Collector

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	 屋敷の周囲は、前に彼女に説明したとおり、僕名義の私有地だ。

	隣接する建物はない。少なくとも、隣の別荘までは八百メートルは

	離れている。



	 一体誰が?



	 とにかく、外に明かりが漏れている以上、下手に居留守を使うの

	も得策でない、と判断した僕はすぐさま次の行動に移った。



	 バスルームの戸を開けると、仕切りのシャワーカーテンを、乱暴

	に横に引いた。そして、バスタブに浸かったまま、硬直した表情の

	彼女の口を手でふさぎ、そのままタオルで猿ぐつわをかませた。



	 次いで暴れる彼女の両手首を掴んで立ち上がらせ、その身体をバ

	スローブで覆いながら、手近な配管に、バスタオルで縛りつけた。



	 全身を使って押さえつけたとき、湿ったバスローブ越しに感じた

	彼女の柔らかな感触と体温に、僕は息を呑んだ。むき出しの肩口か

	ら胸元へと流れ落ちる、湯のしずくから目を逸らせなかった。



	 時間にすれば、一秒にも満たない間ではあったが、僕の思考は完

	全に、その行動の目的を見失っていた。



	 再び階下からノッカーが響いた。



	 その音で現実にたちかえった僕は、彼女の手首を配管の後ろに回

	し、手錠で繋いだ。



	 とりあえず、そこまでしてしまうと、僕は彼女に背を向け、ドア

	を閉じると階段を駆け下りた。



	 ドアノッカーは、いまだ一定の間隔で響き、その沈黙の間には、

	ドア越しの不明瞭な声が聞こえてくる。



	「……ません。ごめん下さい」



	 僕は数秒間、息を整えると、入り口の鍵を開けた。



	 外には三十歳くらいの男が立っていた。



	「夜分に恐れ入ります。私、ここの隣の──といっても一キロメー

	トルも手前なんですけどね、その別荘に来ている者なんです

	が……」



	 男は問われもしないのに自ら日向と名乗った。黒ぶちのやや太め

	のセルフレームの眼鏡を掛けていた。



	 なんでも、知り合いのつてで季節外れのこの時期に、件の別荘に

	友人と遊びに来て、パーティーの最中だという。当然、酒も入って

	いたのだろう、室内からの明かりに照らされた顔も、少し赤味を帯

	びていた。



	「すみませんが、電話を貸していただきたくて」



	 日向の遊びに来た別荘は、近く現在の持ち主から他人の手に渡る

	関係で、住み込みの管理人に暇を出したばかりだということだっ

	た。それで、電気、ガス、水道は停止期限の関係で、まだそのまま

	使えるものの、電話はもう止まっているのだ、と言う。酒気のせい

	もあるだろうが、それにしてもよくしゃべる男だった。



	 携帯電話全盛のこのご時世でもあり、僕は疑問に思ってそれとな

	く聞いてみたが、



	「あいにくと、僕ら一行の持っているケイタイは、全部T社のやつ

	なんですよ。取引先の関係で。それで、このあたりは圏外なんです

	よね」



	 とのことだった。僕はあいまいに答えながらも、うまく断ろうと

	思案した。だが、その時期を見計らっているうちに、日向が目ざと

	く入り口横の、昔ながらの黒電話を見つけた。



	「これ、通じますよね。どうしても仕事の関係で、電話を一本入れ

	ておかなければいけなかったんですよ。貸していただけません

	か?」


	 断るに断りきれない状況になってしまったことに、僕は内心舌打

	ちしながらも、手振りで「どうぞ」と示した。



	 彼女の様子が気になった。



	 ゆっくりとした秒針の三周半が過ぎて、日向は電話を終えた。



	「助かりました。これ、電話代にでも」



	 千円札をよこす日向に、



	「けっこうですから。困ったときはお互い様ですし」



	 と丁寧に断ってお引きとり願おうとした、そのとき、二階の階段

	側から水が滴る音がしてきた。



	 僕は慌てて階段下に駆け寄った。日向も何ごとか、と寄ってく

	る。



	「どなたか二階で……?」



	 怪訝な顔をして尋ねる日向に僕は、



	「え、ええ。友達が一人、遊びに来てましてね」



	 言うのももどかしく、階段を駆け上がった。その間にも、バス

	ルームの床からは、浸水が続いている。



	「お風呂場ですか?お友達が湯あたりでもして倒れていると大変

	だ。手を貸しましょうか?」



	 日向は階段の中ほどまで上がってきて、僕に声をかけた。



	 ──余計なお世話だ。早く帰ってくれ。



	 僕は心中悪態をつきながらも、顔には出さないように気をつけ、



