Collector

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	 蝶が、好きだ。

	 他の虫にはないその美しさ、はかなさが好きだ。

	 だから、僕は蝶を採った。

	 たくさん。

	 でも、しょせんは虫だ。いくら大切に飼ったところで、やがて力
	尽きてあっという間に死んでしまう。

	 死んだ蝶は、干からびたただの虫の残骸だ。

	 美しくない。

	 かつての姿を思い出して、そのはかなさに、少し悲しくなるが、
	それもつかの間……。

	 そんなことを繰り返すうち、僕は、蝶を標本にするようになっ
	た。

	 標本になって、羽を広げた姿でとまっているように見える蝶は、
	美しい。そして、その美しさは、永遠のものだ。

	 薬品で処理してあるから、干からびることもない。

	 ガラスケースの中に、ピンで留められて並ぶ、自然が生んだ美の
	結晶。

	 僕は永遠に美しい蝶を手に入れたことに気づいたとき、とても嬉
	しかった。

	 失われることのない美しさ。

	 素晴らしいことじゃないか。


	 なのに、僕の自慢の標本を見せてこの話をしたとき、彼女は最
	初、とても不思議そうな顔をして僕を見た。『こんなことをして、
	何が面白いの?』と。

	 そして僕が、どうにか彼女に蝶の素晴らしさを理解してもらおう
	と、説明すればするほど、こちらを見る目に浮かべた、何か……と
	ても汚いものを見るような色を濃くしていった。

	 ……結局、彼女は、僕のことを何ひとつ、理解してくれようとは
	しなかった。僕を拒絶したのだ。

	 そしてそのまま、僕と彼女の関係は、予期せぬ突然の幕切れを迎
	えてしまった。


	 そう……まだ彼女のことを、きちんと説明していなかった。

	 まず、そのこと──僕の、永遠にとり戻せない彼女との時間のこ
	とを、話しておかなければいけないだろう。


	              *


	 僕が彼女を最初に見たのは、駅のホームだった。

	 そのころの僕は、大学を卒業後、小さなOA機器販売会社に就職
	し、ソフト部門に配属されて、つまらない事務計算のソフトをプロ
	グラミングする毎日の繰り返しだった。

	「つまらない」とはいったものの、就職難の時代でもあったし、そ
	の会社の居心地自体、そう悪いものでもなかったから、この選択は
	間違いではなかったろうと思う。

	 それに、別にこれといって他にしたい仕事もなかったのだ。

	 何より、危うく就職浪人するところだった僕を見かねて、この会
	社に面接する機会をとり計らってくれた、大学の先輩への恩義を考
	えれば、贅沢なことを言うと罰が当たろうというものだ……。

	 ……そう考えていた矢先、当の伊吹先輩──今は夫の姓に変わっ
	たから『青葉先輩』と呼ぶのが正しいのだろうか──が、僕が仕事
	に慣れるのを見計らったかのように、そのころ出入りしていたメー
	カーの営業マンと結婚して退職してしまった。

	 もしかしたら、最初からそのつもりで僕に親切にしてくれたのか
	もしれないし、あるいはただの偶然に過ぎなかったのかもしれな
	い。

	「男と女は、ロジックじゃないもの」

	 伊吹さんの送別会で、僕にそうつぶやいた赤城主任──この人も
	女性で、伊吹さんと僕の先輩にあたる。ちなみに独身の美人だ──
	のひとことと、その真っ赤な唇が、今でも妙に印象に残っている。


	 そう、ロジックじゃない。


	 その日も僕は、通勤のために電車を待っていた。

	 その僕の横を、彼女が走り抜けた。

	 ラベンダーの香りがした。

	 彼女は僕の待っているのとは反対側の、扉の閉じかけた車両に駆
	け込もうとして、僕の肩に軽くぶつかった。

	 別に僕は不快にも思わなかったし──そんなに強く当たったわけ
	じゃない。よくあることだ──彼女はそのまま乗り込むものだと
	思ったのだけれど、律義に僕のほうを向いて「失礼」と謝った。

