―「こおろぎ」外伝―
by しのぱ
ずっと感じていた。
鈍い痛み。
それはいつも付き纏い決して離れる事は無い。
その痛みに倦んだとて、
為す術は何も無く、
ただ、疲れがまた沈殿してゆくばかり。
教室の中は、時折生徒達が身動きする際の衣擦れ、机や椅子や床の小さな軋みの音の他には、黒板をチョークがこする音だけが聞こえていた。
三人の生徒が黒板に課された問題の解答を書いている。
黙々と書き上げて行く生真面目そうな女子生徒、少し書いては困惑した顔で考え、また書き始める小太りの男子生徒、にやにやしながら、時折、後ろを向いて友人にこっそりアドバイスをもらいながら書いているちょっと軽めな感じのする男子生徒。
「ちょっと、そこっ!。全く聞くなとは言わないけど、ちょっとは自分で考えなさい!」
黙認しても別に構わないとは思っていたけれど、教師を目の前に白昼強盗みたいな舐めたマネはされたくないので、一応は咎めておく。注意された男子生徒は、観念したように目を瞑り長考に入った。
美里は苦笑する。仕方が無い、他の二人が終わったら、途中でも席に返そう。
どうせ、解については一つづつ解説するつもりでいたのだ。この場でとっちめてもどうせ出来はしまい。
美里は、振り返ってクラスの他の生徒達を見渡す。
下を向いて教科書を見ている者、自分で他の問題を解いている者、ぼーっと前の三人の様子を眺めている者、板書された答えをノートに書き写している者、机の上に臥しあっさり夢の世界に旅立ってしまった者・・・・。
「くぉ〜らぁ!」
美里は、手にした教科書を丸めて筒状にして、寝ていた生徒の頭を叩く。
「うわぁっ!」
叩かれた男子生徒が飛び上がらんばかりに驚き、慌てて周囲を見まわす。
「こら、トウジ!!
さすがにあたしも目の前で爆睡されて、にこにこしてられるほどお人よしじゃないぞ!」
「・・・・あ、美里せんせ・・・すんまへんなぁ」
ようやく眼がさめた男子生徒が頭を掻きながら言う。クラスの中が少しだけ和む。
この生徒の人柄のせいなのかもしれない。どこか憎めない性格の子である。
美里は前の三人の様子を見、二人が既に書き終えていることを確認すると、お手上げになってしまった最後の一人にも席に戻るように促し、それから解の説明を始めた。
・・・・何の因果か、あたしが中学校の数学の教師とはねぇ・・・・・・・
似合わないことこの上ない、とは思うものの、自分に似合う商売を他には思いつけない。
こうして教壇の上から生徒達を見ていると『何を考えているんだろう』と思ってしまう。
一応、ほとんど生徒は真面目に黒板の前に立つ美里を見つめているけれど、その眼は半ば死んでいる。
そんな目を見ると、自分がやっていることは結局何なのか分からなくなる。
教室に押し込め縛り付けて教えていること。その愚を衝くことは幾らでも出来る。
一方で知識を授け、人生の先輩として教導することを顕彰する言説にも事欠かない。だが・・・・。
・・・・疲れてしまうのよね・・・・・・
そんなことが問題なのではない。
いま、ここで、自分がなしていること。
そして今、ここで彼らがなしていること。
その間にあるべき繋がりや流れ、その総体が美里には時々皆目分からなくなってしまう。
何もかもちぐはぐでばらばら。
とはいえ、美里には自分の感じていることを正確に言い当てる術もなく、ただ日常のその時を右往左往しながら過ごすばかりなのである。
そうして捉えられぬ感情が、形をなさぬ想いが少しづつ沈殿していく。
生徒達の顔を眺め渡して感じる疲れにも似たもの、それは実のところ、そのようにして自分自身の身に積もったものなのかもしれない。
チャイムが鳴る。
実際に生徒達が騒ぎだす訳ではないのだが、不思議なことにその瞬間から教室の中の空気がざわめき始めるのだ。
そんな空気を感じると美里も苦笑し、話を止めるしかなくなる。
「はい、じゃ今日はここまで。今日のところはテストに出るわよ。」
え〜っとうめく生徒達。
美里はにっこりと微笑んでみせ、そして言った。
「その代わり今日は宿題は無し。さ来週には中間だから、しっかりね」
「起立!
礼!」
律儀に委員長の号令のもとに礼がなされ、そして美里よりも早く男子生徒が教室を飛び出して行く。
美里が生徒達をかわいいと思うのは実はこの瞬間なのである。
生きている。
緊張から開放された瞬間、生き物はその生き生きとした動きを取り戻す。
それは目の前を走り抜けていった野生動物の煌きのようなものだ。
子供達の、その意図しない生き物本来の生気が表れ見える瞬間。
教室の中で美里だけが見ることの出来る美しい瞬間。
・・・・・・だが、それはどこへ行ってしまうのだろうか。
職員室に戻ると二年の学年主任の時田が待ち構えていた。
「葛城さん、あなたのクラスの進路志望調査票、集まってますか?」
「あ、はい、でも確か来週の月曜までにって・・・」
「葛城さん・・・」
葛城はこの時田という男がどことなく苦手である。
どんな些細な欠点も、この男に懸かれば、たちまち人品を決する致命的な傷にと仕立てあげられてしまう。
大きな額の前に垂れ下がったウェーブの懸かった髪、その下に顎のとがった妙に鋭角的な顔。
肌がぬめぬめと爬虫類的なところが美里に生理的嫌悪感を催すのだが、さらにいけないのは、その執念深そうな瞳である。
その瞳は今葛城を舐めまわすように眺めている。
「いいですか?。
まだ集まっていないのはあなたのクラスだけ。
他のクラスはもう昨日までに集まっています」
「あ、そうですか、み、みなさん、凄いですねぇ〜」
「それが当たり前です。
早い時期からの適切な進路指導がその後の進学に大きな影響を持っていることは葛城先生も良くご存知かと思いますがね。
その大切な進路指導の為にも時間を無駄にすることの無い様、一つお願い致します」
口調・言葉遣いは嫌味なまでに落ち着いて丁寧である。
それが時田の怒りの表現なのだ、と美里は見ていた。
時田は攻撃的になればなるほど、馬鹿げて丁寧な言葉遣いと落ち着いた物言いをするようになるのだ。
「いいですね」
だめを押すように言った後、立ち去ろうとする時田に向かって美里は声をかける。
「あのぉ〜」
「まだ、何か?」
「進路指導調査票ってやっぱり職員会議で皆で議論します?」
「はい、確か先週月曜の朝の職員会議でもその点についてはご説明してあったか、と思いますが」
「そ、そでしたっけ?」
生憎と先週月曜の朝は、美里は遅刻していたので出席していない。
「でも、調査票はいわば教師を信頼して出してもらってる訳ですしぃ」
「それで?」
「ですから、それを他の先生方が見るのはちょっとまずいんじゃ・・・」
「議論することで、より良い結果を生み出すことになるのに?」
「はぁ」
「甘いですな、葛城先生は」
一言うと時田はきびすを返し立ち去った。
・・・・むかむかするっ・・・・・・
時田と話すと必ずこうだ。不快な気分にさせる点において確かに時田は卓越したところがある。
それにしても・・・と美里は思うのだった。
進路指導とは、なんとも・・・。
先程の生徒達の生き生きとした姿を思い出すにつけ、この厄介な代物に途方に暮れる思いがする。
「進路」という言葉は、生徒達のあの姿とはなんとそぐわないことか。
その「進路」選択の果てが例えば時田であり、美里であるのだとしたら。
腰に心地よいけだるさが残る。
加持の裸の腕の頬を乗せて美里は、彼の胸が呼吸に上下するのをしばらく眺めていた。
「・・・・で、葛城せんせとしては何がご不満な訳ですかな」
「いきなり、その話?。ムードないわね」
汗が冷えてきて肌寒い。
美里は足許の毛布を引き上げると加持に寄り添う。目の前に加持の首と、不精髭のまばらに生えた顎がある。
「まぁ、長い付合いなんで、その辺は許してもらうとして・・・・」
美里は加持が言葉を継ぐのを待っていたが、痺れを切らして身を起こし顔を伺う。
「寝てたわけじゃないのね」
「寝ませんて」
「そう」
それから美里は加持の肩に口付けると物憂げに視線をさまよわせていた。
「葛城が答えるんじゃないのか?」
「どうして?」
「俺は何がご不満なのかって訊いたよ」
・・・・そう言えばそうだ。
美里は答える代わりに先程から気になっている加持の顎の不精髭の一本を抜く。
「い、痛いなぁ」
「あんた、髭がまばらにしか生えないんじゃ、まめに剃ったほうがいいわよ。
なんか汚らしいもん」
「あれっ。今頃そういうこといいますか?」
「言われない?。そんな髭生やしてて」
「俺の職場じゃそんなことを言う人間なんて一人もいないよ」
美里は加持の胸に手を伸ばす。手のひらに心臓の鼓動を感じたかったからだ。
・・・・なんでかなぁ・・・・・・
美里はぐずぐずとためらいながら答えるのを引き伸ばしていた。
・・・・なぁ〜んかど〜でもいいことのように思えてきたな・・・・
