漂沙

―「ある神話」外伝の3―

by しのぱ

壱.

周囲を山に囲まれた湖のことを、周辺の住人は巖の湖(いわのうみ)と呼んでいた。
浜辺から見晴るかす限り平坦に広がる静かな水面は、底の浅い小船でもすぐに、座礁しかねない障害物を覆い隠していた。
従って人々がこの湖を渡ることは無かったのだ。
嘗てはこの湖も人の技によって煌びやかな建物に覆い、埋め尽くされていたのだと言う。
湖の礁も全てはそうした建物の廃墟・残骸なのだと言う。
潜ったことのある者によれば、湖の下には巨大な石造りの建物が林立し、 実際の湖底は遥か下に暗く見通すことはできなかったという。
この湖全てを埋め尽くす建物に住まう人々のことを、今となっては想像することすら困難であるのだが。

 

人々は、湖の縁のそこかしこに集落を造って暮らしていた。
主な生業は漁だが、 沖へ出れば網を投げても廃墟に破られるだけだった為、もっぱら沿岸に仕掛け網を仕掛けておくものに限られた。
あとは湖の岸辺から出土する、用途の不明な道具や、建物の残骸らしきものを加工しての、道具・調度作りが産業だった。
こうした品物は時折やってくる交易商人や村人自身の手によって、この山間の地を越え、 遠くの邑々へと運ばれて行った。代わりにこの地の住人は穀物その他の、ここでは採れない食料を入手していたのだ。

 

僅かな土地に、少ない資源のため人々は貧しかった。 そして、この湖の周囲全部あわせても現在では住人は1万人を越えることは無いだろうと言われていた。
嘗てこの湖をも陸としてしまった偉大な祖先達と、現在のみすぼらしい状態との落差は、 まさしく没落とも言うべきものではあった。けれども、人々はその衰退の宿命を体で感じ取っていた。

種としての命が尽きようとしている。
これはこの時代の人間全てが共有する感覚だったのだ。
それと共に、惑星の命も枯れつつあることも。

 

湖を周る山々の植生は豊かではない。低くひねた枝をはわす木々が瓦礫だらけの山肌を辛うじて隠している。 その木の下は地衣類に埋め尽くされている。そしてその山々の分水嶺の北には砂漠が広がっていた。

資源が乏しいのにも関わらず、邑々は戦をする事もここ数百年は無かったという。 いずれの村にも最早、戦士と呼べるような者は居なかった。いずれの村でも子供の数は減っていたのだ。

 

弐.

その邑の背後にある山の麓に、不思議な女人が住まっていた。
青く見える髪。
白い肌に紅い瞳。
儚げな美しい顔立ちのその女は、麓の廃墟と思しき、洞に一人で住んでいた。
土地の古老達も思い出す限り昔から、この女人はそこに住んでいた、という。

女人は毎日、洞の中で一人黙って座っている。
瞳は何も映し出さないまま、ただ座っているのだ。
そうして何も食さず、何も飲まない。

 

また女人は時折、洞を出て集落までやってくることもあった。 しかしそのような時、彼女は周囲に全く無関心に見えた。 ただ、遊んでいる子供達を熱心に見入っていることもあった。。

 

決して老いず、決して病まない不思議な女を周辺の住人は「レイさま」と呼んでいた。

参.

夜、焚き火を囲んで子供達に語り聞かせる物語がある。物語るのは常に邑長の特権であったし、 またそのように子供達に語り聞かせる役目を負っているからこそ、邑長には権力と威信を付与されていた。


『その昔、この地にも、また世界中至る所に人の作った煌びやかな建物が聳え立っていた頃のこと。
栄華を極めた人間達も自らの力に酔う余り、何時の間にか清い心を失っていた。

そのころ、この地に少年と少女が住んでいた。
二人は、心の中に大きな寂しさを抱えながら暮らしていた。
少年は月神の化身、少女は日神の化身だったけれど、その自覚は無かった。
幼い二人には寂しさというものが、良く分からなかったので、 互いに求めつつ得られない事に苛立ちながら、いつも傷付け合って暮らしていた。
それは哀しい生活だったが、それでも互いに離れようとはしなかった。
互いに寂しさを埋められることを本当は気づいて居たのかもしれない。

その頃、この世には人々を襲う化け物が時折出没していた。
その化け物を退治出来るのは心の清い子供だけだったから、二人は嫌々戦わねばならなかった。
あるとき、日神は戦いに負けてしまった。
幸い命も落とさず怪我もなかったが、日神は勝ちつづけることで寂しさを埋めていたので、 勝てなかった余りの悲しさに己の心を封じてしまった。

一人残された月神の前に一人の少年が現れた。
その少年は月神の初めて親友になった。
だが、それは最後の化け物のあやかしの姿だった。
月神は戦って親友を殺さねばならなかった。

そして月神は絶望した。

ところがそこに悪神がつけ込んだ。
悪神は世界を滅ぼす力はあったが、世界を滅ぼすためには、清い心の人間の絶望を取り込む必要があったのだ。
だから月神の心に悪神は取り付き、終には月神を呑み込んでしまった。
こうして悪神は月神の悲しみと絶望を使って世界を滅ぼすことに成功しかけた、 その最後の瞬間、月神は漸く自分を取り戻し、絶望と憎しみに打ち克った。
そうなると悪神も、滅ぶしかない。こうして世界は救われた。

だが、月神はそのおかげで多くのものを失った。

嘗ては月神は美しい声で歌うことが出来たのだが、その歌声は失われ、片方の耳も聞こえず、 頭を患って細かなことが出来なくなってしまった。

そんなとき、日神は漸く自らの心の封印を解いた。 そして月神を探してみると、彼の絶望故に世界が滅びに瀕した罪で捕えられ虐げられている所であった。 そこで日神はなんとか月神の罪が赦されるよう働いた。 ところが月神を利用してもう一度世界を滅ぼそうとする悪者が現れた。

