第十七使徒殲滅より十八日後。

 

 

アスカはゆっくりと階段を上っていく。

骨が浮いて見える程に痩せ細った身体を辛うじて手摺りで支えながら、階段の一段一段を大事そうに踏みしめていく。

僕達の他には誰もいない、病院の最上階の階段。

その先にあるのは屋上だけだ。

本人はもう四肢はリハビリで回復したと思っているらしく、時には無理に平常を真似た歩き方をしようとする。

しかし彼女の足は持ち主の意志とは裏腹になかなか動こうとせず、時には床にへばり付いたように凍り付いてしまう。

当然、不本意に躓いて転んでしまう時もある。

その度にアスカは小さい声で何かを呟いた。

 

「…ったバカ…んなところで…りゃしない」

 

声は小さくてもその棘のある息使いから、どんな事を言っているのかは大体想像がついた。

そうやって動き出すまで自分の身体に文句を言い続け、息を吹き返すとまた前へと進んでいく。そしてしばらくするとまた崩れ落ちる。

それを何度も繰り返して彼女の一日が終わる。

どれだけ苦しもうとも、アスカは後ろにいる僕には決して振り向こうとしない。僕も彼女に声をかける事はない。かける事ができない。

いつもと同じ寝間着の背中を、近くも遠くもない所から見守っている。

お互いにその存在を知っていても、自分から近づこうとはしない。

そういう意味では、僕達はそれまでと何の変わりもない日々を送っているのかもしれない。

本当は、今僕のしている事が卑怯で気色の悪い真似だという事も分かっている。

でもそれはリツコさんに任された大事な仕事だった。

 

「治療の最中にどんな行動をとるかは人によって様々なの。あなたにできる事は彼女の安全を確保するくらいね」

 

一人勝手に歩き回るアスカの付き添い。

それはまるでアスカの人生を切り出して眺めるような、いわば覗きのような仕事だった。

 

 

 


 

流れよ我が涙、と少年は言った

 

 

 


第十七使徒殲滅より九日後。

 

 

アスカの意識は二日前に戻った。

あんなに僕が話しかけても何の変化もなかったのに、リツコさんが治療しただけで一日で快復してしまった。

あっけないと言えばそれまでだったけど、とにかく治癒した事実に変わりは無かったし、自分の力が及ばなかった事にも今更劣等感は感じなかった。

その治療に関しては何かの薬を使った、という事しか知らない。

しかも彼女が快復したという事実も僕が自分で確かめた訳ではなく、ミサトさんから聞いてようやく知った。

そのミサトさんも、詳しい話を聞こうとすると何故か口を濁した。

 

「今は…まだ本人にとっても辛い時期だから、会わない方が良いと思うわ」

「辛い治療なんですか?」

「ううん、そういう訳じゃないんだけどね」

「…そうですよね、今僕が会ってもアスカには迷惑なだけですよね」

 

先に朝食を平らげてコーヒーを飲んでいたミサトさんは、露骨な溜息を漏らして吐き捨てるように言った。

 

「そんな言い方をしても誰も同情してくれないわよ」

 

今考えると、ミサトさんは単に話を逸らせたかったのだと思う。

その為にわざときつい言い方をして僕を遠ざけようとしたのだろう。

しかしこの時はアスカに会えないという事実が心のどこかに引っかかっていたせいか、ミサトさんの言葉尻を聞き流す事ができなかった。

 

「別に、そんなつもりじゃないです」

「勝手に人の感情を決めつけるのは良くない事よ。それがどんなに見知った相手でもね」

「でも、アスカは多分僕を嫌っています」

「だったら、どうだと言うの?」

「だって、」

「わざわざ口に出して人に伝える事でもないでしょ?私に愚痴るくらいだったら、本人に直接ぶつかってみたら?」

 

 

それができるんだったら、とっくにそうしている。

それができるくらいなら僕達はこんな目にも遭わなかったかもしれない。

貴女は僕達がどれだけ苦しんで今の地平に立っているか知っているんですか?

どれだけのモノを失っても生きている自分が醜いと思った事がありますか?

 

 

そういう衝動的な言葉を抑えて口から出たのは、取るに足らない言い訳だった。

今となっては何と言ったかも思い出せないけど、それを聞いたミサトさんは何を察したのか自分の非を詫びてきた。

 

「…ごめんなさい。私も疲れてるのね、ちょっと言い過ぎたわ」

「いいんです。ミサトさんの言ってる事は正しいんですから」

「そういう言い方、嫌われるわよ」

「ごめんなさい」

「…」

 

僕にとって沈黙は苦にはなるものではない。

むしろ怖いのは沈黙を透して見つめてくる相手の目だ。

その点、ミサトさんは沈黙そのものを嫌う割に元凶である僕を責めたりはしない。

むしろそれを防ぐ為に自分で無理矢理空気を変えようとして、力が及ばなかった時には自分で自分を責める人だった。

それが分かっていたから、僕やアスカはできるだけ彼女の前では努めて明るく振る舞っていた。

 

「私達はそうやって大人をいい気にさせていれば良いのよ」

 

この家に来たばかりの時に、アスカは笑ってそう言った。

僕とアスカは大抵の場合には意見を違えてしまうけど、これは珍しく何の諍いもなく一致した。

家に居させて貰って、食べるものと自分の時間をくれればそれで大人の役割は終わりだし、それ以上の関わり合い持つ意味はない。

ただ、ミサトさんは全てから逃げようとする僕を追って来てくれた。

しかし、それに関するアスカの評価は、

 

「そんなの、アンタがいなくなるとエヴァが動かなくなるからじゃない」

「でも、あの時は綾波がいるから僕はいらないって」

「アンタ、バカァ?舐められているからそういう事言われるのよ!」

 

そうかもしれない。

自分から僕を拒絶していたくせに、手のひらを返して後を追ってきた行動は今でも理解できない。

強いて考えれば、寂しさに耐えかねて人形の代わりに僕を求めたのだろうか。

そう考えれば、さっさと僕達を追い出して加持さんと住もうとしなかったのも納得がいく。

僕達とあの人を比較して、勝っている点は「気を遣わないで接していられる」事だけだ。

その期待を叶えてやるのが僕達「子供」の仕事なのだろう。

 

でも、今の僕にはそれが難しい。

僕一人では、ミサトさんにとって何の価値もないのだから。

 

「あ、あの」

「何?」

「アスカには、いつ会えるんですか?」

「まあ本人次第だと思うけど、3週間もすれば落ち着くんじゃないかな」

「そんなに時間がかかるんですか」

「ま、色々とね。手順があるのよ。それまではそっとしておいた方がいいの」

「…何だか、色々と詳しいんですね」

「そう見える?」

「え?」

「私はそういう人間に見えるのかな?」

「ええ。見えるっていうか…」

 

僕は「見える」という言葉に奇妙な違和感を感じていた。

実際に詳しく話してくれているのに、「見える」とはどういう事だろう。

誉めたつもりだったのに、地雷を踏んだような感覚に襲われた。

 

「あ、でもリツコさんから聞いているから知っていて当然なんですよね」

「別に。聞いてなんかないわよ」

「…そうですか」

 

一体何の為に自分が困惑しているのか分からなくなった。

ミサトさんがアスカの治療について多少詳しくても、別に何の疑問もない。

それを本人が気にしているなんて矛盾もいいところだ。

僕は目の前にいる人の機嫌を損なわないように会話のスイッチを押せばいいのに、こんな状況ではそのスイッチの種類すら見当が付かない。

結局、どういう言葉を掛けて良いのか分からない内に自然に顔がほころんできた。

嫌われると知っていても、最後には笑って誤魔化すしかなかった。

 

「ま、焦んないでゆっくりいきましょ」

 

そんなありふれた言葉を吐いてからミサトさんは思った通り急に不機嫌になり、それきりアスカの話もしなくなった。

僕達は無言の内に淡々と朝食を片づけて、何の挨拶も無しに食卓を離れて勝手に着替えて表に出た。

しかし、門の前では先に出ていたミサトさんが車と一緒に待っている。

これだけ気まずくても、もう一人で勝手に出歩く事すらできない。

そう思うと運転席に乗り込もうとしているミサトさんが急に煩わしく感じられた。

車の中でも僕はずっと沈黙を守るつもりでいた。少なくとも自分でその場を取り繕う為に口を聞く気にはなれなかった。

しかし意外にもミサトさんが自分の方から沈黙を破ってきた。

 

