私の言語の眼界は、私の世界の限界を意味する。

                    (ウィトゲンシュタイン)

 

 夢を見ていた 夢の中はいつも

 明るく清らかなものばかり

 その後 眠りは破られた

 けれど 私の夢は傍らに残る

                    (パティ・スミス)

 

 

               『 EGGS 』

 

 

                  (1)

 

 幼かった頃。まだ星々の間にある距離すら、意識しなかった頃。

 屋敷の庭に、鶏がいた。雄と雌のつがい。ままごとをしたり、花を摘んだりしていると、決まって追い掛け回された。

 理由は分からない。理由など無かったのかもしれない。嬲るように、庭の片隅に追い詰められた事も、一度や二度では無かった。

 夕暮れ。父は軍務に忙しく、自室で静養する母に声は届かない。メイドは買い出しで留守。姉はクラブ活動で遅く、妹は揺り篭で眠っている。助けはない。待つしかない。鶏たちが飽きるまで。

 鶏の目は恐い。血走っているわけでもなく、鋭い眼光を放つでもない。ただ、真ん丸。濡れた白目。深みの無い、黒い瞳。見据えられたまま、幼心にも感じた。孤独。無力を。

(私は独りだ)

 ある日を境に鶏は、特に雌は、私を追い掛け回すのを止めた。無関心と言うわけではない。さりげなく、こちらの動きを窺っている。そんな感じだ。

 不思議だった。あの頃は些細な変化が、例え人工的に作り出された季節の移り変わりであっても、不思議に思えた。当たり前の事が当たり前で無くなる。当たり間だった事が、当たり前では無い。

 だから姉に尋ねた。姉は微笑んだ。抜けるような白い手(既に病気がちだった)で私の手を取り、外へと連れ出した。庭の隅に鶏のための檻がある。常に開け放たれたままだ。

 姉は少し遠慮するように、挨拶までして、その中に入っていった。人一人が入れるくらいのスペースはある。既に本来の住人が居たのだから、私には無理な所業だ。だが鶏は、姉を襲わなかった。いつもそうだった。彼女だけは、絶対に。

 姉が呼んだ。鶏は、彼女の足元で畏まっている。恐々ながらも近寄った。ニコニコ微笑みながら、姉が地面を指差した。

 藁か何かで作られた巣。丸いその真ん中に、不思議な物体があった。知らなかったわけではない。ただ日頃囲む食卓以外の時と場所で、見たのは始めてだった。

 卵。純白ではない黄色がかったそれが、鶏から生み出され、さらにそこから鶏が生まれるのを、姉の教えで初めて知った。

 妹が産まれた時、漠然と、命は命から始まる事を聞かされてはいた。だがあの恐ろしい鶏も、基本的には同じだった事に、驚きを感じた。私は彼等を、食料を生み出す、機械か何かと本気で信じていたぐらいなのだから。

 新たな知識は、彼等の存在をやや身近にした。同時にある種の不気味さも覚えた。鳥も私たちも大して変わらない。姉はそう教えてくれた。それでは、私が振るわれた暴力をどう解釈すべきなのか。

 決して甘やかされて育ったわけではない。父も母も厳格さは有していた。だが幼心にも、時折二人が私に示す怒りの裏に、筋の通ったものがあるのを感じていた。怒りとは、必ずしも不条理なものではない。鶏の振るったそれは明らかに違った。もっと根源的で黒いものだ。端的に言えば、姉は敬われ、私は虐められた。

 そこに存在する歴然とした比較。溝。今なら感じられもするし、見えもする。別に鶏相手でなくとも、我々の間には押し並べて、それは存在している。

 絶対に分かり得ない領域。ただの人間だろうがニュータイプだろうが、捨てられない呪い。

(卵が先か、鶏が先か)

 善意と悪意の表裏。意識したのは、鶏との関係が初めてだったと思う。無論、幼い私には、それを言い表す言葉が無かった。口にするのもなぜか、後ろめたい気がした。

 だから、疑問は別の形で尋ねる事にした。即ち、卵が先か鶏が先か、と。

 父、母、教師。姉、妹、幼友達。愛した男。皆に尋ね、答えがあり、私は納得できていない。問いは少しずつ形を変えながらも、頭の隅で常に疼いている。

 しかし、これ以上問い掛けて何になる?私は、もう充分に知っているのではないのか?言葉では、表すのが困難だとしても。実体で、自身で。

 鏡を見る。時々思う。目が似てきた。ある者は美しいと言い、他の者は冷たいと言っている私の目。

 あの時の鶏の目に、似てきた。

 

「…くだらない」

「は?」

 怪訝な声に現実へと戻った。こっちの事だ、そう言いかけ思い直す。

 薔薇の花。微かな香りに思考が迷ったか。テーブルの上の花瓶。届けた者の話では、宇宙世紀以前の物らしい。斜陽の帝国の工房で生み出された、一品。アナハイム・エレクトロニクスの肥え太った会長は、これを贈る事で、私への皮肉としたのだろう。

 現実。嫌な言葉だ。

「要するに、成果は上がっていない。一言で済むのではないのか」

「それぞれのプロジェクトは進行中の段階です。その過程においては興味ある事実の判明もあります。決して無意味では」

 それはそうだろう。でなければ、予算と人材、何よりも時間の無駄だ。それにしても、あまりに取り止めが無さすぎる。

「グレミー、本当にそう思っているのか?」

「それは……」

「必要とするのは能力だ。論文や推論の類ではない。ニュータイプ。その存在を欲している」

 退屈しきっていた。だから昔の事など思い出す。本来は極めて私、そしてアクシズ全体にとって、重要な案件の報告なのだ。それがこの有り様か。

 空気が緩んでいる。どこというでなく、全体が。もう勝利したつもりの輩が多すぎる。グリプスでの決戦。ティターンズは壊滅しエウーゴは大損害を蒙り、一方我々は力を温存できた。だが、それだけだ。

 あんな不様な戦い、どこが勝利なものか。

「百に達しなければ、十だろうが七十だろうが同じだ。私はそう思う」

 副官のグレミー・トトは、というより秘書待遇ではあるが、溜息を漏らした。何時も通り芝居がかった仕草だ。

「ニタ研(ニュータイプ研究所)の連中も苦労しているようです。素養のある者を地球圏全体から見つけ出す。何しろ初めての大事業ですから」

「所詮、公国時代の生き残りの、寄せ集めだからな。とにかくこれまでのように、志願だの、実戦成績の分析による選抜だのを、期待していられる段階ではない。組織的に、広範に適格者を集め、育てる必要がある。求めているのはその判断材料、具体的措置だ」

 アクシズ、我々の戦力は確かに、これまでに比べ拡大している。事を急げば対抗できる勢力は存在しないようにも見える。だが分かっている。それは上っ面。実際は張子の虎のようなものだ。

 ここにきて、地球を目の前にした段階で、嫌でも痛感した。人的資源の不足。原因の一つは私自身にもある。軍内部の不平派粛清が、尾を引いているのだ。後悔はしていない。だが将兵の経験の少なさは、実戦部隊の質と量の拡充を阻害している。それを改めるには結局、新たな戦いが必要となる。これでは矛盾だ。だからこそ地球連邦の政治屋どもに恐怖を与えるには、奴等には持ち得ない、絶対的な優位が必要だ。

 スペースノイドから生まれる純正なニュータイプ。その存在は軍事的にも政治的にも、奴等のアキレス腱となりうる。連中の警戒と憎悪の、対象なのだ。

「やはり時間は掛かります。ニュータイプという人々は、自分ではその能力に気付く機会が少ない。実戦に出て初めて発揮してゆく。本来はそんな能力ではないでしょうか?」

「分かっているよ。私がニタ研に居た時も、そう言われた」

「ですからこれまでの形は残すべきです。殆どはダイヤの原石どころか、石ころしか集まりませんが。私としては宣伝工作の拡充が現実的と思います。アクシズ内部だけでなく、全コロニーに向けて我々の主義主張の趣旨を伝え、志ある者を」

 嫌な事を言い出す。頬杖をつき眉を顰めた。つい、そんな仕草をしてしまう。自分でも疲れているのが分かる。最近、頭痛持ちだ。

「そして、私がまた前面に出るのか?」

「…致し方ありません。我々の象徴はあくまで、ザビ家当主ミネバ様ですが、言葉を伝えられるのは摂政であるハマーン様をおいて他にありません」

 あくまで、と強調するのがこの男らしい。内心、不平派の連中と同じく、私中心で事態が動いている事への不満はあるのだ。出自からして当然かもしれない。だが、象徴を象徴に留めざろうえない事情までは、気付いていまい。だからまだ、許容できる範囲の上昇志向だ。利用価値はある。

 報告書に目を通しながら想像した。コロニーの大衆の前に、自分が姿をさらす場面をだ。仰々しいファッションと演説。根っから好きだと思っている連中も多いだろう。しかし、私はヒトラーの尻尾ではない。

「正直、好かんな。そういうのは」

「ですが」

「自惚れているわけではない。私の存在が、アクシズの統合に寄与しているのは承知だ。それを地球圏全体まで及ぼす試みはリスクが大きい。ネオ・ジオンという呼称はある意味、人々への道標に過ぎない。だが個人が前面に出れば敵も増えるぞ」

「敵味方がハッキリしましょう。反動的な連中は嫌でも騒ぎ出すしかない。あのシャア・アズナブルもそれを意図して、エウーゴの茶番に乗ったのではないでしょうか」

 胸に一瞬、痛みが疼く。畜生。

(卵が先だと私は思いたいな。そうでなければ、人には救いがない。そうは思わないか?)

