
 
「仕方ないんだよ。大佐が僕にテスターやれって言うんだから。堅実にこなすならゲルトにやって貰う方が確実だと僕も思うんだけど」
 
「バウアー大佐自らの指名か?」
 
「別に指名なんて大袈裟な物じゃないよ。ただ…」
 
「ただ?」
 
「身体が小さくてそれなりに動けて、技師に正しい注文できるのはお前しかいないからって言われた」
 
 
 
その場を逃れる為のごまかしではなく、実際にバウアーと河本の二人から口説かれた時の言葉そのままだった。
 
元々タカシ自身はテスター任務に乗り気ではなく、ステファンの言うように背負いきれない荷物を抱える危機感を感じて辞退するつもりでいた。
 
しかしこの言葉だけでタカシは自身でもあっけなく感じる程簡単に陥落し、故に技師パランパンの玩具に付き合った挙げ句に頭痛のする遠眼鏡を被る現状に至っている。
 
 
 
「自分でもさすがにこれは重いかなって思うんだどね。引き受けちゃったからしょうがないし」
 
「…お前の優柔不断な言い草を聞いていると眠くなってくるな」
 
 
 
ハンビーの後部座席に居座るレーザー測定器は、座標さえ確定させれば半自動制御で勝手に半径1500m範囲の地形走査を続ける。
 
それも単体によるものではなく、軌道上を廻って来る衛星と組んだ地上と空中の二元走査によって過不足分を補完し合うシステムを構築してあるので、実質人の力を及ぼす余地は殆どない。
 
張り付いているステファンの仕事と言えばエラー表示確認と、外的要因による機械自体のズレを防ぐ事ぐらいだった。
 
つまりは機械に使役される小間使いであり、言うまでもなくステファンのような人間にとっては退屈極まりない。
 
 
 
「大体、敵がこの街にいる事は確定しているんだから、さっさと落とせばいいんだろうが」
 
「真っ向正面から捜索して一気に叩きつぶすの?」
 
「それの何が悪い」
 
「どうせ奴らはどこか余所の国を根城にして手出しするつもりなんだよ。今ここの出城を叩いたって、可哀想なアルバイトスパイが数人と連絡役が捕まるだけだ」
 
「そして、俺達の存在を一気に公に晒す、か。確かにそれは負けコース一直線だな」
 
「そのアルバイトの連中だって金で釣られた日本人だけっていう可能性もあるし」
 
「ウゼぇな全く。クソ」
 
 
 
霧と森と、その向こうに鈍く輝く太陽。
 
何とも肌寒いくせに麓からは微かに蝉の声が響いてくる。
 
次第に日本の気候にも慣れ、感覚的に蝉と蒸し暑さのイメージが重なるようになった二人は、この矛盾した環境に捉えようのない不気味な違和感を感じていた。
 
これならまだ砂嵐の中の方が慣れているという意味で安心感はある。
 
 
 
「この霧のせいでレーザー照射範囲もてんでショボいときた。こんな日が続くようだと山全体の地形データなんて…」
 
 
 
さっきまで座っていたタカシの姿が消えていた。
 
 
ステファンは無駄口を止めて、素早く身を屈めてハンビーから降りる。
 
正しく滑り落ちるような格好で搭乗口から地面に降り、姿勢を低く保ったまま周辺を見回す。
 
いた。タカシはいつの間にか右側の森の中で倒木の陰に隠れていた。
 
 
 
「おい、何かあるなら俺にも言うのが義務ってもんだろ」
 
「悪い」
 
 
 
悪びれるどころか、異変に気付かなかったステファンを無視するような、明らかに冷たい口調だった。
 
タカシは倒木の陰からデンタルミラー式のセンサーを延ばし、麓に向けて固定する。
 
自慢の遠眼鏡の代わりに熱・赤外を感知して状況を把握する、試作型スコープのオプションの一つだった。
 
更に周辺に配置してある観測車やBTB、加えて衛星からのデータを引っ掻き集める事で、視覚的に捉えなくても必要な情報を一通り揃えられるシステムが構築されていた。
 
もっとも、この点に関しても情報過多の欠点は否めず、タカシは更なる実世界との視覚ギャップに脳味噌が焼かれる思いだった。
 
 
 
「やっぱり誰かいる。それも民間人じゃない」
 
「どうして分かる」
 
「服に対暗視・赤外処理が施されている。軽くだけど。それに、得物を持ってる」
 
「銃だと!?」
 
「シルエットだと多分M16A2」
 
「こんな所で抜き身で持つ程のバカなのか、奴等は!」
 
「道に迷った国連軍兵士かも。さすがに堂々すぎる」
 
 
 
身を晒しても相手に気取られないと判断し、タカシはセンサーをしまって立ち上がり、堂々と木々の間を走り始めた。
 
ステファンも即座にその後を追って森に侵入する。
 
素早くタカシのちょうど右斜め後ろ10mの位置に付き、そのまま間隔を保ちながら相対速度ゼロでついていく。
 
自然に左前方へと向かいがちなタカシの視界をフォローする、ツーマンセルの原則に徹した動きだった。
 
 
 
「おい、この俺達の上にぶら下がってるクソ電線は生きているのか?」
 
「知らない。でも電線じゃないでしょ。こんな場所でさ」
 
「なら良いがな。これがライフラインだったら恒久的に防衛するのは厄介すぎる」
 
「だったら放っておく程ネルフの連中だって馬鹿じゃないよ」
 
 
 
旧駒ヶ岳ロープウェイの鋼線が、所々寸断され鉄塔をへし折られながらもセカンドインパクトの衝撃を凌いで生き残っていた。
 
麓と頂上の駅を吹き飛ばされ、ゴンドラを失った今でも放置されたままなのは道路と同じだった。
 
霧と森とロープウェイと、その向こうに鈍く輝く太陽。
 
何とも肌寒いくせに麓からは蝉の声が微かに響いてくる。
 
その中で斜面を駆け下りる二人の速度はちょっとしたMTBに匹敵する程だったが、落葉や枯木を踏む大きな音も気配も立てず、それはさながら二匹の狼が疾走する様に似ていた。
 
もっとも彼等自身は積み重ねた訓練によって培った鉄則に従って行動しているだけであり、一種超人じみた特技をこなしている自覚は全くない。
 
むしろ比較的不慣れな環境で行動する違和感や戸惑いと戦いながら、安定性を保てるギリギリのパフォーマンスで妥協して動いていた。
 
そんな屈辱めいた想いは、実は二人に共通する物だったが、たとえ口が裂けても相手に伝える気は起きようが無い。
 
打ち明けた所で単なる弱味にしかならないと互いに知っていたからである。
 
 
 
「ここだね。もうそっちの赤外か熱探でも見えるんじゃない?」
 
 
 
タカシの言葉でステファンも手頃な木の陰に隠れた。
 
通常装備のゴーグルを着けているステファンの視界に、霧を透かして人影らしき物体が蠢いているのが見えた。
 
赤外の薄緑と熱探のトリコロールの画面を重ねて見ても、同じ形の影が動いている。間違いなかった。
 
レーザー距離測で203m。挙動から判断する限りでは、まだ気付かれてはいないらしい。
 
何をしているのか不明瞭だったが、草原の中を右往左往しながら無秩序に動き回っている。
 
そして、確かにタカシの言っていた通りアサルトライフルと思しき影も見えた。
 
 
 
「やはり銃を持っているな。しかし種類までは確認できんぞ」
 
「こっちで確認した。やっぱりM16だよ。ハンドガードとストックの断片映像をそっちに送る」
 
 
 
ステファンとタカシのスコープの共有できる双方向回線は、今の所は現状位置把握の為の衛星回線しかない。
 
それ以外には直接ケーブルを繋いで情報の共有を図るしかなく、当然今の状態では望むべくもない。
 
やむを得ずタカシは画像ファイルを座標確認データの形式に変換し、簡易変換ソフトと抱き合わせにした形で無理矢理送り込んだ。
 
僅か10mの物理的距離を飛び越える為に、その万倍もの距離を電子信号が跳躍し、衛星を介して再びほぼ同じ距離を折り返しで降りて行く。
 
その間、時間にして約15秒。
 
この送信方式自体、土壇場でタカシが強引にパランパンにねじ込んで実現させたものだったが、それでも世代の違う機器同士を結ぶ通信方式としては、間に合わせの割に比較的無難な出来になっていた。
 
 
 
「ほう、その新型はここまで見えるのか。冗談みたいだな」
 
「一つ分からないのは、何故今更A2って事なんだ。下っ端の国連軍兵士も今はM4だったよね?」
 
「さあな、だが常識的に考えてあれが国連軍だという前提をまず捨てるべきだと俺は思うぜ」
 
 
 
そう言うとステファンはさっさとフォアグリップ型のM4を狙撃形態へと組み替え始めた。
 
相変わらず視界は霧に閉ざされていたが、スコープで捉えられる限り狙撃は可能ではある。
 
しかし、この際問題なのは可能か否かではなく、平常時の交戦規定に絡んで未確認人物発見後即射殺という訳にはいかない事だった。
 
この手の規定は状況に応じて『柔軟な解釈』が適用されるのを前提に作られているのが常であり、早い話が見つからなければ好き勝手できるのが現実である。
 
そしてステファンは正に解釈を柔軟に活用するべく下準備を整えつつあった。
 
 
 
「タカシ、お前の索敵スコープは観測手としては理想の装備だよな。一つ実地試験と行こうぜ」
 
「こいつは細部変更が終わればすぐに一次生産が始まるよ…でもステファン、その実地試験とやらはもう少し待った方が良いと思うんだけど」
 
「撃ち殺してから考えても遅くはないだろ?」
 
「さっき俺が言った事をもう忘れたのかよ」
 
「これは現状でも立派に通じる任務遂行だ。5条2項B、即ち『不審者排除』に当たる。一々気にするな」
 
「分かった。でもちょっと待ってよ、もう少し状況を確認しないと」
 
 
 
言って止めるステファンではないとタカシには分かっていた。喋りながらも指を細かく使ってスコープのコントローラーを操作し、200m先の暢気な人影を解析し続ける。
 
行動範囲と外見特徴から一つの可能性を感じていたので、身長と推定体重も含めたデータを突っ込んで保護対象照会を始めた。
 
その間にもステファンは喜々として銃弄りを続け、御丁寧に銃身固定用のバイポッドまで装着している。
 
頭の中では『濃霧時の電子装備援護下における狙撃実行』という報告書を立ち上げているに違いなかった。
 
テスターでなくても、未経験の戦闘状況を報告すれば給料も翼賛スポンサー達、つまり『保護者』からの覚えも良くなる。
 
今や排除対象となった間抜け野郎は、ひたすらM16を振り回したり構えたりを繰り返すばかりで、なかなかタカシ達の方向を向かない。
 
せめて顔さえ分かれば人種と性別くらいは確定できる。日本人の男性なのは分かり切ってはいるが、それで排除を止められる訳ではない。
 
 
 
<06より08へ。現在そちらの右翼500m。接敵したんですか?>
 
「カリミか!お前らはパトロール中だったな。丁度良い、俺達から200m下のバカが見えるか?」
 
<見えています。そっちは霧が濃いですが、ここからならバッチリです>
 
 
 
既に始まっている国連軍偽装パトロールチームの仲間が、タカシ達の行動を感知してきた。
 
基本的なユニット構成は三人組で、狙撃ライフル、自動小銃、軽機を装備して索敵範囲もそれぞれの装備に準じた範囲を担当する。
 
この人員構成で白地に「UN」と書かれた旧SAS仕様のFAVに乗り込んで第三新東京市を走り回る。
 
こちらの動きを嗅ぎつけたのは06チーム遠距離・ライフル担当のカリミ自身に違いなかった。
 
 
 
「今からこっちで始末するからお前らはバックアップを頼む。上手くやればお前らの名前も報告書に載せてやるぜ」
 
<了解。こちらから索敵と第二射を行います。幸運を>
 
 
 
