自分自身の尻拭いの報告を終えた後、上司の前から立ち去る寸前に、俺はちょっとした下らない質問を投げ掛けてみた。
 
 原則的に、という但し書きがあるとはいえ、通常勤務中に御大層な黒服の制服を強制される理由。

 いくら通風性に優れ、最低限の防弾性能を保証するアラミドケプラーが編み込まれているとしても、この気候の元で暑苦しい印象を与える黒服を着続けるなど、そもそも隠匿性の点でナンセンスと言わざるを得ない。
 第一、外見だけでなく、この服は実際に暑い。
 葬式や結婚式ならともかく、どれだけ日差しの強い日であろうとも、お構いなしにこんな服を一年中着続けるのは、やはり狂気の沙汰としか思えなかった。
 で、仕事柄の割に饒舌なハゲ頭上司の返した言葉が、

 「何を言う。そもそも隠す必要なんかどこにあるんだ?」

 要するに、警察や軍隊の制服と全く同じで、むしろ目立つ事にこそ意義があるらしい。

 「それに我々は資金こそ潤沢だが、落ち着いて装備を改善する余裕などありはしない。企業に開発を依頼してコンペティションが終わる頃には、とっくに我々人類か使徒のどちらかが地上から消滅しているだろうしな」

 勿論、理屈は分かるし、人類の存亡に関わる仕事の前では些細な問題なのかもしれない。
 しかしこれでは「保安諜報部」なんて仰々しい肩書きをつける意味がない。
 その昔日本政府に実在したらしい「内閣調査室」みたいなもので、肝心の諜報業務は殆ど外注やタレコミだったりする。
 つまり、俺達の仕事は諜報業務ではなく、
 
 「分かったらさっさと例のクソガキを送り出す仕事に戻れ…終わらないとその服を脱ぐ事もできないんだぞ」
 
 ネルフという名の檻に繋がれた珍獣達を監視して、その行動を報告したり逆らわないように脅したり、そして時には今日みたいに、粛々と厄介者の尻を叩いてご退場願う、動物園の飼育係と同じなのだ。




 

人々、あるいはその風景の断片

SS 1 「タンデム」

 




 あの忌まわしい日から15年、それまでは美しい四季が数少ない誇りだったこの国も、何の因果か亜熱帯気候の太い腕に囲われた常夏の島へと変貌を遂げた。
 蝉は一年中鳴き続け、季節という概念自体が消え去り、一度は回復した生態系も、今では別の形で緩やかな崩壊へと進み始めている。
 誰かが放した熱帯性の肉食動物や外来植物が少しずつ勢力を広げ、土着の動植物が侵略されつつあった。
 勿論、今の段階でそんな事を一々気にする人間は殆どいない。俺もテレビで小耳に挟んだだけだ。
 仮に人類が使徒に打ち勝っても、その時にはもうこの大地は全くの別物になっている可能性だってあり得る。
 使徒の襲来を含め、何もかもが変貌していくこの世界で、俺達は暑苦しい黒服を身に纏って街を行く。
 それも人類の存亡を賭けて戦う訳ではなく、その役目を押し付けた14才のガキ共を、逃げ出さないように見張る為に、だ。
 しかも、今日の仕事は少々趣が異なる。
 
 「よう、ガキの様子はどうだって?」
 
 既に車内で待機していた保坂は、椅子を倒して寝そべりながら、飛び交う無線を盗み聞きしていた。
 こいつも三日は家に帰っていない筈だが、外に出る時はしっかり髪を整え髭を剃り、これも半分義務となっているサングラスを嫌味無く着こなして、それこそ「力としての保安諜報部」の鑑として振る舞う。
 それ以外の時はマイペースさが目立つが気配りの聞く良い奴なのだが、これがいわゆる制服の力なのだろう。
 
 「おとなしいもんさ。直に口頭でクビを言われたのが効いたらしいな」
 「自分で家に引っ張り込んでおいて、酷いもんだよな。あの女も」
 「作戦司令の事か」
 「大体、ガキは自分で本部の施設に入ると言っていたんだろ?」
 「まあ、そうだな」
 「それで、一回の家出でお払い箱ってか…初号機はそいつしか操縦できないんじゃなかったのかよ」
 「何でも、次のパイロットが来る予定なんだそうだ。新型と一緒にな」
 「また、子供か」
 「俺達の所にまでは詳細は下りてこないが、噂じゃ子供じゃないと動かない条件があるらしい」
 「へえ」
 
 正直、子供に限定される理由も名目も、俺の頭では思いつかなかった。
 
 「大体よ、見た目だけなら使徒もあのエヴァも同じようなもんだと思うぜ」
 「ま、生体兵器だしな」
 「そういう事じゃねえよ」
 「…じゃ何だ?」

 突然、保坂の口調が露骨に変化した。
 同僚と言うよりむしろ対象に勧告を告げる時と同じ周波数で、どんな鈍い相手にも分かる壁のような拒絶の印だった。
 こんな時に、俺はコイツとの出身の差を地肌で感じてしまう。
 ネルフは基本的に海外の組織なのに、何故か俺達二人の編成は、俺が刑事時代に遠路はるばるお越し下さった本庁の刑事を「お世話」した時と同じだった。
 それでも、こいつは今まで付き合わされた手合いの中でもマシな方に属するのだが。

 「いや、気味が悪くて胡散臭いのがまんま同じだと思っただけさ」
 「…そうか。ならいい」

 俺は保坂の恫喝を、奴なりの気配りとして捉える事にしていた。
 この話題に触れ続けるとろくな目に遭わない、という警告としてだ。
 
 「もしかしたら、出ていった後のガキの監視も、俺達が出向してやらされる羽目になるかもな」
 「不満か?」
 「いや、仕事は別に嫌いじゃないさ。元々は俺のミスだしな」

 この手の不平漏らしがチンコロされるかは知らないが、予防線を張っておくに越したことはない。

 「ただ、この街からは離れたくないんだ。正直言って」
 「いいじゃないか。どこに行ったってやる仕事は同じだ」
 「使徒戦の巻き添えも食わずに済むってか」
 「それはどうだろうね。俺達の敵は使徒よりはずっと身近な連中で、しかもどこに潜んでいるか分からない」

 保坂がクーラー口の前に置いてあったコーヒーを寄越してきた。
 日差しはスモークガラスを貫いて、黒服に容赦なく熱を染みこませ続ける。
 時計を見るともうすぐ3時になろうとしていた。汚れた塗れ雑巾のような仕事が、もうすぐ近くに迫って来ている。

 「運転、今日はお前がやる番だな」
 「あぁ?お前運転席にいるんだからそのままでいいだろ」
 「野村、約束はちゃんと守れ」
 
 ウチの部署には公安の連中がかなり多く紛れていると聞くが、やはりこいつもそうだろうか。
 管轄の整理統合によって押し出された末にどうにか潜り込んだ、俺みたいな出来損ないの刑事上がりは珍しい存在なのかもしれない。
 交代で運転を担当するなんて口約束を律儀に守ろうとするのは、さすがに東大即海外組という事なのだろうか。
 