 こちらの質問の真意を、まるで理解していたような受け答えだった。あの男はいつもそうで、私の中を読んでいて、それでいて何もしてくれなかった。

 そうさ。十四歳の時、初めて会った時から。畜生。

「…成るほど、そういう考えもあるか。考慮はしておく。ところで、お前の方はどうなっているのか」

「と、仰いますと?」

「ニュータイプ部隊の件だ。例の娘は、実戦投入可能なのだろ?」

「ああ、エルピー・プルですか。シュミレーションでの成績は既にその段階にあります。ですが、まだ部隊の指揮運用は無理です」

 指揮運用だと?お前が、それを成すつもりのくせに。

 とぼけている。隠し玉として握り続けるつもりなのか。釘を刺しておくべきだろう。

「あれを、全兵士に適応できる処方などと、思ってはいないさ。あの娘は特別だ、そうだろ?」

「まあ、強化人間ですから」

「私は殊更、人権配慮の志があるわけではない。が、ああいうのは一人で充分だぞ。鼠のように同じ顔やら性格なのがそろっては、閲兵する気にもなれん」

「何を言われているのか私には……」

 クローニング。宇宙世紀以前に、軍事利用は禁止されていたはずだ。無論、ジオンも連邦も、影で研究していたのは承知している。技術を持てば使いたがる。それが人間だ。単純に、この男に剣を与え過ぎたくは無い。それだけだ。

 大体、アクシズがアステロイド・ベルトにまだあった時、食料不足を救ったのはその技術だった。大量生産される鶏のプラントを視察した時は、吐き気がしたが。大きさ、鶏冠の形、やぶ睨みの瞳も皆同じ。最悪。

「まあいい。そっちはお前に任せる。強化人間というのは、好きにはなれないがな」

「はあ。しかし、選択肢の一つではあるのでは?」

「あくまで好き嫌いの問題だ」

「情緒面の不安定について危惧しているのでしたら、プルを御覧いただければ御分かり頂けると思いますが、改善しています。依存対象を刷り込む事で、精神的安定を図り」

「成るほど、それでか。連邦の造った強化人間もそうだったのかもな」

「何か問題が……」

「馴れ馴れしいんだよ。あいつらは」

「……」

 釘は充分刺した。ファンネルの数並みに。そう言えば、最近はコックピットのシートを暖める暇も無い。そうだ、次の会議まで数時間はある。珍しい。そうあることじゃない。

 思い立った。即、実行。昔からの主義。

「報告は以上か。私は少し外に出る」

「キュベレイで、ですか?では護衛を」

「いらん」

「いや、しかし……。お待ちを!」

 執務室を出る。外の衛兵にデッキへの連絡を命じ、無重力状態の通路を駆ける。気分が高揚してくる。さっきまでの憂鬱が嘘のようだ。窓から見える星の海。意識は既にそこにある。

 結局、憂さを晴らせるのはコックピットの中だけなのか?私は。

 

 愛機キュベレイは、モビルスーツ・デッキの中央に鎮座していた。済ました顔で、私を待っていた。

 純白の機体。蝶を、イメージしたデザインと設計者は言っていた。可憐な、とは言いすぎだと思うが、正直気に入ってはいる。動かせば恐ろしいほど癖があるモビルスーツなのだが。

 キュベレイはアクシズでの、一方の象徴のように喧伝されている。だが内務監査班の報告によると将兵の中には、人相が悪いとか、モス・ウーマン(蛾女)だとか、アメリカシロヒトリだとか言っている輩がいるようだ。全くもって失礼な話だ。

「ハマーン様。整備は万全です」

 当たり前だ。そう言い掛けて振り向く。薔薇を胸に挿した男が、潤んだ瞳を向けていた。こいつ、まだ後生大事に、私が与えた薔薇を持っていたのか。

 どうでもいい事だが、なぜ枯れんのだ?

「護衛はこのマシュマー・セロが、責任をもって行います。ご安心を!」

 チッ、グレミーめ。いらぬ気をまわしたか。

「いらんぞ。戦闘に出るわけではない」

「現在アクシズ周辺宙域に敵影はありませんが、エウーゴやティターンズの残党は広く分散しています。万が一ということも」

 分かりきったことを言う。目をかけられている事に増長しているのか?いや、昔からそんな精神構造ではなかったな、この男は。

 只の、馬鹿。

「その掃討とコロニー制圧の件、お前にも命じるつもりだが」

「えっ!?私に、ですか!」

 喜色満面になる。涙目にまでなってる?いかん。追い払う口実で言った事だが、こんな男に任せて大丈夫なのか?

 まあ、選択の内には入ってはいた。しかし、この程度の人材が実戦部隊の指揮官クラスなのが、今のアクシズだ。やはりニュータイプの確保は急務だ。

「準備は、早く始めたほうが良いのではないのか」

「ハッ!このマシュマー・セロ、胸の薔薇に賭けて、ハマーン様の御期待にそえるよう、尽力いたします!」

 支離滅裂。頭が痛い。

 奴はグルグル宙を舞いながらどこかへ消えた。モビルスーツに頭をしたたかにぶつけながら。…全く、パイロット養成学校時代、シュミレーション実習で負けては私に突っかかってきた頃から、根本的には成長していないではないか。任務に就けるには、目付け役が必要だろう。まあ良い。邪魔はこれで居なくなった。

 コクピットに滑り込む。ここ二週間で様変わりした内部。アビオニクス(計器管制装置)を改良したのだ。

 コロニーレーザー・グリプスを巡る戦いの最中、エウーゴのエース・パイロットが操るZガンダムに、すんでのところで撃破されかかった事がある。専属の技師達は至近距離戦闘時の管制能力に、若干の問題があると判断したらしい。本当は、そういう類の問題ではなかったのだが、連中の思うようにさせた。

 あのZのパイロットはどうなったのだろう?諜報部の調査報告にはグリプス戦以後、原因不明ながら再起不能とあったが。単純に、喜ぶべきことなのだろうか。

 妙な話だ。惜しい気もする。あの少年はニュータイプだったのだ。それは間違いない。同類が減った。そういう事か。

『…ハマーン様。少々お待ちを』

 通信が入った。グレミーだ。くそ、まだ邪魔する気か。

「護衛のことなら」

『いえ、そうではなく、目を通して頂きたい報告がまだありまして』

「…戻れなどとは、言わんだろうな」

 ディスプレイの中でグレミーが引きつる。笑える表情だ。こういう一面がまだ、奴を近くに居させる理由でもある。要は、坊やなのだ。

『で、では、そちらに報告のファイルを転送致します。少々で良いですから、目を通して頂けませんか?』

「フン、どうせ暇だからな」

『申し訳ありません』

 画面が消えると、管制官の声が代わって入る。発進の指示。それに従いカタパルト・デッキへ。相手が私でも、指示にはそつが無く配慮も無い。プロ意識の表れだ。こういう人間も居る。適切な措置をとれば、アクシズはまだ戦える。私の、目的が果たされるまでは、そうでなくては困る。

 少しは気が楽になった。オール・グリーンのサインに、私は応えた。

「キュベレイ、出るぞ」

 思い切りバーニアを吹かす。射出。狭苦しく息苦しい岩石の塊アクシズが、たちまち後方へ遠のく。広がってゆく暗黒と、星の瞬き。申し分ない、Gの感触。

 ここが私の生きるべき、世界。

 