そこで、日神は月神を守る為、諸々の悪者と戦い終には自らこの世界の王となった。

一度滅びかけた世界は、その頃それは酷いものであったそうで、さればこそ、 月神の力を使い他の人々を押さえて生き延びようとする不逞の輩は後を絶たず、 日神は世界の復興に力を尽くしながら月神が悪者の手に落ちぬよう、それは大変な苦労をしたという。

一方、月神は罪を赦され放たれたものの、不具の体故、やはり苦労の連続であったという。 だが、月神は貧しい人やかわいそうな人々達と暮し、 人々の心の寂しさを癒し生きる勇気を与えることを自らの使命とした。

こうして二人は、傷付いた世界と人々の心のため生涯尽力し続けた。

けれども、互いに何時かは会いたいと思いつつも、二人が為すべきことは余りに多く、 終には一生会うことができなかったそうだ。

今の我々の世界があるのも、この二人のお陰なのだ。

二人は死後に、一緒の墓に葬られたという。』

「レイ様はその頃生きておられたの?」

物語を聞いた子供達が思う疑問。

ある古老は、子供のころ、集落に降りてきて子供達の遊ぶのを眺めていたレイ様に訊ねたことがあると言った。

・・・・

『レイ様は日神様と月神様が生きていらっしゃった時、どうしてたんですか』

少年は物怖じせず、まっすぐレイの紅い瞳を見据えて言った。

『私はずっと見守っていたわ』

レイは少年の眼差しに耐えかねるように目を伏せて答えた。


四.

クナイは、湖の辺の湖面に突き出した岩の上に腰を下ろし、波一つ無い水面を眺めていた。どこまでも水面は黒く続き、その広がりに視線を這わせていると何時か、どこか別の世界に連れて行かれてしまいそうな気になってくる。

・・・そうであればいいのに。・・・・・・・

クナイには、この水面の向こうにあるだろう世界がとても静かで美しく優しいもののように思えてならなかった。

・・・ぽちゃん・・・・・・・・・

どこかで魚が跳ねたようだ。

・・・何故、俺はあんなことを言ったんだろう・・・・

今年で14歳になったばかり。なで肩の、どこか女性的な体型と繊細そうな顔。

その優男振りをからかわれることも多かったが、もう既に2回、父と共に交易の旅に参加していた。 地形や天候を良く読み、厳しい旅に良く耐えるので大人たちもこの少年に大いに期待をかけていた。

その彼が今、初めての感情に困惑していた。

***

 

『触るなぁ!』

サキの顔が驚きと怒りに朱に染まる。しかしクナイの方も、自分の感情の爆発と、その行動に驚いていた。

『な、なにすんのよっ!』

サキは狼狽するクナイを睨みつけていたが、やがて蔑むような表情をみせて立ち去って行った。

 

***

 

肩にかけれらたサキの手のぬくもり、すぐ頬の横まで、体温が感じ取れる程に近づいたサキの顔、 そうしてすぐ傍らにある彼女の肉体の存在そのもの。

それらが自分に不意に齎した激しい渇きにも似た感情。

2ケ月ぶりに村に戻ったクナイは、サキに対して以前と同じに接する事が出来なくなっていることに気付いたのだ。

 

***

 

村では年2回、春と秋に交易に出かける。行き先は北の峰を越え、砂漠を渡ったところにある街だ。 とは言え片道1ケ月の旅である。行きにはそれまでに作った道具や調度類を運び、 帰りには主として穀物等の食料を積んで帰る。

去年の秋に続き、今年の春の交易隊商の旅にクナイは同行した。 同年輩の子供達に比べ早い参加ではあるけれど、隊商のリーダーを務める父の強い勧めがあったのである。 最初はクナイも父の強引なやり方に反発していたものの、単に腕力だけが要求されるのではないこの仕事に、 自分が存外適性を持っている事を見出しひそかに父に感謝も感じていた。

また、一度交易に参加すれば最早立派な大人として認められるので、 聊か今までの遊び友達等への優越感も味わうことになった。

***

最初の交易からの帰還をサキは、たいそう喜んでくれた。

***

サキの父と、クナイの父は親友同士だったので、幼い頃から二人は親しく育ったのだ。 3年前、サキの父は交易の途中の事故で死んで以来、クナイの父が残された妻子の面倒を見るようになってからは、 一層一緒に過ごすことが多くなった。

幼い頃から、サキはクナイの守り役を自認して憚らなかった。 クナイは体が丈夫でなく、内向的であったので、小さい頃はいつもサキに庇われていた。

サキは生来、はっきりした性格で同年輩の子供達の親分格だったから、 サキの庇護はクナイにとっては居心地の良いものだった。

クナイはサキが実はとても傷付き易い心を持っていることも知っていた。 二人だけになったときですら、クナイにも弱音を吐こうとしないサキではあったけれど、 悲しいことや、辛いことがあったときは、すぐにクナイはサキの心がわかったのだ。

そんな時、クナイはよくサキを連れ出して湖の岸辺を散歩したり、草笛を聞かせたりした。 どうしてそんなことをするのか、クナイは言わなかったけれど、サキはクナイの心遣いを嬉しく思っていたのだ。

サキは成長するに連れ、次第に女らしくなっていった。 胸が膨らみ初めた頃からサキはクナイに対しても恥らいを覚え始めた。

その頃から、クナイも男同士での遊びが多くなり、加えて何時までも「サキに庇われている奴」で居ることも出来ず、 次第に二人の間はぎくしゃくしたものになっていった。

***

女は交易には行けない。

この村ではそう決められていた。

それはサキには屈辱的な掟だった。

今までと同様に、サキは子供達の口うるさいガキ大将であり続けたけれど、 それはもう既に腕力ではサキに勝るクナイ達の遠慮に依存していることもサキには分かっていた。

子供時代は終わりを告げようとしている、それは屈託の無かったサキの性格に暗い影を落とした。

クナイが参加すると聞かされた時、サキはクナイを誇らしく思うと同時に、 自分が取り残されて行くということの、絶望的な哀しみをはっきりと感じた。 もう、クナイと並んで歩み続けることは出来ないのだ、と。

