日は既に傾き太陽は今日の役目を終えようとしている。
最後の仕事として周りの物全てを茜色に染めていく。
その光景は見るもの全てに感動を与えるのだが、第壱高の屋上には例外が居た。
光の宿らない目で、何の感動も無く、只落ちていく太陽をその例外である少年は見ていた。
いつからここに居るのだろうか?
いつまでここに居るのだろうか?
それは誰にも分からない、本人ですら分からないのだから...
今の彼は何も考えておらず、時間だけが過ぎていた。
不意に背後のドアがガタンと音を立てて開かれた。
そこに少女が一人現れた。
少女は黒い瞳と髪を茜色に染めて少年の方を見詰めた。
だが少年はそんな事には関心が無いのか、落ちていく夕日を見続けた。
少女は目の前に人が居るのに、本当はそこに居ないのでは−−− と思える位その少年の気配を感じ取れなかった。
そして耐え兼ねた少女は一言だけ発した。
「...フジオ君...」
少年の名は速水フジオ。
少女の名は綾波レイ。
野球部だった者。
そして野球部である者。
二人の間には何とも言いようの無い沈黙が支配していた。
大切な人への想い
第拾九話 壊れ欠けた心
1週間前の勝負でフジオの自信は完全に崩壊した。
決め球のスライダーが打たれてからは面白いようにストレート、シュート、スライダー、全てのボールを完全に読まれていた。
何を投げても打たれてしまい、最後はフジオの体力が尽きてその時点で勝負は終わった。
それ以来フジオは野球部に来なくなった。
今まで築き上げて来た自信が砕かれて、今までの自分を否定された。
誰も自分の事を見てくれなくなった。
そしてフジオは自分の殻に閉じ篭った。
無関心で、誰とも話さずに、全てから逃げ出して一人になった。
だがそんなフジオの後ろにはレイが居た。
同じ1年生であるから。
同じ野球部だから。
そして同じく野球が好きだから。
レイはフジオにもう一度野球部に戻ってほしかった。
純粋にチームメイトを心配していた。
「フジオ君...」
「.........」
レイはフジオの名を呼んだがフジオは答えない。
距離にしてみればレイとフジオの間はそんなに遠くはないのだが、今のフジオを見るととても遠く感じられた。
近づいても近づいてもその距離は縮まらない。
レイにとってはそれ位に感じられた。
だが何とかしてフジオの元に行かなくてはならない。
フジオを説得しなければ−−−フジオを助けなければならない。
それが今の自分、マネージャーとして自分が成さなければならないとレイは思っていた。
「フジオ君。」
レイは再び呼んだ。
すると今度は反応があり返事が返ってきた。
「マネージャーか...
今更オレに何の用だ?
野球部を辞めたオレに...」
だがそこに居るフジオからは精気は全く感じない。
かつての自信は見る影も無く、その目には絶望の色が宿っていた。
それを見たレイに悪寒が走った。
(これがあのフジオ君なの? 私は本当に彼を連れ戻せるの?)
その時レイの頭に先程のマナの言葉が走る。
(結局答えを出すのは自分自身なのよ。私達はその手助けしか出来ないわ)
マナの言葉が今になってようやく分かった。
自分が何を言ったとしても彼には届かない、所詮は他人なのだから。
どんなに綺麗事やお題目を並べても彼の自信を修復する事は出来ない。
それは彼自身が答えを見つけなければならない。
再びグラウンドに戻るのは彼自身なのだから。
野球をするのは他でもない彼自身なのだから。
だから自分にはその手助けしか出来ない。
どんなに自分が願ってもそれを決めるのは彼なのだ。
その事が今になって分かった。
(だから...)
レイは自分の手を強く握り締め、勇気を振り絞る。
(だからこそ、今ここで...)
レイは決心した。
☆★☆★☆
シンジは一人下駄箱のところでレイを待っていた。
「何やってんだろ僕...」
既に大半の生徒が下校して辺りは静まり返っていた。
シンジは壁に背を付けて考えている。
「綾波...レイか...
黒い瞳、黒い髪...