 小一時間、乗り回した。戦艦らしき艦艇の残骸。そこにキュベレイをとまらせ、羽を休ませる。私も、休息。

 マシュマーが言っていた事は、上っ面の甘言ではなかったようだ。先程、モビルスーツと遭遇した。機種はジム・タイプ。遠距離からの狙撃が正確だったから、カスタム仕様のものだろう。恐らく、ティターンズの残党だ。

 三機による左右正面からの待ち伏せ攻撃。そのつもりだったらしい。だがキュベレイの改良された、全方位モノアイ監視システムは、そんな意図をさっさと看破していた。もっともそれ以前に私はそれを、殺意を、感じていたが。

 ざらついた、奴等の意思。下劣だ。だが久々の嘘のない感触が笑みをもたらす。言葉は嘘で、突き刺す意思は、真実。

 駆けるかい、キュベレイ。

 出力を最大へ。敢えて敵の意図通り前へと進む。慌てたように閃光が煌く。こちらのスピードに弾丸は全て逸れる。当然だ。オールレンジ攻撃が可能な小型のビーム・キャリバー、ファンネルを放出。そこまでやる相手ではない。久しぶりの戦闘で自分とキュベレイの息を確かめたかったのだ。

 問題なし。一瞬でけりはついた。

 後方で爆発。三つ。速度を緩め反転。奴等の舞台へ戻る。モノアイが物体を捉えた。脱出ポッド。よくもまあ、助かったものだ。救難信号を表す、赤と青のランプ。私に向けてのものか。幾らなんでもそれは、僭越過ぎるだろ?

 タノシカッタヨ。

 両翼の信号灯でそう応えてやり、その場を離れた。もって十数時間か。その先は、こちらの考慮の埒外。ここでは、この暗闇の中では、当然の事だ。

 静かだ。聞こえてくるのは、リアクターの微かな振動音程度。最近はこういう機会も無かったな。ニタ研や養成学校に居た頃は教官の乗機を振り切り、たまにこうしたものだったが。

 シートをリクライニング状態にし、身を横たえる。目を閉じ、意識を空にし、感覚を研ぎ澄ます。感じる。宇宙の渦を。流れを。

(宇宙の鼓動を、感じた事はあるかい?何も無いようで何もかもある。そんな認識だ。私は稀にある。ランバ・ラルという戦死したエース・パイロットも、あると言っていたな)

 ナンダロウ?ソレッテ。

(さてな。ずっと昔、初めて宇宙に飛び立った人達が抱いたという、感覚かも知れない。叫びのようにも聞こえ、微かな香りも漂う。戦争が始まってからは特に強くなったが)

 ソレガ、ニュータイプ?

(いや、違うな。少なくとも第六感の類じゃない。本当は、何時も包まれているのかも知れない。意識できる機会。それが宇宙にはあった。それだけかもな)

 感じろ。耳、鼻、肌。瞳、舌、心臓。広がり、凝縮し、また広がる。エントロピー。生の生命、生の死。生の人。空間と時間。言葉と認知。実存と虚無。乖離、自由。青。

(感じてごらん、それを。そうすればパイロットとして、生き残れるさ)

 教えてくれた。あの男が。共に宇宙を駆け、装甲越しに。抱擁。愛撫。

 駆けた日々。輝ける日々。色褪せぬ日々。語りかけ、言葉が、世界。あの頃の。

「…寒い」

 跳ね起き、戻す。今の自分に。現実に。

「キュベレイ、報告ファイルを頼む」

 コックピットの計器が仄かに瞬く。正面スクリーンに報告書が大写しになる。字は緑。そうだな、書類の決済ばかりで目が充血気味だ。心使いをありがとう。

 現実。本当に、嫌な言葉だよな。

『ティターンズにおけるニュータイプ研究に関する報告』

 ほう、ティターンズとニュータイプとは。ミスマッチな取り合わせだな。ざっと目を通す。形だけのつもりだった。だが、幾つかの語句が、私を惹きつけていった。

 ジャミトフ・ハイマン?強化人間?ニュータイプ養成機関?

『…一般的に、ティターンズなる組織は地球連邦軍内部でも、ニュータイプに対する研究、待遇には、特に冷淡であるとされてきた。これは組織として標榜する主義が、反スペースノイド的であり、実際数々の弾圧を行った事実からも補強される。だが連邦政府内にて活動する協力者の報告から、ティターンズ総帥であるジャミトフ・ハイマンは、一年戦争終結後の早期より、連邦軍におけるニュータイプ研究の推進に、大きな役割を果たしてきた事が判明している』

 分からんでもない。地球圏の情勢に対して、それなりの一考を持つ人間ならば、避けて通れぬ性質の事柄だ。肯定的であれ否定的であれ、奴はニュータイプを無視してはいなかったのだ。

 まあ、だからと言ってあの御老体と、本気で組めるわけも無かったのだが。奴の魂は今頃、どこを漂っているのやら。それとも重力に縛られ、愛しの大地をさらに落ち、地の底へと引きずりこまれたか。

『ジャミトフ・ハイマンが連邦軍内部で、ティターンズを立ち上げた目的、及びスペースノイド弾圧に乗り出した真意は、現状においても不明である。一部観測によれば宇宙世紀遥か以前より存在を噂される全世界的秘密組織、フリーメーソンとの関わりが指摘されているが、確定できる証拠は無い』

 フリーメーソン?秘密組織?ふん、馬鹿に儀式ばった連中のエリート意識はそれの表れだったのか?まあいい。こんなタブロイド紙が好みそうな、くだらん憶測など意味は無い。問題はこの先だ。

『…しかし公的なその姿勢とは逆に、彼がニュータイプ研究推進の立場から離れた事実は、確認できない。例えば連邦軍は特務機関として、強化人間研究を主とする、ムラサメ研究所及び、オーガスタ研究所を組織したが、実態はティターンズ影響下にあり、ジャミトフは同機関運営資金の不正捻出を、政府内で行っていた事実が確認された。また同機関は、研究対象としての素体、実験体を求めていたが、研究の性質上から志願等による合法的獲得は困難であり、非合法な、詐欺的性質による勧誘、或いは誘拐まがいの手段を実行したとされる。ジャミトフはこの非合法活動への告発を防ぐため、公安機関への圧力を行ったようである。数々の情報から推察するに、ジャミトフは強化人間をコントロール可能なニュータイプ、即ち自然発生するニュータイプへの対抗的性格の戦力として、確保を狙ったものと思われる』

 成るほど。毒をもって毒を制するつもりだったのか。嘗められたものだ、我々も。だがそれが、ニュータイプ養成という結論とどう結びつくのだ?

『強化人間に関しては、徹底した機密扱いと情報統制にも関わらず、その実戦投入が研究の実態を広める結果となり、研究内容の分析は必ずしも困難ではない。一方で不確定情報ではあるものの、ティターンズが支援する外郭団体が、純正なニュータイプ養成に関する研究を進めているとの報告がなされている。この機関はティターンズ内部のごく限られた者達の間で、乙案、養成機関、又は7321部隊と呼称されているらしい。同機関は一年戦争終結時、連邦軍の捕虜となりながらも、蓄積していた研究内容の提供などにより戦犯訴追を猶予された、旧ジオン公国のニュータイプ研究者を主要メンバーとして発足された模様。又、一年戦争時の連邦軍側の英雄、アムロ・レイに関する医学的所見等が、フィードバックされたとの観測もある。同機関の内情、研究内容は不明。目的についても明らかではない。ただ、我々の工作員が獲得した機密文書によれば、数名程度のニュータイプ適格者養成には成功した模様である。しかし実戦投入された事実はない』

 実戦投入された事実がない?どういうことだ。くそ、分からない事ばかりだな。それでどうなのだ?その機関はどうなった?

『…養成機関の現状、及び所在については断定材料に欠ける。しかしコロニー公社内の協力者から得た情報によると、宇宙要塞、後のコロニーレーザー・グリプスの建造が行われたサイド7に属する、5バンチ・コロニーにおいて、グリプス建造開始と同時期に、大量の物資搬入が行われた事実がある。これらはその殆どが、医学的機材であり、何らかの研究施設の発足に伴うものだった事が窺われる。しかし、同様の措置は他のサイド、コロニーにおいても……』

 これだ。

「全システム、スタンバイより復帰。リアクター出力緊急展開」

 たちまち堰を切ったように蘇る計器類の明滅。核反応炉が低く唸り出す。もう少し丁寧に扱えないのか?そう言っているようにも聞こえた。

 だけど、面白くなるかもしれないじゃないか、これは。

 フルスロットル。シートに押し付けられる感触も心地良い。少なくとも、アクシズの研究者達が捻くり出す非現実的な理論より、憂鬱な詭弁ではないだろう。あたる価値はあるだろ?

