やがて曲が終わる時 (「ある神話」続編)


1.Ecce homo.

2.Ecce lignum crucis

3.Popule menus, quid feci tibi?

4.Nos autem gloriari oportet

5.Non est qui consoletur eam ex omnibus caris ejus.

6.Passio:Crucifige,crucifige enum…

7.Kyrie eleison

8.Mortem autem crucis.  ―epilogue

 

あとがき、または言い訳


 

1. Ecce homo.

 

この顔は誰?。

男の子。哀しい顔。必死な顔。

首を絞めている。

 

誰?。

 

シンジ。

 

そう。

シンジという男の子。

 

『男の子なんて大っ嫌い!。』

 

泣きそうな顔。

みんな無くしてしまった子供。

 

みっともない?。

それはわたし。もう、いらないもの。

でも、誰もいないのは何故?。

 

私の右手が動く。

ゆっくりと彼の右頬に触れる。

私の右手?。

触れているのは誰?。

私?。

ママ?。

 

奇麗な涙。

私の頬に、胸に落ちる。

泣いている子。

 

それは私。

私は泣いていたはず。

私の中に、ママが居て何かを囁いている。

止めて!。

私は?。

死んでいたはずなのに。ママと一緒に死んでいたはずなのに。

何故、可哀相と思うの?。

私はどこ?。

私はここ。

でも私は変。もうなにも無いのに。

気持ち悪い....

 

何時の間にかシンジの顔は見えない。

 

青空を舞っているのは......

 

白い翼。

あの形!。

 

殺してやる、殺してやる、コロシテヤル、コロシテヤル!。

 


 

眼が覚めた。

またあの夢。

 

気が付くと、アスカは、ベッドの中で震えていた。

汗が冷えて寒い。

時計を見る。

午前4時23分。カーテンから外を覗く。薄明かりの街。

もう何度も見た夢。

 


 

『僕を置いてかないでよ!・・僕には・・・・ア、アスカが必要なんだ!!』

シンジの瞳。

吸い込まれるような黒い瞳。

 

だが、もうアスカを頼ってはいない。

ただ、哀しそうな瞳。

それは別れへの恐れではなく。

既に失われたものへの哀しみ。

 

――――

そう。

あの時、シンジの言葉はあたしを傷つけた。

何故?。

あたしは、もう空っぽだった。

何を言えばよかったの?。

何を求めてるの?。

 

分かっていた。

ただ、そばに居てくれと、それだけだった。

空っぽのあたしに。

 

それはあたしに求めて欲しいものでは無かった。

あたしに求めて欲しいもの。

でも、もう、あたしが無くしてしまったもの。

それは何?。

 

わからない。

――――

 

アスカはベッドから出て、窓際のデスクの前の椅子に腰を下ろす。

体は疲れが残っている。だがもう眠る気にはなれない。

机の上には、継母が送ってくれた十字架が置かれていた。

父と継母は一度だけ、面会に来た。

せいいっぱい健気な娘の役を演じ、早々に退散して貰った。

父は恙無く義務を果たせた事をよろこんでいた。

それで彼にとって、このことは終わり。

日本に見送った時と同じ。

 

――――

逃げた。

あたしは逃げた。

でも、逃げれば何か見つかると思ってた。

何から?。

自分が拵えた愚かしさの思い出から?。

シンジから?。

結局、あたし、シンジを良く知らない。

はっきりしない子供っぽい奴。

あたしが負けた奴。

あたしをいらいらさせる奴。

だから何も知らない。彼が何を望んでいたか。

 

ママ。

弐号機の中にママが居た。

何故そんな事が出来たのか分からないけど。

ずっとあたしを見ててくれた。

あたしを消してしまおうとしたママじゃなくて、

あたしを見守ってくれていた、ママ。

でも弐号機と一緒に死んでしまった。

 

あの時から、不思議なことに、自分が、なくなってしまいそうな不安は感じない。

 

いらない人間・余り者。

何となくそう思うことに馴れた。

でもそれ以上は面倒臭くって考えられない。

 

仕事は貰えるから。

みんなあたしの仕事を誉める。

でもどうでもいい。

今仕事をするのは、忘れさせてくれるから。

でも何を?。

――――

 

立ち上がると、アスカは、のろのろと服を着替え始めた。

たった一人で迎える朝。

眠りから覚めきらない体が、小さな悲鳴を上げ、着替えを拒む。

アスカは、胸のボタンすら覚束ない指先に腹を立てる。

 

鏡に向う。

鏡の向こうの顔。

少しやつれたけど、自分の顔は好きだった。

好きなもの。楽しい事。

想い出。

だが、これから先については何も見えなかった。

そこにはもう、何も待っていない。

処刑前の気分。

 

 

 

2.Ecce lignum crucis

 

いつものように、食堂はごったがえしている。

セルフサービスで今日のランチを取る。殆ど惰性。メニューなんて考えない。味なんてどれも同じだから。

窓際の席が1つ空いている。となりには頭の禿げた男が、赤ら顔の髭の男と大袈裟な身振りで話している。

アスカが近づくと、一瞬、二人の会話が途絶える。

二人とも、この少女を単なる子供とは見ていないのが分かる。

この研究所でアスカの噂を耳にしないものは居ない。

天才少女。だが誰にも打ち解けない。

 

そんな男達を無視してアスカは席に座る。

そして椅子を窓の方に斜めに向け食事を始める。

食欲は無い。ただ、義務的に料理を食べる。

つまらない食事。つまらない奴等。つまらない仕事。

 

不意に、無性に悲しくなる。手が止まる。

フォークで皿の上の料理を突ついてみるが、口に運ぶ気がしない。

 


 

カールスルーエにあるこの研究所は、もとは20世紀の終わりに政府肝入りで創られた産学協同の情報技術研究センターだった。

広大な敷地に幾つかの研究施設が緑に囲まれて散在している。

 

現在、アスカはこの研究所で、人工知能の研究を担当させられている。

大学院の途中で、日本に行ったため、学位は無いが既に研究室を与えられている。

 

もっとも、この担当には理由があった。

ドイツでもやはりネルフ関係者での帰還者が非常に少なかったのだ。

特にMAGIシステム等の人格搭載型OSに関してはゲヒルン、としてネルフが殆ど独占的に非公開で所有していた知識だった為、この技術の復活には大量の研究者の投入が必要だった。

アスカは、赤木リツコ博士の生前を知る数少ない人物で、且つ研究内容を理解しえるだけの能力を持っていた略唯一の存在だったのだ。

もっとも、アスカがセカンドチルドレンであった事は同僚には伏せられていたが。

 

差し当たって今アスカがやっている事は、ドイツのネルフ支部、及び国連軍が戦略自衛隊に先んじてジオフロント内本部から押収したMAGIシステム関係のドキュメントの整理・体系付けである。

読む事と分類する事。殆どの作業はそれだけである。

MAGIシステムは現在日本で修復する技術者の居ないまま放置されており、アスカに利用できるのは、古臭いワークステーションのみだった。

 

この研究施設の街で彼女は一人暮らしをしていた。

勿論、政府の監視付き、職員住宅の一部屋が割り当てられた。

職員住宅自体は町中にあって、比較的制約の無い生活ではあったが。

毎朝、定時に出勤し、定時(ここでは4時が終業時間)に退勤する。

そしてそのまま、真っ直ぐ家に帰る。

そんな生活を続けて居た。

 

週に一回、研究状況の報告は、彼女の直接の上司であるエクシュタイン教授に報告する事になっていた。

彼はアスカの博士論文の指導教官の役割も持って居た。

それ以外に時偶、部門間の情報交換の会議に出席させられる場合があった。

彼女が同僚達と会うのは、それら極、限られた時間のみだった。

しかし、そうした場合でも、彼女は会話を避けていた。

 


 