「あ〜あ」
美里は寝返って仰向けになる。
「この天井・・・・」
「なんだい?」
「この天井見るとなんかほっとする」
「そう?。俺んちの天井誉めてくれるのは葛城だけだよ」
「普通、天井なんて見ないでしょ
・・・・あんた、まさか、かわいいお姉さん達に天井鑑賞させてんじゃないでしょうね?」
「おいおい・・・俺も命が惜しいんでね」
ほっとするのは加持が帰ってきたという実感がするからだ。
加持は、仕事がら、ふいっと居なくなり数ヶ月会えないことが良くあるのだ。
「あんたが帰ってきたって実感するからかなぁ」
そういって美里はちらっと加持の顔を伺う。
「・・・」
加持は表情を少しも変えないまま、黙って仰向いている。かすかに微笑んでいるようにも見えるけれど、目は笑っていない。
「こら、なんとか言えよ!」
そういって美里は加持の足を蹴飛ばす。
「乱暴だなぁ」
加持は苦笑すると美里にすり寄り、足を絡めてくる。
美里の太腿に加持の性器が押し付けられるのが感じられるが、わざとなにも気が付かない振りをする。すると、加持は腕枕をしていない方の手で美里の乳房を下から掬い上げるようにして掴んだ。先程まで昂ぶっていた性感の残り火が刺激されたのか乳首の先から股間まで細い電気の流れのような疼きが走る。加持は相変わらず微笑んでいるともいないとも付かぬ曖昧な表情で美里の顔色をうかがっているが、その眼は先程とは異なり明らかに美里の表情の変化を見つけようとしている目だ。太腿に押し付けられた加持の陰茎は、再び硬くなっていた。
美里はそれを拒むように加持に背を向けるが、かえって後ろから抱きすくめられ、両の手で乳房を愛撫される格好となってしまった。美里は自分が既に濡れているのを感じていた。
***
「まったく・・・あんたとまともに話なんかしようと思ったあたしがバカだったわね」
行為の余韻から強引に醒めようと美里は吐き棄てるように言った。
相変わらず後ろから抱きすくめられている。
その心地よさにさらに三度目の行為を期待している自分がいた。このまま後ろ抱きに愛撫されて、後ろから・・・・
「そうかい?でも俺はいつでも真面目な話ができるよ」
「あんたね・・・」
といいながら美里は腕を後ろに回し、加持の性器を掴む。
「これが全ての真面目な話を台無しにしてんのよ!」
「こら、止めろよ」
少しきつく握ったのでさすがに痛かったらしい。だが、握られて半立ちの状態になっているのに気づくと美里は手を引っ込める。
「答えたくないのは葛城の方だろ」
そういうと加持は美里の耳朶をかるく噛む。
「・・・そうね」
美里はそういうとじっと部屋の隅の暗闇を目を凝らして見つめた。自分の心の底を覗き込むかのように。
「こんなとこ、あたしの生徒達が見たらどう思うかしらね」
「自堕落だと?」
「・・・・どうだろ。今時、結婚しない男女関係なんて珍しくないでしょうけど・・・」
「じゃ・・・どう思うんだい?」
「・・・・・不潔・・・・かな」
といいながら美里は違うと思っていた。
「そう?。性に対する潔癖症?。性についての過大な幻想とか?」
そう訊ねながらも加持は一方の手で美里の乳房を揉みしだき、もう一方の手で美里の秘所に指を這わせる。
美里の尻に押し付けられていた性器が再び硬く大きくなっている。
「違うわ・・・・多分・・・結局、こんな風になっちゃうのかなぁ・・・て。
多分そんな感じかなぁ」
努めて美里は加持の愛撫を気に留めないようにしながら答える。
「ふ〜ん?」
「やっぱり・・・・・・幻滅ってことなんでしょうね」
「『僕の美里せんせいがあんなことするなんて』ってやつかい?」
「割と古典的な構図ね・・・・・それ・・・・・っ・・・」
美里は、体が反応して思わず声をもらしそうになる。
「そうか、俺結構好きなんだ、そういうの」
「・・・・そう・・・・・残念ね、それとは・・・・・別だと思う・・・・」
美里の息が荒くなってきている。
「なるほどね」
「・・・分かったの?」
「い〜や」
「何それ・・・・あっ・・・・はぅ・・」
「俺は分かりたくないねぇ」
そう言うと加持は姿勢を変え、後ろから挿入した。
「そんなに嫌なら止めちまえばいいのに」
ベッドに仰向けになった裸の男は、毛布を剥ぎ取られた状態のまま、腕を枕に天井をぼんやりとみつめ、服を着ようとする気配すらない。
朝陽が、カーテンを浸透して室内をみたしている。
それははっきりとした方向も、いたずらな強さもない、きわめて曖昧な光だ。
美里は、ベッドに腰掛け、ブラのホックを止めながら、男の方をちらと見る。
俺の知ったことじゃない、と言わんばかりの表情に苛立ちを憶え、舌打ちする。
「随分、簡単に言ってくれるじゃないよ」
「じゃ、続ければ?」
「ふんっ。あんたに話したのが間違いだったわ」
というと美里はジーンズを引き上げながら立ち上がる。
「いつも、アレの後で愚痴を言うのは葛城の方なんだからさ」
その言葉に美里は、頭に血が上りかける、が、ぐっと堪えた。まるでそれでは愚痴を聞いて欲しくて体を差し出しているようではないか・・・。
加持は、相変わらず裸のまま、美里が身繕いをする様をながめている。
既に服は着終わった美里は洗面所に飛び込む。
「あ〜ん、髪が・・、ったく、あんたのところって女連れ込むんだったら、もう少しなんか無いのぉ?」
「女って、葛城先生以外のお方は泊めませんて。・・・・そうそう、朝飯食う?」
美里が洗面所から首を出す。
「あら、珍しいこと言うわね?作ってくれんの?」
「いいや・・・・もし食べるんなら俺のも作って・・」
「・・・バカッ」
洗面所からタオルが飛んできて力無くベッドの前に落ちた。
***
「あんたねぇ・・・いい加減にパンツくらい履いてよ!」
化粧も終え、戦闘準備が完全に整った美里が、ベッドの足元側に仁王立ちで言う。
仰向けの裸の男は、大の字に寝たまま、首だけ少し起こして美里の顔をぼんやりと眺めやる。股間の陰茎は、そっけなくうなだれている。それだけでも美里は少しバカにされたように感じる。
「いいんだ、今日は何もないから。それより時間は大丈夫?」
いいご身分だわね、と思いながらも美里は腕時計を見る。
「あ、ちょっちヤバめ」
確かにこれでは、校門に駆け込むことは必至だった。一矢報いてやる暇も無い。
「じゃね」
美里はそういうと、いきなりベッドの上の加持に飛びつき、その股間に顔を埋め、陰茎を口に含む。そして軽く噛みながら上目遣いに加持の顔を見てにやりと笑って見せる。
「ば、ばか、何すんだよ」
「はん、この次は本当に食いちぎってやるからね」
そういうが早いか、美里は身を翻し、玄関から飛び出して行った。
***
今日も良い天気だ。
とは言っても、もう一ケ月も雨は一滴も降っていない。この暑さも手伝って、もう太陽にはうんざりなのだ。どうせ、来月当たりになると、今年も水源地の水位は云々で、取水制限とかになるに違いない。シャワー派の美里にとっては辛いことこの上も無い。そう思うと結局今朝も時間がないまま朝、シャワーを浴び損ねたことが悔まれて来る。さすがに男と寝た翌朝、そのままの体で生徒達に顔を会わせるのは気が引けるものがある。
そんなことを考えつつ早足で坂を登る。学校まではだらだらとしたこの坂を登りきる必要があるのだ。こんな暑い日にはすっかり汗まみれになって到着と言うことになる。
以前は車で出勤していた。しかし遅刻間際に飛び込んでくる車が危険だというPTAからのクレーム他により、現在校長から禁止されている。
早足の美里と一緒に生徒たちがやはり早足で歩いていく。この時間だともう遅刻寸前組だ。
生徒たちからの挨拶に答えながら、今日もテンションの上がらない自分に美里は苛立つ。
気が付けば、こんなことの繰り返しで、もう七年もやっている。
鐘が鳴っている。
「やっばー、まじ、やばいわよ」
と傍からもはっきり聞こえる独り言をいいながら美里はダッシュをかける。
そして生徒指導の当番の教師が呆れて見ているのを尻目に全速力で校門を潜り抜ける。
***
「美里先生、また遅刻ですか」
早足で職員室に向かう美里にすれ違いざまに声をかけた男子生徒。
声変わり直前の声で少々力の抜けた話し方をする。さらさらの直毛、色白で女性的な面立ち、華奢でなで肩の体型。碇真司という生徒。微かにシャンプーの匂いして、美里は自分の体の匂いが気になってしまう。男と寝た体。真司を前に、自分の穢れを強く感じている。
「まだ、よ!」
美里は、そう言ってウィンクした。
・・・かっわいいわよねぇ。シンちゃんって・・・・・おっと、あたしやばいこと考えてるなぁ・・・・
変わり者の多い美里のクラスの中で、真司もある意味目立つ少年だった。もっとも目立つ理由は彼の周囲にいるもののせいなのだが。
