KISS YOU

第三部:HERE IS OUR STREET!!

第一話:幸福論

斉東 深月

「・・・・でねぇ、言ってやったワケよ、びしっと。『傷の舐め合いって、お互いの傷が見えてないと、できないんですよね』ってさ。したらあのオバハンこめかみに血管立たせて固まってやんの。ぎゃははははは」
「・・・・・・・・・・・はぁ・・・・・・・・・・・・」
そう応えながら、どうしてこんな話をしているのか、シンジには全く判らなかった。



溯ること、その日の夕方、シンジは買い物袋を片手に家路を辿っていた。
部屋の前まで来ると、ドアの前に人影があった。
アスカ?一瞬だけそう思った。が、瞬時に打ち消す。そのシルエットはアスカよりいくらか高く、何より空港で別れてからまだ1ヶ月しか経っていない。アスカがここにいるわけがないのだ。
しかし、改めて思い知ったことがひとつ。

「逢いたい」

そんな想いが日ごとに募っていく自分。
そう感じる自分が強いとか、弱いとか、そういう次元の話ではない。アスカのいない日常、アスカを感じられない日常をいうものが、どうにも色褪せた、味気のないものに思えるのだ。

とにかくその人影は、近づくシンジを見て、片手を上げて「や、どーも」と挨拶になってないような挨拶をした。
その声でシンジには判る。
「敷島さんじゃないですか。どうしました?」
「いや、まぁ、近くまで来たもんでさ。うん。ちょっと」
要領を得ない話しようが、このひとの常であろうことを、何となく悟る。
「はぁ・・・じゃあ、まぁ、上がってください」
用件は未だ判らないが、断る理由は、シンジにはなかった。

部屋に入った敷島は、何かを探すような視線をひと巡りさせた。
「何ですか?」その視線の硬さに、シンジの声もいくらか強張る。
「んー?別にー」眼差しとはあまりに落差のある間延びした返事。
判らないままに、無理矢理シンジが納得しようとしたとき、敷島の身体が動いた。
残像すら残さぬ素早さで、部屋の反対側まで歩を詰めると、机の上にある写真立てをひったくるようにして手に取る。
瞬間、シンジは敷島の意図を察知したが、すでに時遅く、彼女は写真を舐めるように見詰めている。
背中を向けたままの敷島が、肩越しにシンジを見やる。
その眼を、その眼つきをシンジは良く知っている。かつての同居人が自分を玩具にしたときの視線にそっくりだ。
これからさんざん嬲りものにされるであろう自分を想像し、シンジは戦慄した。
が、敷島は、にやぁっと、音を立てて笑って、
「やるねぇ、少年」
と、言うのみにとどめた。

彼女の手にある写真。
それは、こちらを向いて微笑んでいる、アスカの姿だった。



「いやぁ、こないだぁ姉さんいいモン見せてもらったわぁ。衆人環視の中で人目も憚らずにぶっちゅうぅ〜だもんねぇ。しかもふっかぁいのを。眼福眼福。ひゃひゃひゃひゃ」
部屋に入って30分と経っていないのに、敷島はきっちり出来上がっていた。
持って来たボンベイ・サファイヤを、淡々を呑み続ける。
無理に呑まされて、余りのキツさにひとくちで止めたシンジだが、その蒼いボトルの色は綺麗だと思った。
肴はない。あえて言うなら、シンジの告白を肴にしている格好だ。
シンジとて、話したくて話しているのではない。それなりに『ふたりだけの思い出』とやらいったものに、暖かい感触を味わってもいるのだ。
が、遺伝子に刻まれてでもいるのだろうか、もともと押しが弱い上に、どうもシンジには年上の女性に逆らいがたい一面がある。結局洗いざらい白状する羽目になった。

せめて理由が知りたくて、「どうしてそんなこと聞きたいんですか?」と訊いたところ、
「報告書にして、葛城本部長に売る」
という返答が返ってきた。
どうしようもなく物悲しい理由ではあるが、それが敷島の動機の半分にもなっていないことは、その妙に生き生きした瞳が語っている。

初めて出会ったときのことから始まって、どういうところで、どんなデートをしただとか、誕生日にはどんなプレゼントを贈った贈られただとかいう話を一通り喋らされたときには、すでに1時間以上が過ぎ、ボトルはほとんど空になっていた。
「ありゃ。もうなくなっちゃったかぁ」
「買ってきましょうか?」反射的に口にしてしまう。
「あー、いい。もういらない」ふらふらと手を振る。
「はぁ」
「そろそろ本題に入りたいし、ね」
「本題?」
「ん、本題」煙草に火を点けながら、敷島は言う。
「何ですか?」
「どして君、アスカと寝ないの?」
吐き出す紫煙と同じくらい、あっさりと敷島は言ってのけた。