この前まで実戦慣れせず落ち着かなかったカリミが、些細とは言え先日のドラガン達との戦闘を経験した事で、既にある程度の余裕を持って振るまっていた。
 
元々人を撃った経験がない訳ではなく、自分の能力が実際に通用したという実体験が自信を植え付けていた。
 
つまり、今回は全く躊躇せず撃つ可能性が高い。
 
その必要以上の攻撃性に、タカシは危機感を感じた。
 
 
 
<…あれ、何ですかこれ?スコープが言う事を聞かない…何だ、この「hosted」って表示?>
 
「カリミ、悪いけど少しお前の目を借りるぞ。そのまま動かないでくれ」
 
<借りるって、どういう事ですか?>
 
「いいからそのまま動くな」
 
 
 
タカシは遠隔操作で一方的にカリミの装備しているスコープのコントロールを奪い、勝手にズームを上げて間抜け野郎のアップを撮った。
 
ほんの一瞬、映像の中ではっきりと顔が見えるショットが混ざっていた。
 
 
 
「待て!射撃はダメだ!Stoppen!あれは保護対象だ!」
 
 
 
とっさに口をついて出たドイツ語に、ステファンも反射的に身体を硬直させた。
 
タカシはその効果を計算して使ったのか自分でも分からなかったが、少なくともこれで頑迷なステファンの行動を食い止める事はできた。
 
同時にカリミ含む06チームの動きも止まった。
 
 
 
「保護対象だと!?あのバカがか?」
 
「間違いない。セカンドチルドレンの失踪事件に絡んだ保諜部の記録に書いてあったのを、何となく覚えていたんだ」
 
「という事は、奴はコード107の構成員か」
 
「そうだ。マルドゥク機関のデータに正式に登録されている。No.2-B-05『ケンスケ・アイダ』」
 
<アイツですか!クソガキを匿ったマニア野郎ってのは>
 
「恐らくずっと前からここを秘密の楽園にしていたんだろうな」
 
「ふざけやがって、ここは民間人遮断区画じゃねぇか。どっちにせよこのまま帰す訳にはいかねえぞ」
 
<しかし、ここはまだ何の指定も食らってませんよ。単に立入禁止なだけで>
 
「俺がこの場で決めた。別に間違いは無いだろ?ネルフのアホ連中には後で事後承諾でねじ込めば済む話だ!」
 
 
 
怒りに我を忘れたステファンは、例のごとく横暴独善コースを爆走する体勢に入っていた。
 
しかし、このスペースが戦略上重要な場所なのはタカシも十分理解しており、彼の言い分も決して間違ってはいない。要はネルフや戦自、国連軍がケンスケ並の間抜けなのである。
 
だからと言って、砂漠や戦場で通じた常識がこの街で通用すると未だに思いこんでいるステファンを今の内に止めなければ、ますます話が厄介になるだけだった。
 
 
 
「そうだね。確かに何の対処もしてない制服の連中はバカ揃いだ」
 
「当たり前だろ?分かったならさっさとゴミ掃除手伝えよ」
 
「で、どうするつもりなの?」
 
「何、殺すまではしない。バカガキを少しビビらせてやるだけさ」
 
「それって、ステファンの場合だと大体膝頭撃ち抜くって意味になると思うんだけど」
 
「…悪いか」
 
「悪いね。今の僕達は国連軍で、あいつは保護対象だって事を忘れるなよ」
 
「あの手のバカはな、身体で教えてやらないと覚えないんだ」
 
「この国の民間人は軍服着た外国人に脅されれば十分ビビるよ。それ以上は必要ない。上にこっちの言い分をねじ込む為にも余計な真似をする必要ないよ」
 
 
 
どうやら本気でタカシに撃つ気がないと悟ったステファンは、蔑みとも畏敬ともとれる大袈裟な溜息を吐いた。
 
 
 
「散々他の連中から聞いてはいたが…確かにお前、変わったな。あの殺人狂の言葉とは思えねぇ」
 
「そうだね。自分でもそう思う」
 
 
 
だから指揮権を譲渡されたのだ、とは言わなかった。別に欲しくて貰った物ではない。
 
ひとまずステファンはM4のバイポッドを外す事でタカシに従う意志を示した。
 
 
 
<06より08。で、コイツはどうするんですか?>
 
「排除は中止。そのまま周囲の警戒を継続しろ」
 
<了解。それと、このスコープを元に戻してくれませんか?>
 
「ああ、ゴメン。悪かった」
 
 
 
例え緊急時で相手が仲間であっても、一方的に装備の使用権を奪った事は負い目でしかない。
 
タカシは早くもカリミに対してどんなフォローを施すかを考え始めていたが、それよりも目の前にある問題を早く解決しなければならなかった。
 
 
 
「さて隊長殿、さし当たってあの保護対象を穏便にここから追い払う必要がありますが、どうします?」
 
 
 
ステファンがこの手の典型的部下口調で喋ると、その本心の向いている方向に関係なく、聞き手に警戒感と気色悪さを呼び起こす詐欺師の口上になってしまう。
 
そもそも『保護者』達相手の時は別として、同年代の人間にこれほどへりくだった話し方をした経験が今まであるのか疑問だった。
 
それなりに長く、また過酷な時間を共有してきたタカシにも、彼がそんな態度を見せた記憶は無いのだ。
 
 
 
「気味悪いから普通で良いよ、アル。それより新しい任務を実行して貰いたい」
 
「は、何なりと」
 
「ケンスケ・アイダに接触して撤収させるよう説得せよ。勿論、穏便に」
 
「くたばれ。断る」
 
「命令だぞ、アルフレッド・ディ・ステファン少尉」
 
「何が少尉だ。階級なんて今まで決めてなかったじゃねーか」
 
「じゃあ言い直すよ。ステファン、行って来て。お願い」
 
「お前が行けば良いだろ!同じ日本人なんだから!」
 
「俺は今日、顔、変えてないんだよ。悪いけどさ」
 
 
 
今のタカシはヘルメットを取れば、何の変哲もない碇シンジの顔になる。声も変質加工は行っておらず、国連軍兵士の装備以外は少しの差違も無い。
 
それでも遠目から見れば問題ないが、接近して会話した場合だと、見知った者ならヘルメットを被っていても不審に思う可能性が高かった。
 
 
 
「…クソ」
 
「民間人の警告に使う最低限の日本語、覚えているよね」
 
<06より08、プランの変更を確認。保護対象の撤収まで周囲の警戒を続けます>
 
 
 
無線の向こうからカリミ達のクスクスという含み笑いが聞こえてきた。
 
 
 
「08より06、お前ら帰ったらランニング10km追加。例外は認めない。以上」
 
 
 
恐らく起きたであろうブーイングも聞かずにステファンは無線を切った。
 
 
 
「大丈夫だよ、心配しなくても大抵の日本人ならその格好見るだけでビビって逃げるから」
 
「うるさい。ガキ追い払って地形測定やり直す時は役を交代しろ。俺がその新型スコープを使う。命令だ」
 
「了解です、サー。では説得の方お願いします」
 
 
 
クソとか死ねとか殺してやるとかオカマ野郎とか、ありとあらゆる罵詈雑言を呟きながらステファンが霧の中を歩いていく。
 
今頃は06チームがその姿を捉えている筈だが、タカシも今度は自分のM4を構えて、索敵スコープのコネクタと有線で結ぶ。
 
視界に現れた新たなウィンドウ−M4スコープの射界をゴーグルに転送した映像−の上で、ケンスケのシルエットをクロスヘアに重ねる。
 
相変わらず索敵スコープの中は無数のウィンドウに支配されて非常に見難いが、これで一応は狙撃と周辺警戒を同時に行うマルチコンバット環境が成立していた。
 
無論、すぐにケンスケを撃つつもりなど毛頭ない。意志の疎通が完全には図れない相手と接触する際の、これが当然の警戒態勢だった。
 
例え相手が保護対象でも、不審な動きが見えたら即撃たなければならない。
 
手加減しても、それこそ両膝の皿を撃ち抜く程度は必要になる。
 
その時こそ、ステファンの言うように臨機応変な交戦規定の解釈が必要になるだろう。
 
どうやらケンスケもステファンの存在に気が付いたらしく、動きが止まった事で本来困難を極める関節部の狙撃は比較的簡単になった。
 
どうか実行する羽目にはならいように、とタカシは祈りながら慎重にケンスケの脚部に狙いを定めた。
 
 
 

 *      *

 
 
 
メジュゴリエ中心部から500m程離れた、空調と電気のみが確保された一室。
 
ジオフロント工事時代には消耗品倉庫として用いられた空間で、50人程の子供達がパイプ資材を組み上げている。
 
男子女子の隔てなく、間に合わせに米軍仕様の迷彩Tシャツと濃緑色パンツを着け、英語の説明書片手に四苦八苦しながら二段ベッドを構築していく。
 
先日の人員補充でトレーラーに乗って来た第一陣の中でも、極めて実戦経験の希薄な部類とされた『ジュニアユース』の集団だった。
 
この年長でも15歳、最小で8歳という集団は、作戦行動経験どころかろくに銃も握った経験もなく、ここに来る前は主に奴隷として生きてきた者ばかりである。
 
それは即ち、ろくな食事も与えられずに肉体労働と地雷避けに駆り出され、その中でも女子は性処理係として多用された事を意味した。
 
 
 
「あの子はどうしたの?」
 
「梅毒の娘なら途中で下げた。体力持たないから」
 
「大丈夫なの?今からそんな依怙贔屓してハブられたらフォローできないわよ」
 
「ある程度治らないと話にならないわよ。まだ欠員が目立つ段階じゃないし」
 
 
 
レオナとニキータがこの集団の面倒を見るようになった理由は、単純に言えば自ら志願したニキータに何となく付属して来たレオナという構図になる。
 
総勢200人にもなるこの学童保育児達は、比較的即戦力に近い100人弱の『セカンド』や、それよりは劣るが一応の能力を持つ『ユース』より明確に劣る集団として区別され、率直に言って戦力としては全く計算できない状態だった。
 
それでも人材として連れてこられたのは、当面どうしても問題となる単純労働力の不足を補う目的が大きかったが、一応は文字通りに人材としての将来性を見据えた上での導入という事になっていた。
 
ニキータは純粋に人材発掘という目的に興味を持ち、あわよくば計数の素質のある人間もいるのではないかと目論んで世話役を買って出た。
 
しかし、予想はしていたものの兵士どころか労働者として成り立つ素養すら持たない虚弱な子供達は、およそ自分の力で思考する事すらままならなかった。
 
 
 
「で、どうなのよ。少しは役に立ちそうなのいた?」
 
「マジな感想言って良い…事務できそうなのもいないわ。一人も」
 
「そりゃそうでしょ。最初からそういうつもりで連れてきたんだから」
 
 
 
結局、スチールパイプの簡易型二段ベッドを搬入・組み上げるだけで4時間以上掛かった。
 
また終わったら終わったで、当て所もない表情で無気力にベッドの上に座り込む。
 
たまらずニキータは手を叩いて号令をかけた。
 
 
 
「はい、休まないで整列!作業終了したら整列!」
 
「…はい、整列するです」
 
 
 
成り行きで子供達の伝達係に納まったらしい、中国人のソン・チィウェイが復唱した。
 
ソンは英語で聞いた指令を何人かの仲間にアラブ語で伝え、またそこから幾つかのグループに派生してようやく指示が届く。
 
よく見ると、一つ一つのグループは互いに一言も言葉を交わさず、従って情報が共有される事もなく、事実上この集団はソンをハブとして孤立した小規模派閥の集合体となっていた。
 
食料も水も確保されているのに派閥ができるのかとニキータは目が眩みそうになるが、これが現実だった。
 
外交係であるソンの愛想笑いさえも、目が笑っていない。
 
来たばかりの頃は食料や水にありつけて歓喜の表情を浮かべていたのが、全員無気力でだらけた顔に変わり、それでいて油断無く周囲を見渡す視力だけは失ってない。
 
命令されるがまま、何の思考も活力もなく最小限のスタミナ消費で労働をこなすだけでは単に不毛なだけであり、その姿は正しくロボットだった。
 
ニキータ自身にもこの行動原理には覚えがあった。砂漠で大人達に銃を突きつけられ、自身の意志とは関わりなく労働を強制される際に、なるべく目立たぬよう生存の為の力を削がぬよう、ギリギリのラインで生命力を維持するやり方だった。
 