「そんなに会いたいなら、話しておくわよ」

 

一瞬、何の事を話しているのか分からなかった。

 

「え?」

「アスカに会いたいのなら、私からリツコに話しておくわ。エヴァの調整が済んだら会ってみれば?」

「いいんですか?」

「自分の目で確かめるのが一番早いでしょ。その上で彼女の為に何ができるかを自分で判断しなさい」

 

それは怒っている訳でもなく、平坦で抑揚のない無表情な口調だった。

ミサトさんがこうなった原因がさっきの会話にあったのは確かでも、それが何なのかは僕には分からない。

どうせ分かったとしてもどうにもならないのだろう。

僕は申し出の礼だけを言って、後は黙って窓の外をずっと眺めて時間を潰す事にした。

 

「もし、何か嫌な目にあったとしても」

「え?」

「あなたは自分で決めた事を曲げちゃダメよ。最後まで貫き通しなさい」

 

また説教か、と思って適当に返事をした。

どうせいつかの様に自分の生き方を僕に押し付けているだけなのだろう。

でも、もう他人に押し付けられた生き方をする必要なんてない。

僕は限られた選択肢の中から自分の好きなように道を選ぶ。

だからアスカを元に戻すために、できるだけの事をすると決めた。

それなのに、なんでミサトさんはさっきから口うるさく小言を垂れるのだろう。

もしかしたら、この人は自分で生き方を選ぼうとする僕が気にいらないのかもしれない。

それで頑なに説教じみた事ばかり口にするのだろう。

 

 

 

その時は単純にミサトさんの変化をそんな風にしか捉えてなかった。

親代わりの女性が見せる厄介な執着心の表れであり、無視する事で自分が大人に近づけるのだと。

そう勝手に思い込んだ僕は一段大人に近づいた気分になって、憂鬱そうな表情の裏で内心得意になっていた。

いつもなら綾波やカヲル君の死の印象が重なって暗く映る湖の水面も、この日は幾千もの光を放つ美しい鏡のように見え、逆にミサトさんの存在がひどく軽薄で煩わしいものに感じられた。

それは余りに自分勝手だという罪悪感のような思いもあったけど、僕の心は久しぶりに会えるアスカの事で満たされていき、最後には罪悪感もその嬉しさに押しつぶされて跡形もなくなった。

 

 

 

 

 


正直言って、これを喜ぶべきなのかどうか分からなかった。

 

目の前にいるアスカの状態は、確かに前よりも格段に良くなっていた。

少なくともベッドで寝たきりにはなっていないし、何よりも二本の足で立って歩こうとしている。顔色も良いし、やつれてもいない。

しかし、アスカは何の異常もなく歩いている訳ではなかった。

平衡感覚が無くなったように上半身をふらつかせ、赤ん坊が使う歩行器を大きくしたような器具によりかかって、十畳くらいの部屋の中をぐるぐると回っている。

一瞬、彼女の口から涎が垂れているように見えたが、さすがにそれは幻だった。

 

「この調子で、昼間はこのリハビリルームで歩行訓練。五時からは表現の訓練で、休憩は訓練の合間に合計で五時間という所ね」

「ずっと、ここを歩いているんですか?」

「今はみんな色々と忙しいのよ…部屋もここを確保するのが精一杯だったわ」

 

彼女の他には僕とリツコさんしかいない部屋で、アスカは必死に何かを求めて歩き続けている。

目の光は虚ろであるにせよ曇っていないしデタラメに声を上げてもいないけど、知らない人が見たら狂気を纏っているように感じるだろう。

とても堪らなくなり声を掛けようとして、リツコさんに止められた。

 

「無駄よ。今は殆ど人を判別しないわ」

「でも、僕は」

「気持ちは分かるけど、今は止めた方がいいわ」

 

それでもどうにかして話しかけるくらい、と思っていた矢先にアスカの歩行器が僕の足に躓いて安定を失った。

騒がしく響いていた車輪の音が消え、代わりに金属が床に叩きつけられる痛々しい音が空気を割った。

慌ててアスカの元に駆け寄って抱き起こそうとすると、さっきまで虚ろだった彼女の目が強く輝いているのに気付いてとっさに身を引いた。

アスカの拳が僕の鼻先をかすめた。

弱っていて勢いのなかった一撃を辛うじてかわし、何とかしてその場から逃れようと後ろを向いた瞬間に、這い寄る彼女に襟首を捕まれた。

手を出すこともできない僕は一方的に平手打ちを食らい続け、痛さよりもその勢いに押されてのけぞった。

それでも何とか言葉をかけてやろうと短い時間に頭を巡らして、結局口から出てきたのはこんな科白だった。

 

「痛いよ、アスカ」

 

我ながらなんて呑気なのだろうと思ったけど、もしかしたら、これで元気だった頃のように僕をなじる素振りでも見せるかも知れない、という淡い期待が心の中にあった。

しかしそんな旨い話がある筈もなく、アスカはまるで親の仇を見るような冷たい視線を向けるだけだった。

諦めて離れようにも彼女が僕の服を掴んで放さないし、肉付きの薄い身体を見ると押し退けるという気も起きなかったから、結局僕は好きに殴られるまま床に転がっていた。

手の平の打撃よりも、胸の痛みの方が堪えた。

どうしてアスカはこんなにも僕を憎むのだろう。

明確な意識を失った今の状態でも僕を認識して敵意をむき出しにしてくる。

それほど僕に対する憎しみが強かったのだろうか。

今まで隠していた恨みが意識の消滅と共に溢れ出てきたのか。

彼女の憎しみよりも、憎しみを隠していた事実の方が悲しかった。

 

「大丈夫か!」

「患者を収容しろ!早く!」

 

突然やってきた職員達が、尚も僕に向かって襲いかかろうとするアスカを取り押さえた。

彼らに腕を掴まれると嘘のようにアスカは大人しくなり、あっさりと引き剥がされて何処かに連れて行かれてしまった。

リツコさんはまだ灯の点っている携帯を片手に無表情で僕を見ている。

立ち上がって埃を払いながら、僕は頭を下げるしかなかった。

 

「すみません」

「あなたが謝る事はないわ」

「でも、僕のせいでこんな事になって」

「いつもの事よ。あなたがいなくても同じ事が毎日起きているわ」

 

でもそんな事は僕に関係なかった。

アスカはあんな風になっても僕を憎んでいる。その事実だけが僕の心に深く刻まれていた。

もうここにはいてはいけない。

そう思ってそのまま部屋から出ていこうとした僕をリツコさんが引き留めた。

 

「どこに行くつもり?」

「帰ります。ここにいても迷惑になるだけですから」

「そう、シンジ君にうってつけの仕事があるのに残念ね」

 

厭らしいお世辞だ、と思った。

 

「リツコさんがそう考えていても、アスカはそうは思ってくれないでしょうから」

「今必要なのはアスカの欲しい物ではないわ。アスカの興味を引く物よ」

「だったら尚更、僕には何もできません」

「それは、あなたが判断する事ではないわ」

 

僕は開いたままの自動扉の前で立ちつくしていた。

 

「僕に、できる事があるんですか」

「できるかどうかは貴方が自分で決める事よ。ミサトにそう言われなかったかしら?」

 

何故か、その一言を聞いて自分の中の配線が入れ替わったような気がした。

思っていた以上に朝のやりとりが心に残っていたのかもしれないし、単に逃げたくなかったのかもしれない。

いずれにせよ、僕は振り返って自分からリツコさんに願い出た。

 

恐らくは舌なめずりして僕の言葉を待っていたリツコさんは、そのまま僕を電算室まで連れて行った。

 

電算室の中ではマヤさんが一人で端末に向かっていて、入ってきた僕には気付かなかったらしく何の反応も示さずにひたすら画面と書類を交互に睨んでいた。

僕はリツコさんの持ち場にしては異様に本や書類が散らかっているコンソールに座らされて、空中に浮かぶ半透明の画面に向かい合った。

 

