写真

―「こおろぎ」外伝―

by しのぱ


その日は久しぶりの雨だった。

大学時代からの友人、SとN、Sの友人のT、同じくSの友人でその日初対面だったYと、それに僕が、その美術館に飛び込んだ時には、もう既に午後3時を回っていた。
その日まで毎日、炎暑続きだったのが打って変わって朝からの雨。とは言えさすがに夏の雨のため、大気は湿気を含んで厚ぼったく肌にまとわりついて気持ちが悪い。
美術館に飛び込んだ時、ひんやりと冷房の効いた室内の空気が気持ちよく、折から強まった雨足を窓の外に見ながら、僕達は入場券を買うのも忘れて暫し、エントランスロビーに佇んでいた。

もう14年にもなる。卒業してからも、時々僕とSとNはこうやって美術館だの、展示会だの、映画だのを見に集まっていた。とは言っても忙しい毎日故、メンバーの都合が中々合わず、せいぜい数ヶ月に1回のペースだったのだが。
こう言った集まりが続いているのも、なんとなく幹事役を勤めているSの人徳による。

友人とは言っても、濃い付き合いだとは到底言えなかった。むしろ大学時代には、各々別の活動があり、そしてその活動を共にしている親友が別に居た。
そんな僕達が付き合っていたのは偶々、お互い映画や美術などに同じ趣味を見出して、一緒に見て回る機会があったからだ。
互いに興味を抱いての付き合いでは全くなかった。
今にして思うと、自分達が打ち込んでいる世界とその人間関係に息苦しく感じてくると、僕等は一息つく為に集まってきていたのだ。
そんな付き合いが気が付いてみれば、互いに30代後半を過ぎても続いているというのも妙な話だ。

汗とも湿気とも付かぬものが引いたので、僕たちは入場券を買った。この美術館は主に写真のみを展示内容としている、変わった美術館だった。
常設展の他に、いつも2種類のテーマ展を企画していたのだが、その日僕等が見に来たのが、そのうちの一つだったのである。
美術館の1階〜2階が常設展、3階が(僕等が目的としていない方の)テーマ展、そして僕等の目的のテーマ展は地下にあった。
チケットは買ったものの、何となく休みたい気分だったので、エントランスロビーの隅にある喫煙コーナで一服することにした。
この中では喫煙者は3人。僕に、NとSだけ。TとYは吸わないので、実はこんな所での休憩は彼らとしては勘弁して欲しかったに違いないのだが。

「なんかさ。写真って言うから、きっと妙な期待しちゃうんだよな」
とN。卒業後、小さな不動産会社の社長令嬢と結婚し、現在同社の重役に名を連ねている。が、実のところ重役自ら企画・営業をこなして行かねばならず、この僕達の中では一番、多忙を極めている。今日も勤めを途中で抜け出しての参加なので、グレーのスーツにネクタイという出で立ちである。どう見てもれっきとした中年サラリーマンなのだが、鋭い眼光が唯一その印象を裏切っている。
「何をかな?」
仰向いて、煙を吐き出しながら、Sが気が無さそうに尋ねる。上を向いて煙を吐くのはTやYを気遣ってのことだろうけれど、見る限りでは煙で遊んでいるようにしか見えない。
「なんというかさ、真を写すって言う以上、撮るその瞬間が勝負な訳だろ。なのにさ、実際にこうしたところに出てる作品で、何がしかの加工が入ってるよね。
それってさ、なんだかなぁ」
「確かにね、プロは作品の8割程度、デジタル加工処理をしたものを使ってるしね」
「でも、それも結局映像表現の一つ、なんだからいんじゃないか?」
とTが口を挟む。
「そうだね。実際、表現手段の一つとして作家は写真という手法を選んだのだ、と僕も思うよ」
とS。
Tは専ら、音楽畑の趣味なのだけれど、一方で特に最近のビジュアル系のアートに一家言持っている。というよりも実際にもそうした方面のアーティストに知人が居るらしい。実は、未だに彼の職業が良く分からないのだが、この仲間内では本人が言い出さない限り敢えて尋ねようとは誰もしない。
僕はと言えば、実を言うと単に見たりするのは好きだけれど、どうしても彼らのように、そうした事情や背景を考えたりするのが得意ではない。勢い、このグループの中では専ら聞き役なのだった。それはそれなりに心地よい立場なのだとも言える。
いずれにせよ、何時も彼らの議論を興味深く聞かせてもらっているので、今回も同様に話の行方を見守らせてもらう事にした。
「そうなんだけどね・・」とNが言い澱む。
「けどさ、なんと言うか、写真という言葉に引っかかるんだよね。
これって、多分『表現』という風には俺、見てないんだわ。
真って言うからにはさ、本人にもどうしようもない真実ってない?」
「それを言うなら、どんな表現行為にも、そうした本人のコントロールを外れたところの現われはあるだろうさ。それが受け取るこちら側にとっての魅力でもあるんだから」
とS。一見、取り合うつもりが無さそうにも見えるのだが、これがNと議論する際の彼のスタイルなのだ。こんな態度をとりながらも結局、Nの考えを引き出してしまう。
「うん、そういうのとはちょっと違うかな・・・・」
そういうとNは一口煙草を深く吸い、それからゆっくりと煙を吐き出した。
「そうだね。俺が考えてるのは、多分表現よりももっと手前のもんじゃないかな」
「手前か。表現の手前とど真ん中・・・・・」
「茶化すなよ。認識と表現の不即不離ってんなら、そんなことは言わないけどな」
「ああ、そうしてくれ」
「何とでも言えよ。そうじゃなくって、それを言うのなら、認識の手前っちゅうのかな」
「ふむ」
「いや、あんましちゃんと考えれてないから実を言うとぼろぼろの理屈なんだけどさ。
『見てしまう』というか、『居合わせてしまう』というか・・・それこそが写真なんじゃないかなってね」
「それが『真』だと?」
「真って言うのも口幅ったい感じはするけどね」
Sは一口煙草を吸うと、煙を吐き出しながら疑わしげに言った。
「だが、そいつが『認識の手前』だってのはどういうことなのかな」
「見る、と言うけれど我々が何かを見るという事を意識に上らせたときには、もう疾うに精神が色々と認識・判断を加えてしまった後だって言うのは、もう当たり前の事だよね」
「まぁ、それが現象学の与件でもある訳だからね」
「写真と言うのは、それが『真』と言えるのはそうした認識が働き始める前の映像だからじゃないのかな」
「ちょっと待てよ、その写真を見るっていうのは我々なんだし、そうなるともうそこに認識が生まれてしまって・・・・
ああ、そうかそいつは写真の中にある訳じゃなくて・・・」
「そう。それはこっちの頭の中にあるんだ。写真家が捕らえたその瞬間の価値というのは、もう写真家が判断してしまった後なんだけど、それは写真には写っていない。
つまり、常に我々は写真家が判断し始める前からやり直す事になる訳だ」
「なるほどね。だからデジタル加工はそこに本来移っていなかったものを持ち込む事になる、というのが嫌だと、先生はおっしゃる訳だ」
「うん、先生というのは嫌だけどね」
とNは少しはにかみながら言った。
「だが、それはそれで極めて危うい立場だね」
とTが口を挟む。
「だって、それであるならば写真は、その特権的な一次情報としての地位だけで価値を持ってしまう訳だよね。そこに良し悪しなんぞ生まれ様が無いだろう?。
それどころか、例えば被写体のセッティング自体が写真家の意図で行われるような手合いの写真だって、いざ写すとなれば、意図されたオブジェは写っていても、そこに写っているのは、その意図を解釈する人間の精神のデフォルメが介入する以前の光学的パターンだ、って言う意味ではNの言う写真の要件を満たしてるよね」
「うっく、痛いところを」
Nは苦笑するけれど、それほど痛そうではない。
「それは半分そうで、半分は違うよ」
「ほう?」
「人間の視覚は、視線の移動と脳によるその総合から生まれるんだって事は知ってるよね。
でも、カメラのレンズはそうした視線の移動自体のデコンストラクションになってしまう筈だ。
勿論、写真の画面を見る場合にも、我々は視線を這わせて全体を構成することになるんだけど、現実とは決定的に違うのは・・・」
「我々のみ流れ行き全ては留まりぬ・・・か」
「そう言う事さ。視線の運動と総合とは、生活時間の中で働くのだし、意識はその時間の中に対象の事物も存在することを前提としてしまっている。
だから写真に向う時、我々はそこに見慣れつつ、異様なものを見ることになる」
すると、Yが話しに加わってきた。
「でも、それで行けば、絵や彫刻でも同じ事になりはしないか?」
Nは頷く。
「その通りだ。だが、写真に出会うまでの視覚芸術はむしろその異様なものから目を背ける方へ発達した、と思わないかい?」
「バロック芸術の運動感とは正しくそれそのものだね」
と言いながらSは煙草の火をもみ消した。
「恐らくはね。最もそれは自然を通り越して過激な方向へと進んでしまったんだな」
Nは既に5本目の煙草に火を付けている。
「いくつかそうした異様さにお目にかかれるとなると・・・」とSが考え込む。
「ルネサンス初期ということなら、ウッチェロ辺りかな」
「中世絵画の流儀からすれば、視線の動く軌跡の輪切りのような表現てことになるんだが」
「逆にスーパーリアリズムなんてのは正しく、その視線運動の手足をもいだ姿を描こうとしている、って事になるんだろうか」とT。
「でも、結局はそれは写真という理念形に触発された形態だよね」
Nが引き取って話を続ける。
「で、あれなんかは寧ろ知的なデコンストラクションだと思う。なんせカメラが無造作にやってしまう事を、恰も現象学者がエポケーを行うかのように描写していく訳だから」
「デコンストラクションか。やれやれ、とんでもない所に話が行っちまったな」
Tは苦笑いする。
「で、そうなると要するに肉体派デコンストラクタとしての写真家という訳ね?」
とSが揶揄する。
「肉体派、というのもどうかと思うけど」
とNは冷静に言葉を返す。
「ただし、スーパーリアリズムという対概念を念頭に置くと良く分かるけれど、体験派とでも言うべきなのかもしれないね。
というか、エポケーすることに先立って写真家自体がどうしようもなく、その場に存在してしまっている、という現実を容れさるを得ない訳だろう?」
Sは大きく頷いている。
「なるほど、Nはそれを指して『真』だ、という訳だな?」
「まぁ、そういう事になるかな」
「だが、だ。そうした事の意味というかだな、値打ちというのはどういう事になるんだい?」
Nが再び苦笑する。
「まいったなぁ。迂闊なことを言わなければ良かった」
「まぁね、いい見せしめって訳さ」
「そう来るかい!。
まぁ、いいさ。その答えは、どんなジャンルですら持っているとは言いがたいと思うけどね」
「そういわず、答えてみんしゃい」
「正直言ってわかんないよね。
おいおい、露骨にコケるこたぁないだろう?」
「コケいでか!」
「俺だって、こういう事を話すのは照れくさいんだがなぁ」
Sがすかさず突っ込みを入れる。
「歯の浮くような事を真顔で言えるのがNのウリじゃなかったっけ?」
「なんだよ、それ。俺がまるで変態みたいじゃないか」
「はいはい」
「ちっ。ま、いっか」
「で?」とSは怯む気配も無い。
「そこまで言って聞くかな、君は」
「ささ、さぁさぁ」
Sは楽しんでいるらしい。
今度こそ本当にNは気恥ずかしそうに言った。
「・・・・・じゃ言うけどね。本当の意味での『反復』の片鱗だ、といえないか?」
「今度はドゥルーズか。さっきまではデリディアンとして話してたと思ったんだがな」
「ドゥルーズじゃなくて、どっちかというとキュルケゴールの意味での」
「そりゃ、酷ぇ!」
「だけどね、写真に写っているその瞬間から先の時間を、それはさかのぼって見せてる訳じゃないか。写真家はその先の時間を確かにその場に居て生きてしまった。
だけどね、その写真はそのままそこに留まりつづけるんだ。
生身では決して出来ない『反復』を我々は、その一枚の写真の前で、まるで誰かに代わりに行ってきて貰ったかのような後ろめたさを感じながら目の当たりにしてるんだ、と思えないか?」

