いくら通風性に優れ、最低限の防弾性能を保証するアラミドケプラーが編み込まれているとしても、この気候の元で暑苦しい印象を与える黒服を着続けるなど、そもそも隠匿性の点でナンセンスと言わざるを得ない。
第一、外見だけでなく、この服は実際に暑い。
葬式や結婚式ならともかく、どれだけ日差しの強い日であろうとも、お構いなしにこんな服を一年中着続けるのは、やはり狂気の沙汰としか思えなかった。
で、仕事柄の割に饒舌なハゲ頭上司の返した言葉が、
「何を言う。そもそも隠す必要なんかどこにあるんだ?」
要するに、警察や軍隊の制服と全く同じで、むしろ目立つ事にこそ意義があるらしい。
「それに我々は資金こそ潤沢だが、落ち着いて装備を改善する余裕などありはしない。企業に開発を依頼してコンペティションが終わる頃には、とっくに我々人類か使徒のどちらかが地上から消滅しているだろうしな」
勿論、理屈は分かるし、人類の存亡に関わる仕事の前では些細な問題なのかもしれない。
しかしこれでは「保安諜報部」なんて仰々しい肩書きをつける意味がない。
その昔日本政府に実在したらしい「内閣調査室」みたいなもので、肝心の諜報業務は殆ど外注やタレコミだったりする。
つまり、俺達の仕事は諜報業務ではなく、
「分かったらさっさと例のクソガキを送り出す仕事に戻れ…終わらないとその服を脱ぐ事もできないんだぞ」
ネルフという名の檻に繋がれた珍獣達を監視して、その行動を報告したり逆らわないように脅したり、そして時には今日みたいに、粛々と厄介者の尻を叩いてご退場願う、動物園の飼育係と同じなのだ。
人々、あるいはその風景の断片
SS 1 「タンデム」
突然、保坂の口調が露骨に変化した。
同僚と言うよりむしろ対象に勧告を告げる時と同じ周波数で、どんな鈍い相手にも分かる壁のような拒絶の印だった。
こんな時に、俺はコイツとの出身の差を地肌で感じてしまう。
ネルフは基本的に海外の組織なのに、何故か俺達二人の編成は、俺が刑事時代に遠路はるばるお越し下さった本庁の刑事を「お世話」した時と同じだった。
それでも、こいつは今まで付き合わされた手合いの中でもマシな方に属するのだが。
「いや、気味が悪くて胡散臭いのがまんま同じだと思っただけさ」
「…そうか。ならいい」
俺は保坂の恫喝を、奴なりの気配りとして捉える事にしていた。
この話題に触れ続けるとろくな目に遭わない、という警告としてだ。
「もしかしたら、出ていった後のガキの監視も、俺達が出向してやらされる羽目になるかもな」
「不満か?」
「いや、仕事は別に嫌いじゃないさ。元々は俺のミスだしな」
この手の不平漏らしがチンコロされるかは知らないが、予防線を張っておくに越したことはない。
「ただ、この街からは離れたくないんだ。正直言って」
「いいじゃないか。どこに行ったってやる仕事は同じだ」
「使徒戦の巻き添えも食わずに済むってか」
「それはどうだろうね。俺達の敵は使徒よりはずっと身近な連中で、しかもどこに潜んでいるか分からない」
保坂がクーラー口の前に置いてあったコーヒーを寄越してきた。
日差しはスモークガラスを貫いて、黒服に容赦なく熱を染みこませ続ける。
時計を見るともうすぐ3時になろうとしていた。汚れた塗れ雑巾のような仕事が、もうすぐ近くに迫って来ている。
「運転、今日はお前がやる番だな」
「あぁ?お前運転席にいるんだからそのままでいいだろ」
「野村、約束はちゃんと守れ」
