『 BLUE 』

 

                    (8)

 

 視界の先、いや周囲360度全てが真っ白だ。

 吹きすさぶ風に秩序などなかった。風向きを計る意味も無い。でたらめで、渦を巻くというでもなく、存在するあらゆる物に対して当り散らす。飛翔する直径ミクロン単位の氷の礫が僅かに露出する肌を打つ。氷点下の空気によって麻痺した皮膚感覚に、痛みは曖昧だ。

 これはまるで壁だな。しかし前進を妨げるほど強固でもない。視界は予報通り最悪だが、位置の特定はGPS(全地球航空測位システム)の使用で支障はない。時として風速15メートルを超える強風とて、チョッパーの飛行を不可能とし、代打で起用した雪上車に、多少の横揺れを与えただけだ。三十分ほど前から車外へと出て、現在は徒歩で前進している。雪上車は約二キロメートル後方で追随しているはずだ。

 硬く氷結しているとはいえ、雪原の上を歩くのは少々きつい。だが、急ぐ必要は今のところない。ここから先はむしろ地を這う蜘蛛のような歩みを、心がけなくてはならない。

 それにしても、この寒さといったらどうだ?空気は驚くほど澄んでいるくせに、嫌になるほど質量を感じさせる。と言うより、精神自体が鈍っていく感覚か。これならまだコロンビアのジャングルのほうが増しだ。暑さと湿気は、体力と士気を奪うが、一方で解放感を伴う。肉体の中の水分と外界の水分が溶け合い、境目がなくなるような倦怠だ。ここに漂うのは全く逆の、閉塞感でしかない。

 俺達は招かれざる客だって事だろうな。そもそも、ハイキングを行うのに適した土地ってわけでもない。危険だとかどうだとか、それは大した問題ではない。軍に所属して十年になるが、やっと分かったのさ。生き死にと言う名のダイスがどう転がるかに、環境というものは副次的な影響しか与えないものだ。古びて傾いたテーブルか、あるいはクッションの効きすぎたカーペットの上か。それだけの事だ。要はルールを理解し適応する心がけだ。太平洋のど真中に放り出されたり、火山の火口に投げ込まれない限りは、生き長らえるチャンスは転がっている。

「心がけでありますか。しかし、我々はペンギンのようにはいきません」

 馬鹿かお前は。ペンギンなど、モハーブェ砂漠の入り口に放り出した時点で御陀仏さ。フリーウエイ沿いのうらびれたドライブインで、気の抜けたビールを呷る暇すらありはしない。乾涸びて燻製になり、酒の肴になるのが関の山さ。

 いいか、要はこう言うことだ。海兵隊に所属する知り合いに呼び出され、安酒を浴びるほど飲まされる。くだを巻きながら裏路地で吐いてると、ヒスパニックの醜い娼婦に腕を取られた。すえるような安香水と腋臭の匂い。それに咽ている隙に、知り合いの男は細身で愛想の良い、チャイニーズのクーニャン(少女)とよろしくってわけだ。想像してみろ。似たような経験は無いか?

「はあ。東洋人の女は、金に汚いので信用できませんが」

 それはどこの国の連中だ?私見だが、アジア娘は一般的に義理堅いものだ。女に義理が見出せる、それ自体驚異的な事だぞ。

「自分は嘗て、任地先で声を掛けられたティーンエージャーに、ホテルで有り金を掠め取られました。コックどころか、指一本入れる前にであります。上官には、そんな金などあったら、商売女の一人も買えば良かったのだと笑われました」

 だからどこの国だ、それは。うん?そうか、あの国の娘どもは別だ。義理も倫理観も何も無い。屁理屈と強欲、身も蓋も無い自己愛による顕示欲で凝り固まっている。心に止まるものと言えば、携帯に入る出任せだらけのメールやら昼食のカロリー量、常備しているピルの数ぐらいのものさ。

 あの国の性犯罪発生率が、アメリカの半分にも満たない理由が分かるか?まあ聞く所によると公共の交通機関、屠殺場に連れて行かれる豚や牛のようにすし詰めにされた電車内なんかが代表らしいが、相手の局部に触れたり自分のコックを取りだし、擦ったり擦りつけたりする程度の軽犯罪なら日常茶飯事らしい。

 卑しい、パラノイアめいた、不健康な犯罪だと思わないか?他の国ではそうは聞かない、陰湿で歪んだ手口だ。連中特有のやり方に違いない。肉体の欲求というより、シチュエーションってやつ自体に興奮する。俺は、想像力を欠いた人間というのが、救いようのないバカだと思っているが、連中の場合はそんな高尚なもんじゃない。つまりは妄想に支配されているんだ。

 簡単な話、ジャップの男どもは悉く、インポテンズなわけだ。その原因はお前が不覚をとった、ティーンエージャーの娘どもにもある。

 連中のメイクを見てどう思った?吐き気がするだろ?ストリートに年中立ちっぱなしの娼婦でも、ああは酷くないぞ。思うに、一種の自己防衛かもしれない。腹話術の人形に欲情する変態はそう多くはないからな。ああやって自分らが咥え込み、骨抜きにする相手を選ぶ権利を、確保しているのだろうさ。

 話を元に戻す。そう、醜い娼婦に捕まったところからだ。安ホテルにしけ込んだ挙句、ヤスリのようにざらついた舌と喉の粘膜がコックの先を包み込む。単なる排泄処理さ。その真っ最中に地元のストリートギャング、年端もいかない糞ガキどもが乱入してきて、玩具めいたタウルスだか引き金を引くたびに嫌な音がするノリンコだか、怪しい拳銃を突き付けてくるわけだ。

 そうさ、俺だってベルトに私物の拳銃は挟んでいる。だが銃殺でもしてみろ。さっさと告訴、財産全て搾り取られるのがオチだ。食い詰めのガキが犯罪で立身出世なんてのは、古きよき時代の幻想さ。奴等はこんな時代でも中流階級を気取ってる郊外の一家の、愛息が殆どだ。本当に飢えた子供達なら、泥土に覆われたロングビーチ辺りで足掻いているさ。

 で、こっちも睨みは利かせながら交渉成立。まあ無一文になるわけだが、徒歩で二キロ、自宅のロフトに戻り、命あってのものだねだとふて寝する、日曜の朝。くそ、だがこの寒さの中で目覚めるよりは遥かに増しだろう。

「自分の故郷は昔から、冬も何もない所でした。寒さというやつには慣れることが出来ません。性器が凍り付きそうであります」

 南部の出身か?そうか、フロリダの出なら無理もない。ならば山と森の、早朝の冷やかさを知らんだろう。原生林の日差しはいつも暗いんだ。地上を這う者達はそのおこぼれを与るしかない。松やら樫の木も生きるのに必死だから当然だが。

 ロッキー山中で友人達とキャンプを張る。土曜の晩に広葉樹、針葉樹の入り混じった森林をビール缶、ビーフジャーキーの包装、吸殻、下し気味の糞や痰で汚しまくるわけだ。

 翌朝には過剰なパワーを持つ狩猟用ライフル、アンフェアなショットガンを抱え、鹿を狩り立てる。子連れの雌鹿にウエザビーのマグナムを撃ち込む。その骸の乳房を、必死に吸い続ける小鹿には9ミリ弾で充分だ。地元の森林警備隊員に見つかれば面倒だが、100ドル紙幣を四、五枚渡し、バドワイザーで乾杯してやれ。後ろめたそうに微笑みながら去って行くのが常だ。

 恐ろしいのはその後だ。鹿の骸から放たれた血の香りは、肌に纏わりつく霧に乗り、山中奥深くまで浸透する。それは時として奴らに届く。そうなれば、アルコール混じりの汗、マールボロのヤニが張り付いた舌、真新しい硝煙から放たれる、普段なら奴らを怖気つかせる臭気は、その神経に届くことはない。

 藪の中から呼吸音。まるでアスファルトの底から響く、地下鉄の唸りだ。森の空気はその密度を変える。幾重にもブレンドされた、野生のみが放ち得る悪臭。激しい飢えを前に隠そうともしない殺気。そうさ、あいつらにとって俺達人間など、単なる食料に過ぎない。冷めちまったマクドナルドのフィッシュバーガーと、大して変わりはないのさ。

 おい、ブルッてるのか?この程度の話で、想像力のたくましい奴だ。

「いえ、その。先程から何かが唸るような音が、ずっと聞こえませんか?」

 風だ。でなければ氷が発する音だろ。微妙な気温の変化でも、浅い所なら氷河は伸縮するらしい。心配するな、ここには間違っても熊なんか居やしない。

「妙な所ですね、ここは。何も無く静かなようで、なぜか落ち着けない。冬の景色というのは、こういうものなんでしょうか」

 そういうわけじゃないさ。今は視界が悪いからな。見えないから、はっきりしないから心が騒ぐんだ。しかし寒さに身体は震えても、心まで凍えさせるなよ。

 生き死にの現実なんてどこにでも転がっている。ロスのサウスセントラルと、ロッキー山中の間にある差など、週末の過ごし方の違いぐらいに受け止めなくてはならない。ここも同じ事だ、受け入れろ。

 ペンギンなんぞ手本にするな。犬になれ。違う、ウェルシュ・コーギーなんかじゃない。樺太犬だ。知らんのか?嘗てこの大陸に取り残されながら、一年近く生き延びた犬がいたと聞いている。そいつ等の祖国は、そう、お前がコックを入れそこなった娘どもの国だ。驚きだな、犬の方が遥かに品格があるときていやがる。

「はあ。しかし、奇妙なところです、ここは。戦場になるかも知れないなんて、想像できますか?あまりに静寂すぎて……」

 

 こいつ、俺の話が耳に入っているのか?

