こおろぎ

by しのぱ


第拾六章

玲からの電話を無視するつもりは無かった。
『でも仕方がないじゃないか』
急ぐ仕事なのだろうか?。今日一日を逃したところで、誰も責めはしない
だろう。だが真司には「仕方が無く」思えた。それは十分な根拠を提供し
ていた。
部長は外出して今日は戻らない。だから真司は契約自体がどうなっている
か、から調べる事にした。






***




営業第三部の高田がネットに繋がっているかどうかを確認する。どうやら今
は社内に居るようだ。
すばやくキーボードを叩いて"ちょっと今、いいかな"と、メッセージを送る。
数秒して、ウィンドウがポップアップして返答が返ってくる。
"了解"
それから真司は、

「ちょっとリフレッシュコーナーへ行ってるから」

と言って立ちあがる。







***






リフレッシュコーナーは社屋ビルの真中に、吹き抜けの周りの回廊として設定
されている。幾つかの長椅子と、ドリンク類の自動販売機。社内で喫煙できる
のはここだけだ。
天窓から入ってくる光が柄にもなく荘厳な雰囲気をかもし出している。
真司は、コーヒーの紙コップを手に、手摺近くの椅子に腰を下ろし、そこから
階下を見下ろす。
一番下の1階ロビーは、無様なまでに広く殺風景で、上から見下ろすと受付の
カウンターがほとんど冗談のようなスケールのアンバランスを感じさせる。
各階の回廊をあるく靴音や人の話し声が交じり合い溶け合って吹き抜けを舞い
上がっていく。

「やあ、なんだい?」

振り返ると浅黒い顔の小太りの男が立っている。高田だ。
歳はやや真司より上だが、同期入社。特に親しいと言うわけではないが、これ
までも結構互いに助け合ってきている。少なくとも、簡単なメッセージでこの
場所での待ち合わせくらいは出来る仲だ。

「例の件の事だけどね」

「おう、どうだい、うまく進みそうかい?」

そう言いながら、高田は真司の横に腰を降ろす。実際、高田から進捗が思わし
くないと聞いたために先ほどのミーティングになったのだから、当然高田も、
その報告だろうと思って来ている訳だ。

「思わしくないねぇ。
 第一、何だってあんなに仕様変更まで同じ時期に受けちゃってるんだい?
 概要設計レベルの仕様まで変更になってるぜ」

「いや、まぁそれは色々あってな。
 というか、そうするとやっぱり遅れるのは必至かい」

高田の顔が曇る。

「尻は叩くがねぇ。
 だがバグの修正だけにして仕様変更は向こうに負担を負わせないと無理だな」

「そっか」

高田は立ちあがると、手摺に凭れて下を眺め降ろした。
真司は声を潜めて言う。

「高田、
 この案件なんかあるんじゃないのか?」

「・・・・いや・・別に」

却ってこういう場所の方が、他人に会話を聞かれる心配は無い。
声は聞こえても何を話しているかは他の雑音と混じって聞き取れない。
それを考慮しての場所の設定だった。

真司は、先ほどのミーティングの石田との会話を思い出していた。

『じゃ次長、
 仕様変更とバグと切り分けるって方針に戻していいんですよね』
『良いに決まってるだろう?』
『でも・・いえ良いんです』
『?』

どこでそんな妙な話になったのか。三上は知っていたのだろう。一方、
もし部長が知らなければ、営業から、と考えざるを得ない。
逆に部長が知っていた話なら、疾うに真司には釘を刺されている筈だ。

「要求されたポイントについて全て対応するという方針、
 そっちから出したんだろ?」

高田は振り返る。
表情を殺している。

「三上次長にはきちんと筋を通しといたぜ」

「ああ、そうらしいな。もっとも部長には話してあるのかな」

「さぁな。そりゃ三上君の仕事だろ?」

「それとだ。
 契約書見ると厄介な契約だねぇ。
 こいつは、支払条件に先方の検収完了を入れてる。
 まぁそれは良くあるパターンの契約だから、そのこと自体問題は無い
 がね。
 だが、この案件についちゃあ、支払時期の遅延まで明記されてる。
 これはきわめて異例な形態だね。
 というか、この契約で行けば、ユーザーは常に仕様変更を『バグ』と
 して扱い検収を引き伸ばすことで利益があげられることになるな」