ウチの部署には公安の連中がかなり多く紛れていると聞くが、やはりこいつもそうだろうか。
管轄の整理統合によって押し出された末にどうにか潜り込んだ、俺みたいな出来損ないの刑事上がりは珍しい存在なのかもしれない。
交代で運転を担当するなんて口約束を律儀に守ろうとするのは、さすがに東大即海外組という事なのだろうか。
まあ俺達の出身や所属がどうであれ、やるべき仕事は皆一緒、罪深き組織を中から見張る看守だ。
監視対象をつけ回し、余程の危険が迫らない限りは、ただ観察して記録する事。
対象はあらかじめ定められたランク以上の職員や、特に重要な役割や情報を担う人間とされる。
当然、自分の立場をわきまえずにほっつき歩いたり、軽い気持ちで情報を漏らす奴は対象の中でも非常に厄介な部類に区分けされ、どういう訳か高ランクに分類される連中ばかりが、いわゆるブラックリストに入りがちになる。
その中には赤城博士や葛城作戦司令、そして件のガキも含まれていた。
ガキに関しては、別にどこかの組織に情報を漏らしている訳ではない。ただ自分の立場を認識していない行動が多すぎた。
お陰で我が部署のフォローする範囲が当初の想定より遥かに大きくなり、俺のようなペーペーでも入り込める隙ができた訳だ。
どうせ下っ端で出世の望みは低いが、やはり給料は良い。
守秘義務さえ守って、終生まとわりつくであろう公安やネルフの監視の目さえ気にしなければ、2〜3年程度の稼ぎでもちょっとした額にはなる。
そしてその頃には、使徒も全部始末できている筈である。仮に失敗しても皆死ぬだけである。
一つの現実として、俺と同じ考え方をした「にわか地球防衛軍」はこの街に数多く巣喰っている。
使徒が何よりも大事な仕事を供給している事態は、今や皮肉として語られる事すら控えられる明確な現実だ。
使徒にバンザイ、国際公務員にバンザイという訳だ。
「はいはい、分かりましたよ」
缶コーヒーを一気に飲み干して外に出ると、例のごとく噎せ返るような蝉の大合唱に包まれる。
外気と蝉の声を同時に浴びると気温以上の暑さを感じてしまうのは、もう諦めるしかない性癖となっていた。
さっさと保坂と席を入れ替わり、公用車限定で認められているハイブリッドエンジンの起動スイッチを入れる。
緩くアクセルを踏み込んで、不気味に居並ぶ黒車の列から抜け出していった。
「しかし、あの少年も何だかんだ言って使徒を倒した訳だし、排除までする必要があるとは思えないが…」
「俺は後になって英雄の正体が『あれ』だと聞いて怖くなったぜ。広報はここら辺の話、どうやって説明しているんだ?」
「よくは知らないが、遠隔制御だとか、訓練した戦自隊員だとか、適当にごまかしているらしい」
「マジかよ?そんな嘘臭い話、逆に不安を煽るだけじゃねーか」
「広報は対応に問題なし、と言っていたがね。ま、一応は市民も落ち着くだろ」
保坂はそう言うが、少なくとも俺の周りではそういう意見を聞いた事は無かった。
「俺が交番の巡査していた時からよ、市民の皆様ってのは決して役人には感謝しないのが相場だったぜ」
彼等は他にマシな土地がないから仕方なく住んでいるという愚痴ばかり垂れ流し、使徒を仕留めた嬉しさなど微塵も感じていなかった。
そういう意味では、ネルフも戦自も俺達二人も、役人という永遠の市民の敵として捉えられる運命で繋がっているとも言えるのだろう。
どんなに下っ端でも、役人は役人なのだ。
「いたぞ、あれだ」
