Collector

- 2 -
 












	 調べた電話番号にかけてみると、生真面目そうな女性の声が応対

	した。所長は今、仕事で出ております、と。



	 僕は名乗り、所長に会いたい旨を伝えた。



	 すると電話の向こうで、少し息を呑むような間があり、次にほん

	の微かではあるが、緊張を増した声が、答えた。



	「今、調査中であれば、すぐには難しいかもしれませんが、呼び出

	してみますので、いったん電話を切ってお待ちいただけますか?」





	 十分くらいして、電話が鳴った。



	 男の声だった。



	「どうも、加持です。オーナーから直々にご連絡があったと聞い

	て、慌てましたよ。いや、先代にはお世話になりっぱなしだったの

	に、あいにくと葬儀の前後には海外出張してましてね。不義理をし

	まして。その、言葉もありません」



	 男は、受話器の向こうに、にやけた笑いが見えそうな声で、とて

	も額面どおりには受けとれない口上を、よどみなく言ってのけた。



	「そんなことは、別に気にしてませんから」



	 それしか答えられなかった。事実、そのとおりなのだが。



	「で、ご用件は?」



	 口調に若干の真摯さが加わった。案外、ふざけてよいときをわき

	まえている男ではあるようだ。



	「仕事を頼みたいんです。もちろん、正規の料金はお支払いしま

	す」



	 僕は単刀直入に言った。



	「そういうことでしたら、日を変えて、直に話をうかがいましょ

	う。実は今とり込み中でしてね。いやなに、依頼者の奥様が、今一

	汗かき終えて、お帰りあそばすところなもので……と、これはこっ

	ちの話。お会いするのは明日、ということで。時間は、追ってこち

	らからもう一度ご連絡差し上げます。場所は私のオフィスをご存知

	ですね?……お、出てきた出てきた。それでは、そういうこと

	で……」



	 浮気調査の現場の張り込み中に、携帯電話からでもかけてきたも

	のだろうか。ひょっとしたら電話と反対側の耳では、盗聴機でもモ

	ニターしながら、こちらと会話していたのかもしれない。



	 僕は電話の向こうの情景を想像してみたが、自分には探偵の真似

	ごとすらできそうにない、という確信が強まっただけだった。





	 翌日、後に加持が指定してきた時刻──午後六時──の五分前

	に、僕は事務所の入った雑居ビルの入り口に着いた。



	 正面入り口のガラス戸は、薄汚れて中の様子はうかがいにくかっ

	た。自動ドアかと思ってしばらくその前で立っていたが、何の反応

	もなかった。



	 押してみると、そのまま開いた。



	 玄関ホールというには狭い入り口の空間の、入ってすぐ左に、テ

	ナント案内のプレートがあった。五階建てのそのビルの、奇数階に

	しか店子はいないようで、他の階の枠のアクリルプレートは、抜き

	とられていた。



	 案内プレートの下に並ぶ郵便受けのひとつに、一週間分以上もの

	新聞や郵便物が差さりきらずにこぼれ落ちているものがあった。名

	前を見ると、五階のテナントのものだった。



	 加持の事務所は、三階の枠に収まった白地のプレートに、手書き

	の黒マーカーでその名が記入されていた。



	 エレベータを使おうかと思ったが、階数表示のランプが消えてい

	たので、試す気にもなれず、その横の階段へと向かった。



	 薄暗い照明の、やけに足音が響く階段を三階分まで上りきると、

	短い廊下の左右に都合三つのドアがあった。もうひとつ、突き当た

	りに防火ドアがあり、その上の非常灯がやけに明るく見えた。



	 目的の事務所は、左手──二つのドアがある側の奥だった。



	 加持興信所、と、こちらはちゃんとしたデザインのプレートが、

	ドアにとりつけてあった。



	 そのすぐ下ををノックしてみた。二回。



	 ドア越しのせいか、少しくぐもった女性の声で「どうぞ」と招か

	れた。



	 中に入ると、正面に小さな事務所用のカウンターがあって、その

	すぐ後ろの事務机に、入り口を右手に見る形で女性が一人、座って

	いた。



	 その女性は、肩で受話器をはさみ、机上のノートパソコンを操作

	しながら電話の相手と、何やらせわしなさそうにやりとりしてい

	た。ちら、とこちらを見ると、目顔で入り口左のソファーを、僕に

	勧めた。



	 腰掛けながら、見るともなく事務所の様子を眺めると、奥にやや

	幅広の机が見えた。様々な書類が山積みになっている。おそらくは

	興信所長──加持の席なのだろう。



	 ブラインドがつるされた奥の窓を背に、入り口に正対する向きに

	配置されたその席の主は、現在不在のようだ。