まず、真司の幼馴染で真司の保護者あるいは所有者として振舞っている惣流明日香。それに去年転校してから妙に真司に執着している少年、渚馨。かたや明日香は才気煥発で身勝手全開、かたや馨は、最早変態すれすれの気障男である。
どちらも単独で校内の注目を集めている生徒である。この二人が真司を挟んで睨み合っている。
真司にも魅力的な面はあるものの、本来はそう目立つタイプではないのだが、結果的には、明日香と馨とのセットで目立ってしまっているのである。
そしてどうも自分が注目されていることに気づいていないのか、無頓着である。明日香に言わせれば「鈍感だから」ということになるけれど、美里には好感が持てた。
しかし、美里が真司を気にかけている理由はそんなことからだけではない。
真司に接していると、どうしても彼が、他の人との間に壁を一枚隔てて対しているように感じられる。美里にはそれがもどかしい。その壁の奥にある何かを明かして欲しい、と感じてしまう。
真司のそうした性格と相俟って、更に彼の家庭事情の複雑さから美里は真司を常に気にかけるようになっていた。
叔父夫婦(実際には遠縁の親戚という事で叔父でもなんでもないのだが)に幼い頃から引き取られて育ったという点に、美里はかつての自分をどうしても重ねて見てしまう。
いや、どうも真司を同じ境遇で育った弟のように感じているらしい。
だからもし彼が心を明かしてくれれば何か手助けが出来る、そう思っていた。
***
一時間目は自分の担任クラスでの数学の授業だった。いつもと同じ授業。けれど、なにか歯ごたえの無い時間。授業の終わりに一言。さすがに時田にああ言われたのでは、HRまで待っているわけにも行くまい。
「あ、そうそう、みんな進路指導調査票、提出してね。
洞木さん、今日までに集まってる分、後で職員室に持ってきてくれる?」
「はい、分かりました」
進路指導調査票の回収を一生徒に任せるのは、問題ではあるけれど、美里よりも学級委員長の洞木のほうが生徒からも他の教師からも信頼されているので、このクラスのみ例外的に多くの庶務事項を洞木が仕切っている。お陰で天性のずぼらの美里も楽を出来ているのである。
***
放課後、職員室に戻った美里は、椅子の背もたれに寄りかかりだらりと腕を下げたまま、天井を仰ぐ。妙にやる気のおきない気分が疲労を増幅している。目を瞑るとそのまま寝入ってしまいそうだ。
「先生・・・・・」
後ろから遠慮勝ちの声がかかる、が美里は億劫で応えない。
「・・・・・・・・・」
「先生」
さっきよりもややはっきりとした声の調子に漸く美里も振り返る。洞木だ。
「ああ、洞木さん、ごめん」
「お疲れみたいですね」
「な〜んかね・・」
・・・・生徒に同情されるようじゃ駄目だな・・・・・
美里は苦笑しながら姿勢を起こし洞木に向かい合う。
「進路指導調査票持ってきてくれたのね。ありがとう」
そう言いながら美里は紙の束を洞木から受け取る。
「で、どう?。全員集まった?」
「・・・・それが・・・」
「まだ出してない子がいるのね」
「はい」
「しょうがないわね、誰?。沢山居るの?」
「いえ、一人です」
そう言うと洞木は居心地悪そうに俯く。
「洞木さんが責任感じることじゃないわ。あたしからはっきり言うから教えて。誰が未だ出してないの?」
「碇君・・・です」
「・・・・だけ?」
「そう・・・です」
「あらぁ・・珍しい」
美里のリアクションに洞木は少し表情を緩ませる。
「そうですよね。碇君ってこういうこと几帳面にする人だったから・・・」
「分かったわ。あたしからシンちゃんに言いましょ。どうもありがとね」
「はい」
礼を言われると洞木は嬉しそうお辞儀をして職員室を出ていった。
「さて・・と、これからこいつをデータ入力せにゃならんのかぁ・・・苦手だなぁ」
一応、集計や、その後の生徒指導・フォローの情報管理のため、各担任教師は集めた調査票のデータをパソコン上に作ってあるデータベースに各自入力することになっている。美里は、キーボードアレルギーは無いものの、データ入力となると、とたんに苦手意識が首を擡げてくる。
少々の誤字脱字でも意味さえ通じていればそれなりに読める通常の文書と異なり、データ入力となると『正確に』データを入力する必要があるのが美里にはつらいところである。
かといって、データ入力まで生徒達にやらせるのは、殊、進路志望調査票に関してはまずいので、自力で打たなければならない。
結局その日は回収した調査票の整理及びデータ入力で五時半まで学校に残ることになってしまった。
***
校門を出る。
西の空は夕焼けも最早消えかかり、徐々に夜の色が天球を染め始めている。
「あ、あ〜疲れたぁ」
美里は伸びをする。
校門を出たところでこんなことをする意味は無いのだが、美里の癖のようなものだ。
とりわけ、今日のような日は実感が篭ろうというものだ。
「美里先生、さようならぁ」
部活帰りの何人かの生徒が美里の横を通りがけに挨拶して行く。
「美里先生、さよなら」
ちょっと生彩を欠く声で通りすぎようとしていたのは碇真司である。
自分の身長ほどもあるチェロのケースをストラップで肩にかけ、とぼとぼ歩いてくる。
「あらぁ・・シンちゃん・・・・・・なんか疲れてるわねぇ」
「そんなことないです」
真司は、うるさそうに否定する。明るく否定して見せられないあたりが、子供である。
「途中までいっしょに帰ろっか」
怪訝そうに見上げる真司。
・・・・なんかヘンなこと言ったかな?
・・・・確かに、ヘンといえばヘンだ。『ショコタン趣味の女性教師が教え子を誘惑』。
・・・・う〜ん・・・・・
「なに悩んでるですか、先生」
いつのまにか、美里は自分の思考にはまり込んでいた。気が付くと真司の視線が冷たい。
「えっ・・・べっつにぃ〜」
「そうですか・・・」
真司は興味無さそうに視線をそらすと、また歩き始めた。
「いっしょに帰る・・・んじゃなかったんですか?」
真司は振り返りもせず言う。これは明らかに話をしても良いというサインだ。
「ええ、じゃ行きましょうか」
真司は、美里の返事を聞くよりもはやく、歩き始めていた。
***
「どうして、何時もそんな重たいの持って歩くわけぇ?」
「家でも練習しますから」
「ふ〜ん。シンちゃん、音楽は好き?」
真司は美里の質問に意外だ、という顔をした。
「好き・・・ですか?」
「うん、好きなんでしょ、そんなに練習するってことは」
「そんなんじゃありません・・・・・・ただ・・・なんとなく続けてるだけです。
好きなんてもんじゃない」
と真司は答え顔を伏せた。
「でも、楽しいんじゃないの?」
「楽しいなんて・・・・・・いつも、うまくいかないことばかりで・・・
練習サボると、後にもっと惨めになるから・・・怖いんです。
怖いから止められないだけなんです」
「そう・・・・」
それは贅沢な悩みだ、と美里は思ったが敢えて口にはしなかった。そうして、暫く二人は黙って歩きつづけていた。
「美里先生は・・・・僕に聞かないんですか」
「何を?」
「進路指導調査票出さなかったことです」
「ああ、そのこと」
何でもない、という風に美里は笑って見せた。
「まだ、締切りじゃないわ。だって今週一杯って言ってあったでしょ?」
「・・・・・今週一杯でも出せるかどうか・・・・・・」
「あらぁ、そんなに深刻に考えなくてもいいわよぉ、今はまだ。なんとなく、いいな、くらいのものでも構わないしぃ」
「別に深刻に考えてる訳じゃありません」
なんとも埒があかない答え。
真司が背負っているチェロのケースが美里にはますます重そうに見えてきていた。
「なにか悩みがあるの?」
美里は思い切って単刀直入に切り出してみた。
「悩みなんて・・・」
自嘲するような嫌らしい笑みが真司の顔に浮かぶ。
「シンちゃん」
美里は真司の前に回ると真司の両肩を押さえ、真司の瞳を見つめながら言う。
「いいかげんにしないと、先生怒るわよ。
さっきから、そうやってぐずぐず言ってるけど、シンちゃんから話さなければ何も変わらないわ。
答えたくないなら、悩みを一生自分の中に抱えて隠していきなさい!。でも、いい?。
一言でも漏らせば、それはシンちゃんだけじゃない、あたし達の問題でもあるの。分かる?」
「僕はそんなこと頼んでない!」
強い調子で拒絶する真司。
「ほら、そうやってすぐ逃げる」
「!」
真司は顔をそむけ、唇を噛み締めている。
・・・・まずったなぁ。
子供相手にムキになって、却って態度を硬化させてしまった。この子の心の扉をどうやって開けば良いのか美里は途方に暮れる。
「ごめんなさい、強く言いすぎたわね。でも、これだけは言っておくわ。
あたしの身勝手かもしれないけれど、あたしは一人で苦しんでいる人を放っておける程、強くは無いわ・・・」