仲間の黒服達に両脇を押さえられ、窮屈そうに一人の少年が佇んでいる。
既にIDカードの破棄は終わっているのだろう、扱い方が完全に部外者に対するそれに変わっている。
本人は至って無表情で、まるで自分の立場が他人事であるかのように平然としていた。
現実から目を背けているというのが本当の所だろうが。
「なあ、結局」
「どうした?」
「やっぱり俺が見逃した事が元凶になるのか」
「…考えるな。もう尻拭いはしただろう」
*
*
今考えると、この時の俺は、久しく触れていなかった刑事の時間にどっぷりと浸り、自分の立場を見失っていた。
少ない人数で捜査会議をでっち上げ、本来ならローラー作戦で当たる筈の広大な地域を、ヤマ勘とチームワークで潰していく。
灰皿に溢れる煙草の山、仮眠する仲間達のイビキ、方針の違いから対立し合う怒号の応酬。
旧世紀や第三新東京の警察のような硬直した組織ではなく、デタラメだけど速さと柔軟さに満ちていた組織。
あそこでは、組織の手足となる事が本当に誇りであり、生き甲斐に思えた。
例え、それがつまらない食料ドロの追跡であってもだ。
今回の追跡の相手は世間知らずのクソガキだが、仮にも世界の未来を背負う人間である。これで燃えない訳がなかった。
しかし、それで保坂の裏切りが容認できる筈もなかった。
*
*
*
*
そんな説得を受ける内に、保坂の強引な提案が少しずつ俺の中で現実味を帯び始めていた。
疲れていた事が、逆に後押ししていたのかも知れない。
「ハッキリ言って、俺は出世したい。お前はお前でこの職場に残りたい。そうじゃないのか?」
「…正直、俺的にはもうこれで充分なんだよ。自分のケツは自分で拭ったしな。俺的に」
「職場で生き残る事も競争なんだろ?」
無茶というか無謀というか、確かに汚名返上としては絶対のチャンスとは言え、まともな役人の神経で捻り出せる結論じゃない。
つまりは、これこそが出世の鬼の姿なのだろう。
その後散々難癖をつけて保坂の決心を崩そうと試みたが、結局、俺はこの提案に乗ってしまった。
このまま奴一人で行かせて失敗しようが成功しようが、俺が割を喰うのは目に見えていた。
仮に奴一人で行かせて俺が上にチンコロしても、残るのは屈辱感と、曲がりなりにも構築できていた信頼関係の完全な崩壊だけだろう。
それに、どんな結果に至るにせよ、無難に済ませたいなら二人でいた方が良いに決まっている。
成功も失敗も、分散して皆で分け合う。
それが下っ端小役人流の「タンデム」なのだ。
「しかし山狩りを二人でやるとなると…雨風を凌げる場所や、平坦な中腹、草原からアタリを付けるしかないか」
「地形はともかく、小屋や休憩所まではDBの地図でもフォローはしていないな」
「ああ、そこら辺は…」
「勘、か」
「…正直、それ以外に方法はない。難しいが」
「それなら、お前はもうできているじゃないか。大丈夫。やれるさ」
いかにも保坂らしい、空々しさに溢れた嘘臭い言葉に、場が凍った。
「ここはお前が奢れ。先に行く」
保坂の声を振り切りながら、こいつとの信頼云々など考えた自分に少し嫌気がさしてくる。
だが、今更ここで下りる気など毛頭無い。
自分から望んで高い壁に登ろうとするのは、もう職業病の域なのだと諦めていた。
*
*
「野村、聞いているのか」
「何だよ」
「さっきとは随分態度が違うじゃないか」
「返事を任せたのはそっちだろう」
鈴原が、何やらガキに激しく言い募っている。
表情を見る限り、責めているのではなく、むしろ逆のようだった。