 まあ俺達の出身や所属がどうであれ、やるべき仕事は皆一緒、罪深き組織を中から見張る看守だ。
 
 監視対象をつけ回し、余程の危険が迫らない限りは、ただ観察して記録する事。
 対象はあらかじめ定められたランク以上の職員や、特に重要な役割や情報を担う人間とされる。
 当然、自分の立場をわきまえずにほっつき歩いたり、軽い気持ちで情報を漏らす奴は対象の中でも非常に厄介な部類に区分けされ、どういう訳か高ランクに分類される連中ばかりが、いわゆるブラックリストに入りがちになる。
 その中には赤城博士や葛城作戦司令、そして件のガキも含まれていた。
 ガキに関しては、別にどこかの組織に情報を漏らしている訳ではない。ただ自分の立場を認識していない行動が多すぎた。
 お陰で我が部署のフォローする範囲が当初の想定より遥かに大きくなり、俺のようなペーペーでも入り込める隙ができた訳だ。
 
 どうせ下っ端で出世の望みは低いが、やはり給料は良い。
 
 守秘義務さえ守って、終生まとわりつくであろう公安やネルフの監視の目さえ気にしなければ、2〜3年程度の稼ぎでもちょっとした額にはなる。
 そしてその頃には、使徒も全部始末できている筈である。仮に失敗しても皆死ぬだけである。
 一つの現実として、俺と同じ考え方をした「にわか地球防衛軍」はこの街に数多く巣喰っている。
 使徒が何よりも大事な仕事を供給している事態は、今や皮肉として語られる事すら控えられる明確な現実だ。
 
 使徒にバンザイ、国際公務員にバンザイという訳だ。
 
 「はいはい、分かりましたよ」
 
 缶コーヒーを一気に飲み干して外に出ると、例のごとく噎せ返るような蝉の大合唱に包まれる。
 外気と蝉の声を同時に浴びると気温以上の暑さを感じてしまうのは、もう諦めるしかない性癖となっていた。
 さっさと保坂と席を入れ替わり、公用車限定で認められているハイブリッドエンジンの起動スイッチを入れる。
 緩くアクセルを踏み込んで、不気味に居並ぶ黒車の列から抜け出していった。
 
 「しかし、あの少年も何だかんだ言って使徒を倒した訳だし、排除までする必要があるとは思えないが…」
 「俺は後になって英雄の正体が『あれ』だと聞いて怖くなったぜ。広報はここら辺の話、どうやって説明しているんだ?」
 「よくは知らないが、遠隔制御だとか、訓練した戦自隊員だとか、適当にごまかしているらしい」
 「マジかよ?そんな嘘臭い話、逆に不安を煽るだけじゃねーか」
 「広報は対応に問題なし、と言っていたがね。ま、一応は市民も落ち着くだろ」
 
 保坂はそう言うが、少なくとも俺の周りではそういう意見を聞いた事は無かった。

 「俺が交番の巡査していた時からよ、市民の皆様ってのは決して役人には感謝しないのが相場だったぜ」

 彼等は他にマシな土地がないから仕方なく住んでいるという愚痴ばかり垂れ流し、使徒を仕留めた嬉しさなど微塵も感じていなかった。
 そういう意味では、ネルフも戦自も俺達二人も、役人という永遠の市民の敵として捉えられる運命で繋がっているとも言えるのだろう。
 どんなに下っ端でも、役人は役人なのだ。

 「いたぞ、あれだ」
 
 仲間の黒服達に両脇を押さえられ、窮屈そうに一人の少年が佇んでいる。
 既にIDカードの破棄は終わっているのだろう、扱い方が完全に部外者に対するそれに変わっている。
 本人は至って無表情で、まるで自分の立場が他人事であるかのように平然としていた。
 現実から目を背けているというのが本当の所だろうが。
 
 「なあ、結局」
 「どうした?」
 「やっぱり俺が見逃した事が元凶になるのか」
 「…考えるな。もう尻拭いはしただろう」
 
 

*               *

 
 
 そう、そもそもは俺がこのガキの監視を怠ったのが始まりだった。
 
 
 学校で人間関係上のトラブルに遭い、二度目の使徒撃退の際にストレスを生じていたという報告は受けていた。
 条件を総合して考えれば、しがない刑事上がりの俺でも、脱走という事態は容易に予測できた筈である。
 
 それを妨げたのは、俺の油断と、碇シンジという人間に対する生理的な嫌悪だった。
 
 自分の立場もわきまえず、外の世界を見ようともせず、努力しようともせず、ただ臆病に引きこもる事にのみ興味を持つ。
 ほんの少し前は、誰もが自分を保つ事で精一杯で、他人を助ける暇などなかった。
 未来は自力で掴み取るしかなかった。怠った奴は死ぬしかなかった。
 それが、今ではこんな奴でものうのうと飯を食って生き延びられる。
 ガキとはいえ、こんな人間に世界を任せざるを得ない現実に我慢がならなかった。
 ハッキリ言えば気に食わなかった。
 そんな感情が、自ずと監視対象の行動から目を背け、侮るようになる原因となった。これは確かだ。
 本来なら、同居している作戦司令自身が負うべき責任なのかもしれないが、本人は監視としてではなく純然とした「同居」と考えていたらしく、最終的な責任の所在は俺と、組んでいた保坂にあるとされた。
 
 一度手を放れた獲物は街という森に紛れ、たとえ保安諜報部といえども、簡単に狩り出すという訳にはいかなくなる。
 
 元から行くあてもなく、趣味嗜好も判然としない14才の子供は、諜報部の予想するポイントを尽く外して放浪し、500人以上を動員した捜索網を無意識の内にすり抜けていった。
 意外にも、俺の仲間達はいわゆる『地ドリ』や『聞き込み』という、基本的な捜索技術には全く通じていなかったのだ。
 時間が経過すると共に、ガキ本人の身に危険が及ぶ可能性も増えていく。
 世界の帰趨を背負う貴重な人材が、万一歓楽街のチンピラに殺されでもしたら、冗談どころの話ではなくなる。
 結局、上司は警察と公安に泣きつき、生活安全課や少年係から捜査員を繰り出させたものの、奴等は奴等でマニュアル通りに不良少年グループや、ロータリーに居座る連中に聞いて回るばかりで、結果として欠片ほどの手がかりも得られなかった。
 
 その一方で、俺と保坂は失敗の責任を取る形で、何のサポートも与えられずに捜査員の中に放り出されていた。
 
 当然、諜報部の仲間からも警察からも相手にされず、本部以外の通信すら拒絶され、事実上二人で孤立したまま夜の街を彷徨う羽目になる。
 警察でもそうだが、この手の組織は時々こういう間接的な見せしめを罰として与える事がある。もっとも、それが自分に降りかかるとは思いも寄らなかったが。
 いずれにせよ、降りかかった災難は自分の力で振り払わなければならない。
 
 「…お前だけの責任じゃない。状況を把握できなかった俺も悪かった」
 
 旧市街、まだ警察が手を付けていない寂れた地域の片隅にある喫茶店。
 奴等のケツを追っていても無意味なのは分かっていたから、萎れきっていた保坂を連れてここまで来たのだ。
 
 「それはもう分かった。いいから食えよ」
 「いや、俺から何とか部長の方に進言してみる。処分は免れないかもしれないが」
 「そんな甘いやり方が通じる訳ないだろ」
 「…」
 
 少なからずショックを受けているらしく、言っている内容も、俺の反論にあっさり萎れる所も、全くいつもの保坂らしくなかった。
 目の前にあるミートソースは容赦のない冷房の攻撃を受けて、手を付けられないまま表面が乾燥しつつあった。
 
 「策はある。気落ちしないで今の内に食った方が良い」
 
 さすがに周囲の警戒心を煽るのでサングラスは外していたが、この猛暑に相変わらずの黒服とワイシャツで、どうしても場から浮いてしまう。
 まだ昼前で、結婚式や葬式で席を外せない時間帯である。
 そんな状況でボンゴレとサンドイッチを平らげた俺の姿はかなり奇異に映ったに違いない。
 