「シンジ君にはまだアスカの治療の話はしていなかったわね」

「はい」

「ミサトからも聞いていない?」

「余り詳しくは教えてくれませんでした」

「全く、ミサトったら…」

 

リツコさんは既に本置き場と化しているコンソールの上を漁り始めた。

あまり全体を省みない乱暴な漁り方で、端から勢いに押された本が何冊か落ちていく。そのどれもが外国語で書かれていて、名前すら読む事ができなかった。

やがて本の山から一冊だけ掘り出すと、そのままこちらを見もしないで後ろ手に僕に押しつけてきた。

英語の本なんて読めないと言おうとした所で、それが日本語で書かれた物なのに気がついた。

よく見ると本と言うよりはバインダーに挟まれた書類の束で、ややこしそうな専門用語と英単語が並んでいる他には特に理解できそうな特徴は無かった。

リツコさんはいつの間にか本の山には目もくれずに、恐ろしく速い手付きで端末に何かを入力していた。

半透過画面に反射して映っているその顔には、あの地下深い研究所で綾波の身体を破壊した時の悲壮な面影など一切残っていなかった。

 

「アスカはいつまであんな事を続けなきゃいけないんですか」

「残念だけど、それは私達にも分からないわ」僕の方には振り向かない。

「あんな事しているくらいなら、ベッドで寝ていた方がまだましじゃないですか」

「自分の意志で被っている苦労を止める理由もないわね」

「自分の意志って、どういう事です?」

 

リツコさんは急に手を休めて、指先や手首をさすり始めた。

疲れと言うよりは、話しやすくする間を作る為に手を休めた感じだった。

 

「今はむしろ動かないように縛り付ける方が難しいのよ」

「縛り付けるって…」

「一度拘束具でベッドに押さえ付けた事があったけど、職員も彼女も痣だらけになってね」

 

そう言うリツコさんの手首には、何か凄い力で締め付けられたような青痣が残っていた。

まさかという思いよりも先に、僕に殴りかかってきた時のどう猛なアスカの顔が頭に浮かんだ。

 

「好きなようにさせた方が大人しくしてくれるのよ」

「じゃあアスカは一体何の為に自分であんな事をしているんですか?」

「それは、勿論彼女自身の為よ」

 

やがて画面には何かの化学式と、そこから立体化させたらしい複雑な分子モデルが浮かび上がってきた。

しかし僕にはそれが「化学式」と「分子モデル」である事しか分からない。

こんな物を見せて何をしようというのか予想すらつかなかったけど、取り敢えずアスカに何か関係のある話なのは分かっていたからその場に留まっていた。

 

「知りたい?アスカが何をしているのか」

 

僕は黙って肯いた。

 

「じゃあ、分かりやすいように簡単に説明するわね。今のアスカは追いつめられた自分を保護する為に自ら感情の発生を封じ込めて、それ以上の精神レベルに移行するのを防いでいるの」

「…」

「つまり、傷つかないように誰にも干渉しないし、されたくもないという事よ」

「でも、それだけであんな状態になったりするんですか」

「それだけのダメージを受けているのよ。例え小さなダメージでも、受ける側の解釈で幾らでも増幅できる。それが精神的ダメージの一番の特徴よ」

 

何故か、リツコさんはそこで会話を切った。

僕には先を促すだけの言葉もなく、そのまま画面を見つめているしかなかった。

声のない部屋に遠くの喧噪や忙しく走り回る足音の乱打が響いた。

 

出し抜けにリツコさんの手が素早くキーボードを叩いた。

ただ単に3Dモデルを回転させる為だけには不自然に大袈裟な仕草に見えた。

 

「とにかく今は自分の意志で動けるようになるのが一番の目標なの。その為の薬物治療でもあるのよ」

 

そう言ってPC画面の分子モデルに目を向けた。

 

「これは旧世紀の末頃に発見された物質で、人の脳の中で感情の発動を司っているの。この他にも十種以上の物質があるけれど、これは特にアスカにとって必要な物なの。そこで私達は人工的にこれを合成して経口薬としてアスカに与えているわ」

「今のアスカに必要な物って…」

「生きる為の欲望、気力…一言で言えば『やる気』を促進させるものよ」

 

生きる力を、生み出す薬。そんな物が本当にあるのか。

 

「シンジ君は知らないと思うけど、セカンドインパクト以前には今のアスカのような精神的な「鬱ぎ込み」だけでなく、心因性の麻痺症状や痙攣等もこういう物質の投与で克服されていたのよ」

リツコさんはまた素早くキーを叩いて画面を元に戻した。「プラントや大方の資料は消失してしまったけどね」

「じゃあ、これを飲んでいればどんなに苦しくても癒るんですか?」

「そう単純にはいかないのは自分で見て分かるでしょう」

 

そうだ、苦しみが無くなる薬を飲んでいるのなら、アスカはどうしてあんなに藻掻くのだろう。

 

「この薬は魔法のように苦しさを取り払う訳じゃないわ。極端に言えば、人の脳を作り替えるような作用をするの。勿論、普通ではそれが原因であんなに暴れる事は無いんだけど、人によってはそれが耐え難い苦痛や気怠さとして知覚されるのよ」

「そんなに苦しいんですか?」

「特にアスカのような子には耐え難いかもしれないわね」

「他の薬とか、別の方法は無いんですか?」

「無い事はないわ。ロボトミー手術や洗脳を使えば制御下に置く事はできる」

 

そこでまたリツコさんは言葉を止めて、ゆっくりと言い聞かせるように呟いた。

 

「でも、それをやったらもうアスカはアスカでは無くなるわ。弐号機にはダミープラグを載せた方がまだましになるわね」

 

こんな話を聞いて冷静になれる訳がないと思ったのに、意外にも落ち着いている自分に気付いた。

それはつまり、出口があるという事だ。

希望が完全にゼロならば、わざわざ僕をこんな所に連れてくる筈がない。

 

「それで、僕には何ができるんですか」

 

言いながらさっき手渡された書類に目を落とす。

『脳内物質の変動に伴う感情及び行動の変異について』と表紙に書かれている。

それだけでは何かの論文らしい、という事までしか分からなかった。

 

「シンジ君に彼女の付き添いをしてもらいたいの」

「付き添いって、さっきみたいにアスカの側にいるだけですよね」

「そう考えて貰って構わないわ」

 

その申し出は正直言って意外だった。

 

「でも、僕はさっきみたいにアスカに嫌われているし…」

「それが大事なのよ」

「だって、毎日あんな風に暴れたら」

「今までにアスカが特定の誰かに向かって感情を露わにした事はないのよ」

「…」

「つまり、あなた自身がアスカの興味の対象になっているのよ。たとえそれが憎しみや悪意であっても、効果の上では変わりないの」

「…でも、もしかしたら転ばせたから怒っただけなのかもしれないし」

「今までにも、同じような形で何度も人にぶつかったり転んだりしてきたけど、同じような反応は見られなかったわ」

 

底なしの穴に落ちていくような絶望の中で、頭だけはやけに冷静だった。

それはトウジやカヲル君の時とは明らかに違っていて、強いて言うなら僕だけが苦しめばそれで全てが収まる時―一人で街を彷徨っていた時―に似ていた。

 

「随分と残酷な事を言うんですね」

「嫌なら拒否する事もできるわ」

 

そうしたらアスカはもっと酷くなるかもしれない、そう言っているのだ。

嫌われる為に彼女の側にいて、その憎しみを受け続ける。

そんなの、できない。できる訳がないと拒否すれば、僕は助かる。

でも僕には拒否する事ができない。

僕が苦しんでもアスカがそれで助かるのなら文句はない。ない筈だった。

そう信じて僕は肯定の返事を口にしようとした。

 

「少し、考えさせてくれませんか」

「…考えるのは構わないけど、もう時間が少ないのを忘れないでちょうだい」

「はい」

 