「・・・・・・・・・・・はい?」
たっぷり1分使った、シンジのその返事は、何も敷島の言葉が理解できないからではない。
何故、そんなことを訊くのか、判らなかったのだ。
だから、思ったそのままを口にした。
「あの、どうしてそんなことを?」
「質問に質問で返さないでよ」余裕ありげな笑みではあるが、眼には険がある。
「簡単に口にするようなことじゃないですよ」
「知ってる」
「だったら何故訊くんですか?」
「君がどうするつもりか、知りたいのよ。少なくとも、アスカは、抱かれたいって思ってる」
「知ってます」
「付き合い始めてもう3年目だっけか?で、まだシテないのよねぇ。うーん、清い。清いなぁ」
戸惑うシンジをよそに感慨に耽る敷島。『ひょっとして酔っ払ってんじゃないかな、このひと?』とシンジが思ったりすると、計ったように真顔になって言う。
「でもね、それじゃあ、いつか壊れるよ。そりゃもうぐっちゃぐちゃに」
「経験あるんですか?」あまりに断定的な口調だったためか、シンジはそう思った。
「まっさかぁ。昔の知り合いがそれでこじれたのを見てただけ。『セックスレス』なんで気取った風に言ってたけど、結局は自分のイタいトコいじくられるのが嫌なだけよ。大抵は」
「そういうものなんですか、やっぱり」最後の『やっぱり』が余計なひとことだと気付いたのは言った後だ。これでは白状したも同然である。
「あ、きみもそのクチ?」
「その、どっちかと言うと・・・」
「まぁ、コマかい理由は訊かないけど、今後もそんな感じで?」
「いや・・・その・・・」歯切れが悪くなる。
「それとも、踏ん切りついた?」
「ええ・・・抱いてみようと、思います」
そう言いきったシンジの顔は、確かに決意の色を湛えていた。

「・・・いいなぁ・・・」
似合いもしないと判っていながら、指を咥える仕種で敷島が呟く。
本気で羨ましいと思った。アスカが。
男に、特にシンジのような押しの弱い男に、こんな顔をさせるというのは、女の本懐これに過ぎる、と、敷島は信じている。
そんな風に思うから、敷島の中の女が蠢く。蠢いてしまう。
売約済みの男に対して、こんなになってしまうのは、初めてかも知れない。
そんな風に思うから。

「でも・・・そこまで言いきってるのに、躊躇してるきみは、何?」
『訊かないけど』って言ったのに。
訊いてしまった。そんなつもり、なかったのに。
さっきまでは。
そう、ついさっきまでは。

「・・・昔、なんですけど」
どんな雰囲気に呑まれたのか、シンジはぽそりと口を開く。
「アスカと一緒に暮らしてました。ミサトさんも一緒だったんです。その頃に、隣りで寝てるアスカにキスしようとしました。今でも後悔してます」
「どうして?」
「だって、その頃は、アスカのこと、好きじゃなかったんですよ?ただ目の前で薄着で寝てて、それで・・・何て言うか、ざわざわして・・・」
「つい出来心、って?」
「もっと酷いことだってしました。辛いことばっかりで、アスカに慰めて欲しくて、いつもみたいに『バカシンジ!』って言ってくれるだけで良かったのに、アスカの躰を見て、酷いことしました」
語るシンジの声が震えている。いや、身体ごと。
「そういう人間なんだなって、最低な奴なんだなって、そのとき思いました。自分の欲望を押さえ切れないと、どんな酷いことだってやってしまうんだなって」
「だから?」
「だから・・・押さえてないといけないなって、思ってたんです。ずっと」

「恐いんだ。流されるのが?」言いながら、2センチ。
「えぇ」
「今でも?」さらに1センチ。
「はい。今でも」
「流されて、踏みにじって、奪うだけ奪って、痛い思いさせて」
「それが嫌なんですよ」
シンジは苛立つ。一応の折り合いを付けたとは言え、面と向かって言われると、自分の選択を糾弾されているような気分になる。
だから、気付かない。敷島が少しづつ間を詰めていることに。
「本当に、それだけのことなの?」
「え?」
「男と女が躰を交わすって、さ。それだけのことだと、思ってる?」
一気に5センチ。ここで初めて、シンジは、敷島との距離が詰まっていることに気付いた。
「他に、何があるんですか?」
さすがにシンジにも判った。空気が違ってきている。自分と敷島との間の空気。
密度が、違うのだ。
「知りたい?」
重くはない。でも、蜜のような質感。ちょっとだけ、ぺとっとした肌触り。
「は、い」知ってる。この空気は良く知ってる。
「教えて、あげようか?」
そのひとことで、さらに密度を増した、その空気は、
アスカと、キスをする前の空気。