クナイに対する妬みの感情はサキを更に責め苛んだ。 だからサキはクナイが出発するまでの数日をクナイを避けて過ごした。

クナイはサキの振舞いが理解出来なかった。最初は喜んでくれたのに、何故、避けるのだ?、と。 クナイはサキが何故か落ち込んでいるのが分かったけれど、その理由が分からなかった。 何時の間にかサキは女として自分たちの母親と同じ運命を受け入れるのが当然だ、とクナイは思っていたから。 「二人で一緒に」という思いが、この別れと相容れぬものであるとはクナイは気付かなかったから。

にも関わらず、クナイはサキとの関係が今までと同様に続くものだと思っていたのだ。

サキは女であるけれど、女ではない。

それはサキにとってもクナイにとってもそうだった。ただしその内実は全く逆だったのだけれど。

***

クナイが初めて参加した隊商が出発した後で、サキは自分がクナイの身を案じて落ちつかないことに気付いた。 クナイが傍らに居てくれないことがどれほどの空虚を感じさせるかを自覚した。 それは未だ男としてのクナイを意識したものではなかった。 今までの彼のサキにとっても重みを意識した、に過ぎない。

と、同時に取り残された自分が夢を託し得るものとしてクナイを意識するようにもなった。

クナイが隊商で立派にやり遂げる事、それはサキにとっての誇りでもあるのだ。

***

最初の隊商の旅から帰還したクナイをサキが迎えたのは、そんな気持ちからだった。

無我夢中で最初の旅を終えたクナイには、気にかかっていたサキの屈託の無い笑みが嬉しかった。 また今までと同じ二人に戻れるのだと信じた。

そう、確かに二人はその後、以前のようにいつも一緒に過ごした。他愛の無い会話、からかい、戯れ。

だが、時折ふっと、サキの表情が暗く曇るのがクナイには気がかりだった。

***

そうして2度目の旅。

***

帰ったクナイの前に現れたサキは、たった2ケ月とは思えぬほど、女らしくなっていた。 いや、実はその前からそうだったのに、クナイは見ようとはしなかっただけなのだ。 膨らんだ胸元、丸みを帯びた腰付き。 それに以前は男達と同じ、短袖のシャツとズボンで過ごしていたサキも、 今では母親達と同じスカートとベールで身を包んでいるのだ。

うっすらと化粧もするようになったサキの傍らに立つと、かすかに香料の香りがして、 嫌が応でも彼女が女であることをクナイは意識せずには居れなかった。

今度の旅では大人達もクナイを決して子供扱いしなかったから、 彼等の悪所通いにもクナイは初めて付き合うことになった。 そこで、遊び女たちの姿振舞いをクナイは初めての嫌悪と憧れを持って味わったばかりだった。

サキに対して、あの遊び女たちに感じたのと同様の欲望を自分が覚えることに、 クナイは衝撃を受けていた。しかも、その欲望はあの時のものに比べ遥かに強いものだったのだ。

***

その時、サキへのみやげ物を、クナイは自分の部屋でサキに広げて見せていた。 互いの部屋へノックもせずに入ること、それは以前からの二人には当たり前のことだったけれど、 サキが入ってきたとき、クナイは自分の心臓の鼓動が早まるのを止めようも無かった。

スカーフやアクセサリーの類を床に並べて見せる。

そのクナイの傍らにサキは腰を下ろし肩越しに覗き込むようにした。

クナイは、欲しい、と思った。サキという女を。

その荒々しい感情を、クナイはどう処理して良いか分からなかった。

サキはサキだ。だが、自分の体と心は、それは女だ、告げていた。

***

再び、魚がどこかで跳ねた。

この瓦礫だらけの湖に住む魚たちは、水底に横たわる嘗ての人々の栄華をどう感じてるのだろうか、 とクナイは埒も無いことを思った。

***

何故、その少年に声をかけようと思ったのだろう。

・・・・・碇くんに似ているから?・・・・・・

だが、当人にとっては唯一の体験であっても、レイは同様の想いをいくつも見て来ていた。 人々は繰り返し繰り返し同様の愚かしさで、苦しみ続けていたのだ。 だがその苦しみが、いつもレイには光輝いて見えた。 愚かしいとは言え、そこには命だけの持つ真実の輝きがあることをレイは知っていた。

そしてその少年もそうした一つであることを。

気紛れ・・・?

永遠にこの惑星の人々を見続けるべく定め付けられた彼女にとって、 気紛れという言葉にすら何の意味も無かっただろう。気紛れでないものなど何も無い。

ヒトの姿をとるようになってもう既に数千年経つ。それも気紛れと言えないことも無い。 決して人々の生には干渉しない、けれどひっそりと傍らで見守り続ける。 それがレイの使命だった。ヒトの姿をとったのは、 レイが何時しかヒトへの愛を表したく思うようになったからかもしれない。

・・・・・・碇くんとアスカが遺したもの・・・・・・・・・・

彼等との別れから既に余りに長い時間が隔たってしまっている。彼等を見知った人間は疾うに無く、 彼等の記録すら失われ、わずかに人々が口伝えする伝説に跡を止めているのみ。

やがてそうした邑々も砂に埋もれ消えてしまえば、もうどこにも彼等を偲ぶよすがは無い。

長い年月は、レイに無残にもヒトとしての感情を育んでしまっていた。 もっともヒトと異なり、そうした感情がレイを支配し切ることは無かったとはいえ、 彼女は取り残されたものの哀しみをただひたすら感じ続けなければならなかった。