それでようやく僕は本と記号の海から開放された。

最後までマヤさんはこちらを見ようとはしなかった。

電算室を出た僕は、慌ただしく走り回る職員達の中で行く宛もなく取り残され、歩くと言うよりは引きずられるように通路を進んでいた。

結局、自分から飛び込んで手に入れたのは小難しい論文と、忌々しいアスカの視線の記憶だけだった。

 

これが僕という人間の限界だった。

 

 

 

 

 


「いけますね」

「まだよ」

「あまり待ちすぎると、逃がしませんか?」

「戦自っていうのは、あれでもガチガチのお役所だから」

「ギリギリまで動きませんか」

「多分、応援か後続が来る筈よ」

「資料ではあれで一個中隊分の戦力はある筈ですが…」

「空がお留守なのよ」

 

警報と共に画面上に新しいウィンドゥが開き、山を越えてくるヘリの集団を映しだした。

 

「大当たり」

「さっきのタイミングで出ていたら、陸上部隊にかまけている隙にやられていましたね」

「ま、こうなれば後は楽勝よ」

 

突然、森の中から爆炎と共に白い線が空に向かって伸びていく。

アンブッシュしていた有人及び無人遠隔操作の対空ミサイルだった。

山間部を低空飛行していたヘリ達は回避運動を取る間もなく、瞬く間に炎に包まれて山肌に落ちていった。

 

「待ち伏せ組は追撃を受けないように、あらかじめ退路を確保しておくのを忘れないように」

「退却時の訓練が相当必要ですね」

「無人の仕掛けの方にもトラップを置いておけば効果的じゃないですか?」

「ナイスアイディアね。で、誰がやってくれるの?日向君?」

「…それは、その」

「私達にはできる事とそうでない事があるの。ちょとした弾みで踏み越えただけであっさり死ぬのよ。それを忘れないで」

「すみません」

 

照明が戻り、画面上のウィンドウと第三新東京市の俯瞰図が消える。

百人以上収容可能な会議室の最前列に、いつもの司令室の面子と警備部門の責任者達が並んで座っていた。

ミサトはさっきまで映像を流していたプロジェクターの前に立つと、口調と意識を司令官のそれに切り替えて彼らの方に向き直った。

 

「以上が、強羅防衛線を絶対不可侵境界と想定した戦闘シミュレーションです。相手の戦力は戦略自衛隊に限定していますが、当然、これ以外の戦力を相手に防衛戦を行わなければならない場合もあり得ます」

 

全員が身じろぎもせずに彼女の言葉を聞いている。

その態度は真剣さと言うより恐怖を振り払う為の強引な執着のようにも見えた。

 

「それに対応したシミュレーションと迎撃マニュアルは現在作成中ですが、当面の問題はあくまで戦自への対応に限定できるので…」

「質問があります」

「青葉二尉、質問を許可します」

「戦略自衛隊以外の戦力が介入しない、という可能性は具体的にどの程度なのですか?」

「現時点で我々に敵対する組織はゼーレを含めて複数存在しますが、いずれも動くにはそれ相応の時間と理由が必要になります。このジオフロント及びネルフ本部を攻略するに足る戦力を、空・陸合わせて一個師団と仮定した場合、一ヶ月以内に行動可能な軍事力は、ほぼ戦自のみと断定できます」

「指令、我々が知りたいのは具体的な数値としての確率です」

「MAGIの試算では89.95%と出ています」

「では、残りの10.05%の確率で別の可能性もあり得る訳ですね」

「残りの確率の内、5%がある程度時間を置いた後に行われる各国軍事力による総攻撃、その他が『攻撃の可能性無し』です」

 

予想通り、「総攻撃」という単語で場の空気が急に揺らぎだした。

ミサトは彼らを黙らせる為に、敢えてそれ以上は何も喋らずに放って置いた。

小学校でよく教師が使う手口で、根が真面目な人間なら大人でも良く効く。

果たして、時間が経つ内に彼らの議論も収束していき、その最後に学級委員役の伊吹マヤがまとめの意見を述べた。

 

「…要するに、いかなる戦力を相手にする場合でもエヴァの復帰が防衛の鍵と考えて良い訳ですね」

 

打ち合わせ通りに上手く行ったようだった。

 

「その通りです。警備部と保安部の再訓練、及び防衛設備強化である程度の体勢は整います。仮に敵が総攻撃を行ったとしても、エヴァが復帰しているのなら勝機はあります」

「大事なのはそれまでの時間稼ぎですね」

「先程流したシミュレーションを用いて警備部は効果的な迎撃パターンを考案し、それに基づいた訓練を行う事。又、伊吹二尉は自分を中心として『解析班』を組織し、各国の政治動向と対策を検討して下さい」

「はい」

「…他に質問は?」

 

咳払い一つ起きなかった。

 

「では、これで会議を終わります。終了後は第二次戦闘態勢のまま待機。予定通り作業を進めて下さい」

 

全員が立ち上がり、一斉に敬礼する。

少しずつ、使徒相手の組織から人間を相手にできる組織に変わりつつあった。

だがそれは、今の所軍隊とも警察ともつかない中途半端なものであり、何の支援も無しにこの危機を切り抜けられるような頑健な強さは持っていなかった。

それは他でもない、彼らが一番良く知っている。

それでもこうして踏み留まっているのは、そうしないと生き延びる事すらおぼつかないからであって、決して好き好んで人殺しの訓練を始める連中では無かった。

端的に言えば、人殺しには向いていないのだ。

たとえ自分達の命がかかっていたとしても、それを守る為に必死になれない。

ただ、この状況下で組織から逃れる事の危険性だけは身に染みて分かっていた。

 

 

「上手くいきましたね」

 

全員が退室した後、三人組とミサトだけが司令室に戻った。

他には誰もいない事を確認してから、三人は張り出したテラスの隅に集まって声を潜めて話し始めた。

 

「…でも、いいんでしょうか」

「気にするなよ、別に騙している訳じゃないさ」

「情報の隠匿は立派な背任です」

「仕方ないよ。仮に教えたとしても、」

 

日向はファイルの中から一枚の書類を出した。

 

「エヴァが動かない限りはこんな物に手も足も出やしないさ」

 

コピーを繰り返したお陰で劣化の激しい英文書類の中央には、辛うじて判別できるくらいの解像度のモノクロ写真が載っていた。

写真の中では翼を生やした巨大な人型が、口だけの顔で禍々しく笑っていた。

 

「量産型と言っても、エヴァの場合はコストパフォーマンスが無視されるだろうから、性能は試作機と同等、あるいはそれ以上と考えた方がいいだろうな」

「それが、九体も…」

「正直に話してパニックを起こされるよりは、敢えて相手を人間に限定した方がマシって事だ」

 

ミサトは三人の輪には加わらず、背もたれに寄りかかって天井を見上げていた。

半透明の戦術スクリーンには網の目のようなヘックスすら映っていない。

だが、再びこれに灯が点る時には、もう芦ノ湖の周辺にあらゆる国籍の敵が押し寄せているかも知れない。

そう思うと、今ここにあふれる喧噪さえも、どこか名残惜しく感じられた。

手元にある情報を総合すると、彼らの状況は惨憺たる物だった。

自分達以外のネルフ支部は表向きこそ通常を装っていたが、その全てが潜在的な敵と化し、それに従属する各国の軍事力も、基本的には彼らに敵対する行動を取ると考えられた。

それは即ち、全世界を敵に回しているのと同じだった。

この状況は使徒が全て駆逐され、ゼーレの目標が次のシフトに移行した事が発端になっている。それだけは間違いない。

しかし、その目的が何なのかは相変わらず不明のままだった。

そのせいで、一体誰が手近な『敵』であり、又それがいつどのような攻撃を仕掛けてくるかさえも分析し切れずにいた。

だが、これからは兵士となって動く職員達には、何らかの方針を示さなければ話にならない。

たとえそれが嘘にまみれたものであっても、無いよりはましだった。

その為に昨日から寝ないで指揮を取り続け、合間に人目を避けながら日向達と密談を重ねて、今回の一方的なブリーフィングをでっち上げたのだ。

もっとも、その全てが偽りという訳でもない。

十中八九、一番最初に襲撃をかけるのは日本政府から通達を受けた戦略自衛隊だろうし、その対応についてもほぼ間違いのないものになっている。

最終的にはエヴァの復帰こそが生き残りへの鍵となるのも、やはり紛れもない大前提だった。

いずれにせよ、するべき事にはさして変わりがない。

それならば納得させやすい事実だけを並べた方が良いに決まっている。

最初から情報の隠匿に賛成だった日向と青葉は、頑なに反対するマヤをそういう理屈で説き伏せて協力させたのだった。

 

