碇家では、日曜日と言えど朝は早い。
『共働きで平日に溜まった家事を片付けなければならない上、二人っきりで過ごせる日を、だらだらと寝ているなんて勿体ない』
と、これはアスカの主張だったが、ともかくそういう訳で、6時起床なのだ。
といっても本当に6時に起きるのはシンジだけ。
まず、風呂の用意をする。
それから手早く朝食の下ごしらえをする。
ここまでしてから、アスカを起こすのだ。
そしてアスカが風呂に入っている間に、朝食を完成させる。
うっかり寝坊して遅くなれば、一日中アスカが不機嫌になる。
と言ってもアスカを起こす自体が、そもそも容易なことではない。
最近では、起きるや否や、したたかに殴り倒されるということはさすがに少なくなった。
残業で遅くなった日の翌朝などにたまにある程度である。
むしろアスカの機嫌の良い朝の方が手がかかる。特に休日の朝はなおさら。
アスカにして見ればシンジに起こして貰うのは朝の密かな愉しみだから、シンジが起こす手間も平日の3倍はかかる。
午前6時15分。
コーヒーの匂がダイニングから廊下まで漂っている。
シンジは、寝室のドアを開けて中を覗く。カーテンを透かして陽の光りが部屋一杯に射している。
全体をベージュを基調にした配色。フローリングの床。部屋の真ん中に、窓に平行して大きなベッド。
ダブルベッドの片側には、先ほどまで誰かが寝ていた窪み。そしてその反対側にはアスカが、窓の方を向いて気持ちよさそうに眠っていた。
シンジはそっと近づき、ベッドに腰掛けてアスカの髪をそっと触る。
明るい栗色の髪。抜けるように白い、きめの細かな肌。そして青い瞳は、今は、まぶたの内に隠されている。
ピンク色の繊細さを感じさせる唇は、心無しか微笑んでいるように見える。
シンジは、うっとりとして眺めていたが、はっと気付いて声をかける。ぐずぐずして遅くなると、ダメージが大きい。
「アスカ。起きてよ。」
「う、うーん。」
そういうとアスカは、上半身だけ寝返りを打つ。
横になっても形の崩れない見事なバストラインがネグリジェを透かして浮かんでいる。
陽の光りを浴びて、その姿は神々しいまでに美しい。
と、またしても見とれてしまったが、シンジは気を取り直して再度、声をかける。
「アスカってば。起きてよ。」
肩を軽く揺する。するとアスカは眼を閉じたまま、その手を掴んで胸に抱きしめる。
「キス、してくれたら起きるぅー。」
「な、なんだよ。いきなりぃー」
と言いながら、これが毎週のことなのだ。
それにしてもシンジは、こういうシチュエーションに、すぐ赤面する。
嬉しいのに素直ではないのはお互い様なのだが。
「・・・」
シンジは顔を近づけて唇を重ねる。
眠っていたので、少し熱をもっているようなアスカの唇の感触。
それがシンジをぞくぞくさせる。
このまま抱きしめてもっと熱くキスしたい、そう思っていると、いきなりアスカの腕がシンジの背に回され、強く引き寄せられる。
思わずシンジも力を込めてアスカを抱きしめる。
「・・・・はぁ。」
体を少し離すと、アスカはシンジの顔を見つめる。
青い瞳に、ちょっと意地悪そうな微笑みが浮かんでいる。
それがシンジには、ぞくぞくするほど色っぽく見える。
「・・・だ・め・よ。
朝から興奮しちゃ。」
「な、何言ってんだよ。
第一、アスカだって・・・。」
「あらぁ、でも先にキスに力入ってたのシンジだもん。
あたし分かるんだからね。」
図星だ。また赤面する。まったく毎週、このシーケンスを、この二人飽きずに良くやってる。
それからアスカはシンジの頭を胸に抱き寄せて眼を閉じる。
「きもちいい。
あったかくって。
うーん。」
そういうとまた寝入りそうになる。
シンジも困ったことに、これが気持ちいい。
アスカの胸の膨らみが頬にあたって、その柔らかな感触にうっとりする。
うっかりそのまま一緒に寝入ってしまいそうだ。
だがそんな事になったら、後で目覚めたアスカに罵倒されるのは経験済みだ。
勇気を出して、体を離すと、半ば眠り始めているアスカを起こしに掛かる。
「ねぇ。いいかげんに起きてよ。
アスカったらぁ!。」
「いや。」
「ねぇ。日曜は早起きしようっていったのアスカだからね!。」
「うーん。」
そういってアスカは伸びをする。
「じゃ、だっこ。」
「だっこ?。」
ベッドの中で、かわいらしい小悪魔が笑っている。
「あたしをだっこして連れてってくれたら起きてあげる。」
やれやれ。
アスカの身長は、シンジと同じくらい。
しかも、中学生の頃から片鱗を見せていたグラマラスな肢体は、今完全に美しく開花している。
つまり、抱きあげるのも一苦労だということ。
アスカを抱きあげ、バスルームに運ぶ。慎重に。
ここでアスカの頭でも、どこかにぶつけようものなら、至近距離からのアッパーを食らう。
勿論そんなことをすれば、アスカも落下の衝撃によるダメージは免れないのだが、そのダメージを更にシンジに倍にして返すことは言うまでもない。
腕、足腰の筋肉と関節が、嬉しい悲鳴をあげるのを堪えながら、なんとかアスカを脱衣場まで運ぶ。
脱衣場で、アスカは名残惜しそうにシンジから降りる、が腕はシンジの首に回したままだ。
少し不機嫌な顔をしてみせているが、本当は嬉しい。
何故?。だってアスカがニコニコしてるから。
「じゃ、シンジ、恥ずかしいから...」
少し赤くなって俯き加減のアスカ。
「あ、うん、じゃあ。」
今さら何を恥ずかしがるというんだ、と思いながらもシンジは、キッチンに向かう。頬がすっかり緩んでいる。