そんな寂しさのせいだったのかもしれない・・・・・・・。

***

クナイはレイが声をかけるまで、気配に気付かなかった。

「彼女が・・・・好き?」

クナイは、自分のすぐ隣にレイが腰を下ろしていることに気付いて驚愕する。

・・・・レイ様がお声をかけて下さる?・・・・・・・

「は、・・・はい。・・・・・いえ、あの・・・・・」

レイは、ずっと20歳前後の年齢の姿をとっていた。 それは、あの頃のままの姿では余りに彼女自身が辛かったせいでもある。

クナイにしてみればサキ以上に女を感じさせる姿ではあったけれど、 レイからは不思議と生々しい女を感じる事は無かった。

「わからない?」

そう訊ねて、彼女はくすっと笑った。

クナイは何故彼女が笑ったのか分からなかったけれど、そうするのが至極当然のようにも思っていた。

何時の間にやら、月が出ていた。月の青白い光が湖面を照らし、時折おこる小さな波紋の峰を際立たせては消えた。

その光の中で、レイの姿はなお、光よりも淡く透き通るかのように見えた。

クナイはその横顔をとても哀しいもののように感じていた。

「レイさま・・・・・・」

「どう?」

クナイはしばらくレイが何を訊ねているのかが分からなかったが、 先ほどよりの問いの答えをずっと待っているのだ、と気づき赤面した。

「あ、すみません・・・。

・・・・・やっぱり分からない・・・。

僕はサキが好きだ、と思っていたけれど、僕が思っていた好きと、 僕の本当の気持ちとは違うような気がします」

「そう?」

相槌のようで微妙な抑揚が、クナイをしてその先を考えるように促している。

「そう・・・・今のサキは・・・僕の好きだったサキじゃない。

・・・・・・・違う・・・・・・

いえ、サキはいつもサキだったんです。

ただ、僕が気が付かないうちに、僕は彼女が分からなくなったのかもしれない」

「今の彼女は嫌い?」

「好きです」

クナイは自分が躊躇無くそう答え得たことにかすかな安堵を覚えた、 けれどその素直な言葉がなお、自分の実感を裏切っていることには変わりが無かった。

「でも・・・分かりません」

「どうして?」

「だって・・・・・・・・」

そこでクナイは絶句する。一体どうやってその気持ちを表し得よう。レイを相手にして。

レイは微笑んだ。そう、それを言い得る男の子はいなかった。でも彼女は知っていたから。

「本当に好きだから、その気持ちに苦しんでいいの。

辛いけど・・・ちっともおかしいことじゃないわ」

そう言ってレイはクナイの前髪をかるくなでた。

何も変わっていない、けれどクナイはレイに触れられて少し心が軽くなるような気がした。

現れたときと同様に、不意にレイは姿を消した。

けれどクナイには、月の光がレイの微笑みと同じように自分の心を和らげてくれるように思われた。

***

二人は、ぎこちないながらも以前と同じように付合い続けていた。 それはある意味で、二人の共謀による演技だった。今にも開きそうな扉を押し止めようとするかのように。

だがそうすればそうするほど、苦しく辛くなる。そして一層相手を喪うが怖くなってくるのだった。


伍.

やがて夏が終わろうとしていた。再び隊商が出発する。

その時期が近づいてくるに連れ、サキは塞ぎ勝ちになった。 彼女は怯えていた。この夏一杯、懸命に押さえ続けていた思いがはちきれそうになるのが分かったから。 クナイに置いて行かれたくない。それはこの旅を見送ることへの不安ではない。 彼女がクナイと共にありたいという願いは、クナイの世界を彼女が共有したいという願いそのものだったのだ。

一旅毎にクナイは、大きく強くなって行く。そして彼女の知らない外の世界に触れて行く。 自分はその間、この村で、見なれた世界の中に閉じ込められたまま、ただ成熟して行く時間を持て余すだけなのだ。

この頃ではサキはもう、子供達と一緒に遊ぶことは無かった。 村の人々も彼女を最早、結婚を待つ若い娘として扱うようになっていたし、 当然そのような生活を送ることを期待もした。

家事仕事、細かな工芸品の製作、女たちのお喋り。サキには息が詰まりそうだった。

クナイが居る間は、クナイと共に語り合う時間だけが彼女自身に戻れる時間でもあったのだ。 けれど、そうした語らいの折にも、サキは既に自分がクナイに提供できる話題が余りに乏しいことを辛く感じていた。

サキはクナイに良く旅の話を聞かせてくれるよう、ねだったものだ。 わずか2回の経験では、そう多くは話せるものではない、とクナイはしばしば困惑したけれど、 たとえ同じ話であろうとサキは熱心に聞き、時には詳しくたずねたりもした。

***

クナイはそろそろ村の男としての自覚を持ち始めていた。 この村では相手さえ居れば、十代の後半に所帯を持つ者も多かった。 子供の少ない時代故、多産は祝福されたのだ。

クナイは自分の中の欲望とサキへの思いとを漸く、サキとの結婚という形に整理を付けつつあった。 それには父や、隊商の先輩達の話が大きく預かっていた。 一人前になりたい、そう動機付けられているからこそ、その諸先輩達も認められる関係としてサキとのこともありたい、 と思うのはクナイにとっては自然な事だったろう。 サキを養い且つサキが誇り得る男になろう、クナイはその為にも今度の隊商への参加に意欲を燃やしていた。

もっともクナイはサキにはそんな話を一言もしていなかった。 いつもと同じように、幼馴染の延長の、気安い心地良い関係のままをなんとかこれまで維持出来たことに、 むしろ安堵していた。もし自分の心の中の狂暴な思いのままに接していたなら、 サキを傷つけたかもしれない。だがその惧れはもう無かった。 一人前になったら、サキに結婚を申し込もう。そうして二人で家庭を持とう。 そうすれば二人はもっと互いに睦み合える筈だ、と。