要するに御主人様が替わっただけで、彼等の中身は元いた場所の頃と全く同じだった。
 
 
 
「ま、こんなもんでしょ。昔の私達だって無闇に大人を信じるようなタマじゃなかった訳だし」
 
「何、それじゃ今の私達が大人って事?」
 
「自分の力で食っていくことが出来て、ムカつく奴を殺せる力があるなら、みんな『大人』よ。あいつらにとっては」
 
「だからってろくに口も聞かないなんて極端じゃないかしら」
 
「知らないわよ。懐にナイフ隠して作り笑いで寄ってこられるよりはマシなんだから、それで良いでしょ」
 
 
 
レオナは実に簡単に切って捨てるが、密かに彼等に対してそれなりに期待を寄せていたニキータにとっては面食らう状況だった。
 
子供の我儘は多すぎても困るが、少なければそれは単純にコミュニケーション手段の欠如であり、人心把握の手掛かりの不足を意味していた。
 
扱い易さと引き替えに人間関係の希薄化が併発するならば、それは単に障害でしかない。
 
 
 
「整列、できた。次は何すれば良いです?食わせて貰える何でもする。何すれば良いです?」
 
 
 
ソンが拙い英語で繰り返し尋ねる。これでも集団の中では最もマシな英語らしい。 
 
一番まともな英語の使い手がこれでは、遠い将来の話としても、言語スペシャリストは到底無理だろう。
 
ニキータは内心暗澹たる思いだったが、現実に逆らった所で何の意味もなかった。
 
どうせ良くて整備班かホベイロ、銃を持っても一般陸上戦力なのだから、過度の期待は無意味でしかない。
 
例え兵士としてうだつが上がらなくても、この閉鎖空間で衣食住を保証された上で苦力として働いていた方が、砂漠よりは遙かに良い。
 
 
 
「今日の所はこれで終わり。あなた達の班は明日から通常の荷役について貰います」
 
「それで飯と水を保証して貰えるか?」
 
「今はね。これから先は業務を怠った場合にそれなりのペナルティが課されます」
 
 
 
ニキータの言葉がソンを経由して広まり、微かに挙がった歓喜の声でようやく伝達が完了した事が確認できる。
 
どうせこの喜びも半信半疑に違いないが、それでも少しずつこちらを信用させていく他にない。
 
そう自分に言い聞かせて、取り敢えず最低限必要な手続きや生活行動の様式を教えた。
 
 
義務づけられた仕事量をこなせば基本給は貰えるが、それ以上は職種のランクを上げるか補填労務と言う名の「残業」をこなすしかない事。
 
食糧配給は現状ではレーションやゼリー状サプリメントが主だが、時間をかけて環境は改善される予定である事。
 
トップチームが輪番制でMPとしての任務に当たり、罰則や刑罰基準も決められている事。
 
イスラム教徒には専用の食事と祈祷時の放送が用意されてある事。
 
 
ソンは逐一内容をアラビア語で仲間達に伝えようとするが、脳内での変換に時間が掛かる分結構なタイムラグが生じる。
 
余程自分でアラビア語を喋ってやろうかとニキータは思ったが、ここは敢えてソンの努力に任せる事にした。
 
この子供達を連れてきたボビーも何らかのテストはしているにしても、恐らく英語どころかアラビア語すらも理解できない者もいるのだろうし、今の所はソンが頭となるシステムを容認した方が何かとやり易いと考えていた。
 
付いていけない者が出てきたら、その時にフォローすれば良い。そうやって少しずつ信用関係を築いていければ…
 
しかし、そんなニキータの目論見はまた大きく外角に外れた。
 
 
 
「銃はいつ持てるんだ?」
 
 
 
それが何を意味しているのか、集団の中に紛れている言った本人も、大して考えてなかったのかもしれない。
 
 
 
「失礼、今何て言ったの?」レオナが真意を確かめるように聞き直すと、
 
「我々は銃をいつ持てるんだ、と聞いている」今度は全く別の人間が答えた。
 
「俺達いつ銃を持てる、聞いてます」躊躇していたソンもやっと意を決して訳した。
 
 
 
つまり、本来なら銃など持てる筈がない事実を知っているのは、彼等の中ではソン一人という事になる。
 
他はほぼ全員銃を持てて当たり前と考えているのだ。
 
連れて来る時に何も言わなかったのかと一瞬ボビーを恨めしく思ったが、そんな事は関係なく頭から持てると思いこんでいる可能性も有り得た。
 
ろくに教育を受けてない連中なら、自分の独善に従って脳内で現実を歪める事は珍しくない。
 
 
一瞬の間が空き、言い難そうにソンが後を続けた。
 
 
 
「私達、ずっと、ずっと銃を持った兵隊に脅されて、酷い目にあってた。食べ物無い、水無い、生かすつもり、初めから無かった」
 
 
 
英語を解せない連中も、それが自分達の弁護と察しているのか余計な口出しはしなかった。
 
 
 
「だから、もし大人なったら、まず銃手に入れる。自分を守るには銃を持つ、みんな同じ思ってました。だから、気持ち分かって欲しいです」
 
 
 
ソンとしては、これでも一生懸命に穏便かつ切実に皆の思いを代弁したつもりだった。
 
言うまでもなく、この火種は全くソンの与り知らぬものであり、ここに来る前の最初に受けた説明で皆納得したものだと思い込んでいた。
 
とにかく意志を伝えれば、ここで暴発は起きないだろう、という切実な祈りにも似た願いを持っていた。
 
しかし銃に関する最初の言葉が発された瞬間から、子供達の意志は既に彼の手からすり抜けていた。
 
それまで押し黙っていた集団は一気に饒舌になり、剥き出しになった欲求の塊を投げ付け始めた。
 
 
 
「俺達はいつ武器を持てるんだ?」
 
「こんな狭い所に閉じこめる必要があるとは思えない」
 
「もっと自由な権利を与えろ!」
 
「もう俺達は奴隷じゃない!奴隷じゃないんだ!」
 
 
 
もちろん悉くアラビア語の叫びで、それらを一気に叩き込まれたソンは情報量の多さと内容の過激さに一遍で混乱に陥った。
 
彼等の銃を持ちたい、という素朴かつ性急な気持ちは管理側たるレオナもニキータも十分に理解できた。
 
かつては自分達もそう考え、実際に大人達から武器を奪い取って戦いを挑み、生き延びてきた経験を持つからには軽視できる要求ではなかった。
 
だが、ここには無秩序に抑圧する大人もいなければ、それを退ける為の武装も必要無い。
 
必要なのは適切な相手に用いられる適切な規模の火力であり、それは感情に任せて火を噴くべき代物ではなかった。
 
しかし、今の彼らはそれを口で説明されて理解できる相手ではなく、また沸いて出た欲求を満たすには外に出す以外に方法を知らない烏合の衆でもあった。
 
結果的に、ソンの優等生的な態度と応答がそれらの鬱屈を一気に噴出させる契機になってしまったのである。
 
 
 
「良かったじゃない、意外にみんな素直で」
 
「…殴るわよ」
 
「アタシなんか却って安心しちゃった。何か嘘臭かったし。大人しすぎてさ」
 
 
 
一度決壊したダムは偽りの静寂をかなぐり捨て、溜まりに溜まった不満を奔流にしてぶちまける。
 
ソンはもう何語ともつかない言葉で暴徒寸前の仲間達に叫び続けている。
 
もしかしたら、それは本来使えて然るべき中国語なのかも知れないとニキータは思ったが、それを確認している余裕は無かった。
 
いよいよシュプレヒコールだけに留まらず、子供達が集団でこちらに前進してきたからである。
 
 
 
「我々は犬や虫けらじゃない!」
 
「我々に自由を!」
 
「自衛する権利を与えろ!」
 
 
 
ニキータはいつ私達が虫けら扱いしたのかと一瞬頭に血を上らせたが、辛うじてキレる一歩手前で冷静さを保った脳味噌で即座に状況を分析した。
 
彼等は要求する時には例え理不尽でも声高に、という原始的だが実に効果的な鉄則を守っているに過ぎない。
 
決して弱者による救済の叫びなどではなく、政治力バランスの変更を狙う非武装の攻撃行動。
 
このまま言わせるままでは後々に響くだけでなく、暴徒と化して制御不能に陥る可能性もある。
 
つまりこれは話し合いではなく単純な喧嘩であり、理性的な対話よりむしろ理性を伴った実力行使が必要な状況である。
 
躊躇いは死に繋がる。今、すぐに実行しなければならない。
 
この部屋の入り口付近には、MPとして巡回しているブラノフが待機している筈だった。
 
彼をこの場に呼ぶ事は即ち最初のつまずきとなるが、この際立場を明確にしなければ最悪の事態を招く可能性がある…
 
 
しかし、焦るニキータと対照的に、レオナは既に自分なりに状況分析とその対策を頭の中で組み立てていた。
 
 
 
「貸して、それ」
 
 
 
レオナは正に今、ブラノフを呼ぶ為にニキータが使おうとした手持ちの拡声器を強引に奪い取ると、大声で怒鳴りつけた。
 
相手は無論、正面に迫り来る子供達である。
 
 
 
「いつまでもゴチャゴチャわめいてるんじゃねえ、このインポガキ共が!」
 
 
 
これで部屋の中は一遍に静まった。
 
今まで黙って見ていただけの女が、突然流暢なアラビア語で、予想し得ない罵詈雑言を吐いた。
 
騒いでいた過激な連中は、その現実を受け入れられずに思考が数刻の間停止してしまった。
 
イスラムの習慣が染みついた人間には天変地異にも近い出来事だったのである。
 
 
 
「大体テメェら何の為にここに来たのか分かってんのか?自分の力で生きていく為だろうが!それが何だガタイばかりデカくて言い草が『権利を寄こせ』か!?」
 
 
 
今度はレオナの方から子供達との距離を詰めていく。
 
拡声器を構えながら堂々歩いていく姿は、既に堂に入った鬼軍曹然としていた。
 
 
 
「この『街』じゃな、頭と力のない奴に銃なんて渡せねぇんだよ!どうしても欲しいなら、実力を自分で証明して見せな!」
 
 
 
言い終わった所で丁度即席デモ集団のすぐ前にまでレオナが接近していた。
 
食い詰めの孤児とは言え、集団の最前列にいる2、3人は特に体格の良い者だと身長190cmを越える。
 
格好だけではあるものの、軍服姿の男達と色白の少女が対峙する構図はそれだけで剣呑極まりなく、更に管理側と従属側が、その外見と全く対照的となっている状況が緊張感に拍車をかけた。
 
従属する側の男達は、今この場でなら支配する側を腕力で潰す事が容易に叶う。そんな現実が浮かび上がるからだ。
 
もっとも、子供達もそんな真似をしたら自分達の命は無いと何となく理解はしているから、もう一歩先の実力行使は思い留まっているのである。
 
 
 
「そこでだ、私は優しいからお前達に公平なチャンスをやる。簡単な試験だ。しかも大サービス付き。涙が出るってな」
 
 
 
レオナは怒鳴りながら壁の手前に積んであるベッド用資材の山に近づき、そこから鉄パイプを三本だけ取り出し、子供達の前に放り投げた。
 
 
 
「こちらから出す一人を、そっちが三人がかりでノシて見せりゃ良い。ハンデとしてそいつを使って構わない。簡単だろ?」
 
「…どうせそんな事しても、後で俺達を殺すつもりなんだろう」集団の中から名前のない声が挙がる。
 
「そっちが勝ったら正式に銃の所持を検討してやる。こっちのやる事はそれだけさ。それで文句はないだろうが」
 
 
 