サードインパクトによって季節の戻った世界の、ある秋の朝。
シンジはチェロを弾いている。
この部屋はシンジのチェロの練習の為の部屋だ。「音楽室」とアスカは命名した。
『シンジの取得って、家事とチェロだけじゃない!。』
アスカはシンジがチェロを続けることにこだわったのだ。
マンションを決めるのでも、先ず楽器を弾いて問題が無いかが第一の条件だった。
『だって、あたしシンジのチェロ一生聞きたいんだもん。』
そういった時のアスカの赤くなった顔を思い出すとシンジは、思わず顔がにやついてしまう。
だから、暇をみてはチェロを練習するようにしている。
練習していると時々、アスカは嬉しそうに覗きに来る。
ただし、中に入ってからかったり、長居したりしない。
邪魔をしないように気を使っているのだ。それが意地らしくて可愛い。
しかし、今弾いているのは別の理由があった。
朝食の後、二人で共同して洗濯、掃除を手早く済ませると午前10時。まだ昼までは大分時間がある。
アスカは、キッチンで難しそうな顔をしている。
今日の昼はアスカが食事当番なのだ。こういうときは引っ込んでいた方が良い。
シンジは長年の苦労の積み重ねで、こうした間合いの取り方を会得していた。
そこで、チェロの練習をしている事にしたのだ。
フォーレの「夢のあとに」。
ちょっと憂鬱な曲だけれど、シンジはこの曲が好きだ。
中学生の頃は、さすがにこの曲にふさわしい深い音色は出せなかったけれど、今では楽器を良く鳴らせるようになった。
ハイポジションで音程もふらつかなくなったし、それなりに歳をとる程に、この曲の微妙な陰影も分かってくる。
アスカがピアノを弾けたら一緒に演奏したいのにな。
そう思うことが無いではなかったが、そうなにもかも完璧な取り合わせは望めない。
キッチンの方ではどうやら、アスカが行ったり来たりして悩んでいる。
時々、冷蔵庫を開けては中味を確認している。
平日、ほとんどの食事は、シンジが作ることになる。
仕事の関係上、アスカは、どうしても帰宅が遅くなりがちなので当番を決めたところで結局シンジがやらざるを得ない。
朝も、いつもシンジが先に起きるのでアスカが手を出す暇がないのだ。
だから日曜の昼だけは当番にして一週間交代にしている。これはアスカが自分で言い出したことだ。
『あたしだって奥さんなんだから、シンジにご飯作ってあげたいの。』
とは言ってもキャリアの差・腕の差は歴然としている。
負けず嫌いのアスカが、にも関わらず、不得手を押して作るというのだから、こう言われてシンジも悪い気はしない。
例え結局自分が最後には手を出さなければならないとしても。
今アスカが悩んでいるのは、メニューを何にしようかという事だった。
そもそも、昼だけ当番制にしたのは、せっかくの日曜の夕食を、やはりシンジの完璧な腕前で味わいたいという思いと、昼ご飯なら自分の腕でも何とかなりそうだ、という計算があったからだ。
しかし、そうならそうで、久しぶりに自分が作ってあげるのだから、ラーメンという訳にも行かない、というジレンマに悩まされていたのだ。
もっとも意地っぱりだから、『シンジ、お昼なに食べたい?』なんて聞けない。
聞けば、シンジはアスカの腕を考慮して必ず無理の無いメニューを提案して来るだろう。
でもそれでは自分が当番してる甲斐が無い。
料理人はメニューを考えるところから、と訳の分からないフレーズを考えながら、アスカは落ち付き無くキッチンをうろついていたのだ。
「音楽室」でシンジはアスカの気配を感じながら、そろそろ助け船を出してやろうと考えていた。
シンジは楽器を置くと、リビングに出る。
ソファに座ると、今朝の新聞を広げた。
もっとも熱心に読むのではなく、なんとなく暇そうな雰囲気を醸し出しながら。
「シンジ?。」
「なに。」
アスカがキッチンに立って、こちらのほうを少し困ったような顔で眺めている。
「ねぇ。買い物つきあってくれる?。」
「うん、いいよ。」
アスカの顔がとたんに綻ぶ。
やっぱり可愛いよなぁ。
サードインパクトの後、人々が戻って復興が始まると、あっけにとられるほどのスピードで日常が戻ってきた。
確かに、あの直後、LCLの海の岸辺に二人の子供は、お互い自身の心の奥まで傷付き、相手を労る術も知らず取り残されていた。
ただそれでも、彼等は互いに離れようとは思わなかった。
自分にとって相手しかいない。
それは殆ど動物的な直感だった。
そして、二人は、ただ、じっと途方に暮れていたのだ。
だから、一昼夜過ぎて、大人達が戻ってきた時、二人は当然のように二人で生活することを選んだ。
第三新東京市の復興も驚く程のスピードで進み、流石に以前のような軍事施設はない代わりにオフィスビルやショッピング街の立ち並ぶ活気ある都市に生まれ変わっていた。
そんな復興の中、高校を卒業するまで、二人はミサトのマンションにそのまま住んでいた。
元ネルフ職員へ一種補償金のような形で生活費が支払われていたので、生活の心配はなかった。
ただ、その頃の二人は男女の関係に発展することは無かった。
どちらかといえば、親を失った兄妹のように暮らしていた。
微妙な距離を、彼らは維持していた。それ以上近づく事を恐れていたと言って良い。
高校を卒業する頃、二人は始めて恋人と呼べる関係になった。
それは不思議な過程の不思議な帰結。
どうして、そうなったのか、何故、以前はそうでなかったのかを二人には説明する事ができなかった。
『せやけどな。
どうみても、前からずーっと、