 夢見がちな表情で周囲を見渡す若い部下に呆れながら、男はゴーグルを外した。外気の冷たさは眼球を貫くかのようだ。後ろに続く部下達の中には、頻りに股間の辺りをまさぐる者もいる。凍傷を本気で恐れているらしい。自慰行為でもしているように見え滑稽だが、この寒さには、ブラックユーモアで済みそうにもない迫力が確かにある。

 手袋に覆われた指先でゴーグルを拭く。付着し凍り付いた氷雪は、表面と同化しているかのように強固だ。溜息をつき足元へと捨てた。

 吹雪程度は覚悟してください。確かにそうは言われた。地球の気候を歪ませ狂わせた、人類史上最大の災悪。その始まりの地である以上、当然過去の冷徹さを保ちえない。あと十数年もすれば大陸の大半が、ツンドラの地へ変化するとの予測すらある。最早、恐れるほどの寒さではない。

 インテリ風で、他人を窺っているような目付きをした気象予報士は、簡素な耐寒装備についてそう釈明していた。そいつの予測では、作戦地域の現在の気候は前世紀の日本、北海道・大雪山系の初冬に相当するとの事だった。

 まあ、スキーやら冬山登山には恰好と言ったところですよ。青白く、日焼けの痕も無い頬を歪めて、インテリ坊やは微笑んでいた。

 それがどうだ?寒冷地用の特殊処理が施されたゴーグルが使い物にならなくなるとは。こんなことでは他の装備も心配になる。以前会った事があるH&K社の営業担当(随分卑屈なドイツ野郎だった)によれば、MK23・ソーコム・ピストルの耐久性と作動保証は、一連の改良でより完璧なものとなったようだ。メーカー側の示すカタログ・データなど当てにはならないが、軍の兵器査定チームも概ね満足している。メンテナンス自体は、ごく少量のオイルを稼動部に注すだけで事足りる。添加剤入りオイルは、マイナス60度程度まで品質が保証されてはいる。凍結による作動不良の心配はない。支給装備である銃器全てに、それは当てはまるはずだ。

 理屈はそうだろう。それにしたって個体差ってのもある。弾丸の炸薬の燃焼効率が悪くなり、不発が起きる可能性も無いとは言えない。いざという時に銃器類まで凍りついたら、雪球でも投げて戦えってのか?息子が知ったらさぞ面白がるだろう。そういえば、アルプスだかどこかに登山して、スノーマン(雪だるま)を作ろうという約束は、まだ果たせていないな。

 自嘲気味に頬を歪める。彼が妻と離婚したのはちょうど一年前だ。親権は奪われ月に二回程度、五歳になる息子と会う権利を、認められているに過ぎない。向こうの弁護士は権利ではなく、義務だとほざいていた。糞ったれが、どうせ旅行に連れて行こうとするのは絶対に認めまい。

 予備のゴーグルをはめる。視界に大した変化はなかった。何とか風雪の向こうを窺おうと目を細める。風は弱まりつつあるようだ。この静寂さは確かに、大凡戦場とはかけ離れている。だが奇妙なのは何も、この雪景色だけではないさ、と大尉は思った。

 ここは南の果て、いや世界の果てと言った方が適切だ。大尉は、自分達が凍て付いた大地の上で這いずり回っている理由すら、完全には把握していなかった。別に珍しい事でもない。上の連中の下す命令はそういうものが大抵だ。

 自他ともに認める、世界最精鋭の部隊SEAL(アメリカ海軍所属の特殊部隊)の主力を、単なる学術調査や探検やらに投入するわけがない。相手が何であれ、俺の祖国に敵対する連中が、ここには居るって事だ。アメリカの敵はアメリカが叩き潰すべきだ。偽善の極み、寄り合い所帯の国連軍なんぞに、何時までもでかい顔をさせていられるか。

 軍人なんて稼業は、その程度のことを肝に銘じておけば充分かもしれない。だが実際に任務を遂行するとなると話は別だ。敵の規模、武装、根拠にしている地形やら何やら、必要な情報に多すぎるという事はない。勿論部隊の性格が性格だ。どんな困難な状況にも対応しなくてはならない。しかし、幾らなんでも今回は情報の開示が少なすぎる。それでいてこの任務自体には、切迫した雰囲気が感じ取れない。奇妙なのはまさにこの点だ。

 大尉率いる小隊30名が突然の命令で、メリーランド州のチェサピーク湾に面した海軍基地に移動したのは、一週間前の事だ。通常なら行われるはずのブリーフィングなどは一切無かった。翌日には輸送機に分乗させられ、出発するという慌しさだった。

 状況の説明が(僅か二十分程度のものがそう呼べるならば)行われたのは、プエルトルコのビスケス島にて乗船した、タワラ級強襲揚陸艦の船内であった。南米最南端のティエラデルフエゴ島よりさらに南下し、未だ大半を氷河で覆われるウェッデル海を目指す。目的地とはつまり、南極であった。

 当然のように大尉は抗議した。こんな大まかな説明では戦術の練りようも無い。目標となる存在も明らかでなく、最低限の行動目的すら理解せず、どう任務をこなせば良いと言うのか?

 いや、私とて何も知らされていないに等しいのだ。年季の入りようを示す、深い眉間の皺を寄せ、揚陸艦の艦長は上層部への苛立ちを率直に口にした。

「君達を南極点まで運び、星条旗を掲げさせるべきなのか、アザラシ狩りでも楽しませるのか、それすら命令にはない。大体、この艦は南極圏まで行ったことも無いのだ。もし周囲を氷に閉ざされでもしたら、我々は身動きが取れなくなる。上の連中が、極地の海の恐ろしさを理解しているかどうか、怪しいものだな」

 潜在的敵対国家であるアルゼンチン(昨年、軍のクーデターにより反国連を唱える政権が誕生した)の水域を通過すると、寒さと共に天候は徐々に悪化した。実際に南極大陸の端が視界に入ると、艦長の心配は杞憂に過ぎなかったことが分かった。ウェッデル海沿岸の海上に氷河の姿はまばらであった。

 南極はそもそも前世紀末に勃発した大災害の爆心地である。巨大質量の隕石衝突の瞬間、音速で拡散した熱風により、氷河の多くが融解した。海面の上昇は数メートル規模にも及び、世界規模の水害が沿岸部諸都市を廃墟と化した。経済活動を主として、人類文明は一時停止した。

 混乱の中、権威ある学者の多くが水害以上に恐れるべき、所謂『核の冬』の到来を断言した。隕石衝突時に成層圏まで舞い上がった無数の塵。やがて地球はそれにすっぽりと覆われる。太陽光は遮断され気温は劇的に低下する。一度は融解したはずの南極の氷河は再生に移り、北極、或いは各地の高地に存在するそれと共に拡大し始める。氷河期の再来である。それも恐竜絶滅時以上の、終わりの見えない長さのだ。

 世界は暗黒と酷寒に包まれる。科学的データを振りかざし、まるで紀元前の予言者のように振舞う学者達。泥土に覆われ死臭が漂う廃墟の中で人々は、絶望を新たにしたものだった。

 今更言うまでもないが、彼等の予測は悉く外れた。地球の気候バランスは確かに崩れた。しかしそのベクトルは正反対であった。氷河期どころか、温暖化が進んだのだ。学者達は言い訳めいた理論を必死に捻り出し、ペテン師呼ばわりされるのを回避しようとした。

 隕石衝突時の熱量があまりに膨大で、塵まで溶かしてしまったのではないか。隕石の主成分が、イリジウムなどより高い質量の何かで、塵として大気中に留まられなかった。いや、そうではない。地球上では有り得ないほど極小で軽量な金属物質で構成されていたため、大気中に拡散しても太陽光は遮らなかった。一方で、地上からの熱が宇宙空間に放出されるのは妨害し、且つオゾン層を弱め、紫外線の通過を容易にした。それで温暖化の説明もつく。

 状況証拠のみの学説なら腐るほど唱えられた。どれも結論とは認められていない。ともかく、南極の氷河は新世紀に入り僅か十数年で、数十万、数百万年に及んだ成長の営みから、急速な衰退へと転じていた。南米沖より大幅に歪曲し流れ込む、南大西洋の暖流を始めとする気候の変動に、抗する力も最早ないようだ。

 にもかかわらず上陸直前になって艦長は、揚陸艦が翌日、南アフリカのケープタウンに向かい転進すると告げた。上からの命令だ。大尉達SEALの面々を、雪原に放り出すような無情な通告はなかった。輸送用ヘリコプターの準備を艦長は約束した。事が済んだとなれば、直ちに君達の回収に戻ってくる。そうも励ましてくれた。勿論、命令があればだ、と継ぎ足しはしたが。

 ヘリの操縦士は与えられた任務に不服そうだった。広大な雪原地帯上空を飛行するのは、視覚誤認を起しやすく危険なのだ。天候の悪化も続いている。揚陸艦はヘリ発着から十分後には、既に移動を開始していた。輸送任務終了後、二機のヘリは独力でランデブー地点に向かわなくてはならない。南極上空でのアメリカ軍所属機の活動を、国連などの勢力に察知されれば、外交上厄介な事になる。そのため通常ならナビゲーションに使用する無線等は、封止するしかない。

 一時穏やかになっていた風が強まり、機体にも横揺れを与え始めた。フライト開始より二十分後、目的地上空に達した。何だこりゃ、まるでゴーストハウスって感じだ。若い副操縦士が拍子抜けしたような声をあげた。

 着陸地点は、前世紀中頃に設置されたロシアの南極基地であった。機能はしていないはずだ。大災害発生の際、各国の南極基地は壊滅的被害を受け、生き延びた僅かな人員も間もなく撤収した。彼らがこの地で再び職務を果たす見込みもない。バレンタイン条約締結時、国連加盟国は南極条約の強化にも合意した。南極での資源開発、軍事行動等はいっさい禁止されている。唯一の特例は、国連主催の学術調査団が一年ごとに行う、一週間程度の調査活動だけだ。

 大尉達の、いや今回のアメリカ軍の行動そのものが、明確な条約違反と言える。死滅の危機にあるアザラシなどの野生動物を狙い、密かに上陸しているという密猟団。或いは行き場のない産業廃棄物を不法投棄していると言う処理業者達と、罪状的には大差が無い。南極は人類の活動の兆候があってはならない、禁断の地となっていた。

 こんなところが任地とは、同情しますよ。皮肉混じりの操縦士の言葉を大尉は無視した。なるほど、端から無人の地と決めてかかるなら、そういう言葉も出てくるだろう。実際、人影はおろか窓から漏れる室内の明かりも、全く視認できない。

 だが大尉は見逃さなかった。この廃屋の塊にしか見えない基地跡には、本来あってはならない兆候が幾つか窺える。問題はそれが、誰によるものかと言う事だ。こちらは鈍重な輸送ヘリ二機。対空ミサイル二発もあれば撃墜は容易だ。となれば、今のところ敵対意志はないということか。

 無警戒に二機のヘリは着陸した。謝意を告げると、せいせいしたよ、とでも言いたそうに操縦士は肩を竦めた。その態度通り、乗客が全て降りると、二機のヘリは直ちに飛び去った。

 大尉は小隊に三十メートル四方への散開待機を命じた。降着した場所は基地敷地内のほぼ真中、廃屋に四方を囲まれた広い空き地だ。遮蔽物となる物は何も無い。こんな所で挟撃されればひとたまりもないだろう。もっと散開の範囲を広げたいが、既に吹雪とでも呼ぶべき風雪がそれを許さない。

 悪化した視界の中、大尉は冷静に周囲の観察を行った。間違いない。偽装はされているようだが、ざっと見渡しただけでも人間活動の兆候は見出せる。上空から確認できた蒸気の帯は、近づいてみると氷河の割れ目から立ち上っているのが分かった。

