Collector

- 5 -
 












	 その日から数日間、僕は彼女をはじめてここに招待した頃に戻っ

	たような錯覚を覚えていた。



	 僕たちの間には重苦しい沈黙が横たわり、ただ機械的に経過する

	時間が存在するだけだった。



	 今にして思えば、僕がこの苦痛に耐えきれずに、この時点で彼女

	を放りだしてしまっていたら、あるいは最悪の結果を迎えずにすん

	だのかもしれない。



	 だが、そのときの僕はまだ十分に辛抱強かったし、彼女を必要と

	していた。



	 だから、僕はひたすらに彼女が再び心を開いてくれるときが訪れ

	るのを待ち続けながら、単調な日々の繰り返しに耐え続けていた。



	 そしてその日も、僕は夕刻になると入浴のために彼女を屋敷の二

	階に案内していた。



	 いつもどおり、一時間弱が過ぎるとバスローブを身につけた彼女

	が浴室から現れた。



	 これもまた、いつもどおり彼女の細い手首を手錠でつないで先を

	うながすと、その日の彼女は、何か言いたげな視線を僕に向けた。



	「何か?」



	 僕の申し出を断ったあの日以来、彼女のほうから僕にこんなふう

	に意思表示してきたのははじめてだった。



	「少し話がしたいわ」



	 湯上がりで上気した頬の色のせいだろうか、彼女の言葉は少しの

	羞恥の色と、何とはなしのぎこちなさをおびているように感じられ

	た。



	 彼女の真意がどこにあるのかははかりりかねたが、僕としてはと

	にかく彼女と話しができること、そしてその機会を彼女から与えら

	れたことを喜んだ。



	 僕は階下のリビング──食堂の奥へと彼女をとおした。



	 信州の秋は短く、やがて訪れる冬の気配も感じられたそのころ、

	暖炉にはすでに炎が燃えていた。



	 僕は暖炉の前のソファーを彼女に勧めた。



	 リビングの灯はおとしてあったため、照り返す炎のみが、僕を

	まっすぐに見返す彼女の横顔を浮き上がらせていた。



	 その様子に、いつにないなまめかしさを感じた僕は、あわてて視

	線をそらし、それを悟られないように、とりつくろう言葉を探し

	た。



	「なにか飲むかい?……といってもシェリーくらいしか用意してな

	いけれど」



	「……ええ」



	 グラスを用意するあいだも、彼女の視線をずっと背中に感じてい

	た。



	「話って──」



	 僕が言い終らないうちに、彼女は手渡したグラスの中身を一気に

	飲み干してしまった。



	「もう一杯いいかしら?」



	「……どうぞ」



	 僕は手に持っていた自分用のグラスを彼女の空のそれと交換し

	た。彼女はそれもほとんどひといきに干してしまうと僕の手の中の

	空のグラスもとり上げて、テーブルの上においた。そして僕をソフ

	ァーに腰かけさせ、その横にぴたりとつくように座り直した。



	 洗い髪のほのかな香りが漂った。



	「なにか話があるのだったよね?」



	 いつにない彼女のふるまいに戸惑いながらも、僕は再度問うた。



	 すると彼女は、鉄の戒めにつながれた両手をぎこちなく僕の頭上

	からとおし首の後ろに回すと、僕の顔を引きよせた。



	「あわてなくても時間はまだあるでしょう?」



	 酒気を含んだ甘い吐息がささやきかけ、揺れる炎に照らされた、

	潤んだ蒼い瞳は僕を映していた。



	「それは、そうだけれど──」



	 またも言いかけた僕の言葉を、今度は彼女の唇がさえぎった。





	 薪がはぜる音と僕自身の心臓の鼓動だけが支配する数瞬が過ぎ

	た。



	 そして、彼女はゆっくりと僕からはなれると、両手を前に差し出

	した。



	「外して……」



	 僕は目の前の天使──あるいは悪魔に、魅いられたかのようにそ

	の言葉にしたがって、彼女の手錠を外した。



	 彼女は自由になったその手で、頭髪を覆っていたタオルをほどい

	た。



	 彼女の首のひとふりで、まだ湿りをおびた薄赤い金色の髪が、は

	らりとその背に降りた。



	「あなたは寂しい人なのね。誰も心からは信じることができなく

	て、それでも誰かにすがりたいと願いつづけている……」



	「そんなことは……」



	 反論しようとする僕の言葉をさえぎるように、彼女は僕の頭を抱

	き止めた。



	「私があなたを受け入れてあげる」



	 彼女のささやきは、しびれるほどに、僕の耳に心地よくひびい

	た。



	「それは……もしかして?」



	「ええ。あなたのプロポーズ、お受けするわ」