何の相談もなく勝手に進行するレオナに、ニキータは今更怒りを感じる事はなかった。
 
砂漠でも、収容所でも、レオナは剛力で状況を進め、何だかんだ言って最終的には上手く締める事に長けていた。
 
いつもニキータは彼女のペースに乗ってばかりだったが、結局はそれで良い結果を得られるならイニシアチブがどこにあろうと構いはしない。
 
どうせ彼女はタカシやカンター程ではないにせよ、格闘ではチーム内でも強い部類に入る。武器持ちの三人相手とはいえ素人なら心配は無用だろう。
 
 
しかし、散々息巻いたていたレオナが、おもむろに自分に向かって歩いて来ると、さすがに嫌な予感が沸いてきた。
 
 
 
「じゃ、そういう事だから。早く支度して」
 
「何、ちょっと…もしかして、こちらからの一人って私!?」
 
 
 
レオナの背後では、今や権力打倒に向けて団結を取り戻した子供達が、代表を決めるべく円陣を組んでいる。
 
自分の寝床を作る仕事よりも権力争いの喧嘩に素早く反応する。無気力な奴隷よりはマシだがより悪質で小賢しかった。
 
 
 
「あれ、ダメなの?喜んで受けると思ってたけど」
 
「当たり前じゃない!私、アンタと対戦して何回負けてると思ってるのよ!」
 
「52戦中18勝残り全部負けだっけ」
 
「覚えてるならなんで」
 
「アタシとの勝敗なんて関係無いじゃない。それに、直に指揮しているアンタが勝って見せないと意味無いでしょ」
 
 
 
それが当然、という態度で少しの悪びれもしない。
 
 
 
「取りあえず、MPとか呼ぶって気は更々無いのね?」
 
「ハァ?そんな舐められるような真似出来る訳ないじゃない。ここは実力で潰す他に選択肢なんて無いって。マジで」
 
「…まあ確かにそうなんだけど」
 
「分かったらパーっと片付けてさっさと帰ろ。今日の所は奴等も飯と寝床があれば後はどうにかなるでしょ」
 
「早く終わらせたいならアンタがやりなさいよ。全く」
 
 
 
ニキータはぶつくさ言いながらも、手元ではしっかり格闘戦に向けた準備を進めていた。
 
演習用のオープンフィンガーナックルと、肘膝用のサポーターをライトグレーの都市野戦服の上から装着する。
 
本来ならば衝撃吸収性のボディアーマーも着ける所だったが、流石にそんな物まで持ち歩く習慣は無かった。
 
 
 
「下、コンクリートだけど良いの」
 
「死人が出なければ大丈夫じゃない?」
 
「始末書、必要になったら名義はそっち持ちだからね」
 
 
 
最後に長い金髪をゴムバンドで束ねて纏めると、黒のニット帽を上からかぶせて押しんだ。
 
これで格好だけならそれなりに「らしく」なる。野戦服と演習装備に身を包んだ兵士の出来上がりである。
 
とは言え、素人である筈の子供達と比べても、体格的にはまるで敵うレベルにはない。
 
多少筋肉が付いている事を除けば、平均的な16歳の女性よりもむしろ小柄な身体だった。
 
実はニキータ自身も、その外貌が子供達の不信を招いたという懸念は抱いてはいた。
 
だからレオナの無体な言い分を頭から否定する気にはならなかったのだが、実際勝てる確率が万全かと言うと微妙な所だった。
 
見込みや手立てはあっても、それが完全である保証など少しもないのだ。
 
 
 
「で、そっちは決まったの?」気怠く首を左右に振りながら、ニキータがけしかけるようにソンに尋ねる。
 
「は、はい。でも本当にやる?」ソンは相変わらず自分の立ち位置を決められずにオドオドしている。
 
「今更止められる訳ないでしょ。何があってもアンタの責任にはしないから心配しなくていいわ」
 
 
 
予想通り、ニキータの前に現れたのは一番使えそうな体格をした三人組だった。
 
マッチョと中背の二人はいかにもアラブ系の顔立ちだったが、最も背が高いのは微妙に髪の毛がカールしていて、どうやら混血のアフリカンの様だった。
 
恐らく、この集団の中でも奴隷の王様を演じていたに違いない。
 
銃も知識も持てない世界では、腕力のみが全てなのだから。
 
 
 
「こっちはいつでも良いわよ。さっさと来なさい」
 
 
 
レオナに続いてニキータも子供達に直接アラビア語で喋るのを見たソンは露骨に不機嫌な表情を見せたが、そんな観察をする余裕は一瞬で吹き飛んだ。
 
前触れもなくマッチョの三人がニキータに襲いかかり、辛うじて間に合った回避で何とか秒殺を免れたからだ。
 
三人同時の打撃を一回の後退で避けた彼女の動作は冷静そのものだったが、見ている側には風を切る鉄パイプと柔らかく伸びる腕のリーチの印象が強く残る。
 
どう考えても三人有利という懸念が現実になり、にわかに子供達が盛り上がった。
 
 
 
「やっちまえ、そんなクソ女やっちまえ!」
 
「女のくせに勝てる訳ないだろ馬鹿!」
 
「バラバラにしちまえ!焼いて吊してやる!」
 
 
 
まあまあそこまで良く言えるもんだとむしろ感心しながら、ニキータは連続で繰り出される鉄パイプを体移動で回避する。
 
幸い倉庫跡がフィールドなので、移動できる範囲は少なく見ても20m四方はある。
 
確かに三人組の腕力と柔軟性は高いが、どうにも脳味噌は鍛えられなかったらしく、彼女の移動に素直に従ってグルグルと同じ経路を辿って付いてくる。
 
まず一番意気盛んなマッチョが殴りかかり、それを回避すると断続的に中背と混血アフリカンが追い打ちをかけ、少し間を置いて再びマッチョの攻撃に戻る。
 
これは本人の殺気の順番なのだろうが、半分はニキータがそれとなくパターンを誘導した結果であり、単調な攻撃を続けて工夫をしない三人組自身の不明でもあった。
 
この調子で踊らせ続ければ、取り敢えず壁に追い詰められたりされる心配はない。
 
だがそれはそれとして、いずれこちらから仕掛ける機会を作らなければならない。
 
余り騒ぎを長引かせると、流石に相手も頭を使い始めるし、何より予定外のMPを呼び込む事になる。
 
ひとまずこの場で明確に決着をつけなければ、また思いも寄らないタイミングでトラブルを招くかもしれない。
 
いずれにせよ怨恨を長引かせた挙げ句に、仲間に寝首をかかれる事だけは御免だった。
 
その為にはここで綺麗に実力差を見せ付けなければならない。
 
しかし、そもそもこいつら仲間って言って良いんだろうか?
 
 
 
「ホラホラ何やってんのよ、囲まれるわよ!」
 
 
 
いかにも楽しそうなレオナの野次に、意識より先に身体が反応した。
 
左側に回り込もうとする長身の混血アフリカンに向かってカウンターで走り込み、相手が一瞬驚き身構えた隙に何の攻撃も仕掛けずにすり抜ける。
 
実際すぐ側まで近づくと30cm近い身長差は悪い冗談としか思えない。
 
更に走り抜けた後も容赦なく横殴りの鉄パイプが襲ってくる。
 
これはやはり勝算薄いんじゃないかと思うが、今更逃げるなんて選択肢はあり得ない。
 
勝つとなれば一瞬の勝機に賭けるしかないけど…その一瞬に費やす手間とリスクを考えると、非常に面倒臭い。
 
このまま逃げ続けて痛み分けって事にはできないだろうか。
 
 
 
「何やってんだ、さっさと捕まえろよ!」
 
「生意気な女はミンチにしちまえ!」
 
「とっ捕まっても助けてやんないからね」
 
 
 
誰の野次でもなく、最後のレオナの言葉を聞いたニキータは初めて自分から攻撃を仕掛けた。
 
しかしそれは威力よりも速さを重視したジャブのみで、相手も一人に特定していた。
 
三人の中で最も背が低く、それでいて筋肉は最も多いマッチョチビ男。
 
その腕や脚部に向けて拳を痛めない程度の、つまりは蚊が刺すくらいの打撃を連続で繰り出した。
 
得物を振る腕や前に踏み込む脚部はどうしてもニキータに接近するので、逃げながらでも距離的には十分捉えられる。
 
しかし踏み込みも荷重もない腕力だけの半端な打撃では、打たれた側は一向に物理的ダメージを受けず、むしろコケにされていると腹が立つばかりだった。
 
 
果たして、訳の分からない叫びを挙げてマッチョチビは単独でニキータに向かって突進してきた。
 
 
合理的なシステムも体移動もない、デタラメに鉄パイプを振る力任せの攻撃だが、腕で受け流すだけで骨折も有り得るような危険な重さを孕んでいた。
 
ニキータは後退して回避するばかりで何の攻撃も出さず、またそれに付いていく事でマッチョチビは自然に突出し、それを他の二人が後続する形になった。
 
その形は、真上から見て綺麗な一直線。
 
三人組は全く意図してはいなかったが、丁度ニキータに向かって行儀良く一人ずつ対面していく行列となり、体格と人数差に油断して全く危機感を抱いていない。
 
 
ニキータは戦闘開始直後から自分と彼等の平面相対位置を脳内で逐一トレースし続け、ずっとこの形になるチャンスを待っていた。
 
 
 
「ふざけやがって、死ね!」
 
 
 
今度は明確なアラビア語で悪意を吐き出したマッチョチビは、ちょこまかと動く小賢しい小娘に大上段から鉄パイプを振り下ろす。
 
だが、彼の鉄槌がニキータのブロンド頭を直撃する事は無かった。
 
大事な得物がニキータの手に渡ると同時に、マッチョチビの身体は綺麗に空中で一回転し、その腕力に比例した強烈な反動によってコンクリートの床面に叩き付けられた。
 
続いて列の真中にいた中背で足の長いペルシャ顔の少年は、目の前の仲間が吹き飛んで気を逸らされた隙に最後を迎えた。
 
しゃがんだまま突進してきたニキータによって、全力を込めた鉄パイプの『抜き胴』を脛に貰い、そのまま物も言わずに倒れ込んだ。
 
素人故に痛みに対してささやかな抵抗も持たないペルシャ顔は、声にならない叫びを挙げながら床面をのたうち回る。
 
恐らくは自慢の長脚でリーチと大きい威力の蹴りを得意としていたのだろうが、結局それを発揮する前にリタイアとなった。
 
残るは、先程錯綜した混血アフリカンだった。
 
ニキータはむしろ余裕を持って立ち上がり、鉄パイプを脇に構えて相対する。
 
もう一欠片の臆面もなく、神経は戦闘に集中していた。
 
 
 
「で、次はどうするの?」
 
 
 
今度は混血アフリカンの方が後ずさり、自らニキータとの距離を取る。
 
見るからに長身と長い腕を生かした戦い方を得意とする、喧嘩慣れした山猫のような身体だった。
 
後退したのも、単に逃げたのではなくその利点を生かそうとする行動とニキータは判断したが、それが本能的なものなのか計算した結果なのかは分からなかった。
 
外野の子供達は最後の一人に好き勝手な声援を送り続けているが、今となっては単にプレッシャーにしかならないらしく、明らかに当初と異なる緊張と動揺の色が見えた。
 
レオナと言えば、もう何も言わずニヤニヤしながらこの有様を眺めている。
 
全てが思惑通り、そんな思いが透けて見える嫌らしい笑みだった。
 
ニキータはアフリカンと会話が出来る程度の距離までゆっくり近づき、相手にしか聞こえない程度の声量で話しかけた。
 
最初の推定を撤回し、実際はこの男がもっとも理性的だと踏んだのである。
 
 
 
「名前は」
 
「何だと?」
 
「名前を訊いているの」
 
「…リーナール」
 
「あなた、あんまりやる気はなさそうね」
 
「他の奴等が勝手に始めて俺に押しつけて来たんだ。こんな事に誰が好きで関わるもんか」
 
「同情するわ」
 
「…じゃ、じゃあこんな馬鹿げた真似は終わりにしようぜ。もう俺達の負けで良い。勘弁してくれよ」
 
「出来ると思う?」
 
「やっぱり駄目かな」
 
「当然でしょ」
 
 
 