「やあ。お嬢さん。ここ、いいかな?」

向かいの席に座ろうとしていたのは、イェルク・ウッティンガー。

2、3回、エクシュタイン教授の研究室で会った事がある。

まだ20歳だが、アスカと同様、飛び級で既に博士号を持って居た。

確か、彼は脳内の「人格障壁」に関しての研究を担当して居た筈だ。

即ち、「魂」となるパターンの研究。

これもネルフと共に失われた知識だった。

エヴァンゲリオンに仕込まれた魂、その方法は既に失われて居た。

いずれにせよ、この研究所の目的の1つはそうしたネルフ関連の技術の復活にあったのだ。

 

金髪。もの柔らかな口調。童顔だが、魅力的な瞳。

身長は、それ程高くはない。

体格は、痩せていて筋肉質では無いが、それでも青年特有の鋭さを感じさせる。

 

「どうして、いつも一人なのかな?。

人間嫌い?。」

「別に。」

 

面倒くさい。幸せそうな男。

押し付けがましくはないが、自信に満ちて居る。

だが、今のアスカには癇に障る。

イェルクは構わず、座って食べ始める。

ただ、目はじっとアスカの顔に注がれたままだ。

 

「何?。」

イェルクは、クスっと笑った。

「君はセカンドチルドレンだったんだね。」

 

虚を衝かれた。アスカは思わず立ち上がる。

 

「何よ!!」

 

一瞬周囲のざわめきが止まる。

 

 

アスカは赤面しながら腰を下ろし小声で言った。

「何言ってるのよ。」

「僕は、エヴァンゲリオン関係の資料には目を通せる立場だからね。」

「じゃ、そんなトップシークレットぺらぺら喋んないで!。」

「だって、その本人自身に言うのは機密漏洩にゃならないから。」

本人は至って無邪気な様子である。

 

それからアスカの顔をじっと見詰めて言う。

「君にとって碇シンジ君というのは、どういう人物なのかな。」

「......!。」

思いがけない質問。

だが、それはアスカの痛いところを突いた。

 

「な、何よ。一緒に使徒と戦ったってそれだけよ。」

「ふーん。

僕は、あのリリスの中での彼の選択の様を知ってるよ。」

「!

何故?。

あれを知ってるの?。」

「ああ。

君も見ていたんだろう。

実は、彼にシンクロ出来るパーソナリティの人間は、あの光景を皆見ていたらしい。

数は少ないが居るんだ。そういう人間が。

僕たちは、そうしたパーソナリティの特徴を調べている。」

「......。」

シンジのイメージの中でのアスカ。

それを思い出しアスカは、苦しくなる。

 

「彼は君を求めていた。

違うかい?。

そして、自分からその心の奥に潜んでいる弱い自分を断罪してしまった。

君の姿を借りてね。」

 

アスカは黙っていた。

 

「いやなのかい?。

でも、彼は純粋過ぎる。

あんなに自分の思いを純化したら、

さぞ、辛いだろうに。」

それはアスカも分かっていた。

シンジの純粋さには、どこか、人を傷付けるものがある。

 

「でも実は、僕は彼に心服しているよ。

あの選択は、余りに酷なプロセスだった。

それは、磔刑だったんだ。」

「何であたしにそんな事を聞かせるの?。」

イェルクは、すこしかなしげな表情で言った。

「機密漏洩のお詫びさ。

日本は、碇シンジ君を死刑にするそうだ。」

 

十字架にかけられた少年。

 

 

 

3.Popule menus, quid feci tibi?

 

アスカの顔から血の気が引いた。

「何故!。

彼が、

彼が世界の再生を願ったのよ!。

彼が願わなければ誰も帰ってこれなかった!。」

「しっ。声が大きい。

これはこっちでも非公開とされている。

各国ともネルフ関係者については神経質になっている時期だからね。

だから他言無用だ。

 

今、日本は軍政下にある。

あの国の脆弱な政治体制は、逆境には簡単にファシズムに転じる性質があるようだ。

ああした政府のご多分に漏れず、今回もスケープゴートだよ。

なんせ、日本はネルフの本部があった訳だし、いずれにせよあの事件はネルフ本部から始まった。

戦略自衛隊は未然に防ごうとして失敗した。

ということなら、当然、ネルフで事件の中心にいた人物をスケープゴートせざるを得ないだろう。」

「.........酷い。」

うつむいた瞳から手に涙がこぼれる。

「もっとも日本政府は執行に躊躇しているようだ。

なんせ、プロパガンダを行っても14歳の少年が犯人というのはかなり無理があるからね。

どちらかというと振り上げた拳を振り下ろしかねている、という所か。」

目を真っ赤にしてアスカは、イェルクに尋ねる。

「ねぇ!。なんとか出来ないの?。」

イェルクは首を振る。

「少なくとも今の所は。

ただし、国連、米国、ドイツはそれぞれ独立して抗議声明を発表している。

どれだけの効果があるかは分からないが、現在の国際状況からすれば、数ケ月は時間が稼げている筈だ。」

「そう。」

「君に伝えるのはつらい役目だが。」

「役目?。」

「教授に仰せつかったのさ。」

「...教授に...。」

(何故?。)

アスカは、つらそうに立ち上がると言った。

「今日は、もう帰る。

教授に伝えといて。」

それから、人混みを掻き分けて食堂を出ていった。

その後ろ姿をイェルクは興味深そうに眺めていた。

 


 

怒りよりも無力感の方が強かった。

明るい陽射しの中を、構内の並木道を歩く。

相棒を見捨てて逃げた盗人。

晒し者にされた罪人。

だが、何の罪なのか?。

 

アスカはベッドに仰向けになっていた。

職員住宅の天井。ただ漆喰塗りのなにも無い天井。

 

胃の辺りがきりきりと痛むような感じ。いたたまれない。

 

(シンジが罪だというのなら、あたしはどうなの。

 

使徒戦には、シンジほど役に立たなかった。

 

戦略自衛隊の人間を何人も殺した。

自分の力に酔っていた。

白いエヴァを倒すときも、

殺戮に酔っていた。)

 

シンジ。

親に捨てられたと思い込んでいた子供。

自分も愛せなくなった子供。

エヴァンゲリオンに乗せられ何回も死地に向わされた子。

親しい人の死を何人も見せ付けられ、その上、未熟さを断罪された子供。

そして今や獄に繋がれ死刑に処されようとしている。

 

(酷い。

酷すぎる。

そんなに罪?。

自分を愛せなかったのが、そんなに罪?

愛されずに育った事が、死に値する罪?

 

シンジは何の為に再生を願ったの?。

死刑になる為?)

 

ドイツに来て半年。

逃げていたつもりは無かった。

逃げようにも、自分の心が勝手にその事に拘ってしまっていたから。

でも、それは単に自分のことを考えていただけだった。

そうやって、自分の中に閉じこもっていただけだった。

 


 

「悪いが、それは、君の為にも、シンジ君の為にもならないな。」

教授の研究室。

無味乾燥なスチールの書棚が数本立ち並び、そこに沢山と書籍、資料の入った袋などが雑然と詰め込まれている。

秘書は居るが、その整理のスピードを上回って混乱が産み出されている。

これは彼のスタイルなのだ。

 

エクシュタインは、彼のデスクの向こうで、伺うような目付でアスカを見ていた。

白髪混じりの髪を狼のように後ろにかきあげている。

落ち着いたもの腰。薄い唇はやや酷薄な感じをさせるが、それを補う穏やかな目。

「でも...。」

「君は冷静さを欠いている。

それくらい自分で分かるだろう。

一体、日本に行って何をするのかね。

君自身、セカンドチルドレンという微妙な立場を忘れてもらっては困る。

何せ、戦略自衛隊を悪鬼のように破壊した弐号機のパイロットだ。

今の軍政下では格好の標的と思わんかね。

説明して分かる相手じゃないんだ。」

 