	 やがて彼女は手をはなすと、僕のシャツのボタンをゆっくりと外

	しながら、まるで夢見心地のように僕にささやき続けた。



	「私の両親や友達、もちろんあなたのお友達やご両親も招待して、

	素敵な式をあげましょう……」



	 そして最後に、彼女は自らバスローブの紐をとき、一糸まとわぬ

	姿で僕の前に立った。



	「抱いて……」





	              *





	 健全な欲求と、それを満たすに足る肉体をもつ男性ならば、この

	とき彼女の魅力に抗がうすべはなかったであろう。



	 ……だが、僕は『違っていた』のだ。



	 それゆえに、僕はそのとき彼女の行動で冷静になることができ

	た……冷静にならざるを得なかった。



	「僕に両親はいない。それに僕は……君の要望に応えるための能力

	を持ち合わせていない……」



	 僕は彼女の足元のバスローブをつかむと、投げつけるようにして

	彼女にそれを身にまとわせた。



	「君は、そうまでして……僕に身体をゆるしてまでも、外の世界に

	戻りたいというのか?僕は……僕は君にそんなことを求めたんじゃ

	ない!そんなことを……」



	「いいかげんにして!」



	 激しい憤りの声に僕は視線を上げた。



	 彼女の瞳には涙があふれ、その肩は震えていた。


	「前にもいったとおり、私はあんたの標本なんかになるのはまっぴ

	らよ!それから逃れるためだったら、気のあるふりをして抱かれる

	くらい何とも思わないわ!それが何だっていうのよ。!!あんたこ

	そ、かってに私の幻想を作り上げて、そのとおりにいかないからっ

	ていってずっと私を閉じ込めたまま、この先どうしようっていうの

	よ!!こんなこと、いくら繰り返したってあんたを理解できるよう

	になるわけないじゃない!私の元の生活を、学校を、友達を返し

	て!私をもといたところに帰して!ここから出して!今すぐ!!」



	 感情を爆発させた彼女は、そのいきおいのままに僕を押しのけて

	屋敷の入り口まで逃れた。



	 彼女を捕まえそこなった僕は、入り口のドアノブをどうにかして

	開こうとする彼女に追いつくかっこうになった。



	 暴れる彼女をとり押さえようと出したスタンガンは、もみ合いの

	すえ僕の手を離れて玄関ホールの反対側まで飛ばされてしまった。



	 それでもどうにか──自分でも信じられないくらい強い力で──

	彼女の両手首をとり押さえることができた僕は、その両腕を手錠で

	拘束すると、そのまま入り口のドアの鍵をはずして無理矢理に彼女

	を地下室へと引きずっていった。



	 ドアの外は、冬の到来を告げるような冷たい嵐だった。



	 ときおり稲光と雷鳴の混じる強い雨の中、地下室までの道のり

	で、二・三度僕の手を逃れて彼女が逃げ去ろうとするのを、腕・

	髪・足とところかまわず捕まえて、引きずり戻した。



	 逃れようとする彼女も、連れ戻そうとする僕もずぶ濡れで泥だら

	けだった。



	 彼女はまるで獣のような、言葉にならない叫び声を上げ続けてい

	たが、その声は風雨にかき消されて、僕の耳にすらよくは届かな

	かった。





	 どうにか地下室の入り口の鉄扉の前まで彼女を引きずってたどり

	着き、鍵をとり出して錠が開くのを確認して彼女のほうを振り向い

	たその刹那、



	「がっ!」



	 僕の頭部を激しい衝撃が襲った。



	 彼女が、僕の力が緩んだすきに、外壁に立てかけてあったスコッ

	プに手をのばし、それを振り回して僕を殴ったのだ。



	 それでも僕は、彼女の腕を放していなかった。しびれるような痛

	みにひざが砕けたいきおいで、鉄扉のノブを手前に開くことになっ

	たのが幸いした。



	 そのまま、スコップを離して泣きじゃくりながら僕の手を逃れよ

	うとしていた彼女を、最後の力を振り絞って中に押し込むと、背中

	でたおれ込むように全体重をかけて鉄扉を閉めて施錠した。



	 彼女が内側から扉をたたく振動が背に伝わってきた。



	「死なないで!」



	 そう叫ぶ彼女の声が聞こえたような気もしたが、雷鳴にかき消さ

	れてよく聞きとれなかった。加えて、頭の傷の痛みがその意味を考

	える余力を奪ってもいた。





	 はうようにして屋敷に戻った僕は、体の芯から冷え切って震えが

	止まらなかった。



	 額の、彼女に殴られた傷に手を触れると、かなりの量の出血が

	あった。僕は、漠然と、生命の危機を感じていた。



	『死なないで!』



	 あのとき、扉の向こうからそう叫ぶ彼女の声が聞こえたような気