***

「ねぇ・・・・」

と伏目勝ちにサキが言った。

二人は湖畔に来ていた。

村の者達は仕掛け網を張ったとき以外は滅多に湖に来はしない。 またもはや周囲から公認の二人だったので二人きりでここに居たとしても咎められることは無かったのだ。

風が吹いて、サキの栗毛色の髪をふわっと舞い上げる。初秋の午後のけだるい光の中でそれは金色に煌いた。

クナイは銀色に広がる水面の遠くに突き出た岩のようなものを見詰めていた。 それは近づくと天使の姿をしていると言う。嘗てここにあった都市の廃墟の一部らしい。

「何?」

とクナイはサキを見ずに訊ねる。

サキは息を整えると思い切って言い放った。

「今度の隊商、わたしも行っていいかな」

クナイは思いがけない問いに驚いてサキの顔を見詰める。

サキの真剣な眼差し。青い瞳には何一つ嘘は無い。

クナイは何故、サキがこんなことを言うのか理解出来なかった。 サキならば、クナイが立派な男になって帰ってくるのを喜んで待っていて呉れると信じていたから。 それがクナイの彼女に対する信頼の形だったから。

「な、何を言うんだ?」

その声には怒りが含まれていたかもしれない。クナイにして見ればサキの言葉は、 はっきりとサキがクナイの夢とは異なる軌道を、それがどういうものかはクナイには理解していなかったけれど、 思い描いているようにしか感じられなかったから。

サキは自分を待っていてくれない。その思いがクナイを傷付けた。

「何故、怒るの?」

唇を噛むクナイの表情をサキは不安げに見詰める。

クナイならば理解してくれるはず、サキはそう信じていたから。 クナイなら自分と一緒に世界を見ることを喜んでくれる筈だ、とサキはそう思い込んでいたから。

だからクナイの反応はサキには哀しかった。けれど、サキはここで引き下がる訳には行かなかった。

「ねえ、お父様にお願いして、私も一緒に行けないかしら」

「駄目に決まってるだろ!。

女は行けないんだ!」

「どうしてよ!。いいじゃない、これからは女が行くことになっても!。

私だって役に立てるわよ!」

それはクナイには、彼女がクナイに張り合おうとしているとしか受け取れなかった。 クナイの目から見れば、それは彼女がクナイに養い手としての力量を疑っていると思わせるに十分だった。

「駄目だ。

そんなこと許される訳無いだろ!。

サキは待っていれば良いんだ!」

「どうして!。なんであたしだけ待ってなけりゃいけないの!」

「サキは女なんだから!」

二人は厳しい表情で睨み合った。何故、こんな諍いになるのか互いに全く分からなかった。 ただはっきりしていたのは、お互いに相手が自分を理解するのを拒否していることだけだった。 その事実は二人の心に深い哀しみを齎した。

クナイの中で、それは怒りとなり、そして押え得つけていた欲望と交じり合って彼の感情を突上げた。

クナイはいきなりサキの腕を掴むと、ぐいと引き寄せ抱きすくめた。 そして彼女の首を押さえつけるようにして、そのやわらかな唇を吸った。 心の奥底から渇きのように欲望が湧き上がり、サキの匂いを吸い込むや、 それはクナイにはもう押し止めることの出来ない奔流となった。

サキは小さな叫びを上げたが、口を塞がれそれは声として漏れることは無かった。 クナイの腕が痛いほど自分を抱きしめていた。その力の強さにサキは恐怖を覚えた。

クナイはサキを岩に押し倒して覆い被さった。股間の強張りをサキの腰に擦り付けるようにしながら、 片方の手はサキの胸を襲った。何をどうすればよいのかクナイには分からなかった。 だがとにかく欲望が体を突き動かすままにサキの体に向かって行ったのだ。

サキは漸く自由になった方の手でクナイの背を思いきり叩いたけれど、その姿勢では大した力は出なかった。

クナイは漸くサキの首筋に唇をはわして行ったので、サキは大きく息を付く事が出来た。

「いやぁ!、止めて!」

思いの他強いクナイの力に抗することは、サキには不可能だと分かったとき、 サキに残されたのは泣き叫ぶ事だけだった。

***

体を押さえつけていた力が消え、気が付くと泣き叫ぶサキの傍らに呆然としてクナイが座っていた。 サキはゆっくりと体を起こすと乱れた衣服を直し、案ずるようにクナイの顔を覗き込む。

そこに居たのは嘗てのいじめられっ子のクナイの顔。泣き虫のべそをかいたクナイの顔。

何も無かった。クナイは結局我に帰ったのだから。

「大丈夫。あたしは大丈夫だから・・・」

そう言ってサキはクナイの頭を掻き抱いた。

クナイは、暫くサキに体を預けていたが、やがて立ち上がり、よろめくようにして歩み去った。 サキには一瞥も呉れず、一言も話さずに。

「弱虫・・」

クナイの後姿にサキはそう呟いたけれど、その言葉が当たっていると言う確信が持てなかった。


六.

あれ以来、クナイはサキに会っていなかった。表面上は変わらない風を装っていても、 鬱々として楽しまぬ毎日を過ごしていた。

湖には何度も足を運んだけれど、サキは姿を見せなかった。

もちろん、サキの家はクナイの家の目と鼻の先にあったのだが、 クナイはどうしてもサキの家を避けてしまうのだった。

そんなある夜、眠れぬまま、クナイは湖の岸辺に来ていた。 満月が湖面に光の粉を散している。既に夜気はすっかり涼しくなっていた。

岸辺に座ってただぼんやりと湖面に揺れる光の斑点を眺め続ける。 クナイには何もかも理解できぬままだった。サキが何を思っているのかも、 自分が何故あんな振舞いに出たのか、も。それまでは彼にとっての世界はきわめて単純なものだった。 一人前になってサキとの結婚を認めてもらう。 そうすれば全ては開けてくるように思えていた。彼の世界。 それは村の因習と彼の乏しい経験とが矛盾無く調和できるものだった。 それ以上の何かがある、とは彼には思えなかった。 だからサキの思いはクナイの理解を超えていた。 何故、一緒に育ってきていながら今になって互いに理解出来なくなってしまったのか。 何度考えてもクナイには何の答えも得られなかった。 そうしてただサキの面影だけが切なく彼の心に浮かんでは消えて行った。