	 腕時計は、ちょうど約束の時刻を指していた。





	              *





	 ドアが開き、背が高く、ぼさぼさ頭で、あごに無精ひげの目立つ

	中年の男が入ってきて、加持と名乗った。僕が待ちはじめてから、

	壁の時計の長針がきっかり四分の一周した後だった。



	「おいおい困るじゃないか、洞木君。少し遅れるから、オーナーの

	お相手をよろしくって、くれぐれも頼んでおいたのに。お茶も出さ

	ずに……どうも済みませんねぇ。この様子だと、私が遅れるってこ

	と自体、お伝えしてなかったようですね」



	 言葉の前半分は、加持が戻ってくるとほぼ同時に、電話の用件が

	終わったらしい女性──洞木さんに、後のほうは、僕に向けられた

	ものだ。



	「済みません。トウジ……鈴原が、ドジ踏んだみたいで、巻かれ

	たっていうもんですから。目標の足取りを発信機から割り出し直し

	て、もう一度補足させるのに手間どっちゃって」



	 黒髪をひっ詰めにした洞木さんが、フレームレスの眼鏡を外しな

	がら、本当に済まなそうに、加持に釈明した。


	「ああ、またやったのか。彼のアルバイト料からペナルティ分、

	差っ引くのを忘れないでくれよ。それで、オーナーにお茶を出して

	くれたら、今日は上がっていいから」



	 それだけ洞木さんに向かって言うと、加持は僕の向かい側に、

	どっかと腰を下ろした。



	「……と、お見苦しいところをお見せしまして、失礼いたしまし

	た。まったく。いきおいはいいんだが、緻密さに欠けるのが一人い

	ましてね。どうしても雇ってくれって言うもので、ここ半年ほどア

	ルバイト扱いで使ってみてはいるんですが」



	 洞木さんが帰るまでは、あたりさわりのない世間話でも、という

	つもりらしかった。



	「鈴原……さんでしたっけ?その人には悪い言い方かも知れません

	が、誰にでもできる、という職種でもないでしょう?」



	 僕もそれに乗ることにした。いくら事務所の職員といえど、加持

	本人以外のいる状態で、本題を切り出す気はなかったからだ。



	 五分ほど、そんな話をしたところで、洞木さんがトレイを持っ

	て、ついたての向こうから現れた。



	「先ほどは、大変失礼いたしました」



	 香ばしい香りを漂わせたカップを、僕と加持の前に慣れた手つき

	で置いた後、洞木さんは言った。本日僕に向かって、はじめてまと

	もに口を開いたことになる。



	「気にしないでください。僕も身内みたいなものだから」



	 待たされたこと自体は、当然愉快とは言えなかった。だが、僕は

	それが顔に出ないように気をつけて、やや赤面しながらトレイを抱

	きかかえるようにしている洞木さんに答えた。



	「そういえば、まだきちんと紹介していませんでしたね。彼女は私

	の右腕であり、経理・総務・人事・営業担当兼所長秘書の洞木ヒカ

	リさんです。彼女の能力のおかげで、この事務所がまともに機能し

	ている、といっても過言ではありません」



	「所長、あまりおかしなこと、言わないでください!」



	 かなり芝居がかった口調で持ち上げられて、洞木さんはますます

	赤面すると、加持に食って掛かった。



	「いやいや、正当な評価だよ。この際オーナーにも、きちんとア

	ピールしておくつもりさ」



	「もう、知りません!!」





	 そんな一連のやりとりの後、洞木さんが帰宅して、ようやく本題

	を切り出せたのは、六時三十分過ぎだった。



	「お願いしたいのは、この人の身辺調査です」



	 僕は、昨日拾った彼女の学生証をとり出した。


	「事情を聞かせてもらっても構いませんか?」



	 加持は、おそらくは仕事用の──何かを嗅ぎつけたような表情を

	のぞかせた。だらしなくにやけている口元に変わりはなかったが、

	目は笑っていない。



	「それを伏せて依頼したいのですが、受けてはもらえませんか?そ

	のために、父の関係からここを選んだのです」



	 僕は、あらかじめ用意しておいたとおりに答えた。



	 加持という男が僕が推測したとおりの人種ならば、これくらいの

	前提を拒否することはないであろうという確信があった。



	 それにもし、これが断られたならば、逆にこの男には依頼できな

	いということにもなる。



	「……いいでしょう。私もお父上の依頼で、理由は聞かされぬまま

	に、かなりやばい橋を渡ってきましたからね。そういった流儀には

	慣れています。まあ、それなりの特別料金を設定させていただいた

	上での話ではありましたが」



	 案の定、加持は金の話を持ち出してきた。生前の父を取り巻く人

	たちは──冬月さんを除くと、こういったタイプの人間ばかりであ