	「実は、ガールフレンドなんですよ。ですから、僕一人で……」



	 と、わざと言葉じりを濁して言った。



	 それを聞いた日向は、ピンと来たような表情で、いやらしい笑い

	を浮かべると、「いや、失礼」などと言いながら、階段を降りて

	いった。



	 それを確認しながら、僕はバスルームのドアをノックし、



	「僕だよ。大丈夫かい?……入るからね」



	 わざと日向に聞こえるように、やや大声で演技した。



	 そしてうすくドアを開けと、素早く中に入った。



	 旧式で洋風のバスルームは、床に排水の仕組みがない。脚のつい

	たバスタブが、そのままタイル地の床に置かれていて、シャワーも

	その中で浴びるようになっている。



	 今や、そのバスタブに湯を注ぐ蛇口が全開に開かれ、溢れた湯が

	床からドアの外へと流れ出している。



	 横を見ると、配管に縛りつけられた彼女が、悪いいたずらを見咎

	められた子供のように、視線の逃げ場を求めて、僕から目を逸らそ

	うとするところだった。



	 僕が巻きつけたバスローブの裾が捲れて、脚があらわになってい

	るところを見ると、器用にもそれで蛇口を開いたものだろう。



	 僕は、蛇口を閉めてバスタブの栓を抜くと、彼女を一瞥し、バス

	ルームを後にした。


	 階段下では、日向が興味深そうに、わざわざ待っていた。



	「設備が旧式なもので、蛇口の取っ手が外れてしまいましてね。よ

	その方が尋ねてきたのが聞こえていたものだから、大声で僕を呼ぼ

	うにもそれもできなかったようで、慌てておろおろしてましたよ」



	 自分でも白々しいと思いながら、僕は平然と適当なことを言って

	のけた。



	「そういうことでしたか」



	 それでも、日向は僕の説明に納得した様子だった。



	「電話のお礼に、よろしければうちのパーティーにでもお誘いしよ

	うかと思っていたんですが、そういうことでしたら、野暮なことは

	無用でしたね。……それでは、電話をどうもありがとうございまし

	た」



	 意味ありげに、にやり、と笑うと日向は去っていった。僕はその

	姿が見えなくなるのを屋敷のドアの外で見届けると、バスルームの

	彼女の元に戻った。



	 彼女は──当然のことながら──僕が拘束したままの状態でい

	た。湿ったバスローブに体温を奪われ、いまや身も震えんばかりの

	ありさまだった。



	 その姿に僕は、採取してビンに閉じ込めた、弱った蝶の姿を連想

	した。



	「君が余計なことをするから、こういうことになるんだよ」



	 彼女の口を覆ったタオル、後ろ手の手錠、配管に縛りつけたバス

	タオル、と順に外しながら、僕はたしなめるような口調で言った。



	「僕がかろうじて配慮できる余裕があったからよかったものの、も

	し慌ててスタンガンを使っていたら、大変なことになっていただろ

	うからね」



	「!」



	 そのひとことで、彼女はさらに打ちのめされたようだった。



	 壁を背に、湿って重くなったバスローブを、これ以上ないくらい

	にきつく抱きしめるようにして、うつむいたまま肩を震わせてい

	た。



	 考えてみると、せっかく彼女を招待しながら、この屋敷に入って

	からと言うもの、まともに彼女と口をきいていない……。



	 バスタブに湯をはる音だけが支配する、重苦しい沈黙に耐え切れ

	なくなって、僕はバスルームを後にした。





	              *





	 それから一週間は、とりたてて特別なことはなかった。



	 会社は、父の事業の残務整理に請われた、という理由で辞めた。

	僕の申し出が急だったから、しばらくは現場が混乱するだろうが、

	いずれ別の人間が、僕にとって変わることだろう。



	 問題ない。



	 そういった理由で、僕は終日、彼女の側にいることができた。



	 彼女は日中絵を描き、僕はそれを眺めていることが多かった。



	 彼女の絵の題材は、最初と同じように自画像だったり、写真を元

	にした風景画だったりした。



	 それから、僕の絵も二・三枚。



	 絵の中の僕は、どれも椅子に腰掛けて、彼女が描くのを眺めてい

	るポーズだった。他の絵に比べて僕のそれは、モノトーンに近い、

	少し歪んだデッサンのように思えた。



	 彼女の目をとおした僕は、そんなふうに見えるのだろう。それは

	それで構わなかった。



	 彼女は、その中の一枚を、プレゼントだと言って僕にくれた。



	 僕はそれに、彼女のサインをねだった。記念の品だから、と。



	 "Gefangene 001"