 「…いつになるか分からないが、警察が解決するのは時間の問題だろう。その時、俺達は体の良い晒し物さ」
 「晒されるのは嫌か?」
 「何だと?」
 「俺から見れば、勝者だって晒し物と同じさ。いずれにせよ注目を避ける事なんてできないだろ」
 「じゃあ、惨めに負けて晒されるのと、勝って頂点に登る事が、お前は同じだと言うのか!!」
 
 保坂が怒鳴る程動揺したのは、今までの所、この時一回きりだ。
 仕事前の水商売女と、手持ち無沙汰な店員達が一斉にこちらを振り向き、また何事も無かったかのように自分の世界に戻る。
 何となくこちらの素性を察知はしているらしかった。
 
 「だから、策はあると言っているだろ。勝手に一人で絶望しているよりは飯を食えよ」
 「お前にどんな工作ができるって言うんだ、俺だってもうどうしようも無いんだぞ…」
 「工作なんていらないね、俺達がガキを見つければいい。それで万事解決だ」
 
 俺の言葉を聞いた保坂は、途端に冷静な表情を取り戻して、真意を測るように睨み付けてきた。
 
 「からかっている訳じゃないだろうな」
 「この職場に生き残るのも競争なんだ。こんな事でクビになってたまるかよ」
 「たった2人で1000人態勢の捜査網を出し抜けると?」
 「数が揃っていてもバカはバカのままだ」
 
 策と言っても簡単な事だ。いつもガキの尻を追いかけ回していれば簡単に分かる。
 そもそもあの引き籠もりのガキが、日中街をうろつく手合いとつるむ可能性は無い。皆無と言っていい。
 むしろ、そういう連中を恐れ、避けながら、人が少なくかつ比較的生活環境が整った場所に辿り着くだろう。
 
 となれば、この旧市街の端などは格好の条件を備えていると言える。
 
 「だから、今の内に俺達だけでここを漁るんだ」
 「しかし、それはお前の勘であって、何の保証も明確な根拠もない話じゃないか」
 「現に、奴等はマニュアルに従って対象を見つけ出していない。だったら、逆らってでも可能性の高い方に行く選択は合理的とは言えないか?」
 「…」
 
 しばらく黙って俺の顔を見つめた保坂は、ようやくミートソースに手を伸ばした。
 光明を見いだした後の食いっぷりは、まるで人が変わったような激しさだった。
 
 「さしあたって、聞き込みの住んだ地域をひとつずつ潰して範囲を拡大する手法を使う」
 「…警察時代のやり方か」
 「まあな」
 
 セカンドインパクトで殆どが滅び去った、いわゆる昔ながらの方法だった。
 古くさいが、人捜しという仕事においては結局この方法に帰結してしまうから、幾らハイテクが進んでもこれが基本である事に変わりはない。
 もっとも、本庁は違っているらしく、だから未だに中央部を右往左往しているのだろう。
 
 「だからこの辺の商店名や居住登録の入った地形図が欲しいな」
 「部内の…DBから端末で落とせる筈だ…取り敢えず略図にして…携帯用にダウンサイズすればいい」
 「焦らないで食い終わってから喋れよ」
 「そんな話を聞いたからには…悠長になんてできないさ」
 「地形図をGPS対応にできるんなら、その辺は頼む。俺は先にこの辺から聞き込みを始めておく」
 「分かっ…た」

  
 今考えると、この時の俺は、久しく触れていなかった刑事の時間にどっぷりと浸り、自分の立場を見失っていた。
 
 少ない人数で捜査会議をでっち上げ、本来ならローラー作戦で当たる筈の広大な地域を、ヤマ勘とチームワークで潰していく。
 灰皿に溢れる煙草の山、仮眠する仲間達のイビキ、方針の違いから対立し合う怒号の応酬。
 旧世紀や第三新東京の警察のような硬直した組織ではなく、デタラメだけど速さと柔軟さに満ちていた組織。
 あそこでは、組織の手足となる事が本当に誇りであり、生き甲斐に思えた。
 例え、それがつまらない食料ドロの追跡であってもだ。
 
 今回の追跡の相手は世間知らずのクソガキだが、仮にも世界の未来を背負う人間である。これで燃えない訳がなかった。
 
 しかし、それで保坂の裏切りが容認できる筈もなかった。
 
 

*               *

 
 
 「あの、ミサトさんは?」
 
 身分証を廃棄した直後の言葉は、正直想像の域を超えたものだった。
 
 「何だ?」
 「その、せめてお別れを…」
 
 自分でも変な事を言っているのは分かっているのだろう、ただでさえ引っ込み思案な上に、申し訳なさそうな声で仕方なさそうに望みを訴えてきた。
 だが、当然こちらからの答えに選択肢はない。
 
 「君は既にネルフの人間ではない。どのような事も教えられない」
 「…そうですか。そうですね…」
 
 特に落胆する様子もなく、下を向いたまま車の後部座席に向かう。
 
 「待て」
 
 返事もなくガキが動きを止めた。
 
 「駅までこれを被って貰わなければならない」
 
 まるでKKKの処刑を連想させるような、趣味の悪い黒頭巾だった。
 
 「ここまでの道程はもう知っているのに…」
 
 表向きの黒頭巾の目的は分かっているようだった。
 
 「これは規則だ。君はただ被っていればいい。戦略上においてもこんな事は必要ない」
 
 黙っていても良かった事を、保坂はご丁寧に説明してみせた。
 何の事はない、これも俺達が喰らった「組織的見せしめ」の一種に他ならない。
 江戸時代の罪人よろしく、市中をこの格好で引き回そうという趣向である。
 もっとも、それなりにプライドのある奴には確かに一定の効果は望めるらしいが、このガキの場合、
 
 「…分かりました」
 
 これだけである。
 
 本部からの二人はここで帰り、俺達はガキを一人で後部座席に乗せて護送を開始する。
 木曜の昼間。道行く人々はまばらで、数少ない通行人も漆黒でバカでかい改造セダンには誰も目もくれない。
 国際機関というよりは、まるでヤクザの威圧感である。
 先程の黒頭巾も、実はこの威嚇効果のおかげで実質的に無意味になっていた。
 
 「結局、あの女も放りっぱなしか」
 
 俺の露骨な言葉に、保坂は後部座席との間の仕切りガラスを上げて、ガキとの空間を遮断した。
 当のガキは微動だにしない。表情も見えはしないが、多分変わってないだろう。
 無論逃走の可能性も能力も無い筈だ。
 
 「おい、幾ら何でも言い過ぎじゃないか」
 「どうでもいいだろ。もう用はないんだ」
 「…野村、前から気になっていたんだが」
 
 信号にさしかかり、ハイヤー並の丁寧さで車を止めてみせる。
 どこか遠くから、微妙に節の外れた演歌が聞こえてくる。最近有線で流行っているらしい、旧世紀のそれとは似ても似つかないエセ演歌だ。
 芸能関係は旧東京に人材が集中していたお陰で、ほとんど壊滅しているのが実状だった。
 
 「あの少年に何か恨みでもあるのか」
 「別に。単に気に食わないだけさ」
 「それをいちいち対象にぶつけてどうするんだ」
 「それは査定に関係するのか?」
 「何だと?」
 「お前はもう出世確定じゃないか。もう査定する側に回ったのか」
 
 

*               *

 
 