「何をやっているんだ?」
「どうやら自分を殴れと言っているらしい」
「何故だ」
「何故って何が」
「そんな事をさせる理由がどこにあるんだ」
「お前、あいつらの監視報告読んでないのか?」
「読んでいるが」
静かな口調だったが、どうやら保坂は本気で理解できていないらしい。
「それで分からないのか」
「いや、理屈では理解できるが…ああいう行動を実際に取るというのは…」
「あの鈴原ってのはそういう奴だろ。お前の対極にいる人間だろうな」
じっと、保坂は3人を見つめて
「…そうか」
何故か寂しそうに呟いた。
鈴原の熱意に押されたガキは、結局言われた通りに顔を殴る事に同意した。
バッグを置き、勢いだけが強い、ぎこちないモーションで拳を繰り出す。
実際喰らってどれだけ痛いのかは疑問だが、それでも鈴原は大袈裟によろめいて見せた。
戸惑い、どうしていいのか分からないガキと、殴られて笑う鈴原。
自然に自分の口元が弛むのが分かった。
ふと見ると、保坂も笑っている。
青臭いと言うにはあまりに極端な、しかし短時間で誠意を伝えるには最適な方法だった。
「俺達、こんなガキ共に振り回されていたんだな…」
不思議と以前のようなストレスは感じなかった。
これで最後だという事もあるが、初めてこのガキの人間らしい側面を見られたからかもしれない。
俺の中での碇シンジは、自分で動かず、かといって甘える事も出来ない、希薄で腹立たしい人間だった。
端的に言って、何も知らず何の力も持っていなかった、かつての自分と同じだった。
「気にするな。失う物も縋る物もない人間が捨て身で逃げ出して、そう簡単に見つけられる訳がない」
「もうどうでもいいさ。それもこれで終わりだし」
「…だといいがな」
「何だと?」
鈴原と相田が喋る間、ガキは黙って話を聞いている。
少しずつ時間の限界が迫ってきているが、何も言えないようだ。
今、ガキの脳味噌の中を想像するのは容易い。
他人と自分の距離が思っていたよりも近かった事に驚いているのだろう。
そうやって人間は、お互いに関係を構築していく。
あるいは、こんな他人との接触は初めての体験なのかもしれない。
だが、気付くのが遅すぎた。
胸ポケにしまったサングラスを装備して、俺はまた一介の公僕へと戻っていく。
「時間だ」
相変わらず二人に何も言い返せないガキの肩を掴み、別れの路へと引っ立てた。
最終目的地である駅舎は、最新鋭を誇る電車本体とは対照的に、朽ちかけた旧世紀の姿のまま何の改築も施されていなかった。
記念碑的という訳でもなく、ただ何となく遺されているに過ぎない。
誰もいない階段は、まるで断頭台へと続くそれのように無意味に細長くて薄暗かった。
左右を固めつつ、俺達は律儀に足並みを揃えて一段ずつ上っていく。
ガキは人形さながらにただ従うだけで、その腕は年相応の連中に比べても細くひ弱だった。
この先、ネルフがどんな手でこのガキの代わりを仕立てるのかは分からない。
能力がどれだけ低かろうとも、貴重なエヴァのパイロットが消えるのは損失である事に変わりなかった。
追い払った所で監視を継続させるのは同じだから、手間は減るどころか増えるばかりだろう。
それでも、これは組織が決定した既定事項だ。
俺達は命令すら貰えない立場からは脱却できたが、命令に従う以外の選択肢を失った。
自分の意志で動く権利もなく、明らかに間違った方針に楯突く事もできない。
だが、それが俺の望んだ道じゃないのか?