ふたりの距離は、ふたりのくちびるの距離は、
もう10センチしか、ない。

「お、しえ、る、って、あの・・・」
至近距離で見る敷島の顔は、シンジには余程違って見える。
化粧気がないと思っていたのに、くちびるには奇妙な艶がある。
「確かめてみれば、良いのさ」
少年のような口をきいて、小さく笑う。シンジの知っている、冷笑すれすれの皮肉じみた笑みではない。
「こんな、風に、ね」
そのくちびるに惹き込まれるような錯覚を覚える。実際は、10センチが4センチになっただけ。
もう敷島自身、自分が何をやっているのか、判らなくなっている。
いや、判ってはいるのだ。
自分の躰が、もう判っている。腹の奥の湿度が、また上がった。

シンジは動けない。拒絶できるほどのゆとりもない。
混乱している。
どうして?いつの間にこんなに近くにくちびるが?こんなに柔らかそうで、赤くて、どうして?これは、何?キス?キスなの?近づいてて、少し開いて、キス、を、この、ひ、と、と?気持ち、よさそ、う、だよ?して、も、いいって、いってる、よ?するんだ。あぁ、このひとと、きす、を、するん、だ。あ、あす、か、じゃ、ない、ひとと、あすか、と、じゃない、のに・・・!
「アスカ!」
およそ聞いたことのないような大声で、シンジが叫んだ。
それは、祈りだった。神というものを信じていない少年の。
頼るものといえば、今ここにいない少女しかいない少年の。
再び自分に、世界を見せてくれた少女への、祈りだった。
その声は、たった今まで、そこにあったはずの空気を切り裂いて、澱んでいた何かを吹き払った。
そうして、その余韻も消えないうちに、
電話が、鳴った。

「あれ・・・あはっ、何、やってたんだろ、あたし」
ようやく何かを取り戻した敷島が、居心地悪そうに言う。
「何、って、その」
「出なくて良いの?電話」
「あ、そうですね」
言い終わる前に、留守番電話に切り替わる。
ピィー「はい、碇です。只今留守に『ちょっとシンジ!いないの?』
瞬間、弾かれたように、いや、弾かれるより速く、シンジが電話に飛びつく。
「アスカ!!」
さっきより更に声が大きい。ほとんど咆哮に近いほどに。
「あ、何だ、いるじゃない。どうしたの?」
「アスカ!アスカなんだね!」
「声聞きゃ判るじゃない。それとも、もう忘れちゃった?」
「ううん。そんなことない。ないよ、アスカ」
「そうでしょうね」
シンジの反応が面白いのか、くくっと喉を鳴らすように笑う。
「どうしたのアスカ?ずっと電話なかったのに。何かあったのアスカ?」
「あぁ、仕事片づけたんで、来週、帰るから」
アスカの放った大陸間弾道弾は、太平洋を越えて、シンジの耳元で炸裂した。

順調に行っても2ヶ月、行かなければ天井知らずの仕事を、1ヶ月で終わらせるのに、アスカは何処のなに神の力を借りたわけでもなかった。
朝は誰よりも早くオフィスに現われ、関連する14のセクションから報告を受け、指示を飛ばし、関連企業と連絡を取り、会議に出席し、部下を励まし、叱り、更迭し、昇進させ、首を切り飛ばし、臨時ボーナスをバラまき、「遅い!」と(文字どおり)尻を蹴り上げて、日を過ごし、夜は夜で、睡眠時間を削って、報告書や資料に目を通し、翌朝には問題点を指摘しつつ再提出を命じ、決済し、また会議に出席し、進行の遅さに激怒し、ポインターを振り回して強引に裁決を取り・・・とにかく二宮尊徳の銅像も裸足で逃げ出す勤労精神を発揮して、強引かつ完璧に世界規模のプロジェクトを完遂させた。
ちなみに、その間のアスカの平均睡眠時間は3時間21分。採った食事の86%は片手で食べられるもの(当然、空いたもう片方の手は仕事中)。アスカの配下のうち、昇進した者7名。他企業から引き抜かれた者17名。解雇者11名。左遷された者24名。重傷者1名(アスカに対するセクハラが原因)。軽傷者8名ということだった。
後日、その報告を受けた赤木統括部長は、
「これなら、北京にいるミサトを向かわせた方がまだ良かった」
と、慨嘆したそうである。

「・・・帰る・・・って、あの、それって、日本に戻ってくるってこと?アスカ」
「それ以外の何に聞こえた?」アスカの声は、笑いを堪えるように震えている。
「ほんとに?いつ?いつなのアスカ?」
「だから来週だって言ったじゃない。火曜日の夕方、5時くらいに着くかな」
慌てて、今日が何曜日かを思い出す。金曜日だ。
「あと、4日。4日したら、逢えるんだね、アスカ」
「そ。出迎えよろしく。じゃねっ」
「うん。待ってる。アスカ、待ってるから」