正直な所、この状況はリーナールにとってもニキータと同様に完全なとばっちりでしかなかった。
 
彼は生まれてこの方できるだけ厄介事を避け、命じられた事には素直に従い、生きる為には平気で屈辱も受け入れる、そんなやり方を貫いてきた。
 
それでも生来の身体と生まれ育ったラゴスのストリートという環境故に、不毛な争いに巻き込まれる経験も多く、自然に荒事に通じる能力を体得していた。
 
例え無難に生きるつもりでも、同格の相手から売られた喧嘩は買った上で勝利しなければ全てを奪われるし、必要ならば殺人も完遂させなければならない。
 
嫌々ながらも力を振るう時には、それでもほぼ確実に勝利し、逆立ちしても勝てない相手には自分から進んで従った。
 
腕力と背丈は生き延びる内に成長したが、本能ばかりで頭で考える能力は全く向上せず、それはまた自分でも分かっていた。
 
今回も働くだけで飯と寝床を保証されるという話に付いてきて、どことも知らない場所に連れてこられ、挙げ句に三人掛かりで女一人を袋叩きにする成り行きに従い、気が付けばこの状況である。
 
目の前にいる女は、刃向かってはならない『逆立ちしても勝てない相手』であり、その可能性を考慮しなかったのはリーナール自身の罪である。
 
 
 
「…確かに仕方ないよな。絶対に断ろうと思えば無理じゃなかった筈だもんな」
 
「諦めがついたらさっさと来なさい。多分、命までは取らないから」
 
 
 
リーナールは腹を括ると、大きく息を吸い込み、頭の中のモヤモヤを吹き飛ばすように大声で叫んだ。
 
そして横殴りに挑み掛かると見せかけて、そのまま鉄パイプをニキータに向かって投げつけた。
 
一か八か、これで意表を突いて勝負を賭ける。
 
小手先の技で敵わなくても、接近して力比べなら勝機はあると踏んだのである。
 
 
誤算だったのは、ニキータが彼と全く同じ行動を取って来た事だった。
 
 
むしろリーナールが気合いを入れた時に攻撃に踏み切った分だけ、タイミングはニキータの方が早かった。
 
ワンテンポ遅れて鉄パイプを投げ終わったリーナールの眼前に、今自分が投げたのと全く同じ物体が返ってくる。
 
背の低いニキータが投げた鉄パイプは足下から駆け上がるような軌道に乗って、むしろ投げ下ろしたリーナールのそれよりも見掛けの迫力を増していた。
 
 
 
「クソッ!!」
 
 
 
紙一重の所で屈んで回避したが、自分がパイプを投げる事に夢中だったせいで、一瞬彼の視界から消えたニキータの次の行動が分からない。
 
慌てて彼女の姿を探すが、見つけ出すのにさして時間は必要なかった。
 
ニキータ・シャフチェンコは、リーナールのすぐ眼前にいた。
 
互いの息がかかる程の近距離であり、リーナールからすれば抱きすくめて締め付けるのも容易な範囲である。
 
実際にそうできないのは、既に彼の頭部がニキータの両手によってしっかり掴まれていた上に、顔面に向けて彼女の右膝が飛んでくる寸前だったからだ。
 
訓練された兵士や、最低限格闘を囓った者ならば、反射的に手で防御するなり全力で頭部を振るなりして、辛うじて直撃は避けられたかもしれない。
 
しかしリーナールは、自分自身を確実に傷付けんと迫る女の膝に、一瞬の間だけ見入ってしまった。
 
自分の身に降りかかった危険に自ら突入してしまう、いわゆる危険吸引と呼ばれる現象が、正しくリーナールの神経を支配していた。
 
あるいは、細身の身体で男三人を叩きつぶそうとしているニキータに対して、純粋に驚愕していたのかもしれない。
 
とにかく、後は狙い澄ました膝蹴りが鼻骨に吸い込まれるだけだった。
 
 
 
「あー、それは痛そー…」
 
 
 
レオナの呟きはぐしゃり、と肉と骨の潰れる音に紛れて誰の耳にも聞こえなかった。
 
その頃になると流石に素人目にも勝敗は明らかで、子供達の歓声も罵倒も一切鳴りを潜めていた。
 
沈黙の中、二人の身体がコンクリートの上で転がる音だけが響く。
 
転がると言っても、ほぼ戦意喪失したリーナールがニキータに首を絞め上げられているだけであり、その過程もほんの数秒で済んだ。
 
ニキータの両足は周到に敵の両腕と胴体を固定し、最早ブリッジでも外せない状態になっていた。
 
 
 
「はい、注目、注目。みんなこっち見なさい」
 
 
 
言われずとも、その場にいる全員の視線は混血アフリカンをチョークで極めている少女に向けられている。
 
勝利をほぼ手中にしたニキータの顔は相変わらず無表情だったが、犠牲者の方は間抜けに口を開き、舌を吐き出さんばかりに宙へ突き出していた。
 
 
 
「もし本当に銃を持ちたいのなら、責任を持って敵を倒せる能力が必要です。それは腕力だけではなく、判断力や知識といった脳味噌の力も含みます」
 
 
 
その言葉とは裏腹に、犠牲者の首を絞める力は女とは思えない剛力だった。
 
パンチを受けた時は毛ほどにも感じなかったのに、まるで絞首刑の首紐の様に容赦がない。少なくとも当事者のリーナールにはそう思えた。
 
 
 
「自分にそれだけの力量があると信じるならば、昇格試験を受けて正式にステップアップに挑みなさい。不当な抗議では何の効果も無いどころか、自分達の首を絞めるだけです」
 
 
 
そうだな、全くその通り文字通りだ。返す言葉も無い。
 
朦朧としたリーナールの意識が最後に紡いだ思いは、身も蓋もない後悔と反省そのものだった。
 
そういう物は大抵手遅れになった時にようやく訪れるのであり、即ち終末を宣言する白旗でもある。
 
 
 
「あなた達の警備にはMPを必ず一部屋一人常時待機させます。治安維持に関してそれで問題は無いでしょう。これで、この話は終わりです」
 
 
 
ニキータの言葉が終わるのと同時に、リーナールの意識は闇の中へと落ちた。



――――――――――――――――――――――――――――――

 
 
 
日本を出る為にこの航路を通ったのは、もう8年も前の事になる。
 
あの頃はまだ気候も海流も安定して無くて、日本海をタンカーで渡る程度でも命懸けだった。
 
人づてに船の本数が少なく警備も厳しいと聞いて、必死で密航しようと思っていた所だったが、いざ新潟に着いてみれば人手が足りないので飯付きで船員として簡単に潜り込めた。
 
20世紀では経由地にしていた対馬は既に存在自体が無く、大荒れの海を一発で通りきる文字通り気合いの航海だった。
 
 
 
「よう、何だかんだ言って懐かしいのか?」
 
 
 
ラマンベラの兄貴の方が訓練をフケて梯子を登って来た。
 
適当な所で切り上げて屋上で煙草なんて高校生みたいだと思っていたが、国籍問わず誰でも考える事は同じらしい。
 
主甲板の上では、クソ真面目なジュバロフとその手下連中が炎天下の元で攻撃練習を馬鹿正直に続けている。
 
勘を取り戻す為に最初は付き合っていたが、砂漠にも劣らない直射日光と甲板の照り返しのサンドイッチに負けて逃げてきた。
 
 
 
「いや、前に俺がここを通った時はもうちょっと涼しかったね」
 
「そりゃ楽だったろうな」
 
「まあな。磁気嵐と時化が一緒に来たり、到着予定だった港が半壊状態だったり、農民や漁師崩れの海賊もどきが襲ってきたりな」
 
「へえ…確かに涼しくて結構だな」
 
「ああそうだ。この暑さに比べればみんなどうって事無い」
 
 
 
地軸が傾斜した事実は頭で理解できる。それによって気象が大きく変化したのも理屈は分かる。
 
だけどこの暑さは、どうやっても納得できない。認められない。
 
360度全方位、水平線まで雲一つないってのはどういう事だ。
 
この環境でまだ訓練を続ける連中は単純に状況判断できない馬鹿だ。直射日光だけならともかく、熱された甲板と海の湿気が厳しすぎる。
 
俺達を買ったアラーの連中はあたら砂漠で暑さに慣れているせいで、どんな暑さにも耐えられると思っているのだろう。だが、砂漠とアジアの暑さは根本的に異なる。
 
あと30分も続ければ熱中症で死人が出るかもしれない。とは言えそれを指摘する権利も義理もない。
 
訓練中の死だって立派な殉教には違いないだろう。
 
 
 
「連中の話じゃ、日本はここよりはマシだが一年中夏で暑い事に変わりはないそうだ」
 
「夏、と言える気候に落ち着いただけ上等ってもんだ。なあ、まだジョイントあるか?」
 
「船に乗る前に全部取られたよ。まあイスラムは草には厳しいからな」
 
「そりゃ勿体ないな。ざっと20オンスはあったろ」
 
「何、日本に着いたら奴らとは別行動だ。そうしたらまたどうにかするさ。案内頼むぜ」
 
「そりゃ構わないが…おい、今、お前別行動と言ったか」
 
「おいおい、一応お前が俺達の頭目なんだからそれくらい知っておけよ。そういう予定だろ?」
 
「いや、俺はあの小生意気なガキからは何も聞いてない。誰から聞いた?」
 
 
 
さすがに状況を察したのか、ラマンベラ兄はさっと周りを警戒してから俺に近づいてきた。
 
 
 
「俺から草を取り上げた奴からだ。しかしクソガキ隊長の口から何も出てないってのは妙だな」
 
「そのくせ子飼いの部下には予定を通達済みってか。口の軽さまではどうしようもなかったんだな、所詮ガキか」
 
「まあ、どうせ向こうに着いたら嫌でも分かるって事だろうが、情報の共有が無視されているってのは気にくわねえな」
 
「ふん」
 
 
 
そうして俺達は一瞬考え込み、直後に互いを探るように相手の目を見合った。
 
 
 
「ま、考えても無駄か」
 
「そうだな」
 
 
 
このクソ暑い中でろくに手掛かりも無く、そのくせ大体見当の付いている結論を改めて証明する気にはなれなかった。
 
そもそも中国の収容所から買い取られた時点で俺達の立場はおおよそ決まっている。
 
後は為すがまま流されるままだった。
 
 
 
「ああ畜生、どこに行っても暑いのはどうにかなんねーのか」ラマンベラ兄は艦橋の影になって人肌よりは冷えている甲板に寝転がった。
 
「まあ日本に着けば雨が降る可能性はある。その分大陸よりは涼しいさ」
 
「雨か、そりゃいい。猿共の監獄じゃ一年に3回も降らなかったからな」
 
 
 
梯子を登る音がして、弟の方もやって来たかと見たら、顔を覗かせたのはジュバロフだった。
 
毅然とした態度でこちらに迫ってくるが、いかんせん背丈が子供で顔が卒倒寸前の青さなので、むしろ滑稽さに笑うのを堪える方が大変だった。
 
 
 
「貴様ら、何故訓練に参加しない!?」
 
「こんな暑いんじゃ、雲でも出ない限り訓練なんてできやしませんよ」
 
「この程度の暑さ、我々には何の問題はない!」
 
「じゃあせめて水くらいは飲んだ方が良いでしょう。アンタだってもう倒れる寸前じゃないですか」
 
 
 
クソガキは尚も何か言い返そうとしたが、主甲板の方から叫び声が聞こえてタイミングを逸した。
 
案の定、誰かがブッ倒れたらしく下は大騒ぎになっている様だった。
 
クソガキは憎らしげに俺達を見てから急いで梯子を降りていく。砂漠と同じ服装で通すからだ、バカ。
 
 
 
「さて、これで海の上では晴れて寝ていられるかな」
 
「そう言えば弟の方は何やってんだ?まさか、まだ下で…」
 
「フィリップなら我慢できないって部屋へ飲みに行ったぜ」
 
「はあ?夜まで待てないのかよ。昼間からじゃ幾ら何でも奴らがうるさいぜ」
 
「お前は気を遣ってこの前の酒地肉林をカマしたんだろうが、少し変な方向に効いたらしいな」
 
「そうかもしれんが、ああでもしないと力なんて戻らないだろ」
 
 
 