隣に誰かが座る気配がした。

クナイにはそれが誰かがすぐに分かった。

「辛いのね」

蒼銀色の髪に月の光が弾ける。

「分からないんです。なにもかも」

淡々とクナイは答える。

この先に出口があるとは到底思えない。とすればこのまま自分は出発せねばならないのだろう、と覚悟はしていた。

「日神と月神の話・・・・知ってる?」

「はい。レイ様はその頃のことを覚えてらっしゃるのでしょう?」

「ええ」

遥か昔の物語。この湖が建物で埋め尽くされ多くの人々が地上を闊歩していた時代。 それはクナイには想像を超えた世界だった。

幼い頃から聞かされた物語。だが今のクナイには、遠いものにしか思えなかった。

そんなクナイの気持ちを知ってか、レイは進んで語り始めた。

「日神の本当の名は、惣流・アスカ・ラングレー。私達はアスカって呼んでたわ。

月神の方は碇シンジ。私は碇君って呼んでたけど、アスカはシンジって呼び捨てにしてたわね」

名前。『神』が名前を持つものである、と聞いてクナイは物語の世界が突然、身近なものに思えてきた。

「レイ様はなんと呼ばれてらっしゃったんですか?」

クナイはその問にレイが苦笑したように思った。けれどそう見えたのは気のせいかもしれなかった。

「アスカは私のことをファーストって呼んでたわ。

私がその呼び方好きじゃないこと知っていたのにね。

碇君は綾波って・・・・。

それも本当はあんまり好きな呼び方じゃなかった」

「お近くにいらっしゃったんですね」

「ええ。

ほんの一時の間だけ・・・だったけど」

「・・・その・・お二人は本当に・・・その・・

なんて言うか・・・」

「愛し合っていたか・・・でしょう?」

「はい」

クナイは思わず赤面する。密やかな願望を言い当てられたかのように。

「愛し合って、というのは違うかもしれないわね」

「えっ?」

「碇君は確かにアスカを愛していた、し、

アスカも碇君のことを愛していた、と思う」

「じゃあ・・・」

「違うの。

お互いが相手を愛し始めたとき、二人は会えなくなって居た。

だから、互いにどう相手を愛していたかを知らなかった」

「・・・・」

「なんだか、酷い話に思えるかもしれないわね」

「哀しい感じがします」

「ええ」

二人は暫く湖の漣の音を聞いていた。湖面の遥か先は霞がかかって月の光を孕み白っぽく見えた。

「別れる前にも好意はあったかもしれない・・・けれど、

それ以上にお互いに相手を理解出来るほど大人じゃなかったわ」

クナイは足許をじっと見詰めていた。月の光と影の境界を指でなぞる。特に意味があるわけではない。

「僕はやっぱり、サキが分からない。

サキを傷付けてしまいました」

「ええ。だから辛いのね」

「はい。

こんなに辛いなんて思わなかった。

こんなに近くに居るのに」

「サキさんと話してみたの?」

「・・・いえ」

「何故?」

「話しても分かるようになるとは思えないんです」

「どうして?」

「だって・・・どう考えても・・・」

「怖いのね」

「怖い?」

「そう。

貴方の知っている世界には容れない考えが、あなたの否定を意味するとは限らないわ。

貴方はそう恐れている。

でもそれは貴方が全てだと思っていた、貴方の知っているものが否定されているだけ。

貴方は、貴方なの」

「僕には良く分かりません。僕は・・漸く一人前に認められそうになってきたのに・・。

それが違うと言われても僕には・・・・・」

「一人前になることが大事なんじゃないわ」

「でも、それじゃあ・・・」

「それじゃあ・・・何?」

クナイは言葉に詰まる。一人前じゃないから、何がどうなんだろう、と。 そう。一人前でなければサキとの結婚は認められない。サキに結婚を申し込んでも断られるだろう。

「そうかしら?」

クナイの心を読んだかのように、レイが訊ねる。

「サキさんは、一人前になって結婚を申し込んでって言った?」

「いえ・・・でもそうに決まっています」

「何故?」

「だって・・・」

「みんなそうだから?」

「・・・はい」

レイはクスっと笑った。

「じゃ、それはサキさんじゃない。

貴方はなんでサキさんと結婚したい、と思ったの?」

そう思った理由。それはサキ以外には無い。

「分かっているのね。じゃあ大丈夫。貴方なら」

クナイはレイの顔を見上げる。赤い瞳が力づけるようにクナイを見詰めていた。

「ほら」

レイが肩越しに振り返る。その視線の先に、彼女は居た。

「後は二人でお話しなさい」

「クナイ・・・」

「サキ・・・・」


七.

隊商は出発した。

サキは村に残った。

***

クナイは帰ってきたら結婚しよう、と言った。そしてサキは承諾した。人々は彼らの婚約を祝福した。

二人の本当の望みが結婚とは異なることに気付いていたとしても、 彼らの取り得る行動が結局それしか無いのだと思っていた。 もっともクナイは、それは形式的なものだ、と思っていたけれど、 サキに取っては哀しい現実の始まりだった。クナイの帰りを待つ日々。 人々は、夫の帰りを待つ妻のようにサキに接した。

***

北の峰を越えると、隊商はひたすら砂漠の中を進んで行く。と言っても一面の砂原ではない。 ごつごつとした低い岩山の間を砂が埋め尽くす起伏の多い地形が続くのだが。 ただ、そうした岩山でさえ、漂い流れて行く砂によって覆い隠され地形は一度として落ち着いたことは無かった。

この砂漠にも、また嘗ての栄華の跡が隠されている。 砂丘の移動した跡に忽然と街の廃墟が現れることもあり、 そこには遂さっきまで人の住んでいたかのような家々が見られる事もあるという。 だがやがて再び砂が覆い隠す。人はそれがあったことの証拠すら見出すことは出来ないのだ。