平日だった為、ロビーには僕らの他に殆んど人影は無く、N達の声は高い天井に拡散して消えていった。
「シンジはどう思う?」
といきなり僕に話を振るS。
「僕は・・・・あんまりそういう話は・・・」
と言って僕は曖昧な笑顔で何とかやり過ごそうとする。正直言って、僕にはどうしてもNの問題意識が共有出来なかった。僕にとっては写真もいずれにせよ、視覚の楽しみでしかないし、そもそも写真の良し悪しなんぞ考えた事が無い。
「音楽だと、サウンドサンプリングなんて、そんな感じなのかな?」
とY。
「いや、それは大分違うと思うな。
デコンストラクションて言うのはそうかもしれないが、ああいうサンプリングってのは現実の純化であるものの方が多いだろうな」
とT。
「そうかな、俺は結構近いと思うぞ。実例としては確かにそうかもしれないが、同じ考えでの手法は当然ありえるからな。
そういう意味で考えると、シンジ、おまえらのやってるクラッシック音楽なんてのは、そうしたのと対極にある代物だって事になりそうだな」
Sはどうしても僕に話を振りたいらしい。その辺が『デファクト幹事』(by T)たる所以なのだけれど。
「絵と音楽と・・・ていう連携かもね」
僕はそっけなく答えた。
「そうだな、ま、そんなところだろ。
そいじゃ、そろそろ行きますか」
Sはそう言いながら立ち上がり、鮮やかに議論を切り上げてしまう。
自分に話が振られるのが鬱陶しくなってきた所だったので、僕は内心胸を撫で下ろす思いだった。



目当てのテーマ展の展示内容は期待外れのものだった。企画の着想は良い。だが如何せん、内容が伴っていない。
入って30分もすると我々は耐えられなくなっていた。仕方なくまたエントランスロビーに舞い戻る。

「いやぁ、酷かったね、こりゃ」
「全く。面目無い。今回ばかりは、俺の目すりだったみたいだ」
とSがすまなそうに言う。
「気にするなよ。こう言う失敗した企画を見るって経験だって滅多に無い貴重なもんだ」
Nは煙草をふかしながら、どうでも良い事のように言う。
「なぁ」とTが3階の企画展の看板を指しながら言った。
「どうせここまで来たんだから、これ見ていかないか?」

普通なら、僕達の集まりでは決して覗きには行かない企画だっただろう。
『街への眼差し』展。
どうやら、街をテーマとしたグループ展らしい。モノクロの粒子の粗い海沿いの町の荒涼とした風景を用いたポスターは、如何にも有り勝ちな写真展を連想させた。
「森山大道信者のご一行様・・・か」
とNが呟いた。
「誰だ、それ?」
Sが問い返す。
「本当に、モノを知らないね、君は」
とNが冷ややかに言う。もっともN以外は誰も知らなかったようだけど。
「こういうスタイルを日本の写真界に持ち込んだ写真家さ。一度こういうスタイルに病み付きになると、中々治らないってところから、『大道病患者』ってな言葉さえあるくらい影響力があったらしいぜ」
僕はそのポスターの写真にどこか見覚えがあるという感じがしていたのだが、Nの言う通りなら、そういったありふれてしまったスタイルの写真だからなのだろう。
いや、それでもどこかで、こういう写真を親しく見た覚えがあるのだが。
「ま、御託はともかく、行こうぜ。もうあんまり時間無いし」
とSが促す。実際、もう閉館時間まで残り40分ばかりになっていた。