返事の変わりにラマンベラ兄はブーツから一本の紙巻き煙草を取り出した。
 
 
 
「さすがは旦那、なんだかんだ言ってやっぱり抜け目がないねぇ」口笛を吹く。
 
「今の所これが最後の一本だ。だから半分までしか吸わない。忘れるな」
 
「分かってるって。一々セコい心配すんなよ」
 
 
 
空は青く広がり、時化の心配もなく、時間はゆったりと流れている。
 
暑い事を除けばセッティングとしてまあ上等な類と言える。
 
これで甲板下に隠した大量の武器弾薬が無ければもう少し穏やかな気分になれるが、傭兵の身分で望める話ではなかった。



――――――――――――――――――――――――――――――

 
 
 
「言っとくけど」
 
 
 
型落ちのジープのハンドルを握るレオナは、何故か偉く不機嫌そうだった。
 
素人相手とは言え劣勢をはね除けての勝ち戦なのだから不機嫌になる必要など無いのだ。
 
 
 
「あの鉄パイプは連中じゃなくてアンタへのハンデとして使ったんだからね」
 
「知ってるわよ」
 
 
 
今更言われなくても、ニキータの中で先刻の『訓練』に関する一通りのレポートは構築されていた。
 
誰に報告するという訳でもなく、一つ一つ自分の中で検証する為に脳内で纏められるセルフレポートである。
 
意識して付けられた習慣ではなく、12歳の時分から戦闘報告書を義務付けられれば誰でも似たような性癖を持つようになる。
 
ニキータの場合、自分の目で見た限りの記憶の内、最低2時間分はログ化して頭のメモリにきっちり保存しておく自信はあった。
 
その中身をほじくり返すと、自然に現場では把握しきれなかった事実も垣間見える。
 
 
 
「バカ三人組がもう少し利口だったら、さっさとあんなゴミなんか捨てて純粋に力比べの格闘に持ち込んでいたでしょうね」
 
 
 
それが取り敢えず現状で弾き出した結論だった。
 
武器という見かけだけの優位性に執着した為に、自分達が持っている本当の「武器」を忘れてしまった。
 
獲物を用いた攻撃は確かに強力だが、それなりに訓練を積まなければどうしても単調な攻め口になる。
 
ニキータは三人が躊躇せず鉄パイプを手にした瞬間からこの弱点を見越してプランを構築していたが、それが最初からレオナの狙いだったと気が付いたのは哀れなリーナールが悶絶した後だった。
 
  
 
「そういう事。まあ奴等が見かけ通りの間抜けで助かったわね」
 
「だから挑発の後に時間が掛かりすぎていたら本当に危なかった。武器なんか捨てて飛びかかってきていたら、それで最後だったかな」
 
「アンタの戦い方は格闘用武器を持った相手の方がやりやすいしね」
 
「…でそれがどうしたの」
 
「いや、分かっているなら良いんだけどさ」
 
 
 
『訓練』が終わった直後に、くじ引きで今週のMP係を押し付けられていたブラノフ達が乗り込んで、その場を制圧した。
 
多分、直接覗くなり監視カメラなりの方法でずっと様子を見ていたのだろう。あまりに出てくるタイミングが良すぎた。
 
しかし制圧と言っても既に抵抗する気力を無くしていた子供達は、大人しく指示に従って出来たばかりの二段ベッドに潜り込んで落ち着いた。
 
誰一人床に転がる三人を省みようとはせず、そのままブラノフ達に担がれて独房へご案内となった。
 
 
 
「でも取り敢えず一部屋にMP一人常駐って口約束はどうにかなりそうじゃない。いきなり言い出した時は狂ったのかと思ったけど」
 
「多分、バウアー大佐も似たようなプランは持っていたんでしょう。でなければ人数までは割けないし」
 
「しかしブラノフの奴は随分とブーたれていたわね。そんな子守なんてクソ面倒くさい真似できるかって」
 
「どうせ何週かしたら私達もやる羽目になるんだから人事じゃないわよ」
 
「それにしても、子守役引き受ける代わりにDレーションのパウンドケーキ寄越せってどういう事よそれ?」
 
「さあ。でも一番旨いって話は聞いた事あるけど」
 
「は?あんな甘ったるい物何が良いってのよ男のくせに…」
 
 
 
今にしてニキータは、あの『訓練』はレオナが助け船を出す前提の元で始めた物だと考えて始めていた。
 
確かに細かな優位性は図られていたものの、普通に考えれば勝機など少しも考えられない戦闘であり、それをニキータに強制する事でレオナがどのような利益を得られるのか。
 
ニキータは疑惑の張本人と会話しながら、ずっとその事を考えていた。彼女にとってはこれも脳内レポートの一環には違いなかった。
 
その結果、最も彼女が狙っていた可能性が高いのは、ニキータが窮地に陥った所で乱入して一気に片づけるという筋書きだった。
 
もちろん、それを実証する必要も手段もありはしないが、先程から不自然にカリカリしているレオナの態度はそういう裏でも無ければ説明の付かない話だった。
 
 
 
「まあ、とにかく勝てて良かった。運とか巡り合わせも良かったけど、結果が良ければそれで文句ないもの」
 
「そりゃそうよ。第一アンタはあんな奴らに負けやしないんだから」
 
「…どうして」
 
「え?」
 
「どうしてそう言い切れるの?あらゆる手段を検討しても、勝つ可能性の方が低かった。そんな事くらい分かっているでしょう?」
 
 
 
我ながら感情的で不毛な物言いだとニキータは後悔したが、結局こういう言葉でないと答えが返ってこないなら致し方ないと振り切った。
 
メジュゴリエ中枢付近に辿り着き、ジープの速度は著しく遅くなる。
 
人口密度の高い中枢では緊急時を除いてしっかり制限速度は決められていた。未だ物資搬入のトレーラーが行き交うのだから当然だった。
 
 
 
「そう?だってアタシもアンタも強くなったじゃない。絶対負けるなんて思ってなかったけど」
 
 
 
ギアを入れ替えながらやけに大人しくレオナが切り返してきた。
 
急に態度が変わったのは、こちらの想像が図星だからだろうけど、もしかしたら自身でも歪んだ目論見に気が付いていないのかもしれない。
 
レオナは目論見が完遂しなかった事よりも、むしろ自分自身の矛盾にイラついているのかもしれない。ニキータは勝手にそう結論付けた。
 
 
 
「大体、アンタは一々終わった事まで考えすぎるのよ。良いじゃない、勝ったんだからさ。ね?」
 
 
 
それで切り上げたいのか、もうレオナの方から話を振ってくる事はなかった。
 
徐々に中枢の喧噪と巨大エレベーターの轟音が近づいてくる。
 
ニキータもこの地での初めての作戦が近づいているという話は聞いていたが、具体的な行動が既に始まっているとは思っていなかった。
 
少し長く事務方に傾きすぎたか、と不安に駆られる。そろそろ実戦の勘を取り戻す時期かもしれない。あんな無意味な殴り合いではなく、金の取れる戦いのセンスを。
 
 
 
「…分かったよ、悪かった。次は俺でも相手できるように準備しておくから」
 
「ふざけやがってあのガキ!馴れ馴れしく『銃を見せてくれ』だと!?御丁寧に英語で喋りやがって!」
 
 
 
ステファンとタカシという、見るだけで一瞬身の竦む剣呑なペアがトレーラーから降りてきた。
 
国連軍の野戦服を着ているという事は、予定にあった地形測量の任務から帰ってきたのだろう。
 
この二人がタカシ受けステファン攻めという形で言い争うのは珍しい事ではなかったが、その内容がレオナやニキータには不明瞭だった。
 
 
 
「あの野郎、絶対軍隊相手に喋る内容の英語を用意しているんだ。そうに決まっている!」
 
「ああ、そうだな。他の言葉は何も喋れないんだろうよ。ガキなんだから勘弁してやれよ」
 
「そんな理屈があるか!」
 
 
 
言い争うというか捲し立てなだめる二人の後ろで、パトロール班のカリミ達三人が押し殺した笑いを隠しきれずに悶えていた。
 
素早くネタの匂いを察知したレオナはジープを停め、タカシが制止する隙を与えずに三人の元へ走り寄った。
 
 
 
「ちょっとアンタら随分と御機嫌じゃない。何か美味い話でもあったのかさ?」
 
「い、いや…別に何でもないですよ…」
 
 
 
本人の手前、一応抑える努力はしていたが明らかに無駄な足掻きであり、却ってその含み笑いがステファンの不機嫌を増幅させていた。
 
 
 
「良いからゲロんなさいよ。どうせ後で他の連中には話すんでしょ?だったらアタシに教えても同じじゃない」
 
「マジ勘弁して下さいよ。本当に俺達何も知らないんですから」
 
「アルブーフ・カリミ伍長、地形測量時に発生した問題について証言せよ。これは命令だ…って言ったらどうする?」
 
「そんな殺生な」
 
「じゃさっさと喋んなさい。今なら命令じゃなくてお願いでまけとくわよ?」
 
 
 
無論、ステファンが視線で見えない圧力を送ってはいるが、いずれにせよ姉貴分のレオナには逆らえないのである。
 
ならば早い内の方が良い、とカリミは極めて社会的に妥当な判断を下した。
 
 
 
「それが、地形測量している最中にガキが紛れ込んで来たんですが」
 
「カリミ、テメェ殺すぞ。分かってるんだろうな?」
 
「…そいつが防衛対象の一人だったんで、手荒に扱うわけにもいかなかったんです。それで、その、やむなくステファン少尉殿が追っ払う事になったんですが」
 
「ケンスケ・アイダって奴は資料にもマニア野郎って書かれていたんだよ」立場上話し辛いカリミから、タカシが話を引き継いだ。
 
「で、そこに国連軍の服着てニコニコ笑いながらステファンが寄っていったんだよ。今まで練習した日本語を活用する為に」
 
「俺の日本語は完璧だったろうが」言葉と裏腹に自信の無さが声に滲み出ていた。
 
「『チョト、スイマセン。ココハ、タチイリキンシデス』って、あれが?」
 
 
 
タカシの声帯模写に、堪らず三人組が堰を切ったように爆笑した。
 
ステファンの表情は今にも飛びかからんとする怒れるブルドックだったが、レオナまでが爆笑しているので即実力行使という訳にはいかなかった。
 
 
 
「い、いやだってステファンの顔が思い切り引きつってて思い出すだけで…」
 
「しかもあのガキ英語で言い返したのが『そのM4見せて下さい』だぜ!?ステファンの日本語よりよっぽど上手だし。堪んねーよ」
 
「あのフレーズだけがやたら流暢だったから、そこら中の兵士に言い寄ってるんだろうね。あれは」
 
「うるせえ!だったらタカシ、お前がやれば良かっただろうが」
 
「いやだから俺は顔がダメだって言ったろ」
 
「どうせあんな霧の中で分かるもんか」
 
「で、断ったら断ったで、今度は拳銃に目を付けるしなーあのガキ」
 
「ハイパワーだって分かったら目の色変えているし。どうせ一回も撃ったこと無い癖にな」
 
「ふん、保護対象じゃなければお望みの銃で撃ち殺している所だ。お前らに、ムカつくクソ餓鬼を殴りたくても殴れない心境が分かるか!?」
 
「分かるから嘲笑ってるんでしょ」遠目に見て聞いているだけだったニキータが参加した。
 
「ねえタカシ、私達だって日本語不自由って点ではステファンを笑っていられないんだから、この際アンタが仕切って日本語教室でもやったら?」
 
「まだそんな段階じゃないよ。大体ここの設備だってまともに揃ってないのに」
 
「当たり前だ。それ以前に何故俺達がそこまでしてこの国に付き合う必要があるんだ?そんな手間を払うのはお前達で十分だろう」
 
「でも、この国に居座るのが目的なのは俺達共通の目的だろ」
 
「それはまた別の話だ。大体、この国では英語が通じん!そもそもそれがおかしいんだ。英語で買い物一つできんとはとんだ辺境国家だな」
 
 
 