「・・・・・・
 そうかい?。
 契約書としては普通の奴と変わっては見えないけどな」

高田は知らぬを決め込もうとしているのは明らかだった。

「・・・・
 おいっ。いいかげんにしろ!」

「何の事だい?。
 要は、向こうの要求をこなして乗り切れば問題は無かろ?。
 単に君のところの連中が無能なだけのことで、そんなことまで俺は責任
 持てんよ。
 俺のほうからすりゃ、顧客からやいのやいの矢面に立たされてんだから、
 良い迷惑さ」

そういってから、高田はポケットからくしゃくしゃになった煙草の箱を取
り出し、一本抜き出すと火を付けた。

「高田。
 俺はちょっと経理の岸野ん所にも話を聞いてみたんだが、
 最近、営三の仕事、支払いサイトが異常に長くなってるらしいじゃないか」

高田は大袈裟に片方の眉を上げる。

「おまえ、日向さんとは親しかったんじゃないのか・・・」

やはり想像していた通り。しかし真司にとってはショックであることには
代わりは無い。

「・・・社長が、か・・・」






*****







「やあ、真司!。久しぶりだね」

「社長。お忙しいところ、申し訳ありません」

社長室にはアポ無しでも、すぐに通された。
この会社は日向がベンチャーで起こした会社である。真司は、その創立期の
メンバーでもあったから、社内の位階とは別に社長室には「顔が効く」事に
なるのだ。もっとも、それが嫌で、極力社長室には近付かないようにはして
いた。

「ちっとも顔を見せないじゃないか」

そう言いながら、日向は真司を促して応接のソファに座らせると、自分もそ
の向かいに腰を降ろした。

「どう?。元気にやってる?」

背もたれに寄りかかって日向は、にこやかに真司に問い掛ける。
が、真司にはその様子が痛々しく見えた。日向は明らかに気さくで朗らかな
人物を装っている。にもかかわらず、額にうっすらと浮かぶ汗を真司は見逃
さなかった。

「お蔭様で」

「そう・・・それは良かった」

そう言ったものの、それ以上は話が続かない。日向はにこやかな表情で落ち
着きなくあちこちに目を走らせる。

日向は変わってしまった。

あの頃、勝手気ままな服装の技術屋集団の社員に代わり、一手に営業を引き
受けた日向は常にスーツ姿だった。それが日向のトレードマークになってい
たのだ。今や、殆どの社員が普通の企業と同じように、スーツ姿のサラリー
マンばかりとなった今では、日向はスーツ姿を地味に決めるという姿は当た
り前のようにも見えたが、真司をはじめとする創業期の苦労を共にしてきた
社員の目には、それは嘗ての心意気を象徴するものとして映っていたのである。
やがて会社が大きくなっていく過程で、次第に経営も少しづつ難しくなって
いった。いやプロ向きの仕事に変貌していったというべきか。
小規模のソフトウェアハウスならば、器用に工夫を凝らしながらのいわば職
人芸的な経営も可能だったし、ましてや大手の下請けで繋ぐ限りは然程の経
営力も必要はなかったかもしれない。
だが、社員数が1000人近い規模となっては、資金繰りと組織運営のプロ無し
には済まされない。
次第に関連する金融機関からの応援や、ヘッドハンティングにより、役員ク
ラスの充実がなされて行った。
やがて気が付くと、日向の周りには嘗て、志を同じくした創業期のメンバー
は殆ど残っていなかった。