アスカは、デスクの前に置かれた椅子に力なく腰を下ろした。

「実際には、君を派遣する理由も権限も無い。

君は、現在も監視下に置かれている。

国外へ出ることは許されていない。」

 

泣く少女。

まだ15歳になったばかりだ。

優秀な研究者という事でつい、大人扱いにしてしまうが、実際には、まだ保護の必要な年齢だ。

まして彼女のような生い立ちならば。

「安心しろとはいわない。

そんな気休めが通用する君じゃあないだろうからな。

だが、少なくとも国連も我が国も、米国も外交ルートで出来る限りの努力はしている。

確かに狂った政府だが、それ以上に日本の国内事情は深刻だ。

国際社会に背を向けて乗り切れる状態ではない。

彼らにとっても貴重な外交カードを易々と処刑できる筈はない。

だから今は待つんだ。」

「先生。」

泣きはらした目の少女は、縋るように尋ねる。

「何だね。」

「......。

シンジが一度は世界の融合を求めたのは、

彼が自分を愛せなかったからです。

でも、彼はそれまで愛されたことが無かったから......。

愛されなかったことが、そんなに罪になるんですか。

なんでシンジばかり、こんな酷い目に会わなければならないんですか。」

 

教授は、少女に近づくと肩に手を置いた。

「アスカ。

君は、今、自分のことよりも、

彼のことを思いやっているんだね......。」

優しい心に報いてやりたい、そう思っての言葉だった。

 

「......私、逃げたんです。」

「では、今度は逃げないことだ。

同じ失敗を繰り返す程、愚かでは無いだろう。君は。」

「どうすれば......。」

「今は、君自身の事をすべきだ。

今に君にしか出来ない事で彼を救ってあげられる時が来る。

それまで焦らない事だ。」

 

だが、アスカは既に、可能性を検討し始めていた。

 

かって、欧州統合の夢の象徴だった欧州連合は、解体していた。

セカンドインパクトの被害とその後の混乱は、ヨーロッパ全体の政治的分裂を招いたからだ。

こうした中で、比較的、被害が軽微だったドイツが自然と影響力を強める結果となった。

ネルフの支部がドイツに置かれていたのもその為だった。

一方、ドイツ覇権主義の復活の疑いは根強く残っていた。

 

しかしサードインパクトの結果、そうした疑いどころではなくなってしまった。

人口の約3分の2を失い、殆どの国の経済システム自体が崩壊した。

東ヨーロッパ諸国はまたしても果ての無い民族紛争の泥沼にのめり込んで行った。

難民は、紛争の無い国に流れ込んだが、迎え入れる側には、最早、ゆとりは全く無かった。各国とも、排外主義が横行した。

その結果、もっと多くの人々が飢えと暴力により死んでいった。

 

ドイツがこうした中で比較的被害が軽微だったのは数々の偶然によるものだった。

もともと分権志向だったドイツでは、経済システムの崩壊は深刻なものとはならなかったのだ。

排外主義的な動きは、ここでもあった。

しかし、経済システムの安定が事態を緩和していた。

その事が更に、難民の流入を促し、皮肉なことに労働人口の減少を補填してしまったのだ。

その結果、ドイツを中心とする自然発生的秩序が形成され始めていた。

 

 

 

4.Nos autem gloriari oportet

 

日々は早く過ぎ去る。

アスカは、博士号を難無く取得。

ドキュメントの整理結果は、簡潔極まりない、体系的な表現による一連の論文にまとめられ(結果的にこれが博士論文になった)、一応の区切りを付けた。

もっとも、理論的に整理されたとは言え、その実用化については、今の所、悲観的にならざるを得なかった。

というのも実装技術上も、失われてしまった部分が多く、MAGIを構成するエージェント1つ分のネットさえ、実用になるものは作れそうになかった。

 

同時に、この2年の間、アスカは日本語を再度学び直した。

会話だけでなく文献に当たれるだけの語学力が必要だったからだ。

更に、政治学での学位取得の準備を進めていた。

極東の政治情勢に関するエキスパート。

アスカが狙っているのは、それだった。

 

エクシュタインには、辞表を既に提出してあった。

彼は、予想していた事だと言って、受け取ってくれた。

また、あちこちに自分を売り込む手紙を書き続けた。

 

やがて、アスカは、職員採用の通知を受け取った。

 

ベルリンの外交政策研究所。実態は連邦政府の外交政策決定スタッフ部門である。

この時、アスカは17歳になっていた。

 

 

情勢は大きく変わっていた。

かってあれほど警戒されたドイツが、欧州再統合の核となりつつあった。

通貨・金融制度を維持しきれなくなったフランスは、ドイツの通貨圏になし崩し的に取り込まれつつあった。

そして、世界統一政府設立が国連で具体的に議論に上るようになっていた。

 

シンジの処刑は、未だ行われていなかった。その間に日本では、経済政策の失敗から状況は益々悪化していた。

食料不足。大量の失業。都市の衰退。政権内部での権力闘争も激化しつつある。

電力供給システム・道路・水道等ライフラインのインフラは、日本の伝統的場当たり行政の結果が祟り、急激な働き手の現象と経済システムの崩壊で、容易に回復できないほどの打撃を受けていた。

 

こうした中、何時とは知れず、一つの伝説が流布しつつあった。

サードインパクトは、奢った人類への罰であったこと。一人の少年の浄化と再生への願いが、この世界を奇跡的に救ったこと。

そうして、現在の政権がその少年を獄に繋いでいること。

 

日本政府は、やっきになって反対のプロパガンダを繰り広げたが、一向に効果は挙がっていなかった。

シンジの処刑執行は、国内情勢からも困難になりつつあった。

 

終に、国連は、日本政府にサードチルドレンの収監状況について情報を公開する事を求めた。

 


 

アスカはベルリンに移っていた。

所属は極東局第3部。

主として日本関係の情報分析を担当する。といっても極めて小所帯である。

部長は、現在もベルリン大学で教鞭を執るヤノーシュ・カーロイ、ハンガリー出身。47歳の頭の禿げ上がった熱血漢。

ハンス・シュタッケンベルクは30代半ばで、外交畑での叩き上げ。

そして、佐和子・ツィンメルマンは日本人で、29歳。

ベルリン大学に留学している間に学生結婚し、夫君もこの研究所に勤めている。これが分析スタッフ全員である。

他に情報収集・事務方で数名の担当者が居る。

 

アスカはこの中では飛びぬけて若く、やはり好奇の目で見られるのは避けられなかった。

もっとも佐和子とはすぐに意気投合し、お陰で比較的スムーズにスタッフに溶け込めた。

年齢が近いせいか、アスカは佐和子にミサトを重ねて見てしまう。

もっとも性格はミサトとはかなり異なり、怜悧で、時には辛辣な発言もするが、どんな時も冷静な判断力を失わない為、スタッフの中で一目置かれている存在だった。

姉御肌なところもあって、アスカを妹のように気にかけてくれる。

 

業務は、メディアや大使館から入手されるあらゆる情報に眼を通し、それらを分析した上で、日本情勢に関する対応方針を提案する事。

日常的な業務は、まず情報の収集整理、及び予め設定された視点からの定点観測的なレポートの作成である。

そして、その都度の外交上の課題に応じて、テーマ研究的な形で政策提言を策定する。

特に現在の日本については、軍事政権内部の権力関係の分析、並びに一般民衆の現政権に対する感情の2点が重要な切り口となっていた。

サードチルドレン問題は、この2つの問題の接点に位置する、かなり重要なトピックだった。

アスカは、主に一般民衆の政治意識動向の分析を担当しながら、サードチルドレン関係の情報に常に注意を払っていた。

自分の過剰な関心を押し隠しながら。

ここでも、アスカがセカンドチルドレンであった事は、以前と同様、殆どに人間に知らされていなかったのだ。

 

