『 A bird is flying 』

 

 

  こんなことがあっていいはずがない

  人は自由であらねばならない

  その人はぼくでなければならない

          (テッド・バンディ)

 

 

                  [終章]

 

                  (14)

 

 黒装束の集まりだ。咽るまでの香の香り。咳払いと、すすり泣く声。

 全ての人々が悲嘆の中で寛いでいる。自然にと言うより、義務でもあるからだ。そんな中で彼女は居心地悪そうに、声を潜めて言った。

「こういうのを、盆と正月が一緒に来た、って言うのかしら」

 隣に居た老夫婦が、怪訝そうな表情でこちらを窺う。慌てたように口元を手で押さえると、横に立つ青年に尋ねる。

「何か変なこと言った?」

「…盆と正月」

「だ、だって、あんたの合格発表の翌週にこれだから」

「全然意味が違うよ……」

 古めかしい言いまわしで、しかも意味を取り違えている。時折見せる彼女の癖。海外での日本語教育による賜物なのかは分からない。聞かされる身としては困惑し、笑いを堪えるしかない。

 大概、次の瞬間にはそんな努力の必要は無くなる。鈍い痛覚に顔を顰める結果となるのだ。

 実際、そうなった。

「…痛い」

「手伝ってやっただけよ、不謹慎!」

 アスカは、唸るような低い声で呟くとそっぽを向いた。おまけだとでも言うように、足を踏みつけた踵に力を込めるのも忘れなかった。黒のワンピースに丈が長いスカート。地味な服装だ。

 喪服姿なんて見るのは初めてだよな。そのいでたちは不似合いでありながら厳粛さも感じさせる。そんな想いに、シンジは表情を引き締め姿勢を正した。もっとも、右足に疼く鈍痛の方が、効果としては大きかったが。

 遺志により、葬式自体は簡素だ。特定の宗教色も強くない。誰かが気を廻したのか、地元の僧侶が招かれ読経を行っているだけだ。

 ここは寺でもなければ特別な会場でもない。鎌倉市の郊外に位置する、故人の自宅だ。竹薮に周囲を囲まれた一軒家。老人一人の住まいには適当だろう。しかし大勢の客を収めるには手狭過ぎた。その事実を意外に感じているのは、亡き住人自身かも知れない。

 玄関の外まで並ぶ列に二人は加わっている。シンジは先程から睡魔と戦っていた。不謹慎なのは勿論承知だ。ここ一ヶ月は受験への追い込みに必死だった。それから解放され、今日の穏やかな陽気を前にしてみると、五感に感じ取れるものの殆どが、お休みなさいと優しく語り掛けてくるような気にすらなる。

 正直なところ、この場に居る事自体が若干疑問でもあった。故人と関わりが無かったわけではない。だが死の事実にも、胸の奥底が融かされるような、あの独特の痛覚に苛まれなかった。それが本音だ。

 横目でアスカの表情を窺う。先程とは打って変わった沈痛な表情だ。目を伏せ、両手を前で重ねる姿。違和感はある。最も慕っていた人物の死に対しての反応は、こんなものでは済まなかった。芝居、とは嫌な言い方だが、本当の嘆きの深さを知っている分、そう感じずにはいられない。

 冬月コウゾウ。旧ネルフの副司令。彼が胃癌でこの世を去ったのは、つい三日前の事だ。

「最後に会った時の事も、悪いとは思うけど憶えてないんだ」

「あたし、憶えてる」

「何時?」

「負傷して入院してた時、一度だけ来てくれた。…まあ、あの時のあたし、でしょ?だから寝たふりして無視しちゃったんだけど」

「そうか」

「十分ぐらいかな。声もかけないで、ずっとベットの横に立ってた。何だか、不思議だった」

 自分達二人の上司だった人物。冬月についての思い出話など、ここに来る電車内で交わした会話程度だ。

 結局二人が葬式に出席しているのは、葛城ミサトの名代として、という理由でしかなかった。

 懸念していた通り、予定されていたミサトの帰国は、延期となった。危険な任務である事は理解しているから、最近は海外のニュースにもよく目を向けている。中央アジアの情勢は流動的で国連のPKF活動は今が正念場だ。しかし中心国であるアメリカ、ロシア、中国の利害が激しく対立し、現地で活動するミサトも頭痛の種が尽きないようだ。