	 知らない国の言葉で書かれた、その意味を知ったのは、ずっと後

	のことだった。





	 その日も、それまでと同じように過ぎ去ろうとしていた。



	 僕は夕方になると、それまでの一週間と同じように、彼女を屋敷

	のバスルームまで連れて行き、椅子にかけて彼女が出るのを待っ

	た。



	 一時間弱が経過して、彼女がバスルームからその姿を現した。



	 湯上がりの彼女は、新しいバスローブに身を包み、これまでにな

	く、リラックスしているようだった。うっすら上気した頬の薄紅色

	も、健康的で美しかった。



	「今日の夕食は、ここの食堂で、ごいっしょ願えるとありがたいん

	だけれど、どうかな?もちろん、強制はしないけれど」



	「ええ……」



	 僕の提案を、彼女が素直に受け入れてくれたことらも、これは僕

	たちの関係にとっての、よい兆候だと思えた。



	 それならば……。



	「それから、食事の前に、是非君に見せたいものがあるんだ」



	 僕はこの機会に、とっておきのものを彼女に披露することにし

	た。



	「何?」



	 怪訝そうな彼女を案内して、僕は入り口に向かって右手の奥の扉

	を示した。



	 扉を開き、明かりを点ける。



	 そこは、蝶を収めた部屋だった。



	 周囲の壁には、標本箱に分類して収められた各種の蝶が整然と並

	んでいる。



	「きれいだろう。僕の自慢のコレクションだ」



	「……」



	 彼女もこの光景を、言葉で表すことができないでいるようだっ

	た。



	「日本の蝶はね、大きく分類すると、九つの科に分けることができ

	るんだ……」



	 僕は蝶についてはおそらく詳しいことを知らない彼女に、基本的

	なことから、順を追って説明してあげることにした。



	 九つの分類──セセリチョウ科、アゲハチョウ科、シロチョウ

	科、シジミチョウ科、ウラギンシジミ科、テングチョウ科、マダラ

	チョウ科、タテハチョウ科、ジャノメチョウ科。



	 このうち、セセリチョウ科のものは、他の蝶と比べてあまり蝶ら

	しくない──しいて言えば蛾に近いスタイルをしているので、僕の

	好みではないから、標本にはしていない。



	 僕は美しい蝶が好きなのだ。そう彼女に語った。



	「アゲハチョウ科、というのは、君もきっと聞いたことがあると思

	うけれど、後翅──後ろ側の羽にスワロウ・テイルと呼ばれるツバ

	メの尾みたいな長い突き出しがある種類が多いんだ」



	 僕はキアゲハの標本を指して説明した。



	 その隣のアオスジアゲハの、文字どおり青い模様が光の加減で美

	しく透け、僕に彼女の瞳の色を連想させた。



	 アゲハチョウ科の蝶は、羽の模様の美しさを感じさせる種が多

	く、僕の好きなグループだった。もちろんそのことも話した。



	「シロチョウ科は──モンシロチョウはよく知っているよね。あれ

	を代表として、アゲハチョウ科とならんで、日本では一番よく知ら

	れているグループだろうね」



	 僕は白い小さな蝶が並んだ標本箱を示した。スジグロシロチョ

	ウ、モンキチョウ──多くの人がモンシロチョウだと思ってみてい

	る中には、これらのメスが多く混じっているであろうこともあわせ

	て、彼女に話して聞かせた。



	「シジミチョウ科の蝶は、日本には七十種類以上もいてね、これは

	さらにいくつかのグループに分けることができるんだ。ゼフィルス

	と呼ばれるミドリシジミのグループや、ブルーと呼ばれるヒメシジ

	ミのグループは、その中でも多くの仲間を持っている。いずれも羽

	の色合いが様々で『空飛ぶ宝石』などと呼ぶ人もいるね」



	 その華奢な見た目に反して、ゴイシシジミのように幼虫がアリマ

	キを食べる肉食の蝶も属していることを、つけ加えることも忘れな

	かった。



	 室内の明かりを反射するように、銀の混じった緑色に光るゼフの

	羽に、彼女は見入っていた。



	「ウラギンシジミ科、といっても日本に生息するのはたった一種類

	だけなんていうグループもあるんだ。世界でも十四種ほどしか生息

	していなくてね。名前のとおり羽の裏側が銀色なのさ。ところが表

	側になると、オスとメスではまるっきり色が違うんだ。面白いだろ

	う?」



	 僕は黒いふちどりに赤い模様の表面をしたオス、同じく黒ぶちに

	薄い銀の模様のメスと順に、標本を示しながら、話した。



	「テングチョウ科も日本で一種類、世界でも十種類くらいというめ

	ずらしいものだね。僕は考古学はやらないけれど、化石でよく見つ

	かるそうだから、そんな時代から生き残っている種なんだろう

	ね……」



	「……ひとつ聞いてもいい?」



	 ここまで、僕の話すのをを聞きながら無表情に蝶を眺めていた彼

	女が、はじめて口を開いた。



	「どうぞ、何なりと」



	 僕はてっきり蝶に関する質問だと思い込んでいた。それならば、

	彼女の持つであろう疑問くらいなら、即座に答えられる自信もあっ

	た。



	「こんなことをして、何が面白いの?」



	 彼女の質問はしかし、僕の予想したたぐいのものではなかった。



	「なんでそんなことを……」



	「答えて!」



	 ぴしゃり、という調子で僕の問いかけを制して、彼女は再度、僕

	に詰問した。



	「君は、この蝶達を素晴らしいとは思わないのかい?このまま朽ち

	果てることもなく、美しいままに永遠のときを過ごせるんだ」



	 僕は、再度問い返さずにはいられなかった。



	 彼女は、僕がまるで汚らしいものであるかのような、そんな表情

	を浮かべた。



	「……確かにきれいね。見かけだけは。でも、私は同じ蝶なら生き

	て野山を飛ぶ、自然のままが好き。それが美しいと思うか

	ら。……それとは正反対に、ここに飾られた蝶はすべて死んでいる

	わ。私も含めて、ここには閉じ込められた『死』しかないもの!」



	 吐き捨てるような言葉だった。



	「何を言うんだ。僕は君を標本扱いなんかにするつもりはない!