アスカが赴任して3ケ月ほど経った頃だった。

「国連からサードチルドレン関係の資料を入手したぞ。」

ヤノーシュが勢い良くドアを開けて入ってくる。

アスカは思わず席を立つが、佐和子が怪訝な顔をしたのに気付いてばつの悪そうな顔をして誤魔化す。

「取り敢えず日本側は、国連が派遣した医師による診断は認めたらしいな。」

日本政府は、譲歩した。ただし、付けられた条件が奮っていた。

日本語を解さない医師による事。

もっとも、これまでを考えると大進歩だった。

このニュースは日本国内では報道されていない。

 

診断書によれば、碇シンジには、明らかに拷問の跡があった。

左手の中指、薬指、小指は腱を切られ、動かなくなっていた。

既に切断後、時間が経っており手術しても元どおりに動く可能性は無かった。

左耳は聴覚が無く、体中に多くの傷痕が残っていた。

所見では、恐らく頭部強打の為、脳内に血栓があり、若干の視覚障害もあるらしい。

やはり、刑務所内の栄養状態はあまり良好では無いため、栄養失調状態にある。

 

ハンスが思わず顔を顰める。

「ひどいな。これは。

精神までやられていなけりゃいいがな。」

「アスカ。大丈夫?。」

「え?。」

「顔が真っ青よ。」

「えっ。ええ。大丈夫よ。」

そういうとアスカは自分の席に座った。

ヤノーシュは吐き捨てるように言った。

「こういう事をする政府は、最早命脈は尽きたも同然だ。

さ、仕事、仕事。」

 


 

生きていた。

医師の診断を認めた以上処刑の執行は、当分有り得無いだろう。

けれど、余りに酷い。

一生消えない傷。もうチェロは弾けない。

 

ミサトのマンションで初めて聞いたシンジのチェロ。

思わず拍手をした。あの時の照れくさそうな、でもちょっと誇らしそうな顔。

一番いい顔だった。

あの顔を見る事も、もう無いのだ。

 

『精神までやられていなけりゃいいがな。』

ハンスの言葉は、アスカの恐れを言い当てていた。

心の傷はもっと恐ろしい。

シンジは、もうシンジでいられないかもしれない。

 

研究所の出口で、佐和子が追いついた。

「アスカ。どうしたの?。今日。」

「何でもない。あんまりに残酷な話なんで、ちょっと気分が悪くなっただけ。」

「そう。」

2人は並んで歩道を歩いた。市電の駅までは否応無く一緒だ。

「ねぇ。アスカ。

私、いつも不思議に思っていたのよ。

だって、あなた情報工学の博士号持ってて、カールスルーエの研究所で将来を嘱望されてたって人でしょう。

なのに、わざわざ政治学に転向して、こんなところに来るなんて。」

「変わり者なのよ。

友達もいないし。」

この話題は避けたかった。殊に、佐和子に対しては。嘘を付かざるを得ないから。

「碇シンジって貴方にとって何なの?。」

「......。」

アスカは思わず答えに詰まった。

「ごめんなさい。

答えられないなら、答え無くていいから。

でも、あなたがサードチルドレン関係の情報に気を付けてるの知ってた。

何故って思ってた。」

アスカは佐和子の顔をまともに見れなかった。秘密など、どうでも良かった。

ただ、今話てしまえば、泣いてしまう。

これまで堪えてきた感情が溢れてきそうになる。

だから顔そむけた。

「わかったわ。これ以上は聞かない。

でも、私に何かできる事があったら、遠慮無く言って。

じゃあ、また明日ね。」

佐和子は立ち去った。

傷つけた。差し伸べてくれる手を振り払って。

もう、それがわからない、あの頃のアスカではない。

ミサトにも、シンジにも、自分がどんなに甘ったれていたか。

 


 

シンジ。

彼は自分にとって何なのだろう。

異性として意識するには、2人は余りに時間が無さ過ぎた。

あの頃、シンジは、単に自分を恐れずに近くに居る、数少ない同年輩の男性に過ぎなかった。

たった、一度、2人きりの夜のキス。でも、それは加持をその向こうに見ていたに過ぎない。

しかも加持に対する想いは、今考えれば、漠然とした父性を求める想いと入り混じっていた。

プライドと知識とで、一応女っぽく迫ったりしながらも、その意味が分かっていなかった。

だからこそ、加持は全く子供扱いしていたのだ。

女になることを拒否しながら、なお女として加持に迫ってみせる。

子供っぽい。

 

だが、人間として、シンジと強く結び付けられている。

そうも感じていた。

惹かれていたと言ってもいい。

2人とも似た境遇に育ちながら、大人社会の評価体系に過剰に適合しようとする余り、滑稽なまでにプライドに凝り固まっていたアスカ。それに対し、世界に対し心を鎖し、自分の中にひっそりと住まおうとしていたシンジ。

どちらも病んでいた。

だが、シンジは、同じく病んでいるものの心を分かってしまうのだ。

だから惹かれていた。

 

でも今は?。

アスカは、今のシンジに会うのが恐かった。

彼はアスカの隠された罪をすべて背負っている。

それが彼を引き裂き、砕いてしまっていたら......。

同情や哀れみでは無い。

アスカはシンジの想い出に縛られている。

だが、それすら無くしてしまったら......。

最早、アスカには何も無くなってしまう。

 

アスカは薄々気付いていた。

自分の存在を肯定できない子供。

その不安は、一生自分に付きまとって離れない事を。

 

 

 

5.Non est qui consoletur eam ex omnibus caris ejus.

 

「そんなのは不自然だ。

何故、君は、そんなに碇シンジに縛られなければならないんだ。

そんなものは愛なんかじゃない。

君は、自分の罪悪感から逃れたいから、彼の想い出にしがみついてるだけだ。」

イェルクの言葉に耳を塞ぐ。

「止めて。

わたし、駄目。

駄目なの。

もうあんな事しない。

もう嫌なの。」

そしてそのままアスカは床に座り込む。

嫌だ。

嫌だ。

自分が汚らわしい。

醜い。

「アスカ。

僕を愛していると言ったのは嘘だったのか。

僕よりも、本当に碇シンジと愛していると。」

アスカは泣き叫ぶ。

「お願い。

もう止めて。

あたし、分からない。

愛なんて分からない。

ごめん。

ごめんね。

でも、もう駄目なの。

こんなこと続けてるの、もう嫌なの。」

嫌な女。

恋していると思ってた。

彼の心も体も欲しかった。

 

だから寝た。

 

でもそれは、彼が欲しかったんじゃ無かった。

 

愛なんて言わないでよ。

そんなのが愛なら、あたし要らない。

 

シンジ。シンジ。

助けて。あたしもう耐えられない。

 


 

イェルク・ウッティンガーがベルリンに赴任してきたのは、アスカがベルリンに移って1年後の事だった。着任して早々、オフィスに電話をし、デートに誘うという厚かましさに閉口しながらも、アスカは懐かしさから、思わずOKを答えていた。

 