 国際電話の向こうで代わりの出席を頼み込むミサトに、二人とも抵抗無く快諾した。拒む理由とて見当たらなかったのだ。冬月とはつまり、シンジとアスカにとってはそう言う程度の人物に過ぎない。

 冬月には近親者が既にない。葬式の主催者はさる大学の教授で、出席しているのも学会の関係者などが殆どだ。ネルフ解体後、冬月は隠遁生活に近い日々を送っていた。とはいえ、形而上生物学という、物珍しい分野での実績を認める学者も、数は少ないが居たようだ。

 いかにも研究者風の、くたびれたスーツを着た男が、御焼香願います、と二人に促した。薦められるまま玄関口を通り、客間へと向かう。弔問客の何人かが物珍しそうに、こちらへ視線を送るのを感じた。こういった場では、アスカの華やかな容姿が、明かに浮いていた。

 仏前に座る。一応、形になった正座をしたアスカが、戸惑った視線を向けた。日本での生活も長いが、こういった礼式の作法には疎い。身振りで焼香の仕方を教えた。納得し、彼女の口元が微かに緩む。

 横から視線を感じ顔を向ける。赤木リツコが、やや離れた奥座敷で正座していた。何処となく、微笑ましそうな目をこちらに向けていた。軽く挨拶する。丁寧に彼女は会釈した。

 再び正面へと向き直る。二人は、盛られた御香を摘み燻る灰へと投じた。同時に手を合わせる。

 アスカは目を閉じていた。祈りの言葉らしきものを口ずさむが、無論御経ではない。姿勢こそが大事だ、と割り切っているのだ。その静かな囁きを耳にしながら、目を閉じられずにいた。

 あれから、何年過ぎた?

 突如想いに囚われた。電撃に打たれたかのように、言葉が、全身を駆け巡った。思考は次の瞬間空白となり、過去の光景が言葉と混在し定着した。

 彼等は老いていた。

 遺影の中の冬月。以前よく目にした、何かを達観したような笑み。自分の発した言葉を否定せず、ただ受け止め去って行った父。その背中は何時の間にか狭くなっていた。弔問客から一人離れ、縁側で庭を見つめるリツコ。彼女は何を捨て何を諦め、そして何を手に入れたのか。

 老いていた。老いてゆく。全ての人々が、全ての物事が。流れゆく日々と避けられぬ腐食。今、明確に、身近なものとしてそれを感じた。時間、そして変化を。

 何を恐れていたのか、それが分かったのだ。僕は、失う事に目を逸らしていた訳でもなく、捨てられる事に震えていた訳でもなかった。それは表れでしかなかった。

 移ろい。それが根本だったのだ。絶え間ない出会いと別れ。押さえられぬ心の危うさ。汲み取っては零れてゆく水のように、何もかもがそのまま、ではいられない。この事実。

 変わってゆくのだ、人は。アスカも、そして全ての者達が。怖かった事は、許せなかった事は、彼等の変化ではない。自分自身の変化だ。変われずに居られるならそれはどんなに、楽だろう。

 だが無理なのだ、もう。死という事実。それはこんなにも普通に日常的に、戦いなどへの直面もなく、空を過ぎ去る鳥のようにやって来る。この事実だけで充分な証だ。誰もが特別というわけにはいかない。

「どうしたの?」

 涙を流していた。気付いたのは、彼女の問いでだった。何度彼女に僕は、こうして、自分を気付かされただろうか?

「戦ったんだよな、僕たちは。皆で。必死で」

「うん」

「あれが、何だったっていうんだ?あれも普通だったんじゃないのか?」

 小首を傾げ考え込む彼女。でも答えなんていらない。答えを求めすぎていたのだ。問いとは必ずしも答えを、伴うものじゃない。そもそも答えはどこにある?確かなものなど存在するのか?あるとすれば、それは……。

「行こう」

「うん」

 立ち上がり会釈する。二度と会うことはない人に。振り向き会釈する。二度と会う事もないかも知れない人達に。それぞれの流す涙が、苦痛が、退屈が、空々しくそれでいて、愛しかった。

 玄関を出る。嘗て冬月と呼ばれた男の家。築数十年の借家の周囲は、清々しい緑の香りが漂う。砂利道を抜けて県道へ。緩やかな坂道だ。蝉の鳴き声が止む事はない。全てが生命を主張している。当たり前のように。当たり前に出来ないのは、人だけだ。