	 その彼女の背中で無情にもドアは閉まり、電車は発車してしまっ
	た。

	 彼女は電車のほうを向いて、二・三歩追いかけようとしたもの
	の、すぐに思いとどまったようで、

	「あ〜、もう。信じられない。午前中の講義、落とすと後がないっ
	てのに。しょうがない、タクシー代、奮発するか」

	 などと言うが早いか、来たときの階段へと走り去ってしまった。

	 そのときには、そんな彼女のいきおいのよさと、容姿の落差に驚
	いたものだ。

	 彼女の見た目は、どう見ても外国人──やや赤みがかった金髪
	と、吸い込まれそうな蒼い瞳が印象的だった──なのに、しぐさや
	話し振りはまるで日本人そのものだったのだから。

	 これは、後で知ったことなのだが、彼女はドイツとアメリカと日
	本人のクォーター、ということだった。

	 精神的には、まったくネイティブの日本人、というのもおかしな
	言い方かもしれないが。

	 何か気の利いたひとことを返す間もなく、彼女が走り去ってし
	まっても、僕はしばらくその階段のほうを向いたまま、ひたすら立
	ち尽くしていた。


	 なんとなく大学に入って、卒業し、特に思うこともなく就職
	し……別段したいこともなく、好きだった蝶の収集も前ほど積極的
	にはなれなくなっていた僕が、それでも何か、ずっと捜し求めてい
	たものが、そのとき見つかった……そんな気がしていた。


	 その日以来僕は、駅のホームで彼女の姿を追い求めるようになっ
	ていた。

	 五回に一回くらいは、彼女の姿を見つけることができた。

	 彼女はとても目を惹く存在だったから、同じ時間帯にホームにい
	れば、簡単に見つけることができた。

	 逆に彼女から見たら僕は、電車を待つ多くの人々の一人という情
	景の中に溶け込んでしまっていて、密かに見つめていることに気づ
	かれることすらなかっただろう。

	 それで、十分満足だった。

	 そう、ある『きっかけ』が、僕に訪れるまでは。


	              *


	 その『きっかけ』のひとつは、父の死だった。

	 僕は、幼いころに母を亡くした。だから、母の記憶はほとんどな
	い。

	 その母の死以来、父は手がけていた事業に、ますます没頭するよ
	うになった……らしい。肉親のことを「らしい」というのも、変な
	言い方だが、これも後から聞いた話だからだ。

	 母が亡くなったことすら、僕の記憶には印象の薄いことなので、
	それ以前の父がどんな人であったかなどということは、よくわから
	ない。こう言えば、理解してもらえるだろうか。

	 ……だから、僕の物心ついたときから父は仕事一筋で、めったに
	顔を会わせたこともないない人だった。

	 中学生のころの進路相談の時期に担任から、『父兄の方と三者面
	談をするから、連絡するように』と言われて、父の職場に電話した
	ことがあった。

	「そういった件は、家庭教師に一任してある。私は忙しい。切る
	ぞ」

	 それだけだった。

	 そんな父が、死んだ。

	 仕事で出かけた、海外での飛行機事故だった。

	 父は親戚の少ない人だったので、その葬儀は、ほとんど仕事関係
	の参列者のみといってよいものだったから、僕にとってそれは、何
	か作り物じみたセレモニーにしか見えなかったし、さほど悲しくも
	思えなかった。

	 僕に父の訃報を知らせてくれて、葬儀のとり仕切りなど一切の面
	倒ごとを引き受けてくれたのは、父の唯一の友人で、事業でもパー
	トナーでもあった、弁護士の冬月さんだった。

	 もっとも、冬月さんの言葉を借りれば「自分は雇われの名誉職で
	しかない」ということだったが。

	 その冬月さんから、父の遺言状を預かっている、と聞いたのは、
	初七日の法要が済んだころだっただろうか。

	 父の直筆で書かれたその内容は、


	1.父に万一のことがあった場合、事業はその組織ごと売却し、清
	算後に残った利益は、彼の個人資産とあわせて、息子である僕に相
	続する。

	2.組織の売却先の選定と金額面の交渉および、売却益に対する課
	税と相続税他の税務処理、僕に相続された金銭・証券等の運用は、
	顧問弁護士たる冬月氏に一任する。

	3.冬月弁護士への報酬は、父の死亡保険金および、その後の僕の
	資産委託運用益の一部より支払うものとし、報酬額は、年一回交渉
	の上、別途契約更新することとする。