 これは明らかに人工的なものだ。割れ目を覗き込むと、およそ五メートル程下方に、排気ダクトらしきものが確認できる。地上はともかく、地下にも息を潜めている者が居るという事か。何よりも、気配と視線が濃厚に感じ取れる。随分と分かりやすい。玄人、とまではいかない者達の集まりだろう。殺気も感じない。あれは、首筋の辺りの毛穴が、チリチリと萎縮する感覚を伴うものだ。どうやら到着早々、完全に不利な状態でのドンパチは、行わずに済みそうだ。

 その男が現れたのは、寒風に晒され続けて十五分以上も経ってからだった。大袈裟なほど防寒着を着込んでいる。背後に従う武装した二人は護衛のつもりだろう。目の前まで来ると、厚着の男はぎこちなく敬礼をした。その姿に大尉は心中抱いていた、この任務全体への馬鹿らしさを、はっきりと認識した。

 相手は間違いなくアメリカ陸軍将校だ。実戦畑の人間でない事など一目で分かる。顔の青白さとやや潤みがちの眼は、風邪をひいているわけではあるまい。着ぐるみでも着込んだかのように太った体格も、どうやら防寒着によるものでは無さそうだ。階級から見て高級参謀か何かが役職だろうが、この狭い額から、妙案が弾き出されるとは思えなかった。

 将校は震える唇での挨拶もそこそこに、大尉達を基地の施設内に案内した。建物に入った瞬間、温度が三十度近く上昇するのを肌で感じた。空調設備は完璧に作動している。施設内は殺風景だが、照明などの設備は数十年前の遺物といったものではない。軍の独断専行かも知れないが、我が国は国連主導の条約など、初めから遵守する気は無かったようだ。その事実は大尉にとって不快どころか、小気味よさすら感じさせた。

 SEALの隊員達は会議場らしき広い部屋に通され、寛ぐように言われた。舌を痺れさせるようなコーヒーも、冷え切った体には有難かった。その間に大尉は将校に請われ、任務の打ち合わせへと向かった。

「海軍の特殊部隊が派遣されてくるとは、考えてもいなかった」

 将校は愛想笑いを向け切り出した。狭いエレベータに乗り込みながら、大尉も曖昧に微笑み返した。将校の言葉に微かな刺を感じた理由は、軍人ならば理解できる事だ。陸の民と船乗りが理解し合えた試しなど、紀元前の頃から数えるほどしかないのだ。

「驚いたかな?この基地は二年程前から、改築が進められていた。管轄は三軍(陸・海・空軍の総称)共同であるが、陸軍が直接の責任を受け持っている。もっとも、警戒すべき外敵など、居るはずもないがね」

 そんな事はありえない。もしそうなら、自分達は望んでもいなかった極地旅行を体験しただけになる。いい加減、この勿体つけた芝居には飽き飽きだ。エレベータはまだ止まる気配がなかったが、大尉は率直に疑問の意を露にした。

「まあ、全く存在しないと言うのは、多少語弊があるかもしれない。我々に、というより我々の国にとって、面倒な連中ならば」

 階級的には上役相手なのだが、どうやら苛立ちを隠す事が出来なかったらしい。将校は興ざめしたように鼻を軽く鳴らすと、八つ切りサイズの写真を一枚、こちらに渡した。

「簡単に言えば国益の問題だ、大尉」

 写真は白黒で、粒子は荒く、ピントもボケている。おまけに逆光だ。仕事柄、一通りの知識を身に付けている大尉でも、そのシルエットの正体の判別がつかなかったのは無理もない。

 唯一分かるのはそれは航空機で、しかし軍用機に主流のジェット推進ではなく、レジプロ機であるという事だ。

「その通り。だからと言う訳ではないのだが、我々は民間機だと判断している。…無論、君に言われるまでもなく、本国にデータを送り解析は依頼した。機種は判明しなかったようだが、本国も民間のセスナ機と推測している」

 大尉は嫌な予感がした。それは、まさに馬鹿げた任務に指名されたのではないのかという不安だけでなく、不明確な気味の悪さが含まれていた。言葉では説明できない感覚、強いて言えばそれは勘だ。

 私は先月ここに着任したばかりだが。将校は、大尉の心中など察するはずもなく、不機嫌な表情で続けた。左遷紛いの人事だと内心では憤っているのかもしれない。

「ここ一ヶ月で四回、その航空機は確認されている。いずれの場合も日中、太陽を必ず背にして、基地周辺の空域に進入している。大胆だが、一方で用心深い相手なのは認めるな。CIA、及びFBIからの情報によると、我が国及び欧州に存在するNGO(民間団体の国際組織)の幾つかが、南極圏にて不法に活動しているとの事だ。自然保護団体と称しているが、テロ紛いの行動も辞さない連中らしい。我々の存在が奴等に知れているとは思えない。だが仮に察知すれば、標的として絶好だと思いかねない。何よりも連中の広報活動にとって、良質なネタがここにはある」

 エレベータが停止した。会話の内容からみて随分時間が経っている。かなりの距離を降りたらしい。

 自動ドアが開くと、鼻の粘膜に纏わりつくような異臭が、大尉を困惑させた。これはガソリンか?違う、もっと泥臭い感じの臭いだ。随分前だが確か中東に派遣された時、こんな臭気が立ち込めていた場所があったはずだ。

「我々が守るべき国益とは、これの事だ」

 掘り抜かれた地下の空間は驚くほど広かったが、同時に雑然ともしていた。固い地面の上を這いまわる、鋼鉄製の太いパイプ。それらは空中まで伸び、十五メートルほど上の天井を貫通していた。もう一方の端は、恐らくはボーリングとポンプの機能を兼ね備えていると見える、巨大な機械に繋がっていた。その周囲十メートルほどは池、それも真っ黒な池が泡立っていた。水面は鈍いオレンジの色彩も帯びている。機械の最上部にあるバルブから立ち上る、一条の炎が放つ光を反射しているのだ。

 なるほど、こういう事か。確かに、エコロジー狂いの連中には、知られたくない行状だろう。勿論国連に知られば、安全保障会議は大荒れになるに決まっている。中国やロシアにしても、内政干渉の材料として絶好と判断するはずだ。

「知っての通り、現時の世界情勢において、エネルギー政策の根本は困難に直面している」

 こいつは意外だ。ただの官僚将校と思いきや、アナリスト気取りでもあるらしい。将校は神妙な表情で続けた。ハンカチで鼻を抑えながらだ。

「国連主導の環境復興政策は、現実性を全く欠いている。当初、我が国が京都議定書の強化案に対し、強行に反発したのも無理からぬ事だ。セカンドインパクト後の地球温暖化への対策と、化石燃料の使用規制によるCo2削減案の間に、全く関連性が認められないのは、我が国代表団の指摘でも明らかだった」

 それにしてもうだるような暑さだ。いったい外界と、どれほどの温度差があるのだろう。湿度も高く、油の臭いと混じり不快指数は最高レベルだ。

 石油どころか温泉でもあるんじゃないのか?大尉は地上に設置された大型の排気口の発見が、容易だった原因を理解した。地熱と、そして天然ガスを処理する過程で生じる熱が、偽装を困難にしているのだろう。

「そんな正当な主張への報復が、アメリカの産油業界に対する、極端な産油量制限だったわけだ。にも関わらず時の政府は、議定書強化の国際合意を阻止しえなかった。外交的孤立を恐れ最終的には受け入れたのだ。国内の穀物生産が大打撃を受けた今日、国連による世界的な食料流通制度は、我が国にとって無視し得ない圧力だ。だが、屈辱としか言いようが無い。我が国は嘗て幾度かそうしたように、誇りと尊厳に満ちた孤立主義を選ぶべきだったのだ。今やテキサス州を始めとする各州の石油業界は瀕死の状態だ。中央アジア諸国の国内情勢があのありさまでは、カスピ海沿岸の油田開発も意味がない。核エネルギーへの転換政策も無理解な世論の影響で、遅々として進んでいない」

 兵士に求められる美徳は幾つかある。その内の一つは忍耐強さだ。SEALの訓練は、グリーンベレーなどと共に苛烈な内容で高名だが、体を苛めぬく事に主眼がある。要は持久力の強化が目的だ。無論、単に肉体についてのそれ、だけではない。

 古の学者だか何だかが説いたと聞く。肉体とは精神の衣に過ぎない、と。広く解釈されると、肉体と精神は別々のものであるという事になる。

 宗教的、オカルト的な意味、つまり死んだ後については知ったことではない。だが純粋に生死を左右する状況下において、この二つの定義の有効性には結論付けが出来る。前者は正しく、後者は間違っている。

 肉体への苦痛は精神の磨耗を呼び、心を病めば肉体も衰えるのが大抵だ。我々兵士は東洋の高僧ではないのだから、断食だか座禅だかでは精神を鍛えられない。だからこそ肉体を過剰なまでに鍛えぬく。心は人間にとって最後の砦だ。残念ながら程度の差はあれ堅牢とは言えない。壁を強固にしなくてはならない。壁とは肉体であり、痛み、疲労、欲求という礫に直接曝される。壁が打ち破られれば、精神は恐怖に、あるいは狂気に侵食される。そうなればその人間は死に体と同じだ。

「エネルギー分野では前世紀からそれほど進歩も無く、事情にも変化は無い。にも関わらず、独善的な理想主義で、その大元を管理し制限しようとは何事か。環境保全?復興だと?真実を覆う、継ぎはぎだらけのカーテンに過ぎない。アラブ諸国を始めとするイスラム系産油国と結託した、欧州各国の石油メジャーが背後に居るのだ。石油流通の全ての権限を、狂信徒どもと老いた狐達に握られれば、世界の秩序はどうなると思うかね?国連の世界戦略はいずれ破綻する。遠い未来ではない。我々軍人は、いや真に我が国を愛する者ならば、その時への備えを模索するのが当然だ」

 忍耐、それは美徳だ。誇り高き犬、この極寒の地で生き抜いた犬の故国には、嘗てそれが当たり前のようにあったと聞いている。今では、携帯電話とインターネットと、薬物と売春と低俗マスコミと、過去の敗北の責任を見極めようとしない似非愛国者、まるでスター気取りの首相、自己顕示欲のみの政治屋、驕りという観念もない官僚、下手糞なラップ・ミュージック、死を直視しない映画やアニメーションやゲームや文学、不況という用語で正当化される際限なき物欲、保身に汲々とする経営者、排泄することしか脳のない都市生活者、誇りなき農民、免罪と更正とトラウマの名の下に居直るガキども、ロリコンだらけの男達、権利と我侭の区別もつかない女達、何よりも癒しという名の媚薬によって汚され、崩壊している。

 まだ元気だった頃の俺達アメリカ人は、そんなジャップ達を嘲笑したものだ。一時の経済的発展が泡のように弾け、プライドを見失うか、又は無意味に高めようといきがるその様を。だが今のアメリカ、その象徴たる軍はどうだ?目的意識は失われモラルも建前となり、世界中で、特にアジア諸国では嫌われ者だ。物欲と性欲と、権力欲が汚職と性犯罪を呼び、国連軍からは恥さらしだと陰口を叩かれる。