「ここまでにした方がいいのかな」

 坂道の途中、公園の横でアスカがそう言った。公園に茂る木々の向うには海が望めた。白浪。風はやや強い。

「何を?」

「父の事」

 輝く海の方を見ながら答えた。彼女はパパ、とは言わなかった。

「進学するのも保留して探してみた。また迷惑かけたよね、シンジにも。それでも受験、合格してくれて安心したけど」

 目を伏せるが表情は暗くない。そこにはただ、諦めの笑みがあった。らしくない。だが気持ちは分かる。実際父親を求めるアスカの旅路は、帰国して二ヶ月を経た今、完全に暗礁へ乗り上げていた。

 彼女の父に関する数少ない情報。それは心を軽くするものばかりではなかった。医療に携わる者として失格。それがアスカの父に、日本で押された烙印だ。

「お父さんの事……、信じられなくなったの?」

「そうじゃない。許可も得ず人体実験まがいの治療をしたとか、犯罪者を匿って手当てしたとか、そんな話はどうでもいいの」

「医者としての鏡だ、そう言ってくれた人も居たよね」

「やるべきだと思ったから、やった。そういう人だったと思いたい。ううん、確かめたいとは思う。でも無理よ、会うのは。海外に出た。分かったのは結局それだけだもの」

 望まれて来日したにもかかわらず、アスカの父は日本の医学界から追放された形だ。友人だったNGOの関係者が、紛争地での医療活動を行う団体に推薦した事までは、調査できた。しかし海外に出た後の行方は判然としないままだ。

 こういう言い方は悪いと思うけど、最悪の場合も覚悟しておくべきかも知れない。父親の友人は顔を顰めながらそう告げ、その夜アスカは眠れずに泣いた。

「副司令の前で手を合わせていた時、こうも思ったの。父に会わなくちゃ自分は変われない。そう考えているのは、目を逸らしているだけなのかなって。結局あたしは、あたしで変わらなくちゃいけないのに。ううん違うな、そうなれる自分を避けてるだけなのかもって」

 答える必要はなかった。自分という存在に語り掛ける事でアスカは、心を整理している。今ならそれが分かる。そしてシンジにはそれが、とても嬉しかった。

「ずっと過去を理由にして生きてきた。あたしは過去に縋っているだけ。そう思わない?」

 答える必要はなかった。分かっている、それは。だけど背負わなくてはならない物がある。それを告げるべきだ。隠し続けるのは最早、フェアじゃない。

「君に言わないといけない事が、あるんだ」

「何?」

「ドイツから便りが来た。君じゃなく、僕宛に」

「それって……、まさか」

「中身は見たけど、捨てた。内容も話さない。話したくないんだ。一つだけ言えるのは、あの男は君を諦めていない。だからきっと僕達は、戦わなくちゃいけない」

 海は青く、輝いていた。空も真っ青だ。風は全てを洗い流す。波の音も。それを褪せさせる程の、黒い意思。思い出さずにはいられなかった。

 手紙の代わりに入っていたのは一枚の写真。二月の中旬だけ、僅かな時に咲き誇る桜。その花びらが舞う並木道で笑みを交わし、肩を寄せ合う二人。閉じ込められた日々の瞬間。写真の裏にはこう書かれていた。

『籠の中の二匹の鳥』と。

 何時も見ている。何時でも壊せる、お前たちを。意思表示であることなど、それだけで明らかだった。

 海、空、木々。吸い込まれるような色彩。世界はこうも美しい。それなのになぜ、時として醜悪なのか?