タカシとニキータ、それにレオナは主要任務となるチルドレンの防衛任務があり、自ずと日本語能力が要求される立場にある。
 
しかし彼らの任務に直接関係しない隊員には、そこまでの義務は発生しないとステファンは言っているのである。
 
その内容は自分のお粗末な日本語に対する言い訳と責任転嫁にも聞こえたが、一応筋は通っている。
 
ただでさえトップチームの維持するべき戦闘能力は高度であり、転じて日常の訓練も厳しい物になる。
 
気を払うべき対象は山ほどある上に、余計な負担を増やしたくないという要求は理不尽とは言えなかった。
 
 
 
「だが、この国に居座るつもりなら現実を受け入れなければならん。ニキータの提案は悪くないな」
 
 
 
突然強いバリトンの声が割り込んできたのと同時に、カリミ達三人とステファンが急に背筋を伸ばしてその場に直立不動になった。
 
仮にも最高司令官であるバウアーの前でも平然としていられるのはタカシやレオナくらいのもので、ニキータも過敏な緊張まではなくとも居住まいを正す程度の礼儀は見せた。
 
 
 
「このメジュゴリエの状況が落ち着くのと、我々の存在が日本国外で公然の秘密になるのはほぼ同時期になるだろう。その時には無芸に隠れてばかりはいられなくなる。
 そうなれば将来的に主要な面子には満足のいく日本語能力が要求されるだろう」
 
「あの、大佐。僕自身はニキータもレオナも問題ないレベルだと思いますが。イマージナリーナンバーのレベルとしても不足はありません」
 
「お前達三人だけの話ではない。トップチームの候補まで含まれる人員は、最低限日常の日本語会話を理解できるレベルに達して貰わなければ困る」
 
「ではステファンも?」
 
「無論だ。単に便宜的なものではなく歴とした作戦遂行能力として評価する事になる」
 
「だってさ。こいつは重大な課題ね、ステファン」
 
 
 
決して口答えできない上官から下された命題に、しかしステファンは却って落ち込むどころか逆の反応を見せた。
 
 
 
「はい!バウアー大佐、作戦遂行能力として評価されるならば、一刻も早く学習して見せます!ご期待下さい!」
 
 
 
ステファンがご丁寧に敬礼までして見せると、余りの変身ぶりに他全員は呆気に取られ、バウアーも苦笑いを浮かべるしかなかった。
 
確かに忠誠と精励は軍人の条件だが、能力査定と関係した時点でここまで露骨かつ卑屈に態度を変えるとなると単に嫌味だった。
 
だがそれを口に出して責める筋合いもない。
 
 
 
「良いだろう、努力を重ねたまえ。だが今は差し迫った作戦がある。これが終わった後に改めて学習プランを検討するとしよう」
 
「次の作戦の日程が決まったんですか?」
 
「いや、正確な日程はまだだ。だが近いのは間違いないだろう。少なくとも、三週間以内だ」
 
「では、いよいよ今回のトップチームが正式に決まるんですね…ところで、その情報は上というか、ネルフの連中は知らされて…」
 
「ない」
 
 
 
これはネルフが予告なしのぶっつけ本番で使徒相手に四苦八苦させられる事を意味していた。
 
実際には、どういう理屈によるのか判然としないながらも、メジュゴリエの元には次の使徒が来る時期を大まかに予想した情報がもたらされている。
 
普通に考えればこの情報は人類全体の拠点たるネルフにこそ必要な物だった。
 
無論、メジュゴリエにとっても重要な情報であり、これに基づいて人員と装備の規模を揃え、予想される被害と費用を最小限に抑えなければならない。
 
だが、来ると分かっている災難を故意に知らせず、かつ完全に対処を任せるという行動は、散々人間の悪意と言う悪意を見てきたメジュゴリエの面子にとっても奇異としか表現のしようのない物だった。
 
ゼーレの悪意や目論見と言うよりも、何らかの独自の意味がある行動ではないか、というのがバウアー達『保護者』の結論だった。
 
 
 
「大体、アタシ達の敵だってバケモノと同じ時期を狙って潜入してくるって事は、何処がソースか知らないけれど情報を掴んでるんでしょ?偉く馬鹿にされた話じゃない?」
 
「ネルフやら人類補完委員会やらゼーレやら名乗っても、所詮中にいるのは人間って事だよ」
 
「それで神だの予言だの言ってんだから世話無いわね。今回のスポンサーも」
 
「ニキータ、何も奴等だけがスポンサーじゃない。他の仕事も忘れんようにな」
 
「はい大佐。それは承知しております」
 
「よろしい。では、カリミとステファンはテレーズ少佐と共に陸に上がってくれ」
 
「は?」
 
 
 
この場合の『陸』は地上の意味であり、再び地上に上げられるという事は、ステファンお楽しみのトレーニングが無くなってしまう。
 
既に夜半に入ろうとしている今から次の任務に当たれば、早番である彼等にとって最後の任務になり、余計にトレーニングする余裕など無くなるのは明らかだった。
 
通常配備時ならそれでも無理矢理シゴく事も出来たが、人員数が微妙な現状においては、むしろ不必要な労務を省き重要な任務と休息のみ繰り返す事を徹底していた。
 
練度が高いとは言え、体力的にどうしても大人に劣るメジュゴリエの、これは地味だが重要な工夫だった。
 
例外はタカシくらいだろう。
 
 
 
「今回の作戦に使う秘密兵器を受領する。お前達の仕事は中身の確認と護衛と運搬役になるユースの先導役だ」
 
「ひみつへいき、ですか」タカシは聞き慣れないGeheimwaffeという単語を微妙なアクセントで復唱した。
 
「いや何、テレーズの婆様が中古の兵器でちょとした悪戯を思いついたらしくてな。その材料を二束三文で買い付けたのだよ」
 
「なるほど、少佐の小細工脳が動いたというのは好調の証しですね」
 
「だと良いがな。で、タカシ、『ナガサ』の調整が終わったそうだから、後でその婆様に会って本当に絶好調なのか確認でもしておけ」
 
「了解」
 
「しかし大佐、我々はこれからトレーニングの予定が…」
 
 
 
散々部下達にコケにされた贖いを受け取ってないステファンは泣きを見せたが、
 
 
 
「ならば次の仕事で子供達と全力で資材搬入でもして貰うしかないな。それが終わったら規則通りの就寝を取れ。これは命令だ」
 
 
 
元より上意下達を旨とするステファンに逆らう力は無く、黙って敬礼で命令に従う意思を表明するするしかなかった。
 
 
 
「施設が未だ完備されてないのみならず、今回の作戦にはちょっとした工作が必要になる。ここが正念場になるが、お前達トップチームの成果でこの施設の価値が決まるだろう」
 
 
 
空気を察して、タカシとレオナも姿勢を正してバウアーと向かい合う。
 
バウアーの前に7人の兵士が整列し、即席の閲兵式のような構図が産まれる。
 
メジュゴリエと、その中のトップチームであるフラムバルガは、普段は階級差を感じさせないリベラルな雰囲気を持つ組織だったが、この様な号令を掛ける時は明確な礼式を守る。
 
最低限の命令系統を保つ為の、滑稽でも必要な儀式だった。
 
 
 
「総員、全力を尽くして…」
 
「あーっ!!いたいた、やっと見つけた!」
 
 
 
遠慮のない南部訛りの英語と共に、汗と腋臭の塊のような肉達磨が飛んできた。
 
先日、タカシとテストを繰り返していたライセオンの技師、パランパンだった。
 
 
 
「もう、困るんだよ。いきなり姿を消したらさ。まだウインチモーターのトルク調整が終わってないんだよ」
 
 
 
その場の状況も理解しないまま、真っ直ぐタカシの元へ歩み寄り、丸く太った身体に比して短い腕で駄々っ子のようにタカシの腕を引っ張る。
 
見る限り身長体重共にタカシの方が劣っている筈だったが、幾ら押しても引いてもその小さな身体は微動だにしなかった。
 
 
 
「いやその、確かに任務があるから地上に出るって言った筈だけど…」
 
「そんなの聞いてないよ!」
 
 
 
バウアーはしばらくの間二人を眺めていたが、やがて軽く咳払いして怠そうに呟いた。
 
 
 
「…まあ、そういう事なので各員任務に復帰せよ、解散」
 
 
 
それでお開きだった。
 
邪魔をしたパランパンやタカシを叱りとばす事もなく去っていくバウアーの背を、残りの全員が軽い驚きを持って見送った。
 
この手の儀式をぶち壊しにされると決まって怒り狂っていたかつての姿は微塵も無かった。
 
 
 
「ねえほら、早く来てくれないかな。明日までにデータを揃えないと間に合わないんだよ」
 
「少し待って下さい。先に技術部の方へ行かなければならないので」
 
「そんなの後でできるだろ!」
 
 
 
余程待たされたのか、元より強烈だった傍若無尽さに拍車が掛かり、半ば狂人の範疇に足を踏み込む勢いだった。
 
そしてそんなパランパンの相手をしているタカシの態度にも、若干の変化が始まっていた。
 
普段からやや腰の低い言動が更に丁寧になり、無表情な顔が段々笑顔で綻んでいく。
 
当事者二名以外の全員は、それがタカシのキレる兆候と知っていた。
 
 
 
「…む、ちょっと待て。貴様がアレか、タカシに新兵器を押し付けた奴だな!?」
 
 
 
ステファンはタカシのバックザックから偵察強化型システムを引ったくると、パランパンに強引に詰め寄った。
 
 
 
「何だよ、確かにそれは僕が作った物だけど、今は関係ないんだよ」
 
「俺がまとめて貴様の新兵器を試してやる。俺はタカシよりも遙かに役に立つぞ。間違いない」
 
「出来る訳無いじゃないか!被験者のパラメーター全部やり直しになるんだぞ!」
 
「ゴチャゴチャ抜かさないでさっさと行くぞ。心配は無用だ。タカシに出来て俺に出来ない訳がないからな!」
 
 
 
尚も言葉を重ねるパランパンを、ステファンは彼以上の理不尽さと強引な腕力で引きずりながらその場を後にした。
 
どちらにせよ、キリングハウスまで連れて行かれれば、パランパンも試験を続行するしか道はなくなる。
 
時間が限られているのならば、虚偽や誤魔化しがある程度混ざっていても試験を強行するしかないのだ。
 
 
 
「なあニキータ…俺、もしかしてヤバかった?」
 
「うん。後5秒くらいで殺しそうだった」
 
「そうか。昔よりは治まったと思っていたんだけど、まだ危ないなぁ」
 
 
 
タカシはその場に座り込んで、自嘲気味に自分の頭を軽く叩く。
 
その中身が自分の一部ではなく、言う事を聞かない犬の脳味噌であるかのような言い草だった。
 
 
 
「ああ見えてステファンの奴は頭の回転早いのよね。いつもやり方が力ずくだけど」
 
「助けられたかな。また後で色々言われるんだろうな」
 
「かもね」
 
「えーアタシには単に自分の欲望を優先させただけに見えたけど」
 
 
 
そう言うレオナこそが常にそうい行動を取る傾向が強かったが、逆にだからこその真実味のある言葉でもあった。
 
 
 
「ま、それはともかく人員調整する必要があるんじゃないの。奴が予定と違う行動に独走したんだから」
 
「えーと、俺達はやっぱりもう一度陸に上がらないとダメですよね?」
 
「そうね、じゃあ私達もこのまま上がりましょうか。ステファンの代わりに私達二人って事で」
 
「来てくれますか!?助かりますよ。正直、ステファン少尉より頼りになります」
 
「何よそれ、またアタシがガキ共のお守りするの?」
 
「ユースは一応正規兵経験のある年長組だから大丈夫でしょ。大体ね…」
 
 
 
ニキータは人差し指をレオナに突き付けて、
 
 
 
「さっきの騒動で一番働いたのは私なんだから、次はそっちが言う事聞くべきでしょう?文句言う筋合いなんて無いの。分かった?」
 
 
 
