「なあシンジ、なんでオマエは変化球を投げないんだ?」


シンジが野球の練習を中断して休んでいた時、不意に質問が飛んできた。
クルリと声のした方向に首を向けると、メガネをした一人の少年が立っていた。
彼の名は 『相田ケンスケ』 シンジの小学校時代からの親友だ。
その親友にシンジは汗を拭きながら答える。


「う〜〜〜ん...
 やっぱりエースって言葉に憧れているのかな?
 ほら、その手の野球マンガに出てくるエースって、ストレート一本って感じだよね。
 僕もそんなエースに憧れてるのかも。」
「い、意外だな...まさかそんな理由で投げないなんて...」


シンジの意外な所を知った所為なのかケンスケは唖然とした。
その間の抜けた表情が可笑しかったのか、シンジは思わず吹き出してしまった。
そこでやっとからかわれた事に気付き、ケンスケはシンジに突っかかる。


「コラ、シンジ!
 よくも騙したな!」
「ハハハ、ゴメンゴメン。
 だけど半分は本気なんだ。」
「ホントかよ。」
「うん、やっぱりエースっていう存在は強くなくちゃいけないからね。
 その強さの証っていうのは、球速と球威だと僕は思うんだ。」


シンジは先程とは違って透き通ったような声で答える。
それは迷いが無く、そして強い意思が現れていた言葉だった。
ケンスケはそんなシンジを見て、半ば呆れ、感心もしていた。


「ま、それもいいかもな。
 変化球だって魔球じゃない、打たれる時だってあるからな。」
「そうだね、確かに変化球はすごいよ。
 それを持っているだけでピッチングの組み立て方が違ってくるからね。
 ...けど僕はそんなピッチャーにはなりたくは無い、変化球を投げるピッチャーは沢山いるからね。
 僕だけの...僕にしか出来ないピッチングをしたいんだ。」
「それでか...全くオマエは純粋だな。
 確かにそんな考えをするピッチャーは少ないな。」


ケンスケは感心していた。
シンジのピッチングにはこだわりがあった事を知った。
だがすぐにケンスケの口調が、今までとは打って変わって真剣になる。


「けどなシンジ、それは生半可な努力じゃ出来ない事だぜ。
 ...いや、努力だけではどうにもならないかも知れないんだ。
 それでもオマエは目指すのか?」
「うん、分かってる。
 ...僕は普通のピッチャーにはなりたくない。
 これが僕だという証が欲しい...誰もが認めるピッチャーになりたいんだ。
 強くなるんだ...絶対に。」


シンジは強い意思を込めて誓う。
その顔は普段の優しさは消え、男の顔をしていた。

だがケンスケは最近思う事があった。
シンジが口にする 「強さ」 という言葉には、もっと別の意味が含まれているのではと。
現にその言葉を口にする時のシンジは妙に大人びた表情を見せる。
それは中学生が見せるモノでは無い。
その理由を知るケンスケには分かっていたのだ。

だからこそ、シンジが自分の想い描くピッチャーになれると確信していた。
変化球に頼る事の無いエースになれる事を...











大切な人への想い

第参拾弐話 エースの証











話は進み7回の裏の始め−−−−−
いつの間にか投手戦になっていた。

第壱高校には圧倒的なスピードとコントロールを誇るシンジが、相洋学園にはHスライダーを始めとする様々な変化球を持つ投手が、お互いに引かない。
2回の表に取った1点、それ以後は全く動きが無く7回の裏まで進んでいた。
しかし回を重ねる毎にボールにも慣れてきたのか相洋学園にもヒットが出て、四番の松田ワタルの打順が回ってきた。

ランナーを置いてのワタルとの対戦は今回はこれが始めてであり、第壱高校バッテリーにも緊張が現れる。
1点の重みを知っている二人は、ここでフォークボールの投入に踏み切ろうかとしていた。

そしてその事はすぐに可決される。
なにしろここで四番を押さえて上手く事が進めば、最早四番に打席が回る事は無いのだ。
問題があるとすれば何球目に投げるか、それだけである。
打ち取る時の為に投げるか、もしくは精神的に追い込む為に早めに投げておくのか...
その判断はバッテリーであるシンジとカヲルに委ねられている。


(どうする、シンジ君)
(試合は終盤に差し掛かったんだ、それにこの打席を押さえればもう...)
(そうだね、けど油断は禁物だよ。
 彼は四番なんだから、しかも甲子園経験者でもある...)
(分かってるよ、カヲル君)


シンジ達のサインは決まり、投球モーションに入った。
それに合わせてワタルも動く。
1打席目はピッチャーフライ、2打席目はヒットとなっている。
このようにワタルはシンジのボールに慣れてきている。 そのまま行くのならば...