「縋ろうが何だろうが、向うから来るものなんだね。過去って」

 アスカは自嘲した。涙を浮かべていた。昔に比べ涙脆くなった、アスカ。そんな彼女を抱きしめた。力がいる。そう、力が。アスカにも、僕にも。

「諦めるべきじゃない」

 覚悟は出来ている。僕も一緒に背負う。出来る事は、それだけだ。

「そうする事に理由なんて、いらないと思う。それが少しでも力になるのなら、探し続けるべきだよ」

「会いたいよ……、あたしだって。微笑んでくれるだけ。それでいいの」

「約束するよ、探し出すと。そしていつかもう一度、会おう。昔の君と、君を生み出してくれた人と。それは」

 縋る事でもなく、恐れる事でもない。変わりゆく自分。それを只、受け入れるための儀式だ。過去はその指標だ。不確かな未来を、微笑と共に見詰めるための、道標。

 抱きしめ、ただ抱きしめ続け、暖かかった。こうも暖かいものなのか、他人とは。分かった。僕は分かったよ、アスカ。確かなものがあるとしたらそれは、この暖かさだけだ。

「クス……。進学、止めといて正解だったかもね」

「そうだね」

「でも最低で一年、か。父の事はともかく、暇になりそうだなあ。あたしさ、言わばフリーってやつなのよ、シンジ」

「うん?」

 押しのけるように身を離し怒ったように睨む。そして大袈裟に溜息。ニヤリと笑う。それでも全然、彼女の意図が分からなかった。

「バーカ。結局あたしの方から言わなくちゃ分かんないの?あんた、全然変わらないわね、そういうところは」

 さっさと歩き出す。そして坂の頂上で振り向いた。逆光。表情は影となり、ただ栗色の髪の輝きが、眩しかった。

「また一緒に住んでみない?そう言ってるのよ!」

 駆けて行った。姿が消え、陽炎だけが残る。歩き出し、自分の今の気持ちにシンジは苦笑する。恐れるものは何もない、この僕が?

 強さ。手に入れられたのかも知れない。それならば手放したくはない。たとえ迷う事はあっても彼女と共に、二度と。この日々が僕の力となる。

 日々が、人の力となる。

 

                  (15)

 

 目を覚ましたのは、全身に疼く痛みによってだ。

 生きている。口に出していた。確認する、もう一度。両腕を上げる。鋭い痛み。呻き、唇をかみ締め、もう一度思った。

 私は、生きている。

 そんな自分がどこに居るのか、思い出せない。

 視界の焦点が合うまで時間が掛かる。激しい頭痛。それでいて側頭部には絶え間ない痒み。脱力した下半身の筋肉。今は首の関節だけが自由になる。右へ。白い壁と窓。窓の先には空。どこか乾いたような雲一つない、空。

 左へ。ベット。空のベットが二つ。ここは病室?その先には机、椅子、医師。髪は金髪、いや褪せた茶色だ。疲れきった表情。目尻と額に刻まれた皺が痛々しい。それでもこちらの様子に気付くと、ゆっくりと微笑んだ。組んだ腕を解いて立ち上がる。

「気が付かれたようですね」

 流暢な日本語だ。ここは祖国?いや、違う。部屋全体を満たす乾いた空気とその香りに、徐々に記憶が蘇ってゆく事を、感じた。ここは砂と山の国。

「私は……」

「不幸中の幸い、と言うべきなのでしょうか。あなたは会場から少し離れた所に居たようだ。残念ながら生存者はごく僅かです」

 会場。生存者。そうだ。あの時、突然の爆発で。まさか?

「代表団の人達は!痛っ……」

「無理はしない方がいいです。葛城二佐」

 葛城ミサトはそれでも身を起そうとし、もがき、再確認した。動ける状態じゃない。右足が折れている。脇腹の痛み。多分大きな裂傷だ。これでまた、傷が増える。泣き出したい気分だった。

「代表団の人達は、一人も?」

「助かりませんでした。あれから一日経ちましたが、両勢力とも戦闘を再開しています。残念ですが、和平の機会は瓦解しました」

「そんな……。今回は停戦合意の確認作業の会合だった。実質停戦期間に入っているのよ。それなのに」

「爆発の原因はまだ不明です。ですが約十時間前、アメリカ政府が公式発表を行いました。今回の事件を反政府勢力によるテロと断定し、国連によるPKF活動から離脱。単独での武力介入を決定したと」

「何て馬鹿なことを!」

 明白だった。消えかけた火に油を注ぐような行為だ。それも大量に。彼女には容易に想像が付いた。イスラムの戦士達は聖戦の名の下に結集し、周辺諸国の情勢は混沌の内に陥る。この情勢を、ロシア、中国も黙って看過しまい。中央アジア全体が、戦火に燃える。

 虚脱感がミサトを襲った。終わった。何もかもが。一年以上に渡りこの地で、灰色の大地の広がるこの国で、自分達が成して来た事は崩壊したのだ。

「全てが無駄、か……」

「お気持ちは理解できます。ですが、今は体を休める事を考えてください。そんな状態のあなたには申し訳ないが……。我々NGOの者達はこの国から出なくてはなりません。国連から勧告があったのです。国連軍も既に撤収を開始しました。あなたにもご同道していただきます」