「でも、正直言って自信ないです」

「大丈夫だよ。こっちから喋らなければ分かる訳ないよ」

「上手だったじゃないか、マヤちゃんの芝居も」

「芝居じゃないですよ、実際にエヴァの復帰は重大な問題で…」

「だったら、なおさら心配ないさ」

「そういう事じゃないんです!警備部だけでなく、保安諜報部も主力になって戦うのに、今更情報を秘匿しても無意味じゃないんですか?」

「彼らだって、無闇に情報を公開したりしないよ」

「私達の持っている情報だって、元々は彼らの物じゃないですか!」

 

日向と青葉はこの言葉をフォローできなかった。

それと言うのも、マヤの言う事が正しかったからではなく、実際には保安部の情報を用いていた訳ではなかったからだ。

その情報元こそ本当に隠さなければならない物で、できるだけ口外する事は避けたかったのだ。

特に、マヤに対してはとても口に出せるものではなかった。

 

「まあ…情報操作に関しては彼らの方が本職なんだから」

「そんな簡単に片づけられるんですか?」

「じゃあ、どうすれば良かったんだよ!」

「本当の事を話して、みんなで考えればきっと解決法が見つかる筈です」

「そんなきれい事で済む保証はないんだ!」

「…じゃ、喋っちゃえば?」

 

突然割り込んだミサトの声には欠伸が混じっていた。

 

「葛城さん!しかし…」

「別に良いわよ。無理に黙っているのも身体に悪いだろうし」

 

椅子から立ち上がると両腕を天に伸ばし、鈍った筋肉をほぐそうとする。

悠長な仕草だったが、顔は彼らに背いたままで振り向こうともしなかった。

 

「それに、いつかはバレるんだから。必要だと思ったら言えばいいのよ」

「しかし、それでは何の為にあんな芝居を打ったのか…」

「だから、別に芝居でもないんでしょ?隠しているだけで」

「葛城さん!」

「…いいんですか、言っても」

 

彼女が冗談を言うような人間でないのは皆知っている。

言うとなれば、本当に本部施設の人間全員に話してしまうだろう。

その時の状況を思い浮かべて日向は思わず戦慄した。

 

「いや、ちょっとマヤちゃんも待ってよ」

「日向さんは黙っていて下さい!」

「いいわよ。言いたいのならそうしなさい」

 

ミサトは自分の言葉で場が凍り付いた事を知っていたが、気にしなかった。

逆にその間を利用して三人を黙らせ、更にマヤの我が侭に引導を渡すつもりだった。

 

「でも、それなりに責任は取ってね。自分の力で」

「責任?」

「そ。あなたの一言でここまで準備した全てが台無しになるかもしれないし、もしかしたらその逆もあり得るかもしれない。マヤちゃんだったらそれくらい分かるでしょ?」

「それは、そうですが…」

「あなたの責任でみんなを救っても、あるいは殺しても、それはあなたの自由よ」

「…」

 

言ってから自分の物言いが何となくリツコに似ているのに気が付いた。

 

「…すみませんでした。わがまま言って」

「ううん。分かればいいのよ」

 

それは和解ではなく、単なる遮断だった。

分かり合えないという事実を確認して、改めて壁を築き直したに過ぎない。

必要なのは厚すぎず、薄くもない壁だけだ。

それを保つ為には、こうやって崩しては戻す徒労を繰り返さなければならない。

 

「じゃ、僕達はこれで失礼します」

「一段落つきましたから、葛城さんも少し休んで下さい」

「明日の0900に、電源管理室で」

 

皆が口々に言い訳のような科白を残して出て行き、ミサトは体育館ほどの広さもある司令室に一人残された。

 

「…さすがに、マジで疲れた」

 

胸に溜めていた息を一気に吐き出し、自堕落に椅子に寝そべって天を見上げる。

第二次戦闘態勢を維持しているので天井の赤い投影スクリーンは灯が点されたままになっていた。

格子型のブロックで区分けされた画面には、バックグラウンドとして固定されている芦ノ湖周辺の地形しか映っていない。

だが、今この瞬間にも数え切れないくらいの光点が突然映し出されるかもしれない。

何の抵抗も見せなければ、この本部さえ光点の群に蹂躙されてしまうだろう。

そしてその可能性を振り払う為に、ここにいる全員が必死に足掻いている筈だった。

伊吹マヤは公平に見て優れた士官と言えたし、技術力も申し分ない。

しかし、人間の関係や挙動を推測する才能は不足気味なのも否めない。

持論に固執すれば、尚更周囲の空気が見えなくなる。

それを止めるには、無理矢理にでも地雷を踏ませてやるしかなかった。

 

「余裕なくなってきたのよね、実際」

 

ミサトは椅子に座り直して、胸ポケットに隠していた煙草に火を着けた。

省エネ方針が行き届いている影響で施設全体の換気が弱められていたが、この司令室だけはいつでも空調関係は万全に整えられていた。

職員達の喧噪もここからは遙かに遠く、1人になるには丁度良い環境だった。

照明を落として、オレンジ色の予備灯のスイッチを入れる。

薄暗い宙で煙草の火が赤く輝く。

周りの光が失われるのと同時に、自分の鼓動が異常なテンポを刻み始めるのが分かった。

そこに、煙草の煙を吸い込む。

煙が肺に満ちると朦朧とした意識がさらに遠ざかって行き、ふとした瞬間に手元に戻ってくる。

速まっていた鼓動が急激に細くなり、落ち着きを取り戻す。

何の事はない、身体に毒を振りまいて覚醒させるのだから、これは一種のドラッグにすぎない。

だが真綿で首を絞めるような緊張感の繰り返しでマゾヒスティックに覚醒するのは、今彼女が立っている立場や仕事も同じだった。

目を覚ましていなければ、動いていなければ自分の居場所が無くなってしまう。

彼女はそれが何よりも怖かった。

妄想に近い考えなのは自分でも分かっていたが、分かっているからといってどうにかなるという話でもない。

今更自分を変える事などできないし、否定するよりは受け入れた方がまだ自然だとすら思っていた。

正確に言えば、否定する余裕すらないのだ。

立ち止まっていたり怯えたりしても何の得もありはしない。

死にたくなければ、前に進むしかない。

そういう強がりを苦手な暗闇の中で何度も心の中で繰り返してみる。

 

「…何かダサいかな、こういうの」

 

携帯用の灰皿に吸い殻を突っ込んで、しぶとく漂う煙を息で吹き飛ばす。

ねとつくような白い闇は次第に本物の闇に溶け込んでいって、消えた。

 

「葛城さん」

 

彼女の手が懐の拳銃に伸び、寸前で止まった。

 

「…その、碇指令の行方に関して少し情報が入ったので」

 

ミサトも今度は露骨な溜息を隠そうとはしなかった。

苛立ちや腹立たしさ、それに幾分かの安堵のこもった溜息だった。

 

「日向君か。脅かしっこなしよ」

「すみません、こんなタイミングじゃないと内緒話もできないんで」

「足音くらい立てて歩きなさいよ」

「別に、忍び足で歩いていた訳じゃないですけど」

 

ミサトは無視して日向の手からファイルを奪い取った。

一通り読む間、日向は気を使っているつもりなのか一切口を聞こうとしなかった。

 

「…副司令と一緒にドイツに向かって、それきりなの?」

「結果的には、そういう事になります」

「どういう事?使徒が全滅したなら自分の立場が危うくなる事くらい二人とも承知していた筈なのに」

「あるいは、公式には出張したと見せかけて拉致したという可能性もありますが」

「既に殺されている可能性もね」

「はい」

 