「おい、待て!!」
保坂の声で、ようやくガキが俺達の手を振り払って逃げ出した事に気付いた。
家出の時と同じく、完全に俺の油断をついた行動だった。
だが、今更逃げるべき根拠も宛先もありはしない。一体何の為の逃走なのか。
いずれにせよ、再び見失いでもしたら今度こそ完全にアウトになる。
そう思って、階段を下りる寸前で大人げなく猛然と掴みかかって動きを止めたが、
「殴られなきゃならないのは僕だ!!」
思わぬ言葉とその勢いに、俺達も強引に引きずり込む事に躊躇した。
ガキの身体を挟んで保坂が俺の顔を窺うが、そのまま様子を見るように首を振って合図した。
「僕は卑怯で…臆病で…」
その通りだ、と腹の中でツッコミを入れた。
「ずるくて…弱虫で…」
最後の方は言葉にならなかったようだが、案の定、言いたい事を全部吐き出すと、もう抵抗はしなくなった。
そして、それが全ての限界でもあった。
「いい加減にしないか」
今度こそ、ガキを力ずくで構内に引っ張っていく。
泣いていても、差し出すハンカチなど俺達は持っていなかった。
*
*
常識的に考えれば、ここでまた翻って帰ってくる事などあり得ない。
それこそ、ガキの行動パターンに照らし合わせれば、100%ここを出ていくだろう。
「なあ、もう電車に乗ったって報告して帰ろうぜ」
「馬鹿を言うなよ」
思わず、欠伸が漏れる。展開の見え透いたサスペンスを無理矢理見せられているようだ。
「よう、まさか、保安諜報部全体で図っているんじゃないだろうな」
「図る?」
「ここでどっかの組織が出てきてガキをかっ攫うなんて無しだぞ」
「馬鹿馬鹿しい、そんな事をして何の意味がある」
「さあね。どっかの国に向けて送る人身御供にはなるだろうし、その責任は俺に押し付ければ何の問題も残らない。用無しのガキを始末するにはうってつけの方法だと思わないか」
「…何が言いたい」
「色々だ」
デジタル無線のコールが鳴り、保坂が俺より一瞬速くレシーバーを攫った。
俺は二本目の缶コーヒーを開けて、暇潰しに対応できる程度に飲み崩し始める。
思ったより電車が遅れているらしく、全く動かずに俯き続けるガキも相当辛くなっている筈である。
平日の昼間、確かに人は少ないだろうが、この空白は少し異常に感じられた。
「何の連絡だった」
「本部からだ。勤務中の作戦司令が事前連絡なしに車で外出したらしい」
「…で、例のごとく対応が遅れて」
「警護の車は間に合わなかった。現在単独で表に出ている状態だ」
「まあ、脱走という可能性はまず無いだろうから」
「ここに向かっていると考えて差し支えないだろうな」
「女ってヤダねぇ、今更未練出してどうするんだか」
蝉の鳴き声。
しぶとく居座り続ける相田と鈴原。
俺達はフロントガラスの向こうを見たまま向かい合おうともしない。
「…確かに、」
「ん?」
「あの時、先に見つけたのはお前だ」
「そうだな」
「相田ケンスケと接触しているのを確認して、夜明けを待ってから、本部への通報無しで、俺達だけの手で連れ戻すと決めた」
「それで、お前は何をした?」
「お前が寝ている隙に本部に連絡を入れて、迎えのヘリを呼んだ」
俺は何もしない。それ以上の言葉も重ねない。ただ黙ってガキを見つめ続ける。
「…見つけたのは俺だと部長に申告した」
フロントグラスに映った保坂が、俺の方に向き直った。
「だがな、俺とお前と、手柄を上手く生かせるのはどっちだ」
はらわた煮えくり返っていたが、それでも俺は断じて動かなかった。
とうとう堪えきれずに、保坂の方が先に俺に掴みかかってくる。
胸倉を掴まれ、狭い車内で正面から相対する為に、無理矢理身体を奴の方に向けさせられた。
「言いたいのはそれだけか。保坂」
「俺が、ただ自分の為にあんな真似をしたと思っているのか?」
「普通そう思うだろ」
間近で見たサングラスの内側は、プレスで量産鍛造したような冷たい表情があった。
「それなら言わせて貰うが、お前こそ、警察に戻るつもりだったんじゃないのか」