それ以外は似ている...
色の白い肌、しゃべり方、仕草、性格...
僕の妹...レイに...」
自分の妹のレイに似ている為、似すぎている為に気になってしまう。
シンジは綾波レイに妹のレイの影を重ねているのかもしれない。
時々妹のレイと間違えてしまうほど似ているのだから。
だが現実にはシンジの妹はもう居ない。
そして綾波レイによって、その事実が嫌でも思い出す。
昔のシンジならそうなってもおかしくないのだが、今は何故か違っていた。
妹の事は思い出として仕舞う事が出来たのか。
綾波レイを自分の妹と思い込もうとしているのか。
或いは一人の女の子として見ようとしているのか。
シンジは自分の気持ちが分からなくなっていた。
「あれ?
ひょっとして速水君かな?
...何をやっているんだろ?」
シンジのいる位置から屋上にいるフジオの事が見えた。
その瞬間、嫌な予感が走った。
☆★☆★☆
「本当に辞める気なの?」
レイは恐る恐る聞いた。
フジオは表情を変える事無く言い放つ。
「...ああ、辞めるよ。」
予想通りの答えが返ってくる。
レイは更に一歩踏み込んでフジオとの距離を詰める。
「本当にそれでいいの?
そんなに簡単に辞められるモノなの?
キミにとってそんなものだったの?」
「.........」
フジオは何も答えない。
「もう一度考え直してみて、本当にそれでいいのかを。
今は無理だけどこれから頑張れば先輩達を追い抜く事が出来るかもしれないのよ。」
「...無理だよそんな事。
オレは自分の事を特別だと思って来たんだ。
だけど上には上が居るんだよ、碇先輩や榊先輩のようにね...
あの二人が居れば何の問題も無いよ。
だから...ここの野球部に...オレの居場所は無い。」
「.........」
今度はレイが黙ってしまった。
慰めの言葉など何の意味を持たない、却って傷つけるだけ。
何の言葉を掛けてあげればいいのか思い浮かばなかった。
「誰もオレの気持ちなど分からないさ...
オレと同じように絶望を味わった奴以外にな。」
「.........
な...何言ってんのよ。
たった一度負けた位で、キミは1年なんでしょ。
だったらまだこれからじゃない。
落ち込む気持ちは分かるけど...でもそれじゃ何にもならないわ。」
何とかフジオを奮い立たせようとしたが、返って逆効果になってしまいフジオの目に怒りが現れた。
「オレの気持ちが分かるだって...
オマエにオレの何が分かるって言うんだ!
只見ているだけのオマエに分かってたまるか!
オマエみたいのを偽善者って言うんだよ!
そうやって人の心にズカズカと土足で入り込んで、知った風な事を言って、
奇麗事を言って、さも自分が良い事をしたと思っていやがる!
大嫌いなんだよオマエみたいな奴は!!」
「イ...イタイよ...フジオ君...」
気が付くとフジオは力任せにレイの胸倉を掴んでいた。
いきなりの出来事に驚いた。フジオの目に怒りと憎しみが篭り、レイは恐くなって来た。
自分のした事が間違っていたとかそう言う事ではなく、目の前に居るフジオの事が只怖かったのだ。
フジオはレイの気持ちなど構わずに更に力を入れる。
「フ...フジオ君...離して...お願...い。」
うまく話す事が出来ず、恐怖からカチカチと歯を鳴らし、目から涙が出てくる。
いつもの元気は無くなりそこに居るのは恐怖に怯える少女だけであった。
それが返ってフジオの加虐心をくすぐり、ニヤリとフジオの顔が歪む。
「...え?
...嫌...離して、た...助けて...」
レイには何が起こったのか分からなかったが、本能的に危険を感じてフジオから逃れようと暴れ出した。
しかし力で勝てる筈も無く、逃げる事は出来ず、もがいているだけだった。
そしてレイの体が壁に押し付けられ、逃げ場は完全に無くなった。
「イヤアアアアァアアァァアア!!