展示されている写真の大半はモノクロの写真で、カラーの写真も当然の事ながら色彩的に華やかとは言い難い題材のため、却ってモノクロよりも沈んで見えた。
それにしても、この企画展が、此れほど人を集めているのに正直驚いていた。きっとそれなりに名のある写真家達だったのかもしれない。
こういうどちらかというと公的な立場の美術館での展示会には珍しく、来訪者名を記帳するノートが置いてあった。
「これに書いておくと、何か送ってくるのかな?」
とSが言いながら、もう記帳し始めている。
「さぁな。君の期待するようなものは送ってこないだろうぜ」
とN。ただし、NもSの後に記帳する気で居るらしい。
そんな彼らを置いて、僕は一人で見て回る事にした。

全体としてゆったり目のスペースをとって幾つかのコーナーが設けられたフロアには各所に長椅子が置かれている。僕は時折、椅子に腰掛けたりしながら、自分のペースで作品を見ていった。
各コーナーはそれぞれ、作家毎に割り当てられているらしい。いずれも同世代の作家達の作品が撮影年代順に並べられていて、時代の移り行きと同時に作風の変化が相俟って、いわば作家毎にその時代をどう感じていたのかを分かるように並べられているのだ。
これは面白い経験だった。同じ年代同士が、同じ時間の経過に対して様々な反応を示している。
それは当たり前と言えば当たり前なのだけれど、目に見える形で比較できるようにされると、その差の大きさと同時に、意外に共通点までも実感出来る物だ。
題材も町の風景と言う日常的なものだったのが、僕にとっては分かりやすかったのかもしれない。

と、あるコーナーに差し掛かったとき、その一角だけが僕にとって妙に懐かしく感じられた。
それは、その作家の初期の作品が全て僕が学生時代を過ごしたあの街の風景であったせいでもあったけれど、それよりも僕にはその街への眼差し自体が、既に馴染み深いものに感じられたのだ。
その感覚は最近の作品に至るまで共通していた。何故だろうか?、と僕は訝しんだ。写真には日頃余り感心が無い。写真雑誌なんぞ、手にも取ることが無い。だからこうした馴染んだ感覚は、作品を見る事で培われたものでは無い。それに、この感覚はまるで古い知人の癖を思い出したかのようなものだったのだ。
僕は、特に一枚の写真に強く惹かれた。
それは、靴屋の店先に並べられた靴を撮ったものだった。モノクロの写真。撮影した時期は丁度、僕が学生時代に当る。確かに見覚えのある店だった。
しかし、並べられた靴たちの光沢が禍々しく、まるで威嚇するかのようにすら見えるこの写真には見覚えがあった。
それは僕をあの頃に引き戻す。あの自分にとっても痛々しく慙愧の念に未だ責めさいなまれるような思いでしか思い出せない、あの頃へと。

H。
写真家。
まさか、と僕は思った。
その名前は、しかし疑いようも無くあのHの名前だった。そして例の靴屋の写真を僕は、彼に見せてもらった事がある。その後、突然に僕らの前から姿を消したHが、こうして写真家として仕事をしてきている事に僕はショックを覚えると同時に、無性に嬉しかった。

 

 


***

 

 


それは僕にとって、痛みなしには思い出せない頃のことだ。

写真学校に通っている彼と、僕達は彼のカメラが縁で知り合ったのだ。

疎水べりを何となく、馨と明日香と3人で歩いている時だった。
既に残暑も過ぎ、炎熱で知られたこの盆地の都市でも一番過ごしやすい季節だ。
大学の近くとは言え、そこは観光名所でもあって、静かさを予想させる小路の名前に反して学問には余り縁の無さそうな男女で溢れ返っていた。
どうしてそんな組み合わせになってしまったのか覚えていない。いずれにせよ、僕にとっては居た堪れない雰囲気だったのは確かだ。馨がそのときどう考えていたのか分からない。何時だって彼は僕の思いもよらない次元でしかモノを考えない。そうして明日香は深く傷ついて、そしてなお耐えようと虚しい努力を続けている。この縺れを解けるとすれば、それは僕しか居ない筈だった。だが僕はそれが出来ないという状況に自虐的な快感すら覚えながら溺れていたのだ。

どうしようもない季節。

「なぁ、すんまへん」
見ると、カメラを手に、タオルを首にかけたTシャツ姿の長髪の男が立っていた。
さすがにこの季節にしては薄着である。日に焼けた顔。脱色されたサーファー風の髪。眼鏡の奥に、皮肉っぽい瞳。
「なんだい?」
毎度の事ながら、馨のこう言う受け答えにはひやり、とさせられる。
「なぁ、3人の写真撮ってもええやろか?。
いや、そんな怪しいもんちゃう、て。わし、写真学校の学生ですねん。
課題の題材探してるもんで。
あんたら3人ごっつう絵になるし、撮らしてくれると嬉しいんやけど」
どうも、関西弁が板に付いていない。無理にこちらの言葉に合わせている感じがする。
「ほう?。君は中々目が高いね」と馨。
「どうする?、シンジ」
「僕は別に・・・・」
どうでも良かった。それにこの雰囲気が紛れるのは少し嬉しかった。
「いいわよ。あたしは」
と明日香。これはどうやら僕への助け舟のつもりらしい。そうした気遣いが何時の間にか僕達にとって当たり前になっていることに、第三者を前にして改めて気付く。それが益々僕の罪の意識を募らせるのだが。
「ねぇ、あんた」と明日香は目の前のカメラ男に言う。
「ちゃんと断るってのは感心だけど、そうやって切り出されちゃうと却ってこっちも意識しちゃうわよ?。それで学校の課題になるのかしら?」
と言い終わる前に彼は素早くカメラを構えシャッターを押している。
「な、別に問題あれへんやろ?」
と言って彼は笑った。
「H、いいますねん」
彼の関西弁はどうにも様にならないのだが。
その後暫く僕らは疎水べりを散歩し、気詰まりになりそうなところをHの、これまた寒いギャグに助けられて過ごした。確かに課題としては問題が無かったようで、僕等3人は彼が時折押すシャッターも全く気にならなかった。疎水に沿った散策道の終点の禅寺の境内で、彼は鮮やかに別れた。
「大分撮れたし、今日はどうもおおきに。ほな」
そういうと彼は、山門を越えて街の方へ去っていった。

そんな事があって暫くしたある夕暮れ、僕は例の散策道から程近い商店街を歩いていた。特に用があった訳では無い。そうしなければいたたまれないものを感じて、うろついていたに過ぎない。逃げるとすら呼べそうに無いそんな歩行も、人が見れば単なる散歩にしか見えないだろう。いや、学生が当ても無くうろうろしているのは極めて当たり前のことではないか?。
とにかくそうやって歩いていた。
”市場”の中の魚屋の呼び声や、生臭い匂い、冷凍ショーケースの中で力なくパックに包まれた肉片達。匂いすらしない八百屋の前の小奇麗な野菜。この古都は高齢者人口が飛びぬけて多い街でもあったので、買い物客の多くが老婆と言って良い程の女性ばかりだった。観光地のすぐそばにある生活の場は、皮肉なくらい衰退の色を滲ませている。
「やあ、シンジ君やないですか」
振り返るとそこにHが居た。
「やあ、こんにちは。あれ、今日はカメラ持ってないんだ」
するとHはにやりと笑いながら、ジーンズの尻のポケットから小さな銀色の箱様のものを取り出した。
「まぁ、今は風呂入りにいった帰りですし。今はこないなもんもあるし」
風呂や帰りにしては荷物が少ない。と訝しんでいるとHは言った。
「あ、不思議に見えまっか?。わし、何時も風呂屋持ってくんはタオル1枚だけですねん。
シャンプーとか石鹸とか、中で買えますやろ?
外に撮影に出かけてる時かて、気持ちよさそな風呂屋見つけると、そのまま入る事がよーあるんですわ」
相変わらず関西弁は不自然だった。
「なるほど、そりゃ合理的かもしれない」
「へへへ。そうですやろ」
それから僕らは会話の接ぎ穂を喪って、沈黙してしまう。
軽く挨拶してから立ち去ろうとする僕にHは言った。
「そや、今から、うちの下宿に来てビールでも飲みまへんか?」
誘いに応じる理由は無かったけれど、さりとて断る理由も無かった。