二人のあいだには、誰も、よーはいれんかったでぇ。』
二人が互いを恋人だとはっきり言えるようになった時、トウジは苦笑いしながら言ったものだ。
恋人であろうが、なかろうが二人が特別な絆で結ばれていること、そしてそれに敢えて入り込めるような余地は無いことは、周囲には明らかだった。
そして大学進学は、二人仲良く京都へ。
シンジは父と母の出会った街で、両親の事を考えてみたかったのだ。
母の通っていた大学での学生生活。アスカは、すぐに賛成してくれた。
さすがにミサトの残してくれたマンションを、住みもしないまま放っておけるほどの余裕は無かったので、名残惜しかったが引き払った。
シンジはアスカの指導が良かった為、浪人すること無く、無事進学。学部は文学部。
アスカは既にドイツで大学を卒業していたので、いきなり、同じ大学の大学院へ入学した。
工学部の情報処理学科。2年の学士課程の後、2年間、気楽にドクターコースを愉しみ余裕で博士号を取得した。
博士論文は人格OSコンピュータの基礎理論に関してだった。
この分野は、そのノウハウをネルフが独占的に保有していた為、アスカの論文は極めて重要な研究として内外から注目されることになった。
二人は京都でも同棲していた。
同世代の眼からみれば、そんな二人は刺激的な存在だった。どうしても詮索の眼で見られがちだったのだ。
シンジが、3回生の時、アスカは断固結婚を主張、そんな形式に囚われない筈のアスカの意外な決断に驚きながらもシンジにすれば、願ったりの事だったので、入籍した。
もっともアスカは持ち前の行動力を発揮して、河原町教会を押さえて大々的に結婚式を計画したのには驚嘆したが。
この人並み外れたカップルの結婚式は、日本中から旧ネルフ職員が集まっての大同窓会になってしまった。
結婚してからのアスカは、これ見よがしの結婚指輪を付け、白衣に黒縁眼鏡、髪は無造作に後ろに束ねた姿で通していた。
アスカは、同棲していると言う事で「話せる」タイプと勘違いした男どもに言い寄られるのに辟易していた。
だから、シンジは、そうした姿を敢えて反対はしなかった。
そんな生活を続けながらシンジは、次第にゲンドウのユイへの思いが痛いほどに理解出来るようになった。
父と自分はなんと似ている事か。
そしてその愛が如何に幸福だったことか。
だから、喪失への怖れと哀しみがゲンドウに如何なる狂気を強いたのかが、何となく分かるようになった。
卒業すると二人は再び第三新東京市に戻り就職した。
アスカは、大手コンピューターメーカーの研究職。
シンジは母校第壱中学の教師になったのだ。
こうしてこのマンションに居を定めて早、3年になる。
マンションはシンジの勤める第壱中学と同じ通りにあった。
つまりシンジは通勤時間わずか徒歩10分のところに住んでいたのだ。
『寄り道しないで帰ってくれる亭主なんて素敵じゃない?。』
そりゃ勝手な、なんて思いながらも、アスカが代休で一人家に居るとき、シンジが帰るまでどれほど寂しく思っているかを知っているので、まんざらでもない。
アスカの勤める研究所にはここから車で20分程行かねばならない。
ただ、通勤ラッシュに会わずに済むという点では極めて恵まれていると言えよう。
二人は今、マンションから坂を下って歩いていた。
この坂を下ったところにちょっとした商店街があるのだ。
車でさっと出かけるよりも、休日の買い物は、こうして二人で歩くほうが好きだった。
手を繋ぐ。今だにちょっと、どきどきする。互いの手の微妙な感触を味わってしまう。
本当に、この手を離したくないとシンジは思う。そしてアスカの方を見る。眼が会うと、二人とも少し顔が赤くなる。
僕達、ずっとこんな風なのかな。嬉しい想像。
「ねぇ、ちょっと寄っていい?。」
「ええぇ。」
「嫌なの?。」
「い、いや別に。」
そこは、園芸用品店。鉢植えや、植木、そして堆肥や鉢等の園芸用品が広い敷地に並べられ販売されていた。
アスカは、ここの店の常連だ。
「おや、今日は、仲の良いことで。」
と店の親爺が声をかける。
シンジとアスカは、少なくとも2週に一度は二人でこの店に来ている。
この親爺はその度に、こう声をかけるのだからいい加減なものだ。
もっともアスカは、一人でこの店に寄ることもあるらしい。
アスカが花好きなので、ベランダには沢山の鉢植えがあった。
二人とも忙しいので手入れが悪い為か、しばしば枯らしてしまう。
その度にアスカが泣くので、シンジも花には気を使うようにしている。
ただ、シンジはアスカを泣かせないよう気を付けているだけなので、花に詳しいとは言えない。
それともう一つ。
基本的に洗濯ものを干すのはシンジの役目だったから、狭いベランダを所狭しと占拠している鉢植えで苦労していた。
もっとも、その鉢植えを眼を細めて嬉しそうに見るアスカに対して、邪魔だなどとは口が裂けても言えなかったが。
アスカと親爺が、花のことで話をしている間、シンジは手持ちぶさたなので、うろうろとその辺を見て回る。
正直言って、シンジは殆ど興味が持てない。
本当は、もっとアスカの話に付きあってあげたいと思うのだけれど、どうしても駄目だ。
「ねぇ、シンジ。どれがいいと思う?。」
と言って、アスカが指差す。
様々な色のパンジー。これならシンジも知っている。
「ほら、今使って無い大きな丸い鉢あるじゃない。
あれに寄せ植えしようと思って。」
ちょっとシンジは困惑する。あの図体の大きな鉢をベランダに、また置くのかと思うと...。やれやれ。
「ねぇ。どれにしょうかぁ?。」