隠すべき事実が次々と積み上げられるのは正直言って負担でしかなかった。

折角、こちら側から下級職員に使徒と人類、ゼーレとネルフの関係を公表したというのに、このままでは事態が硬直するにつれて、また同じような流言飛語が広まりかねない。

当然、そうなれば指揮系統の信用も低下する。

籠城を視野に入れている状況下で、それだけは何とか避けたかった。

そういう意味では、マヤの言っていた話も満更デタラメでもない。

むしろ彼女の言う通りに、できるだけ情報は開示していた方がいいのだ。垂れ流すくらいが丁度良いのかもしれない。

 

しかし、

 

「これもしばらくは公表できないわね」

「まあ、死んでいる可能性くらいは、みんな薄々考えているでしょうけど」

「考えているだけなのと実際に死んでいるのとでは全然違うわよ」

「あくまで、碇司令が戻るまでの辛抱と言った方が精神的には楽からですね」

「…すまないわね」

「は?」

「私はいいとして、みんなと一緒にいる日向君にまで機密を負担させるのは悪いと思ってるわ」

「僕は、別に平気ですよ」

 

こういう時の彼の笑顔が気にくわないのは、自身のそれと似ているからだった。

見透かしやすい笑顔を振りまくくらいなら、一生仏頂面の方がまだ信用できる。

それが単なる思い込みだとしても、感情を抑える事はできなかった。

 

「ありがとう。あとはこっちで何とかするから」

「あの、何か僕にできる…」

「今はないわ」

 

それで終わりだった。

自分から突き放したくせに、とぼとぼ歩いて出ていく彼の背中を正視できなかった。

だからまだ彼が部屋を出ていない内に、二本目の煙草に火を着けた。

 

「…煙草、お吸いになるんですね」

「そうよ」

 

これで愛想を尽かせば丁度良い。そう思った。

 

「…お似合いですよ、とても」

 

扉の閉まる音がして、また1人になった。

どいつもこいつもくたばってしまえ。そんな言葉が頭に浮かんだ。

 

 

 

 

 


第十七使徒殲滅より十二日後。

 

目を覚ますと、天井で扇風機が回っていた。

扇風機と言っても、普通は映画の中でしか見られないような換気用の巨大な物で、1人しかいない部屋で回り続けていると結構不気味に感じるのでいつもは寝る前に止めているものだった。

今更止める気も起きないので、そのまま羽根をぼんやりと眺めてみる。

ゆったりと回り続ける羽根の向こうに、頑なで無機質な天井が見える。

窓から差し込んだ朝日が穏やかに部屋を照らし、一人で回り続ける扇風機の影を向かいの扉まで伸ばしている。

味気なく、それでいて何となく懐かしい感じがした。

 

ここはアスカのリハビリに使われる運動部屋だった。

 

僕がアスカの側で看病するようになってから三日。

最初は、エヴァとの同調調整が終わってから夕方にでも世話をすればいい、という話だった。

それが、初日に見舞いに来たミサトさんが妙な話を切りだした事で、事情が変った。

 

「どうせなら、ここに泊まったら?」

 

それが勢いや思いつきで出てきた言葉なのかは分からない。

しかし、その一言で僕はこのままこもりきりで看病することになってしまった。

かと言って泊まる場所もなく、アスカの病室で寝る訳にもいかないので、結局この部屋にベッドを置いて寝泊まりしている。

ここで過ごす一日の大半は、アスカとの訓練で費やされてしまう。

リツコさんに貰ったマニュアル通りに、病室から運ばれてくるアスカを起こし、歩行器まで誘導する。

休憩を挟みながら、僕達は辿々しい歩調で床に貼ってあるビニールテープの上をなぞって歩いていく。

ひたすら無表情に回り続ける扇風機の下で、ペースや方向を変えながら何とか刺激を与えるようにしてアスカを導く。

その間にもアスカは気まぐれな殴打を続けた。

その多くは子供がじゃれつくような、叩くと言うよりは軽く掴みかかるような感触で、後ずさりする僕の髪を引っ張ったりする程度のものばかりだった。

だから、時折本気で叩くような事があっても、僕は何ともないふりをして我慢していた。

リツコさんの言った通り、確かにアスカが僕にちょっかいを出す時には、何となく目の色が違って見えた。

それなら僕が彼女の暴力を否定する理由もないし、耐えるだけで進歩があるなら、これ以上楽な話はなかった。

僕が我慢すれば、アスカの為になる。

考えてみれば、それが僕にとっても理想的な状況でもあった。

 

「順調なようね」

 

運ばれた朝食を食べて終わった頃にリツコさんが様子を見に来た。

この人はいつでも微笑んでいるような、睨んでいるような妙に堅い顔をしている。

同じような顔を何処かよそで見たような気がしたけど、いまいちピンとこなかった。

 

「生傷ばかり負わせて悪いけど、今までで一番の進歩よ」

「そうですか」

 

本当はこの人に感謝する態度を見せるべきなのだろう。

でも、今はそういう気がまるで起こらない。

疲れてもいたし、正直言ってこの人の豹変ぶりに薄気味悪いものを感じていたからなのかもしれない。

 

「昨日、アスカが自分だけで歩いたんです」

「本当?歩行器なしで?」

「…いえ、そこまではまだですけど」

 

他人の期待には、もう慣れた。

だけど、何となく言葉の端に単なる期待以上の物を感じる事がある。

まるで使徒との戦闘が続いているような、目に見えない緊張が滲み出ているような気がした。

 

「…まあ、誘導無しでも大した物だわ」

「はい」

「少なくとも、私達だけではこの短期間でここまでたどり着けなかった筈よ」

「そうですか」

「随分と淡泊ね。あなたの手柄よ」

 

そんな訳がないのはとっくに分かっている。

僕はただ言われた通りにしただけの事だ。

言いなりになっていれば確かに誉められる。

でも、それは手柄なんかじゃない。

 

「アスカが、自分で進んでいるんですよ」

「例えそうだとしても、それ引き出しているのはあなたよ」

「どうでもいいですよ。そんな事」

 

リツコさんは少し驚いた感じで僕を見た。

自棄になった訳じゃなかったけど、少しずつ溜まっていた物が溢れ出て抑えられなくなった。

 

「どうして、みんなこんなに焦っているんですか?」

「忙しいのは前から変わっていないわ」

「使徒はもう全部倒した筈じゃないんですか」

「使徒を倒すだけが私達の仕事ではないわ」

「でも、僕達はもう必要ないでしょう」

「大人の世界は、色々あるのよ」

 

白々しい言葉が苛つきを益々募らせる。

正直言って、僕は何の為にアスカを治療しようとするのかが分からなくなっていた。

確かに、アスカが治っていくのは僕も嬉しいし、それに関われるという事実は何よりも僕の支えになった。

でも、強引な治療のやり方は、はっきり言って矯正に近いように感じる。

難しい事は良く分からないけど、雰囲気や態度は明らかに普通と違ってる。

そういう齟齬は、使徒を倒す為に僕達をなだめすかして戦わせていた時と変わっていなかった。

 

「知っていますよ」

「何の事かしら?」

「僕達は、本当はもうここにいちゃいけないんでしょう」

「…」

 

投薬を終えたアスカが部屋に戻ってきた。

相変わらず、ベッドで寝ている時は別人のようにおとなしい。

しかし、その目だけは鋭く僕を見つめている。

僕はそれを視界の端に捉えながら、知らない振りをして側に寄っていく。

ヒトの面倒を見る時に声が自然にわざとらしくなるのは、以前TVで見た事のある老人介護の現場と同じだった。

 

「アスカ、じゃあもう一頑張りしようか」

 

声を掛けても目を見る事ができない。

僕はごく機械的に拘束ベルトや点滴を外していく。

手を取ると、いつもの打撃の強さが信じられない位にか細い。

下手をすると僕よりも先に、叩いている本人が傷ついてしまうかもしれない。

でも、きっとそれもどうしようもない事なのだ。

僕がずっとこの部屋で寝泊まりしなければならないのと同じように。

 

「ミサトは、あなたが邪魔なのかしら」

「え?」

「別にシンジ君がここで寝泊まりまでする必要はないのよ」

「そんな事ないですよ。僕も少しでもアスカの側にいた方が気が楽ですから」

 