彼の下宿と言うのは何の事は無い、先日彼と出会った場所のすぐ近くにある土産物屋の二階だった。
土産物屋といっても、置いてある品物は創作民芸品と言うか、何とも洒落たデザインの小物類だったし、店はその奥に、やはり女性受けしそうな喫茶店も併営している。
「ここ、親戚がやってますねん。親戚は、別のとこ住んでまして、夜中誰も居らん時の留守番ちゅうことで家賃負けてもろうてます」
Hは少し気恥ずかしげに言い訳する。二階へは、喫茶店側の勝手口から入ってすぐにある、狭い階段から上がる。Hは、カウンターに居る店の主人と思しき白髪の男性に軽く会釈をすると僕を促して階段を登った。
「親戚言うても、遠い親戚ですんで、殆んど他人行儀ですわ」
階段を上がりきるが早いか、Hは小声で教えてくれた。

そこは二階というよりも屋根裏部屋と言ったほうが良かった。確かにスペースは二階1フローアまるまるHが使える事にはなっているのだが、商品の在庫品や、古道具などが既にかなりの面積を占拠しており、間仕切りが取り外された、一番奥の6畳ほどの畳の区画が彼の”部屋”になっていた。
その隣の一畳程の小部屋がどうやら暗室になっているらしい。そして彼の”部屋”には大きなスチールの本棚が2本あり、片方にはカメラ関係の小物が(というのも僕は余りカメラについて良く分からなかったので)埋め尽くしている。一方で、ニスが剥げ落ちた古びた机の上にはパソコンがあり、デジタルカメラがケーブルで繋がったままになっていた。
階段を上がったところに据え付けられている、業務用としてはやや小さいものの大型の冷蔵庫からHは缶ビールを数本取り出して運んでくる。
「もうビールには、ちょっと涼しいなりすぎてるけどな」
「いいよ、僕は酒よりもビールの方がいいから」
テーブル代わりの電熱器を取り外した電気コタツにビールを並べる。それが部屋の聊か荒んだ感じと相俟って寒々しい。
「ほな、いきまひょか」
そう言うが早いかHは、1本目のビールの缶を開けている。

酒の肴になるものは二階には何も無かったので、僕たちはビールだけをひたすら飲み続ける羽目になった。夕食は二人ともまだ摂っていなかったから、空きっ腹にアルコールは良く回った。
最初余り会話は弾まなかった。人懐こそうな、一見社交的に見える彼の振る舞いは、実は関西弁という装いに伴うものに過ぎないのだ、と僕は思い当たる。
とすれば彼が僕をここに招き入れたのは、案外彼にとっては、大変な事なのかもしれない。
そこで、
「ねぇ、無理に関西弁使わなくていいよ。僕だって関西弁じゃないんだから」
と切り出してみた。
Hは一瞬、戸惑いを見せたが、やがて降参を言うように肩を竦めて見せ言った。
「そうですか、じゃそうさせてもらおかな」
それから暫く考え深げに俯き、言葉を続けた。
「俺の関西弁ってやっぱりヘンっすか?」
「・・・うん、やっぱ間違ってないけど不自然だよ」
「そうか・・・かなり努力はしてるんだけど」
「なんで、そんな努力するの?。いいじゃない、別に」
「そうは言うけどな、やっぱこっち来た最初は、関西弁じゃないと馬鹿にされるような気がしてたし」
「あ、そういうのは確かにあるかな」
「な?、だからさ、早くなんっつーか田舎もんだと見られないようにせんといかんて・・」
「そうなの・・」

僕らは色々な話をした。

彼の育った町は東海地方の一地方都市に隣接した小さな、これといって特徴の無い町だったそうだ。両親は彼が小学生の時に相次いで亡くなり、父親の弟に引き取られたという。もっとも叔父は独身で喫茶店を経営しながらの子育てだったので、色々と大変なこともあったようだ。ただしこの叔父は好人物だったようで、Hの言葉の端々にも叔父に対する敬愛の感情が窺われた。
写真に手を染めたのも、この叔父の趣味が写真であったことや、叔父が町の写真クラブのメンバで、店がクラブメンバのギャラリー兼溜まり場になっていたことがきっかけらしかった。
「でも、さすがに写真の学校行くっていったらぶん殴られたな」
そう言ってHは苦笑した。
「でも結局は許してくれた?」
「まあね、だからここにこうしてるんだけどね」
「でも説得には相当苦労したんでしょ?」
「いいや、援軍があったから・・・」
と言うと彼は恥ずかしげに口篭もった。
叔父は、Hが高校2年生の時に結婚した。相手は未だ大学を出たての22歳で年齢差が20歳以上あったことから、仲間達にさんざ冷やかされての結婚だったらしい。
援軍というのは、叔父の奥さんだったのである。彼女が彼を断然支持したことから、不承不承叔父も許したのだ、と言う。
「うれしかったなぁ」
とHが呟く。
「許してもらったのが?」
H頭を振った。
「いや、そうじゃなくてさ・・・分かってくれる人が居てくれるってことがね」
僕が黙って見詰めていると、彼は慌てて言い直す。
「いや、叔父さんもさ、俺の事分かってくれてたんだけどさ。
やっぱりずっと一緒だったじゃない。
でも彼女が、理解してくれたってのはなんていうかさ、な、分かるだろ」
僕は笑いながら頷いてやる。最も、『彼女』という呼び方に何となく引っ掛かりを感じては居たのだけれど。

そうこうする内に、話は僕の話題となっていった。
「そんな頃からチェロをやってたのか。
じゃあ、プロになりたいでしょ?」
とH。
「ううん・・・そうは思わない・・出来ればずっと、チェロは続けて居たいけど」
「どうして?。他にもっとやりたいことがあるん?」
「残念ながら、何も無いよ・・・でもチェロが仕事って言うのがどうもピンと来ないだけ・・」
そうではない。”あの人”と同じ道を歩むことになるのが嫌なだけだ。無論なれるかどうか分からないのだけれど、志す事そのものが”あの人”に屈することになるような気がしてならないのだ。
だからこそ、”あの人”の干渉を撥ね退けてこの大学にも入学したのだし。
「そうか?」
とHはまだ疑わしそうに聞いた。
「プロになるだけが、チェロをやっていく方法じゃないしね」
「誰かに反対されてるとか?」
「まさか」
反対どころか、”なれ”と圧力を掛けられているのだ。
あの冷たい視線を思い出して、僕は少し不快になった。
「もう、この話題は止めよう」
僕の不機嫌が彼を当惑させているのは分かっていたけれど、僕は曖昧な笑顔を顔に貼り付けるしかなかった。