 飯を平らげた俺達は、ちょうど太陽が中天に達した酷暑の極みの最中、ガキの手がかりを求めて雑踏の中を走り回った。
 
 ビルに包囲されたチビた公園、喫茶店やコンビニ、地下鉄アーケード。
 そこに限らず風雨が凌げて食料が手に入りそうな場所に重点を絞り、従業員、あるいは失業者やホームレス達から話を聞いていく。
 現状では条件的に彼らとガキの間に大きな差は無いし、しかも仲間もいないとなれば行動範囲も一致しやすい。
 
 …と、耳障りの良い言葉をか重ねればいかにも利口な判断に聞こえるが、正直言って、俺にとってもこの断定は完全な賭けだった。
 
 保坂の言う通りで、このプランには何の保証も根拠もないし、ましてや旧市街と一言で言っても二人でカバーできるような狭い地域ではない。
 自分から始めておいて何だが、本当に無責任極まる無謀な作戦だった。
 
 それでも、そこしか道がないならやるしかない。
 
 曲がりなりにもネルフという、ある意味末期的な組織に属する人間として、最後まで希望を捨てない姿勢は貫きたかった。
 警察という本来の舞台から追い出された俺にとって、それこそが数少ない誇りだったのだから。
 
 「こちら保坂。旧西箱根二丁目三番のA、終了…」
 「了解…」
 
 携帯で行われるやりとりも自然と無機質になっていく。
 液晶画面上の地図が少しずつ赤く塗りつぶされ、同時に残りの空白地帯の広さに神経が麻痺していく。
 徒労という言葉は忘れなければならない。
 ひたすら白い地図を埋める事こそが愉悦と感じなければならない。
 汝の苦痛を愛せ。
 自虐ぶりではアメ公の海兵隊と何ら変わらない。
 
 
 一日目、予定していた分を終わらせた時にはもう日が昇り始め、ネオンの華も消えようとしていた。
 
 
 「何だ保坂、サウナは初めてか?」
 
 宿代わりに飛び込んだサウナ風呂で、どうにも保坂は要領を得ず、しどろもどろな対応に終始していた。
 それでも頑固に俺に助けを求めようとはしない。
 
 「来た事がない物は仕方ないだろう…」
 
 奴が受付の胡麻塩親父に丁寧に教授してもらう横で、俺は一足先に牛乳を飲みながらマッサージチェアに横たわった。
 このまま、ちょうど街の住民が出てくる頃合いまで3時間程の仮眠を取る。
 少ない時間で徹底的に休息を取るには、この方法が一番良い。
 適度にしなびた歓楽街で「サボる」秘訣が久々に役立った。
 
 
 二日目の朝、俺達は捜査範囲を駅周辺から街の外環周辺に移動させた。
 
 
 次第に歓楽街としての顔が薄れていき、いわゆる下町らしい古い家屋と、完全に忘れ去られた店舗などが幅を利かせるようになる。
 特に解体すらされずに遺っている水商売や小売店の廃墟は、惨めな印象だけでなく、住民、即ち聞き込み対象の少なさを物語っていた。
 その多くが、実はセカンドインパクトを無傷で生き残った家屋の筈である。
 第二新東京が機能する前までは、希少な生活のハブとして、人々に生存手段を与えてきたサバイバルの拠点となっていたのだ。
 もちろん、その中心には冷徹に地上を観察するゲヒルンが鎮座していたわけだが、
 奴等が地上の人々に支援を与えていた可能性は限りなく低い。
 
 結局、第三新東京としてここが生まれ変わる時には、この地域は半ば見捨てられた格好となった。
 
 あるいは追い出されなかっただけマシなのかも知れなかったが、戦闘形態時に中枢のように地下に収容されたり居住区のように倒壊時の保証が効く事もない。
 壊されれば中央に移住させられるか、見舞金を貰って余所に行くかしかない。
 あえて建物を壊さないのも、わざわざ金を払って解体するくらいなら使徒に代行してもらう腹づもりなのだ。
 
 「野村、そっちは商店街なんだからどうにかならないのか」
 「ダメだ。商店街全体が空家になっている」
 
 辛うじて「西箱根ルビー商店街」という文字が読みとれるアーケードの中は、見事に機能が消え去った完全な廃墟と化していた。
 暴走族や不良の落書きがあればまだ良いが、ここにはそれすら見あたらない。
 ただ浮浪者達が住み着いていた証として、雑多なゴミの山がそこかしこに築かれていたが、それすら食糧難から見捨てられたらしく、古さが際立っていた。
 
 「こりゃ生きている商店街を探る方が先だな」
 「そうだな。食料が手に入る地域を中心にして、そこから人間を捜そう」
 
 天候は曇りから雨へとシフトしようとしていた。
 一番厄介な直射日光が消えたのは良いとしても、車の中から聞き込みする訳にもいかず、やっと見つけたコンビニで傘と合羽を買った。
 「生き残り」の商店街はアーケードのお陰で人も多少はいたが、それ以外だとまず人を見つける事すら困難だった。
 そんな過疎地域ならあのガキも近づかない、という断定もできなくはなかったが、ここを除けばもう本当に山間部かその手前ぐらいしか対象地域が無くなってしまう。
 自慢のスーツは水浸しになり、ズボンの裾と靴が泥まみれになった。
 その内に直射日光がなくても、分厚い生地のお陰で蒸し暑くなってくる。
 考えてみれば、ダッシュで家に取って返して私服に着替えるという手もあった筈だ。
 今の今までそんな簡単な事も思いつかず、延々アスファルトの蒸し風呂を走ってきたと思うと、知らぬ間に刷り込まれた制服観念の強さに唖然となる。
 しかし、もうここまで来ると引き返す気にもならない。
 
 「こちら保坂。見つけたぞ」
 「どこだ?」
 「ファミリーストアの西中通店だ。昨日、見ない顔の学生が買い物していったらしい。店員に写真で確認した」
 「念の為に防犯ビデオもチェックする。そこで待ってろ!!」
 
 もちろん、これだけで安心する訳にはいかない。一日経てば最低でもまた10km程度は移動するだろうし、見当外れの方向に向かう事もある。
 だが、ここからは引き返さない限りは電車もバスもろく整備されていない。特にバスは山の方に向かう区間のものしかない。
 
 つまり、基本的にはガキがこの周辺に潜っている可能性は高いのだ。
 
 上書き寸前だった昨日のビデオから、間違いなくガキが生存している事実を確認した。
 相変わらず、笑いも泣きもしない無表情。
 無遠慮に事情を聞きたがるバイト学生と臆病な店主に散々脅し文句を吹き込み、俺達は聞き込みを再開した。
 
 「これで取り敢えず前進だな」
 「何言ってやがる。これからだ」
 
 ビデオに記されていた時間は昨日の午前十時頃。24時間以上の空白がある。まだ尻尾を掴んだとは言えない。
 特に今のような限定された捜査環境では、仲間も呼べない分事態は相変わらず逼迫していると言わざるを得ない。
 
 「それでも、俺達の方針が間違っていない証拠にはなっただろ」
 「じゃこれで満足して帰るか?」
 「…それは、無理だ」
 「分かったんなら行くぞ」
 
 一瞬、風雨を凌ぐ場所さえ確保できずに行き倒れになっているガキの姿が脳裏に浮かぶ。
 だがそれは身を案じて連想したものではなく、自分勝手で無計画な行動を取って俺達だけでなく人類全体を危機に陥れるガキへの憎悪が生んだ、ねじくれた願望だった。
 