カビラと呼ばれる巨大な鼠、それがこの時代の荷役用家畜だった。 この時代の哺乳動物は全て嘗て人に飼われていたもの、あるいは都市に巣食っていたものの末裔だった。 特に多いのは鼠の仲間で、小型のものから大型の狂暴な肉食の類まで広く分布していた。

隊商はカビラに荷車を引かせた隊列を組んで進む。

この岩の多い砂地には必ず、岩の道があってそれを伝っていけば、 車を砂に取られること無く街に辿り着くことが出来るのだ。 ただしその道を見つけるのは良く地形を読むことが出来なければならない。 リーダーの役目はそうした道を見出し導くことだった。熟練と才能を要する技。 そしてクナイは父譲りの為か、その才能に恵まれていた。

岩の道を辿るのは単に車を砂に取られない為、だけではない。 スナネズミの攻撃を避けるという重要な意味もあったのだ。

スナネズミ。それは嘗てこの名前で呼ばれていた愛らしい種族とはまったく異なる。 砂地を潜って移動し、群れを作って砂地に迷い込んだ獣を狩る肉食獣だった。 体長は50cm程。口はそう大きくは無いけれど、鋭い牙を持ち、獲物の血を啜る。

もし道を離れたなら隊商はあっという間にこのスナネズミの餌食になってしまうのだ。

***

砂の道に沿って小さな岩が点在している。これらが野営地となる。 これもスナネズミ対策の意味があった。そして夜までにこうした岩場に辿りつけなければ、それは死を意味した。

***

「弱ったな」

オズナ、クナイの父でこの隊のリーダーである。長年、隊商を率いて来た男は言った。

「今年はここまで地形が変わっているとはな」

街まで後数日の行程に差し掛かった頃だった。

行く手には大きく砂丘が盛り上がっている。今辿っている砂の道の先はその砂丘の下に吸い込まれていた。 迂回せなばならない。

「父さん、たしかついさっき分岐のところを通った筈だよ」

「そうか」

既に正午を過ぎている。前の野営地に戻るかそれとも迂回路を行くかを決断しなければならなかった。

安全策を取るのなら昨晩の野営地に戻るのが正解だった、が、 既に今回は何度も迂回した為予定よりも3日遅れていた。

オズナは決断した。

「よし、分岐まで戻るぞ。クナイ、先導して分岐から先を調べて来い」

分岐した岩の道が行き止まりで無いかを見極めることは、それなりの地形が読める者でなければ不可能だ。 しかしクナイはオズナの目から見ても、十分その任に堪え得る力量を持っていた。

「うん、じゃ大急ぎで調べてくるから父さん達は分岐の所で待ってて」

「ああ、分かった」

走り去る息子の後姿にオズナは、くすぐったいような誇らしさを感じていた。

***

「すごいな。まさかこんな所があったなんて・・・」

クナイの見つけた分岐の先には野営地に打ってつけの岩場があった。 それは嘗て誰も行きついたことの無い遺跡だった。

「うむ、ここを埋めていた砂が全て移動してしまったと言うわけか」

それは擂鉢状の小さな盆地、いや人為的に円形に掘り下げられたものだった。 直径は恐らく1km以上はあったろう。そしてその底には嘗て町だったであろう瓦礫が並んでいた。 岩の道は遺跡の横で分岐し、そのまま円の周囲を辿って底に下りる道になっていた。 そう、道は嘗て人の手によって整備されたものだったのだ。

全ては覆い被さっていた砂の重みで押しつぶされていたけれど、 その広さからかなりの人口がこの地で生活していたことが伺われた。

「クナイ、やったな」

「でかした」

隊員たちは口々にクナイを誉めそやした。若干10代半ばにして、クナイには道を読む確かな技量があるのだ。 この過酷な砂漠の旅ではどんな腕力にも増してそれは隊員達の命を守ってくれる力だった。 その力に恵まれた若者の存在は彼らの村の隊商の将来を保証してくれる宝だった。

砂漠の夕暮れは怖いほどに色彩鮮やかである。 金や橙色から深い青までの間の無数の階調の色彩が岩々や砂丘を彩る。 蒼穹は広々と澄み渡り、そこには微塵の人間らしさも無かったけれど、 厳しいまでの清潔さに人々は敬虔さにも似た心持がするのだった。

擂鉢の底では隊員達がカビラに餌をやったり食事の支度をしているのが小さく見えた。クナイはその縁に立ち、 砂漠の落日と、壮大な遺跡の対比を眺めていた。

こうして砂漠に埋もれてしまった人の手になるもの。 そして永久に繰り返されるであろう自然の営みの対比、クナイはそんな対比を殊更意識した訳ではないのだけれど、 何故か長い時の流れに繰り返された人々の生活の切なさを思っていた。

月神と日神の物語、サキと自分のこと、そして父やその祖達の人生。

・・・・サキにもこの光景を見せてやりたい。

突然、クナイは、今ここに欠けているもの、そして本当にここにクナイの傍らに居るべき人物、 それがサキであることを理解した。自分が本当にしたかったこと。 クナイは今痛切にここにサキに居て欲しかった。自分と共に歩んで欲しい人。

・・・・そうだ、だからサキは・・・・・・。

クナイは自分の愚かしさに舌打した。そう、例え理解したとしても、それは叶わぬ思いだったかもしれない。 けれど、もしその心を理解してあげられたなら・・・。

ふと、クナイは上ってきた崖沿いの道から少し外れた所に光るものを見つけた。 不思議に思い、そこまで近寄って、道から崖下に身を乗り出して見ると、それは銀色の小さなペンダント状のものだった。 十字型のそれは消えかかる陽の光を受けて鋭い輝きを放っていた。