 漂う残骸の中を舞いながら願った。事実であれと。生きていろと。骨のある奴ならなお良い、と。

 雛だとしても、巣立たせてやるさ。この私が。

 

                  (2)

 

 他には任せられない。任せられる人物も思い当たらない。それで私自身で出撃した。

「…本当に、宜しかったのでありますか?」

「何がだ」

「事の重大性は分かりますが……。あくまで不確定な情報です。加えて、出所はエウーゴ筋です。偽情報の類の可能性もあるかと」

「ガセでなかったらどうなる?一般の兵だけで対抗できるか」

 ギリギリの局面に出会えるかも。実の所、そんな期待もあった。単純だ。スリル、そしてリアル。

「それは、まさか」

「影でもなく、雛でもなかった。血に飢えた猛禽に育っていた。そういう可能性はあるという事さ」

 仮装巡洋艦シェルパの艦橋は狭く、埃臭い。商船に偽装しているのだから当然だが、計器類は古色蒼然としたもの。ずんぐりとした船の外観も似たり寄ったり。それでも推進装置には最新の核パルス・エンジンを備え、隠された武装も充分だ。アクシズが地球圏に到達する以前から通商破壊戦に派遣されており、少なくとも搭乗員は一線級の猛者ぞろいだ。

 コンテナ格納庫を装った艦後方部には、簡素なモビルスーツ・デッキがある。分隊クラスの戦力運用が可能だ。そこには私のキュベレイが、他のモビルスーツを脇に追いやり居座っている。

「やはり自ら制圧にあたる御積りなので?」

「言うまでもない。事を荒立てるつもりもないが。作戦の目的は撃破などではなく捕獲だ。説得に応じてくれれば、なお理想的だな」

「私も御伴いたします」

 やれやれ、まだ言うのか。まあ、本気なのは表情からも分かるが。血気に逸るというより焦れているのだ。飛び立てる翼は既に持っている。誰もが思うこと。それを抱いて、私と同年代の人間の多くが、消えていった。

「グレミー、お前は残れ。そう言ったであろう」

「ですが、私は」

「初陣の相手がニュータイプでは、死ぬぞ。この作戦のためにラカンの部隊から戦力を抽出した意味も無くなる。私が潜入している間の艦の統率が、お前の役目だ。戻ってシャワーを浴びる場所が無くなっては、さすがに泣けてくるからな」

 冗談めかした言い方だが、泣ける、という所が効いたらしい。若干赤くなった頬からして別の意味でも効いたようだが。奴もそれで引いた。要は留守番を言いつけた形だが、対面は傷付けてはいない。

 いっその事、戦死を装って始末をつけてしまう考えもあった。だが軍人としての能力は未知数でも、グレミーの実務能力は惜しい。妾腹の子として隠されていたとはいえ、さすがかなりの高等教育を受けただけはある。

 獅子身中の虫。奴の罪ではないとはいえ、その身に秘めた血も忌まわしい。早い内に駆除したいのは山々なのだが。くそ、こんな事ならやはり妹は引き止めておくべきだった。

「5バンチコロニーを捕捉しました」

 髭面の艦長が無愛想に報告する。単独行動の多い戦闘艦艇の士官はこんなものだ。余計な世辞がない分、好感が持てる。盲目的崇拝か、でなければ慇懃無礼。普段私の周りに居るのはそんな連中ばかりだ。

「艦長、サイレントランニングだ。主砲有効射程距離まで接近。潜伏場所については任せる」

「了解。進路二一七、ピッチ角プラス15度。メインエンジン停止。水素ガス噴出航行へ移行」

「後を頼んだ、グレミー」

「はっ!モビルスーツ発進スタンバイ!」

 艦橋を出てモビルスーツデッキへ。途中、待機所でノーマルスーツを着込む。身に着けるのは何年振りか。コックピットから放り出されたりしない自負はあった。そうなったら自分はそれまでのパイロットだ。何時からか覚悟を決めていた。だが、今回ばかりはそうも言っていられない仕事だ。

 それにしても、この特注デザインのノーマルスーツ。派手さは何とかならないのか?私はこんな要望を述べた憶えはないぞ。

 アイドリング状態のキュベレイへ乗り込む。システム・チェック。異常なし。エネルギー転換効率、フル・ゲイン。問題なし。確認し、艦橋への通信を開く。眉を顰めた艦長の顔が映る。

「どうか」

『反応無しです。気付いていないのか、知らぬ顔なのか。判断は付きかねますな』

『罠ではないでしょうか?やはり御一人で行かれるのは……』

 グレミーが割り込む。敢えて無視し、尋ねる。

「どう思う、艦長」

『密輸品の受け取りに、仰々しく訪れては相手も迷惑します。まずは交渉役が話をつけに行く。これがセオリーでしょう』

 妙な喩えに頷く。前歴は海賊だという話は、あながち嘘ではなさそうだ。

「だな。当初の予定通り、私が先行し潜入する。後続のガザC隊は二十分後に射出し待機。発砲は合図があるまで控えろ」

『お気をつけて』

「有難う、艦長」

『御武運を!』

「世辞はよい、グレミー」

 右舷のハッチが開く。静かにキュベレイを歩ませる。無重力状態の中、整備員一同が敬礼し見送る。見た目はともかく、この船は気持ちが良い。

「出る」

 飛び込むように星の海へ。逸るキュベレイのリアクターを抑えながら駆ける。漂流する残骸。随分な密度だ。いや、これは建築材料の成れの果てだろう。コロニーレーザー・グリプス建造の名残か。ティターンズの連中には宇宙に産廃を放置する事への、何の呵責もなかったに決まっている。リサイクルが完全に機能しているアクシズとは雲泥の差だな。

 三分ほど進んだか。モノアイが目標を捉えた。

「あれか」

 サイド7、5バンチ・コロニー。通称『ソラリス』。見た目は普通のそれ。ただスペース・コロニーに特徴的な、各種食料プラントが存在する車輪状の建造物が存在しない。つまり、居住用ではないという事だ。

 現在サイド7一帯は、アクシズからの先遣部隊が制圧を進めている。ティターンズの強い影響下にあったコロニー群であったため、抵抗が予想された。実際その通りだったようだ。接触した制圧隊からの報告によれば、叩いても懲りずに現れるティターンズ残党相手に、寝る暇もないらしい。

 もっとも、一年戦争での学徒出陣兵出身である隊長ラカン・ダカンは、武断派の自分に相応しい任地へと派遣した私に、感謝しているようだが。

「食料供給専門のコロニーだというが……。ティターンズが駐屯していたという話だ」

 呟きながら最大望遠で観察。ソラリスはゆっくりと自転している。少なくとも機能自体は死んでいない。解析データが出力される。直径は普通のコロニーに比べやや小さい。それでも大型艦船用の宇宙港は、備えられているようだ。

 つまりは軍の拠点としては不足がないということだ。未だにこちらへの反応らしきものはないが、中に導いた所で叩く意図かもしれない。外壁が破壊されればコロニー内は大損害を被る。本来は中での戦闘はご法度。しかし、追い詰められた残党がそんな事に斟酌する可能性は低い。

 そして、密かに抱えている宝玉を奪われるぐらいなら。そう考えるのは人の通りだ。

「やってみるさ」

 バーニアを吹かしコロニーへ接近。太陽光パネルからの反射が目を細めさせる。暗黒の中の輝き。暖かい。不思議だ。

 以前、こんな事を体験した気がする。デジャブ。私自身のものか、誰かのものか。分からない。宇宙にはあまりに多くの意思が、ひしめいている。

 

 順調だ。順調すぎるほど。不気味と言えば不気味だが、戸惑っている暇はない。恐れもない。

 コロニーの外壁に取り付き、作業用大型ハッチを開け、侵入。搬送用通路に降り立ちヘルメットを被り、コックピットのハッチを開いてキュベレイへお留守番の指示。作業員用のエアロックを抜け区画内部へ。この間、全く抵抗はなかった。と言うより人の気配もない。