「結局、君は碇シンジ救出作戦を続行中という訳だ。」

「そうよ。

いけない?。」

「いや。そういう事なら僕とは戦友という訳だね。」

「どういう事?。」

「僕は、その為の交渉チームに採用されたって事。」

クーダムは、サードインパクト以前までとは行かないが、かなりの復興を見せていた。道の両脇の店の明りを見ながら、二人は適当な店を物色中だった。

「悪いな。金が無いもんで簡単な食事しか無くて。」

「いいわよ。別にそんな関係じゃ無いし。」

「あれれ、それは酷いなー。愛しのアスカちゃんに会うために、遥々カールスルーエから飛んできたのに。」

「そうやって長距離旅行するたびに口説いてたら、お金もあっという間に無くなるわね。」

自分がセカンドチルドレンであるという事を、隠さずに居られる気楽さをアスカは楽しんで居た。馴れたつもりでは居たが、やはりストレスは溜まるのだ。

「でも、何で将来を期待されてる科学者が、そんな交渉チームになんか。」

「まあ酔狂かなぁ。

でも、この交渉チームってのは、世界統一政府設立の為の組織の一部って事は言っておいてもいいね。

日本政府の交渉上、重要なポイントなのは確かだからね。

ただ、最終的には現在の狂った政府はすげ替える必要がある。

そこまでを射程に置いたチームだって言えば分かるかい。」

「何やら、汚い手もあり、の仕事みたいね。」

「仕方なかろう。

君も知ってるんだろう。シンジ君の診察結果。」

「......。

ええ。見たわ。」

「ごめん、つらい話だったかな。

でも相手が相手だからね。

既に以前一回、国連は『汚い手』も使ってるんだぜ。」

「え?。」

「例の、シンジ君の伝説さ。

あれは、こちら側の人間が意図的にばらまいたのさ。

もっとも広まったのは日本人がやったことだけどね。」

「なるほど。

『やれることはすべてやっている』って事ね。」

「そう。

だから、僕もやれることは全てやるつもり。

ね。中華がいいな。ここにしない?。」

「あら、結構豪華なお食事になっちゃうわよ。」

「何の。

いつもはもっと食べるのさ。

僕のじいさんが、いっつも僕を痩せ過ぎだというもんだから、何とか直そうとして大食漢になっちまった。

まさか、僕が食費の為にスカンピンになるなんて事までは、予測できなかったらしい。」

 

イェルクとは、その後ちょくちょくデートを重ねるようになった。

勿論、仕事の関係上、ミーティング等で顔を合わせる機会も多かったのだが。

もっともイェルクの所属・位置づけはアスカには良く分からなかった。

はっきりとした説明の無いまま、ミーティングに参加しにくるのだが。

 

最初は、友人との交流に過ぎないと思っていた。

このベルリンで自分を偽らずに会える人物は、彼しか居なかったのだし、カールスルーエでの同僚だったという事で、まるで高校の同窓生と遊んでいる程度にしか考えていなかったのだ。

イェルクと、シンジ。2人の存在が自分にとってジレンマになるなど思っても見なかった。

佐和子はアスカの変化を喜んだ。

ある日の昼休み、研究所の中庭のベンチで話をしている二人を、佐和子はホームパーティーに誘った。

「今度簡単なホームパーティーをやるんだけど。

よかったら二人で来ない?。」

「あ、あたしは......。」

「あ、いいですね。伺いますよ。いつですか?。」

躊躇するアスカと対照的に、イェルクは屈託が無い。

アスカは、これまでそうした社交を避けていたのだ。

確かに佐和子の家に食事に招かれた事はある。

けれど、パーティーに男連れで、とは。

 

「じゃ、これが地図。

遅れないでね。」

「はい分かりました。」

何時の間にか時間と場所に付いては、イェルクが引き取ってしまっていた。

「という訳で、

明後日の午後7時だってさ。お嬢さん。」

「あんたってどうして、そうずうずしいの。」

「何でさ。招いてくれてるんだから行かないのは失礼だよ。

ひょっとしてアスカさまは恐いのかな。」

「あんた、ばかぁ?。

恐い訳無いでしょ。

行くわよ。あんたも遅れないでね。」

「なんの。迎えに参上致します。姫君。」

アスカは思わず笑ってしまった。と同時に、漠然とした不安も感じていた。

自分の中でどんどんと大きくなっているこの男の存在。

 


 

「いいパーティーだったね。」

「ええ。」

少し酔った。イェルクは平気で車を運転している。

「佐和子さん達、似合いの夫婦だった。

幸せそうだったね。」

「そうね。ああいうのっていいわねぇ。」

「アスカ。

僕はアスカとああいう風になりたいんだ。」

突然の告白。だが、アスカは薄々、恐れていた。

何時か、こんな風に言われる事を。

「な、何、突然そんな事を。」

「僕は君を愛している。」

「!。」

「君は、シンジ君を愛しているから?。」

違う。シンジとはそんな感じじゃない。でも。

「では、何故?。」

分からない。

「僕は、君も少なからず僕に好意を持ってくれているからだと思っていた。」

そう。私はこの人を好き。

だから、愛していると言われて嬉しかった。

だって。初めてだから?。

愛されないと思っていたから?。

 

イェルクは、車を止めた。

アスカのアパートの前だ。

アスカは黙って車から降りる。

そしてゆっくりと入り口に向っていこうとする。

「アスカ。」

イェルクが呼び止める。そして後から追ってくる。

「君は、それでいいの?。」

その言葉にアスカは、はっとする。愛してくれるのを求めていたのは私。

ずっと一人だった。

もう独りは嫌。

だから......。

 

その日、アスカの部屋にイェルクが初めて泊まっていった。

 


 

広い男の胸。抱きしめてくれる腕。

暖かい。

私を満たしてくれる人。

肉体の喜びが、これほど心を満たしてくれるとは思わなかった。

 

「忘れさせて。」

イェルクは、アスカの言葉を理解した。

「君には幸せになる権利がある。」

その言葉をアスカは信じたかった。だから彼に縋りついた。

 

ココロノソコデナイテイルノハダレ?。

 


 

アスカは、幸福を味わっていた。

イェルクは2日に一度は彼女のアパートに泊まっていった。

二人で食べる夕食。

二人で眠ること。

二人で食べる朝食。

1日の時間全てが充実していた。

 

ただ一つの事を除いては。

 


 

その日、サードチルドレンについての新しい情報が入った。

それまで、完全に隔離され、1人だけで収監されていた碇シンジは第2新東京市の刑務所に移送された。

一般の死刑囚と一緒に収監されることになったのだ。

「ヒューッ。」

ハンスは、ひやかすような声を上げた。だが、その顔は暗かった。

「どういうこと?。」

アスカは、怖れた。佐和子を見ると、アスカの眼を避けるように顔を背ける。

ヤノーシュは呻くように言った。

「けだものの群れの中に羊を放りこんだんだ!。

連中め。」

部内には、沈痛な空気が流れた。

 


 

彼女は、独り目を覚ました。

誰かに深いところから呼ばれたような気がした。

 

午前2時。

寒い。

心細い。

隣には彼が眠っている筈なのに。

 

うつ伏せに寝ている男の裸の背中。

髪。

耳。

頬。

 

アスカは、そっと手を伸ばす。

そして......。

 

「!。」

 

違う!。

 

恐ろしい瞬間。

おぞましい出来事。

 

これは違う。

違う。

 

違う人。

あの人じゃない。

 

何故か、取り返しの付かない間違いを起したかの様に。

全ての光景が、全ての温もりが、許されないものとしてアスカに現われる。

全てが嘘。

 


 

「ごめんね、ごめんね。

あたしが馬鹿だったから。

ごめんね......。」

イェルクは、泣きじゃくる彼女の肩に手を伸ばす。

そして、彼女が小声で呟いている声。

「シンジ、シンジィ。助けて。シンジ。シンジ......。」

イェルクは、立ち上がり、荷物を手にすると、そのまま振り向かずドアから出ていった。

アスカは、シンジの名前を呼びながら泣きつづけていた。

 

 

 

 

 

6.Passio:Crucifige,crucifige enum…

 

日本政府内部に小さなクーデターが起き、指導者層が一新された。

相変わらず軍政下だったが、後継政権が良くやる例に漏れず、民衆に対しては民主制復活の公約、そして前政権の失点になる件での外交上の譲歩が行われた。

その一環で、碇シンジに対し国連調査団による面会が認められたのは、アスカが20歳になった時の事だった。

 

イェルクと別れてからのアスカは、再び社交を避ける以前の状態に戻っていた。

仕事の上ではイェルクと嫌でも会わなければならない事が多かったが、何とか耐えていた。

何故、二人がこうなったのか、アスカ自身にも整理は付いていなかった。だから、アスカは、忘れようとしていた。

 