誰か助けて! 怖い、助けてぇ!!」
レイは最早まともではいられなくなった。
大きく目を見開いて声を上げて暴れる。何とかして目の前のフジオから逃げ出したかった。
だがフジオはそんなレイを嬉しそうに眺め、更に顔を歪ませる。
「オレの気持ちが分かるんだろ?
だったらオレの事を慰めてくれよ。
オレと一緒の絶望を味わってくれよ。」
乱暴にレイの胸を掴み力任せに握るとレイが叫び声を上げた。
「イタイ、イタイよ!
お願いだから止めて!」
声を大にして懇願するがフジオは止めようとはせずレイの制服を乱暴に引き剥がそうとする。
フジオに狂気が宿った。
「ハハハハハハ!
オマエにもオレと同じ絶望を味わわせてやるよ。
誰も見てくれない、誰も信じてくれない、孤独さ。
地獄に落としてやるよ、この偽善者め!!」
「ア...アゥ...ウゥ...」
恐怖からレイは自分が何を言おうとしていたのか分からなくなり、足が竦んで立っていられなくなった。
目は大きく開かれ只1点を見いるだけ、足はガクガクと鳴り力が入らない、そして頭に浮かぶのは絶望の二文字だけだった。
バキ!
しかしいきなり目の前に居るフジオが殴り飛ばされた。
レイには何が起きたのか分からない。
だが今の自分の目の前には自分を護るようにして立つ少年の後ろ姿だけが見えた。
「ア...ウァ...」
レイはまだ恐怖に取り憑かれている為にろれつが回らないでいる。
只、少年の背中だけを見ていた。
「レイに何をする!!」
少年はレイの事を護るようにフジオの事を怒鳴り飛ばした。
レイはその一言で自分が助けられた事を自覚した。
それと同時に安心感からか涙が溢れ出て、少年に抱き着いて泣いた。
少年はレイを優しく包み込み安心させるように声を掛けた。
「大丈夫、レイ?
僕が護ってあげるから。」
「ウ...ウゥ...ありがとう...」
少年の胸の中でレイは安心したように泣いる。
まるで自分の為にこの場所、少年の胸があるように思えた。
恐怖はいつの間にか取り除かれ、安堵の表情を浮かべている。
「碇...先輩...」
フジオは憎しみを込めて少年の名を呼ぶ。
その名を聞き、レイは自分を護ってくれた少年の顔を見上げた。
「碇先輩...」
シンジが護ってくれた事をようやく理解できた。
そしてシンジの顔は大切な人を護る、男の顔をしている事が分かった。
とても綺麗で、それでいて、とても心強く見えた。
「何故だ!
何故レイにこんな事をする!」
シンジはいつに無く真剣な表情でフジオの事を見る。
フジオはそれ以上に憎悪の感情を持ってシンジの事を見る。
「...そいつが悪いんだよ。
勝手にオレの心に入って来たからな。
何も知らないくせに分かったような事を言ってる偽善者がな!
だからオレは...」
「...だからレイを...そんな理由でレイを襲ったのか?
レイはオマエの事を心配しているんだぞ。
それが分からないのか?」
「大きなお世話なんだよ! もう辞めたんだよ野球は!
ほっといてくれオレの事は!!」
「.........」
とても哀しそうな目でシンジはフジオの事を見る。 それがカンに触ったのか声を荒げてフジオは叫んだ。
「そんな目で見るな...同情なんてまっぴらなんだよ!!
アンタもその女と同じだな、そうやって他人を傷つけて、そんなに楽しいのかよ!
...オマエさえ...オマエさえ居なければ...
オレがこんな惨めな思いをしなくて済んだんだ! オマエのお陰で全てが狂ったんだ!