 このコロニー、死んでいるのか?そうは思ったが、左手に握る銃を収める気にもなれなかった。セミ・オートマチックの拳銃は強化プラスチック製。無重力下での戦闘を考慮して、銃身には多くの発射ガス噴出用ポートが空けられている。反動は緩和されるが威力は必然的に低くなる。弾丸も強力なものではない。本当に申し訳程度の携帯武装。

 通路は入り組んでいたが道に迷う事は無かった。方向さえ見失わなければ、結局コロニーは円の中心へと向かうだけ。途中のセキュリティ・ドアも難なく突破。パスワード解析装置は諜報部が用意した。旧ジオン公国時代から受け継がれた諜報技術は確かなものだった。

 三つ目のエアロックを過ぎる。重力と、空気。どうやら地表に出たらしい。ヘルメットのバイザーを上げる。硬質の床で靴音が高く響く。

「臭うな」

 生臭さを伴った湿気。それでいて決して不快ではなく、どこか懐かしさすら感じる。だがこんな香り、私は感覚した記憶が無い。突き当たり。ドアがあるが開き戸だ。ノブを掴むとやけに渋い動き。身を屈め観察してみる。錆付いている?腐食の原因はこの湿気か。

 腕を組んで考え、直ぐに結論は出る。一歩下がり、右足で蹴り付けた。映画とかのようにはいかないものだ。何度も表面を蹴る。まったく、こんな姿をアクシズの連中が見たらどう思うだろう?軽く笑みがこぼれた。

「あっ……」

 開け放たれたドア。視界が光に包まれ周囲の空気が流動する。広がったのは、青。一面の青。認識した瞬間には吸い寄せられるように、外へと出ていた。

 空。コロニーの擬似的なそれにしては鮮やかな色。足元は砂。純白の細かい砂が覆っている。すぐ先は、水。巨大な水溜り。湖?それにしては広大すぎないか。

 砂と水の境界へ。と言っても水は引いては押し寄せ、境目は曖昧だ。足元が濡れる。中腰になり水をすくう。口へ。殆ど反射的だった。

 しょっぱい……。成るほど、そういうことか。

「海、か」

 生まれも育ちも宇宙の私が、接する機会など無かった環境。十代の頃時折鑑賞した、地球の映像。画面の中での営み。青い星。青は海。そんな程度の認識と記憶だ。言語として、知識として。

 喉元に突然こみ上げる。なんだ、これは?心が揺さぶられる。久しい感触。説明できない。馬鹿な。これだって所詮、本物じゃないじゃないか。

 砂地を歩む。全てが明るく、ぼんやりとしており、時間の流れがない。思考も滞りがち。急に寝そべりたくなる。砂の寝台。暖かそう。寝不足気味だし、疲れ気味だし。欠伸がでた。

 いかん。怠惰な雰囲気に引きずられている。どうせ制圧部隊がここも手に入れる。暇ができたら、リゾート地にでもすれば良い。仕事が先だ。警戒を解く理由も無い。

「とは言え、こうも周り全てが水ではな」

 水平線の先は雲と霞で窺えない。腰に装着した携帯用のバーニア。飛行は可能だが目的地が判然としない以上危険だ。一旦キュベレイに戻るか。そう思い、踵を返した。その時だ。

「ああっ!また逃がしちゃった!」

 人が居る?周囲を見回す。既に声は波の音に吸い込まれている。方向が判然としない。とにかく足を進めた。

 地元の人間か?しかし、ここには居住区画は無いとの報告だったが。

「うーん、錘が軽いのかな引くのが早すぎかなあ?」

 今度ははっきり聞こえた。何だか知らぬが、うんうん唸っている。警戒心は最早なかった。この声、どう聞いても子供のそれだ。どの道、この静かな場所で、相手もこちらの存在に気付いていておかしくはない。そしてある期待が、砂を踏みしめる足を急かせた。

 この感触……。非常に微弱だが、感じる。誰だ?シャア?カミーユ・ビダン?違う。誰でもない。誰のものでもない。誰かのイメージ。誰かのそれ。知らない。

 そこは私が地表に出た建物とは反対側の場所だった。水の上に何隻か小型の船が浮かんでいる。形状からして、ヨットというやつだ。船着場らしい。そこに、娘は居た。

「そこの者。済まぬが尋ねたい事がある」

 ヘルメットを脱ぎ後姿に歩み寄る。長い後ろ髪。ポニーテールだ。腰辺りまで伸びている。陽光を受け艶めく黒髪。それをゆらゆら揺らしながら、娘はコンクリート製の桟橋に胡坐をかいていた。

 周りには白と灰色の羽を持つ鳥達。不恰好な丸い体を細い足で支え、ふらふら歩き回っている。そして娘の直ぐ横には、猫。三毛猫が丸くなって眠っていた。

 娘は振り向かない。

「うーん、ちょっと待ってくれるかな。綺麗なおねーさん」

 お、お姉さん!?

「…何をしているのだ?」

「釣りぃ」

「釣り?」

「そっ。釣りぃ」

 娘は振り向かない。その横には水の張ったバケツ。覗き込む。赤、青、銀色。水面を揺らしゆったり泳いでいる。魚だ。

 釣りとはやはり、あれか?獲物との素朴な騙し合い。原始的な狩猟。ともかく、このままでは埒があかない。

「失礼するぞ」

「どうぞどうぞ」

 横に腰を下ろす。それでもこちらに顔を向けようともしない。手にした木の棒、竿というやつだろうが、を微妙に上下させ、五メートルほど先の水面を見つめている。夢中だ。

 猫は目を開けた。こっちを迷惑そうに見る。雑種だ。変な顔。目が合う。これは珍しい。左右の瞳の色が違う。緑と茶。興味が湧いて覗き込む。大欠伸。関心なさそうにまた丸くなった。…失礼な奴め。

 娘の横顔。鼻梁は高くないがスッキリとした線だ。厚めの上唇。笑窪。弓なりの細い眉毛が常にぴくぴく動く。驚くほど大きな瞳。漆黒。容姿的には良いほうだろう。子供だから愛らしいという方が適切か。とは言え、どこかアンバランスだ。

 眠い。水平線の向うからやって来る、穏やかな風。視界の先で真っ白な雲の塊が、ゆっくりと移動してゆく。眠い。それにしてもいつまで待たせるのだ?

「おい」

「おおっ!来た来た!」

 娘が手にした竿を引き上げる。弓なりになった竿の先が左右する。鳥達が飛び上がり周囲を舞う。漂う羽毛。突然の事にしばし、呆然となる。何?何が起きてるの?

「大物!大物!」

 目の前の水面が水しぶきを上げた。娘が立ち上がり竿をさらに引き上げる。跳ねた。魚が。日の光を受け、キラキラ輝きながら、宙を舞う。そして、娘の手の内へ。

 不器用にきゃあきゃあ言いながら魚を掴む。そしてやっと、こちらへと顔を向けた。

「これで四匹目!大物!でもなかったねえ、クククッ!」

「…用は済んだのか?」

「うん、充分!完璧!」

 クククッ!クククッ!奇怪な笑い声を上げながら娘は、魚をバケツへと放り込む。跳ねた水がコンクリートを濡らす。直ぐに乾いた。

 少し暑いくらいだ、ここは。夏という環境は、私は好きだ。

「釣りって難しいんだよね奥が深いねえ。おねーさん、やった事ある?」

「ない。ところで」

「うんうん聞きたい事?何?あんま、知らないと思うけど」

 だろうな。どう見ても、ただの子供だ。考えあぐねて、どうでもいい事を口にしてしまう。

「そなた、名は?」

「アイ。アイラブユーのアイ。アイ、フォンチュー!のアイ。アイアム、クレージー!のアイ。瞳のアイ。藍色のアイだよ、おねーさん」

「その、お姉さんというのは止めてくれぬか」

「そう?んじゃあ、ハマーン様」

 何!なぜ私の名を?子供だと思って油断したか?こやつ、まさか。

「ちなみにアイは、ティターンズなんかじゃないよ」

「何だと?」

「ええ、エウーゴでもありません!相手にもされませんってば!正真正銘、シビリアンです!あっ、殆ど浮浪児ってやつだけどね、クククッ」

 ニッコリ笑いながらアイは、私の顔を覗き込む。何なのだ、この娘は?なぜ私の危惧が分かったのだ?