階下の店は8時で閉店した。9時過ぎには店の人たちは帰って行った。
Hは、誰も居なくなった調理場から食料を調達して来てくれた。喫茶店の余りモノは彼が食べて良い事になっていたのである。
僕は思いついて、少し意地悪な質問をしかける。
「そう言えば、あの課題ってどうなった?」
Hは少し眉を潜める。
「ああ、本当は出来たらすぐに見せに行かなきゃならなかったんだけど・・・」
そう言うと彼は背後のスチール製の本棚の一番下の段から数冊のファイルを取り出す。
「あんまり実は出来が良くないんで恥ずかしいんだ」
「被写体が良くなかったとか?」
「そんなこたぁ、極一名を除いて、無い」
「そーいうと思った」
彼はそのファイルの中から背表紙に「課題」と書かれた一冊を抜き出し、広げた。B5版程の印画紙に焼き付けられた写真が十数枚、ネガと一緒に挟み込まれている。
「これなんだけどね・・・・課題っちゅうのが、要するに『人物をメインにした観光写真』って奴で」
なるほど、そこに撮られている写真は何れも、旅行雑誌などでお目にかかりそうな、名所にモデルを配したような写真ばかりだった。確かに馨や明日香はこうしてみると、この課題には打って付けなのだ。
それにしても、あの日、彼は特に僕等にポーズを取るよう注文した事は一度も無い。シャッタを切り続けて居たのは知っていたけれど、それを僕らは意識する事が無かった。
それくらい、彼は自然に写真を撮りつづけていたので、むしろこうした意図的の最たるものであるような『キマッた』写真となって出来ているのを見ると、一体どういう魔術を使ったのかと驚いてしまう。
「・・・凄いね、まるでプロの写真家がプロのモデルを撮ったみたいだよ」
素直な感想に、Hは嬉しいような、困ったような表情をする。
「そうかな。実を言うと俺はあんまし・・・」
「こういうのって得意じゃない?」
「ああ。
本当のこと言ったら、大嫌いだ」
この見事な課題の出来と、彼の言葉とがどう結びつくのか良く分からなかったけど、「大嫌い」というのは妙に納得出来た。
「そう言えば、本当に僕居ないね」とおどけて言って見る。
Hが少しすまなそうな表情になる。
「すまん、シンジはあんまりこういう写真向きじゃなかったから・・・・」
「いいよ・・・別に」
そう言って驚いた事に、自分が少し傷ついている。容姿であの二人に適いっこないのはとっくの昔からだった筈なのだけど、やはりそうまで差があるのかと思うと良い気はしない。
すると3人で歩いている姿と言うのは、傍目から見ると、美男美女カップル+お邪魔虫一匹、という構図なのかもしれない。
「あ、ちょっと傷付いたかな」
Hが妙に嬉しそうに言う。
「・・・・・」
何とも答え様が無いので僕はビールを啜る。
「明日香さんって、シンジの彼女・・・だろ?」
「・・・ぶっ!」
「うわっ!、汚いなぁ」
「・・・んなこと言ったって、いきなりそんな事聞かれりゃ吹くだろぉ!」
「そんなことって・・・大事な事だぜ」
「そうかなぁ」
何となく僕は機嫌が悪い。
「大事なことだよ」
「・・・・」
答え様が無い。なんだって、こんなに言い張るのかと思った。
「どう見えた?」と僕は聞いてみる。
「へっ?」
「だから、僕達ってどう見えたのかって聞いてるんだ」
Hは暫く考え込んでいたが、やがて意を決したかのように手に持っていた缶ビール飲み干す。
「よう分からん」
「はぐらかすなよ」
「だから、本当によく分からんかった。
明日香さんと渚君は誰が見ても、あれは恋人同士には見えないね。
何があるのか俺には分からんが、互いに好意的とは到底見えなかった。
だから、あの二人が一緒に居るのはシンジが居るからだとしか思えない。
だけど、シンジはちっとも楽しそうじゃなかった」
よく見ている。
「さすがだな・・・・」
「怒るなよ。聞いたのはシンジの方だからな」
「すまん」
「謝る事は無い」
「そうだな・・・」
「おい、頼むから話したくも無い身の上話なんぞ止めてくれよな」
「・・・・」
「シンジが言いたくない事は、俺も聞きたくないからな」
「・・・・・ありがとう」
だが話したくなったとしても、僕に話せる自信は無かった。
「なぁ、今度はお前らを撮らせてくれよ。
今度はお前ら自身がメインと言うことで。
こんな、素材扱いしかしてない写真ではなくて、お前ら自身を撮影したいんだ」
Hの表情は真剣そのものだった。そばかす勝ちの顔の中から澄んだ瞳が僕を見据えていた。
僕は眩暈のようなものを感じて力なく答えるほかは無かった。
「・・・分かった」
それは為す術もない、という以外の意味はもっていなかったのだが。

僕は少し気詰まりなものを感じて、何も言わず暫く彼の作品のファイルの1つを捲って眺めていた。
それは先ほどの課題とは違い、彼自身が彼の取りたい様に撮ったものであるらしく、街の様々な表情を捉えた写真が殆んどだった。
僕は何と無く、そうした写真は言わば居合抜きのような1回限りの勝負のようにそれまで考えていたのだけれど、Hは1枚のネガの現像にも様々なトリミングを試みていた。たった1つの主題に幾つもの変奏。
だがいずれの写真にも、一種凄惨な感じがある。決して社会派的な題材を選んでいるのでは無い。どちらかと言えば、日常的な風景ばかりなのだ。にも関わらず、そこに浮かび上がっている不穏なもの。これが彼の作風というものなのだろうか?。
例えば、遮断機の降りた踏み切りの向こうを横切っていく人々、その向こうに停車している車。丁度差し掛かった電車が左端に移っている。だが、その写真はこうした文脈が日常の光景に齎している”まとまり”をまるで感じさせない。各々のモノが相互の関連を全く失って、そこに配置されている、としか考えられない不思議な瞬間。何時も見ている風景の中に、こんな瞬間が潜んでいる。それが見るものを脅かすのだ。
その作風は、どの写真にも共通して見られる。例えば、畑仕事から体を今しがた起こしたばかりと見える老婆の背後には、暗い曇り空の下、畑の向こうに彼女の家があり、この構図だけであれば、一種彼女の人生の縮図でもありそうな道具立てながら、この写真では何故か、老婆の顔の、造形としての違和感とその異様なトーンが逆に意味有りげな背景の道具立てを全て、無機化してしまっているのだ。
気が付くと、僕は一枚一枚を熱心に見続けていた。

その写真の光景は見覚えのあるものだった。ここから西に見える丘の麓の、旧門蹟界隈の商店街。その入組んだ小道にある小さな靴屋の店先。木造の、看板の文字は疾うに薄れて殆んど読めず、木枠に埃まみれの板ガラスのショーウィンドウの中には、くたびれた飾り棚だけがあって何も無い。
店内は積み上げた商品の箱がすっかり黄ばんで今にも崩れ落ちそうな、そんな店だった。主人と同じように老い、朽ちてゆこうとしている店。
その店先に、鉄製の古い棚があり、その鉄柱はと言えばペンキはあちこち剥げ、錆が浮き上がっている。
そこに並べられているのが不似合いなまでに新しい革靴だった。
その異様な店先のコントラストが、靴の輝きを何か禍々しいものに見せている。処が、写真にはその向こうのショーウィンドウのガラスが写す店の前の往来の姿も捉えられている。朝の光。古びた店、威嚇するかのような革靴の輝き、そうして商店街は朝の目覚めの活気。その対照が、切なくすらある感情を呼び起こした。
「こういうの、いいな」とHに話し掛けるでもなく僕は呟いた。
「ああ、俺としては、気に入ってるヤツだな、それ」
と何気ない風を装うてHが言った。が、そこに彼の自信も見え隠れしているように思えた。
それまでの写真が普通の”見る”事の怜悧な解体だとすれば、この写真には、もう少し暖かい情感が込められていた。解体してもそこに残るもの。人のぬくもりと言えば良いのかもしれない。
他の写真が人物を構図に含めながらも非人間的に見えるのと対照的に、この人影の写っていない写真には明白に人の匂いがあった。
「Hはさぁ・・・」
「なに?」
「Hにはさぁ、いつもこう言う風に見えてる訳?」
「・・・・いや、これは見える前」
「どういうこと?」
「うん。写真に写せるのは人が見る前の光景だけだよ」
「でもこれは見たから、じゃないのかな?」
「勿論、俺はその時その場で見た。だけどな、写真には”それ”は写らない。
どんなに頑張ったってそれだけは無理。
だから、俺が”見た”ものの方に、見る人を惹き込んでしまいたいんだ」
Hの言いたい事は何となく分かったけれど、実感の伴わないもどかしさを感じた。体験の差か、と思うと僕は少しだけ彼に嫉妬を感じていた。