・・・・・・・かって、同じように真司を相手に説得しようと、いや、なんとか心の通い合うことを求めて向かい合っていたことがあった。突然蘇って来る既視感。それとともに、今回も本当に彼に伝えるべきメッセージを自分が口にしていないことを思い知らされる。
・・・・・・・逃げているのは私だ・・・・・・・・・・
その奇妙な二重化した現実の感覚は一瞬にして過ぎ去る。そうして一瞬前に感じた感慨が何を意味しているのかが、美里には分からなくなる。ただ微かな罪悪感のみが染みのように残っているばかり。
「僕には・・・分かりません」
そういうと真司は美里の手をふりほどき、重そうなチェロケースを背負ったまま、走り去った。
美里は追いかける気にはなれなかった。
・・・・・会いたいよぉ・・・・・・・・
自分の中に泣きじゃくる少女が居る。救いが永遠に来ない苦しみがあることを知って嘆く少女が。それ以外の救いを拒否して、ただ嘆くことの中に依怙地になった救いしか見出せない、既に生の半ばを憤りと共に捨て去る決心すらなしてしまった少女が。
・・・・・あたしは・・・・絶望したままだ・・・・・
寂しさ。永遠に癒されることは無いということに深く傷つく魂もある。それに向かい合うことの無いまま一生を送れるなら・・・いや、知ってしまった今となっては、この絶望すら心地良いものに感じられる。
***
久しぶりに美里は自分の部屋に帰っていた。
加持は仕事で外泊。何時帰るかはっきりしない。いつもふらっと居なくなり、そしてふらっと戻ってくる。
一人暮しには聊か贅沢な3LDKのマンション。給与の大きなウェイトをここの家賃が占めるにも関わらず、美里は加持が仕事で居ない時以外はいつも加持のアパートに転がり込んでいた。
そのお陰でか、このマンションには生活感が無い。家具も必要最小限のものしかなく、寝室に使っている一室と、ダインニングキッチン以外は殆ど殺風景な空き部屋のまま放置されている。寝室もベッドと机・椅子、そしてファンシーケース一つ。後は引越しの際の段ボール箱が、収納の為にそのまま使われている有様だ。
恐らく学校での美里しか知らぬ者が、この部屋の有様を見たとしたら、美里の心の内の意外な闇を見たかのように感じるだろう。それほどまでに、寒々しい部屋である。
それでも美里はこのマンションを手放そうとも、あるいはどこかもっと安い部屋に移ろうともしなかった。家族を収めることの出来る空き部屋を維持しつづけること。そうして、それは何故か、加持ではないことも美里はわかっていた。
誰かを待っているのとは少し違っている。誰かが既にそこを予約している、という漠然とした感覚。そうして未だに会ったことの無い何者かを既に失っている。
自分のそうした感情を、美里は敢えて分析にして見る気にはなれなかった。確かに狂気に近いものがあると思う。とはいえ、随分と前から身に染み付いたこの感覚を病気とは思いたくはなかった。それに、一度は狂ったことのある身だ。いま、この程度で済んでいるなら上出来だと言える。
***
八歳の時、父は死んだ。
死の直前の父の憤怒と狂気に駆られた顔。その直後に父は死んだ。なぜ彼が怒りにかられていたのか、美里には全く理解できなかった。それから美里の記憶はいきなり十五歳に連結する。その間、確かに美里は死んでいたのだ。今の葛城美里という人格は八歳から十五歳の間の記憶を持たない人格なのである。今では真相を知ってはいる。だがそれを知って何になるというのだろうか?。父が殺されたことを知ったとき、母も居なくなっていた。父は家の中で焼死体で発見された。焼き殺したのは母だった。すぐにあっけなく逮捕。だがそれは同時に美里の人格の消滅をも意味していた。
家族。
美里にとってそれは手痛い裏切りの象徴。
だが同時に渇望する対象。
***
もう、何本目のビールだろうか。部屋の隅に積み上げられた無数の空き缶から、饐えたアルコールの匂いがする。酔いの回った頭は重く、けれども中々眠りは訪れない。既に午前二時を回ったところだ。時計の音。寝静まった空気のしんとした気配。一人世界に取り残されている。
蛍光灯は煌煌と点いていた。一人の時はいつもこうだ。
・・・・会いたいよぉ・・・・・・・・
思い返してみれば、十九の時、加持とめぐり逢って以来、いつも一緒だった。一人で眠るのがこれからは、一生続くのだとしたら、多分気が狂う。これほどまでに彼に依存し切っている自分を嘗て怖いと思っていたこともある。だが何時しか抗い得ないことだと思い、気にもしなくなった。いや、思い出さないように押し込めているだけ。
欺瞞。
だが、それを不安に思わせないだけのものが加持にあるのだ、とすればここでも自分は何と恵まれているのだろう、と思わざるを得ない。まるで人生の早い時期の不幸を償うかのように。
ただ気が付かない振りをしている。本当はこの幸運はもっと手酷い裏切りの為に用意されているのかもしれない、ということを。
午前三時。
漸く酔いが思考を続けることを許さなくなってきた。
眠りというには余りに混濁した意識の澱の中に美里はゆっくりと落ちていった。
***
「うわっ。美里、ひっどい顔!」
不躾な言葉を投げかけたのは惣流明日香だ。学校内で美里を呼び捨てにする唯一の生徒。
「おっきな声出さないでよ、頭痛いんだからぁ」
さすがに少々二日酔い気味である。
「やれやれ、一人暮しのオールドミスが生活乱れると情けないもんねぇ。
ちょっとぉ、お酒くさいわよ」
通学の生徒達が健康過ぎる足取りで横を通り過ぎていく。明日香は美里に歩調を合わせ、横に並んで歩いていた。
「あら、そお」
・・・・・やべ・・吐きそう・・・・・・
本当にむかついて来ている。すっぱいものがこみ上げてくるのを思わず堪える。
「美里・・・・・顔色悪いよ。ちょっとそこの公園で休んでいけば?」
「・・・いいわよ、別に」
といいながら美里も、これは保ちそうに無いと思い始めていた。それにしても自分の不甲斐無さに腹が立つ。
結局、美里はそのまま道を折れ、公園のベンチに腰を下ろした。
胃が引きつるような感覚。
慌てて、ベンチ脇のごみ箱に駆け寄り嘔吐する。
もっとも昨夜、食事をしていないので殆ど固形物は出ない。
「大丈夫?」
明日香が背中をさすってくれる。
「・・・ごめんねぇ、明日香・・・・」
「もう、どっちが教師なんだか。大体ねぇ、生徒に二日酔いの介抱されるなんて信じらんな〜い」
「・・・ふっ、ここにいるじゃないよぉ。自分の眼で見たものは信じなさいよぉ」
「なに訳わかんない事言ってんのよ」
明日香に介抱されて、美里はベンチに腰を下ろす。
不思議と明日香には罵倒されようが、世話を焼かれようが安心していられる。まるで口煩い妹のようだ。確かにこれでは教師失格なのだが、なんとなく美里は明日香に寄りかかっても良いように思えてしまう。最初に会ったときからそうだった。まるで何年も前から、こうした互いの役回りを受け入れているかのように。
暫く呆然と座っていると、
「はい、これ」
明日香がスポーツ飲料の缶を差し出す。
「・・・・いらない、まっじぃ〜から」
「み〜さ〜と〜、あんたねぇ、このあたしがわざわざ買ってきたんだからねぇ!」
声が頭蓋骨の中でがんがんと響く。奥歯までなんとなく痛み出してきた。
「・・・おっきな声やめてって言ってるでしょう」
自分の声すら痛みを増す。美里は目に涙をためて差し出された缶をしぶしぶ受け取った。それを見て明日香が笑い出す。美里は恨めしそうに明日香を睨んだが、抗弁しなかった。
確かに冷たいスポーツ飲料はさわやかな喉越しと共に、内臓を静めてくれるように感じられた。
「どう?。今日は休んだら?」
「嫌。行く」
「あのねぇ、子供じゃないんだから、無理しないで休みなさいよ、そんなんじゃ授業できないでしょ?」
そう言いながらも明日香は美里の背をさすってくれていた。美里はため息をつく。
「はぁ〜、あったしって教師失格よねぇ」
「・・・・そうでもないわよ」
「?」
「反面教師だって立派な教師だもん」
「あんたねぇ〜」
「だって美里が言ったんだよ、自分が教師失格だって」
「気にしてんのよ」
「いいことじゃない?。自覚ないよりよっぽどマシよ」
「慰められても嬉しくない」
・・・・・明日香ありがと・・・・・・・
***
「もう完璧に遅刻ね」
明日香が呟く。
「ごめんね、明日香」
「どうする?、行く?」
「行くしかないでしょ」
美里は立ちあがる。大分楽になった。吐いたのが良かったのかもしれない。
「そう、美里がそう言うなら行こ」
明日香も立ちあがる。
二人並んで歩きながら、明日香が尋ねた。
「なんか気になることでもあるの?、美里」
・・・・そうか、明日香ならなにか知ってるかも・・・・
「ねぇ、シンちゃん何かあったの?」
明日香の表情が暗くなる。
「あいつ・・・・最近何考えてるかわかんない」
「明日香・・・・」