そして、イェルクは、国連調査団の一員として日本に派遣されていった。

 


 

「アスカ。後で、ちょっと僕の部屋に来てくれないか。」

その日、ヤノーシュは午前中の会議から戻ると、アスカを自分のオフィスに呼んだ。

アスカが、部長室に入ると、ヤノーシュは窓の傍に立ち、ブラインド越しに中庭を見下ろしていた。

「部長。なんでしょうか。」

ヤノーシュは振り返ると、デスクに向き合っている来客用の椅子に腰掛けるよう促した。

「国連調査団の碇シンジとの面会記録が送られて来た。」

アスカは、思わず身を乗りだした。

「見たいかね。」

「はい。」

「そうか。

送られて来たのは報告書、これは前回と同様、医師の診断書他雑多な記録類と、それから面談の報告書だ。それからビデオ。

面談の様子が収められている。

....。

アスカ君。

2つの事を君にお願いしたい。

先ず、我々はこのレポートの内容を消化して置く必要がある訳だね。」

「ええ。」

「だから、先ず報告書類については、君が皆より先に眼を通して置きたまえ。」

「何故ですか。」

「かなりショッキングな内容も含まれているからだ。

また、この間のように動揺されては困るからな。」

アスカは驚いた。

「知っていらっしゃったんですか?」

「何をだ。

君が、セカンドチルドレンという事についてか?。

君を引き受けると決めた時から知っているよ。

僕は君の上司だ。

当然の事だろう。

そして、2つ目だ。

このビデオ。」

そう言って、ヤノーシュはデスクの引き出しからDVDを取り出すと、アスカに手渡す。

「このビデオは君だけが見たまえ。」

「私だけがですか?。」

「ああ、そうだ。こちらにとって必要な内容については、面談記録に書かれている。

あとは極めて個人的な内容に渡っている。

その部分は君だけが見るべきだと思う。

これはオリジナルだ。コピーは作っていない。

君以外にはみせる必要はない。

返却も不要だ。

見終わってから捨てるなりの処分は君にまかせた。

これらは、全て自分の部屋に帰って見てくれ。

部員には見せてはならん。」

 


 

診断書の内容によれば、相変わらず栄養状態は良好ではなかった。

前回以降に、リンチ等にあったらしい、傷がある。

また、日常的に男色の対象にされているらしい兆候があった。

 

また、今回は前政権下での状況についての報告書も添付されていた。つまり碇シンジは、現政権の正当性を立証するダシに使われているのだ。

 

「裁判」の実態に関する当時の担当官の報告書。

記録者たちは喜々として、事の詳細を記述していた。

加えた危害の方法に関する微に入り細に渡った記述。

肉体の変形と被害者の表情・声に関する記述。

それは殆どポルノグラフィーといっても良い代物だった。

 

また、収監状況についても、看守らの証言記録があった。

それによれば、前回の国連による診断の後、碇シンジへの監視体制は弱まったものの、却って看守達による暴行が繰り返されるようになったらしい。

これによって看守1人が処分を受けている。

更に、その後一般死刑囚と一緒に収監されて以降は、他の死刑囚によるリンチ・強姦に晒され、何回かの懲罰者を出していた。

 

アスカは苦行のようにして全てを読んだ。

読み終えてから、バスルームに行き、吐いた。

涙がひっきりなしに出た。

そしてまた吐く。胃液しか出なくなっても、胃腸の痙攣は続き、何度も嘔吐が込み上げてきた。

シンジが地獄で生きている間、自分が、例え一時的にでも、幸せを味わっていた事。

その醜悪さに彼女は打ちのめされた。

イェルクとの生活の全てが、屍臭に満ちたおぞましいものとして蘇って来た。

 

時計は深夜1時を回っていた。

アスカは面談記録を後回しにして、DVDを見ることにした。

画像が現われてくるまでの数10秒。

それは恐ろしい時間だった。処刑の瞬間を前にした死刑囚。

アスカは、それが自分に対する罰なのだと思った。

 

カメラは質問者の肩越しに撮っていたので、画面にはシンジだけが写っていた。

白い壁だけの背景。

 

あのおぞましい記録と対照的に、そこに写っているシンジは美しかった。

やせこけた顔。あばらの浮かび上がった胸。

だが、そこには、澄んだ瞳と、柔らかな笑顔があった。

透明感のある容姿。

間違いなくシンジだった。

背は大分伸びた。

そして、清潔感のある、どこか中性的な感じのする青年になっていた。

「こんにちは。はじめまして。碇シンジさんですね。」

「こんにちは。」

 

既に死んだものの思い出だけが持っている美しさ。

アスカは、そんな不吉なイメージを振り払った。

一方で、アスカは、シンジの姿に眼を惹き付けられていた。

魅せられていた。

 

「碇シンジさん。

健康状態は、いかがですか。」

どうやら、質問者はイェルクの様だ。日本語を話す彼の声は初めて聞く。

何となく、言葉の端々に刺を感じる。

「ええ。特に問題はありません。」

けれどシンジは全くそれに気付く気配は無い。

「では、まず、貴方が逮捕された容疑についておうかがいします。」

「はい。」

「貴方の罪状は、日本の法規上まったく規定の無いものですが、その点はどうお考えになりますか。」

その質問に思わずシンジは噴き出す。

「どうもこうも。

僕は、あの『裁判』から、この方、法律なんて無くても

裁けるって事を知ってますから。

でもこの質問て何の意味があるんですか?。」

イェルクは、この答えにある嘲りの色に気を悪くしたようだった。

「貴方が、合法性に関して、どう考えているかの確認です。

では、次の質問ですが、

『計画的人類滅亡未遂』という点について、罪状を認めますか?。」

「僕は、罪状を認めるという事は分かりません。

僕の罪は僕の心の弱さの為に、

人類補完計画を半ばまで実行させてしまった事、

その結果、多くの人々を失ってしまった事、です。

意図の有無に依らず、これは罪です。

罰する人々の正当さ、とは関係無く、僕は罪人です。」

「では、判決に服するという事ですか?。」

「自分が今行おうとしている事としてはYesです。

しかし、判決を下した人間の行為に対してはNoです。」

「どういう事ですか?。」

「僕は人類を滅ぼそうとした訳ではありません。

言い逃れではありません。

そうでは無くて、僕は悪意すら満足に持てない情け無い奴だった。

それだけです。

そうして、僕を死刑にしたい人々が皆に信じさせようとしている事、

それは、どんな不幸にも必ず悪意をもった罪人が居て、そいつを見つけ出せば解決なんだという事は、明らかにウソです。

だから、僕はその事には抵抗します。」

「分かりました。」

イェルクは、シンジに気圧されている。中学以来、学校にも行かなかったシンジが、あのイェルクを圧迫している。イェルクに同情しない訳では無いが、痛快なものがあった。

「相変わらず虐待は続いているように見えますが。」

「そうですね。以前程ではありませんが、たまには、ありますね。」

「それでも、大したことはないと?。」

「ええ。以前よりはずっと楽ですから。」

 

シンジは、どこか超然としていた。自分のことについて、無頓着に見える。

 