	ろうという予想は外れてはいなかったようだ。



	「最初に電話でお話したとおり、『正規の』料金はお支払いします

	よ」



	 そう言った僕を見て、加持は口元を下碑た形に歪ませた。僕も似

	たような顔をしていたかもしれない。



	「お父上もとても強引な方だったが、あなたもその血筋を十分に受

	け継がれているようですね。それでは、商談成立、ということ

	で。……ご心配なく。この件は、すべて私一人で動きます。一週間

	以内には、第一次報告ができるでしょう」





	              *





	 加持がもたらした情報に、とりたてて僕の目を引くようなものは

	なかった。もちろんそれは、ある程度予想はしていたので、落胆す

	るようなこともなかったが。



	 ともあれ、彼女の日常、家族構成、交友関係、その他ごくありふ

	れた、彼女の身のまわりのことを、労せずして知ることができたわ

	けだ。今はそれで十分満足だった。



	 そういう意味では、加持の仕事は要求する報酬もそれなりな分、

	確実なものではあった。



	 とはいえ、きっと傍目から見れば、そこまでする意味があるの

	か、と問われるようなことではあっただろうと思う。



	 その疑問は、実は僕自身の中にも、ずっと残っていた。



	 だが、男と女は──そう、ロジックじゃない。



	 僕は彼女のことを知りたいと思った。そしてその欲求に、忠実に

	従った。



	 ただ、自分でそれをする能力がなかったために、専門家の手を借

	りた。僕には、その専門家を雇うだけの財力があった。それだけの

	ことだ。





	 ……ここまでは。





	 加持の報告から、彼女の日常のサイクルを知った僕は、それを待

	つ間に練っておいた計画が、実行可能かどうかの検討に入った。



	 それには、彼女の足取りが、加持の調書どおりのものかどうかを

	追ってみる必要があった。



	 僕は、加持からの報告のあった翌週の一日を、その目的に充て

	た。



	 彼女は、平日はかなり規則正しい生活をしている、という内容の

	とおり午後六時三十分には、改札を出てきた。



	 その後を、数百メートルおいて、僕も歩き出した。



	 普通ならば尾行など、素人の僕には上手くできるわけはない。た

	とえ思いついても、行動には移さなかっただろう。



	 だが、この場合目的地──彼女の住むマンションはわかりきって

	いたのだ。だから、そこにいたる道のりを、彼女のずっと後から、

	その後ろ姿を見失わないようにだけ気を配って進めばよかった。そ

	れならば、僕にも可能なはずだ、と判断してのことだった。



	 報告によれば、この帰り道での彼女のいつもの行動は、ほぼ毎

	日、とおり道のスーパーで食材などを買い込む、ということだった

	が、この日は違っていた。



	 その代わり、というわけでもないだろうが、彼女はその先の書店

	に立ち寄った。



	 僕は、店の外で待つべきかどうか迷ったが、結局彼女の後を追っ

	て店内に入った。



	 どうにか彼女の姿を見通せるうち、もっとも離れたコーナーを選

	んで目当ての本を探すふりをしながらその様子をうかがった。



	 しばらくして、不意に彼女が僕の視界からその姿を消した。



	 彼女は通路奥、壁際の書棚を物色していたので、そこから僕の死

	角に移ったのだろう。そう思い、僕は先ほどまで彼女がいた位置に

	移動しようとした。



	 と、そのとき彼女が、僕の意表を突いて、引き返してきた。



	 反射的に彼女から顔を背けそうになったが、どうにか僕は書棚を

	物色するふりをすることができた。



	 そんな僕の横をとおりぬける彼女からは、はじめて会ったときと

	同じようにラベンダーの香りがした。



	 すれ違いざま、彼女に手の一冊のハードカバーが目に入った。



	 タイトルは『アルジャーノンに花束を』だった。



	 その日僕は、変装、というには単純かもしれないが、意図的に普

	段しないような格好──よく知らないサッカーチームの帽子とブル

	ゾンに伊達めがね──をしていたから、万が一彼女が僕のことを記

	憶していたとしても、以前会ったことがあるとは思われなかっただ

	ろう。それでも、動悸が治まるまでには、しばらく時間を必要とし

	た。



	 レジに向かったであろう彼女を、すぐに追うわけにも行かず、僕

	は彼女が清算を済ませる頃合いを見計らって、店を出た。



	 彼女の進む先はわかっていたが、それでもなぜか、その姿を見

	失ってしまうことが、とり返しのつかないことのように、そのとき

	の僕には思えた。



	 書店を出て、彼女のマンション方向を見ると、薄暗い街灯の下で