そこで美里は先日真司と一緒に帰った日のことを話した。
「そう・・・そんなことがあったの・・」
明日香はそれ以上言葉を続けようとせず、俯いたまま歩いている。校門が見えてきた。
「・・・・もう前みたいにはなれないのかなぁ」
明日香がふっと独り言のように呟いた。
父の目には狂気の色が浮かんでいた。
『おまえも、俺を裏切ってたんだな!』
恐怖で竦む足。何かを言おうとして喉の奥がひりつくような痛みを感じる。
仁王立ちにになった父の握り締めた拳が震えている。その背後で誰かが動く気配がする。
きな臭い匂いが立ち込め、父の背後から炎が見え始める。
『このガキがぁ!』
父の手が胸元を掴み、そのまま体を持ち上げる。
掴まれた衣服が引きつって脇を圧迫し、次第に首筋から腕にかけてしびれてくるが、それよりも眼前に迫る父の眼の恐ろしさに美里は声が出せない。
不意に上下の感覚が無くなり、ふっと浮いたかと思うと、激しい打撃が頭部から背中にかけて襲い、最早方向感覚がごちゃごちゃになりながら手と言わず腕と言わず頭と言わず痛みが立て続けに襲ってくる。
やがて一切の動きが止まったとき、美里は冷たい地面の上にうつぶせで倒れており、見上げたその先には炎に包まれつつある家。
美里はどうやら、窓から庭に放り出されたらしい。
縁側のガラスが割れ、美里の周囲に破片が散乱している。
夜空に火の粉が舞いあがり、物の燃える音、爆ぜる音にまぎれて近隣の家々から人々が集まってくるざわめきが聞こえてくる。
炎の渦巻く室内に父らしき人影がこちらを向いて胡座している。
それは炎に巻かれ影になってはいたのだが、美里には確かに父がこちらを睨んでいるのが見えたと思った。
***
四時間目の授業を終え席に戻ると、机の上に一枚の紙が置かれていた。
「あ、葛城先生、それさっきおたくのクラスの碇って生徒が持ってきたんですよ。机に置いとく様に言ったんで」
隣席の教師が早々と弁当を広げながら言う。
「あ、すいません」
進路志望調査票であるのは確かだ。真司が一体どういう気持ちでこれを持ってきたのか気に懸かる所ではあるが、取り敢えずのところ、これでクラス全員が提出し終えた訳でひとまずはほっとした、というところだ。
だが、調査票を見て美里は愕然とした。確かに、この時期である以上、建前としては何を書かれても構わない筈ではあるのだが。
『卒業後の進路:就職』
それが本人の本当の希望であるとは美里には、どうしても思えなかった。確かに事情のある家庭環境とは言え、進学が許されない事情がある訳でもなく、成績も比較的優秀、これまでの真司を見る限り他の多くの生徒と同様に高校進学を選ぶものと美里は思っていた。
とはいえ、先日のやり取りを思い出すと、正直なところをそうやすやす話してくれそうにも思えない。
「葛城先生、どうしましたか」
と背後から声がかかる。今一番声をかけて欲しくない人物だ。
「あ、いえ・・」
といいながら、真司の調査票を何気ない風を装いながら机の上に伏せて置こうとした。
「葛城先生のクラスは、それで最後ですよねぇ、調査票。ご苦労様です。これで来週検討会が実施出来ますね」
言葉遣いは丁寧ながらどこか強要するような調子が含まれているのが美里には嫌らしく感じられる。
「あのぉ、それって三者面談終わってからの方が良くないですか」
時田は哀れむような目付きで美里を見下ろし言った。
「その三者面談で適切な指導を行うための会議だって言ってるじゃないですか」
「いや、そうなんですけど・・・・・・・・・・
そのぉ・・・・本人達の意思も確認してみないことにはですねぇ・・・・・・」
時田の表情は次第に無表情に近いものになって来た。
「全く、いつもながら葛城先生は甘いですな!。
未熟な生徒の意思を、なんで確認する必要あるんですか。ここに書かれているだけで十分です!。
後は、こちらが導けば良いだけですよ」
「はぁ」
どうせ、このまま話を続けても互いに不快になるだけだ、と美里は引き下がることにした。
***
その日は雑用で遅くなってしまった。
人気の減った職員室で帰り支度をしていると、教室の方から楽器の音が聞こえてくる。
音楽部が練習しているのだ。美里はなんとなく練習を見に行きたくなった。
***
聞こえてくる音を頼りに、校舎内を見て回る。そして三階の一室に練習している真司達を見つけた。練習していたのは二人。真司と渚馨だけだ。
机を脇にずらし、教室の真中にスペースをとって、そこに真司と馨は互いに向き合うように椅子を並べ、弾いている。それは何と言う曲なのか美里は知らなかった。
夕陽の色が室内を浸し、そこで二人の少年がそれぞれヴァイオリンとチェロを向かい合って奏でている。音は茜色の光と溶け合って室内を満たし、時間の流れを支配していた。そして時折、二人の視線が交錯しあい、時にはうなづき、時には微笑む。
傾いた陽射しを背景に二人の輪郭が輝く。それは、どこかの宗教画で見た楽器を奏でる天使像のようでもあり、しかし一方では何かしら不穏なもの、淫靡なものをも感じさせる。
美里は教室の戸口に立ち尽くして音楽の、いや、その光景の力に囚われていた。
その時、馨が美里の存在に気づいて演奏を止め、振り返る。それにやや遅れ真司も弓を置き、顔を上げた。
美里は拍手してから言う。
「素敵だわ。先生関心しちゃった」
だが、その拍手はむなしく教室の中を落下して行った。二人の少年は何も言わず美里を見詰めている。
「ごめんなさいね、邪魔しちゃったかしら」
「いいえ」
馨は無愛想に答えると、もう美里のことは忘れたかのように演奏を再開しようとする。
だが真司は難詰する調子で美里に訊ねた。
「僕に用事なんでしょ」
「あ、その・・・まぁ、そうね」
「何ですか」
「うん、そう・・・・でもいいわ、大した用じゃないし」
「そうですか、じゃあ」
真司はそう言うと美里には目も呉れず、再び演奏を始めた。
その取り付く島も無い態度に美里は何も言うことは出来ない。と同時に真司の、あくまで美里を拒もうとする頑なな態度に傷付いていた。
***
校門のところで待っていたのは明日香だった。
「美里・・・・」
暗い面持ちの明日香。
「あら、そう言えば明日香も音楽部だったんでしょ?。いいの?」
「別に・・・関係ないでしょ、そんなこと」
「ふ〜ん、ま、いいわ。で、どうしたの、こんなところで?」
だが、明日香は俯いたまま黙っている。いや、その姿はむしろ怒りを押さえているようにさえ見える。
「ねぇ、明日香」
「あいつ・・・・あいつ進路どうするって?」
「はぁ?」
明日香は顔を上げ、きっとなって美里を睨みつける。そして苦しそうに言葉を継いだ。
「真司よ。進路志望調査出したんでしょう?、あいつ」
言い終わるとこれ以上の屈辱は無いといわんばかりに顔を背けた。
「明日香・・・・」
「・・・・・」
「教えられないのよ」
「どうしてよ!」
「お願い、分かるでしょう?。
そんな、プライベートなこと一々私がばらしてたら、みんなの信頼裏切ることになるでしょ」
「真司だったら、別にあたしが知っても問題は無いと思うわ」
「本当?。シンちゃんがそれを望むかどうか聞いたの?。
それにシンちゃんが良いと思うかどうかの問題じゃないのよ。これは」
「・・・・・分かってるわよ・・・そんなこと・・・」
「・・・ごめんなさいね」
明日香は顔を美里から背け歩き始めた。
美里もそれに付き添うように歩く。
「あたしね。・・・・パパに、アメリカの高校に行けって言われてるの」
明日香の父親は世界的に高名な数学者で確かドイツ系だと聞いていた。母親は既に亡くなっており、多忙な父に代わり長年、家政婦が明日香の面倒を見ているのだという。
確かに娘のことを思えば、そういう選択肢も当然あり得るだろう。だが明日香が提出した調査票には、第一志望として壱校が挙げられていた。
「それもチャンスじゃない?。明日香は行きたくないの?」
「そうよねぇ。もう、それでもいいかな、って。
最初は日本の高校に行きたかったんだけどね。なんか、どうでも良くなってきちゃった」
明日香は、最後の一文をまるで自分に言い聞かせるように言う。
「それはどうして?」
「さぁ・・・・・・。どうしてだったのかなぁ?」
「シンちゃんが居るから?」
真司のことを持ち出すと、明日香はびくっと体を竦ませる。
「あ、あ〜んなやつ、全然、関係無いわよ!」
だが、言葉とは裏腹に明日香の表情は寂しげだった。
・・・・あたし、一体何してるんだろうなぁ
今日も加持は帰ってこない。
ぽっかりと空いた穴が生活の中に居座っている。中心を欠いた形骸だけが日々を転がしている。
真司のこと、明日香のこと。そして他の大勢の生徒のこと。何一つ自分には出来ていない。余りにも無為無策に自分で呆れている。けれど、一体何を言えるというのだろうか?