「出るといっても、どこへ?」

「国境地帯です。難民キャンプに向かう事になるでしょう。暫くしてから、そこであなたの身柄を国連に引き渡します」

 本来なら撤収作業を進めるPKF国連軍司令部に、出頭すべきかもしれなかった。だがこの傷では無理だ。何より気力が失せていた。ミサトは目を瞑り答えた。

「分かりました。軍への連絡、お願いできるでしょうか?」

 医師は頷き部屋を出て行った。もう一度目を開きぼんやりと考えた。ここでしてきた事は、何だったのだろう?全てが余計なお世話、だったのか?

「これが現実、ってやつなの?救いがないと思わない?加治君」

 涙が零れた。止まらない。十分ほどそうして、眠れた。意識が暗くなる中、彼が答えてくれた。

 それでもお前は生きている、それでいいのさ、と。

 

 未舗装の道路をバスが行く。道路というより、雨期には存在する河が干上がっただけの道だ。揺れは酷く、その度に全身の痛みが蘇る。

 救護用に改造されたバスにはミサト以外にも、数人の負傷者が乗せられていた。一般市民、それに政府側と反政府勢力、それぞれの兵士。道中彼らは、言い争う事もなかった。虚ろな目でただ、離れゆく故国の空を見詰めていた。

 空は、大地と同じように乾ききっていた。初めてこの国に来た時思ったものだ。何て透き通った空なのだろう、と。一片の曇りもない空。故郷のそれとは全く異なるそれ。これが、青という色彩だ。

 傍らに付き添う医師。車が揺れる度に腕を優しく握り、体が跳ねるのを抑えてくれる。本人が言うにはNGO職員として、国境なき医師団に派遣された身だとのこと。仕事柄理解できるが楽な職業ではない。それを成すにはやや、この医師は老いているように見えた。

 NGO職員と負傷者、避難民、そして撤退を兼ねた国連軍警護隊で構成されたコンボイは、国境付近に接近しつつあった。今のところ戦闘には巻き込まれていない。一度、反政府側の武装集団に検問を受けたが、こちらに避難民が混じっていると分かると暗い目で頷き、通過を許した。

「情勢はどうなのですか?」

 ミサトは尋ねた。ここ二日、殆ど眠りの中にあった彼女は、情報に接する機会がなかった。とはいえどこか、義務的な調子の問いだ。

「首都は政府軍が掌握した模様です。アメリカ空軍の援護を受けて、反政府勢力を撤退に追い込んだらしい。しかし北部では反政府勢力の部隊と周辺諸国から流入した武装組織が、再結集を始めています」

「ロシアと中国は?」

「呆れた話ですが、反政府側への支援を行う皆、表明しました。イスラムには冷たい国のくせにね。アメリカも同じようなものですが」

 葛城ミサトはPKF活動を行うため派遣された国連軍の、参謀の地位にあった。とはいえその職務は軍事面よりも、地元勢力との折衝が主だった。政府側と反政府勢力に交渉を粘り強く促し、拡大する局面にあった戦火を沈静化させたのは、彼女の功績も大きかった。

 だけどもう、どうでもいい。傷口が塞がったとは言え、かえって痒みが増した側頭部に左手を添えながら、彼女は思った。肉体の回復は早いが、虚無感は増すばかりだ。今は只帰りたい、日本に。

「医師として、この国の現状と人々の状態を見るのは辛い。ですが私は、こうなったのも仕方ない、そうも思うのです」

「えっ?」

 微笑みながら言葉を発した医師の真意が、ミサトには分からなかった。

「人は、自分達が思うほど想像力がたくましくない。痛みが受け入れられないのです、血を流さなくては。この国の現状は嘗て我々西洋の人間が、何百年と続けてきた愚かな所行の縮図に過ぎない。そんな気がします。いつかは通らないといけない、道だとね」

「でも、看過は出来ないでしょう?」

「そうです。ですが、我々の考えを押し付けても仕方ない。選択は、その土地の人間が行うべきだ。それが私たちには理解できない結果でもね。自由に選択するためのリスク。それを奪う事が、幸福に繋がる事でしょうか?出来る事と言えば見守り、不要な争いを調停し、傷付いた人々を癒す。そんなものではないでしょうか」