 確かに、今世紀に入ってこの十数年、我々は手痛い挫折を経験してきた。特に中央アジアで示した力による正義と、一転して味わった屈辱。それは、どう取り繕った所で敗退と言う言葉で表すしかないものだ。悪夢の連鎖はベトナム以来の屈辱感を、ウォーターゲート以上の不信感を、国民全体の意識に沈殿させた。アメリカは泥沼に足を捕られ、もがいている。だが、このまま俯いたまま、過去の栄光を肴にバーボンを空にし続けていて許されるわけが無い。

 国連が唱える偽善的な世界秩序など知った事ではない。人類が約百年、謳歌してきた自由主義は、アメリカが築き、アメリカが守ってきた。誰が明確に、その事実を否定できようか?文明がある限り、それを統率出来るのはアメリカしかないと信じる。

 しかし、目の前の男にそれを語る資格はあるか?この肥え太った、沈黙を知らず時間の貴重さを認識できない男に。過去を顧みるのみで、それをこれからに結びつける知能を持たない者に。有りはしない。黙れ、自慰的右翼主義者が。

 大尉は所属不明機の写真を示し要点を尋ねた。憤りと皮肉が現れなかった事に、日頃の訓練が無駄でなかったのだと自信を深めた。

「…先程も言ったとおり国益の問題なのだ、大尉。この基地で行われている油田開発は雛型に過ぎない。南極の地下資源の膨大さは、一連の調査ではっきりしている。これを国連に渡すつもりはないし、申告する意味もない。ましてやリベラルを気取りながらテロ行為を厭わない、偽善者どもに妨害されるわけにもいかない」

 要は追い払えということか?馬鹿げた話だ。俺達SEALは下っ端のマフィアじゃないんだ。

「その程度なら君達が派遣される事態ではない。我々は南極大陸の各所で、資源採掘基地の建設を予定している。いずれ国連に察知されるかも知れないが、既成事実には弱いのが連中の常だ。計画を進めるためにも、障害となるものは早々に排除するべきだ」

 何が早々だ。ならば結論を言えってんだ。大尉は無論、排除という言葉の意味するところは察していた。しかし汗まみれで顔中をてからす醜男に、それを言わせなければ我慢ならなかった。曖昧さは俺達の国の性分じゃないはずだ。責任回避は許せない。

「言葉どおりの意味だ。これまで民間団体の抗議行動に、我々が干渉した事などあったか?主張する権利を剥奪する積りは毛頭ない。しかし、連中は手法と場所、何よりも相手を間違えたのだ。これは既にテロの領域だ。理解できたかな?」

 将校はそう告げ黙り込んだ。不快そうな表情は、行われるべき事に対してでは無く、それを口にさせた無理解さに向けてのものだろう。無理解なものか、あんた達の手口は良く心得ている。大尉はぶっきらぼうに敬礼し踵を返す。

 上昇するエレベーターの重力に胃が圧迫され、顔を顰めた。部下にどう説明するべきか。とりあえずそれが悩みだ。対象が何であれ汚い仕事だという事実に変わりは無い。名誉も得られない。抹殺の事実はいつものように、欺瞞によって闇に葬られるだろう。

 いちいち疑問を抱き過ぎだ、あまり良い兆候ではないな。大尉は頭を振り思念を打ち切る。そして自らに言い聞かせた。この任務が俺達の息子や娘達に、輝かしい未来を約束すると信じる、それが責務なのだ、と。

 

 退屈な行軍だ。この寒さだと言うのに、いやだからこそなのか、眠気が瞼を重くする。

 慎重な行動で部隊の移動速度はカタツムリよりは増し、といった感じだ。目標地域に侵入してから距離にして五キロ、時間にして一時間余りが経過した。相手側から何らかの反応があってもおかしくはない。天候は三十分ほど前から急速に回復し、風も穏やかだ。空には雲も少ない。

 極地の短い夜を目標にした移動スケジュールは消化できた。とは言え、この美しくも寒々しい星空を歓迎して良いものかどうか。月明かりはないが、視界は暗視双眼鏡でも使用すれば数百メートル確保できる。だがそれは相手も同じ事だ。大尉は行軍の速度を、さらに緩めるべきかどうか迷った。

 遮蔽物が何もない雪原では、隠密行動や奇襲は困難だ。鴨の羽毛が一杯に詰まった、ケプラー製の防寒着は当然白色に迷彩されてはいる。とはいえ効果はお情け程度だろう。あのクソッタレ将校からの情報を信じるなら、相手側に狙撃技術を持つ者がいてもおかしくはない。警戒が必要だ。

 振り返ってみる。弱々しく立ち上る幾筋もの白い息。部下達は粛々と後に続くだけだ。その背後には灰色の雪原とは明確に異なる色彩の夜空が広がる。地平線近くの闇は、微かな青みを帯びていた。夜明けが近いのか、この地の夜空は何時もこうなのか。それは分からない。突然、背筋を痺れるような感触が走り抜ける。藍色と言うにも余りに微妙なその色合いは美しく、荘厳であった。だが一方で氷点下の空気そのままに、冷酷にも見えた。

 くだらんな。気後れを奮い立たせ舌を鳴らす。肩のM4ライフルを背負い直し正面へと向き直る。前方に横たわる風景は、奇妙な安心感を与えてくれた。矮小な人間達に代わり、地上に存在するものたちの権利を、確固とした峻険さで主張している。淡い星明りに照らし出された純白の山々。ミューリッヒ・ホフマン山脈だ。

 環境保全団体、いや、軍の情報に従えば環境保護テロ組織というべきだが、連中の潜伏場所は大凡絞り込まれていた。例の所属不明機は、最新鋭攻撃ヘリの追跡を驚くべき操縦技術でまいたとの事だが、連中の注意深さも箍が外れる時があるらしい。それもかなり妙な外れ方だ。

 三週間前である。新たな資源採掘基地の建設候補地を求めて、陸軍の調査チームが音波による地質調査(無論、極秘にだ)を、ミューリッヒ・ホフマン山脈周辺で実施した。彼らは地下の油田や、希少金属の鉱脈を意味する反響音を捉えることは出来なかった。だがそれまで観測したこともない、妙な音波の反響に遭遇した。地質調査用ソナーが発する無機質なそれとは違い、何らかのリズムが認められた。そのことから、陸軍の調査とは無関係の、しかも何者かの意思が込められたものであることは明らかだった。

 基地に戻った調査チームは直ちに分析を開始した。正体不明の音波は一定の間隔、即ちきっかり5分ごとに約12分に渡って地下で反響していた。そして二時間後、潮が引くように消え去った。周波数が微弱で、地上の氷河の崩壊音などが混ざり分析は困難であった。しかしパルス波形単位での抽出と強調を行った結果、正体が判明した。

 音楽だ。分析を担当した音響分析技術者はそれが、ロックでもジャズでも、ましてやラップなどでもないと断言した。唯一考えられるのはクラシック音楽である。

 分析技術者は音楽専門学校出身であった。卒業後はその手の関連職を転々としている。やがて自分には創作の才能が無いことに気が付き(ボブ・デュランの曲を初めて聞いた時、痛感したとの事だ)、音響分析の専門職に落ち着いた。軍属ではあるが民間企業から出向している立場だ。彼は二日間徹夜で音波の解析作業を続けた後、技術班の主だった者達と上級将校数人を呼び出した。

 解析のために提供された倉庫は常時室温が氷点下であるため、壁という壁の表面に霜が張っていた。アンプやらイコライザー、オシロスコープの類を調整すると、音響分析技術者は徐にレコーダーの再生ボタンを押した。

 ノイズと雑音にしか聞こえなかった。一体この静寂に包まれた極地のそれも地下が、なぜこれほどまで騒々しいのか、人々は訝った。やがて誰かが抗議の声を上げると、紫色に変色した唇を歪め技術者は機材を操作した。

 暫くして聞こえ始めたそれは、確かに何らかのメロディだった。しかしその音色は弱くノイズの向こうに隠れがちだ。無理に強調したせいか音程もいびつ過ぎる。曲名など思いつけるものではない。技術者は、傍らに置かれたDATレコーダーに手にしたテープを叩き込む。今度ははっきり聞き取れる。暴力的にして雄大、そして一転して転調する流麗な調べ。とは言え、ここにいる誰もが馴染みのない曲である。

 分かりませんか?無精髭を撫で付けながら技術者は、あからさまに落胆した表情を見せた。

(こいつはワーグナーの名曲ですよ。歌劇『さまよえるオランダ人』序曲。指揮ロリン・マーゼル、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による演奏です)

 この1977年ベルリンにて録音された曲と例の音波が、パルス波形単位での比較の結果、ほぼ同一のものである事が判明した。約12分2秒にわたる演奏のそれと、5分近くが一致したのだ。

 曲目の正体には一部の者を除けば殆ど関心を示さなかった。実際、技術者の労力に送られた賞賛の声は御座なりだ。ただもう一つの報告は注目を集めた。調査が実施された地域の地質的特性と、古めかしいクラシック音楽の反響状態から、発信源が30キロ四方にまで絞り込まれたのだ。下手したらこいつを鳴らしていた連中の鼓膜は、破れたかもしれないな。肩を竦めて音響技術者は言った。

(発信源は地下のようですね。とんでもない音量でなけりゃ、こんな広範囲に拡散するものじゃない。地下水脈でもあれば別ですけどね。推測ですが、超低周波に変換して流したのかもしれない。だとしても無意味だ。人間の聴覚では曲として認識できないんだから。もっともその場合、さらに遠方まで伝達した可能性はあります。まるで通信か何かのようだな。…ところで、もう休ませて貰いたんですが。クラシックは耳にするのも飽き飽きですよ。マリソン・マンソンでも聴きながら眠りたい気分だ)

 30キロ四方という曖昧さは癪だが何もないよりは増しだ。大尉は陸軍の地質調査班、ベテランの部下数人と検討し、目的となる地域をさらに絞り込んだ。あからさまベースキャンプや施設を構えているのなら、調査を行った陸軍のヘリに発見されているはずだ。自然の地形を利用し潜伏している可能性が高い。

 となれば最適な場所がある。ミューリッヒ・ホフマン山脈の山々だ。音波の発信源からの推定距離内には、山脈一帯でも有数の大渓谷が存在する。ほぼ間違いないだろう、大尉はそう判断した。

 胡散臭いな。そう思いながら乾ききった唇を舐める。やっと対象となる連中の詳しい情報に接したというのに、この曖昧な感じはなんだ?そうだ、奴らの目的がいまいち見えてこない。