 まさか、この娘がニュータイプ?いや、ニュータイプはエスパーなどではないはずだ。大体ニュータイプならばこうも私と、普通に話せるものか。

「只の浮浪児とやらが、なぜ私の事を知っている」

「そんな怖い顔しないでよお有名人だよお、ハマーン様って」

 しばしい、お待ちくだされ。そんな事を言い、アイはバケツの横にあったリュックサックに顔を突っ込む。全身入りそうだ。このまま突っ込んで捕虜にしてしまおうか?馬鹿馬鹿しい。確かにどう見ても、軍に関係があるとは思えぬではないか。

「あっ、これこれ」

 顔を出し、アイは雑誌を手渡した。開かれたページを見る。大見出しが目に飛び込んできた。

『アステロイド・ベルトから来た冷血魔女!ジオンの亡霊、女王ハマーン・カーン!』

 一面、私の写真だ……。

「キオスクでね、売ってたよ。シャングリラの」

「シャングリラ?エウーゴの影響下にあると聞く、サイド1のコロニーだな」

「アイは難しいことよく分かんないけどとにかく、店員のおじさんがただでくれたよ。おっかない奴等が来たよ!って。ジオンの再来なんだ!って」

 ふん、そういうことか。エウーゴめ、グリプスでの戦いの痛手から回復できていないと見える。それで昔からの領分、地下活動の方を活発化させたか。世論に訴え、ティターンズへの嫌悪感を我々に転化、と言うわけだな。

 だが世論など結果と力で、どうとでもなるものだ。

「堕ちたものだな。エウーゴも」

「ふーん。でもね、ハマーン様の事、やったら悪く書いてるみたいだけど、失敗だと思うのね、アイは」

「ほう?なぜだ?」

「だってえシャングリラの人達、男の人達、騒いでたもん。美人じゃねえかとか、ええオナゴやなあとか、こんな女王様に踏まれてみたい!とか。アイもそう思う。踏まれてみたいとは、思わないけど」

「…世辞はよい、アイ」

 世辞って何?大きな瞳をクリクリ動かし尋ねる。心底不思議そうだ。いちいち説明するのも馬鹿らしい。そんな風に思わせる表情。だいたい、なぜ私がこんな小娘に説明を。

 いや、そうではなく、仕事だ。どうも調子が狂う。

「まあ良い。呼びたければ名で呼べ。それで、このコロニーに居る人間は、まさかお前だけか?」

「うーん、居るには居たけど。軍服着た人達とか」

「ティターンズか?」

「そうじゃないの?アイのこと、威張った感じで捕まえようとしたから。でもね、ここ三日ぐらい、見ないなあ」

 三日前か。ラカンの部隊がサイド7に到達した頃と一致するな。残党どもは当初、グリーン・オアシスを拠点に抵抗したという話だ。そちらの守備に回ったのだろう。

 だがそうなると奴等にとって、このコロニーには重要な物は何も無い。そういう事にならないか。

「あれれ、なんか残念そうだね」

「まあな。他には誰も居ないのか?」

「うーん、居るには居るけど。子供たちが」

 子供たち?避難民か?

「どこに居るのだ?」

「大きな建物。軍人さんたちが居た所。お医者さんみたいな格好、した人達も居たよ、そこ」

 お医者さん……。確か例の報告書にはこのコロニーに、ソラリスに、大量の医療関係の物資が運び込まれたとあった。とすれば、医学者が同道していたとしても不思議ではない。そこなのか?養成所というのは。

 行ってみる価値はあるだろう。どちらにしろ、情報源はこの少女だけなのだ。

「案内してくれぬか」

「子供たちの所?」

「そうだ。ここの事は、実はよく知らんのだ。力を貸してくれぬか」

 アイは腕を組むと空を見上げ、うんうん唸りながら考え込む。少なくとも、これまでの中で一番、真面目な顔だ。つられて空を見上げた。相変わらず、青。深い青だ。どういう機能でここまで再現しているのだろう。

 こんなに青い空、見るのは初めてだ。

「どうしようかな。前に来たおじさんには、断ったんだけど」

「おじさん?誰だ」

「知らなあい。金髪のカッコイイおじさん。何だかとっても疲れてたみたいだから、帰って寝たら?って追い返しちゃった」

「私は大して疲れてないぞ」

「分かってる。うーん……」

 どのぐらい時間が経ったのか。いやそもそも、ここに入ってからかなり時間が経っていないか。グレミーが騒ぎ出してもおかしくない。困った。手荒な事はしたくない。このコロニーにも、この娘にも。そんな気分だ。

「条件あるよ。三つ」

「言ってみろ」

「一つ目。その子供たち、動けないんだよね。だから助けてほしいの」

「動けない?監禁されているのか?」

「違うと思う。でも、よく分かんないけど動けないみたい。そのお……、引き取ってくれるって約束してくれる?」

 どうしたものか。その子供たちとやらが、何者かにもよるのだが。まあ、研究に関係しているのなら選択の余地はないだろう。

「良い。約束する。他は何だ?」

「二つ目。って言うか聞きたい事なんだけど、これってハマーン様の役に立つ事、なんだよね?」

「そう言ったであろう」

「違う違う、そうじゃなくて。言い方、見つかんないけど、幸せってやつ?それに繋がるんだよね?」

 幸せ?よく分からない。私とどう結びつくのだ?

「つまりい、ハマーン様、アクシズ、皆を助けに来たんでしょ?はるばる遠くから」

「皆?地球圏の人間達のことか」

「そう言うのかな。正直ね、コロニーの人達の中には、ハマーン様、アクシズ、悪く言う人多いのね。さっきの雑誌とかもそうなんだけど。でもアイは、自分で確かめるまで分かんない、そう思ってた。前に居た施設で見たテレビ、アニメで、主人公のおにーさん言ってた。目に映るもの全てが、本物とは限らないんだって。そうかなあって」

 絶句。理解できたからだ、問いの真意が。恐らく本人も掴んではいないであろう真意。目の前の少女を今更ながら、じっと見つめる。正直、こう思った。何て娘だ、と。

 どう答えろと?私の目的。私の意志。戦う、私は。それに沿って。理解など求めてはいない。求めてもいけない。そう決めていた。ずっと前から。戦いは常にそこにあり、戦う。地球圏に来ても同じだ。何のためか?私のためにだ。本音は、そこだ。そこのはず。

 だが、戦いが終わったら?そうだ、何て事。私は根本的に、そこについて考えていなかった。それに気付かされた。方針は、ある。口にする主義もある。だが方針や主義と、志は別だ。

(私は只、人類を誤った方向へ導きたくないだけだ)

 気付かされた?違う。避けていたのか、私は。あの男を憎みながらも、否定しながらも、その想いに従って。くそ、何て娘だ。

「そうか。それで、実際に会ってみて、どう思った?」

「アイが?」

「そうだ。お前が考えるとおりなら、それが答えさ。違うか?」

 詭弁、保留、回避、逃避。卑怯者。自分を罵った。珍しいこと。だが溜まっていたこと。出血しただけ。

「そうだねえ、そうだよね!じゃあ、問題ないや。二つ目、パス」

「おい、簡単に言うが……」

「んー?だって疑問の余地なしい。ハマーン様って別に、ゾンビでも亡霊でも吸血鬼でもマフィアでもサイコパスでも変な宗教の教祖様でも、カマドウマでも、なかったもの。美人だしいカッコイイし、アイが想像してた通りのレディ!って事で問題なし」

 疲れた……。こんな小娘に引きずられて、迷って。私は馬鹿か?