真司と向き合ったとき、自分には何も無いことを思い知らされる。
空っぽなのだ。
空っぽの大人がもし言えることがあるとすれば、それは・・・・・
***
「いや、今回はえらい心配お掛けしてしまったようで・・・。
まさか、真司君がそこまで気を使ってくれてたなんて私も全然気が付かなくて。いや昨日、真司君から聞いてびっくりした次第で」
「じゃあ、進路のことについては・・」
「はい、もちろん高校進学させます。別に何にも遠慮することないですしね。経済的にも大丈夫ですしね」
にこやかに語るこの男が、真司を引き取っている叔父で本間という。人懐こそうな笑顔だが、どこか卑屈さを感じさせる。
まぁ、どこにでも居るタイプとは言え、美里は、あまり好感が持てなかった。その横に先程から能面のような笑顔で、生気無く座っている女性が真司の叔母である。
開口一番に、本間が語ったところによれば、真司との続柄は正確には叔父ではない、遠縁の親戚ということになる。実は、その口振りも美里には気に食わなかった。本来筋ではないところを押して「かわいそうな真司君を引き取っている篤実な男」であることを、真司本人を目の前にして強調して憚らない神経が嫌らしい。その真司は本間の隣で俯いたまま、無表情な顔で座っている。
進路志望調査に基づいての三者面談は未だ先の予定だったのだが、今日は本間夫妻が突然学校に訪問してきたのである。どうやら提出した進路志望調査票について真司から聞いて慌てて飛んできたらしい。
「なぁ、真司君。進学するだろ?。気を使ってもらって有難いけど、まだ叔父さんも元気だし、心配することはないんだよ」
本間夫妻は真司が何故就職希望としたかについての理由をどうしても、真司が自分達夫婦への負担を心配してのこと、だと解釈したがっていた。
「はい。叔父さんにそう言って頂けるなら喜んで」
真司は機械的に返事をする。
本間の叔母もにこやかな微笑みで真司を眺める、が、その余りにも作為的な笑みが美里には気に入らない。その表情の下に相反するものを隠していると感じる。
「真司君、いいのね?」
「はい、ご心配おかけ致しました」
美里の呼びかけに、真司は顔をあげることなく答える。またしても壁。その壁の表面は冷たく、どこかねじくれささくれだっている。真司が答える様を見ていた美里は、ふと、真司に注がれている本間夫妻の目が冷たく鋭いものであることに気づく。まるで、看守が囚人の脱走を見張るかのような目。
「そうだよ。真司君、君自身本当は高校へ行きたかったんだよね」
その本間の言葉には、強要するような調子があった。
「はい」
と答える真司。
・・・・これじゃ埒あかないわぁ・・・・・・
「すみません、暫く真司君一人と話してみたいんですけど、よろしいですか?」
美里がこう話を切り出したとき、突然本間夫妻の顔色が変わった。
「いや、先生、もう真司君も高校行くって言ってますしね、これ以上、話し合いは必要ないでしょう」
「いえ、でも私は担任としてゆっくり生徒と話してみたいんです」
「ですが・・・・」
「お二人ともお帰りください」
美里の強い口調に本間夫妻は仕方なく、生徒指導室から出ていった。
***
叔父夫婦にあんなことを言ったものの、これから自分がどうしようとしているのか、良く分からない。
進路指導。本人の要望を聞くのが建前で、『生徒の人格』を尊重するかのようだ。が、指導すると銘打つ以上は、そこに『指導されねばならない未熟者』、つまり人格以前のものを想定している事になる。ここにも学校特有の欺瞞の影が見え隠れしている。
真司は、さっきと全く同じ姿勢を変えなかった。
「さ、どういうことなのか説明して」
「いいんです、美里先生。僕、高校行きますから。だからもうご心配頂く必要は全くありません」
「どうして高校行くの?」
「・・・・・どうでも・・・いいでしょ、そんなこと」
「えっ」
真司は美里の顔も見ずに立ちあがった。
「真司君?」
「もう行きます」
結局聞き出そうとすると、すぐこの調子なのだ。
「待ちなさい!」
「・・・・」
美里に呼びとめられて真司はそのままの向きで足を止める。
「悔しいんでしょう?」
「・・・そんなことは・・」
こうなれば、押し切って喋ってしまうしかない。
「あなたが教えてくれない以上、私も詮索はしない。
でも今日のあなたを見ていれば、悔しいと思ってることぐらい分かるわ」
「別に悔しいことなんかありませんよ。第一、本気で就職しようなんて最初から考えてなかったし・・・」
「そうね。就職なんてどっちでも良かったんでしょう?。
叔父さんが考えてもいないような事を書くということ自体に意味があっただけね」
「・・・・・・」
「残念ね。そんなことしても、何の効果も無かった。違う?」
「・・・・・・」
「ごまかしても駄目。
悔しいんなら悔しいって自分の気持ち認めなさい。
そうしてしっかり覚えておきなさい」
漸く真司は美里の方を振り返った。
「そんなことして何の意味があるんです?」
「それなら、そういうあなたのやった事に何の意味があったの?」
「・・・・・・」
暫く真司は美里の顔から何かを探り出そうとするかのように見詰めていた。
「僕のは、最初から大して意味は無かったから。まさかこんな大騒ぎになると思ってなかったから・・・・」
「そう・・・・・」
美里は嘆息した。この子はずっとこうして来たのだろう、あの叔父夫婦の下で。ここで何を言っても、そう、幾らでも綺麗事を並べることは出来るだろうが、そうしたところで、真司もまた綺麗事の応酬か沈黙で答えるだけのことだ。本当に欲しいのは、真司自身の意志の現れなのだが。
「わかったわ。もう帰ってもいいわよ」
真司が黙って出て行った後のドアを美里は忌々しげに見詰めていた。
帰ってきた加持は疲れ切っていた。
フリーのカメラマン、とは聞こえがいいが所詮は安いギャラで骨身を削って駆けずり回らされる消耗品でしかない。それでも、いつか自分の追い求めているテーマの企画を実現するチャンスを掴むことを夢見、彼らはその貴重な時間をすり減らしていくのだ。
美里の作った食事もそこそこに加持はベッドに倒れ込んだまま、電池の切れた人形のように眠りに落ちた。
叩いても擽っても目覚めない加持を苦労して美里は下着まで着替えさせた。
久しぶりなのに言葉を殆ど交わすことが出来なかったのは残念だが、こうして加持を世話していると、彼を所有している、という満足感のようなものを感じる。
パジャマ姿の加持をベッドに横たえ、毛布をかける。それから暫く加持の寝顔を眺めていた。
いつも加持はどんな仕事だったのか話してくれたことはない。
美里も加持が言おうとしない以上、聞こうとは思わない。
だからいつも、美里の愚痴ばかりが二人の会話になってしまう。
一方的に甘えている関係。そのことが美里を怯えさせる。
時計を見る。午後八時。まだ早い。
だが、美里は服を脱いで下着だけになると、加持の横にもぐり込んだ。
規則正しい寝息に上下する胸板に顔をうずめる。心臓の鼓動を数えるでもなく一つづつ追っていく。
・・・・このようにして、この人の時間が過ぎていくのだわ・・・
鼓動は、時の経過を刻み、そして加持の生を刻んで行く。その鼓動に寄り添ってこれまでの美里の時間も流れたのだった。だとすればこの鼓動の先に目を凝らせば二人の将来の姿も見えてくるような気がしていた。この音に聞き入ってる限り、それは今の幸せな時間の延長として素直に立ち現れてくる筈だった。そこには何の不安も惧れももなく、暖かな時間だけが約束されているように・・・。何の根拠もない夢想に過ぎないけれども、美里はしばしその幻想を信じようとしていた。
そうしていつか美里も眠りに落ちていった。
***
ふと、股間に異物感がして眼が醒める、と同時に下着をたくし上げられた胸を後ろから柔らかく掴まれた。既にパンティは膝のあたりまで下ろされていて、後ろから抱きすくめられている。膣口をこじ開けるようにしてペニスが押し付けられており、微かな痛みが走る。
「・・・ちょっとぉ・・」
すると美里のうなじに唇の押し付けられる感触。
胸と首筋の愛撫にすぐに濡れてきてしまう、と同時に膣口の抵抗感が消え、ぬるっとペニスが侵入した。尻から背中にかけて、加持の胸部から腹部までの筋肉の動きを感じる。
・・・・・・・おかえり・・・・・・・
ようやく、加持が帰ってきたという実感に浸るまもなく、美里は突き上げる加持の動きに喘ぎ声を上げていた。
***
一体何なのか。
充足と渇望、そして狂おしい恐怖。この繰り返し。自分の根本的欠陥を補完するもの。それはただ一人の人間なのだ。それがどれほど頼りない状態か、について美里は見まいとし続ける。美里の人生において、加持はデウス・エクス・マキナであり続けている。これまでのところは。
心のどこかに責めつづける声がする。微かに、だが。美里は、加持を知っているのだろうか?。
彼女が彼女で居られる鍵。だが、その鍵自身がどんな人物なのかを美里は本当に理解出来ているのだろうか?。二人が初めて会って以来、多くの問いが美里の口から発せられぬまま、ずっと来ている。その付合いのまま、中途半端な男と女の関係が続いているのに、美里は加持の肉親に会ったことは一度もない。加持から家族の話を聞いたことすらない。ただ出会った男と女のまま十年を過ごしている。だから美里も自分の両親の話をしたことは一度も、無い。
***
あれから何度も愛し合ったまま、朝を迎えていた。殆ど眠れていないのに、気分は高揚している。だが、何故、と問われて答えることはかなわないだろう。
またしても遅刻寸前に職員室に飛び込む。時田が嫌な顔をしているが、構わない。荷物を置くとすぐに授業に行ってしまう。
***
これではまともな仕事とは言えない、と美里は感じながらも、上滑りするハイテンションのまま授業を続けていた。淀み無く講義は進み、てきぱきと課題も割り振って進んでいく教室には無駄は無い。だが自分が普段よりも生徒達を見ていないことを心のどこかで感じている。生徒達の表情・思いがどうでもよくなっている。
それは虐殺にも似ている。
快速に進む大きな乗り物が路傍の小動物達を轢き殺して行くように、生徒達の一人一人の顔を最早省みない美里の授業の進行の中で、生徒達の心の何かがちょっとだけ傷つく。それがありありと生徒達の表情に表れている。
板書をしながら、内股をすっと一筋伝うものを感じて美里は我に帰った。加持のものが流れ出ている。子供達の前で。それが、ゆっくりと太腿の奥から一筋に伝い落ちて来て、膝裏まで差し掛かった時、堪え切れず、美里は
「ごめん!。自習にして」
と言い教室を飛び出す。
涙が止めど無く溢れ出ていた。
頬が熱くなっている。
惨めで情けなく、どうしたらよいか分からない程に哀しくなった。
***
「あたしって最低ね」
泣き腫らした瞼で、美里は呟く。
あのまま学校は早退した。また時田にねちねちと言われるのだろうが、それも至極当然のことだと思われた。
加持の部屋。
だが加持は居なかった。仕事で出かけたわけではないらしい。撮影機材はそのままだ。
不思議な空白の時間。
太陽は中天にかかり、勤めや学校に人々は出払って、このアパートには恐らく殆ど人は残ってはいないだろう。
またしても美里だけが世界に取り残されたかのように。
それは甘美な空想だった。
全てから切り離され、永遠の正午に生きられるとしたら・・・それこそが渇望するものの全てなのだろうか。
その光景の魅力に美里は意識が薄れそうになる。
玄関の扉が開く音がしてこの部屋の住人が帰ってきた。
「あれぇ?。どうしたの?」
「いい加減、会ってあげなさいよ」
電話の向こうの難詰するような調子が美里の癇に障る。
「会う理由なんかないわ」
感情が凍りついたような声。
「でもあなたのお母さんなのよ」
「父さんの仇よ」
「美里!いい加減にしなさい!