	 というものだった。

	 僕は父の生前から、その事業に関与する気はまったくなかったの
	で、この遺言内容は、ありがたいことだった。物心がついてからは
	じめて、父に感謝した。

	 父の死後数ヶ月経って、冬月さんから職場に電話があった。

	 遺産相続の件で、僕の承認が必要、とのことだった。

	 呼び出された冬月さんの事務所の応接室で、いくつか形式的な事
	務手続きを済ませた後に見せられたのが、僕が相続できる父の遺産
	の目録だった。

	 そこには、事業組織を売却した結果の金額と、いくつかの不動
	産・証券類などが明記されていた。

	 冬月さんは、自分が受けとった報酬に対して、売却手続き後に
	残った金額があまり芳しくない成果であったことを、しきりに申し
	訳ながっていた。自分にもう少し──父のような、商才があれば、
	と。

	 だが僕には、見せられた金額が自分の経済観念を逸脱したもの
	だったので、目の前の実直そうな老弁護士が、何をそんなに申し訳
	なく思っているのかピンとこなかった。

	 とにかく、僕は今後、働かなくても生活に困ることはないくらい
	の資産を、手にしたことは、間違いなかった。


	              *


	 実質的にはその必要がなくなってしまったとはいえ、父の死後も
	僕は、以前からの会社勤めを続けていた。

	 そうしたほうがいい、という冬月さんのアドバイスもあったし、
	何より僕自身、そうしていたかった──皆と普通の接点を持ち続け
	ていたかったからだ。

	 それに、通勤を理由に、コンスタントに彼女を見かける機会が得
	られる、ということもまた、大きな理由のひとつだったろうと思
	う。

	 もうひとつの『きっかけ』があったその日も、だから僕は通勤の
	ために、駅のホームにいた。

	 その日は、運良く彼女を見つけることができた。

	 彼女は、はじめて僕がその姿を見た日と同じように、僕の利用す
	るのとは反対側のホームから、電車に乗り込もうとしていた。そし
	てそのときも、発車間際に慌てて下りようとした、マナーの悪い客
	にぶつかって、かばんを落として危うく乗り遅れそうになってい
	た。

	 僕はそんな彼女の一挙手一投足を、内心はらはらしながらも、そ
	の姿がが多くの乗客にまぎれるまで、見守っていた。

	 ホームの中央のベンチの側に、パスケースが落ちていることにふ
	と気がづいたのは、彼女を含めた多くの乗客を飲み込んだ電車が走
	り去り、僕の待つ側のホームに案内放送が流れたときだった。

	 僕は、誰も気に留めないそれに近づいて拾い上げ、中を確かめ
	た。

	 そう、世の中には、こんな偶然もあるものなのだ。

	 そのパスケースの中身は、彼女の学生証だった。

	 僕はその日、駅から『風邪をひいた』と電話して会社を休み、そ
	のまま部屋に帰って一日中、この出来事が僕にとってどんな意味を
	もたらすのか、と思案に明け暮れた。

	 真っ先に思ったのは、明日以降、駅で会ったときに彼女に声をか
	けて、素直にこれを返してあげることだった。

	 彼女は間違いなく困っているだろうから、それで十分喜ばれるだ
	ろう。なけなしの勇気をふるって誘えば、お茶くらいならつき合っ
	てくれるかもしれない。

	 でも、その先は?

	 きっと、これまでとさして変わらないだろう。駅で会ったらあい
	さつくらいはしてくれるかもしれないが、それ以上には僕を特別に
	見てくれはしない。

	 そう思えるのも、今まで僕とほんの少しでも関わりのあった女の
	人は、皆そうだったからだ。

	 矛盾したもの言いに聞こえるかもしれないが、実は僕という人間
	は、女性に打ち解けてもらいやすいタイプなのだということに、今
	でもかなりの確信をもっている。

	 たとえば、僕を今の職場に誘ってくれた(旧姓)伊吹先輩が在職
	していたころ、なにかにつけて親身に僕の面倒を見てくれていたこ
	ともあげられる。そのころ彼女にはすでに、青葉さんという本命の
	人がいたにもかかわらず、だ。

	 それに、今は上司の赤城主任が、その役を引き継いでくれてい
	る。

	 だから僕は、同僚の男性社員が影で伊吹先輩や赤城主任の問題あ
	る側面──多くの場合は『OLの腰掛け仕事』とか、『オールドミ
	スはひがみやすくて困る』といった中傷──について僕に同意を求
	めてきたときには、いつも対処に困ったものだった。