 
 そして三日目、ついに暗雲に一筋の光明が差した。
 
 
 しなびた地下映画館の掃除オバチャンが、どう見ても中学生にしか見えない、明らかに場に不釣り合いな男の子を見ていたのだ。
 顔までは記憶していなかったが、風体や所持品がほぼ一致し、ベンチで夜を明かして行ったという事から、まずあのクソガキである事は間違い無い。
 更にそこを起点に聞き込みを繰り返し、最終的に街を抜け出して山の中へと入っていった所まで突き止めた。
 山の状況を見る限り遭難の可能性も限りなく低いので、後はもう時間の問題となる。
 何なら、まだ中枢で燻っている警察の下っ端をかき集めて、山狩りでもすればいい。
 そいつらを顎で使う役目をハゲ上司にやって貰えれば、積もり積もったストレスも発散して頂けるだろう。
 
 どうにかそこまで漕ぎ着けた所で満足し、一息つくために目に付いた喫茶店に立ち寄った。
 初日から缶コーヒーと煙草をエネルギーにして動いていた俺達には、450円のモーニングセットは天の恵みにも思えた。
 ホットケーキにかかっている蜂蜜を舐めると、生まれて初めて甘味の有り難さを痛感できた。
 少なくとも、これで責任は果たした。ヤニにまみれた無精髭を撫でながら、そう考えていた矢先に、
 
 「俺達だけで探さないか?」
 
 今まで俺の指示を素直に聞いていた保坂が、初めてゴネ始めた。
 例のごとく黒服サングラスのお陰で店内でも異常に目立つ中で、出来るだけ早く帰ろうとするつもりだった俺の耳には異常な提案に思えた。
 
 「マジかよ?装備もないし、俺達だけじゃさすがにこれ以上は…」
 「ここで帰ってもミスは帳消しにならない。ウチとしては警察や公安にデカい顔はさせたくはないだろうしな」
 
 言うまでもなく、保坂は基本的に上の意向に逆らうような奴じゃない。
 上意下達、絶対服従を絵に描いたような諜報員ぶりで、それを売りにして上からの高評価を得ていた。
 今回、場当たり的な俺の行動にに付き合ったのも、失地回復の為にやむなく取った選択の筈だ。
 この行為は明らかに越権行為か命令無視にあたり、いずれにせよ何らかの罰を喰らうのは間違いなかった。
 確実に成功しなければ、待っているのは無駄骨という現実である。
 
 「バカ言うなよ。ウチが泣きついたからには、現場で動き回る権利はポリ側に移行していると考えるのが筋じゃないか」
 「いや、それはあくまで不文律だ。現実に俺達の手でガキを見つけさえすれば、もう関係を持つ必要すら無くなる」
 「お前は、外国行っていたからこの国の組織を甘く見ているんだ。そんな理屈が…」
 「現に、俺達はここまで独走して成果を上げているじゃないか」
 
 言われてみれば、是非はともかくウチの上層部ならきっとそう考えるだろう。むしろこちらの方がより想像しやすい。
 第一、俺達はこの目でガキを確認した訳ではなく、あくまで可能性の段階の話でしかないのだ。
 それにしても、結果が出なければ今度こそ俺達はクビどころか重罪人扱いされるかもしれない。
 失敗は即ち、ガキの安否に関わる事態を意味していたからだ。
 
 「逆に、ここで格の違いみたいな物を見せつけてやりたいのが本音だろうしな。今なら手柄を売り込むチャンスになる」
 「手柄手柄ってなぁ、俺達小役人が細かい手柄なんて評価されるのかよ」
 「されるさ。むしろ使える駒が見極められなくて困っているのは上層部の方だ。違うか?」
 「そりゃ、まあ…」

 そんな説得を受ける内に、保坂の強引な提案が少しずつ俺の中で現実味を帯び始めていた。
 疲れていた事が、逆に後押ししていたのかも知れない。

 「ハッキリ言って、俺は出世したい。お前はお前でこの職場に残りたい。そうじゃないのか?」
 「…正直、俺的にはもうこれで充分なんだよ。自分のケツは自分で拭ったしな。俺的に」
 「職場で生き残る事も競争なんだろ?」

 無茶というか無謀というか、確かに汚名返上としては絶対のチャンスとは言え、まともな役人の神経で捻り出せる結論じゃない。
 つまりは、これこそが出世の鬼の姿なのだろう。
 

 その後散々難癖をつけて保坂の決心を崩そうと試みたが、結局、俺はこの提案に乗ってしまった。
 
 
 このまま奴一人で行かせて失敗しようが成功しようが、俺が割を喰うのは目に見えていた。
 仮に奴一人で行かせて俺が上にチンコロしても、残るのは屈辱感と、曲がりなりにも構築できていた信頼関係の完全な崩壊だけだろう。
 それに、どんな結果に至るにせよ、無難に済ませたいなら二人でいた方が良いに決まっている。
 成功も失敗も、分散して皆で分け合う。
 それが下っ端小役人流の「タンデム」なのだ。
 
 「しかし山狩りを二人でやるとなると…雨風を凌げる場所や、平坦な中腹、草原からアタリを付けるしかないか」
 「地形はともかく、小屋や休憩所まではDBの地図でもフォローはしていないな」
 「ああ、そこら辺は…」
 「勘、か」
 「…正直、それ以外に方法はない。難しいが」
 「それなら、お前はもうできているじゃないか。大丈夫。やれるさ」
 
 いかにも保坂らしい、空々しさに溢れた嘘臭い言葉に、場が凍った。
 
 「ここはお前が奢れ。先に行く」
 
 保坂の声を振り切りながら、こいつとの信頼云々など考えた自分に少し嫌気がさしてくる。
 
 だが、今更ここで下りる気など毛頭無い。
 
 自分から望んで高い壁に登ろうとするのは、もう職業病の域なのだと諦めていた。
 
 

*               *

 
 
 駅には思いも寄らない先客がいた。
 
 「碇、忘れ物や!!」
 
 バッグは随分と勢いよく放り投げられたが、ガキは似合わない反射の鋭さで見事に受け取って見せた。
 
 ガキの周辺関係者であり、元からCクラスの監視対象でもある、鈴原トウジ、相田ケンスケ。
 そもそも、この二人が全ての発端と言っても差し支えない所だったし、その後の通話記録を見た限りでも関係改善という気配はなかった。
 山中で接触を確認した相田ははともかく、鈴原がここにいる事は考えられないのだ。
 それが、学校をサボってまでしてここに来ている。
 
 「あの、ちょっといいですか?」
 
 バッグを抱きしめたガキが、さっきとは少し違う、生き生きとした視線でこちらを見つめている。
 保坂は少し俺の方を見て、選択権を譲る仕草を見せた。
 
 「…いいだろう」
 
 弾けたように二人の元へと走っていく。
 
 「野村」
 
 保坂は正面を向いたまま小声で話しかけてくる。
 俺は無視してサングラスを外し、3人の様子を見守る事にした。
 慣れたとは言え、離れた人間の表情や挙動を間断無く見張るには裸眼が一番だからだ。

 「野村、聞いているのか」
 「何だよ」
 「さっきとは随分態度が違うじゃないか」
 「返事を任せたのはそっちだろう」
 
 鈴原が、何やらガキに激しく言い募っている。
 表情を見る限り、責めているのではなく、むしろ逆のようだった。
 
 「何をやっているんだ?」
 「どうやら自分を殴れと言っているらしい」
 「何故だ」
 「何故って何が」
 「そんな事をさせる理由がどこにあるんだ」
 「お前、あいつらの監視報告読んでないのか?」
 「読んでいるが」
 