と、更にファイルの中を捲っていると、突然人物の写真が現れた。
「あっ・・・」
Hは一瞬狼狽し、そして直ぐに平静を装うのが分かった。
女性の写真。B5版に引き伸ばされた写真の真中にサングラスをかけた女性。
白いTシャツにジーンズというラフな格好で、スリムな体躯を際立たせていた。
そこは喫茶店らしい。明るい店内に、その女性は立って、そこには写っていない誰かと談笑している。
店の前の大きなガラス窓の向こうは白く照り返して良くは分からない。暑い夏の日だったのだろう。その白熱した外と、涼しそうな店内の空気のコントラストが生々しかった。
女性の年は二十代前半だろう。肩まで伸ばしたストレートな髪は豊かで艶やかだった。
「これは?」
多分訊いて欲しくない事ではないかと思いながらも、僕は意地の悪い喜びを感じながら訊ねた。
「・・・叔父キのカミさん」
そう言うとゆっくりとHは目を逸らす。見え透いた不自然さに僕はつい笑ってしまう。
「なんだよ・・・」
「あ、ごめん」
これ以上、からかうのは気の毒な気がして、僕は黙ったまま写真を見詰めてしまう。
「なんだよ。もう訊かないのか」
むっとした表情でHが言う。とは言え、訊けと言われてもはいそうですか、と訊ける訳が無いではないか。
代わりに僕は写真について質問する。
「なんかサングラスかけてると顔がよく分からないなぁ」
「丁度、外から帰ってきたところだからね」
「そうなの?
他の写真は?」
「どうしても顔が見たいって事だよね」
とHが苦笑して言う。
「ま、そういうことかな」
彼はしばらく迷っていたが、
「しょうがねぇなぁ」
と言うとHは本棚をごそごそと漁ると、一冊のアルバムを持ち出してきた。

「これ、全部Hが撮ったの?」
「ああ、全部な」
「良く撮ったね」
「うん、彼女結婚する前から良く来てたからね」
その写真は概ね、店に来た彼女を撮影したものらしく、殆んどが店内か、あるいは店の近所の街路で取られたものだ。道を歩いてくるところを上から撮影したものもあり、二階から彼女が来るのを待って撮ったものらしい。
小柄な、大人しい感じの女性だった。
「綺麗な人だね」
「・・・・ああ」
「なんだ、照れてんの?」
「照れてない!」
それにしても、良くも撮ったものだった。それは彼がこちらに出て下宿を始めるまでの僅か3年間である。アルバムを埋め尽くす写真は彼女ばかり凡そ200枚を超えていたろうか。彼の最初の写真修行はまるで、彼女を美しく写す事に捧げられていた、と言っても良かったろう。
だがその予想は裏切られる。
「それにしても・・・高校の時って彼女しか撮ってなかったんじゃない?」
「まさか!」
Hによれば、彼は本当に衝かれた様に撮っていたのだという。撮りたいものが信じられない程、沢山あったのだという。
「カメラを手にした途端、世界が違って見えてきたように思えたもんなぁ。不思議だった」
最初は目暗滅法撮っていた彼に、写真の撮影方法を教えたのは、実は叔父ではなく、店の常連客だった彼女の方なのだという。写真雑誌や、本などを読み漁り、次第に彼は写真の撮り方の奥の深さに気付いていったのだ。そういう彼女自身も叔父の店を溜まり場とするサークルの一員で、それなりの腕ではあったようだけれど、あくまでもアマチュアの域を出ようとはしなかった。
「才能ある、って言ってくれたよ。
もっとも、彼女に言われたから真に受けたって訳じゃない。
才能なんてどうでも良かった。とにかく撮りたかったんだ」
最初に彼の世界を切り拓いてくれた人。だから・・・というのでは、しかしながら、この写真は説明が付かない。
「でもさ、こんなに撮ってるってやっぱり・・・」
「さぁ、どうかな」
そう言ってHは柔らく、そしてどこか寂しげに笑った。
「・・・だってさ、叔父キのさ、カミさんなんだぜ」
僕は自分の迂闊さを呪った。そんなことは分かりきっていた事だったのだ。

 



***

 

 




・シンジ


・・シンジ


・・・シンジ


「・・・・シンジ!!!」

・・・

「おい、シンジどうしたんだ」
Sに肩を叩かれる。
「えらい、なんかこの写真にご執心じゃないか」
「あ、ああ」
僕はSに、Hの事を話そうかと迷った。Hと面識があったのは、僕と馨と明日香だけだ。何故か僕はSに話す事を躊躇った。
「いや、何でもない」
「そうか?。
もうそろそろ行こうぜ。
閉館時間になっちまう」
「うん、そうだな。行こう」

会場を出ようとして、来訪者ノートに目が止まる。書いて置こうか。もうHは忘れているかもしれない。それに、ここに書かれた名前から僕だと分かるかどうか。
「ちょっと待って」
「どうした、シンジ」とSが振り返る。
「記帳してくよ」
「珍しいな、そんなに気に入ったのかい?」とN。
「まぁ、そんなところだ」

帰りの電車の中、暗い窓の外を過ぎていく灯りをぼんやりと見詰めながら、僕は再びあの頃を思い出していた。

 


***

 



季節は冬に向って急速に動いていた。

その後も、彼とは良く会った。写真家のアシスタントのバイトと、学校とで忙しい筈なのだが、この街の被写体としての魅力に彼は執りつかれてもいた。だから、何かから逃げ回るようにして徘徊する僕とは妙に馬が合うのだった。
もっとも馨や明日香は、僕達のこうした付き合いには冷淡だったのだが。
ただ、彼女についての話はあの晩以来、全く触れられなかった。


11月。
学園祭。

僕等は、教養学部の正面玄関に陣取り、弦楽四重奏をやった。

それは、楽しいと同時に、僕には辛い時間でもあった。馨は玲を呼んでいたから。
『僕らのファーストバイオリンは玲でなくてはね。いいだろ?』
それが僕にとって何を意味するか、馨も明日香も、玲も分かっていた筈だ。そしてそれが拒否できないことも僕は分かっていた。明日香は不機嫌になっていたけれど、それでも玲に再会できる事は嬉しかったらしい。
かくして玲は学園祭の2日前に到着し、明日香の部屋に落ち着いた。
(と言う事は、馨は僕の同意を得るよりも遥かに前から、玲に連絡を付けていたのだ。)
それから急ごしらえの弦楽四重奏団(ファーストバイオリンが玲、セカンドは明日香。いささか目立ちたがりすぎのビオラは馨。そして僕)は練習に取り掛かったという訳だ。

街頭演奏と行きたかったのだが、どこもかしこも喧騒のため、とても演奏が聞えるような場所ではなかったのだ。教養の建物は何故か、学園祭では人気の無い場所で、お陰で玄関ホールは静かで、弦楽器には打って付けの場所だった。
問題は、人気が無い以上、人通りも少ないことだったけれど、幸いにして思ったより多くの人が聞いてくれた。
石造りの、大正時代に立てられたという建物は残響も良く、僕等は気持ちよく演奏できた。
と言っても、モーツァルトやベートーベンと言ったクラッシックばかりをやったのではない。馨の主張で、彼の編曲によるラグタイムばかりを演奏していたのだ。
これは正解だった。
如何に音楽好きでも、通りすがりに耳を止めてくれ、立って聞くという状況では、クラッシックの曲を楽しめる程の集中力はさすがに期待出来ない。だからこそ、1曲2〜3分程度の気軽に楽しめる曲は効果的だった。
伝統(?)に従い、バイオリンの楽器ケース(これは明日香の楽器のものを用いたのだが、彼女は最後まで抵抗していた)を料金箱にし、見せ金(笑)を2〜3千円程、入れておくと、2時間もすればその10倍は収入が上がった。