気持ちはわからないじゃないけど、それでもあなたのたった一人の肉親なのよ」
「どうして・・・」
「美里?」
「どうしておばさんは許せるの!?。おばさんのお兄さんを殺した人なのよ!」
父の妹にあたる敏子からの電話である。
刑に服していた母は昨年肺炎に罹って以来、すっかり体が弱り終に警察病院に移されたとの事。
既に母方の親戚の殆どが亡くなってしまって、今では敏子だけが母に面会に行っている。
「そうね。確かに今でも憎んでいるわ」
「それじゃ・・・」
「でもね、彼女も被害者の一人なのよ」
「そんな、それはおかしいわ。
あの人が父さんを殺したのは結局、あの人の弱さのせいよ。
それが被害者なんて、あたし絶対に認めない」
「あなた、一度も会ってないんでしょう、あれから」
「どうして会う必要があるの?」
「・・・・何にも知らないくせに」
「知って、あの人の罪が軽減されるようなことなんてある?
絶対に無いわ。父さんを殺したことが許される理由なんて・・・・」
「ああそう!。全く頑固なところはあなたのお父さんそっくりだわ。
でもね、もう一度言っておくけど、あなたのお母さんはもってあと3ケ月だってね。
今会わなければ一生後悔するわよ」
そう言うと敏子は美里の返事も待たずに電話を切ってしまった。
***
「誰から?。仕事?」
玄関口で携帯電話での通話を済ませ美里がリビングに戻ると、加持は、だらしなく横たわったまま、テレビを見ていた。
「ううん、仕事じゃないわ」
美里は黙って加持の傍らに座りこむ。
「そうか」
テレビの番組はニュースから天気予報、そしてバラエティ番組にと変わって行った。
・・・・あの女が後三ケ月の命。
・・・・なんだか、拍子抜けしてしまう。何だったのかな。あれ。
・・・・私の人生を狂わせてしまった人。今また勝手に病気で余命が無いなんて。
「あのさ・・・」
と加持が横たわったまま話し始める。
「なぁに」
「今回の仕事な」
「あら、珍しい」
「ちょっとやばいとこなんだ」
「ってどこよ?」
加持は中央アジアのある国の名を挙げた。
「それって今・・・」
「そう。内戦中」
「な、なんで・・・何時?」
「明日夕方の飛行機で出発でね」
「そんな・・・」
「実はさ、この前も、そこ行ってきたんだ」
「えっ、そんなの聞いてない」
そう言えば確かに前回は、加持は異常に疲れて帰ってきた。
「うん、とんぼ返りだったからね。で、今度はちょっと長期滞在になると言うわけ」
「・・・・長期ってどのくらい?」
「さぁ?。最低でも二ケ月って聞いてるからねぇ」
「・・・・そう・・・加持そういうのやりたがってたもんね」
「まあな」
美里の中に不安が募ってくる。だが、辛うじてその不安を押し殺し明るく言った。
「よかったね」
***
「さて、と以上ですが、如何ですか、皆さん」
時田が満足そうに出席者達に言った。
各クラスから提出された調査票はものの見事に換骨奪胎されてしまっていた。
時田のやったことは、結局、学区内の高校を私立も含め合格偏差値帯によってランク付け、そこに生徒達を成績順に割り振ったものに過ぎない。
生徒達が書いた志望は単に同一ランクの学校内での割り振り基準に用いられただけである。
多少ボーダーラインの者も居ないではないが、そこは指導と本人の努力で克服させろ、というものである。
皆、出席している教員等は一様に押し黙ったままだ。
一体、何を言い得よう。
進路指導とは、結局のところ、こういう事でしかないのだから。
「あとは良く皆さん生徒達の成績をフォローしながらご指導よろしくお願いします」
会議は終わった。
結局これが進路指導会議と言う訳だ。
これの一体どこに『議論することで、より良い結果を生み出すことになる』余地があるのだろうか。
美里は嘆息して、席を立った。
パイプ椅子と折りたたみの机がだらしなく、四角く並べられた職員会議室を見渡す。
このなんともみすぼらしい、居るものを惨めにするような調度も、それなりに用途にマッチしていると言えよう。
・・・・どうせこんなものよねぇ。
疲れがまた一層深く感じられる。というよりもそれは美里の身体を縦横無尽に這い回り縛り上げる蔦のようなものに変わりつつある。最早、いかなる休息によっても取り去ることが出来ないほどに。
「こんなもん、なんすかねぇ」
美里に声をかけてきたのは、青葉だ。
青葉繁。漫画の登場人物のような名前をしているが、本人は随分気にしているようだ。美里より二歳年下で、やや皮肉っぽい面もあるが温厚な性格、如才の無い物言いの出来る男で、音楽の教師だ。担任を持つのは今年が初めてである。中学校の教師にも関わらず長髪で通しているが、それが許されるのも本人の人柄である。
「ま、ね」
「もっと、なんて言うか、進路志望調査するってのは、こう生徒に自分の進路を書かせることで自覚を促すことだって思ってたんすけどねぇ」
「うん、まぁそれもあるわね。でもね・・・・高校受験ってなにかなって思うとね」
「葛城先生・・・」
「だってね、高校って言ってもね、どこがどうってことないもの・・・あの高校、この高校・・・大した差なんて無いわ・・・」
「そうっすよね、なんか最近の学校って無個性って言うか・・・」
「そう?。前からそうじゃない?。結局、どこ行っても大差無いし、生徒だってどこ行っていいかわかんないし、それを成績順に整理してるだけよ」
・・・・・あたし嫌味なこと言ってる・・・・・・・
自分の中に鬱屈した悪意を青葉に振り向けている。
「進路・・・・・嫌な言葉よね。たかがどこの高校行くかだけで進路なんて、バカ言うんじゃないわよ」
青葉が困惑しているのは分かっていたが、今の美里はどうしても全ての毒を吐き出さなければ気が済まなかった。
「中学校、高校・・・・ここの中で起こることなんてホントはどうでもいいの。
ただ、ここを通過しないと損するぞって事だけ・・・・。
青葉君、おかしいと思わない?。
学校って・・・実は学校の方には何の目的も無いのよ。
通過するかしないかのゲートを提供してるに過ぎなくて、それでも教育だとか、指導だとかもっともらしい理屈くっつけて・・・。
生徒だって勉強しに来てるんじゃないもの・・・。
ただ、居るの。
ただ居なくちゃいけないから居るの。
他にしようがないから居るの・・・」
「そうですよ」
いつのまにか、時田が立っていた。
「主任・・・・、あ、あのですね、今のは・・・」
青葉が慌てて取り繕おうとする。
「いいのよ。青葉君」
「ええ、構いませんよ。葛城先生、青葉先生」
「主任」
青葉は時田の落ち着き払った態度に驚いている。
美里は、突然理解した。
時田はそんな事はとっくに承知なのだ、と。
「何かご用ですか」
「いえ、葛城先生のご意見が面白いな、と思いましてね。同感だ、と私も思うもんですからね」
「なら・・・何故」
何故?。美里は何故と発しながら、何故という意味すら見失いかけている気がしてならなかった。
「さあ?。
でも、この制度が既に機能不全を起こしつつも、ますます不可欠の要素となりつつある、というのは確かだ、と思いますよ。
押し込められて、ただ役に立つかどうかも分からない授業を聞かされる。
ただ教室という曖昧な空間に一緒に居るだけのクラスという人間関係を強いられる。
けれど、彼等自身、その曖昧な人間関係が無ければ、何者であることも許されない存在なのにね。
勉強しなければ立派な社会人になれないと脅されながら、その実、ではその社会人たるや、今一つどういうものかさっぱりイメージが無い。
身近に目にするものはと言えば・・・・」
そこで時田はくすりと笑った。
「でも、ね。この社会には子供達に他に行き場なんてないんですよ」
「そうして、選別の為の通過ゲート機能は必要とされ続けていると」
「ええ。