と言いながらも、既に鮮やかな黄色のパンジーは選んでしまっている。
ふと気付くと淡いオレンジのパンジーがシンジの眼を惹いた。
ちょっと変わってるな。そう思ったので、
「これなんかいいんじゃないかな。」
と手にとる。
「ええー?。黄色のとオレンジのじゃ似過ぎてるじゃない。
それより、こっちなんかどう?。」
と、結局却下。シンジは苦笑する。何時もこうした事で、シンジの意見が通った試しが無い。
とはいえ、シンジ自身、通したいような意見など持っている訳ではない。
アスカがいいと思うように。それだけで十分だ。
アスカは自分の趣味に自信を持っている。シンジもその趣味の良さを認めているから、最初から任せてしまっている。
シンジの役割は、ただアスカに「それでいいんだよ。」と言ってあげること。
結局買った花を持つのはシンジ。片方の手に花の入った袋を下げ、もう片方の手はアスカの手を握っている。
やがて、二人は一軒のスーパーに。ここも二人お馴染みの店。シンジは入り口で、カートを取ると、アスカの後を追って中に入る。
スーパーにくれば何か思いつくと思ったんだけれど・・・・。
ちょっとアスカは途方に暮れる。それに普段食料品の買いだしもシンジがやっていたので、そもそも何が今安いのか分からない。
出来れば自分も、今日は○○が安いから、などと言いながら買い物がしてみたい、けれどこればかりは、シンジの前じゃ冗談にもならない。
あ〜あ。どうしようかな。
そしてシンジの方を見ると、シンジはすっかり主夫の顔付きで、店内を物色し始めていた。
そうそう、晩は和風ハンバーグにしよう。
シンジは、そう考えていた。意外なことにアスカはこれが大好きなのだ。
おっとシメジが安いからちょっと多めに買っておこう。大根はまだ少しあった筈だけど、一応買っておく。
アスカは少し取り残されたような気分だった。
まったく。本当はあたしが買い物に誘ったのに、シンジは主夫モードにはいっちゃった。
でもお昼ご飯のメニューが、まだ決まらない。
どうしようかなぁ。困っちゃったな。
シンジは、アスカがちょっと途方に暮れた顔で見ているのに気付いた。
眼が会うとアスカは顔を少し赤らめて言う。
「な、何よ。なんか言いたいことある?。」
「い、いや、無いけど...。
でも、アスカ、大丈夫?。」
「大丈夫って、何よ!。
あ、あたしは何も困って無いわよ!。」
声が大きくなったので周囲の買い物客がこちらを見ている。
二人とも、それに気付くと耳まで真っ赤になってしまう。
うつむいたまま、アスカが小声で言う。
「シンジが悪いんだからね。」
「ごめん。」
まずった。アスカは、すっか不機嫌になってる。
「あたし一人で回るから。」
「えっ。」
「いいじゃない。シンジは、しっかり晩ご飯の買い物してなさいよ。」
「だって...」
「レジは、先に済ませないで待ってなさいよ!。待ってないと承知しないから。」
「...わかったけど。」
「じゃあね!。」
そういうとアスカは、歩いていってしまう。
その後ろ姿を見ながら、シンジは、とり肉も安いから少し買い込んで冷凍しておこうかな、などと考えていた。
アスカは、あてもなくスーパーの中を歩いていた。
もうあんまり時間がないんだけどなぁ。ううん。ちょっと遅くなったってシンジは、待っててくれる。でも。
あたしだって、本当にシンジに喜んで貰えるもの作りたいのに。
忙しくって、もう、ちょっとやそっと頑張ってもシンジほどには料理はうまくなれない。
そう考えるとアスカは、仕事がうらめしくなった。泣きたい気分。
シンジのためにもっともっと色々してあげたい。だけど、本当にあたしの出来ることってあんまり無いんだもん。
あたしなんかでいいのかな。
不安。
自分がシンジにふさわしくない、という考えは、これまでに何度アスカの脳裏をかすめたことか。
もっと優しくて気の付いて、家庭的な女だったらよかったのに。
シンジから離れると思うとアスカは、恐怖に近いものを感じる。
かつて精神崩壊に至った繊細なアスカの心は、実はシンジの存在によってようやく安らぎを得ることが出来るのだった。
だから、アスカが考える、シンジにふさわしい理想の女性像とのギャップがアスカを苦しめる。
そうなりたいと思うアスカと、その一方で自分の才能を発揮したいというアスカ、その2つが常に心の中で葛藤を続けていた。
一人になるのが怖い。シンジの傍にいる時だけ、そうした葛藤を忘れて自分のあるがままを肯定的に感じられる。
シンジの傍にいると、どうありたいかなどという問題は霧散してしまい、ただのアスカそのもので居られるのだ。
シンジが居てくれると感じられるからこそ、何のためらいもなく、自分の力を思う存分働かせることが出来る。
アスカはため息をついた。
そんなに片意地を張らずに素直に、今自分の出来ることをしよう。それよりもシンジとなるべく一緒にいたい。
だから、仕方が無いじゃない、お昼ご飯がそんなに凄いものじゃなくたって。きっとシンジは『それでいいんだよ。』と言ってくれる。
それだけで十分じゃない。
結局、和風スパゲティにする事にした。
シンジは和食っぽいものが好みだから、という選択なのだが、それがスパゲティだという辺りがアスカだ。
アスカが材料を揃えて、レジまで来ると、シンジはレジの列に付くことも出来ず、カートを押しながら行ったり来たりしていた。
ちょっと恥ずかしい。もう少し自然に待っててよ。それじゃお母さんにはぐれた子供みたいじゃない。
そう思うと少し腹が立った。
「何やってんのよー。