 どんな集団にも、群れるからには共有する行動理念ってやつがあるはずだ。例えそれがサウスセントラルを徘徊するヤク中のチンピラ達、あるいはカレッジでメイク・ラブに奔走する学生どもでも変わりはしない。環境保護団体というのなら、米軍の存在を確認した時点で黙っちゃいまい。一般的に伝えられるところの連中の理想に、とっくに抵触しているはずだ。

 直接テロ行為に走るのは確かに考えにくい。所詮テロとは、日常という無警戒、危機意識の少ない一般人に向けなくては成功も効果も覚束ない。だがやり方は他にいくらでもある。アメリカの対抗勢力に直訴したっていい。航空写真やら何やらをキャンベラの国連本部に送りつければ済む。それともロシアか。ウォッカ漬けの大使館員が目にすれば、一発で酔いも醒めるだろう。

 アンチ・グローバリゼーション、又はアナーキズムという建前から認められないというなら、マスコミにという手もある。奴等は権力への追従者でありながら、常に反権力のガス抜き的存在なのだから。

 南極で進められる、アメリカの新たなフロンティア・スピリッツについて、世間に広がっている様子はない。大尉自身、こんな南の果ての地で同業者に会うとは思いもしなかったくらいだ。奴等は自分達の主張を宣伝する絶好の機会を捨て、現在の事態を看過しているようにしか思えない。

 だとしたら連中は何が目的でここに居る?リゾート地なんかじゃない、気候変動がどうあれ南極は人間を受け入れる場所ではないのだ。こんな酷寒の地で粛々と何かをこなすには、心を熱し突き動かすものが必要だ。利益、利害、恐怖。だがそういう具体的な何かならば待ちきれまい。早々と目に見える行動に出ていたはずだ。

 待つ?そう、何かを待っているのか?それなら今の連中の行動と直結する。先にある何かを待つために、待つ。分からん話じゃない。だとしたらそれは何か。当たり前だ。機会、転機。つまりは希望ってやつだ。それもかなり強烈な、何か。

 だが希望とは、成就されてこそ意味があるものだ。そして奴等はここにきてハッキリとした行動に出た。例の音波が、不手際か不注意によるものだったとは考えにくい。まるで通信のようだ、そう分析技術者は言っていた。案外、的を得ているかもしれない。だとしたら一体、誰に向けてなのか?

 疑問だらけで回答はどこにもない。今回の任務は不透明な事ばかりだ。大尉は改めてそれを認識した。当初から覚えていた苛立たしさとは異なる、不快感を伴う馬鹿らしさ。その理由も分かった気がする。何かが自分たちの頭ごなしに動いている。足元を見れば大きな影が時折横切るが、見上げても頭上には何も確認できない。

 分かるのは目に見えぬそいつに掴まれ、ここに放り出されたってことだ。まるでチェスの駒だ。軍の人間なんてそんなものだろ?皮肉交じりに誰かが囁いた気がする。確かにそうさ、だがな。言いようのない憤りを大尉は感じていた。

 この猿芝居が、俺達抜きじゃ進まないことは分からせてやる。脚本を書いているどこぞの根暗野郎にだ。いっそのこと、シナリオを少々狂わせてやるのも手だ。アドリブはこっちしだいだからな。無論、結果的には満足させてやる方向しかないが。

 冷気に痺れる鼓膜に届いた音が、大尉の意識を引き戻した。彼の行動は素早かった。聞き慣れた音だ。それが告げるのは、来るべきものが来た、という事実だけだ。

 

 SEAL隊員25名は大尉の命令を待つまでもなく、直ちに散開した。大尉を先頭に前衛の隊員がアサルトライフルを構え伏せる。やや後ろに支援火器であるマシンガンとスナイパーライフルを設置。残り数人はさらに後ろの両翼で榴弾筒を準備した。

 既にこちらの存在には気付かれている。今更不意打ちも何もない。だが向こうも発砲のタイミングを早まった。先手の好機を逸した事に変わりがない。状況としては五分五分。銃声の反響から判断して距離はまだある。ここは動くのが得策じゃない。先に動いた方が負けだ。

 その判断も次の瞬間には揺らいだ。発砲音はその間隔を狭め、音量も増すばかりだ。大尉は首筋の辺りが萎縮する感触を覚えた。どういうことだ?尋常な騒ぎじゃない。まるで地響きのようだ。一体どの程度の火器が火を吹いているのか、推定しようも無かった。

 銃声がさらに鼓膜を打つ。接近している。視界の先には今や、暗がりに明滅する閃光がはっきりと確認できる。マズルフラッシュだ。十字型の火花。雪原に立つ無数の墓標の列。それが左右に広がる気配を見せている。拡散してゆく。

 まずい!焦りが体を熱し胸元の冷気を追い払う。数に物をいわせてこっちを包囲するつもりだ。連中の兵力など高々、マフィアかテロ集団のそれと同程度だろうと推定していた。冗談じゃない。これでは正規軍並だ。糞将校の情報など間に受けたのが失敗だ。大尉は自分の迂闊さを呪った。

 部下達の不安が背中越しにも感じ取れる。SEALの本領は奇襲戦法だ。真っ向から組み合う力押しの戦闘では、戦術云々より兵力と装備で優劣が決まる。状況が不利なのは事実だ。

 何にしろ、ここに留まっていてはまずい。応戦しつつ後退し、隊列を立て直さなくては。火力を集中し相手の足を止めなくては。雪上車までの距離は?凡そ5キロ。連絡をつけ、合流し出直すか。しかし、それまで部隊は士気を保てるのか?

 屈辱を感じながら右腕を上げる。後退命令を出すなど初めての経験だ。しかしもう猶予はない。

「あれは罰金ものの腕前ですね、大尉。こちらの足元にすら着弾しないなんて」

 横で若い部下が囁く。その間延びした声に、大尉の焦りは潮が引くように収まった。

 確かにそうだ。あれだけの発砲だというのに、こっちは未だに誰もが五体満足だ。反撃を警戒し間断ない連射で制圧を狙っているのか?だとしても着弾どころか、ライフル弾が音速で唸りを上げる、ソニックブームすら耳元を掠めない。まるっきりいい加減な銃撃だ。

 それでも部下達の多くは動揺がみえる。振り向いて一喝し待機を命令する。若い部下から暗視双眼鏡を受け取り前方を観察した。瞬く閃光、空を切る流星のような筋。驚きだ。あれは曳光弾(発光することで弾道を示す弾丸)に違いないが、光量からして口径20mmクラスの物だろう。となると連中は、対空火器まで装備しているということになる。どういう民間団体なんだ?

 しかも不可解なのはその射撃方向だ。四方八方、まるで統制なく発射されている。他の銃撃にしても同様だ。警告か、脅しなのか?違う、こんな馬鹿騒ぎまでするものか。つまりは標的にされているのはこっちじゃない。別の何か、しかも奴等を包囲している?

 くそ!俺達は当て馬か!奥歯を噛み締めながらそう判断した。陸軍の連中は、既に攻撃対象の潜伏場所を把握していたのだ。相手の装備や兵力が充実していることも察したのだろう。潜伏している地形から、ヘリか何かによる爆撃程度では効果がない事も明らかだ。だいたい航空機の派手な活動はご法度だ。他国の軍事衛星にでも察知されれば、国連で追求の声が上がるのは必至だろう。

 そこでSEALの出番と言うわけか。俺達を先行させ、連中の巣を突っつかせる。そうやって穴倉から引っ張り出そうとした。キツネ狩りで言えば猟犬みたいなものだ。別にアンフェアでも何でもない。それが作戦上必要ならば。だが、任務の詳細を告げず、作戦内容も明らかにしなかった理由にはならない。デコイとしての役目を告げたら、俺達がびびるとでも思ったのか?舐めやがって!

 大尉はその場で胡座をかいた。怪訝そうにこちらを窺う部下達を無視し、懐を探る。煙草のボックスは空だった。例の間の抜けた若い部下に目配せする。彼は渋々といった感じで煙草とジッポライターを取り出した。火を付け思いきり肺に煙を入れた。随分味が薄い。まったく、これでは森林浴と変わらんじゃないか。

「…いいんですか?支援ぐらいしてやらないと、後で告訴されかねませんよ」

 のんびりした口調だが指摘は的確だ。意外な冷静さに、大尉はこの若い部下を見直した。大局が見える人間は他人からは愚鈍に映る。そんな格言がアジアの国には有ると聞いたが、満更嘘でもないらしい。告訴なんて出来やしないさ。咥え煙草で微笑んで答えてやった。

 部隊全体に休憩を告げる。勿論警戒は解かないよう付け加えたが、部下達は当惑した様子だ。こうなったら高みの見物と洒落込んでやるさ。あんな騒ぎを演じているって事は、陸軍の目論見は失敗したってわけだ。包囲しているのを気付かれたか、誰かが堪え切れず発砲したか。どっちでもいいが、手を貸す気はない。命令に従っている陸軍の兵士達に罪はない。だが陸軍上層部の舐めた態度は我慢ならない。

 どのみち、支援の必要性も薄いようであった。山脈に木霊する銃撃音は、徐々に止みつつある。残像を嫌というほど網膜に残し、マズルフラッシュの列も消えていった。制圧は完了したようだ。

 頃合だな。大尉は立ち上がり部隊に前進を命じた。警戒を継続するよう釘は刺したが、あくまで形式だ。相手側の狼狽振りから勝敗は考えるまでもない。陸軍のシナリオは味噌となるプロットが破綻したが、支障なく幕引きとなったって事だ。まったく、これで俺達がこんな氷の世界にまで来た意味は、殆どゼロだ。

 このふざけた茶番について、奴等はどう説明するつもりだろうか。一言一句、海軍への報告書に記載してやる。削減続きの軍事費の分捕りあいで、ただでさえ陸海空三軍の仲は険悪だ。上の連中は目を剥いて怒るだろう。それとも槍玉に挙げるネタに好都合と喜ぶか。俺には関係無いことだ。何にしろ、あの糞将校か誰かの、尻の一つも蹴り上げるぐらいしなけりゃ腹の虫が収まらん。あいつらめ、何処にケツを巻くって隠れてるんだ?