電話を切ったシンジの背中に向けて、敷島の声がかかる。
「帰って来るんだ。良かったじゃない」
ほんの3分前まで、シンジのくちびるを本気で奪おうとしていた人間の台詞ではない。
「聞いてたんですか?」
「聞くも何も、電話口で言ってる内容だけで、知れるってば。で、いつ頃?」
「来週だそうです」
「ふぅん。じゃあ、本部にも連絡入ってるかな」
取り出した携帯電話で、本部に連絡してみる。
「あ、マヤさんスか?敷島です。あの、そっちの方に、アスカから連絡来てませんか?終わったとか、帰るとか?・・・は?はぁ、そうなんスか。え?いや、別にそういうんじゃなくて。えぇ。ちょっと気になっただけス。はい。・・・んじゃ」
電話を切って、シンジを見る。何か含みありそうな目つきをしている。シンジには内容は判らない。
「喜べ、少年」妙に邪悪な笑みを浮かべて言う。
「は?」
「アスカが帰ることは、まだ本部も知らないって、さ」
「あの、それ、どういう・・・」
「つまりだなぁ、アスカは、仕事片づけて、本部に連絡する前にだなぁ、キミんトコに電話したってことなの」
「え?」
「いやぁ、ニクいねぇ。見せ付けるねぇ。やってくれちゃうねぇ。お姉さんアテられちゃったぁ」
「え?え?」
「何か、ひとり身には辛くなってきちゃったから、帰るわ」
「え?え?え?」
まだ、ことの意味を咀嚼できていないシンジをそのままに、敷島は立ち上がる。
玄関で靴を履きながら、背中越しにシンジに声をかける。
「そうそう、ここで問題です」
「え?え?え?え?」
「さっきの電話。きみ、何回『アスカ』って言ったと思う?」
「え?え?え?え?え?」
「2分で10回だよ、少年」
心底、面白そうに言うと、「お邪魔さまぁ」と言い足して、そのまま出ていった。



引っ掻き回すだけ引っ掻き回された後、ひとり部屋に残されたシンジだが、その脳裏から、敷島のくちびるの艶がどうだとかいうことは、もうすっかり消え去っていた。

深呼吸をひとつ。
それで、いくらか落ち着いて、改めて考えてみる。
アスカが帰って来る。
そのことを、誰より先に自分に知らせてくれた。
知らせてくれたんだ!
誰よりも先に!
ようやくその事実を実感する。咀嚼に時間がかかった分、彼の体内を走り抜けた何かは、大きかった。
「・・・アスカ・・・」
ここにはいない、その名を呼ぶと、内側の何かがより確かに感じられる。
その感覚を、抱きしめるかのように、両腕を自分の身体に回す。
「・・・帰って来るんだね、アスカ・・・」
もう一度呼ぶ。
今夜は、気持ち良く眠れそうな気がした。



もう人気も随分減った通りを、敷島は、ひょこひょこした足取りで歩いていた。
酔った千鳥足というものではない。常からこうなのだ。
思い出したように、ふうっと、溜息を吐く。
全くどうかしてる。と、いうのが、彼女の感慨。
あそこまで見境というものをなくしたのは、そう記憶にない。
「・・・溜まってんのかなぁ・・・」
慎みのないことを、慎みのない口調で呟きつつ、敷島は煙草に火を点ける。
紫煙と共に吐き出したのは、『あたしも、あぁいうの、見つけなきゃなぁ』という、述懐だった。

<つづく>


549という数字

お待たせしすぎて、自分が書いてることすら忘れそうになったサイトヲデス。
何をどう言っても、この間空けすぎな状況をどうにかできそうにないノデ、どうこう言いませんケド、この549という数字、妙デスネ。一体いかなる数字なんでしょう?などと問い掛ける必要もなく、単位として「日」という文字を後にくっつけたら、だいたいお判りいただけるかと思いマス。

今回、アスカの出番からきしデスガ、こんだけブランク置いて、再開していきなりふたりがヤッてたら、それはそれで何か嫌デス。オーガスみたいで<古すぎ。
とはいえ、シンジひとりでブツブツ言ってるさまを延々書き連ねるというのは、もっと嫌なノデ、便利屋の敷島を使いマシタ。もう用済みデス。後は4部で1回程度出番があるくらいで。

今後は・・・さすがに549日も空けマセン・・・多分・・・。
もともとゆっくりやってこうと思ってたのデスガ、ほんとにゆっくり書いてしまうのと、あと、生命の危機をヒシヒシと感じるノデ、もうちょっと早く書いてこうと思ってマス。生きてる間に第5部まで終わらせたいしネ!シャレんなってネェヨ!<シャレにしている状況でもありません。

とにかく、また、次に。

20000816:ラヴ!潰れた空缶を正視できない弱さに!



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