それじゃ曲芸熊が暇つぶししてるみたいじゃない。
みっともないからやめてよねー。」
「だ、だってアスカが遅いからじゃないかー。
もしかしたら黙って帰っちゃったんじゃないかと心配してたのにー。」
シンジはどうも本気で心配してたらしい。
アスカは少し心が痛んだ。
「そんなことする訳ないじゃん。
さぁ、レジ済ませちゃうわよ。」
「うん。」
シンジは、どこか嬉しそうだ。
二人がスーパーを出たところで、その男に出くわした。
「おお、碇くん。」
一瞬、シンジは自分が呼ばれたのかと思ったが、その男には見覚えがなかった。
声をかけた男は、歳は、30前半くらい、長髪で、頭の切れそうな感じの人物。
ジーパンに下駄という所からすれば、この近所に住んでる様だ。
「あ、課長。」
答えたのはアスカ。そうかアスカの勤め先の上司か。
研究所なので、やや一般のサラリーマンと外れた格好も赦されるという訳か。
シンジは一応あいさつをする。
「あ、どうも碇です。
いつも家内がお世話になっています。」
男はシンジを値踏みするように眺める。
嫌な感じ。
「あ、どうも。
そうですか。あなたが。
いや、御噂はかねがね伺っていますよ。」
しかし、そう言いながら、明らかに男はシンジを見下した眼で見ていた。
更に男は続ける。
「奥さんは優秀ですからね。
我々も大いに期待してるんですよ。」
シンジには、彼が何を言いたいかが良く分かった。
彼女の足を引っぱるな、と釘をさしているつもりなのだ。
こういう事は覚悟していたつもりだった。
シンジ自身、今の状況が本当にアスカにとって満足できるものかどうか、疑問に思わないではなかったのだ。
博士号取得後、MIT、スタンフォード他多くの大学・研究所からの招待を全て断わり、第3新東京市に研究所があるという事だけで、現在の職場を選んだのは、アスカがシンジと離れたくなかったからでは無いか、そんな疑問がどうしても浮かんでしまう。
それは自惚れに過ぎないと自分に言い聞かせながらも、もしそうなら、やはり自分が彼女の足手まといになっていると思わずにはいられない。
別にシンジは、自分の現在の仕事と地位を低く考えているつもりはなかった。
しかし、アスカとは余りに世界が違い過ぎることは否定出来なかった。彼女は、もっと大きな世界で活躍すべきなのでは...。
だが、それはシンジとアスカが離ればなれに暮らすことを意味していた。
シンジの表情が、暗くなる。アスカの心は、それを見て小さな悲鳴を上げる。
やめて!。シンジにそんな事を考えさせないで!。
「じゃ、課長、あたしたちはこれで!。」
「あ?。ああ。それじゃ。」
アスカは、買い物の荷物で両手の塞がったシンジの腕をとると、シンジを引っぱって帰り道を歩いていく。
アスカに手を引かれて行ながら、シンジは先ほどの男の眼を思い出していた。好奇の眼、そしてその奥にもっと冷たい視線。
シンジを能力に、そして獲得可能収入金額にまで換算して値踏みする視線。
それは明らかにシンジに、こう言っていた。『とるにたらない奴。』
「あんのバカ課長がぁ!。」
「ア、アスカ。もういいよ。」
「良くない!。」
「だって、そりゃ当然だろ?。
アスカは凄い美人だし、優秀だし。
僕なんか何の取りえも無いし。」
「あんた、ばかぁ?!。
どうして、そんなこと言うのよ。
あたし、そんなことでシンジ好きなんじゃないもん。」
「....アスカ。もういいよ。」
アスカは前を向いてどんどん、シンジの腕を引きながら歩いて行った。
「アスカ。」
アスカが立ち止まる。
そして眼に手を当てて泣き始めた。
「あたし、シンジじゃなきゃ駄目なんだもん。
シンジが居なかったら死んじゃう!。」
それは偽りの無い感情だった。アスカが今の職場を選んだのは、シンジを気づかってのことだけでは無かった。
何よりも、アスカ自身がシンジを必要としていたからだ。
聡明なアスカは、自分が、決定的に自己の存在に対する肯定的感情を欠いていること、それは死に至るほど決定的なものであること、そして治癒する可能性は無いことを知っていた。
アスカは、だから愛するものを切実に欲していた。
そうしたアスカの心の歪みを知りながら、それに付け入ること無く常に誠実に愛し続けてくれる者を。
そんな困難な愛し方が出来るのは、シンジ以外には考えられなかった。
例え社会の評価がどうあれ、アスカにとってシンジは奇蹟のように完璧な男性だったのだ。
例えどれほど社会で評価されようと、もはやシンジが居なければ、一日たりと続けていくことなど出来なかった。
人と愛しあう事に全てを賭ける。そのことの脆さを彼女自身、自分の両親の姿を通して良く分かっていた。
にも関わらず、彼女は、それに殉んずる事を選択したのだ。
泣きじゃくるアスカの肩にシンジは優しく右腕を回す。荷物は全て左手に下げているので、とても重いのだが、なによりもシンジにはそうする事が必要に思われたのだ。
シンジには、自分自身を苦しめる疑いも、そしてアスカの悲しみや怖れもどうすることも出来ない。
そんな無力さを、もう何度も味わってきていた。
しかし、そうした経験の中から、シンジは自分の出来ることを学んできていた。それは全ての策が尽きた人間が為すべき事。
アスカが愛しい。その想いから出てくることをする事。
それが今は泣きじゃくる彼女を優しく抱きよせることだった。
使徒の精神攻撃に敗北し傷ついた彼女に対して、あの時、シンジが出来なかった事。
左手に買い物の荷物を持ち、そして右腕でアスカの肩に腕を回し、その姿勢でシンジはマンションまで戻ってきた。