 夜明けが近いらしい。東の地平線の辺りの闇は、オレンジ色に変色していた。そこから届く微かな明かりに目を凝らす。動くものはない。完全な静寂だ。耳に届くのは地表を縫い粉雪を舞わせる、凍てついた風の音だけだ。

 100メートル程先、右前方に何かが点々と転がっている。何であるかは確かめるまでもないだろう。それにしても妙だ。周囲の空気に動きが感じられない。あれだけの戦闘の後だというのに、ざわめきの一つも聞こえない。陸軍の連中はどうした?何をしている?戦果を確かめる気もないのか。

 俺達は置き去りか?いや、違う。嫌な予感、そうだ、所属不明機の写真を見せられた時の感覚。それが再び脳裏を過ぎる。今度のそれはもっと具体的だ。嘘のような静けさ。灰色の雪原。あれほど雄大に、親父の懐のように思えた山々の姿。それが酷く心許なく見える。今や上天にその居場所を移しつつある、冷酷な青みをたたえた闇の空。それだけが視界に鮮明だ。

 説明しようのない感覚。恐れ以上の何かもっと、根源的な心の震えだ。大尉はこんなに冷やかで、自分を見下すかのような空は、今まで見た憶えがないと思った。ここは、この地は、貴様達の場所ではない。深く濃い、無限にも思える空の奥で何者かが、そう嘲笑した。

 あえて反駁し歩を進める。当たり前だ、いつまでもこんな糞寒い所に居られるか。来週の休暇はフロリダで過ごそう。息子を連れ出して沼沢地にボートで乗り出そう。釣りもいつかは教える約束だった。ルアーで馬鹿でかい肺魚を吊り上げてやる。グレーターサイレンなんかがいい。弁護士も別れた妻も知ったことか。俺は息子のためにしてやれる事をするだけだ。そのためにも、さっさと任務終了だ。

 地に横たわる物体へと向かう。何にせよそれを確認するのが先決だ。そう理由付けしなければならないほど、実は歩調は重かった。雪原の白と同化するにはやや鮮明過ぎる白色。その防寒着に包まれた物を蹴り転がす。当然、明確なコントラストをなす液体の染みは、視野に入っていた。だから驚愕の理由は、死という事実、そんな事に対してではなかった。

 何だ、これは?

 頭部が完全に壊れていた。破壊だ。銃創なんて生易しいものではない。額から眉間、鼻までごっそり抜け落ちている。細い幾筋かの筋肉組織が零れ落ちた眼球をぶら下げていた。柴色を通り越し黒ずんだ唇。端からはみ出た舌は氷点下の空気で、凍り付き始めていた。顔上半分を穿つ空洞の中は、体内物質がゴッタ混ぜだ。脳漿、皮下組織、筋肉、細胞、骨粉と血、毛髪。まるでビーフシチューだ。

 後頭部の傷は明らかに弾丸が貫通した痕だ。しかし、こんな死体を残す弾丸は限られている。ライフルのそれでもこうまではならない。威力はともかく、もっときれいな貫通痕になるはずだ。といって機関砲クラスのそれなら頭部全体が吹っ飛ぶ。これは恐らく、マグナム弾によるものだ。それもよくある44口径どころじゃない。さらに強力な何かだ。

 吐き気こそ起きなかったが一方で、殺戮を行った者への不気味さを覚えた。警察は当然だが軍隊でも、マグナム弾を使用する状況はそう多くない。本来は狩猟用の弾丸を人体に向けあえて放つなど、狂った所業だ。増してや先程のそれは小隊規模以上の、部隊同士での戦闘だ。弾幕の厚さが優劣を決める状況で、威力ばかりで融通の利かないそれを使用する理由。

 考えられることは一つ。求めたのは単純な、殺傷という結果ではない。破壊力だ。それが起こす人体の損壊のあり様だ。

 身を屈めさらに死体を調べた。投げ出された腕を掴み上げる。この男の体はなんだ?肉体の衰えが酷い。確かに筋肉の盛り上がりは、軍人特有のそれだ。しかしそれに包まれた骨は、握ってみれば瞬時に分かるほど細い。いや、脆いと言った方がいいくらいだ。これではまるで老人のそれだ。

 不可解さと気味悪さは増し、それが探求欲を刺激した。背後で居心地悪そうに立ち尽くす部下達を尻目に、大尉は死体の防寒着を脱がしにかかった。胸元を開く。驚いたことにアンダーウェアの類を身につけていない。異様に盛り上がった筋肉。胸板には幾筋もの古い傷が走っていた。裂傷というにはやけに整ったものだ。手術の跡じゃないのか?

 右の肩口を露出させる。上腕部には異常な数の注射痕。肌全体が青黒く鬱血しているほどだ。薬物中毒者でもここまで酷くはなるまい。恒常的に、しかも一回に何種もの薬物を投与していたのだ。左肩はどうだ?そこにも青黒い模様があった。だがこっちは刺青だ。バーコードのような帯、その下にマーク。見覚えのあるマーク。

 一瞬、自分は気が狂ったのかと、大尉は本気で疑った。これは、いったい何の茶番だ。いや単なるこの男の悪趣味だ。あまりに馬鹿げている。今は二十一世紀、西暦2015年だ。前世紀の、しかも70年近く前の亡霊が、蘇ったとでも言うのか?そんな馬鹿な話があるか。自然保護団体なんてのはフェイクってことか。こいつらは妄想の集団だ。かつて潰えた筈の、暗黒の思想を信奉する現実逃避の馬鹿者たちだ。あるいはスタイルを借用しているだけなのか。どっちでもいい、いやどちらかのはずだ。もしそうでないとしたら、この地は、ここは狂った空間に違いない。

 致命的に反応が遅れたのは、思考の混乱のせいだったかもしれない。大尉は首筋の辺りに突如痺れるような感触を覚え、腰だめにM4ライフルを構えた。非難の声が返ってくると期待した。代わりに差し出されたのは、図太い銃口だった。

 信じられなかった。接近する気配も何も、この瞬間まで感じ取れなかったのだ。冷や汗に濡れた額に寒風よりもさらに冷たい、鉄の感触が張り付いた。突きつけるのに、わざわざ腕を伸ばす必要も無かっただろう。視界の隅に見える皮靴の先。1メートルも距離はあるまい。そいつは目の前に居た。

 後ろで鉄の擦れる音がざわめく。大尉は片手を上げて部下達を制した。ゆっくりと立ち上がる。銃口は額から離れない。発砲の意志は感じられない。それを確認し、後退して間を開ける。視界の中で相手の姿が露になってゆく。

 手にする鉄塊はステンレス製の巨大なリボルバー。雪よりなお純な、白銀に輝いていた。暴力の象徴のようなそれには見覚えがある。マグナム・リサーチ社製、マキシン.45―70。世界最強クラス、人間がまともに扱える限界のハンドガン。聞こえは良いが、過剰なパワーが不快感だらけの反動と、五連発という実用性無視の代物にした珍品だ。こんな化け物を持ち運ぶ奴は、コレクター趣味に走った素人か、変人だ。

 長い皮製のレインコート。鈍く黒光りするそれは極地には余りに不似合いだ。それに覆われた肉体は一見、痩せぎすの長身に見える。だがこの寒さと握る鉄塊の重みに、少しも揺らぐところがない。ブラウンの短い髪。高い鼻梁と彫りの深い輪郭。目が合った。緑がかったブルーの瞳。何の感情も読み取れなかった。違う、そこには感情がなかった。

「貴様、何者だ」

 乾ききった舌を震わせ言葉を搾り出すと、男は銃を下ろした。部下達が一斉に取り囲み、ライフルの銃口を男の頭部に向けた。よせ!怒鳴りつけて制止し、大尉は姿勢を正した。

「敵ではないようだ。違うか?」

 男は黙ったままだ。言ってはみたものの確信がある訳ではない。整った、それでいて特徴のない顔立ちは、人種すら判別しがたい。口元に浮かぶ微かな冷笑。それは、何も信じてなどはいない、という心理を明確に表していた。そう、むしろ逆なのだ。恐らくこいつは、状況が状況なら俺達の敵になるはずの男だ。

「所属は?」

 ない。高すぎず低すぎず、まるで抑揚のない声で男は答えた。

「どういう意味だ?陸軍の者では無いということか?それとも諜報関係者か?」

 男の唇の端が歪む。笑い出すのかと思ったが、そうではなかった。嘲るというより、知らないという事実を、楽しんでいるように見えた。不遜な態度だ。しかし怒りは湧かない。そんな感情をぶつけたところで意味が無いことなど、男の雰囲気から容易に察せられた。

「まさか部外者、というわけではないだろ。そこに転がっているミンチの塊は、貴様の仕業だな。戦場にリボルバーとはカウボーイのつもりか?」

 ナイアーラトテップ。

 呟くと男は背を向けた。西へ、歩き出した。部下達が再び銃を構える。手で制し、大尉は声を張り上げた。

「何だそれは。貴様のコールサインか?おい説明しろ!一体この騒ぎは何だったんだ。陸軍の部隊はどこだ?合流しなきゃならないんだ!」

 答えはない。強まり出した風が、再度の天候の悪化を告げていた。巻き上がる粉雪が黒装束の背中を隠しつつある。駆け寄ろうとする。男が首を巡らした。大尉はその場に立ち尽くす。

 男の瞳の色。ブルーの色彩。それはどこか、この地の冷酷な空の色に似ていた。

「…一体、ここに居た奴らは何者なんだ?」

 亡霊だ。風雪の向こうから言葉が続く。

「感謝している。楽しませてもらった」

 

                    第三部

 

                    (8)

 

 右腕に貼り付けたピンクローターが唸った。目覚まし代わりには充分な振動だ。満足な睡眠時間だったとは言えない。しかし嫌な夢は打ち切ってくれた。感謝した。

 ベットから起き上がる。ガムテープを剥がしベットの上にローターを放った。親指大の、柔らかいラバーの感触が異様な電動玩具。これをレジに持っていった時、オモチャ屋の中年親父は使い道を、色々と妄想したことだろう。購入目的は当たらずも遠からずだったが、ハルカには嫌がられた。電気で動くなんて全然優しくない。そう言われれば他の使い道を探すしかない。だからと言って自慰行為など、十代の終りに卒業済みだ。

 再び電動の唸りが聞こえた。受信機とローターを直結するプラグを引き抜く。表口から出るつもりだろうか。時計を見る。午前6時12分。夜のうちに試みるのではと思っていたが、意外と我慢したらしい。それともこちらが熟睡しているであろう、早朝を狙ったか。他の二人はともかく、あの無口な娘ならそのくらいの判断はつきそうだ。

 手早くタンクトップを着る。用心のため、いや当たり前のようにクーガーをジーンズに挟んだ。乱れた髪を撫で付けながらドアを開け廊下へと出た。欠伸をかみ殺し、今度は少し御灸をすえるべきか、と最上ウミは思案した。

 ペンキが剥がれ、所々錆付いた鉄製の階段を下りきる。剥き出しのコンクリートの床が足元を冷やした。今日は朝から雨降りだ。湿気交じりの空気に乗り、香辛料とアルコールの香りが鼻をつく。ここ数日閉店休業中だが、食材は倉庫に山と積まれている。

 アロハシャツが半年前に開いたバー。中華街の奥まった裏路地に立つ、三階建ての雑居ビルの一階が店舗だ。二階は彼のアジトと化していた。老朽化が目立つ鉄筋コンクリートの建物は築二十年の代物。三階はずっと空室だ。理由は、大災害をも凌ぎ切った構造の頑強さに、物件を探す人々が驚嘆を覚えないこと以外にもあるという。