 静かな口調だったが、どうやら保坂は本気で理解できていないらしい。
 
 「それで分からないのか」
 「いや、理屈では理解できるが…ああいう行動を実際に取るというのは…」
 「あの鈴原ってのはそういう奴だろ。お前の対極にいる人間だろうな」
 
 じっと、保坂は3人を見つめて
 
 「…そうか」
 
 何故か寂しそうに呟いた。
 
 鈴原の熱意に押されたガキは、結局言われた通りに顔を殴る事に同意した。
 バッグを置き、勢いだけが強い、ぎこちないモーションで拳を繰り出す。
 実際喰らってどれだけ痛いのかは疑問だが、それでも鈴原は大袈裟によろめいて見せた。
 戸惑い、どうしていいのか分からないガキと、殴られて笑う鈴原。
 
 
 自然に自分の口元が弛むのが分かった。
 
 ふと見ると、保坂も笑っている。
 
 青臭いと言うにはあまりに極端な、しかし短時間で誠意を伝えるには最適な方法だった。
 
 
 「俺達、こんなガキ共に振り回されていたんだな…」
 
 不思議と以前のようなストレスは感じなかった。
 これで最後だという事もあるが、初めてこのガキの人間らしい側面を見られたからかもしれない。
 俺の中での碇シンジは、自分で動かず、かといって甘える事も出来ない、希薄で腹立たしい人間だった。
 端的に言って、何も知らず何の力も持っていなかった、かつての自分と同じだった。
 
 「気にするな。失う物も縋る物もない人間が捨て身で逃げ出して、そう簡単に見つけられる訳がない」
 「もうどうでもいいさ。それもこれで終わりだし」
 「…だといいがな」
 「何だと?」
 
 鈴原と相田が喋る間、ガキは黙って話を聞いている。
 少しずつ時間の限界が迫ってきているが、何も言えないようだ。
 今、ガキの脳味噌の中を想像するのは容易い。
 他人と自分の距離が思っていたよりも近かった事に驚いているのだろう。
 そうやって人間は、お互いに関係を構築していく。
 あるいは、こんな他人との接触は初めての体験なのかもしれない。
 
 だが、気付くのが遅すぎた。
 
 胸ポケにしまったサングラスを装備して、俺はまた一介の公僕へと戻っていく。
 
 「時間だ」
 
 相変わらず二人に何も言い返せないガキの肩を掴み、別れの路へと引っ立てた。
 最終目的地である駅舎は、最新鋭を誇る電車本体とは対照的に、朽ちかけた旧世紀の姿のまま何の改築も施されていなかった。
 記念碑的という訳でもなく、ただ何となく遺されているに過ぎない。
 誰もいない階段は、まるで断頭台へと続くそれのように無意味に細長くて薄暗かった。
 左右を固めつつ、俺達は律儀に足並みを揃えて一段ずつ上っていく。
 ガキは人形さながらにただ従うだけで、その腕は年相応の連中に比べても細くひ弱だった。
 この先、ネルフがどんな手でこのガキの代わりを仕立てるのかは分からない。
 能力がどれだけ低かろうとも、貴重なエヴァのパイロットが消えるのは損失である事に変わりなかった。
 追い払った所で監視を継続させるのは同じだから、手間は減るどころか増えるばかりだろう。
 
 それでも、これは組織が決定した既定事項だ。
 
 俺達は命令すら貰えない立場からは脱却できたが、命令に従う以外の選択肢を失った。
 自分の意志で動く権利もなく、明らかに間違った方針に楯突く事もできない。
 
 だが、それが俺の望んだ道じゃないのか?
 
 「おい、待て!!」
 
 保坂の声で、ようやくガキが俺達の手を振り払って逃げ出した事に気付いた。
 家出の時と同じく、完全に俺の油断をついた行動だった。
 だが、今更逃げるべき根拠も宛先もありはしない。一体何の為の逃走なのか。
 いずれにせよ、再び見失いでもしたら今度こそ完全にアウトになる。
 そう思って、階段を下りる寸前で大人げなく猛然と掴みかかって動きを止めたが、
 
 「殴られなきゃならないのは僕だ!!」
 
 思わぬ言葉とその勢いに、俺達も強引に引きずり込む事に躊躇した。
 ガキの身体を挟んで保坂が俺の顔を窺うが、そのまま様子を見るように首を振って合図した。
 
 「僕は卑怯で…臆病で…」
 
 その通りだ、と腹の中でツッコミを入れた。
 
 「ずるくて…弱虫で…」
 
 最後の方は言葉にならなかったようだが、案の定、言いたい事を全部吐き出すと、もう抵抗はしなくなった。
 そして、それが全ての限界でもあった。
 
 「いい加減にしないか」
 
 今度こそ、ガキを力ずくで構内に引っ張っていく。
 
 泣いていても、差し出すハンカチなど俺達は持っていなかった。
 
 

*               *

 
 
 駅員すらいないホームの上で、ガキは一人俯いている。
 
 永遠に続く真夏の日光に晒されてながら、微動だにせず自分の運命を呪っているのかもしれない。
 駅の中には入れない例の二人も、俺達と同じく道路から様子を伺う他に術を持っていなかった。
 
 「何で、総司令は最後に一人にするよう指示したんだろうな」
 
 ハイブリッドエンジンを冷房維持モードでアイドリングさせたまま、俺達は冷房の繭に包まれた車内でガキを観察していた。
 さっきまでの奮闘ぶりと矛盾するようだが、本当の所、俺達の名目上の任務は既にここで終わっている。
 正確に言えば、『碇シンジのネルフ除籍と、第三新東京市から退去するにあたる意思の確認』が任務だった。
 その上で、赤城博士経由で『電車に乗る意思決定は碇シンジ単独で行わせるよう』通告を受けていたのだ。
 早い話、ホームまで連れて行った後は放っておけ、という事だ。
 赤城博士といえば、保安諜報部発足以前から碇総司令との仲が知られていたから、暗黙の内にその指示は総司令のものと判断する事になっていた。
 
 従って、ホーム上でガキが電車を待っている時点で俺達の任務は9割方終了という事になる。
 後は、高見の見物で結末を見送ればいいだけだ。
 
 「さあな。形だけでも自分の意思で帰らせた方がダメ押しにはなるだろうし、そんな所だろ」

 常識的に考えれば、ここでまた翻って帰ってくる事などあり得ない。
 それこそ、ガキの行動パターンに照らし合わせれば、100%ここを出ていくだろう。
 
 「なあ、もう電車に乗ったって報告して帰ろうぜ」
 「馬鹿を言うなよ」
 
 思わず、欠伸が漏れる。展開の見え透いたサスペンスを無理矢理見せられているようだ。
 
 「よう、まさか、保安諜報部全体で図っているんじゃないだろうな」
 「図る?」
 「ここでどっかの組織が出てきてガキをかっ攫うなんて無しだぞ」
 「馬鹿馬鹿しい、そんな事をして何の意味がある」
 「さあね。どっかの国に向けて送る人身御供にはなるだろうし、その責任は俺に押し付ければ何の問題も残らない。用無しのガキを始末するにはうってつけの方法だと思わないか」
 「…何が言いたい」
 「色々だ」
 
 デジタル無線のコールが鳴り、保坂が俺より一瞬速くレシーバーを攫った。
 俺は二本目の缶コーヒーを開けて、暇潰しに対応できる程度に飲み崩し始める。
 思ったより電車が遅れているらしく、全く動かずに俯き続けるガキも相当辛くなっている筈である。
 平日の昼間、確かに人は少ないだろうが、この空白は少し異常に感じられた。
 