左腕の感覚が無くなっている。アスカはシンジに寄りかかるようにして歩いてきたのだ。
ドアの前でアスカはすっと体を離し、シンジに向かい合った。
まだ眼は赤かったが、もう泣いてはいない。
「もう大丈夫だから。
ごめんね。
反省してます。」
アスカは、心無しか赤くなっている。
それから鍵を開け、先に室内に入ってしまう。
シンジは、ため息を付く。安心して?。それとも...。
それはどちらでも良かった。
シンジも室内に入る。
スーパーで買ったものは、ダイニングキッチンのテーブルに一旦、置く。
それから花をベランダまで運ぶ。
すでにアスカはしまってあった丸い鉢をベランダに持ち出して待っていた。
「えへへ。
先に植えちゃっていいかな。
お昼少し遅くなっちゃうけど。」
「うん。構わないよ。」
「よかったぁ。」
アスカは嬉しそうだ。
よかった。シンジは少しほっとする。
シンジは、しばらく、ベランダで買ってきた花を鉢に植えかえているアスカをじっと見ていた。
それからダイニングに戻って、買ってきた食料品を手早く冷蔵庫に仕舞った。
アスカがベランダから室内に戻ると、シンジはリビングのソファに横になって眠っていた。無防備な寝顔。
アスカは、ソファの横に跪いた。
植えかえしていたので、手は泥で汚れているから触る訳には行かなかったので、ただ眺めるだけで満足するしか無かった。
少女のように繊細な顔立ちだった中学生の頃程ではないにしても、シンジは相変わらず、顔の造作はどちらかと言えば女顔だった。少し頬は落ち、顎は多少逞しくなったとは言え、優しそうな顔には変わり無かった。
数多くの過酷な出来事が、この男の顔を何度も悲嘆と苦しみに突き落とすのをアスカは見て来ていた。
もうこれ以上、この顔が悲しみに歪むのを見たくはない。
この顔に浮かぶ表情は、これから先は優しい微笑みであって欲しい。
それは不可能な夢かも知れなかった。
だが、その為に自分の出来ることをなるべくしてあげたい、アスカはそう思わずにはいられなかった。
だが、自分がこれから告げようとしている事は...。
ふと時計をみると、もう既に1時を過ぎていた。
「いっけなーい!。」
アスカは急いで立ち上がる。そしてシンジの方を眺める。
シンジは少し身じろぎしたが、まだ起きる気配は無い。
『ごめんね。大したもの作れないけど、一生懸命やるから...。』
シンジが目を覚ましたのは、アスカは丁度、出来たばかりの料理をテーブルに並べている時だった。
「あら、いいタイミングで目が覚めたじゃない。
お腹すいてる?。」
「ああ。
いい匂いだ。」
「じゃ、食べよう?。」
「うん。」
シンジが食卓に付き、食事が始まった。
食後の洗い物をしているアスカの背中を見ながら、シンジは、例の「課長」の言葉を思い出していた。
この部屋の中で二人だけの生活では意味を持たないものにも関わらず、しかし社会生活の上ではどうしても意識せざるを得ない。
二人の間には、社会が引いた序列の階層が立ちはだかっていた。有用な者とそうでない者。
僕はアスカに何をしてあげられるんだろう。
ふとそんな考えがシンジの心をよぎる。
切ない。
これ程にアスカの事を思っているのに、これ程に自分が無力であることが悔しい。
それは、これまでにも何度もシンジを苦しめた感情。
こうして居られるのは、今だけかもしれない。それは本当は許されないことなのかも知れない。
やがて、二人は離れ離れになり、各々の世界で生きて行か無ければならないのかもしれない。
幸せな日常の中にぽっかりと開いた暗い空洞。
「お茶、飲むでしょ?。」
「うん。」
二人でしずかにお茶を飲む。何気ない一時。
こうした幸せを感じながらも、シンジは何時か、そうした日々が終わりを告げる事を怖れざるを得なかった。
「シンジ?...」
「なに?。」
アスカは、少し緊張した面持ちでシンジの顔を見つめて居る。
「どうかした?。」とシンジ。
アスカは息を付くと、口を開きかけた。
しかし、それは言葉にならず、アスカは肩を落とし首を振った。
「ううん。何でもない。」
それからシンジの顔を見ないようにして立ち上がると、
「ちょっと仕事するね。」
そういってアスカの書斎へ引っ込んでしまった。
確かに毎週、日曜の午後はアスカは2〜3時間程、書斎で論文を読んだりしているのだが。
今日のアスカの様子は少し変だ。それがシンジを不安にする。
一人テーブルに残されたシンジは、心細くなる。
傾きかけた午後の太陽は、もう部屋の中には直接さして来ない。部屋の中は冷たい日陰の色に染まっていた。
シンジは立ち上がる。疲れを感じる。何に?。
それは幸せの中に、小さな刺のように潜む、暗い怖れに疲れた心かもしれない。
何をする気にもなれず、シンジは「音楽室」のドアを開ける。
書斎には二人分のデスクがあり、シンジも、アスカが仕事中に入ってよかったのだが、先ほどのアスカの態度がシンジを不安にしていた。だから、シンジはこの家の中で自分の聖域に逃げ込んだのだ。
部屋の真ん中に置かれた椅子。その横にチェロが横倒しに置いてある。シンジは椅子に座って、楽器を取り上げる。それは殆ど無意識に近い動作。椅子に座ることと楽器を構えることがイコールであるかのように。
だた、今は微かな罪悪感がシンジの胸を刺す。逃げている。いや、それは逃げようが無いから、今すこしの間だけ...。
エンドピン受けは、自作のもの。床に傷を付けない様に作った。こんなものも楽器屋に行けば手に入るのだが。