 一年程前までビルの三階では潜りの風俗店が営業していた。中国系マフィアの資金源だったらしい。店員の娘が自殺した。客先で精神を破壊されたのが原因だ。シャブと利尿剤、強力なバイブレータによるアナル・プレイ。モンゴル出身の銀髪の娘だった。そいつが化けて出るんだとよ、だから入居希望者がいないのさ。微笑みながらアロハシャツは説明してくれた。

 店内へと入る。薄暗い。木製のテーブル、その全ての上に椅子が無造作に乗せられていた。雨の日特有の、灰色がかった陽光が室内に定着している。窓辺に佇む者の姿が随分虚ろに見えたのは、そのせいだろうか。と言うより、髪から両腕の肌まで色素が薄い。一瞬、亡霊を見るのは何年ぶりか、と思った。

 別に足音を忍ばせたりはしなかった。しかし瞳を向けようとせず、少女は立ち尽くしていた。

「何か見える?」

 声をかけた。反応は思ったとおり簡素だった。赤い瞳がこちらを窺う。直ぐに窓の方へと視線を戻し答えた。

「雨」

 カウンターの向う側に入る。調理台の上にあるポットは保温のままだ。マグカップを二つ食器乾燥機から取り出し、昨晩飲み残したコーヒーを注いだ。クリームは見当たらない。この店のメニューには、コーヒーはブラックしかない事を思い出す。

 カップを手に少女へと歩み寄る。今度はこちらに身を向けた。片方差し出すと、素直に受け取った。少し意外だ。

「他の二人は?」

 少女は、マグカップを口元へと運びながら、微かに首を振った。

「勝手にうろつかれるのは困るわ。その積もりはなかったようだけど、センサーはそこらに仕込んであるの。睡眠を妨げられるのは愉快なことじゃない」

 頷いた。了解した、というだけの意思表示だろう。充分な返答だ。無駄な説明が必要ないのは助かる。お互いの立場をよく理解できている。この娘に好感が持てる理由だ。

 店の真ん中のテーブルに着き、コーヒーを口に含む。一晩寝かされ苦味だけの代物になっていた。若干意識は明瞭になる。窓辺の席に腰掛け、少女はまた窓の外へと目を向けている。それに習い雨音に耳を傾ける。中華街がこんな時間に動き出すわけもない。警戒だとかどうとか、そんな事とは無縁の行い。何時間振りだろうか。

 自然と、他に考えることもないが、夢の名残に意識は向いた。そこに雨はなかった。日常的な水不足。数リットルの水を得るために、遥か昔から住民達は、山一つ越えることも珍しくはない。争いも起こった。井戸一つめぐって、血生臭い争いが。民族だ部族だと声高に主張するが、実はそんな抗争が人々を分け隔てた原因の一つだと聞かされた。学んだ。水がなくては人は生きていけない。至極当たり前のことだ。なんと不愉快なことか。

 嫌な夢だった。見慣れたそれとは違っていたが、本質は同じだ。追憶。過去の夢は苦く、現在のそれは不確かで、未来への予感は甘美だ。アル中で死んだ小説家がそう言っていた。自分の見る夢は、不愉快な残像、行うべき事の確認、致命的な失敗と敗北の可能性への予感。その繰り返しに過ぎない。

 灰色の山々。それが幾重にも連なっている。空は青い。少年の命が絶たれた日は曇天だった。同じなのは肌を切るような寒さ。人種や国籍、敵味方の別なく、死へと引きずり込んだ冬の寒気。自分が密かに涙した日と今が、地続きなのだと認識させる唯一の感触だ。

 遠くで爆撃音が響く。薪が詰まれた弔いの墓標。褐色の老人がそれに火を放つ。乾燥した気候が炎の回りを早めた。臭気が辺りを満たし始めた。甘酸っぱい、だが言葉どおりの甘さなど微塵もない香りだ。少年の入れられた棺が音をたて崩れた。

 黄色ばんだ小さな躯。燃焼は、全身の毛、脂肪分の多い腹部や臀部、力の失せた陰茎から始まる。一気には燃え尽きない。長時間、燻り続け炭化してゆく。薪が足され、山羊の糞を乾燥させた固形燃料が何度も投げ込まれた。老人は独りで作業を行った。誰も手を貸そうとはしない。ターバンを頭に巻いた戦士達も、顔をベールで覆う女達も。まだ生身の瞳を持っていた義眼の男も、勿論ウミも。

 涙が出ない。不思議だ。昨晩、搾り出したからか?そう自分に問い掛けてみた。違う、そうじゃない。

 この国に来た時、意外に思ったのは、大地が黄色くなかったということ。日本に居た頃にあった砂漠の国というイメージとは、違う風景が広がっていた。空の色も決定的に異なっていた。

 ただ、青。中間色などなく、雲をも受け入れないかのような青だ。澄んでいるとか、そんな言葉も当てはまらない。単純な、単調なまでの空がそこにはあった。

 同じなのだと思った。今目にしている光景には何の濁りもない。主義も思想も宗教も、もっと単純な感情も、この炎を汚せない。死とは、単純明快だ。私の想いなど届かない。届く余地はない。人は己のために涙するというならば、今ここで涙する理由は途絶えた。少年は既に、ただの炭化物と化しているのだから。

 蝿どもの羽音のような音が轟く。戦士達が怒鳴り声を上げ周囲へと散らばる。義眼の男が手を引く。爆発音と風。防空壕に飛び込む。集落は何度めかの、攻撃に晒されていた。最早燃えるものもない。燻り続ける少年の遺体が放つ煙だけが立ち昇っている。それをかき消しながら、攻撃ヘリが旋回していた。

 無意識にクーガーを握り締めていた。無意識にスライドは引かれ、黄金色の弾丸は装填されていた。無意識に、引き金に指が掛かっていた。狙うべきは?そう問い掛けた。こめかみか?自分の、こめかみか。意識のどこかでそんな返答があった。

 違う、殺せ。何かがそう打ち消した。驚いて銃を見詰める。物が語りかける?無論、無言だった。当たり前か。幻滅した。

 あいつらを殺してくれ。横で褐色の老人が声を絞り出していた。瞳には輝きはない。いつものキツネ目はさらに細まり、そして乾ききっていた。

 あいつらを殺してくれ。アメリカ人、イギリス人、ロシア人、日本人、背教徒ども、誰でもいい殺してくれ。奴らの親に、妻に、夫に、子供に、同じ苦しみを与えてやってくれ。俺は分かった、分かったんだ。神は誰も裁かない。ただ見ているだけだ。虫けらを眺めるように、見ているだけだ。俺達の神だろうと奴等のそれだろうと同じだ。だから、あんたがやるんだ。あんたはそのためにここに来たんだ、違うか?その娘もそうだろ?いいか娘、その銃はな、孫がお前にやった銃はな、そのためにあるんだ。嫌なら今返してくれ。殺せ。孫の、俺の孫の死を知らない、知ろうともしない連中を殺せ。誰でもいいんだ、嫌なら返せ。

 義眼の男の答えを待った。老人への返答が、自分の中で澱む疑問への答えにもなるはずだ。これは私の物なのか?私が、持ち続けるべき物なのか?義眼の男は答えなかった。傍らの突撃ライフルを手にすると、壕を飛び出していった。銃声が連続し反撃の開始を知らせた。

 また幻滅した。畜生。

 ウミは返さなかった。だから手元にある。今もこうして、鈍い輝きと煩わしい重量で、自分の存在を誇示している。あの時の老人の願いなど無関係だ。この道具の存在理由には無縁なのだ。そして、自分がこれを手懐けた理由にもならない。

「なぜ、あんな事をするの」

 ぼつりと赤い瞳の少女が口を開く。無視しても構わない程の、問いとも言えない呟きだった。クーガーをテーブルの上に置く。少女の瞳がそれに注がれた。まるで問い掛けた相手であるかのように。だが、こいつには心などない。答えるべきなのは、私か。

「誘拐した理由?」

 少女は見詰めるままだ。赤い瞳が言っていた。違う。

「あなた達の、組織の、護衛を殺した。その事?」

 少し躊躇があって頷いた。それも含めて、ということか。成る程、他の二人に比べ、こちら側の行いをよく観察できているようだ。しかし問いそのものは意外だ。

「知って、どうするのかしら」

「別に」

「無意味な質問ね」

 頷いた。承知している。当然だ。

 時計を見た。午前六時四十五分。今日は依頼者側と打ち合わせがある。三時間後だ。どうしたものか。話すべきことはない。食欲はまだない。アロハシャツは疲れている。お喋りなのはその表れだ。起こすのは気が引ける。他の二人を叩き起こすのは、もっと気が引ける。あの二人は煩わしい。

 立ち上がる。銃を腰に差し、赤い瞳の少女を呼んだ。

「来なさい」

 来た。いつもの足取りで。

「一人にしておくわけにはいかない。分かるわね?」

 頷いた。承知しているのだ。嫌な娘だと思った。

 

 鉄製の梯子を下りると、ウミは壁のブレーカーを上げた。電灯が順についてゆく。どれも切れかかっていて明滅が激しい。赤い瞳が猫のように細くなった。少女はぼんやりした表情で、機械的に周囲を見回していた。

 地下室のマンホールから下りた場所は、当然だが下水道だった。空気は意外と乾いていたが、生臭い臭気が鼻をつく。以前はもっと酷かったに違いない。横浜の再開発事業の際、中華街の下水設備は新設された。日々吐き出される汚物は、ここから約二十メートル下方の、真空状態が保たれたパイプを伝い処理場へと運ばれている。旧下水道はあちこちが大災害時の被害で寸断され使用不能となっていた。

 静かなところね。足元を走り抜けるネズミの影を目で追いながら、少女が呟く。厭味ではないらしい。口元を緩めて答えてやる。

「気に入った?お互い、雰囲気は合うかもしれないけど」

 厭味だった。無視された。

 地下室から持ってきたスポーツバッグを開く。コピー用紙を六枚取り出す。三枚、少女に手渡した。彼女はそれをしげしげと見詰めた。五本の円が描かれ、中心から三本までの間は黒く塗りつぶされていた。6、7、8、9、×。文字が外側からそれぞれ、線の間に書かれている。

 澱んだ水路の脇を伸びる通路を歩く。赤い瞳の少女も黙ったまま後に続く。二十メートルほど先で下水は合流し、T字路になっていた。水路の上に渡してある木製の板を横切る。軋む音とともに若干足元が沈んだ。

 所々に黴と、無数の穴が穿たれた壁。そこにコピー用紙を張り付ける。二メートル間隔で上下ばらばらにだ。様子を見ていた少女は、こちらが張り終えると当然のようにそれに習った。

