窓の開いている壁は1つだけ。
頭よりも高い所に鉄格子の嵌まった窓がついている。
窓の幅は肩幅程度しかない。
日中の部屋の明りは、この窓からの物だけだった。
壁はコンクリートの上に黄ばんだ壁紙が張ってある。
あちこちに手の脂の後が残っており、その上煤けている。
畳は、ささくれ立ち、常に湿った感じがする。
カビ、汗、脂、便のにおいが入り混じってこもっている。
蒸し暑い。
今日も雨だ。
看守に言って窓を開けてもらったが、風は通らない。
雨音が良く聞こえる。
音が思考を休ませてくれる。
ここでは考えることしか、することがない。
あれから2年が経つ。
2年前、シンジは未決囚から、死刑囚になり、この独房で執行を待つ身だった。
『ぼくはここにいていいの。』
シンジは唇の端を歪めて苦笑いする。
何ともお笑い草だ。
誰に問うていたのか。
問うて意味のあるような、相手をどこかに求めるなどと。
狂った世界だった。
あの世界。
ネルフ。
たしかに先生のところにいた時よりはマシだった。
一度は、戻ろうかとも思ったが、結局、残った。
だけど、ネルフの人間は皆、どこか狂っていた。
皆、やるべき事はあっても、やりたいことがない。
父さんは、母さんに会いたかったのだろうけれど、
結局、それをやるべきことにまで、やらなければならないことにまで歪めていた。
だから、シンジもやるべきことばかりを考えていた。
必要。必要じゃない。
役に立つ。役に立たない。
それがどこに向っていたか、皆知らなかった。
哀しい人々。
最初は一応、検察の取り調べの形式を保っていたのだ。
「碇シンジ君。
君も強情だねぇ。」
「僕は自分の知っていることを全て話しました。
これ以上何をしろというのですか。」
対面している男の顔は、この暑さにも関わらず汗もかいていなかった。
唇を始終舐めるので、紅く光っている。
いやらしい男。
嬉しそうだ。
正しいことをしていると思っている。
正しいことをして人を責め苛めるのが嬉しい。
そんな男。
シンジの知らないタイプの男だ。
少なくともネルフにはいなかった。
いや、一度保安部の連中に連行されたことがある。
その連中にも似た匂いがした事を思い出した。
「なに、簡単なことだ。
我々が欲しいのは、君が、世界を滅ぼそうとして失敗した、
という言葉だけだ。」
「僕は、世界を滅ぼそうとして失敗したんじゃありません。
確かに、一度は皆が1つに融けてしまった世界を望みました。
でも、そこは無意味な世界でした。
だから、僕は世界が再び現われる事を願いました。
僕は罪を認めています。
僕の心が弱くなければ、あんなことにはならなかった。
それは認めます。」
「だから、それと『世界を滅ぼそうとして失敗した。』
との差は大した距離じゃないってことさ。」
「なら、もういいじゃありませんか。」
「何、悩める少年の過ちじゃ困るのさ。
民衆は、憎むべき相手を求めている。
文句なく悪意一杯の奴をね。」
「......それで、何が得られるんですか。」
「どうだい。どうせ君は死刑になるのは免れまいよ。
だから一つ人助けと思ってくれると、うれしいんだがな。」
「じゃあ、僕の証言なんていらないじゃないですか。
勝手にでっちあげたらいい。」
「そいつはちょっとデリケートな問題があるもんでね。」
ミサトさんや、リツコさん達が死んで、あんな下らない連中が生き残っているなんて。
シンジは、この時、初めてミサトを可哀相だと感じていた。
全てがちぐはぐで、徒労で。
不幸。それはこんな事だ。
死んでなお、死んだ事の意味を踏みにじられている。
あの十字架。どこかに無くしてしまった。
逮捕されたときだろうか。
棒で殴られ小突き回されたときか。
あの十字架で、正気に返った。
だが、それはいいことだったのか。
そう思う自分が情けなかった。