何を弾こうか。シンジは途方に暮れる。こんな気分で弾ける曲なんて。
チャイコフスキー「ロココの主題による変奏曲」。
これはアスカの好きな曲。オーケストラが無いので前奏抜きで、いきなりソロから。
本当は、あのホルンのソロを聞いてからのほうが気分が出るのだけど。
この主題は、本当にアスカにぴったりだとシンジは思う。チャーミングで、優雅、溌剌としているけれど、どこか憂いを秘めていて。
良くアスカにリクエストされるので、シンジは全て暗譜で弾ける。第2変奏の早い音階のパッセージに入ったところで、不意に背後に人の気配を感じる。
アスカは、「音楽室」の入り口で、食い入るようにチェロを弾くシンジの後ろ姿を見詰めていた。
シンジは視線を感じながらも、第3変奏のちょっと神秘的な、そして叙情的な歌を、アスカに語りかけるように弾き続けた。
少し困惑しながらも、魅せられて、近づこうとせずにはいられない、切々とした想いを、シンジは音に託していた。
フィナーレの最後の音を弾き終わった時、背後からアスカの拍手。
だが、シンジは振り返る事が出来なかった。
アスカはオーディオの方へ行き、ラックからSDATを探し出すとセットした。
「もう一度。
最初からお願い。」
それは、こうしたコンチェルトの練習用にソロパート無しに録音されたオーケストラ演奏だった。
これはアスカ自らが探し出して買ったもの。
前奏が始まった。
アスカはシンジの正面に回り、床に腰を下ろした。
目はまっすぐシンジの顔を見ている。
オーケストラの強奏による最後のコードが鳴り終わり、静寂が訪れた。
アスカは立ち上がるとシンジの傍らに立ってシンジの肩に手を置いた。
「シンジ。話しがあるの。」
うつむいたままのシンジ。
「あたしね.....。
来月からドイツに行くの。」
「...出張?。」
「....違うわ。
...
多分、3年くらい。」
シンジの姿は聞くことを拒否しているように見えた。
うつむいたまま、弓を持った腕に力が入っているのが分かる。
「ベルリンで、共同開発プロジェクトがあるのよ。
出向という形で、しばらくそっちに参加する事になるの。」
その言葉は、シンジが、これまでずっと押さえていた恐怖を解き放つ。
...もうアスカは帰って来ないだろう。
見捨てられる!...。
「....」
アスカを見上げるシンジの顔に引きつった笑みが浮かぶ。
「そう。」
シンジの声からは感情が失われていた。
それはアスカの心を震え上がらせる。
「これで....終りってわけか...
.....
これで...
これでおしまいなのか...。」
シンジはアスカを押し退けるように楽器を置くと、乱暴に立ち上がり「音楽室」を出ていった。
「シンジ!。」
アスカは慌てて追いかける。
アスカが「音楽室」を出るのと、シンジが玄関のドアを飛び出して行くのと同時だった。アスカは玄関にへたり込む。
「シンジぃ...。」
・・・・別にアスカが悪いんじゃない。ただ、僕は耐えられなかっただけ。
アスカは別れるって言った訳じゃない。ただ、僕はアスカのいない毎日を考えるのが怖かった。
見捨てられる、また僕は見捨てられるのか?。
そう思わずには居られない。だって見捨てられて当然だから。
気が付くとシンジは、壱中の校門の前に立っていた。
日曜日だったが、休日でも運動部の幾つかは練習をしていた。既に4時を過ぎて、練習を終えた生徒が帰り始めている。
校門から出てくる中学生達は、暗い表情をしたシンジを怪訝そうに見ながらも、軽くお辞儀をして行く。
シンジは彼等の姿に、かつての自分達を見て居た。
あの頃だって見捨てられる事の恐怖を内心押し隠しながら、トウジやケンスケ達との他愛もない会話に救われていた。嘘でもいい。居場所が欲しかったから。
ここは確かに居場所だった。
シンジの前をまた一人、制服姿の少女が会釈しながら通りすぎていく。
アスカ。
何故なのか分からない。だが、彼女が居るだけで、シンジは自分の居る場所が夢なのでは無く、本当のことだと信じられた。
そんな彼女が自分を愛してくれていると信じることが出来た時、シンジは始めて現実の世界に生きている人間となれたのだ。
どこからかブラスバンドの音が聞こえる。音楽室で練習しているのだろう。
人気の少なくなった夕暮れの校庭に流れる妙に陽気な音楽は、しかし却って物悲しかった。
シンジは再びあても無く歩いていた。やがて、あの公園に出た。
ここからの夕暮れが一番奇麗だ、とアスカは言っていたっけ。
公園から街の中心部のビルが見下ろせた。ビルの合間から夕陽が紅い光りを投げかけている。
シンジはベンチに腰を下ろした。
何を望む?。
アスカと一緒に居たい。
でもアスカの足手まといになりたくない。
たったそれだけの願い。
何を怖れる?。
見捨てられたくない。
でも、それは分からない。こんな僕が見捨てられないなんて絶対に言えない。僕は一人で一人にも満たない。
3年。それは永遠ではない。けれど全てが変わらずに居られる時間でもない。
シンジはふと、自分の姿を考える。
やれやれ、情けない。結局、また逃げだしてる。
苦笑する。碇先生は、こんなにも卑怯でみっともない大人です。
「先生?。」
振り返ると、壱中の制服を来た少女が立っていた。
シンジの担任しているクラスの子だ。
「ああ、柿崎さん。」
「どうしたんですか。こんなところで。」
やっぱり妙だったかな。シンジは笑ってみせる。強がりでも照れ隠しでもない。
「部活?。」
「はい。来週、県大会ですから。」
「そうか。頑張れよ。」
「はい。
....