道から本の2mほど下の岩に、銀色の鎖で引っかかっている。きっとここに住んでいた者の遺品なのだろう。

クナイは今自分が感じたことの証として、そのペンダントがどうしても取りたくなった。それをサキに渡して、 自分が感じたこと、考えたことを告げよう。そうすれば本当に素直に自分の想いを彼女に伝えることが出来るだろう。

そこここの窪みを足場にすれば、降りる事が出来そうだ。 夕餉の支度もそろそろ終わりかかっているけれど、これなら食事までに野営地に戻ることが出来るだろう。

クナイはそろりそろりと崖を下り、十字のペンダントにすぐの所まで辿りついた。 それは長い年月の経過にも関わらず、美しい輝きを放っていた。腕を伸ばす。 ペンダントにはすぐ手が届いた。が鎖は岩に引っかかって中々、外れようとしない。 何度か投げ上げるようにして鎖を外そうと試みる。漸く外れた、と思った瞬間、クナイの足許の窪みが崩れた。

***

額に当てられた手はひんやりと冷たかった。

目をあけると、そこには紅い瞳。

「レイ様」

「大丈夫・・・・」

哀しげな眼差し。

体は動かなかった。クナイは自分がもう駄目だと言うことを知った。落ちたのだ。もう助からないに違いない。

「レイ様・・・・僕やっと分かりました・・・」

「そう・・・」

クナイはあのペンダントはどうしたろうと気になっていた。サキにあげようと思っていたペンダント。

「大丈夫よ。あなたしっかり握っているもの。鎖も切れていないし」

「そうですか。よかった」

クナイはほっとした。

「レイ様、僕、死ぬんでしょう」

レイは目を伏せた。

「ええ、そうね」

「ありがとう・・・本当のことを言ってくれて。

哀しそうな顔をしないで。レイ様。

僕分かったんです。本当に僕がどうしたかったか、何故サキがあんなことを言ったのか。

良かった。
分かって良かったと思います」

「そう」

レイは愛おしげにクナイの髪を撫でた。その髪には血糊がべっとりと染みていた。

「レイ様、泣いているんですか?」

「えっ・・・・そうね。私泣いているんだわ」

レイの頬を涙が伝った。

「レイ様、泣かないで・・・・僕はサキを分かって嬉しいのだから。

だから・・・レイ様、彼女に伝えてください。

僕も一緒に・・・・サキと一緒にこの夕焼けを見たかった・・と」

「ええ、伝えるわ」

「ありがとう」

安堵と共に強烈な痛みがクナイを襲った。

「うっ・・・

サキィ・・・」

その苦しみはそう長くは続かなかった。

***

「どうして・・・どうして尾けてきたのかね」

オズナは埃まみれになった少女に尋ねた。
その問に、最早全てが手遅れとなった今何の意味があろうか、と訝しがりながら。

クナイを捜索に出た者が、擂鉢の縁でうろついている不審な人物を発見し連れ帰った時、 別の一隊もクナイの死体を崖下で発見していた。

野営地に連れてこられた少女は、焚き火の傍らに横たえられた少年の死体に直面しなければならなかった。

あれだけ高いところから落ちたにも関わらず、死体には大きな外傷も見えず、顔は安らかに微笑んでさえ見えた。
手には、あの十字架のペンダントがしっかりと握られている。

「・・・クナイッ!」

サキはクナイの死体に取り縋って泣いた。

野営地は哀しい沈黙に包まれていた。クナイの死体とそれに縋って泣く少女を隊員達は呆然と眺めていた。

「あたし・・・どうしても待てなかったの・・貴方を待ってるだけなんて耐えられない。 だから・・だから追いかけてきたのに・・・」

その傍らに突然、レイの白い姿が現れた。

「レイ様・・・・」

レイはクナイの遺体のそばにしゃがむと、彼の手に握り締められたペンダントを取り、それをサキに差し出した。

「これ。

クナイは貴方の為にと。

貴方と一緒に夕焼けが見たかった。

そう言ってた」

無表情にも見えるレイの顔だったけれど、サキには今にも泣きそうに見えた。

「レイ様・・・・・・」

現れたときと同様に出しぬけにレイの姿は掻き消えた。

後には十字架のペンダントを胸に抱いてサキが泣き続けるばかり。


八.

やがて、全ては古い物語と化した。

***

サキは村には戻らず、そのまま街に移り住んだ。そして街の男と結婚し、隊商相手の宿を営んだ。サキは子宝に恵まれ、男との間に元気の良い子供を11人産んだという。

あのペンダントはいつもサキの胸にかかっていた。夫となった男がその由来を尋ねても彼女は笑って答えようとはしなかった。

オズナは年老いて引退し、隊商のリーダーも別の者が就いた。村ではクナイとサキの物語を唄にして記憶に止めたと言う。

***

相変わらず村の近くにレイは住まい、人々の生活も大きくは変わらなかった。 ただ、クナイが良く座っていた湖の辺でレイが佇んでいるのが良く見られるようになったという。

また永い年月が過ぎて行く。人々の暮らしも想いも、また・・・・。

 

Fin


<あとがき>
お久しぶりでございます。
なんと久しぶりの更新で、しかも「神話」の外伝(てれてれ)(。_゜)☆\バキ。
実は冬コミ原稿のためのネタ探しの副産物でもあります。
実際、「神話」、「虹」の次を書こうとして、はや1年。
去年の今頃は確か、Hayatoさんにメールで年内完結宣言までしてたのに。Hayatoさんごめんなさい(切腹)。
とはいえ、少しづつ、そちらの方も準備が整いつつあります。「こおろぎ」も。
ただ生来の遅筆で(そんなもんあるのか?)、ご迷惑を。うくくくく(;_;)。
今しばらくお待ち下さいませ(平伏)
●12月24日の追記
結構、誤字があったので直しました。 T.OKAさん、どうもありがとうございます。m(_ _)m DARUさん、ご迷惑おかけしてすみません。 まだ残ってるかもしれません、お気づきになられた方、是非ご一報を。
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