(知っている。ミサトさん。
だって、僕たちは、もう生きている。
だから、僕自信を僕だってどうにも出来ないんだ。
だから、ミサトさんも、そうやって前に向っていった。
無意味じゃない。
でも、その意味は誰かが救ってやらなければ、失われてしまうんだ。)
何回も尋問は繰り返された。
学生服は、いつしか囚人服になった。
シンジは、何時の間にか寒くなったのに驚いた。
あの影響で季節が戻ったのだという。
夜の独房は次第に冷えて、つらいものになりつつあった。
生まれて初めての秋。
「シンジ君。
残念ながら、もう僕は、お相手出来ない。
君は、もう僕の手を離れた。
残念だよ。僕が担当の間に答えてくれたら良かったと思う。
これからもっとつらい目に会うことになると思うが。
元気で。」
独房から出ると、驚いたことに何時も尋問を行っていたあの男が看守の横に立っていた。
シンジにはその男の表情が、言葉が理解出来なかった。
何故なら、その男の目は男が本心で語っているように思われたから。
連れて行かれた所は一面白いタイル張りの部屋だった。壁のあちこちから鎖が垂れ下がっていた。
窓は高い位置に、3方壁一面に開かれ、そこから澄んだ秋の空が見えた。
独房に放り込まれて痛みに暫く気を失っていた。
夜半に意識が戻った。
寒い。畳が冷たくなっている。
月が出ている。
左手を見る。中指と薬指、そして小指が奇妙に捻じれ曲がっている。
間接の所で折られているのだ。動かそうとして腕に激痛が走る。
腕を見るとちょうど、手首からすぐ下の所にはっきりわかる窪みがある。
そこで腱が切られている。
シンジの意志は明らかにそこで断ち切られる。
3本の指はもはやシンジには動かすことは出来ないのだ。
「くっ。」
いたむ。それでも右手で捻じ曲がった指を戻そうとする。
「っくうわああああああ!。」
気が遠くなるが、持ちこたえる。
動かなくなった指など直してどうなるのか、と思ったが、その指を直す事が何か彼らに対する意思表示のように思えた。
あの男達。
前の男は任務の遂行に明らかに喜びを感じていた。
だが、あの男達には、それすらなかった。
検体を切り刻み、その変化を記録する。
それだけの事だ。
それまでにも、そんな物扱いされた経験がない訳では無い。
だが、今思えば、そうした時も相手の人間にどこか脅えていじけた弱々しい顔が覗いていた。
だが、あの男達は違った。
人間や生命を軽蔑していた。
初めてシンジは敵を意識した。
左耳が鳴っている。
頭痛。
鼓膜を破裂させ、針で奥を突つき回された。
針にひっかかった鼓膜をシンジの鼻先に突き付けられた。
消毒薬を左耳から流し込まれた。
何度もメリケンサックで頭を殴られた。
既にシャツの背には血が滲んで、一面べったりと背にはりついて居る。
触れれば痛いにも関わらず、シンジは壁に寄りかかる。
肋骨が呼吸の都度、ぎしぎしと言う。
口の中が気持ち悪い。歯が折れている。血の味と......。
下半身にも不快な痛みがある。
彼らはシンジを性的虐待の対象とした。
無表情な男達による陵辱。
それは、実験動物どころか、人形扱いだった。
壊される人形。つまらないおもちゃ。
もう何も考えられなくなっていた。
だが不思議と死にたいとは思わなかった。
むしろ、シンジは生まれて初めて、生きている事を実感したように思った。
生きていたい。
何故?。
窓の外に月が出ていた。
こんなに澄んだ月夜は生まれて初めて見た。
美しい。
美しい、という言葉がどんな意味を持つのかを、シンジは理解した。
「君は今日から死刑囚だ。」
予想していた事態だ。どうせ、そうできる事は分かっていた。
シンジは死刑囚用の独房に移された。
そこの窓は、前よりも、もっと高い場所に小さく空けられていた。
生きていたい。
だけどもう死ぬんだ。
生きること。