	ちゃんと一人の女性として……」



	「私はイヤ。閉じ込められて、あんたに観察される標本なんかにな

	るのはまっぴらよ!出して、ここから。今すぐ帰らせて!」



	 そう言いながら、彼女は僕の側から逃れて窓枠に手を掛けた。そ

	して、そこもシリンダ錠が掛かっていることを知ると、狂ったよう

	にあたりの物を手当たり次第にガラスに向かって投げつけた。



	 ガラスの割れる、耳障りな音が響く。



	 彼女は、その向こうの鉄の格子の存在を知ると、後ろから押さえ

	つけようとした僕の腕をかいくぐり、中央の机──僕が標本を作る

	ための作業台──をはさんで僕と対峙する格好になった。



	「イヤ!来ないで!」



	「落ち着いて。僕の話を聞いてくれ」



	 僕が追えば、同じ分だけ彼女が机をまわる。僕と彼女の距離は、

	縮まらなかった。



	 こんな事態にもかかわらず、僕は彼女の姿に、補虫網から必死で

	逃れようとする、美しい蝶を連想していた。



	 いさかいの振動が伝わる机の上で、今夜にも標本にしようとビン

	に封じてあった、貴重なキリシマミドリシジミが、突然の外界ので

	きごとを理解できぬかのように、ばたばたと暴れていた。



	 僕がそのビンに注意を奪われた刹那、彼女は僕の左脇を抜けるよ

	うにして、部屋の入り口へと駆けた。ドアノブをひねって玄関ホー

	ルへ抜ける──つもりだったのだろう。だがドアは、彼女にとって

	は無情にも、開かなかった。



	「……これがないと、開かないよ」



	 僕はポケットの鍵束を、彼女に向けてかざしてみせた。



	 その瞬間、彼女は、絶望と苦悩、そしてあきらめの入り交じっ

	た、とても痛ましい表情を浮かべた。



	「そんな顔をしないで、さあ、おとなしくするんだ」



	 僕はゆっくりと、彼女に近づいた。



	 ──もう逃がさない。



	「イヤ、来ないで。来ないでよぉっ!」



	 逃げ場を失った、金の髪に蒼い瞳の美しい蝶は、迫る補虫網から

	逃れようとばかりに、ドアを背に、つま先立ちになるまで後ずさっ

	た。



	 僕は、青白い高電圧の火花を発する道具を携えて、蝶に近づいて

	いった。



	 ゆっくりと。





	              *





	 気を失って、ぐったりとした彼女を横抱きに抱えた僕は、そのま

	ま地下室へ向かう前に、ふと思い立って自室の扉を押した。



	 彼女をベッドに横たえると、乱れて顔にかかったその髪を、指先

	でそっと鋤いた。



	 指先が、かすかに彼女の頬に触れた。



	 それくらいで彼女が目を覚ますはずもないことは、わかりきって

	いながらも、半ば無意識にそれを恐れた僕は、焼け火箸に触れたか

	のように素早く手を引き戻した。



	 彼女は――そのかすかな呼吸以外は――微動だにしていなかっ

	た。



	 決して望まない方法によってもたらされたの眠りであっただろう

	に、不思議とその表情は穏やかな――無垢な子供の寝顔のように思

	えた。



	 僕は再び、おそるおそる、彼女へと手を伸ばした。



	 僕の手とは明らかに異なる肌色の、頬からおとがいの線をなぞる

	ように、指を滑らせてみる。



	 彼女は、確かに、今、ここにいる。



	 だが……今は閉じられたその蒼い瞳が、いつになったらこの僕

	を、僕だけを映してくれるようになるのだろうか……。





	 ――君はなぜ、僕を理解してくれない?