今目の前に座っている日向の服装は、一見地味ながらもカフス1つに至るま
で、徹底的に有名ブランドのもので固められているのは明らかだった。
そういったものに疎い真司には、各々がどういうものかは分からなかったが、
社長の仕草の隅々まで、そうした「物」への偏愛が感じられるのが苛立たし
かった。

嘗ての日向は、所詮は戦闘服に過ぎないスーツの袖口が擦り切れることなど
気にもしなかったろう。
日向の顔。嘗てあれほどのエネルギーに満ち溢れていた、しかし今や、すっ
かり上品で穏やかになった表情には何の力も感じられない。
その顔の中で、2つの瞳は、ただおどおどしているだけだった。

「それで、今日は何だい?」

真司は、その声の中に微かな警戒の色を聞き逃さなかった。

「既にご報告は受けてらっしゃるんでしょう?」

真司は例のプロジェクトの名前を告げた。

「ああ、少し大変みたいだねぇ」

真司は日向の瞳を見据え身を乗り出して言った。

「単刀直入に言います。
 一体、何があるんですか」

日向はしばらく真司の顔を見つめながら、思案していたがやがて諦めたよう
な口調で話し始めた。

「無理があるのは承知している。
 実際、この案件での損益は赤で構わんと思っている。
 だがな、あのグループの仕事に食い込むには少々の事には目をつぶる必要
 があるんだ」

それは、確かに現在でも隠然として残る財閥系列のことを指している。それ
は表面的には現れないものの、実際それら企業グループが見かけの資本関係
以上に密接な連携を取っている事は周知の事実だった。
日向は続けた。

「面白いことに、あのグループは情報系にきわめて弱い。その点では他の大
 手優良企業と同様の立場だ。古くからの企業グループだけに構成メンバ企業
 は古い業種のものばかりだ」

「とはいえ、系列のソフトウェアや受託計算センタなどは存在していますよ。
 それにアメリカのM社とは実質的には提携関係にある」

日向は、このグループ内から安定的に仕事を取れるようになることを狙ってい
る。それは多くのソフトハウスが既に試み失敗してきている。グループ内調達
の伝統の前には、外様企業は極めて『公平に』扱われるものだ。
だが日向はそれを狙う、と言う。
「そのとおりだ。だが、どう見ても、親会社からの仕事をかつかつでこなすよ
うな弱小企業と、グループ統制に従う気の全く無い、優良企業と、ではやはり
本来の必要な技術力は得られんのだよ。
もちろん、○○商事や、△△銀行のような中核企業への食い込みは、幾らやっ
ても安定的な取引先にはならんだろう。そのクラスから信頼を得るにはわれわ
れは小さすぎる」

「・・・・・・・」

「だがな、この王国にも中小の構成メンバが居る。そして競争関係の中で最早
 グループ内企業の手持ちの中では必要な技術は調達しえなくなってるんだ。
 そこが狙い目な訳だ」

真司は多少鼻白んだ。その程度の分析なら誰でも行く。問題は例えそうだとし
ても、その市場での受注競争に勝つ公式を誰も見出し得ていない事だ。
いや、特定企業グループの下位企業など、『市場』として見做し得るようなも
のではない。

「狙い目は結構ですが、当社の体力や競合先の動きから見て勝算はあるとお考
 えですか」

日向は真司の問いにクスッと笑った。

「無けりゃ、やらないよ」

真司はその笑顔に不吉なものを感じた。日向は絵空事のような夢を現実のもの
と思いこむ傾向がある。もし、そうであるのなら、真司たち古参の連中にとっ
て扱いやすい。だが今の日向の笑みにはそんな脆弱な背景から出ているとは思
えない。

「日向さん、
 営三で取ってきている仕事の全てで支払いサイトが伸びているのも、その為
 ですか?」

「ああ」

日向は事も無げに答える。
営業第三部が取ってくる仕事は、売上高の25%を占めており、ここでの未収
金が嵩むとなると、資金繰りへの影響は無視できない。
その上、メンテナンス契約などの固定的収入が得られる案件を蹴ってまで、回
収期間の長い新規開発案件を受託している事を考えると、実際の影響はこれか
ら更に大きくなってくるだろう。
その辺は既に織り込み済みなのだろうか?。だが少なくとも真司が知る限り年
度予算ベースでの見積もりにはそうした要素は無かった筈だ。