…暗に、居座られるのは迷惑だと言っているのだろうか。

しかし、これからアスカの打撃に耐えるのだと思うと、そんな皮肉も容易に受け流せてしまう。

アスカの背中に手を添え、腹話術の人形を支えるように立たせる。

ぎこちなく、よろめきながら腰を上げ、ゆっくりと細い顔をこちらに向ける。

虚ろな表情の中で、青い目だけが強く輝いていた。

 

「さあ、行こう」

 

肩を貸す格好でアスカを支えて歩いていく。

彼女が踏み出すリズムに合わせて僕も歩を進め、少しずつ歩行器まで近づいていく。

アスカが苦しげな息を吐く度に、暖かく湿った匂いが鼻に届く。

腋に回した右手の向こうに、アスカの皮膚がある。

 

僕は素直にその事実を喜んでいた。

 

どんなに様変わりし、口が利けなくてもアスカは側にいる。

以前の僕は父さんに誉められる為にエヴァに乗っていたけれど、

今の僕は、この瞬間の為にここに留まっているのかもしれない。

 

「じゃあ、今日は軽く一回りしてから平行棒にしようか?」

 

アスカの両脇の下を抱えて歩行器に据えてやるこの瞬間、

胸の奥が締め付けられるような感覚が体の中を奔る。

ミサトさんの世話をしている時や、綾波の部屋でゴミを拾っていた時にも感じていた、どこか懐かしい感覚。

ここにいる限りは僕は僕でいられる。

何の根拠もなく、そんな気がしていた。

 

 

 

 

「物理的には、もう自分で歩けていてもおかしくないんですけどね」

「一種のヒステリーとでも言えば分かりやすいかしら」

「ヒステリー、ですか?」

「ストレスが身体的な障害として現れる症状を総括してヒステリーと呼ぶ訳だけど、今のアスカの状態はむしろデストルドーとタナトスが入り混ざって発現した、極端に危険な状態と言えるわ」

 

「それで、薬漬けという訳ね」

 

「ミサト、ここに入るにはあなたでも許可が必要なのよ」

「総司令代理の権限で、検閲ランクA−まで引き下げさせてもらったわ」

「葛城さん、何もそこまでしなくても私に言ってくれれば…」

「隠していた訳じゃないし、構わないわ。で、何の用かしら」

「別に。シンジ君の様子を見に来ただけよ」

「立派なものでしょう?最後の使徒の時とは比べものにならないわ」

「まあ、そうね」

「あとは、あなたとの約束通りアスカを快復させれば問題は解決するわ」

「後は、私の問題だけね」

「それが分かっているのなら、何も言う事はないわ」

「…」

 

 

 

 

馬車馬の前に人参を吊して、どこまでも走らせるという情景がある。

アスカはちょうどその馬車馬で、僕は人参の代わりに彼女を導いてやる役目だ。

歩かせたいコースに沿って後ずさりする形で歩いていけば、アスカは自然にその後を付いてくる。

急なアスカの突進や転倒に対応できなくなるので、お互いの歩く速さに気を使いながら、同時に後ろの視界も気にしないといけない。

うっかり後ろばかり見すぎていると、アスカの突進と殴打が襲いかかってくる。

逆にペースが落ちてきた時にはわざと気を抜いた振りをして、速度とやる気の両方を促してやる。

もちろん、その時には少なからず傷を負う事になるし、下手をすると僕だけ床に倒されてしまう。

でも、僕にとってはそれが元気だった頃のアスカの欠片を拾い集める作業に思えたから、痛みとか苦しみとか、そういう感じ方はしなくなっていた。

 

無闇に笑ってばかりいるのは以前と同じだった。

 

ミサトさんもアスカもこの癖を無性に嫌っているけれど、どうしても感情の遣り場のない時には、取り敢えず微笑んだ表情になってしまう。

正直言って、こういう時にどんな顔をして良いのか分からなかった。

多分、アスカが食ってかかる一番大きな理由もこの笑顔なのだろう。

 

「えあっ」

 

言葉にならない叫びと共に、アスカの指が僕の頬をかすめていく。

痛みと言うより、強い熱さを感じた。

もしかしたら血が出ているのかもしれない。でも、それに構っている暇はなかった。

歩行器が傾いて、前のめりにアスカが倒れ込んでくる。

駆け寄って支えようとすると、それより先に彼女の手が僕の襟元を掴んで道連れにしようとしてきた。

その腕を、逆に掴み返した。

派手な音を立てて歩行器だけが転び、アスカは僕に腕を支えられる形で辛うじて体を残し、巻き込まれずに済んだ。

歩行器の嬌声が止んだ後には誰の声も聞こえなかった。ただアスカの荒い息だけが聞こえた。

 

涙は見えなかったけど、アスカが泣いているようにも見えた。

 

「アスカ」

 

それは勢いに任せた簡単な思い付きだった。

 

「アスカ、外に出よう」

 

 

 

 

 


例のごとく、リツコさんが僕達を外に出す事に反対し、ミサトさんがそれを押し切ってようやく実現した歩行訓練だった。

口喧嘩ような議論の末に決まった条件は絶対に僕がアスカの側から離れない事と、予め決められた領域よりは外に出ない事。

当然だけど、その領域はアスカのいる病棟の五階のごく一部と屋上までの階段だけで、動き回れる時間も午後の一時間のみと、制限が厳しく付いてきた。

動ける領域に屋上まで届く階段を加えるように進言し、その他にも細かい点で注文を付けたのはミサトさんだった。

お陰で随分と余裕ができた筈だから、感謝しておきなさいとリツコさんは言っていたけど、何故屋上ではなく階段までというのが分からなかったので直接本人に尋ねてみると、

 

「別に。下には降りれないだろうから、上くらいには余裕がないと窮屈でしょ?」

「でも、屋上には出られないんですよね?」

「まあ、そこら辺は勘弁してよ。こっちも色々あるんだから」

 

そんなあいまいな言葉を残すだけで、まともに説明してくれないのは相変わらずだった。

しかし、いざその場に立って見るとそれらの指摘は全て図に当たるものだと分かった。

車椅子や歩行器で移動するべき場所は全てシームレスにしてあったし、監視の死角になるような場所はあらかじめ領域から外してあった。かといって人目に晒される程目立つ場所でもないので、仮にどのような状態になったとしても取りあえずアスカを鎮圧するという対処は取る必要も無くなっていた。

その上、いざという時に駆けつけられるように、わざわざ近くの部屋を空けて幾人かの職員を待機させてあったりもした。

 

 

 

 

訓練の初日。

お膳立ての揃った、管理された自由な空間に解放された僕達は、取り敢えず歩行器から離れることから始めた。

手始めにアスカを歩行器に乗せたまま誘導し、動ける領域を見て回らせる。

一通り見て回った最後に屋上へ続く階段に辿り着くと、いつの間にか最上部の扉が開け放たれていて、長方形に切り取られた青空が暗闇の中に浮き上がっているのが見えた。

僕とアスカは何とはなしにそれを見ていたが、その時には特に興味も示さずに通り過ぎていった。

そうして元のリハビリ部屋の前まで戻り、今度は僕が彼女の後ろに回って自分の意志で動くように促す。

 

アスカは岩のように固まって動こうとしなかった。

 

まるで、飼い主に行き先を促す犬のように後ろにいる僕を見つめ、前を向く意識すら見せなかった。

それでも僕はもう前には立つ事ができない。

奇妙な事に、リツコさんとミサトさんの両方から同じように堅く釘を刺されていたからだった。

 

「絶対に、目的地は自分で選ばせなさい。危なくなるまでは絶対に手を差し伸べてはダメよ」

 

汗が額から頬を伝って次々と落ちていく。

蝉の声が延々と繰り返され、時が止まったまま、現実の時間がじりじりと過ぎていく。

すぐ側の部屋で息を殺している職員の気配がここまで伝わってくる。

かすかに響く囁き声と、パイプ椅子を動かす時の小さいけど無遠慮な擦過音。

笑われている、そんな気がした。

 