 再び橋を渡り先程の場所まで戻る。バックを探り、取り出した物を少女に渡す。ヘッドホンだ。コードなどは伸びていない。珍しく、戸惑ったように赤い瞳が揺れた。手振りで耳を示す。納得したのか、小女はヘッドホンで両耳を覆った。

 腰に差していたクーガーを持つ。習慣でカートリッジを取り出し残弾を確認。一発少ない。憤りと屈辱で染まる、打ちひしがれたブルーの瞳が脳裏に浮かんだ。栗色の髪の少女は、もう一人の少女と寝室が同じになるのを渋っていた。起床してこないのは、眠りを妨げるほどの嫌悪感ではなかったということか。思わず笑みがこぼれた。

 十五メートル先の標的と対峙する。視線をジグザグに端まで動かし、即座に腕を水平に伸ばす。改行するかのように再度、視線を横へ。引き金を引く。轟音とフラッシュ。横で少女の体が僅かに震えるのが感じ取れた。

 引き続ける。五回、視線の改行、六回。閃光に浮かび上がるカタコンベ。忘れ去られた、人の営みの汚物を祭る墓場。乾いた破裂音。耳にするものは二人と、ネズミやら蜘蛛やら、アメーバ。あるいは地下に逃れた浮浪者か。どの道、文句を言われた試しはない。

 二発連射。左から三番目の標的で終り。銃を降ろした。最後の薬莢が転がり、水面へと没した。

「まだよ」

 ヘッドホンを外そうとする少女を手で制する。弾切れのクーガーを腰に差し、代わりにバッグからサブマシンガンを取り出す。MP5K・クルツ。弾装を差しこみ腰だめに構える。視線を端へ固定。それから横へ滑らせ、人差し指に力を込める。

 三連射、視線を右へ、三連射。舞い散る空薬莢が転がり、少女の靴に当たる。視界の隅で断続的に浮かび上がるその影。身動ぎもしない。動けないのではなく、動く意志がない。単なる性格からか、例の組織で受けているという訓練の賜物か。

 何であれ、この娘の事が若干だが分かった。理解ではない。その必要もない。分かった、というのは、他の二人との決定的な違いだ。この姿、それが違いだ。

 クルツの唸りの余韻がコンクリートの壁に吸い込まれる。構えを解き、少女の方へと向き直る。どういうわけかヘッドホンを外していた。標的の方に注がれたままの瞳。充血のような赤色が、やや増しているように見えるのは錯覚か。

「耳、大丈夫?」

 こちらを見て、こくりと頷いた。

 クルツをバックに戻す。油紙に包まれた小型の銃を取り出す。懐かしい品だ。義眼の男に初めて持たされた銃。砂と岩と、青の空の地で訓練を受け始めた時の教習道具。スライドを引いて初弾を装填した。金属音は以前のように澄んでいた。

 銃口をあさっての方向に向けたまま、少女の顔の前に示した。視線が一瞬吸い寄せられ、こちらの顔をまっすぐ見詰める。問い、ではないが答えは必要なようだ。

「無意味、だとしてもあなたは質問した」

 目を伏せた。許さず、年齢のわりには豊かな胸元に押し付けた。理解する必要も教える必要もない。あの問いに答えはあるか、自分にも不確かだ。欲したものを見出す、その機会を与える。それだけだ。

 ややあって、白い両手が掲げられた。その上に置く。重みを図るように指先が、青みがかったスチールを包み込む。そうしている姿はまるで、何者かに捧げ物をしているかのようだ。ワルサーPPK/Sは少女の手に納まった。

「訓練は?」

「実際に持ったこと、ない」

「そう」

 レクチャーした。型通り、基本を。各部の意味、銃口を向けるべきものと向けるべきでないもの、握り方、姿勢、狙い方。人差し指の使い方、反動と音と閃光への注意。そして一連の行動による結果。

 単純かつ合理的で、極めて理不尽な回答をもたらす力学の教示。少女は黙って聞いていた。吸収しようとしていた。そうも見えた。

 若干離れて目で促すと、躊躇することなく二本の細腕が伸ばされた。左足を前、右足をやや後ろに位置させる。頭を若干傾け銃を視界の真中へ。サイト越しに標的を凝視。教えた通り、忠実に型にはまっていた。少なくともなそうと努力していた。

 姿勢は良い、驚くほどに。だが銃の安定がままならないようだ。銃口が上下左右、細かく揺れ動き定まらない。ワルサーの重量自体はそれほどのものではない。この年頃の娘でも大した重荷ではないはずだ。

 問題は支える腕、手、指への力の配分だ。当然だが箸やら携帯、テニスラケットだかを持つのとは意味合いから全く異なる。こればかりは経験がものを言う。扱い兼ねるのが自然なのだ。それでも感心させられるのは、細まった目の奥の瞳に、苛立ちが全く窺えない事だった。

 銃声と閃光。それに混じった微かな声を捉えられたのは、ウミのような生業の人間の持つ、業とも言うべき感覚のおかげだ。悲鳴、ではなかった。硝煙で揺らぐ表情。そこには確かに今まで見たこともない、困惑がある。恐れではない。純粋な驚きの表出だ。9mmショート弾の反動で跳ね上がったはずの両腕は、既に標的に向け伸ばされている。それが何よりの証だ。

「あと六発」

 そう言うより先に銃声が響いた。二発目、心構えは出来ていたのか、最早戸惑いは無かった。しかし銃を安定させきれずに発射しているのは相変わらずだ。三発目、四発目も同様。標的にはまだ一つも命中していない。確認しなくとも分かる。

 五発目、反動が既に腕を痺れさせているらしい。感覚が麻痺し始め、銃を支えるのがやっとに見える。六発目、引金を細い指が引いた瞬間、銃全体が甚だしく右側にずれた。握力も失われているのだ。ガラスが四散する音と共に、通路の奥の電灯が一つ消えた。丁度良い。いい加減交換の時期だったのだから。

 この年頃の娘には、過酷な体験なのは間違いない。だが泣き言一つ言わない。強張った表情ながら、定められた動作を模倣しようと必死だ。例の組織で受けているそれは、ある意味訓練なんて生易しいものではないかも知れない。何かしら洗脳のようなものも施されているのか。そんな疑いすら、抱かせる姿だ。

「誰かいる」

 その呟きで思考から引き戻された。そう言えば最後の一発が発射されないで久しい。赤い瞳の少女は、割れた電灯によって色濃くなった、T字路の角の闇を凝視していた。目を向けたが何も見えなかった。否定の言葉を出そうとして詰まる。ぼんやりと、影が浮かび上がった。腐臭の漂う水路の上、確かに周りの暗がりとは異質な影が。少なくともそう感じた。

 赤い瞳の少女からワルサーを奪う。陽炎のような影に向かい歩みよる。五メートル手前で足を止めた。影は、今やおぼろげながら形をなしていた。異様な存在感を示し、佇んでいた。

 銀髪、東洋系の顔。痩せた、背の低い娘だ。虚ろな瞳。何かを訴えかけるように震える唇。赤みのない、水性絵具で引いたような、柴色の唇。美しくも儚く、不条理への無念がこもった表情。

 さらに近づく。背中や腕の肌に粟が生じるのを感じた。それは意識とは関係ない、根源的で生理的なものだった。だから無視できた。心に訴えかけてこないからだ。そんな感傷など随分前に切り捨てた。

 相手は、こちらの事が目に入らぬかのように、何かを呟き続けていた。娘の、鳶色の瞳は美しかったが、表面はしつこいほど潤んでいた。縋り付いていた。自分の死の、意味を求めるように。唇の動きを読み取ろうとした。よく分からない。どうせ恨み言か、泣き言だと判断した。

 眉間の辺りに銃口を向けた。引金を引いた。闇より深い暗黒の銃口から迸るマズルフラッシュ。それが全てを照らし出し、全てを明白にし、そして再び闇へと戻した。

 少女の元へと戻った。すれ違っても視線は変わらず、下水道の奥へと注がれていた。銃を放り込みバックを肩に担いだ。梯子に歩み寄る。ブレーカーを下ろす。今度こそ完全な暗闇だ。存在するものは以前と変わらない。そして背後から、やっと呟きが聞こえた。

「…さっきの、誰?」

「さあ」

 それ以上の問いは無かった。答えに満足したのだろうか。求めていた答えは見つかったのだろうか。分からない。赤い瞳が今注がれる先も、その表情も、確認する積もりなど毛頭無い。

 梯子を登り、手探りでマンホールの蓋を開けた。湿気交じりの生暖かい空気が流れ込む。下水道のそれに比べ、快適だとは言いかねる。弱々しい裸電球の、オレンジ色の光が差し込んできた。この穴倉どころか、地下室を照らすにも不充分だ。それに目を細めながらウミは思い至る。這い出した先はいつもこんなものだ。何一つ確かなものなど感じられず、急激な状況の好転や認知など、望むべくもない。

 目が利かないから闇、というわけではない。確証がないから答えはない、それも違う。だとすれば、さっきの娘と私達との間に、どれだけの違いがあるというのか?

 屁理屈が気に入った。後から梯子を登ってくる少女に、教えてやろうかと思った。やめた。大きなお世話だろう。事実を認識できない、だから理解できない、というわけではない。闇を恐れながらも人は、全てを覆い隠す闇を欲してもいる。だから、分からない、という解答もあり得る。

 重いバックを古びたロッカーに放り込み施錠する。少女を待たずに地下室を出た。店内には誰の姿もない。そろそろ外出の用意が必要な時間だ。気は進まなかったが、アロハシャツを起こさなくてはならない。店のトイレに入り顔を洗う。水の忌々しい冷たさが、硝煙のきな臭さを減じてくれた。

 二階に上がる。廊下の角を曲がろうとし、気が付いた。気配がする。さっきの娘か。いい加減、不法な居住を止めるよう諭すべきか、と考えた。

「あっ……」

 気弱な少年だった。二人の少女に寝室として提供した部屋の前で、立ち尽くしていた。陰りを帯びた目がうろうろと揺れ、俯いた。

「そ、その、僕は」

 無視して横を通り過ぎた。説明など聞くまでもない。半開きになった部屋のドア。下ろされたままのズボンのチャック。咄嗟に背後へと隠した右手。それだけで紅潮した頬の理由など、明白だった。

 アロハシャツの部屋の前に立つ。少年は、まだ窺うような視線をこちらに向けながら怯えていた。

「そろそろ、その娘も起こして頂戴」

 答えはなかった。ドアをノックし開けた。視界の隅に打ちひしがれた姿が目に入る。ただ自分を納得させる理由を探そうとする、姿が。

 少年の発する生臭い臭気が微かに鼻についた。下水のそれ以上に、不快だ。

「亡霊でも見たような顔ね」

「…えっ?」

「私は見たわ」

 部屋に入りドアを閉めた。

 本当は、何かを明らかにされる事など、誰も望んではいないのだ。

 

                 [  続く  ]

 

 

 


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