それは必要とされるからじゃない。
生まれてきたからだ。
生まれてきたんだ。この世界に。
僕は生きたい。僕はもう死ぬ。
この世界。
僕が居なくなる世界。
冬が来た。
空が灰色の日。
指先も足先も凍えて居る。
毛布をかき集めるが、体が震えて止まらない。
シンジは想い出を懸命に探っていた。
出来事を思い出すのでは無く、
味わい尽くせなかった、この世界の様々なもの、今まで会った沢山の人々。
そうしたものを細部まで再現してみようとしていた。
これまで、いじけてしまって素通りしてしまったそれらのもの。
空。
雲。
朝。
昼。
夜。
学校。
廊下。
教室。
街。
交差点。
.........。
美しかったんだ。
この世界。
アスカ。
ミサトさん。
トウジ。
ケンスケ。
洞木さん。
リツコさん。
青葉さん。
日向さん。
マヤさん。
冬月副司令。
加持さん。
父さん。
綾波。
カヲルくん。
みんな哀しい人達だったね。
みんなすごく分かってしまえたのに。
分かる分からないなんて、何てちっぽけだったろう。
この世界の中で、皆。生きていたんだね。
シンジは様々な思い出の中で、人々の些細な仕種を不思議そうに思い出していた。
なんて、奇麗なんだろう。人の仕種って。
しかし、「その日」は、中々やって来なかった。
殺される事。
いまやシンジには、その恐怖が良く分かった。
あの時、階段の陰で兵士に頭にピストルを突き付けられた時、何も感じなかったのに。
生まれてきた事。だから生きるという事。
それなのに殺される。
逃げる術はない。逃げる場所もない。
独房は、そうした恐怖に直面させる為の機構だったのだから。
毎日はその恐怖と共に始まり、その恐怖を耐えながら、その日の終わりにようやく、1日の生の延長を感謝しながら眠る。
期日の確定しない死の約束は、それまでの全ての日を、こうして破壊してしまう。
ただ只管、脅えて過ごすだけの時間に変えてしまう。
意味を略奪された、最後の時間。
それはそれ以前の人生をも無意味にしてしまう時間。
春がやってきた。
空気が暖まってくるのがわかる。
朝の日の光がより明るく、やさしくなってくるのが分かる。
体がすこしづつ楽になるにつれ、自然に、気が晴れて来るのが分かる。
そうして、シンジは、これまで考えまいとしていた事を考え始める。
もしかしたら。
そう思い始めている自分に、シンジは困惑する。
どうせ裏切られる。
でも。
押さえつけていた想い。
封じていた記憶。
あの時、アスカに、ただ近づきたかった。
ようやく僕は、アスカ自信に近づきたいと思ったのに。
近づけなかった。気が付くと首を絞めていた。
そうして、どうするつもりだったのだろう。
その向こうに辿り着きたかった?。
でも何故破壊しようとするの?。
分からない。
アスカの手が僕の頬に触れた時、
僕の中の何かが壊れた。
「殺せないもの」
でも届かないもの。
僕はそこに近づきたくて、近づけない。
僕が求めているもの。
ようやく見つけたのに。
だから、取り残された子供。
何を泣いていたんだろうか。
僕らを?。
「気持ち悪い」
その言葉をどちらが言ったのか思い出せない。
シンジとアスカ。
実際には心が通い合ったことなど無かった。
常にすれ違ったまま。強烈に干渉し会いながら。
しかし、互いに良く似ていた。
だから深く理解していた。
だが、シンジはあの時始めて、アスカの中にシンジでないもの、
アスカである前に、アスカであった何かを認めたのだ。
それを愛というのかどうか。
分からない。
しかしシンジは、自分の本心を見付けた事を知った。
(でも、
それは傷つけるかもしれないもの。
愛しいという思いの底にある癒しきれないもの。
恐い?。
いや、恐くない。
それが人だという事だから。
僕が傷つけるなら、僕は離れていられる。