まぁ実際のところ、通過ゲートが以前持っていたオーラが消えうせても、通過ゲートの選別そしてその評価による権威のヒエラルキーの機能は未だ健在、というところですかね。
だからこそ、我々は成績優秀なるアウトプットを作ることが要求されている、という訳ですね」
「時田先生は、それだけが残された唯一の・・・・教師としての『業務』だ、と仰りたい・・・」
時田はにやりと笑った。
「さぁ、中々デリケートな問題ですね」
「じゃあ!・・」
美里は何も反論できるとは思わなかった。
だが、今、ここで言うことだけが、時田を蝕んでいるものから自分の身を引き剥がす最後の手段だと思った。
「じゃあ・・・そのシステムの中で居る子供達の心のことをどう考えるんですか!。彼等は・・・・」
「彼等もまた適合していかざるを得ない。それは彼等の問題でしょう」
「それでは・・・教師はそういった個々の人間の問題について関わるべきではない、と・・・」
「まぁ、本来の意味での『教育』が我々の職業であるんなら、関わるべきなんでしょうけどねぇ」
「ひ、酷い・・」
「そうですか?。
ですがもう既に事態はそこまで病んでいるのだ、と私は思います。
そう。
システムの犠牲者への同情すら偽善、欺瞞でしかなくなるほどに」
「そ、そんな・・・」
「例えば、そう、先生のクラスの碇くんでしたか?。
お家の方とちょっと問題があって進学ということに対して、抵抗感があるという。
その子がですね、受験勉強に倦んでしまったとき、貴方はどういう風に指導されるおつもりでしたか?」
「くっ・・・」
「頑張れ、ですか?。
受験するということが何であるか分かっているのに?。
いえ、それが間違ってるとは思いませんよ。
ですがそれには常に偽善が含まれるのです。
常に、ね。
もう私達はあの悪とこの悪のどちらを選択するしか残されていない・・・そう思うことはありませんか?」
「・・・・・・」
「葛城先生・・・」
呆然としていた青葉は漸く美里に声をかけた。
「失礼します」
美里はそういって走り去るのが精一杯だった。
時田が堕ちているのなら、既に自分も同様に堕ちているのだ。それはずっと前からそうだったのだ、と。
ドラマチックな変化など何も無い。
相変わらず数日に一度くらいの頻度で、眠れない夜がやってくる。
どうしようもなく一人でいるのが恐ろしい夜が。
そして加持は一ヶ月前に便りを寄越したきり、なんの音沙汰もない。
***
その後、真司はソツなく毎日を過ごしている。
明日香は取り敢えず父親を説得し日本の高校に行く事を納得させたらしい。
明日香と真司とがどうなっているのかは分からない。
音楽部は一緒にやっているようだが、真司はいつも馨と帰っているようだ。
毎日の授業も滞り無く、幸運にも世間で話題になっている授業崩壊だとか登校拒否だとか、いじめだとかの問題に悩まされることも無い。
季節は漸く冬の気配が忍び寄ってきている。
***
どうにかやっている。
だが、美里は教師としての情熱が全て枯渇してしまったことをはっきりと意識していた。
***
最後に来た加持の手紙には現地で撮ったらしい、埃まみれの、それでも満面の笑みを浮かべた二人の子供の写真が入っていた。瞳の輝きが美しい。肩を組み、ふざけあっているのだろうか、屈託の無い笑い声が今にも聞こえてきそうな写真だった。
『こっちは相変わらず酷いもんだ。
ただ、生きていること、それだけのことが全ての価値なんだ。
だから、こんな顔にも巡り会うことが出来る』
・・・・ただ、生きている・・か。
***
その日は氷雨の降る寒い日だった。
敏子にさんざん迫られその日、母と面会することになっていたのだ。
もう何も考えないことにした。
そう、ただ処理すべき案件の一つに過ぎないのだ、と。
それで敏子の顔が立てられるなら、何もしないよりマシなのだ。
***
病床の母を見たとき、美里は自分の眼を疑った。
母はこんなにも小さな女だったのか、と。
頬はこけ、肌は乾燥して生気が無い。
腕も最小限の筋肉しか残って居ず、入ってきた美里に対して腕を差し伸べるのもようやっとの有様だった。
落ち窪んだ目は濁っていた。
もぐもぐと口を動かして何かを言おうとしているのだが、既に声を出すに足る息を吐く事も叶わぬようだ。
美里はどうしても自分から声をかける気にはなれなかった。
それどころか、自分がどんな表情をすればよいのかも分からない。
ただ唖然として母の顔を見詰めているだけだった。
「姉さん、美里が来ましたよ」
敏子叔母が、枕もとに腰を屈めてささやく。
すると母は少し嬉しそうな顔をし、かすかにうなずいているようだった。
やがて、美里を見詰める目から涙が一筋、二筋と溢れた。
そうしてただ口をぐっと噤んで美里をじっと見詰めている。
美里を見詰めながら母は涙を次から次へと流し続けていた。
***
面会は終わった。
なにも変わらない。
結局、美里は母に何も問い質すことは出来なかった。
眼前に居たのは、老いて弱り切った老婆だった。
父を惨殺した冷酷非情な女はどこにも居ない。
ただ不幸な時の経過の果ての惨めな体が置かれていたに過ぎない。
和解することも出来ず、理解することも出来ず、さりとて見放すことも出来ぬ、宙ぶらりんの状態のまま。
というよりも、そうであることを確認したという事だけが積み重なったものでしかない。
母と、彼女を通じて死んでしまった父とに相変わらず美里は縛られたままだ。
それが彼等の子供として生まれた、ということの全てだった。
冬の雨上がりなので晴れ間が見えてきたとは言え寒さも厳しい。
美里はコートの襟を立て、手に息を吹きかける。
「やぁ・・」
「加持、いつ帰ってきたの!。それに・・・なんでこんなところに?」
刑務所の門を出たところに一台の車が止まっており、その運転席のドアに凭れかかって加持が立っていた。
「じゃ、帰ろうか」
「・・・・あんた、ひょっとして・・・」
「ああ。ずっと前から知ってる」
「ずっと前って・・・いつ?」
「付き合い始めた頃くらいかな」
驚くと同時にどこか安堵している自分がいる。
「な・・・なんでそれなのに・・・」
「美里は美里・・・・だからね」
「ば、ばかなやぁつぅ」
「そうかな」
そういいながら加持は助手席のドアを開け、美里に乗るように促す。
「そうよ。ばかよ」
美里は目頭が熱くなってくるのに気づいて、涙をこらえようとしていた。
声が上ずるのを押さえようとすると、ますます上ずりそうだ。
「そうかな」
美里がシートに座ると加持は助手席のドアを閉め、それから車を回り込んで運転席に着く。
「取り敢えず、だ」
車を発進させながら、加持は言った。
「これからもよろしく頼むよ」
「やなこった」
そう言いながらも美里は自分の頬を涙が伝うのを止めることはできなかった。
Fin
これは昨年(1998)の冬コミ用(「らぶらぶアスカ 前夜祭」)に書いた原稿に加筆・修正したものです。
冬コミ版については、何かと納得の行かない面もあり、何とか訂正したいと願い続けて、漸く今回の投稿となった次第です。
本来、本編の続きを書かねばならぬのに、外伝などと御顰蹙の向きもおありでしょうが、その続きに難渋している故の外伝というのが正直な所です。
でも、ほんと連載の方をなんとかせねば。
教訓:「プロットできた」が「出来た」じゃない
*もっとも、この次は神話の方の外伝(実は続きがでかくなり過ぎて分解作業中)になりそうですが。
P.S.
「らぶらぶアスカ 前夜祭」のコメントにも書きましたが、生徒達の前で加持のものが・・・のシチュエーションは、私の独創ではなく、以前読んだ小説にあったものを借りたに過ぎません。しかし、未だにその小説がなんだったか思い出せないのです。どなたかご存知の方、ご教示いただければ幸いです。