 どうだろうか。元気な頃の自分なら、何かしら反駁はしたかも知れない。少なくとも自分は、医師が言うような志で、仕事を行ってきたつもりだ。だが国連の無力さ、諸大国の身勝手さを痛感した今となっては、言葉がない。

「人間というのは、そんなに急げるものじゃない。だからと言って、あなたの仕事も無意味とは思いませんが」

「なぜ私に、そんな事を?」

「なぜでしょう。今のあなたが、嘗ての自分に似ている。そんな気がしただけです。傲慢かもしれませんが」

 さらに数時間、バスは走った。難民キャンプに着いたのは、山々で婉曲する地平線に日が沈み始めた頃だった。

 担架で運ばれ医療用テントへと入る。中は負傷者で満ちていた。ここは比較的軽傷の者が多いようだ。隣のベットにはまだ幼い少女が横たわっていた。目が合い、微笑みかけた。少女は漆黒の瞳でじっと、こちらを見ていた。

「連絡がありました。明後日、国連関係者があなたを迎えに来ます」

 頷く。そして目を瞑った。その夜は何度か目が覚めた。嘆きの声、苦痛の声。テントばかりでなくキャンプ中に溢れていた。あの医師は眠る事もなく、彼らの言葉を癒すため、走り回っている。

 あの戦いは何だったのか?今やずっと以前に感じられる戦いの日々を思い出し、故郷に居る少年と少女の顔を思い出し、いえ、もうあなた達は大人よね、そう訂正し、その面影に語りかけてみた。

 何も変わらなかったのね、世界は。あんな目に、あなた達を遭わせたのに。私を恨んでいない?

 思い出の中で少年と少女は、ただ笑いかけていた。ただ微笑んでいた。

 それで眠れた。

 

 二日後。太陽が中空に輝く中、ミサトはテントを出た。看護婦の手を借り、外へと出る。看護婦、と呼ぶべきなのだろうか?格好は様になっているが、明らかにまだ十代の少女だ。

「大丈夫?杖の使い方、慣れてるみたいだけど」

 前に経験あるから。日本語で答える。少女はどう見ても、日本人の顔立ちだ。随分大きな瞳だな。笑みを常に絶やさない娘の顔を、そう思った。

「今日も天気が、いいねえ。ドイツとは大違いだなあ。雨多いんだよね、あそこ。まったくもうカビ生えちゃうよ。カマドウマの天国だよね」

「ドイツ?ドイツから来たの?」

「うん、そう。でもまあ、逃げてきたって言った方がいいかも。色々ありまして本当は不法入国ってやつ?あっ、これオフレコねクククッ!」

 難民キャンプは人々で一杯だ。思い思いの場所に座り、昼食の配給を待っている。元気な子供たちもいる。無垢な瞳で駆け回る。疲れ果てた大人たちの間を縫って。少しだけ救われた気がする。彼らが生きながらえれば、それは無駄な事ではない。

 やがてキャンプのはずれへ。どうやら国連職員は到着しているようだ。ジープと装甲車、その後ろには大型バス。新たに派遣された医療関係者が乗っているのか。その前ではあの医師が、職員らしき人達と話をしている。

「んじゃあ、行こ」

「ええ」

 歩き出す。どこからか歌声とギターの音が流れてくる。はっきりしないが記憶にある曲だ。ジョン・レノン、大嫌いだとか言ってたのに歌ってやんの。横で少女がクククッと笑う。

 空を見上げる。本当に、青い。どこまでも青。私たちはこの色にただ、感心して生きてはいけないのだろうか?

「いい天気だよね、ホントに」

「そうね」

「青いねえ。あの空は、何て空、なんだろうね?」

「あの空は……」

 ミサトは答えられなかった。視界の先に、懐かしい、そして信じられない姿を認めたからだ。

 バスから降り立つ二人。あの日々のままに、そして遥かに成長した姿。青年の顔に浮かんでいる微笑。一方少女は、涙を浮かべている。駆け寄る。栗色の髪を靡かせて。当惑したような医師。その腕の中へ。少女が何かを語りかける。止まる。留まる。それは一瞬で、再び動き始める。時が。

 お帰り、アスカ。医師は確かに、そう言った。

「あの空はねえ、希望、なんだよ」

 溢れる涙を抑えきれずミサトはただ、歩み続ける。希望。それに加わろうと、願って。

 

 

              − DAS ENDE −

 

 

 


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