	 込み上げた想いに耐え切れなくなった僕は、彼女を思い切り抱き

	しめていた。



	「愛している……」



	 僕のその言葉はしかし、彼女の耳に届くはずもなかった。







	 その後の三週間は、僕にとって、すくった水が指の隙間から染み

	出してゆくかのように、無情に過ぎ去っていってしまった。



	 彼女は、部屋の壁に掛けたカレンダーに毎日「X」の字を記し、

	ここを去る日を心待ちにしているのは明らかだった。



	 僕は思いつく限りの話題をもって彼女に話しかけ、同じ時間を共

	有しようと努力した。彼女も最初のころに比べれば、ずっと僕に打

	ち解けてくれた……ように見えた。上辺だけは。



	 だが、僕はどうしても、彼女の心の壁――僕はそう呼んだ――の

	内側に、立ち入ることを許してはもらえなかった。





	 そして、カレンダーの「X」印が、約束の一ヵ月目の日に記され

	る、その日が訪れた。



	 彼女は朝から上機嫌だった。僕が彼女をここに招待した日の服装

	――黄色いハイネックに紺のスカートで、手荷物をまとめていた。



	 その様子からは、僕とのなごりを惜しむ気持ちなど、微塵も感じ

	とることができなかった。



	「期限は今日の二十四時までだ。それまでは、ここにいてもらう」



	 ここを出て行くことの喜びをかくそうともしない彼女に、僕はあ

	えて水を差すような言い方を選んだ。



	 見苦しいあがきであることはわかっていながらも、その暗い怒り

	を押さえる術を、僕は持っていなかった。



	「……わかったわ」



	 なにか言いたそうなそぶりを見せながらも、彼女はそれだけを答

	えた。



	 そのときになってようやく、僕は自分の言い草に後悔した。



	 こんなことを言うために、彼女の部屋をを訪れたわけではなかっ

	たのだ。



	「……すまない。こんな言い方をするつもりはなかったん

	だ。……改めてお願いするよ。期限ぎりぎりまで、僕にも最後のチ

	ャンスを与えて欲しい」



	 僕はそう言って、贈り物を彼女へと差し出した。



	「これは?」



	 箱状のそれを受けとった彼女は、やや怪訝そうな面持ちで、僕に

	たずねた。



	「それを着た君を、今夜最後の晩餐に招待したい。……受けてもら

	えないだろうか?」



	「……いいわ。今日が最後だものね」



	 幾ばくかの逡巡の後で、彼女は答えた。その瞳に、複雑な色をた

	たえて。





	 その夜、僕は正装して彼女のもとを訪れた。



	 ドアを三回ノックして、少し待ち、開けた。



	 彼女は、僕の贈った薄いブルーのドレスを身に纏い、部屋の中央

	に立っていた。



	「素敵なドレスね。あなた、いいセンスしてるじゃない」



	 まんざらでもない様子の彼女は、僕の目の前で、くるりと横に一

	回転してみせた。



	 美しかった。



	「……行こうか」



	 僕が言うと、彼女は――この一月で半ば習慣化してしまったのだ

	ろう――僕の前に両腕を差し出した。



	 蝶のコレクションを見せた一件のあと、彼女は僕に、抵抗しない

	代わりに後ろ手に手錠をすることだけは止めて欲しいと静かに訴え

	た。そして僕はその要求を受け入れていた。



	 それ以来、主として入浴のために彼女が地下室を出る際に、僕は

	彼女の身体の前でその細い両手首を、無粋な鎖つきの腕輪で拘束し

	てきた。



	 だからその日も彼女は、これまでどおりに僕が彼女に鉄の戒めを

	施すものと疑いもしなかったのだろう。



	 とはいえ、ドレスアップした美女に、犯罪者と同じ扱いはあまり

	に似つかわしくなかった。