	 彼らは、先輩や主任のある一面しか見ていない──見る機会を与
	えられていなかったわけだ。

	 もちろん、先輩や主任が僕を──性的な意味で──男性として特
	別に扱っていた、ということではない。

	 実際はむしろその逆だった。

	「あなた、友達とか知り合いの数を数えると、女性のほうがずっと
	多くない?」

	 たまたま職場の仲間内での酒の席で、ほろ酔いの伊吹先輩に言わ
	れた言葉だ。図星だった。そう答えると、なぜか伊吹さんは大喜び
	していた。自分のにらんだとおりだと。

	 そのときは、よくわからずに笑ってごまかした──正直、あまり
	愉快な気分ではなかったが、今となっては、伊吹さんの言葉の意味
	も、自分が愉快でなかった理由も、よく理解できる。

	 つまり、僕はまわりの女の人にとって男性として意識されない、
	ということなのだ。

	 それならば……。

	 最初の思いつきを却下した僕の頭に、何かが引っかかった。

	 だが、それが何なのか、すぐには思い至らなかった。

	 しばらくの間、僕は自分の記憶の引き出しの中身を、片っ端から
	とり出して、今ひらめいたものに一致する内容を探すことに夢中に
	なった。

	 彼女の学生証。身分証明書。身元。それをもとにできるこ
	と……調べること。何を?……彼女がどういう人なのかを。どう
	やって?……僕にはできない。やり方がわからない。ならば……そ
	れを知る人に頼むというのはどうだ?誰に?……専門家に。そう、
	雇われて人を調べる専門家がいる。探偵、興信所……どこかでそん
	な文字を見た。あれは……たしか、父の遺産目録。冬月さんのとこ
	ろで見た……念のため、と写しをくれたはずだ。あのときは、必要
	ないと思って、すぐにどこかにしまい込んだのだったが……。

	 ようやく僕は、とりあえず何をすべきか、目的を見つけた。

	 今度は本当に、引き出しの中身を、片っ端からとり出して目的の
	用紙を探しはじめた。見つけようと思うと、なかなか出てこない。
	気があせる。

	 見つからない。

	 机と本棚の引き出しを一とおり探しきってしまうと、もう一度そ
	れらを引っ張り出し、今度は中身を床にぶちまけて、引っ掻き回し
	た。

	 ない。

	 あきらめかけて、絨毯に這いつくばったまましばし呆然とし、冬
	月さんに改めて、写しをもらうことにしようかと思いかけた。その
	とき、部屋の隅に立てかけてあった蝶の図鑑の隙間から、見覚えの
	ある色のA四サイズの封筒──冬月さんの事務所名が印刷されたや
	つだ──がのぞいているのを見つけた。

	 思い出した。あの日、帰りに書店で買った図鑑を先に開いて、そ
	のまま……。

	 僕は、立ち上がるのももどかしく、赤ん坊のようにひざで這い
	ずって、図鑑が立てかけてある隅に寄った。

	 封筒の口をほとんど引きさくようにして、中の紙をとり出した。

	 旧式のワープロで箇条書きされた、かつての父の存在の証がそこ
	にあった。

	 未売却物件等の項を順に追ってゆく。

	 不動産の部。

	 ……そう言えば、折りからの不景気のせいか、都市部の商用地以
	外の物件は、未だ買い手がついていないものがいくつかある、と冬
	月さんが言っていたのを思い出した。

	『とくに、信州にひとつ別荘が売れ残っている件は、維持管理のた
	めの人件費もばかにならないから、早目に結論を出すべきですな』

	 いずれは、僕に──市価よりもずっと落ちる価格での売却を──
	決断して欲しい、ということだった。その時点では、あいまいにし
	か答えられなかったが。

	 ……とにかく、これは今は関係ないものだ。

	 証券・債権の部。違う。

	 法人の部──引きとり手のなかった会社など。これだ。

	 そこに、「加持興信所」の文字を見つけた。ここに載っている、
	ということは形式上、僕がオーナーである、ということだ。

	 なぜ、父の事業がこんな組織をその傘下に組み入れていたのか、
	それが疑問でありながら、冬月さんには聞きそびれてしまってい
	た。それでこの名を記憶していたのだ。それも、今となってはどう
	てもよいことだが。

	 住所も、そう遠くない。電話番号も載っている。

	 僕は漠然とした思いつきが、次第に自分の頭の中で形になってく
	るのを実感していた。





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