 畜生。やはり只の、ガキだ。

 

 残された問題は足だ。研究施設らしき場所まで行く手段。キュベレイに戻るにも、この娘のためのノーマルスーツがない。ヨットがあったが操縦など出来ない。援軍を呼ぶにも、この宙域はミノフスキー粒子が濃すぎる。通信は信号弾でもなければ無理だろう。ああ、それなら大丈夫!請け負ったのはアイだった。

 そんなわけで私はアイの後に従っている。正確にはペットらしき猫も加え、二人と一匹でぞろぞろ歩いているわけだ。アイは戦利品の魚が入ったバケツを片手で振り回し先を行く。調子はずれに歌いながら。

『 今日も釣りだよ釣り尽くし カモメが舞って海にドボン

  そこだそらそこ青い空の下 カモメを見て錘をドボン

  竿の先で感じるんだ ほら浮を見て 魚の気持ちになって

  海も一緒 空と一緒 ずっと奥まで見通せたら

  暮らせていける 迷うことも無く 水平線の向う側  』

 意外とこの砂地は広い。そう言ったら、ここねえ島だよ、そう笑われた。

「ところで、最後の条件なのだが」

「オーケー、だよね?」

「そうは答えてないぞ。大体アクシズに来てどうするつもりだ?」

「どうって……。うーん、まあアイは天涯孤独の身の上ってやつでして、このままじゃ食えん!なのね。アクシズ、景気良さそうだから」

「確かに、失業などという言葉は、アクシズにはないが」

「さっすがあ!何でもやりますよ!実際、色々やったから。新聞配達、牛乳配達、バーガーショップ店員、ジャンク屋手伝い、えっちいチラシ配り。それと、ちょっとした非合法活動。クククッ」

 アイは、私が思っていたよりは大人だった。と言っても年齢の事だ。十三だという。天涯孤独というのは本当らしい。幼い頃、親とはぐれた。一年戦争、そして地球圏で続く紛争での戦災孤児。コロニーにはあちこちに、そういう子が居るそうだ。

 シャングリラから来たと言うから、故郷かと思ったが違うようだ。要するにコロニーからコロニーへ、或いは月面都市へと、渡り歩いている。無論、正規のルートでではない。紛争もあって民間の定期船は高額だ。密航である。何度か捕まりもしたが、泣きべそかいていれば大抵お咎めなしだったとの事。一瞬、諜報員の才があるかも知れぬと、考えてしまった。

 だが今度ばかりは運が無かった。忍び込んだ運輸船はティターンズが徴用したもので、着いてみたら街も何もない、このコロニーだった。それで毎日、釣りをして食料を手に入れていた。私には体験しようもない苦労なのだが、本人は気にもしていない。

「一度ね、地球にも行った事、あるよ」

「それも密航か?」

「ううん、さすがにそれは無理。コロニーから地球へ行く船って、凄く監視とか厳しいもの。多分、お父さん達と。よく憶えてないけど、ここが自分の故郷だって言ってた。おっきな、ぶすっとした像が座ってたり、たこ焼きって真ん丸でホクホクの食べ物があったり、海のすぐ側に街があったり、そんなとこだった」

「一年戦争の前の事だろうな」

「知ってる?地球の海って、とても広くて綺麗だよ。このコロニーなんか目じゃないよ。いつか行ってみたいな、もう一度」

 過去を振り返る時も常に笑みを絶やさない。自嘲など混じりようもない、微笑み。だがアイは自分の生まれ故郷を憶えていない。

 砂地というのは足をとられる。いい加減、脛の辺りが萎えてきた。最近は運動不足気味だしな。アクシズのひ弱な若い将兵どもを、ここに送り込んで鍛えさせてやろうか。

「ほら、あそこ」

 細い指で前方を示す。幾つかの建物。古びている。放棄された施設のようだ。そこにも桟橋があり、巨大な船が横付けされていた。

「あの船を、動かすなどとは言わんだろうな」

「まっさかあ!前に探検したけど、底に穴が空いてるみたいで全然ダメ。フナムシとかゴキブリとかヒトデとかナマコとかゾロゾロ住んでるよ。入ってみる?」

「…遠慮する」

 近づくと、砂地はきれ、コンクリートの道路となった。あちこちに放置された資材。ドラム缶、網、錆付いた発電機など。要するにここは港と言うやつなのだ。

 商店がある。見かけからして住宅らしき建物も。居住区画は無いと報告にはあったが、一時的にしろ人は住んでいたらしい。いつ放棄されたかは分からないが、酷く寂れている。ひび割れた道路に落ちているサッカーボール。アイがそれを蹴る。脇道に転がり、何かに当たって止まる。三輪車。昔、妹がよく乗っていた。

 角を曲がる。ビルの陰に隠れていた。それで見えなかったのだ。そいつ、の一部が露になっただけで、左手は腰の銃へと伸びた。

 モビルスーツ?

「たっだいまあ、彼氏ぃ」

 アイは身構える私に頓着することもなく、前かがみに両手を付いた青い機体へと歩み寄る。彼女の背丈の数倍はある脚部。その側に、リュックサックとバケツを下ろし振り向いた。

「どうしたの?」

「どうしたも何も……。これは何だ」

「だから彼氏。行けるよ、子供たちの所」

「そういう問題ではない!なぜこんなモビルスーツが」

 いや、モビルスーツ自体は不思議ではない。ティターンズが駐屯していたコロニーなら、無い方が不思議なぐらいだ。問題は、外観だ。

 改めてその機体を見回す。特徴的でスリムなフォルム。背中の巨大なバーニア。改良発展型のマークUとも、Zとも形はやや異なるが、ガンダム・タイプにしか見えない。異質なのは全身が艶やかな、深いブルーで塗装されていることぐらいだ。

 不思議そうに見ているアイを無視し、足早に歩き回りながらさらに観察。なんだこれは?機体番号、所属部隊などを表すコードナンバーがどこにもない。それどころか、所属勢力を表すようなマーキングも一切無し。通常なら考えられぬ事だ。員数外の機体と言う事か?

 それにこの頭部。ここだけは記憶にあるガンダム・タイプとは随分異なる。全体に扁平で、背後に突き出した後頭部。額から伸びるアンテナは一本のみ。目が、異様な感じだ。言葉に言い表せないが、まるで遥か昔に描かれた宗教画の、悪魔のそれのような。

「説明してもらおうか」

「何をお?」

 厳しい口調で問うたにもかかわらず、呆けた顔をしている。だが、こればかりは曖昧に済ますわけにはいかぬ。

「こんな物があるという事は、パイロットが居るはずだ。どこだ?」

「ここに持って来たって意味?なら、居るよ。目の前」

 何!まさか。

「お前が、パイロットなのか?」

「そうなるのかな。うーん、でもやっぱ違うなあ」

 自分でも分かるほど眉毛が吊り上る。さすがにアイは慌てたように続ける。顔は笑ったままだが。

「だ、だからあ、アイはティターンズでもエウーゴでもないし、モビルスーツなんて本当なら乗れるわけないよ。偶然!というか、つい出来心ってやつで」

「分からん。きちんと説明しろ」

「そのお……。つまりは、盗んじゃったの」

「盗んだ?」

「うん、そう。ちょっと長くなるけど、いい?」

 悪びれた様子も見せず、グレーの巨大な指に腰掛ける。足をぶらぶらさせながら、アイはモビルスーツとの出会いを語りだす。

 アイは一週間程前にソラリスへ来た。最初は釣りなども思いつかず、ティターンズの将兵相手専門の酒場に忍び込んでは、食料をくすねていた。ある夜、興味があって一人の兵士の後をつけた。その兵士は施設らしき建物を囲む鉄条網の一部を、気付かれぬように細工していた。大方、勤務中に抜け出すために利用していたのだろう。

 その先は聞かずとも分かる。アイもまた、当然のようにそれを利用させてもらったのだ。食欲と好奇心に身を任せて。

「んで、色々探検してみたわけ。食べ物あったし、コンピューターとかもあった。不真面目だよね、ゲームなんて出来たりしたよ」

「よく捕まらなかったものだ」

「何だか軍人さんたち、だらだらしてたから。朝からお酒なんて飲んでた人も見たし。それにね、あそこって通気口って言うの?それが沢山あって、ちょっと工夫すれば簡単に中を探検できるの」

 五日前、これまで見た事もない光景を、アイは目にした。倉庫らしき場所。そこにアイが、『彼氏』と呼ぶ物があったのだ。モビルスーツだ。さすがに簡単には近寄れなかった。明らかに、張り詰めた空気が漂っていたのだ。物陰に隠れ様子を窺う。そしてもう一つ、意外なものを目にした。

「子供だと?」

「そうなの。お医者さんが何人か連れてきて、その子たちを彼氏に乗せるの。彼氏、動くんだけど変なのよね。中の子供は、全然動いてなかったんだよ?んで、後で軍人さんが乗ったんだけど、こっちは全然ダメ。手足バタバタするだけで、立てもしなかった。すんっごく苛付いてた。こんなのでは戦力にもならん!とか叫んで。ヘタクソだよねえ、クククッ!」

 サイコミユ?直ぐにその単語が脳裏に浮かぶ。人間の脳波と機体制御を結びつける最新技術。キュベレイにも搭載されている。ただ、それを機能させるにはニュータイプか、同等の能力を持つ強化人間が必要だ。