	「……もうその必要はないだろう」



	 僕のその言葉に、彼女はきれいな笑顔で応じた。





	 地下室の扉を抜け、はずむような足取りで進む彼女の後につい

	て、僕は屋敷へと入った。



	 彼女をまっすぐ食堂へと案内し、椅子を引いて掛けさせると、グ

	ラスを勧めた。



	「あいにくと、ドイツワインの知識に乏しかったのでね、店員の言

	うままに決めてしまったから、君の好みに合うかどうか」



	 彼女は色、香り、味と確かめて「合格ね」と言うようにウインク

	した。



	 安心した僕は、席に着きグラスを掲げた。



	「……こんな場合、なんといって乾杯すべきなのかな?」



	「適当でいいじゃない。『お互いの今後に』とか」



	 彼女は明らかに、これまでになくはしゃいでいた。その理由も分

	かっているだけに、僕としては複雑な気持ちだった。



	「では、お互いの今後に」



	 僕は、本意ではない言葉でグラスを差し上た。



	 美しい液体を満たしたグラスが、二人の間で澄んだ音色で響き

	合った。



	 僕と彼女の最後の宴は、こうしてはじまった。





	              *





	 はじめは、これまでのようにとりとめのない話題がほとんどだっ

	た。



	 彼女の描く絵について。



	 彼女の読む本について。



	 彼女の父方の祖父母の国について。



	 ……それらの隙間に、ほんの少し、僕についての話題が混じるこ

	ともあった。けれども、僕は自分の話をすることがさほど得意では

	なかったし、彼女の興味も次々と移り変わっていったので、その話

	題が長続きすることはなかった。



	 もしかすると、意図的に拒否されているのかもしれないという思

	いも心の片隅に浮かびはしたが、僕はあえてそこに考えをとどめる

	ことをしなかった。



	 ――今夜は特別な夜なのだから……。





	 アルコールの効果か、彼女は今までになく僕に打ちとけてくれて

	いた。



	 もちろん、僕も同じだった。



	 そのせいだろうか、これまでお互いタブーとして触れなかったこ

	と――今後のことについてが、ふとした拍子に俎上に上った。



	「さっきの乾杯の言葉ではないけれど、君はここを出たら、どうす

	るつもりか聞いてもいいかな?」



	 僕のそんな軽い言葉がはじまりだった。



	「そうね……あなたには悪いけれど、まず今のマンションは引き
	払って、別のところに引っ越すわ」



	 そう言って彼女はグラスの液面から視線を上げて、僕をまっすぐ

	に見た。



	 そのしぐさは、こちらのの反応をうかがっているように、僕には

	思えた。



	「それで?」



	 彼女の表情からは、その真意をはかれなかった僕は、やんわりと

	先を促した。



	「おそらく、あなたならまた調べればすぐに、私の新しい住所くら

	い見つけることはできるでしょうけれど……。それでも、大学の通

	学圏内で、途中に人気のない通りのないところを探すつもり。また

	こんなふうに『招待』されるのはゴメンだから」



	 彼女は僕にどんな反応を期待していたものか……。



	 もしかしたら、彼女自身にもそれがわかっていなかったのかもし

	れない。



	「……それならば、わざわざ引っ越すよりも、僕のことを警察に訴

	え出たほうが簡単なように思うのだけれど?」



	 彼女の挑発的とも言えるひとことに対して、僕はなかば無意識的

	に、これまで一度も触れなかった、僕にとって一番危険な可能性を

	口にしていた。



	 今度は彼女が考えに沈む番だった。そしてそれは、僕と彼女の間