 「何の連絡だった」
 「本部からだ。勤務中の作戦司令が事前連絡なしに車で外出したらしい」
 「…で、例のごとく対応が遅れて」
 「警護の車は間に合わなかった。現在単独で表に出ている状態だ」
 「まあ、脱走という可能性はまず無いだろうから」
 「ここに向かっていると考えて差し支えないだろうな」
 「女ってヤダねぇ、今更未練出してどうするんだか」
 
 蝉の鳴き声。
 
 しぶとく居座り続ける相田と鈴原。
 
 俺達はフロントガラスの向こうを見たまま向かい合おうともしない。
 
 「…確かに、」
 「ん?」
 「あの時、先に見つけたのはお前だ」
 「そうだな」
 「相田ケンスケと接触しているのを確認して、夜明けを待ってから、本部への通報無しで、俺達だけの手で連れ戻すと決めた」
 「それで、お前は何をした?」
 「お前が寝ている隙に本部に連絡を入れて、迎えのヘリを呼んだ」
   
 俺は何もしない。それ以上の言葉も重ねない。ただ黙ってガキを見つめ続ける。
 
 
 「…見つけたのは俺だと部長に申告した」
 
 
 フロントグラスに映った保坂が、俺の方に向き直った。
 
 「だがな、俺とお前と、手柄を上手く生かせるのはどっちだ」
 
 はらわた煮えくり返っていたが、それでも俺は断じて動かなかった。
 とうとう堪えきれずに、保坂の方が先に俺に掴みかかってくる。
 胸倉を掴まれ、狭い車内で正面から相対する為に、無理矢理身体を奴の方に向けさせられた。
 
 「言いたいのはそれだけか。保坂」
 「俺が、ただ自分の為にあんな真似をしたと思っているのか?」
 「普通そう思うだろ」
 
 間近で見たサングラスの内側は、プレスで量産鍛造したような冷たい表情があった。
 
 「それなら言わせて貰うが、お前こそ、警察に戻るつもりだったんじゃないのか」
 「…」
 「俺達の独力でガキを連れ戻す行為は、一見警察のメンツを潰すようにも見えるが、実は組織としてのネルフをコケにしているとも捉えられる」
 「山の中でガキを探すと言い出したのはお前の方じゃねーか」
 「見つけた後に独力で引っ張っていくと言ったのは誰だ。お前は、自分の力を見せつけて警察に戻ろうとしていたんじゃないのか!!」
 
 実の所、このひねくれた読みも半分は当たっていた。
 
 違っていたのは、副職どうこうよりも、ハゲ上司と警察の両方の鼻をあかしたいという極めて原始的な動機がメインだった事だ。
 その為には、何としても俺自身の手で目に見える形で、自分のミスを取り返さなくてはいけない。
 運が良ければ現職場におけるより確実な安泰か、警察への復帰も考えられたが、下手をすれば元も子も無くす可能性もあり得た。
 要するに、保坂と俺は純粋な意味で同じ穴の狢であり、裏切りだけが僅かな隔たりでしかないのだ。
 更に冷静に考えれば、横取りした点を除けば保坂の取った方法が一番正しいのであり、最後まで独断を通そうとした俺がバカなのだ。
 もっとも、そういう基本原理の違いをコイツが理解してくれるとはとても思えないから、口に出すつもりは全くないのだが。
 
 「仮にそうだとして、テメーのやった真似の言い訳になるのかよ」
 「俺はな、お前の力を借りたいんだ」
 「何だと?」
 
 少々、こちらが想像していなかった妙な方向に話が傾きつつあった。
 同時に、俺の中での保坂宣之という人間像が趣の違った形へと更新されていく。
 自分の為なら「容赦なく人を見捨てる世間知らず」から、「容赦なく利用しようとする世間知らず」へ。
 
 「その為には、出世する条件を備えた俺が手柄を取って、お前をサルベージする方が手っ取り早いだろう」
 「そんな話、誰が信じると思って…」
 「まあ聞け。この先、今回と似たような騒動は必ず起きる。少なくともその可能性は高い。否定する奴はいないだろう」
 
 そりゃ、今度は作戦司令閣下が無断外出するくらいだから、警戒は強めるだろう。
 
 「俺はこの事件と成果を利用して、保安諜報部内に確たる監視専門部署を確立するよう提言する」
 「そういう景気の良い話は、頼むからよそでやってくれ。俺には関係ない」
 「お前が、その現場責任者になるんだ」
 
 コイツは誇大妄想主義者として上書きした方がいいのかもしれない。
 
 「縁があったら是非そうさせてもらうよ。暑いからもう座れ。この話は終わりだ」
 「いいから聞け。俺達が実証したように、今の保安諜報部の対人捜索能力はガタガタだ。おまけに警察とのパイプも薄いから、捜査協力を依頼しても本気で手伝う気もない」
 「奴等も探す分には手を抜かないさ」
 「じゃ、何故俺達だけで見つけたものを、数百人がかりで見つけられなかったんだ?」
 
 これも保坂の意見が正しかった。
 本当に警察がその気ならば、俺のやった捜査方針を何十、何百倍もの人員で行って、容易く見つけられた事だろう。
 今回のミスはタカをくくっていたのが真相だろうが、例えば国賓の行方不明等と比べれば、その真剣さの差は歴然としている。
 機密保持でガキの正体を明かせない事もあるだろうが、状況を全て把握しない、もしくは把握させてくれない警察には、ネルフの為に本気を出す筋合いは感じていないだろう。
 
 「お前が望むなら、それ以上の肩書きを背負わせる事もしない。約束する」
 「勝手に一人で話を進めるな」
 「いや、もう俺一人の話じゃない」
 
 そこではたと考えて、俺は恐ろしい結論を導き出した。
 感情が抑えきれないくらいに膨れあがり、今度は俺の方が保坂に手を出す。
 胸倉どころではなく、髪の毛を掴んで後頭部をパワーウインドに叩き付けた。
 
 「貴様、もうあのハゲに上申しやがったな!何が『これから提言する』だ!だからテメェは信用できないんだ!!」
 
 もし俺の推理が現実なら、もう辞退するのは不可能に近くなる。
 止めるにはコイツから否定の言葉を出させるしかない。
 
 「まだ部門設立の話までだ!お前の名前は出していない!!」
 
 意外と、こちらから力押しすると崩れるのは早かった。
 もしかすると、これが保安諜報部全体の本質なのかもしれない。ふとそんな気がした。
 
 「じゃあ、尚更俺には関係ない。お前の言った通りに警察に戻らせて貰う」
 
 弱った所を、更にもう一回叩き付けてダメ押しを加えた。
 
 「そんな事して…どうなる?お前の能力を、本当に生かせるのは…ここじゃないのか?」
 
 完全に制圧されている状態のくせに、保坂は生意気な言葉を返してくる。
 掴んでいた髪の毛を解放し、万が一の反撃を喰らわないように素早く席に戻った。
 
 「今のお前は、まるであの少年みたいだ。現実から目を背けて、過去にしがみついているだけだ」
 
 勝手に言っていろ。
 
 「その上あの子には、縋る過去すらない。お前よりも立場は苦しいんだぞ」
 
 そんな事俺が知るか。
  
 「現実から逃げ回っている限り、お前が彼を馬鹿にする資格はないんじゃないのか?」
 
 こんな下らない話は早い所終わりにしてしまいたかったが、こいつの性格から考えて、適当に打ち切っても後に引きずるに決まっていた。
 何か、一発で結論を決められるネタをぶつけて、納得させなければならない。
 