レオナはただ肩をすくめて彼女の言葉に従うだけだった。
 
 
 
「アンタさぁ、段々リアルナンバーの性格に近づいてない?」
 
「まだ知らないわよこの顔の持ち主なんて。映像と喋り方だけ見ただけだもの」
 
「聞いた話じゃ、相当キレてるらしいよ?手の付けられないジャジャ馬だって」
 
「どうせアンタには勝てないわよ。芝居に関しては自分の心配でもした方が良いんじゃない?」
 
「それを言われると辛いなーマジで。一分間あの人格で持たせる自信無いのよ、本当に」
 
 
 
レオナは巨大エレベーター前に乱雑に停めてあるトラック群から一台見繕って運手席に潜り込み、ニキータ達はその荷台に乗り込んだ。
 
満足な兵員輸送車すら足りていない現状においては、このような2tクラスのトラックが手っ取り早く人員を運搬する為に丁度良い媒体となる。
 
それは彼等が幼い頃、散々砂漠で活用してきた方法であり、その時には決まって貴重なトラックの荷台に有象無象の人間が満載になっていた。
 
砂嵐が吹き荒れても構わず剥き出しで走り、また身体が虚弱だと押しつぶされ窒息して、乗っているだけで死ぬ事すらあった。
 
その記憶を持つが故に、ガラ空きの荷台に乗る彼等の足取りは、自然に軽やかになる。
 
日本の瑞々しい空気と昼の緑光、夜のに当たりながら走る荷台は、隊員達の密かな娯楽になりつつあった。
 
大体現状では正式な任務がない限り河本以外の全員が地上には出られないので、折角の自然環境も簡単には得難い代物になっていた。
 
 
 
「タカシさん、どうします?一緒に陸に上がりましょうよ」ステファンに対する時とは対照的なカリミの口調だった。
 
「いや、俺は婆さんの所に行くよ。多分また細かく注文しないと『ナガサ』の組成がズレるから…」
 
「いい加減テスターなんて止めたら良いじゃない。実績の無い兵器を使うなんてどうかしてるわよ」
 
「まあ上の事は頼むよ。いたら河本の爺さんによろしく」
 
「じゃあもう次が上がるから、行くわね」
 
「ああレオナ、好きに飛ばして来なよ」
 
「こんな鈍足で何やれって言うのよ!」
 
 
 
タカシは軽く手を振ってピクニック気分の二人と三人を見送った。
 
走り去るトラックが見えなくなると、誰もいない通路の真中で、タカシは大きく溜息を吐く。
 
身体的な疲れは確かに否定できないが、まだ支障を来す程でもない。
 
連続する任務も昔に比べれば生ぬるく、雑多で多岐に渡る内容もさほどの苦も感じない。
 
それでも溶媒で薄めたような、稀薄でも確実に浸透するストレスが、自身のどこかに潜んでいるのをタカシは見過ごせなかった。
 
 
この地が長い間目指した「約束の地」に極めて近い場所であるのは分かっている。
 
 
まだ予定の段階とは言え装備も潤沢で、現状では資金の目処も立っている。そしてさしたる努力もなしに食料も水も豊富にある。何よりもこの点が素晴らしかった。
 
なのに、どこか満たされない不満がいつまでも心の隅に巣喰っている。
 
太陽の光も自然の風もない、この地の底が気に食わないのか。それも無い、と自分では思っている。
 
となれば、残る可能性は収容所にいた時に仲間達が罹っていた病気、即ち戦闘枯渇による純粋な欲求不満だった。
 
タカシ自身は決して戦争や人殺しを望んでこの街に来た訳ではない。一番の目的は守るべき物を守る為であり、次が一人の人間としてやりたい事をする為だった。
 
そのくせ戦闘が身近に迫ると、今すぐに駆け出そうとする身体の欲求が抑えられなくなる。
 
正に犬の習性ともいうべき代物だったが、いやが応にもここまで雰囲気が盛り上がってくれば本能を妨げる根拠も薄くなる。
 
 
 
「これじゃ、収容所であの人と過ごした日々は無駄って事じゃないか…」
 
 
 
エレベーターに背を向けて少し歩いて、貨物集積場に着く。
 
殆ど無秩序に転がされたコンテナの山の間を、10台程のフォークリフトが縦横無尽に駆け回っている。
 
ジオフロント工事時に使われた中規模ゴライアスクレーンが残っていたから助かっているものの、明らかに時間的猶予と量に対して労働力が不足していた。
 
今動いているフォークにも、ボビー爺さんが辛うじて集めてきた子供のフォーク経験者を乗せている。
 
簡単に集めるならトラック同様に大人の失業者を見繕えば良いが、施設内部で長時間働かせるには、どうしても子供の方が都合良かった。
 
子供の方が管理しやすいし、何より脱走の危険が薄い。
 
 
 
「ああ、牧野さん。コイツの調整にはもう少しかかりますよ。もう乗るんですか?」
 
 
 
そのコンテナ群に隠れるように、愛機「カレン」とそれを包み込む臨時整備ケージが居座っていた。
 
カレン本体が来たのがつい先日で、勿論それまで予備部品やオプションが先に到着していた訳もなく、本体の後からデタラメなスケジュールで送りつけてくる事になる。
 
となれば、その他雑多な備品や物資の中に紛れて、必要な物が判別できなくなる状態になるのは自明の理であり、それを見越して、直接貨物を運搬する場所の直近にカレンを据えたのが、MDMから出向してきたこの岡本だった。
 
外見は眼鏡で出っ歯という見事なまでのマンガ日本人だったが、HIGH-MACSに関する判断と知識は信頼できた。
 
日本人の大人にしては珍しく、年齢だけで人間を判断しないのも幸いだった。
 
 
 
「いえ、様子見に来ただけです。エッジ静音の方はどうですか」
 
「昨日指摘頂いた擦過音は何とかなったんですが…やはりその分高速走行時の安定性が落ちますね」
 
「両足で立っていて危険な程酷くなるんですか?」
 
「まあ今は大丈夫ですが、実戦時の保証はできかねます」
 
 
 
下から見上げると、改めて機体の変わり様に驚くというか、もう少しやりようはあったんじゃないかという気にはなる。
 
元から12式VW-1は重機に兵器を装備させて高速起動させてなおかつ空を飛ばそうという奇天烈なコンセプトを具現化したせいか、近代兵器としてはおよそスマートさとかけ離れた造形をしていた。
 
胴体こそはRCSと多少の被弾経始を考慮して割とスマートなノーズ型を保っていたものの、出来損ないのテクスチャの張り合わせのような脚部や嘘臭い細さの腕部と組み合わさると、知らない人間にはハリボテの様に見える物体となる。
 
それがカレンの『12式改』となると、いびつさに輪をかけて太い箇所は尚太くなり、その分細い箇所が更に細く見えるフォルムになっている。
 
 
 
「しかし、それでもコイツならまず実戦では問題ないと思いますよ。この前の転倒は堪えましたけど、急転回中のバランサー数値変更しましたし」
 
「分かりました。じゃあエッジの方は材質変更以外に手がなかったら元に戻しちゃって下さい」
 
「では今は安定性重視という事で?」
 
「お願いします」
 
 
 
タカシはそれだけ言ってカレンの背後に回り、しばらくしてから地上で散々乗り回していた古びた自転車を担いで出てきた。
 
つまり、タカシは単に自機の様子見ではなく、この為にケージを訪れたのである。
 
 
 
「そんな年代物、良く持ってますね。インパクト前でしょう?今時は電動ばっかりですよ」
 
「そうでしょうね、良くは知りませんけど。コイツは少なくとも僕よりは長生きでしょうし」
 
「私がこの地下で使っているスクーターありますよ。当分ここにいるから貸しましょうか?」
 
「いえ、僕は好きで乗っているんです。じゃあカレンの調整よろしく」
 
 
 
最初はサドルに跨らず、ハンドルを握りながら全力で疾走し、速度が付いた所ですかさず飛び乗る。
 
地上とはまた違う、油と汗と湿気に満ちた風。
 
最初にここに来た時には冷たく停滞していた空気が、僅か半月でここまで人の気配に満ちた空間になる。
 
これから問題のバケモノ退治−むしろバケモノに追随するアホ退治−をクリアして、更に大勢の人手を集め、いずれ本格的な対人迎撃機構として成立させる。
 
それを誰に強制されるでもなく、自分達の力で成し遂げている事にタカシは純粋な満足感を得ていた。
 
その満足感と、人を殺す時に感じる、あの何とも形容し難い感覚とは異なる。タカシはそう思いたかった。
 
 
 
「自分は、もうシリアルではない。殺人という行為自体に達成感は感じない」
 
 
 
一回目は脳内で、二回目は口に出して言ってみる。
 
かつてあの人に言われたように、日本語で、馬鹿正直に一単語ずつ区切り、明確な発音で復唱する。
 
何らの科学的根拠もない、まるでまじないのような真似だったが、実際やってみると確かに自分がそんな人間になったような気になる。
 
暗示といえばそれまでだが、それで平常心を保てるなら結構な話だった。
 
この地における任務の性質を鑑みれば、無闇なオーバーキルなど認められない。
 
砂漠にいた時は、より多くの敵を殺し、時には文字通り実物の首を持ってくれば仲間は大喜びで、それで自分の居場所は確定された。
 
味方・仲間、それらを守る為にそれ以外は皆殺し。実に単純な世界。
 
油断全開の敵が立てこもる脆弱なビルを上手く仕込んで内破でもすれば拍手喝采、瓦礫の山はまた死体の山にもなり、その上にシートを敷いてブランチなんて洒落込んだ事もある。
 
しかし、この街ではそんな真似は許されない。
 
少なくとも、あの臆病を絵に描いたようなガキの目の前で、死体の山を築く訳にはいかない。
 
兵士であり、傭兵であるとしても、トリガーハッピーやシリアルキラーでいる必要はないのだ。
 
大事なのは、今頬に触れているこの空気と風を守る事であり、殺人そのものではない。
 
そして自分には、その「交戦規定」を守る力がある、そう信じることが重要だった。
 
 
 
しかしふと、一つの疑問が頭に浮かぶ。
 
ドラガンを撃ったのはどうなんだ?
 
 
ドラガンを撃たずに助ける事は出来なかったのか?
 
かつての師であり恩人であり、兄貴分だった彼を殺したのは、自分の力を確認する顕示欲ではなかったのか?
 
 
 
いや、違う。
 
ドラガンは自ら死を望んでいたし、それはその場にいた誰もが理解していた。
 
だからこそニキータも手を貸したんじゃないか。
 
むしろ今までの恩返しとして、僕が望みを叶える道を作るのは当然じゃないか!!
 
 
 
タカシの心には未だに小さくとも色濃い疑念の雲が浮かび続け、消えない。
 
自転車は周りの迷惑を顧みない激しい機動で雑多に並ぶ貨物の間をすり抜け、ヤケクソ気味に速度を上げていく。
 
膨れあがった疑念は、自転車の速度に反比例して矮小していき、また無意識の海に埋没していく。
 
しかし埋没して目の前から消え去るだけであり、決して無くなった訳ではない。
 
それを誤魔化す為に、ひたすら脚を動かす。身体を使い、スピードに身を任せれば余計な事は考えずに済む。
 
厄介事ができたら、何やっても良いから忘れてしまえ。いつまでも余計な事考えていると死ぬぞ、とタカシに教えてくれたのは誰あろうドラガンだった。
 
ならば、ドラガンの記憶も思い出も忘れるべき厄介事なのか。
 
そもそも死者を顧みる行為そのものが余計な事なのか。
 
 
 
やがてその疑念も目に付かず邪魔にならない場所へと無理矢理片づけられ、
 
最後に残ったのはひたすら前に向かって疾駆する魂と、無心に駆動する全身の筋肉だけだった。
 
 
 
メジュゴリエ初の正式な対テロ防衛任務があと僅かに迫った今、
 
その中核たる牧野タカシの精神は、未だ実戦の領域には程遠い場所で拭い難い脂肪にまみれていた。




――――――――――――――――――――――――――――――




to be continued


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