でも思いつづける事は出来るから。)
やがて弛緩の日々がやってきた。
来るはずなのに来ない死の約束。
けれども、再会の願いがかなわない事もまたはっきりしている。
シンジは、全ての事が煩わしくなってくるのを感じる。
だが、辛うじて持ち堪えていた。
(カヲルくん。)
負っているもの。
それが今シンジを支えていた。
死ぬべきではない。
では、
それでは、
......。
(カヲルくん。
僕の方が死ねば良かったとはもう思わない。
君は知っていたんだね。
そんな考えを弄ぶ事こそ、生き物に許されない事だって事。
でも、
僕は自分を許していないよ。
僕は殺した。
だから、もう僕の中に怪物が生まれてしまっているんだ。
僕にも殺せるんだ。
人は、人を殺せるんだ。
あの男達のように。
だから僕は自分を許さない。
許してしまえば、怪物が僕自信になってしまうから。
でも、僕は生きる。
死。
それを決めてしまう事すら、君を殺したのと同じものだから。)
梅雨。
暖かい雨の中で、そこかしこに腐臭が漂う季節。
再会は願うべくもない。
けれど、シンジはアスカのことを考える。
楽しい空想はしない。
ただ面影を、声を、仕種を思い出す。
その心を、その人を、ただ思い出している。
この頃、シンジは自分の感情の純化を願うようになっていた。
アスカに会ったときの為に。
ただ、自分の素直な感情だけが、彼女に示せる全てだと分かっていたから。
彼女はどんな女性になっているだろうか。
まだ、独り不安に脅えているだろうか?。
レイに助けられて泣いていた彼女を見たとき、何も出来なかった自分を思い出していた。
何も出来なかった。
今、考えても、何か出来たとは思わない。
でも彼女の為に泣くことは出来た。
なんの意味も無い?。
でもそれが自分にとっての彼女の存在だ、という事。
僕に出来る事。
父さん。
シンジは父の事を考えるようになった。
僕は、何も知らない。
でも父さんは、母さんに再会したかった。
その事を責める事は出来ない。
本当に母さんが好きだったんだね。
息子を利用してでも会いたかったんだね。
そんなにまで人を好きになれる人だったなんて。
だから、僕は、やっと父さんの事を考えられるようになった。
僕はもう憎むのを止めたよ。父さん。
僕も人を好きになれそうだから。
そんなにも人を好きでいられたら。
少し羨ましい。
哀しい。
もっと早く分かれば良かった。
多分僕が知ってたとしても、父さんは止めなかっただろうけど。
僕は一度、夢を見た事がある。
アスカが僕の幼なじみで、毎朝学校に行くのに迎えに来てくれるんだ。
もしあの世界で、僕が以前の僕のような奴だったら、もしアスカが僕を好きでいてくれたら、きっと彼女を崇めてしまっていたかもしれない。
だからもし彼女を失う事になれば、やっぱり父さんのような事をしようとするかもしれない。
父さんは自分自身では見えなかった自分を、母さんに見つけてもらったんだね。
だから母さんが居なくなって、自分をもう一度見付けるには、ああするしかなかったんだね。
僕は、父さんに捨てられたと思って恨んでいた。
でも、父さんを好きだったんだと思う。
確かに、父さんのしたことは許せない。
でも僕も父さんの助けには、なれなかったね。
シンジは、それまで胸に残っていた重いものが消えていた事に気付いた。
(さようなら。父さん。)
気が付くとシンジは泣いていた。初めて父の為に流す涙。
それから1年が過ぎた。
梅雨の季節。
今日も雨。
シンジは16歳になっていた。
いつ来るか分からない死という状況は変わり無い。
だが、最早、シンジは恐れなかった。
受け入れたのだ。
死に隣接してあるという事を。
窓の外から聞こえる雨音。
もし、今シンジを苦しめているものがあるとすれば、それはただ一つ。
再会の願いだけだった。