 「…そこまで言うなら、賭けるか。お前の好きなあのクソガキを使って」
 
 信号灯が赤になり、間もなく電車が入るであろうホームを指差す。
 
 「賭けだって?」
 「俺はあのガキがここから出ていく方に賭ける。お前は逆。お前が勝ったら、その話考えてやる」
 「…」
 「どうした、俺とあいつが同じだっていうなら、今後を決めるに相応しい存在じゃないか?」
 
 自分で言うのも何だが、これは最高の切り返しだった。
 ここまで言い切った手前、保坂は俺の提案を頭から否定する訳にもいかない。
 事はあくまで個人的な応酬にすぎないから、たかが賭けでもそれで決着すればケリはつく。要は「興味がない」以外の理由さえあれば良いのだ。
 
 そして言うまでもなく、賭の勝利はほぼ俺の手中にある。
 
 「…いいだろう。それでこちらも構わない」
 
 腹を括ったのか、意外にも保坂はすんなり俺の提案を受け入れた。
 
 「おいおい、分かっているのか?あいつが踏み止まる可能性なんて、万に一つもないんだぞ」
 「どうせ、あの子がいなくなれば俺の提案の必要性自体が怪しくなる。だったら同じ事だ」
  
 笑いながら冷やかす俺に、保坂は淡々と言い返す。本気だった。
 
 「俺はあの少年に賭ける。そもそも、エヴァに乗せていた時点で、俺達は無謀な賭けにベットしていたんだ。その延長線上にすぎん」
 「あのガキに限って言えば、使徒よりも人間の方が不得手と思うがね」
 
 そして、とうとう運命を運ぶ担い手、新東京高速鉄道の下り列車が、山間部のカーブを抜けて姿を現した。
 
 ボロ駅舎とは明らかに不釣り合いなハイテクの塊は、ブレーキの際に出る僅かな静電音のみを散らしてホームへと近づいてくる。
 遠目で見る限り、電車の方も駅同様人影が無く、ガキの周辺一帯は完全な空虚に包まれていた。
 俺は心変わりを呼ぶ余計な要素が無く好都合だと勝手に考えていたが、実の所、この時のガキの頭の中は全く想像できなかった。
 俺達を下界のように見下ろせる空虚なホームの上で、奴は何を考えていたのか。
 
 「お前は逃げると言ったけどな、今いるこの場から移動する事が、必ずしも逃避となるとは限らないんだぞ」
 
 保坂は何も言わずガキを見ている。
 
 「新しい自分を作る為に、場所と環境を変える必要だってあるんだ」
 
 列車がホームを完全に覆い隠したのと同時に、猛スピードでこちらに突っ込んでくる青いルノーがバックミラーに映った。
 見間違えようのない、本部から抜け出してきた作戦司令の車だった。
 だが、肝心のガキは既に乗車している筈で、恐らく彼女は顔すら拝めないだろう。
 
 「あのガキがそういう道を選んだなら、俺達に介入する資格なんざないんだよ」
 
 車が止まり、女が出てくるが、もう声を掛けるには遅すぎた。
 ゆっくりと、ガキの未来を乗せた列車がこの呪われた地を離れていく…筈だった。
 
 
 
 賭けは、俺の負けだった。
 
 
 
 見事なまでの完敗だった。
 忌々しいクソガキは、そのままホームに残っていたのだ。
 
 完全に予想を覆された俺は、腹を立てるより先に拍子抜けしてしまい、女とガキが見合ったまま立ち続けている事にもしばらく気づかなかった。
 
 「まあ、浮かぶ瀬もあれって奴だな」
 
 保坂の言葉はいまいち理解不能だったが、じっと動かない二人を見ている内に、直面している現実が腹の底にストン、と収まっていくのを感じた。
 俺は策士と言える程のタマではないが、正に自分自身の策に破れ、更に運命も決定づけてしまった。
 まさか、自分で言い出した条件を覆す訳にもいかない。
 
 「おい、何か喋っているみたいだぞ、あの二人」
 
 今となっては、何の為にあのガキを徹底的に貶めようとしたのかすら思い出せなかった。
 
 「…知るかよ」
 
 実際、碇シンジが本当に自分の意志だけで残留を希望したのかは、第三者たる俺達にはまず分析不可能だろう。
 もしかしたら、本人も分かっていないのではないだろうか。
 ただ非選択という選択肢に歩を進めた結果として、どうしようもなく立ちつくしていただけなのかもしれない。
 だが、いずれにせよ、奴が俺の想像の枠から大きく外れている人間だったという事実に変わりはなかった。
 それが正負どちらのベクトルに向かっているかは判然としないが。
 
 「で、どうする?」
 「どうするって…約束は守るさ」
 「『考える』としか言っていないだろう。どうしても嫌ならそれでもいい。嫌がる人間を組織に入れてもストレスにしかならないからな」
 
 俺はデジタル無線のレシーバーを取り、本部に繋いだ。
 フロントガラスの向こうでは女とガキが連れ立って車に乗ろうとしている。
 
 「こちら外機03、本部応答願います」
 「…外機03どうぞ」
 「本部から離脱した対象S3とD16を捕捉。これより帰還する模様。指示を仰ぐ」
 「…S3とD16は同行動か。確認どうぞ」
 「両対象とも帰還する可能性が高い。D16は残留する意思を確定させた。どうぞ」
 「…本部了解。予定通り現時点からD16をS8に復帰、外機03にあっては護衛任務に当たれ」
 「外機03了解」
 
 丁度ルノーはエンジンモーターを起こして発車しようとする所だった。
 鈴原と相田は事情を飲み込めず、呆気に取られてこちらを見ていたが、どうも女やガキからは存在自体を忘れられているらしい。
 可哀想だが、この熱気の中を歩くなり自転車なりで戻って貰うしかないだろう。
 
 「いいのか、本当に」
 
 しつこく保坂が念を押してくる。
 仕方のない事だろうが、この種の手合いは無条件降伏して見せても、かえって疑われるばかりで話が進まない。
 適当に我が侭言ってやるのが親切だった。
 
 「俺の能力が生かせる組織にしろ。それが条件だ」
 「分かっている」
 「適当に仕上がったら俺より使える奴を入れて地盤を固めろ」
 「言われなくてもそのつもりだよ」
 「じゃあそれでいいさ」
 
 所詮、俺はお偉い方々の命令に従って人のケツを追いかけ回す事しか能がない。
 それなら、せめてできるだけ良い飼い主を選ぶまでだ。
 
 「それによ、ここまで来たらやっぱり気になるんだよ。どうしても」
 「何の話だ?」
 「あのガキがこんな選択したんなら、そこからどうなるのか俺は最後まで見ておきたいんだよ」
 
 ルノーがこれ見よがしに俺達の黒車の前を通り過ぎていく。
 彼女なら見ただけで一般車との識別くらいはできる筈だった。忌々しいが付いてこい、という意味だろう。
  
 俺はサイドブレーキを下ろし、ゆっくり駐車場を抜け出た。
 
 「付き合ってやるさ、最後にどうなるか見届けるまでな」
 
 買い物帰りらしい二人の主婦の側を急加速で駆け抜ける。
 スモークグラスで黒塗りの車が相手では悪態を吐く事もできないらしく、黙って後ずさって顔を見合わせるだけだった。
 
 (完)  
 


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