Hはそんな僕等の演奏を目当てにやってきた。というよりも彼にとっては学園祭全体が被写体として興味を惹くらしかったのだが。
いずれにせよ、『お前ら自身を撮影したいんだ』と言う彼の要請には答えた事になっただろう。
午前2時間、午後2時間。これを学園祭4日間繰り返すのだ。
さすがに2時間ぶっ通しの演奏は、結構堪える。
そんな休憩時間の僕らの様子も、彼は一部始終撮っていた。
最初は、「あんたねぇ、無遠慮に撮ってるんじゃない!」と噛み付いていた明日香だが、例によってHの方が一枚上手で、何時の間にやら、僕らに溶け込み誰も彼のシャッターを気にしなくなっていた。
もっとも、玲はこうしたことに最初から気にならないらしかったが。



12月になった。



盆地の街の冬は厳しい。
東北地方の出身者ですら、底冷えに音を上げるという。

その夜、Hが突然やってきたのは、もう既に1時を回っていた。

それまで、彼は滅多に僕の下宿には来たことが無かったので、僕は何事かと訝った。幸いな事に、その日は明日香は来ていなかった。

やってきた彼を部屋に招じ入れると、僕はウィスキーのお湯割を用意した。彼はすっかり体が冷えていたのだ。もう寝ようと思っていたので消してあった電気ストーブに、もう一度スイッチを入れる。
暫く彼は黙って、凍えた手をウィスキーの入ったコップで温めていた。
「なんか、珍しいね」
「すまんな、こんな時間に」
「別にいいよ。それより、どうしたの?」
「なぁ・・・・俺、どないしたらええんやろ?」
関西弁になっている、とは彼が照れなしには話せない事を話そうとしているのだ。
「何を・・?」
いきなりな質問には答えようが無い。
「いや、ええんや・・・・・それよか、シンジ・・・お前、
布団乾燥機なんぞ、持ってへんか?」
「へっ?」
「いや、その・・・お前なら持ってそうな気がしたんでな」
確かに持っては居る。と言っても叔母が送ってよこしたもので、数回しか使っていない。確かに冷え込むこの街では、布団乾燥機で温めた布団に入るのはこの上ない快楽だ、と思わないでもなかったが、と言って毎日使う気がするものでもなかった。
それよりも僕はまめに布団を干す方だったので、このまま行くと梅雨時にしか使われない季節アイテムと化すだろう。
「一応持ってるけど?」
「ほんま?!。ほな、貸してくれへん?。助かるわぁ」
「・・・Hさぁ・・・」
「なに?」
「夜中に来た用事ってそれ?」
そう訊ねられると、Hは落ち着き無く、視線を迷わせ始めた。
僕は彼のそんな様子を見ながら、じっと彼の言葉を待った。
「明日・・・・彼女が来よんねん・・」
「彼女って?」
と訊ねながら、僕はもうその答えが分かってしまっていた。彼女。Hを応援してくれた人。
「どないしよ」
「どないしよって・・・別に良かったじゃないか」
僕には彼が、どうしてこうも悲痛にも見える表情をしてるのか気になっていた。
「・・・ああ、そうやな。良かった・・・のかな」
「うん・・・」
僕は曖昧に相槌を打つ。
「一人で来よんねん」
「ああ」
「うち、今俺だけしかおれへんねん」
そう言えば、彼の下宿しているみやげ物店は、冬は休業しているのだった。
「俺・・・多分やってしまうと思うねん」
僕には、彼の心配が杞憂に過ぎないとしか思えなかった。勿論、彼と彼女の間に、これまでどんな事があったのか知っては居なかったのだけれど、彼女が来る事が、重大な意味を持つような関係が出来上がっているとは、さすがに僕には思えなかったのだ。
「まさか」
「何がまさか、や」
「あ、ごめん、気に障った?」
「・・・・すまん、ええんや。おかしいやろ?、なんやこんな心配して」
「で?。布団乾燥機がどうして?」
「多分、彼女・・・泊まると思うから」
「泊まり予定で来るの?」
「・・・・さぁ分かれへん。いつも俺は彼女が次にどうするか、よう分からん。
でもな、それはそうでも俺は・・・・・」
そしてまた言葉が途切れる。
ウィスキーが冷めてしまっている。
僕は仕方なく、立ち上がり押入れの奥から布団乾燥機を取り出した。
「ほら。
使い方は・・・分かるだろ?」
「ああ。
しかし、なんや古そうやな」
「文句言うんなら貸さない」
「あ、ごめん。機嫌直してぇな」
「もぅ・・しょうがないなぁ」
「おおきに。感謝するでぇ」
彼は、飲み残したウィスキーを一気に呷ると、立ち上がる。
「ほな、帰るわ」
部屋の扉を出ようとする、彼の後姿に、僕はどう声をかけて良いか分からなかった。


それが彼に会った最後だった。

二日後、朝、ドアを開けると、玄関脇に宅配便の大きな紙袋が置かれていた。
中を見ると、僕が貸した布団乾燥機と、一枚の手紙が入っていた。どうやら、彼は直接ここに持ってきてくれたようだ。

------------------------------------
どうもありがとう。役に立ったよ。

すまんな。真司。

実は、もう会えへん。もうあの下宿には帰らん。
訳は、お前の想像する通りのものだ。
俺は彼女と生きていく。
------------------------------------

”想像する通り”と言われても、さすがにすぐにはピンと来なかった。いずれにせよ不穏な感じのする手紙には違いない。僕は彼の下宿先へ行ってみた。しかし、彼のいる気配も無かった。
彼の携帯に何度もかけてみたが、「圏外です」と言われるだけだった。

数日後、僕は、この店の店主に会った。
あれ以来、時々僕はここの様子を見には来ていたのだ。ひょっとして戻っているかもしれない、と。
最初、店の入り口が開いているので、Hが帰ってきたのだと思ったのだが、中に居たのは店主だったと言うわけだ。
「あのぉ・・・」
店主はその時、レジの前に立って腕組をして何やら考え込んでいるところだった。
「あ、すいません、お客さん、今日は休みなんですよ。すいません、どうも」
「あ、いえ、そうじゃないんです。
・・・・・・H帰ってます?」
「君は・・・そうか、思い出した。
Hのところに来てたことがあったね」
「はい。
Hはどうしたんですか?」
「いや・・・」
そういうと店主は渋い顔で押し黙ってしまった。
「あの・・・」
僕は恐る恐る声をかけた。
店主は、漸く意を決したのか、僕に言った。
「駆け落ちしたよ。
全く・・・・・」
駆け落ち。
その今となっては時代がかって聞える言葉は、Hに甚だ似合わなかった。
「君、もし君のところに連絡があったら戻るように言ってくれないか」
と店主は言った。


しかし結局Hからの連絡は、無かった。

 



***


 


今にして思えば、どこかHらしい事件だったと思えた。駆け落ちと布団乾燥機の取り合わせのちぐはぐさも、そして恐らくは悲壮な顔付きであったろう、あの日の朝、僕の下宿まで返しに来た彼の姿も、どこか滑稽で微笑ましい。
彼の、もって生まれた大らかさのようなもので、深刻だった筈の事件が和らいで感じられたものだった。勿論、当事者達にとっては大変な事件であったことは疑い得ないし、その行動の結果が叔父を傷つける事が、彼を苦しめたことは想像に難くない。
けれど、彼のあの大らかさと純粋さがきっと事柄を良い方に向けていったのではないか、と僕は勝手に決め込んでいた。そうでなくてはならない、と。そう考えるのは甘いのだろうか?。
現に、彼は立派な仕事をしているではないか。あの事件がもとで写真を捨てたのではなかったのは僕には嬉しかった。そもすれば、将来を棒に振ったという三流小説的な愁嘆場だっておかしくはないのだから。