みんな嫌いだ! オレの前から消えちまえ!!!」
自分の思いを全てぶつけたフジオはまだ興奮が冷めず、肩で息をしながらシンジを凝視している。
ずっと喋り続けた口からは、殴られた時に切ったようで血が出て来て、その苦い味がフジオの顔を歪ませる。
シンジはそんなフジオを静かに見ていた。
「最低だよキミは...」
その言葉はフジオに大きく突き刺さる。
だが先程のように言い返す事は出来ず、只睨みつづける事しか出来なかった。
その間シンジはレイの事を助け起こし自分の制服の上着を着せてあげた。
「あ...ありがとうございます。」
シンジの心遣いが嬉しかった。
その時のレイの制服は乱れ、黒く艶やかな髪は乱れ、黒い瞳には怯えが宿り、色白の肌には痣が出来ていた。
そんなレイを心配して優しく声を掛ける。
「立てる?」
「...大丈夫...です...キャッ!」
「レイ!」
「あ...ありがとう...ございます...」
レイはシンジに寄り掛かりながら立ち上がろうとしたが、途中力が思うように入らず倒れそうになった。
しかしシンジの力強い腕に抱かれて難を逃れ、レイは顔を赤らめてシンジに礼を言う。
とても恥ずかしく思えたのだが、何故だかその腕の中、その胸に体を預けると安心できる。
戸惑いを覚えながらレイはその場所が好きになってしまった。
(暖かい...それに...すごく落ち着く...ココ)
そしてシンジはレイを護るように、レイはシンジに寄り掛かるようにして屋上を後にした。
去り際に一言だけシンジはフジオに対して言う。 フジオはその言葉を黙って聞く。
それぞれの瞳に哀しみと悔しさを見せながら...
「さよなら...」
そしてドアが音を立てて閉まる。
まるで心を閉ざすかのように重く分厚い壁に思える。
ドガ!
フジオは壁に自分の利き腕の拳を叩き付けた。
血が滲み出るが痛みは感じられない。
「チクショウ...バカだぜオレは...」
悔しさから涙が零れる。
レイに対して、シンジに対して、自分自身に対して取り返しの着かない事をしてしまった。
その後悔と自責の念から泣いていた。
☆★☆★☆
その頃シンジはレイを落ち着かせる為に近くの誰も居ない教室に入っていた。
屋上を出てからずっとレイはシンジの腕の中に居た。
今はあの状況から逃げられた安堵感と、シンジのそばに居るという安心感から静かに寝息を立てていた。
シンジはそんなレイの事を愛しく思えた。
「同じだな...妹のレイと。」
シンジの妹であるレイはその容姿を理由によくいじめられていた。
他人とは違う髪と瞳の色を理由に。
その度にシンジはレイの事を庇い、時には喧嘩をする事もあった。
その頃のシンジには今のような強さは無くいつも返り討ちにあっていた。
一人対大勢の形で一方的にやられた。
だがズタボロにされながらもシンジは相手に向かって行った。
自分の大切な人を護る為に諦めずに立ち向かって行く。
痛みを堪えながら、血を拭いながら、只レイを護る為だけに。
そうすると相手の方が根負けして一人、また一人とシンジの前から逃げて行く。
自分を犠牲にしてレイを護る、その頃のシンジにはそれしか出来なかった。
相手の事を憎んだ、周りの見ているだけの連中を恨んだ、自分の力の無さを呪った事もあった。
喧嘩が終わる度にそう言った暗い感情を持っていた。
だが喧嘩が終わった後、レイを護りきった後に見せるレイの健気に笑う顔を見る度に、シンジの腕の中で安心して身を寄せている時の表情を見る度に、そう言った感情を消す事が出来た。
シンジにとってレイは護るべき人であると同時に、自分が自分でいられる為の護ってくれる存在でもあった。
今、腕の中に眠る綾波レイと妹のレイの姿がダブって見える。
懐かしさと綾波レイのあどけない姿を見てシンジは知らぬ間に微笑む。
そして呟いた。
「同じだな...
いや...それは僕も同じかな...速水君と、あの時の僕...」
シンジの抱く腕に力が篭り、それと同時にレイが微かに動いた。
しかししばらくすると再び規則正しい寝息が聞こえてくる。
「ん...ぅん...
............スゥ...スゥ...」
シンジはホっとしてレイを見る。
その顔は何処までも優しかった。
「大切な人か...」
夕日で紅く染まった教室でシンジとレイはいつまでも寄り添っていた。
第拾九話 完
第弐拾話を読む
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