	もそれと一目でわかるすらりとした後ろ姿が、角を曲がるのが見え

	た。



	 はやる気持ちを押さえて、僕は進んだ。



	 彼女と同じ角を曲がって先を見ると、線路沿いの人気のない通り

	を行く後ろ姿があった。



	 彼女の位置から二百メートル、僕からだと四百メートルくらい先

	が、彼女の住まいだった。



	 加持の報告から、日中一度この道を歩いてみたことがあるが、や

	はりこの通りが一番人目につかないことは間違いなかった。





	 場所は決まった……。





	 彼女の姿がマンションの入り口に消えるのを見届けながら、僕は

	そう確信した。





	              *





	 数週間後の週末、夕暮れどき。僕は彼女のマンションの手前、人

	気の少ない線路沿いの路肩に車を停めて、彼女を待った。



	 時間どおりに、角を曲がって彼女は現れた。



	 外灯に照らされたその姿をルームミラーに捉えながら、僕は自分

	が恐ろしく冷静なのを実感した。神経が、研ぎ澄まされていくよう

	な気がした。



	 まわりに、人や車のとおる気配は、ない。



	 彼女の姿が、サイドミラーの死角に移ったころを見計らって、僕

	は車のドアを開けた。



	 彼女はちょうど僕の車の真横にさしかかっていた。



	「すいません。ちょっと道をお聞きしたいんですが」



	 ありがちな声のかけ方だったが、とりあえずは、これが無難な方

	法だろう。



	「はい?」



	 一台だけぽつんと停まっていた車から降りてきた男に、夜道で唐

	突に道を聞かれる、という状況には、彼女も若干の戸惑いを隠せな

	いようだった。



	「たしか、このあたりだと思ったんですが、この図でわかります

	か?」



	 僕はさも困った好青年、といったふりをして、あらかじめ用意し

	ておいたこの付近の略図を彼女に見せた。もちろん、記載された住

	所と地図に実在の番地を選んでおくことも抜かりはなかった。



	「あ、失礼。もううす暗くてよく見えませんよね。……申し訳あり

	ませんが、灯りがこれしかなくて」



	 言いながら、僕はあらかじめサイドウインドウをおろしておいた

	助手席のドアをいっぱいに開け、点灯したルームランプがあたるよ

	うに地図を示した。



	 彼女もやむを得ず、といった感じで、僕の手元をのぞき込んだ。



	 それは──計算どおり、僕の車の助手席に首を突っ込むような姿

	勢をとることでもあった。



	「ああ、ここなら、この先の角を右に曲がって……」



	 説明しようと、彼女が地図から顔を上げかけたところを見計らっ

	て、僕は黒い握りのついた機具を彼女の肩口に押しつけ、スイッチ

	を入れた。



	「ぐっ!」



	 十二万ボルトの電圧は、二秒とかからずに彼女の意識を奪い去っ

	た。



	 僕は、ぐったりした彼女を横から支えるようにして、そのまま助

	手席に座らせると、何事もなかったふうを装って、運転席に戻り車

	を出した。





	 しばらくはむやみにルームミラーを気にしながら走ったが、郊外

	に出るあたりでようやく人心地ついた。



	 もし誰かがあの現場を見て不審に思い警察に通報したとして、検

	問が行われるようなことがあれとすれば、このあたりであろうか。



	 ……だが、その気配もない。



	 ふと気になって僕は助手席を見た。彼女はまだ、気を失ったまま

	だった。気の毒だが目的地までは、もう少し眠っていてもらわなけ

	ればならない。



	 僕は車を停めると、用意してあったクロロホルムをハンカチに染

	み込ませ、彼女の口と鼻を覆った。



	 瞬間、息苦しさに気をとり戻した彼女は、呼吸器を覆ったその原

	因をとり除こうともがき、僕の手に血の出るほどの引っ掻き傷を作

	り、その後再び脱力した。





	 車を発進させた僕は、念のため手近のインターチェンジをやり過

	ごし、一つ先から高速道路に入った。



	 高ぶる神経は、パーキングエリアを二・三通過するまでのあい

	だ、必要以上にアクセルを踏み込むことを僕自身に強要した。



	 どうにか自分を落ち着かせて、法定速度の巡航に戻ったあともし

	ばらくは、後続車のライトがルームミラー越しに近づくたびに、そ

	れが突然赤色灯を点灯させ、停車を命じてくるような錯覚におそわ

	れた。



	 ヘッドライトに切りとられた、妙に質感のないアスファルトだけ

	が目前に広がる。



	 それを追いかけることが唯一の目的であるかのように、僕は車を

	走らせつづけた。











1 ← → 3



N.SASAさんの部屋に戻る/投稿小説の部屋に戻る
inserted by FC2 system