あの展覧会が行った日、僕は明日香にHの話をしてみたけれど、仕事から疲れきって帰ってきた彼女は一向にとり合う素振りも無かった。もとより彼女はHと、そう親しかったわけでも無く、あの事件の時ですら、ただ一言「あ、そ」と答えただけで済ませたものだ。いや、それとも彼女としてもあの頃を思い出したくは無かったのかもしれない。僕らが一番傷つけあっていた頃。その問題は決して解決出来ぬまま、僕等なりの決着をつけたのが今のカタチなのだけれど。その選択は、Hの行動に比べると余りに、不純で曖昧なものだと言えた。だからこそ、僕は彼のことが気にかかっていたのかも知れない。望むべくも無い、潔さ・鮮やかさのようなものを、そこに見ていたのかもしれない。


数日後、僕は一通の小包というか、円筒形の、そうポスターを入れた筒のようなものを受け取った。
差出人は、H・・かと思ったが、姓は同じ女性の名前だった。

「拝啓。突然のお手紙、失礼させて頂きます。

私、Hの家内でございます。
ご挨拶が遅れましたことお詫び申し上げます。

先日は、『街への眼差し』展へご来場下さり大変有難うございました。
来場者帳の中に、碇様のお名前を見つけ出し、大変驚くと共に、
年来の私ども夫婦のご無礼を是非お詫びせねばと思い、筆を執りました。

残念ながら、Hは一昨年、病で身罷りました。
碇様にお会いしたがって居りましたが、諸事多忙で、やっと落ち着いたときには、病の床に就かざるを得なくなっておりました。
私どもは、碇様には大変なお陰を蒙っているにも関わらず、今の今まで何一つご挨拶もせぬまま過ぎてしまい、Hもさぞ心残りであったと思います。

さて、私達の顛末を碇様に本来はお話するべきでしょうけれど、瑣末に渡っても不調法と思いますので、
極簡略にご報告させて頂きます。
あの日私達が旅立ってから、色々な事がありましたが、お陰さまでその2年後に、私の方が前の夫との離婚が成立し晴れて正式の夫婦になる事が出来ました。最初は生活も苦しい毎日でしたが、Hの写真も認められるようになり数年前からは、随分と楽になってまいりました。

辛い事もありましたが、私にとってHと過ごせた日々は、かけがえの無いものでした。

さて、同封致しましたものは、Hの遺品を整理して出てきたものです。
Hはこれを大きな袋に入れ、碇様のお名前を書いて仕舞ってありました。
生前、よくHは『シンジが俺のライバルなんだ』と良く言っておりました。
何かにつけ、シンジだったらそうするだろう、とか、これはシンジだったらやらないことだ、と自分を鼓舞するために碇様を引き合いに出していました。
恐らくはHは、これを何時か碇様に直接お渡ししたく思っていたのでしょう。そうして彼は碇様と、昔のように語らい合いたかったのではないかと思います。

・・・・」

僕は、悲しみとも怒りとも付かぬ感情に打ちのめされていた。何故、いつもこうも手遅れなのだ、と。
Hが僕に何を見たのか、今となっては分かる手立ては無い。酷いのは僕の方だったのだ。気にしていればきっと彼の作品に、どこかで気付いて居たかも知れないのに。僕は何時の間にか、彼を”終わった事”にしていたのだ。

 

***

 


同封されていた写真は、学園祭の僕らを撮った写真だった。ネガも入っていたが、大きな印画紙に焼き付けられたそれは、例によって、ネガのままの構図では無く、トリミングされた後のものだった。即ち、この現像が彼の最後の意志という事になる。
そして最後の一枚に僕は目を留める。

それは、チェロを弾く僕の肩越しに撮ったものだった。
僕は弾きながら、明日香を見詰めていた。
明日香はそれに気付かないのか、目を伏せてバイオリンを弾いている。

僕は自分の眼差しの表情に、愕然とした。
そんなに優しげな表情を、僕はしていたのだろうか?、と。
その頃の僕に、そんな表情ができた等とは到底思えなかった。僕は馨を傷つけ、明日香を傷つけ、玲を傷つけ、そして尚且つ何食わぬ顔で生きることを選んだのだった。それは罪びとの虚ろな表情である筈だったし、精々のところが、偽善者の作り笑いの筈だった。しかもそのことを他の3人も承知の上での茶番劇。
痛みしか産み出さず、その痛みを確認し続けるように続いていた明日香との関係。
そんな僕のする表情ではなかった。

だが、そこでは僕は柔らかに信頼して、明日香を見詰め微笑んでいた。

「あら、懐かしい・・・」
「あ、帰ってたの?」
「うん、今ね。思ったよりも早く終わったから。
それ、学園祭のよね?」
「ああ」
「どうしたの、それ?」
「Hの奥さんから送ってきたんだ」
それから僕は明日香の方を見ないようにして呟く。
「H、死んだんだって」
「・・・・そう」
重苦しい沈黙。
やがて明日香が回りこんで、僕の持っていた写真を取り上げ、前に差し出すようにして眺める。
「なぁ・・・」
と僕は躊躇い勝ちに声をかける。
「なに?
それにしても良く撮れてるわぁ。これ。
シンジも結構こうやってみると美少年だったわよね。
今じゃ見る影もないけどさ」
「なぁ、明日香・・・僕ってそんな表情してた?」
「何?」
「僕ってそんな優しい目をしていた?」
明日香は、唐突な質問に目を点にする。それから噴出してしまう。
「なによぉ、へんなこと聞いて」
それから真顔になって言う。
「ええ。あたしは知ってたもん。シンジが時々、こう言う目であたしを見てくれているって・・・」
「そ、そんな馬鹿な!」
「どうしてそう思うの?」
「だって・・・僕は・・・・・」
明日香が笑う。
「馬鹿ね。そうじゃなかったらあたし、あんたと一緒にならなかったわよ。
自分の女房信じなさい」
そういうと写真を僕に手渡す。
「さあて、と。シンジ、食事は?」
「あ、まだ・・・これから作るよ」
僕は写真をまとめて机の上に置くと、部屋を出て行く明日香を追おうとした。
そして尚釈然としない気分で、机の上に置かれた写真を振り返る。

Hの声が聞えたような気がした。


『人間は色々な表情をする。
これも、おまえさ』


「そうだな。そうかもしれない」

僕はそう呟くと部屋を後にした。

―終―

 


<後書き>

「連載1年以上もほったらかして、何外伝なんか書いとんねん!」

ごもっともでございます。

実を言えば、書いていない訳じゃないくて、とにかく出来ないんです(T_T)。

難しいんですわ、なんつーか、この先かかにゃならんところというのが。

その、なんというか、曖昧な、微妙な、いろんな事の何でも無いような移り行きの中で

徐々に事態が推移してくというのが、うまく書けない。

んで、仕方が無いのでその周辺の話なんぞも書いてみたりする訳です。

 

実を言うとこれ、夏コミ用原稿のボツ稿を書き直したものだったりしてます。

もっとも、没って良かった。なんせ、もし没じゃなかったら、斉東深月さんの名作「Camera,Camera,Camera」

とネタは被るわ、どう考えてもあっちの方が面白いわで、辛かった筈。

 

とは言え、そのままここに投稿してしまう恥知らずは相変わらずでんな(墓穴)。

 

それにしても、今回は一人称にしてみましたが、妙なもんですな。この一人称って。

一体、シンジは誰に向って喋ってるor書いているんでしょうな(爆)。

 

●謝辞

冒頭のシンジと友人達との会話については、現実の私の友人達N,S,T,Y

との会話を勝手に改変して使っています。

勝手にモデルにされてしまった友人達に感謝(爆)。

 

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