「資金繰りではかなりの影響が出ようかと・・・」

その言葉に日向の顔が険しくなる。

「そんなことは君が心配する問題じゃない」

 そう言うと日向は立ちあがり真司には目もくれず、窓際まで歩く。
 日差しはすっかり傾いている。虚無的な空間の色。
巨大な空虚の下に広がる建物は黒い骸のようだ。
社長室はこの光景を見下ろしている。

「この程度はね、社長権限の範囲だよ。
 実際、中川どもぼんくらに会社なんか任せた日にゃ目もあてられんぞ」

中川は銀行から送り込まれた役員の一人だった。

「では、この件は役員会では・・・」

「社長権限の範囲だ、と言った筈だ。
 銀行屋は裏で金の勘定でもしてくれてりゃいい。
 これは俺達の仕事だ。
 そうだろ?」

これ以上は真司が口を挟める余地は無かった。
危うい。
設立当時も綱渡りの毎日だった。だが、今の日向の危うさは、それとは
別のものだ。堕ちるなら、後に残されるのは醜悪な茶番だけの危うさ。
『俺達の仕事』?。だがもう疾うに、この言葉が意味するものは形ばか
りになっていたではないか。

「わかりました。
 いずれにせよ、私の方としては、何とか形がつくところまで持ってい
 く様にやらせてもらうしかありません」

『で、どうする?』
日向の眼はそう訊いていた。

「これ以上工期は延ばすわけに行きませんからね。
 仕様変更に関しては、一旦凍結して先に進ませる様にします」

暫く日向は黙っていた。じっと真司の顔を、何かを思い出そうとするかの
ように見詰めていた。

「やるべきことをやってくれればそれでいい」

真司は立ちあがり黙礼すると社長室を出た。




***



『単なる人繰り会社じゃないことが出来る筈だ』
熱っぽく語る男の眼鏡の奥の瞳には嘘は無かった。




***

『では、辞めるのかい』

電話の向こうの声は悲しげだった。

『ごめん、馨。
 だけど、もう決めたんだ』

『確かに酷い話だとは思うけれど・・・』

『馨、君だってあれだけの目にあってるのに』

『・・・僕には出来ないよ』

『そうだったね。
 玲も居るから・・・・』

『・・・・それは君も同じ筈だろう』

『あ、そうだね』

明日香が?。だが何を心配する必要がある?。

『でも、大丈夫だよ。
 日向さん、やり手だし。
 そこそこのメンバーも手当てが付いてるからね。
 路頭に迷うことにはならないさ。
 それにね、僕は楽しみなんだ。
 自分で選んだことだから』

『そうかい・・・・
 それなら仕方が無いね。
 頑張ってくれ』

『ああ、ありがとう』

真司は、馨の返事を待たずに電話を切った。
偽りの理由?。そんなにすっきりとしたものなら、どれだけ楽
な事か。
日向のビジョンに心酔したから、というのも嘘ではなかったし、
今の会社にすっかり愛想が尽きたというのも本当の事だった。
だが、玲と結婚するという馨から逃れたかった、という気持ち
が結局のところ真司に決断を促したのだ、と。

*****

社長室から帰る廊下を歩きながら、結局、あの時の決心が茶番の
ように見えてならなかった。
下らない。
実に下らない。
たかだか、社長の意を汲んでの無理な成約と、でたらめなプロジ
ェクト管理の組み合せの結果があちこちに転がっているだけの事だ。
だが、これがそれだけでは済まず、結局は社内の権力抗争の材料
となる運命にある事を真司は暗澹たる思いで認めざるを得なかった。






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