「…」
「俺達の独力でガキを連れ戻す行為は、一見警察のメンツを潰すようにも見えるが、実は組織としてのネルフをコケにしているとも捉えられる」
「山の中でガキを探すと言い出したのはお前の方じゃねーか」
「見つけた後に独力で引っ張っていくと言ったのは誰だ。お前は、自分の力を見せつけて警察に戻ろうとしていたんじゃないのか!!」
実の所、このひねくれた読みも半分は当たっていた。
違っていたのは、副職どうこうよりも、ハゲ上司と警察の両方の鼻をあかしたいという極めて原始的な動機がメインだった事だ。
その為には、何としても俺自身の手で目に見える形で、自分のミスを取り返さなくてはいけない。
運が良ければ現職場におけるより確実な安泰か、警察への復帰も考えられたが、下手をすれば元も子も無くす可能性もあり得た。
要するに、保坂と俺は純粋な意味で同じ穴の狢であり、裏切りだけが僅かな隔たりでしかないのだ。
更に冷静に考えれば、横取りした点を除けば保坂の取った方法が一番正しいのであり、最後まで独断を通そうとした俺がバカなのだ。
もっとも、そういう基本原理の違いをコイツが理解してくれるとはとても思えないから、口に出すつもりは全くないのだが。
「仮にそうだとして、テメーのやった真似の言い訳になるのかよ」
「俺はな、お前の力を借りたいんだ」
「何だと?」
少々、こちらが想像していなかった妙な方向に話が傾きつつあった。
同時に、俺の中での保坂宣之という人間像が趣の違った形へと更新されていく。
自分の為なら「容赦なく人を見捨てる世間知らず」から、「容赦なく利用しようとする世間知らず」へ。
「その為には、出世する条件を備えた俺が手柄を取って、お前をサルベージする方が手っ取り早いだろう」
「そんな話、誰が信じると思って…」
「まあ聞け。この先、今回と似たような騒動は必ず起きる。少なくともその可能性は高い。否定する奴はいないだろう」
そりゃ、今度は作戦司令閣下が無断外出するくらいだから、警戒は強めるだろう。
「俺はこの事件と成果を利用して、保安諜報部内に確たる監視専門部署を確立するよう提言する」
「そういう景気の良い話は、頼むからよそでやってくれ。俺には関係ない」
「お前が、その現場責任者になるんだ」
コイツは誇大妄想主義者として上書きした方がいいのかもしれない。
「縁があったら是非そうさせてもらうよ。暑いからもう座れ。この話は終わりだ」
「いいから聞け。俺達が実証したように、今の保安諜報部の対人捜索能力はガタガタだ。おまけに警察とのパイプも薄いから、捜査協力を依頼しても本気で手伝う気もない」
「奴等も探す分には手を抜かないさ」
「じゃ、何故俺達だけで見つけたものを、数百人がかりで見つけられなかったんだ?」
これも保坂の意見が正しかった。
本当に警察がその気ならば、俺のやった捜査方針を何十、何百倍もの人員で行って、容易く見つけられた事だろう。
今回のミスはタカをくくっていたのが真相だろうが、例えば国賓の行方不明等と比べれば、その真剣さの差は歴然としている。
機密保持でガキの正体を明かせない事もあるだろうが、状況を全て把握しない、もしくは把握させてくれない警察には、ネルフの為に本気を出す筋合いは感じていないだろう。
「お前が望むなら、それ以上の肩書きを背負わせる事もしない。約束する」
「勝手に一人で話を進めるな」
「いや、もう俺一人の話じゃない」
そこではたと考えて、俺は恐ろしい結論を導き出した。
感情が抑えきれないくらいに膨れあがり、今度は俺の方が保坂に手を出す。
胸倉どころではなく、髪の毛を掴んで後頭部をパワーウインドに叩き付けた。
「貴様、もうあのハゲに上申しやがったな!何が『これから提言する』だ!だからテメェは信用できないんだ!!」
もし俺の推理が現実なら、もう辞退するのは不可能に近くなる。
止めるにはコイツから否定の言葉を出させるしかない。