	に、秒針半周分の沈黙をもたらした。



	「それはしないわ……。でも、勘違いしないでね。なにも妙な噂や

	煩わしさを嫌って泣き寝入りしようというわけではないから。ここ

	に残ったのは、あくまで私自身の意志で決めたことだから、それに

	矛盾する行動はとりたくないというだけ。それに……」



	「それに?」



	「あなた――おそらく自分で思っているほどには、そう悪くないわ

	よ。私をここに連れてきた方法は、最低だったけれど……。もっと

	普通に知り合っていれば、いい友達か、それ以上の関係になれたか

	もしれないのに……」



	 ──!



	 彼女のこんなひとことを、この三週間どれだけ待ち望んだこと

	だっただろうか。それがたとえ、開放感とアルコールで気分が軽く

	なっていたせいであったとしても、僕はかまわなかった。



	 彼女がこんなふうに僕を少しでも理解してくれるような日がくる

	ことを、ただひたすら、運命論者のように待ちつづけていたのだ。



	 どうやって切り出すべきか、ずっと考えていたひとことは、彼女

	のこの言葉に後押しされるように、自然に僕の口をついて出てき

	た。



	「それは、今からでも遅くはないだろう?実は今日は君に、もう一

	つ贈り物があるんだ」



	 僕はポケットからとり出した小さなケースを彼女に向けて開い

	て、テーブルの上に置いた。彼女の誕生石──その瞳の色と同じ色

	の宝石のついた指輪だった。



	 それを見た彼女は、僕の期待とは異なる色の戸惑いを、その蒼い

	瞳に浮かべた。



	「どういうこと?」



	 人は、わかっていながらも問わずにいられないときに、あるいは

	『そんなことはない』と否定されることを期待して、こんな問い返

	し方をするのだろう。



	 今にして思えば、そうとしか解釈しようのない声と表情で、彼女

	はつぶやいた。



	 だが、そのときの僕はそんな彼女の心のうちを想像する余裕を

	まったく持ちあわせてはいなかった。



	 ──伝えるときは今しかない。



	「僕の妻になってほしい。それだけだよ。多くは要求しない。今ま

	でどおり僕のそばにいて、絵を描いたり、話し相手になってくれる

	だけでいい。それ以上のことは要求しない」



	「そんなの……異常だわ」



	 彼女が否定し、反論しようとしたのは、僕の言った内容について

	なのか、僕が彼女に求婚したこと自体なのか──おそらくは双方な

	のだろうが、ひどく混乱したふうな彼女はそれきりうつむいたま

	ま、何も話そうとはしなかった。



	 僕はまたしても彼女に拒否されたことを実感した。



	 そしてその気持ちは、僕の中で、落胆からやがて別の感情へとた

	やすく変容を遂げた。



	「君はまだ、僕のことを理解しようとしてはくれないのだね……そ

	れならば、ここから返すわけにはいかないようだ」



	「そんな……約束したはずよ!」



	「ルールを決めるのは僕だ!!」



	 理不尽を訴える彼女こそが理不尽であると信じて疑わなかった僕

	の中で、次に湧きあがった新たな感情は、暗い怒りと──快感だっ

	た。



	 逃れられないことを理解できずにビンの中をむなしく飛び回り、

	力尽きてゆく蝶は、その姿が可憐で美しいほど、より僕を喜ばせて

	くれる。



	 今、目の前の美しい蝶の生殺与奪の権は、僕の手の内にある。



	「宴は終わりだ。部屋に戻ってもらおう」



	 目の前で震える細い肩に何の感慨も得られずに、僕は冷然と宣告

	していた。











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