	がした。それは、こういう意味だったのだろうか。



	 ……救急車……いや、まずい。万が一……警察に通報されるよう

	なことになったら……。だが、どこか……医者……知り合いのとこ

	ろに……。



	 傷の疼きで思考が混乱しつつも、僕は、隣町に、父の代からの知

	り合いの開業医がいたことを思い出していた。



	 そこをたずねて治療を依頼することをかろうじて決断し、身体を

	引きずるようにして車に向かった。





	 この嵐で交通量が少なかったこともあり、どうにか僕はもうろう

	とながらも目的の医院の前までたどり着き、入り口のドアを数回た

	たいた後で気を失った。



	              *





	 結局、僕は覚醒するまでのまる二日間、その医院で昏睡していた

	ことになる。



	 先生にはいろいろと尋ねられたが、僕は加持のときと同じように

	「『正規の』料金はお支払いしますから」と言い張って事情を明か

	すことはしなかった。



	 相手もそれをのんだところからして、関わり合いになることが本

	意ではなかったのだろう。



	 僕の負傷自体も、出血と当初のショック状態を除けば、さほど重

	傷ということでもなかったようだ。傷の箇所が箇所だけに、念のた

	めの後日の精密検査を進められはしたが。



	 ともかく、僕は彼女のことが気になったのでその場を早々に辞し

	て別荘への帰途についた。





	 屋敷に戻った僕は、真っ直ぐに彼女のいる地下室へと向かった。

	 だが、裏手に回ったときに入り口の鉄扉の鍵が手元になかったこ

	とに気づいて正面の玄関へと引き返した。



	 ホールの横の定位置に、本来あるべき鍵束は、しかし見当たらな

	かった。



	 どうやら、僕はあの嵐の夜のいさかいで、それをどこかに落とし

	てしまったようであった。



	 やむなく僕は蝶の部屋に入り、中央の机の引き出しのスペアの鍵

	をとり出した。



	 机の上には、結局標本にしそこなって、そのまま干からびてし

	まった蝶の死骸がビンの底に横たわっていた。



	 ──こうなってしまっては、もう捨てるしかないな……。



	 そんなふうに思いながらふと、その横の電気時計に目をむける

	と、それは奇妙な曜日を指していた。時刻は一時間ほど遅れていた

	だけだが、曜日は二日もずれて……!!。



	 僕は鍵をつかむと屋敷の裏──地下室の入り口へとかけだしてい

	た。



	 二日前の嵐の晩、僕は薄れそうな意識のすみでひときわ大きな稲

	妻を見、雷鳴を聞いたのではなかったか。



	 この地下室の空調設備は、僕が後から付け加えた最新の電子制御

	式だった。



	 もしも、もしもあの夜の雷鳴が、この区域の変電施設に落雷した

	ときのものだとしたら。あの夜以来、この屋敷の周辺が停電してい

	たのだとしたら。



	 そしてあの時計が示すとおり、まる二日近くも地下室の空調が停

	止してしまっていたのだとしたら……。



	 僕は地下室の鉄扉のノブを、引き抜かんばかりのいきおいで開く

	と、コンクリートの階段を駆け下りた。



	 彼女の部屋の扉には、錠は下りていなかった。



	 僕はその扉を力まかせに引いた。



	 室内に明かりは点っていたが、再稼動し始めたばかりの空調は、

	その空間を常温に押し上げるまでにはいたっていなかった。



	 奥のベッドには、毛布にくるまり、小さくなって震えている彼女

	がいた。



	 彼女は僕の姿を認めると、消え入りそうな笑顔──僕にはそう見

	えた──を浮かべた。



	「よかった。生きていてくれて……。恐かった。……暗くて、寒く

	て」



	 彼女の頬は土気色に変わり、ときどき、全身を震わせて苦しそう

	に咳をした。



	「とにかく医者を……いや救急車を呼ぶから」



	 それだけ言って、僕はすぐさま屋敷に戻ろうとした。と、



	「待って……」



	 彼女の声に応えることと、今成すべきことを訴える内なる理性の

	声に応えること。僕は半ば無意識に、前者を選んでいた。



	「外して……」



	 哀願というには弱々し過ぎるほどの声で、彼女は両の手首を宙に

	差し出した。



	 僕は彼女のところに戻ると、スペアの鍵束からとり出した鍵で戒

	めの鎖をといた。



	「もう一人にしないで……」



	 自由になった両手で、彼女は僕の手をにぎりしめて言った。



	 彼女の、色こそ前とは変わらぬ蒼い瞳は、かつての意志の輝きを

	失おうとしているようにも思えた。