 それにしてもパイロットが子供、しかも全く動かないとは、妙な話だ。私にしても機体の基本操縦は手動で行っているのだから。

「そんなわけで彼氏、そのままにされてたから近寄ってみたの。でもねえ急にサイレン鳴り出しちゃって、見つかっちゃった。何人も追ってきてマジでやばそうな感じだったから、海に飛び込んで逃げたのね」

 懲りない娘だ。危険な目にあったというのに、翌日も施設に侵入し彼氏に会いに行った。さすがに近寄るわけにもいかず、通気シャフトから覗いていたそうだ。その日も子供たちは連れてこられた。興味がそちらに移り、アイは後を追った。最早その施設内の間取りを、しっかりと掴んでしまっていたのだ。

「そなた、見かけによらず大した娘だな」

「えへへ、どうもお。それでその子達が連れられていった部屋、覗いてみたのね。何人ぐらい居たかなあ、五人ぐらいかな。ベットに寝かされてて、やっぱり動かない。話しかけたけどよく分かんない。寂しい、とかは言ってたけど」

「監禁というわけではなさそうだな。それで、彼氏をどうやって手に入れたのだ?」

 翌日も会いに行った。今度は子供たちは来なかった。軍人、ティターンズの連中がコックピットに乗り込み、必死で動かそうとしていた。小一時間、そんな事が続いた。通気シャフトの中で退屈し寝た。どのぐらい経ったか、振動と共にサイレンが鳴り響いた。跳ね起きた。

「大慌てで軍人さんたち、倉庫から出てったのね。敵襲だあ!とか言って」

 思い出したぞ。ラカンの制圧部隊の一部が、このコロニーに接近した事があったはずだ。大した戦力は無いと判断し、警告の意味でミサイルを数発撃ち込んだと聞く。

 全く、武断派らしい所業だ。それでここの連中は残党の主力との合流を決めたのだろう。モビルスーツを置いていったのは、使い物にならないと判断したからか。

「破壊する余裕も無かった。そういう事だな」

「どうなんでしょうねえ。でもまあ、アイとしてはチャーンス!なわけで、飛び出して近寄ったの。そしたらさあ、まだ居たの軍人さんたち。アイも大慌て向うも大慌て。とにかく彼氏に向かって、走って」

「乗り込んだ、というわけか」

 やれやれ。どこかで聞いたような話だ。

「うんうん、興奮したなあ。前に見た漫画思い出しちゃった。ああっ!私って今アムロ・レイしてるう!みたいな!」

「…どうやって操縦したのだ?アムロ・レイのようにはいかぬだろ」

「見よう見まねで」

「真似……、だと?」

「そっ。見よう見まね。そんなに難しくなかったけど。ボタンとか叩いたらちゃんと動いたし。よっぽどヘタだったんだろうね、あの軍人さんたち」

 訳が分かない。この娘がニュータイプなどという事が有り得るのか。まさかな、想像もつかん。とにかくこの機体のコクピットを見てから、判断するとしよう。

「分かった。そう言う事なら、これで行くしかあるまい」

「やったあ!んじゃあ、ハマーン様が操縦してくれるよね?」

「私がか」

「そりゃそうだよお。アイはカンペキ素人だし、ハマーン様といえばキュベレイのハマーン様でしょ?モビルスーツ・マニアのおにーさんが言ってた。エウーゴのエース、カミーユ・ビダンにも匹敵するパイロットだ!ってね」

 匹敵とは失礼な話だ。まあ良い。確かにこの娘の操縦では、生きた心地がしなさそうだ。

 モビルスーツの胸部の下へ入り込む。コックピットまでは二メートル程の高さ。何とか飛び移れる距離だ。腰をため、ジャンプした。

「うわあ!カッコイイ!」

 アイの感嘆の声が下から聞こえた。見られなかったか……。くそ、もろに頭をぶつけてしまったではないか。痛む額を押さえながら姿勢を正す。連邦のモビルスーツなど乗った事はないが、基本は同じなはず。何とかなるだろう。

 うん?何だ、このコックピットは?

「アイ」

「なあにい」

「私には無理かも知れぬ」

「ええっ!?何でですかあ!」

「知らんぞ、こんなコックピットなど」

 確かに基本的には同じ。普通のそれに比べやや広い程度だ。360度をフォローするモニター。各種パネル。システム関連のスイッチの配置も、大凡見当が付く。問題は操縦系統、それにシートだ。

 腰掛けるのではなく、跨ぐ?妙に安定していない。多少体重を掛けるだけで左右に傾くのだ。操縦桿も通常のレバーではない。婉曲し分かれた棒、要はサドルだ。スロットルペダルもない。確証はないが左手で握る部分の横が、それにあたるらしい。これではまるで、バイクではないか。

 ティターンズの連中が戸惑ったのも無理はない。モビルスーツのパイロットが機体制御の基本とするのは、自分の姿勢との一致だ。二足歩行の体勢との一体感である。だから無重力下での戦闘には慣れるのに時間が掛かる。そういう点から言ってもこの操縦系統は、合理的と思えない。

「ねえねえ、ダメですかあ」

「やれぬ事もなかろうが……。素人と言う意味では私も同じだと思うぞ」

「うーん、困りましたねえ」

 こっちが言いたい。これ以上時間を潰す訳にはいかないのだ。仕方ないな。少なくともこの機体に関しては、アイの方が私より手の内にしているはずだ。大いに不安ではあるが。

「そなたが操縦しろ」

「やっぱりい?でも大丈夫かな、ハッキリいって自信ないけど」

「補佐ぐらいはするさ。腕前を見せてみろ」

「おっ!おおっ!と言う事は、アイが練習生でハマーン様が教官!みたいな!凄いねえ自慢できるねえ、クククッ!」

 どこまでもポジティブな娘だな、まったく。

 コクピットから身を乗り出して腕を伸ばす。とてもじゃないが150センチそこそこの背丈では、飛び乗るも何もないだろう。アイが両手で私の腕を握る。小さい手だが、さすが育ちか握力はある。踏ん張り引き上げる。くそ、やけに重くないか?

「そのリュックには、何が、入っているのだ」

「生活用品一式」

 嘘を付け。そんな程度の重さか、これが。だから重力というのは嫌いなんだ。こんな重い物を持ったのは生まれて初めてかも知れない。

 引き上げきった時は肩で息をしていた。それを尻目にアイは慣れた感じでシートに跨る。サドルを握り、両足をそれぞれペダル状の板に固定しながら、外へ呼びかける。

「おいで、ホワイトヘッド!」

 見事な跳躍を見せ猫が目の前に着地した。こちらにチラッと目を向け、馬鹿にしたようにニャンと鳴く。…生意気な奴め。そもそも、名が体を表していないではないか。どういうセンスのネーミングだ。

「掴まる場所、あるう?」

「ああ、何とかなる」

 もしかして私にではなく、猫に聞いたのか?答えるようにホワイトヘッドが私の腿の上に乗った。爪を立てたりしてみろ、只ではおかぬからな。

 正面パネルのスイッチをアイは弄り回す。どう見ても出鱈目だ。軽い後悔の中、鈍い振動を感じ始める。計器が息を吹き返しディスプレイが点灯。システムチャックとスタンバイ起動。本当に動いている、驚きだ。暫くしてオールグリーンのサイン。そちらに目もくれず、アイがへたくそな敬礼を見せた。

「オーケーであります!」

「好きにせよ」

 足元のペダルを踏みサドルを手前へ引く。ガクンと、急激なG。胃が下がるような感触と共に、体が床へと押し付けられる。モビルスーツが飛翔したのだ。それにしても何て加速。キュベレイの倍はある反応だ。とんでもない拾い物かも知れないぞ、こいつは。

「んじゃあ、行きまーす!」

「おい!待て!」

 突風。髪の毛を掻き乱し後ろへと追いやる。思わず目を閉じ不覚にも叫んでしまった。少女のように。一瞬、モビルスーツに初めて乗った日の自分の姿が、脳裏に浮かんだ。

「ハッチを閉めろ!ハッチを!」

「あらら、すいませーん」

 最悪だ。今日は最悪の日だ。

 ゆっくりと閉じられてゆくハッチ。隙間から窺える光景。青。煌びやかな反射光。輝ける海。色褪せぬ空。駆ける。その中を。駆けてゆく。

 風の匂い。海の香り。それに包まれながら私の頬はなぜか、緩んでいた。

 

 

              [ 続く ]

 

 

 


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