「まだ部門設立の話までだ!お前の名前は出していない!!」
意外と、こちらから力押しすると崩れるのは早かった。
もしかすると、これが保安諜報部全体の本質なのかもしれない。ふとそんな気がした。
「じゃあ、尚更俺には関係ない。お前の言った通りに警察に戻らせて貰う」
弱った所を、更にもう一回叩き付けてダメ押しを加えた。
「そんな事して…どうなる?お前の能力を、本当に生かせるのは…ここじゃないのか?」
完全に制圧されている状態のくせに、保坂は生意気な言葉を返してくる。
掴んでいた髪の毛を解放し、万が一の反撃を喰らわないように素早く席に戻った。
「今のお前は、まるであの少年みたいだ。現実から目を背けて、過去にしがみついているだけだ」
勝手に言っていろ。
「その上あの子には、縋る過去すらない。お前よりも立場は苦しいんだぞ」
そんな事俺が知るか。
「現実から逃げ回っている限り、お前が彼を馬鹿にする資格はないんじゃないのか?」
こんな下らない話は早い所終わりにしてしまいたかったが、こいつの性格から考えて、適当に打ち切っても後に引きずるに決まっていた。
何か、一発で結論を決められるネタをぶつけて、納得させなければならない。
「…そこまで言うなら、賭けるか。お前の好きなあのクソガキを使って」
信号灯が赤になり、間もなく電車が入るであろうホームを指差す。
「賭けだって?」
「俺はあのガキがここから出ていく方に賭ける。お前は逆。お前が勝ったら、その話考えてやる」
「…」
「どうした、俺とあいつが同じだっていうなら、今後を決めるに相応しい存在じゃないか?」
自分で言うのも何だが、これは最高の切り返しだった。
ここまで言い切った手前、保坂は俺の提案を頭から否定する訳にもいかない。
事はあくまで個人的な応酬にすぎないから、たかが賭けでもそれで決着すればケリはつく。要は「興味がない」以外の理由さえあれば良いのだ。
そして言うまでもなく、賭の勝利はほぼ俺の手中にある。
「…いいだろう。それでこちらも構わない」
腹を括ったのか、意外にも保坂はすんなり俺の提案を受け入れた。
「おいおい、分かっているのか?あいつが踏み止まる可能性なんて、万に一つもないんだぞ」
「どうせ、あの子がいなくなれば俺の提案の必要性自体が怪しくなる。だったら同じ事だ」
笑いながら冷やかす俺に、保坂は淡々と言い返す。本気だった。
「俺はあの少年に賭ける。そもそも、エヴァに乗せていた時点で、俺達は無謀な賭けにベットしていたんだ。その延長線上にすぎん」
「あのガキに限って言えば、使徒よりも人間の方が不得手と思うがね」
そして、とうとう運命を運ぶ担い手、新東京高速鉄道の下り列車が、山間部のカーブを抜けて姿を現した。
ボロ駅舎とは明らかに不釣り合いなハイテクの塊は、ブレーキの際に出る僅かな静電音のみを散らしてホームへと近づいてくる。
遠目で見る限り、電車の方も駅同様人影が無く、ガキの周辺一帯は完全な空虚に包まれていた。
俺は心変わりを呼ぶ余計な要素が無く好都合だと勝手に考えていたが、実の所、この時のガキの頭の中は全く想像できなかった。
俺達を下界のように見下ろせる空虚なホームの上で、奴は何を考えていたのか。
「お前は逃げると言ったけどな、今いるこの場から移動する事が、必ずしも逃避となるとは限らないんだぞ」
保坂は何も言わずガキを見ている。
「新しい自分を作る為に、場所と環境を変える必要だってあるんだ」
列車がホームを完全に覆い隠したのと同時に、猛スピードでこちらに突っ込んでくる青いルノーがバックミラーに映った。
見間違えようのない、本部から抜け出してきた作戦司令の車だった。
だが、肝心のガキは既に乗車している筈で、恐らく彼女は顔すら拝めないだろう。
「あのガキがそういう道を選んだなら、俺達に介入する資格なんざないんだよ」
車が止まり、女が出てくるが、もう声を掛けるには遅すぎた。