今日は奥さん一緒じゃないんですね。」
これだから。学校に近いと私生活まで知れ渡ってしまう。
今度ばかりは、シンジも照れ笑いせざるを得ない。
「ああ。
今日はお家でお留守番。」
「いつも仲いいんですね。」
そんな言葉でもシンジには心地よい。
「うん。」
そういってにっこりして見せる余裕さえある。
「じゃ、先生はもう行くから。」
「はい。」
「気をつけて帰れよ。」
「はい。先生さようなら。」
そういうと少女は足早に去っていった。
シンジが出ていったドア。
アスカは呆然と見詰めていた。追いかけようと考えたが、立ち上がれない。失ってしまった?。シンジを。
恐怖がアスカを捕える。
ようやく立ち上がると、リビングまでのろのろと戻り、ソファに体を投げ出す。
涙が止めど無く溢れてくる。
「ばかぁ。」
右手で両目を押さえる。涙を押しとどめるように。
唇からすすり泣きが漏れる。
あたしは、結局どうしたかったの?。
シンジを失ってでもやりたい仕事だった?。
違う。シンジに一緒に来て欲しかった。
それは、シンジの仕事を取り上げ、異国で、殆どの時間を一人で過ごさせる事なのに。
シンジを更に追い詰める事になるのに。
思ってることと、やっている事が全然ちぐはぐ。
『一緒に来て。』そう言えないから、シンジから言わせようと思ったなんて。最低。
仕事を止めてなんて、どうして言える?。
それって『あんたの仕事なんて、大して価値が無いんだから』と言ってるのと同じ。
シンジをあたしの都合の良いように動かせたいだけ。
でも、シンジ無しじゃあたしは駄目になってしまう。シンジが居ない3年間。そんなの嫌。
嫌。
一人は嫌。もう耐えられない。
じゃあ、止める?。断わるの?。
そうしてチャンスを諦めて。私は自分を自分で縛り付けて、何時かシンジを恨むんだわ。
ここでお互いを縛り付けあって、そうしてお互いを憎しみあって、でも一生離れられ無いの。
時計を見る。4時を少し過ぎてる。
アスカは、洗濯物を取り込んでいないのに気付く。
ベランダに出ると、空気がもう冷たくなっている。
アスカは、足元の鉢植えに気を付けながら洗濯物を取り込む。
やりにくい。
今日買った花を寄せ植えにした大きな鉢が恨めしい。
まるであたしの様。
善かれと思ってやったのに、こんなに厄介ものだったなんて。
シンジは一言も文句を言わなかったし、あたしが気付かない時でも水やりは欠かさなかった。
取り込んだ洗濯物はすっかり冷たくなっていた。
アスカは洗濯物を頬に当てて見る。その冷たさがアスカの心を責めたてた。
失いたくない!。
シンジが居ないなんて嫌!。
アスカの涙が乾いた布に吸い込まれて行った。
少女が立ち去ってもシンジは、なお暫く公園でじっと沈む陽を眺めていた。体が冷えてきた。
帰ろう。
情けないけど、でも避けて通れないなら、僕達で何とかしなきゃいけないんだから。
シンジは自分がどうすべきかについて未だ迷っていた。
しかし、少なくとも怖れを越えて行かねばならない事は分かっていた。
まず、アスカと話すこと。
自分の想いを伝えること。
それから?。
それは分からない。
ただ、これで終わりになりはしない。
そう信じていた。
シンジは立ち上がると大きな伸びをした。
なんて日曜日だろう。
シンジは苦笑する。全くアスカとの毎日ってほんとうに色んな事が起きるんだから。
これで終わりなんて嫌。
終わりには絶対にしない。
アスカは、部屋の中を見回した。私たちの家。
二人が始めて自分達で働いたお金で生活した家。
ここまでやってこれたんだもん。絶対に終わりになんかしない。
玄関のドアを見る。
帰って来て。シンジ。
お願い。
玄関の前まで来てシンジは、深呼吸をする。
もう心は決まっている。
だから、アスカ、もう大丈夫だから。
そして、シンジはドアを開けた。