「つらいことはありませんか?。」

「全てつらいです。」

「ここから抜け出したいと思いますか?。」

「分かりません。」

「何故です。」

「僕と一緒にいる人達が居ます。」

「でも、その人達からリンチを受けているという報告もありますが。」

「そうですね。

そうした報告をした人間に対して怒りを覚えます。

確かに事実ですが、その事が起こっているとき、彼らは眺めて楽しんでいましたから。」

「それなら、彼らに気がねする必要は、ないんじゃないですか?。」

「気がねはしていません。

彼等が悪くないと言う気はありません。

だた、僕も含めて、これから死のうとしている人間達です。」

「だから許すとおっしゃる?。」

「許すも許さないもありません。

ここへ来て、彼等は僕と似ていることを知りました。

彼等は皆、自分を、この世では必要の無い人間だと思っています。

でも本当は愛して欲しいのです。誰かに。」

「でも貴方に何が出来るんですか?。」

「何も。

だから今、僕は彼等と近いのです。」

「求められれば、体を与えると。」

「いえ。

ただ、僕は抵抗しないだけです。」

シンジは、事も無げに言う。

「それでも大した事は無いというんですか?。」

「はい。

私がここへ来てから、もう随分沢山の人達の刑が執行されました。

みんな死んでしまった。

私だけが残っているんです。

僕は死んでしまった人達と、

これから死のうとする人の為に

泣くこと。

死んでしまった人達の中の、

愛されなかった魂を忘れないでいること。

僕に出来るのは、これくらいです。」

眼を伏せるシンジ。

「僕は、今動揺しています。

あなた方が来られるという事は、国連が僕の死刑執行を引き止めている、という事でしょう。

だから僕は自分が生き残る事に希望を持ってしまう。」

「死にたいのですか?。」

「いいえ。

確かに、死ぬのは苦しく無いです。

死ねば、解放されます。

でも......。

いや、だからその望みに身を委ねたく無いんです。」

「でも生きる希望は持ちたく無いと?。」

「動揺しています。

分かりません。

死にたく無いのは確かです。

今もし生き延びる可能性を持ってしまえば、

僕は、日常の痛みに耐え切れる自信が無くなるような気がします。

僕は恐れているんです。」

重苦しい沈黙がしばらく続く。

やがてイェルクが口を開く。

「分かりました。

何かして欲しいことはありますか。」

シンジは顔を上げた。

カメラはまっすぐこちらを向いたシンジの顔を写し出す。

真剣な、訴えるような眼。

「惣流・アスカ・ラングレーという女性を探してください。

そして、会いたいと伝えてください。」

時間が止まる。

 

「!。」

アスカは、思わず口を押さえる。

熱いものが込み上げてくる。

「シンジ....。」

 

「....セカンドチルドレン...ですね。」

「はい。ご存じですか?。」

「......いいえ。

彼女の消息は、こちらでも不明です。」

(イェルク!。)

シンジの顔が曇る。不安の色が眼に浮かんでいる。

だが、やがてもとの穏やかな表情に戻る。

「そうですか。

でも、僕は、きっとどこかで彼女が生きていると信じ続けます。」

「何故、彼女を?。」

「会いたいからです。」

「会ってどうするつもりです?。」

「分かりません。」

そういってシンジはにっこり笑った。

「その為に生きたいと思いませんか?。」

「その為になら生きたいと思っています。

でも、それだけです。」

『それだけ』。それは半ば死者の言葉。

だがイェルクの次の質問は、残酷なものだった。

「...あなたは、

あなたは、彼女がもう昔の事は忘れて幸福に暮らしたいと思っている、とは考えないのですか?。

あの忌まわしい過去を思い出させる、あなたには会いたくない、と思っているかもしれませんよ。」

「僕は、自分を身勝手だと思います。

でも、会いたいと思う気持ちをどうにも出来ないんです。」

「愛していると?。」

「愛と言えるのかどうか分かりません。

でも僕は彼女を求めて居ます。」

シンジの頬が少し紅く染まっている。しかし口調はむしろ誇らしげだ。

「あなたは、サードインパクト以降、彼女に一度も会われていない。

14歳の彼女しか知らないのですよ。

彼女が変わってしまっていたら、どうするのですか?。

あなたは、14歳の時の幻想を追いかけているだけだとは思いませんか?。」

「そうかもしれません。

でも、僕は、あの時、彼女の魂を見たように思いました。

それは彼女がどれだけ変わろうとも、変わらない。

だから、僕は彼女がどれほど変わろうとも愛していると思います。

これが愛と呼べるのならば、ですが。」

イェルクの声に動揺が見られる。彼にとって、これは対決なのだ。

「あなたは、何回も犯されている。

汚されている。

彼女にふさわしいと思いますか?!。」

シンジは自嘲するように言う。

「........。

そうですね。

僕は汚れている。

もっとも、14歳のあの頃から僕は汚れていました。

彼女には相応しく無い。

 

サードインパクトの直前、彼女は精神を病んで入院していました。

昏睡する彼女の病室に僕は毎日通っていました。

彼女に僕を救って欲しかったからです。

ある日、彼女の寝間着がはだけ、彼女の裸の胸を見てしまったとき、

僕は、そこで自慰をしました。

 

その時から、とっくに僕は彼女には相応しく無い。

そう思っていました。」

「では、何故?。」

「分かりません。

 

僕が許されるのかどうか。

それは彼女が決めてくれるでしょう。

 

僕は僕のことしか考えていないのかもしれません。

でも、

あなたは、自分の愛を、分相応の愛に限定出来るのですか?。

自分の心の底からの想いを、そんな風に封じられるのですか?。

僕には出来ません。」

「そうして、あなたが彼女を求める事が、彼女を縛ることになる。

もう彼女を解放してあげても良いとは想いませんか?。

同じチルドレンとして、あなただけが、重荷を背負っていることに、

もし彼女が、そのことを負い目を負っているとしたら、

あなたのその想いが結局彼女を縛る事になる、

そう想いませんか?。」

「そうかもしれません。

だとしたら、僕達は不幸な関係でしょうね。

僕はそれをどうしようも出来ない。

僕は、アスカに近づきたい。

この想いを取ったら、もう僕は空っぽになってしまう。」

「その想いと、先ほどおっしゃられた、今一緒に居る死刑囚達への想いと。

あなたは、それをどう折り合いを付ける気ですか?。」

「.......。

僕はアスカを想う事で、やっと彼等を可哀相だと想えるんです。

アスカを好きでいるから、人を好きで居られるんです。」

イェルクは、苛立たしげに言い放つ。

「それが、誤解かもしれなくても?。

あなたが想ってらっしゃるアスカさんと、現実のアスカさんは何の関係も無い、

私には、そう思えますがね。

あなたは、幻想のアスカさんに依存しているだけだ。

それは生きている人間のする事ではない。」

「そうかも知れません。

 

でも、あなたは、愛されずに育った人の心が分かっていない。

 

皆、誰かに愛されたくて、

でも自分の生きている事を、肯定的に思えない。

例え、物質的に満たされても、例え親しい人達からやさしくされても、

どこかで心が渇いてしまう。

自分が、要らない人間だと思ってしまう。

それが本性のようになってしまった人間。

 

死刑囚の人達は皆、そういう人です。

僕だって同じなんです。

そういう人達に、『甘えるな!。しっかりしろ!。』という事が僕には正しいとは思えないんです。

だってそうしても、心の奥で常に『おまえなんか要らない』という声が聞こえ続けるんです。

その声は、絶対に離れない。

 

そんな人間は生きていてはいけないんですか?。

愛して欲しいと思うことは罪悪ですか?。

苦しいと思うことは、許されないんですか?。

所詮は孤独なものだから、独りで生きろ、と言うんですか?。

独りは嫌だと言っては、いけないんですか?。

 

だから、僕はそうした人達の為に泣くんです。

でも、僕自身、要らない人間だと思ってしまうような奴なんです。

僕は自分の涙を、嘘だと思い始めてしまう。

 

僕は、アスカを好きでいる事が出来るから、やっと自分の涙を信じる事が出来る。

幻想かもしれません。

依存しているかもしれません。

僕はアスカを利用しているかも知れません。

 

でも、この思いを手放してしまったら、僕は人間ではいられなかったでしょう。」

「.....。

でも、現実の人間は、そんな風に愛しはしない。

そんな愛し方は。

 

あなたは自分の純粋さにしがみ付いているだけだ。

その為に、アスカさんをも縛っている。

 

皆、もっと幸せになる権利をもっているのに。

 

あなた自身もアスカさんから解放されても良いはずです。

ここから出て、幸福を求めても良いはずです。」

「もしアスカを望まずに、ここを出ろというのなら、

それは死以外にはありません。

 