	「この怪我……」



	 震える指先が、僕の額の包帯へと伸びた。



	 鈍い疼きが、複雑な思いを僕の胸にもたらした。



	 僕にこの傷を──絶対的な拒否の刻印をつけたのは、他ならぬ彼

	女自身だったのだ。だが……



	「……今でも、愛している」



	 僕は、絞り出すような心のうちを口にし、彼女を抱きしめてい

	た。



	「……外は、いい天気かしら。今度は風景を描きたいわ……。淡い

	日の光、紅葉する木々、透きとおる川面の色……」



	 僕の耳元で、ほとんど吐息のように彼女がささやいた。



	「描けるさ。君が元気をとり戻したら、すぐに。……今度周りの風

	景をスケッチしに出かけよう」



	 僕は言って、そっと彼女をベッドに着けると、その乱れて額にか

	かった髪を鋤いた。



	 彼女は、二・三度ひきつけるような呼吸をすると、ふたたびなに

	かを求めるかのように、その手を宙にさまよわせた。



	「……とにかく、体を治すことが先決だ。今、救急車を呼ぶから」



	 僕はもう一度彼女の手を握り、そう言うと地下室を後にした。





	 玄関ホールにある黒電話の受話器をとり、ダイヤルを回しかけた

	僕は、だがこの期に及んでもまだためらっていた。



	 犯罪者として捕まること、それ自体を恐れたのではない。



	 それと彼女の命を引き換えることなど、いまさら何程のことがあ

	ろうか。



	 だがしかし、その後に待ち受ける彼女との──おそらくは永遠の

	別離を、僕はどう受け止めればよいのだろうか?



	 再び彼女と過ごすことがないとするならば、僕にとって彼女は生

	命を持たないことと、何の変わりがあるというのだ?



	 もう、迷っている暇はなかった。



	 僕は急いで車を裏に回すと、彼女をそれに乗せるために、地下へ

	の階段を駆け降りた。





	「待たせたね。今──」



	 地下室の入り口は、上の鉄扉も、部屋の入り口も、慌てて出た僕

	が閉め忘れていた。



	 その開け放たれた入り口から差し込む日の光に手を伸ばすように

	して、彼女はベッドの横にうつ伏せに倒れ込んでいた。



	 駆け寄った僕がその体を抱き上げると、彼女は、ほんのわずかに

	身を震わせ、



	「……伝えて……誰かに……私のことを話して……」



	 かすかに、かろうじて僕に聞き取れる声でつぶやいた。





	 そして、それきり、息をしなかった。





	 彼女は、死んでしまった。





	 僕は彼女の亡骸を前に、数時間を過ごした。





	              *





	 ……そう、彼女は死んでしまった。





	 はじめは、僕はどこでやり方を間違ったのだろうと、そればかり

	思い返しては悔やんでいた。



	 でも、あるときふと、気づいた。



	 僕は、その対象を間違えていたのだ、ということに。



	 彼女は、プライドが高すぎた。



	 人一倍自己主張も強かった。



	 やはり、僕のような人間には、高嶺の花だったんだ。



	 そう、もっと、従順で控えめな、この僕にふさわしい人を選べば

	よかったんだ……。





	 だから……洞木さん、僕は、君を選んだ。



	 君は、僕を理解してくれるだろう?



	 こうして、君をここに招待した理由も、すべて話しているのだ

	し。





	 加持?



	 君の上司がいずれ、君の不在を心配して、ここを探し当ててくれ

	ることを期待しているのならば、それは無駄なことだろうね。



	 彼には僕から東南アジアのある国に『出張』を依頼してあるのだ

	けれど、おそらくそこで彼は『不幸な事故』にあうはずだか

	ら……。





	 そうおびえた顔をしないで欲しい。



	 僕が望むことは、ただひとつ。



	 君がその瞳に、僕の──僕一人の姿を映してくれることだけなの

	だから。



	 それに……かなうならば、その美しい髪に触れることを許してほ

	しい。





	 今はまだ、それだけで十分だ。



	 まだ、時間はある。





	 そう、時間は、十分すぎるほどあるのだから……。



































	              End



















4 ←



参考:映画「コレクター」 ウイリアム・ワイラー監督 1965年 アメリカ作品
Mail to N.SASA

N.SASAさんの部屋に戻る/投稿小説の部屋に戻る
inserted by FC2 system