僕はアスカの歩行器を押してゆっくりと前に歩き出した。

 

例え見られていたとしても構わなかった。アスカが笑われているという状況が、僕には許せなかったのだ。

ここにいる女性は、アスカは、こんな風に弱々しい人じゃない。

もう一度本当の姿を取り戻せるのなら、僕が罰されても構わない。

まるで罪を犯すような後ろめたさを感じながら、一歩ずつアスカの歩みを進めてやる。

歩行器の動きに合わせて彼女の足も半ば自動的に動いているのが唯一の救いだった。

そのせいか、僕の視線も自然と下ばかりに向くようになる。

アスカが躓いたりしないよう心配する振りをして、僕は「戸惑うアスカ」という現実から逃げていた。

いっその事、思い切り速く走らせてやろうか。

まるでドラマのようにアスカも勢い良く走って、その拍子に正気を取り戻すかもしれない。

だがそんな真似をすれば全てを台無しにしかねない事くらい分かっている。

汗が垂れる。

アスカの汗と僕の汗がリノリウムの床の上で混ざり合っていく。

それを僕のスニーカーが踏みつぶして薄汚れた足跡にしていく。

 

惨めだった。

 

はっきりと自分が惨めだと感じた事は今まで一度もなかった。

どんなに辛い目に遭い苛まれても、今まではそれが当たり前のように思えただけで、はっきりと傷ついたという自覚までは感じられなかった。

早い話、僕がどれだけ傷つけられても誰にも関係がなかったのだ。

だから、僕が傷つく必要もない。

笑っていれば、いつかそんな日々も終わるから。

 

でも、傷ついたアスカを直せない自分はたまらなく惨めだと感じた。

 

効果が望めないのなら、こんな真似をしていても何の意味もない。

ただの自己満足だ。

アスカという人形で一人遊びをしているだけの、僕はただの子供なんだ。

 

しかし、実際にはそうやって歩かせている内にアスカは自分なりの目標に目星を付けていた。

僕は下ばかり見ていたせいで気づく事ができず、突然アスカが自分の足で歩き始めた時には、意表をつかれて転ばされてしまった。

一度走り始めると、歩行器のお陰もあってか予想外に速く進んでいく。

追いつける程度の速さではあるけれど、いつ方向を変えるのか分からないのでそこら中で振り回される羽目になり、気がつくと僕はさっきまでの杞憂もすっかり忘れて、自由に走り回るアスカの後を追っていた。

通路の窓際から湖を眺め、誰もいない病室やナースセンターを巡り、自分のいる場所を確かめて回るように駆け抜けていく。

そしてその最後に屋上に続く階段の前にやってきた。

何の特徴もない、貧相な手すりが付いているだけの、殆ど誰の足跡もつかない階段。

その向こうには、さっきと同じ切り取られた青空が浮かんでいる。

この時、僕にはミサトさんがこの階段をわざわざ加えた理由が分かったような気がした。

そうなると、あの開け放たれた扉も彼女の仕業という事になる。

 

そして、―恐らくはミサトさんの思惑通りに―アスカは階段に向かって歩き始めた。

さすがに歩行器のままで行かせる訳にもいかず、少し強めの力で腕を掴んで歩みを止めた。

部屋の中だけなら、これまでのリハビリでも平行棒を使った歩行まではこぎつけていた。

しかし、階段を上る訓練となると話は別で、正直言って考えた事すらない。

ここで諦めるしかなかった。

だが、今のアスカは確かにあの空へ向かって歩こうという「意志」を見せている。

 

目標が、決まった。

 

「どうだった?」

 

ミサトさんが帰りがけに見舞いにやってきた。

相変わらず空元気を振り回しているけど、ふと光の当たり具合が変わると、その顔が少しやつれているようにも見えた。

 

「アスカ、相変わらずわがままばっかりでしょ」

 

僕は彼女の質問には答えなかった。

 

「どうして扉が開いていたんですか?」

「何の事?」

「僕が朝見た時には、閉じたままだったでしたよ」

「ああ、あの事ね…階段登るための目印くらい、あった方が楽でしょ?」

「そう、ですけど」

 

ミサトさんは唐突に乱暴な調子で僕の背中を叩くと、いつもの笑顔を被って言った。

 

「どうしても必要なら、屋上へ出る許可を取るわよ。シンジ君とアスカにそれだけの根性があるなら、ね」

 

この人は大事な話に限ってわざとらしく笑って話すのだと、僕はようやく気が付いた。

嫌らしいけど、何故か悪い気はしなかった。

ただ何となく惨めなだけだった。

 

 

 

 

それから六日間、僕はアスカの後ろに付いて彼女を見守る仕事を続けてきた。

 

訓練と言うよりは、唯一外界に繋がる道である屋上の扉へと向かう、修行のようなものだった。

二日目に辛うじて階段が上れるようになり、三日目にその成果を踏まえて時間を延ばしてくれたのもその苦労の賜物と言えるのかもしれないけど、何度も転びながら身を捩って階段を登るアスカの姿は、見ているだけの僕にも堪らない苦痛に感じられた。

何しろ生傷が絶えなかった。

この前聞かされたリツコさんの話が正しいなら、アスカの身体には大したダメージはない筈であり、心がうまく動かないせいでここまでの不自由が強いられている―実際は自ら強いている―事になる。

幾ら目標に向かって懸命に歩こうとも、無意識の、そのまた奥の自分が許さない。

悪く言えば、アスカの苦痛は自作自演に近い物であり、医学的には自傷行為という症状と一致しているのだそうだ。

だから、多少傷ついても手を差し伸べてはならない。

階段を登って転ぶのも、歩行器に乗りながら突っかかってくるのも同じ行為であり、そこには希望と絶望の二つが混じり合っている。

僕が手を差し伸べるのは、その絶望に力を与えるのと同じ事になるらしい。

 

でも僕には、こうして放置している事こそが絶望への近道にしか見えなかった。

 

「…ったバカ…んなところで…りゃしない」

 

今日も昨日もその前の日も、屋上の扉は訓練の時間に合わせて開かれ、時間が過ぎてから見るとしっかり閉められている。

そこまでしてアスカに苦行を強いているのかと思うと、まるで心が鎖で縛られたような息苦しさを感じた。

これも、アスカの為だ。

そう思って我慢してきたけど、正直言ってもうこのまま耐えられるかどうか自信がなかった。

ただ一つ言える事は、あんな風になってもアスカはやっぱり何も変わっていないという事実だ。

これが惣流・アスカ・ラングレーという人間の生き方であり、今のような状態になってそれがむき出しになっているだけなのだ。

僕が同じ立場だったら、どうしているだろう。

少なくとも、ここでこんな真似はしていないはずだ。

僕は、一生アスカの歩く速度には追いつけないのかもしれない。

ずっとこうして後ろから見ている事しかできないのなら、いない方が良いのかもしれない。

 

何かを擦るような嫌な音がして、アスカがこちらに向かって落ちてきた。

 

慌てて受け止めた彼女の身体は思ったよりも遙かに重く、もう少しで二人まとめて転げていく所だった。

既に疲れ切っているらしく、息は極端にあがり、もう僕を殴る事さえままならない状態だった。

足首が赤くなって腫れ上がり、僕が見ても挫いているのがはっきり見て取れる。

リツコさんに言われている通りにするなら、僕はこのままアスカを連れて元の部屋に戻らなくてはいけない。

 

「アスカ、ごめん。…僕がもっと早く気づけば良かったんだよね」

 

アスカはただ遠くにそびえる青い空を見つめているようだった。

どうして、そんなにあそこに行きたいのだろう。

訊いてみたくても、答えは言葉では返ってこない。

でも僕は、どうしても知りたくなった。

こんなに傷ついてまでして、どうして進もうとするのだろう。

単に薬の効果だけなのだろうか。

もしかしたら、上手く喋れなくなったアスカの内面では想像も付かない想いが渦巻いているのかもしれない。

知りたかった。

 

「もう、いいよね。アスカ」

 

僕は、アスカを背負った。

殴った時の力からは全く想像できない程軽い体重で、まるで人形を背負っているようだった。

 

 

 


つづく

 



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