現実。

あなたはそうおっしゃった。

 

僕のここでの毎日も現実ですよ。

僕は、ここで、自分の現実の中で、本当と思える事を見つけたんです。

いいえ。

本当と思える事が現実なんです。

それを諦めなくてはならないようなものは、現実の幻想です。

かつて僕が思っていたような。

僕は現実の幻想に怯えて逃げていた。

 

そうして、誰かが愛されていない為に苦しんでいる時、それは幸福も幻想だという事を僕は知っています。

もう、僕は、そんな幻想は要らないんです。」

 


 

ビデオは、それで終わりだった。

映像は終わった。

 

アスカは泣いていた。

余りに、遠くに来てしまった。

6年間の歳月。

2人の体験の隔たりには、最早、少年と少女の淡い恋心を受け継ぐ余地は無かった。

 

シンジが想い続けているもの、それは確かに幻想のアスカでしかない。

だが、アスカは、それを誤りだとは思えなかった。

それは確かにアスカ自身でもあったから。

 

今のシンジも、アスカを縛り続けてきた、あの日のシンジ自身でもあった。

その隔たりと、にも関わらず同じであり続けるもの。

 

それはあの日、二人がなり得たであろうものに繋がっていた。

互いの不在を、そのようにして乗り越えること。

それは、恋では無いかもしれない。

だが、アスカには分かっていた。

2人は、それなくしては生きていけない事を。

選択の余地は無かった。

いつか.....

そのいつかは永遠にやってこないかもしれない。

だが、アスカは迷わなかった。

 

 

 

7.Kyrie eleison

 

帰国したイェルクから、会いたい旨の連絡を貰ったのは、その1週間後の事だった。

一見、親しそうな再会の挨拶。

だが、会うのは辛かった。

コーヒーが冷めるまで、二人は何も言わなかった。

夕暮れの広い店内。客は殆ど居ない。

焦燥しきったイェルクの顔。

「あれを、君は見たんだね。」

「見たわ。」

アスカは冷たく答える。

彼のせいではない。でも、冷たい態度しか出来ない。

「僕には、理解出来ない。」

「そう。」

「君は、彼を愛しているのか。」

「何故、そういう事を聞きたがるの。」

「君は単に、彼を哀れんでいるだけだ。

彼に負い目を感じているだけだ。

そうして彼に縛られている。

だが、彼の不幸は君のせいじゃない。」

「彼のせいでもないわ。」

「では、君は彼の不幸に魅せられているんだ。

君の虚弱な自我が、犠牲者を求めて居るだけだ。」

「ずいぶんな事を言ってくれるわね。

でも、彼のお陰で、あたしが狂わないでいられるというのは確かね。

本当はずっとそうだった。」

「他人に依存して。」

「そうよ。

依存してる。

でもそうしてでないと生きられない人も居るの。」

「彼に会うのか?。」

「分からない。

会いたいと思う。

でも.....。」

 

イェルクはため息をついた。

 

「僕から言ってあげよう。

 

君は結局会うのが怖いんだ。

会っても、君には彼にしてあげられる事は何もない。

あの男が、君と普通の幸せを選ぶとは思えない。

彼も君にしてあげられる事は何もない。

君の生活の支えにもならない。

彼が出来るのは、どん底に苦しむ人間にとって必要な事だけだ。

例え愛していると思っていても、

もう君達は住む世界が違いすぎているんだ。

 

なのに、

何故、君達はお互いに解放してやろうとは思わないんだ。」

 

イェルクが言った事は、正しかった。

そのことは、アスカも認めざるを得なかった。

もはや、余りに違いすぎている。

自分の心に迷いはなかった。

だが、もうそれはこの現実の世界には居場所を持たない想いだった。

「あたしは、解放されたくないから。

あなたの言うことは、そのとおりだと思う。

だけど、あたしはあたしの心を封じることは出来ない。

多分あたしは、彼には会わない。

でも、それは、あたし達が会って不幸になると思ってるからじゃない。

アタシとシンジならやり直せると思っている。」

 

嘘だった。

アスカには、それが儚い夢であることが分かっていた。

あの時、彼から離れなければ。

そう考えてもどうしょうも無かった。

 

私が背負った罪。

彼を苦しめる事になる罪。

だけど、そこから逃げ出すことは許されない。

「イェルク。

もう行くわ。」

アスカは立ち上がり、そのまま振り返らずに出て行った。

 

碇シンジが釈放されたのは、それから更に4年後の事だった。

その年、日本では10年ぶりの総選挙が行われた。

 

 

 

 

8.Mortem autem crucis.  ―epilogue

 

そこは、彼女の聖域だった。

 

その部屋の真ん中には、黒塗のピアノ用の椅子が置いてあり、そこには、チェロが立てかけてあった。

椅子の正面には折り畳み式の譜面台が立てられていた。

譜面台はかなり錆び付いていて、かなり長い時間、畳まれることもなく立っていたことが窺われた。

譜面台の足もとの床板には、エンドピンを立てる為に傷が幾つも出来ていた。

しかし、不思議なことに椅子の上に措かれた弓は、使われた様子が無かった。

 

調度は、それ以外には殆ど無い。

小さな本棚にはアルバムが幾つか。

そして壁一面に貼られた写真。

一人の男の少年時代から、壮年に至るまでの写真。

 

忙しい仕事は、なかなか、彼女がこの家に戻ることを許さなかった。

家で居る、その貴重な時間の殆どを彼女は、この部屋で過ごすのだ。

 

シンジは釈放されるとき、チェロをドイツ側代表団の一員に託した。

自分はもう弾かない。誰か役立てる人がいれば譲ってやって欲しい、と。

シンジの意志には背くかもしれなかったが、アスカは、それを貰い受けたのだ。

それからは、古びたチェロは、彼女が、彼と過ごす唯一の方法となった。

 

この部屋で、彼女は、写真を眺め、時にチェロを構えたりした。

しかし構えるだけで弾くことは無かった。

代わりに、記憶の奥から、その音色を掬い上げるかのように眼を閉じ、耳を澄ませるのだ。

 


 

暑く青い空。

ダイニングキッチンで、窓の方を向いて一心にチェロを弾く少年。

外から帰った肌に心地よい日陰の涼しさ。

少年は、背後に立った少女に未だ気が付かない。

チェロの音が部屋を満たす。

床を伝って音楽は体に沁み入ってくる。

 

やがて曲が終わるだろう。

 

そうしたら、アスカは拍手をするのだ。

少年はちょっと驚いて、照れくさそうな、でも誇らしげな顔で振り向くだろう。

一番いい笑顔で。

 

(終)

 
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●あとがき、または言い訳

 

こんにちは。しのぱです。

殆ど、思い付きで、後先考えず書いた「ある神話」に外伝(笑)や、続編を付けたのは、

往生際が悪い、といわれるかも知れません。

本編(が短いから、こう呼ぶのは気が引けますが)の世界を壊したくない、

という思いもありますが、しかし、書いておきたいことはやっぱり書いておきたい。

 

今回は、アスカの側の物語です。

本編では手紙や想い出の中での人物でしか無く、どうも人間らしくなかったので、

どうしても彼女の想いを見極めておきたかった。

もっとも、ご覧の通り、いささか観念的な話になってしまいました。

設定は、かなり無茶苦茶です(~_~;)。

なんせ、「ある神話」を書いた時点では、アスカが米国籍という事を知らなかったり、

あちこち調査をサボって手抜きしたくらいです。

今回もかなり手抜きです。取り敢えずアスカの国籍は、出生地主義の米国籍もあるが、

本来のドイツ国籍と、二重国籍状態だった、という事で強引に押し切る事にしました。

 

次は、いつになるか分かりませんが、もう1,2本はこの世界で書いてみたいと思います。

では。 inserted by FC2 system