ゆっくりと、ガキの未来を乗せた列車がこの呪われた地を離れていく…筈だった。
賭けは、俺の負けだった。
見事なまでの完敗だった。
忌々しいクソガキは、そのままホームに残っていたのだ。
完全に予想を覆された俺は、腹を立てるより先に拍子抜けしてしまい、女とガキが見合ったまま立ち続けている事にもしばらく気づかなかった。
「まあ、浮かぶ瀬もあれって奴だな」
保坂の言葉はいまいち理解不能だったが、じっと動かない二人を見ている内に、直面している現実が腹の底にストン、と収まっていくのを感じた。
俺は策士と言える程のタマではないが、正に自分自身の策に破れ、更に運命も決定づけてしまった。
まさか、自分で言い出した条件を覆す訳にもいかない。
「おい、何か喋っているみたいだぞ、あの二人」
今となっては、何の為にあのガキを徹底的に貶めようとしたのかすら思い出せなかった。
「…知るかよ」
実際、碇シンジが本当に自分の意志だけで残留を希望したのかは、第三者たる俺達にはまず分析不可能だろう。
もしかしたら、本人も分かっていないのではないだろうか。
ただ非選択という選択肢に歩を進めた結果として、どうしようもなく立ちつくしていただけなのかもしれない。
だが、いずれにせよ、奴が俺の想像の枠から大きく外れている人間だったという事実に変わりはなかった。
それが正負どちらのベクトルに向かっているかは判然としないが。
「で、どうする?」
「どうするって…約束は守るさ」
「『考える』としか言っていないだろう。どうしても嫌ならそれでもいい。嫌がる人間を組織に入れてもストレスにしかならないからな」
俺はデジタル無線のレシーバーを取り、本部に繋いだ。
フロントガラスの向こうでは女とガキが連れ立って車に乗ろうとしている。
「こちら外機03、本部応答願います」
「…外機03どうぞ」
「本部から離脱した対象S3とD16を捕捉。これより帰還する模様。指示を仰ぐ」
「…S3とD16は同行動か。確認どうぞ」
「両対象とも帰還する可能性が高い。D16は残留する意思を確定させた。どうぞ」
「…本部了解。予定通り現時点からD16をS8に復帰、外機03にあっては護衛任務に当たれ」
「外機03了解」
丁度ルノーはエンジンモーターを起こして発車しようとする所だった。
鈴原と相田は事情を飲み込めず、呆気に取られてこちらを見ていたが、どうも女やガキからは存在自体を忘れられているらしい。
可哀想だが、この熱気の中を歩くなり自転車なりで戻って貰うしかないだろう。
「いいのか、本当に」
しつこく保坂が念を押してくる。
仕方のない事だろうが、この種の手合いは無条件降伏して見せても、かえって疑われるばかりで話が進まない。
適当に我が侭言ってやるのが親切だった。
「俺の能力が生かせる組織にしろ。それが条件だ」
「分かっている」
「適当に仕上がったら俺より使える奴を入れて地盤を固めろ」
「言われなくてもそのつもりだよ」
「じゃあそれでいいさ」
所詮、俺はお偉い方々の命令に従って人のケツを追いかけ回す事しか能がない。
それなら、せめてできるだけ良い飼い主を選ぶまでだ。
「それによ、ここまで来たらやっぱり気になるんだよ。どうしても」
「何の話だ?」
「あのガキがこんな選択したんなら、そこからどうなるのか俺は最後まで見ておきたいんだよ」
ルノーがこれ見よがしに俺達の黒車の前を通り過ぎていく。
彼女なら見ただけで一般車との識別くらいはできる筈だった。忌々しいが付いてこい、という意味だろう。
俺はサイドブレーキを下ろし、ゆっくり駐車場を抜け出た。
「付き合ってやるさ、最後にどうなるか見届けるまでな」
買い物帰りらしい二人の主婦の側を急加速で駆け抜ける。
スモークグラスで黒塗りの車が相手では悪態を吐く事もできないらしく、黙って後ずさって顔を見合わせるだけだった。
(完)
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