シンジは右腕を振り下ろしボールは放たれる。
コースは低め、スピードは今までに比べると遅い。
ワタルはこれならばと思い、打撃体勢に入る。

タイミングは正確だった。
しかしボールは振り出したバットに当たる事は無かった。

























ストン

「なに?」

























ワタルの体に戦慄が走り、しばらく動けなかった。
ボールはホームベースの辺りでバウンドし、カヲルがそれを落ち着いて捕球する。
予想以上の落差だったのか、カヲルは安堵のため息を漏らす。


「ふぅ...危ない危ない。
 全くシンジ君、君って人には驚かされるよ。
 今までで一番の落差だったね。」


カヲルはミットに収まったボールを見詰め、一人呟く。
一方、相洋学園側では驚愕の色が目立つ。
試合は7回、終盤に差し掛かって切り札とも言えるフォークボールが投げられたのだ。
今までのスピードボールだけでなく、変化球が加わった。
自然と焦りと絶望の色が出てくる。 四番であるワタルでさえヒットしか出していないのだ、無理も無い。

シンジがカヲルからの返球を受けると、今まで以上の歓声が上がる。
1−0で膠着状態が続き、力が互角かと思われた時に投げられた切り札。
試合の流れは完全に第壱高校に流れ始めた。



しかしワタルは落ち着きを取り戻す。
周りの騒然とした状況が却って落ち着かせたのか、黙ってシンジを見据える。
その目にはある種の自信が見える。


(フォークボールか...逆にチャンスでもあるな)


ワタルは数多の修羅場をくぐり抜けてきた者だけが持つ落ち着きを払う。
そう、ワタルがシンジより優れているモノはそれだった。
シンジはワタルほど実戦を経験していない。 そしてワタルのような大舞台を経験した事が無いのだ。
ワタルは甲子園という全国を相手に闘っていた。
そしてその中にはシンジのようなフォークボールを得意とする投手もいる。

現代野球は言わば変化球の歴史でもあった。
そして高校野球もそれに沿う。
数多くの変化球を身に着けて強打者と闘ってきた。
カーブ、スライダー、シュート、フォークなど、今の野球はそれらの変化球無しでは語れないほどになっている。

ワタルはその変化球の歴史の中を、甲子園という大舞台を経験していた。
それらの変化球の対策も数多く身に着けている。
しかしそれは野球で最強を目指す者にとっては当然の事である。
この変化球の歴史の中をまさしく 「生き馬の目を抜く」 様な思いを経験し、それで初めて生き残れるのだ。

今までのシンジはその観点からすると珍しい存在だったのだ。
球威と球速、そして正確無比なコントロールで圧倒してきた。
このような投手は極めて希少な存在なのだ。 だからこそワタルのような強打者にも対等に渡り合えたのかもしれない。

その投手が変化球に頼ってしまう。
しかもシンジの場合は変化球を身に着けて日が浅く、経験では雲泥の差が生じる。
そうなると読み合いでは自然とワタルに軍配が上がる。
それ程までにワタルは変化球の世界を渡り歩いていたのだ。

だからこそワタルは落ち着いていたのだ。
そして目の前にいるシンジが普通の投手に成り下がってしまうのを静かに待つ。
狙い球はただ一つ、フォークボールのみであった。










☆★☆★☆










第壱高校スタンドではシンジのフォークボールから、流れがこちら側に来ているのを感じて勢い付いている。
しかしレイだけは違っていた。
虫の知らせか第6感か、はたまた女の勘とでも言うのか。 打席に立つワタルを見ると何故か胸騒ぎがするのだ。
その事に気付いたのか、隣にいるマナが心配そうに話し掛けてきた。


「どうしたの、レイ?
 顔色が悪いわよ...」
「なんか...いやな予感がするんです...
 あのバッターを見ていると、そんな感じがするんです。」


レイはいつに無く真剣な表情で話し、ワタルから視線を外せなかった。
スコアブックを持つ手が微かに震えている。
静かだがワタルが放つ 「何か」 に脅えるようでもあった。
しかしそれはレイだけが感じ、マナには何がなんだか分からないようだ。


「...考えすぎよ、レイ。
 確かに相手はあの松田ワタルだけど、シンジ君なら大丈夫よ。
 絶対にあのフォークボールは効いている筈。」
「.........」
「...レイ?」


マナの励ましもレイには届かない。
それどころか、だんだん不安が増大してくる。
のどが乾き、レイはつばをゴクリと飲み込む。


(碇先輩...)


レイが不安に脅えて見守る中、シンジは投球体勢に入り2球目を投げる。










「ストライーク!」


シンジの放ったボールがキャッチャーミットに突き刺さり主審が判定を下す。
スピード、コントロールは共に最高レベルのボールだ。
そのボールを前にしてワタルはピクリともしなかった。
知らない者が見れば先程のフォークボールが効いていると推測するだろうが実は違った。


(ストレートか...相変わらず凄まじいボールだな。
 恐らく外野に持って行くのが精一杯という所だな...)


ワタルは冷静に自分とシンジの力を分析する。
ストレートは投手の球速と球威が最大限に現れる。
変化球の場合はストレートとは違い球威も球速も落ち、失投率も跳ね上がる。
ましてやフォークボールはその悪い影響が他の変化球よりも率が高い。
その事からストレートでは球威に押されてしまうが、フォークならばスタンドに飛ばせるとワタルは踏んでいた。
そして次のボールがそのフォークだと予測する。



ワタルが考える中、シンジとカヲルは追い込んだ事によって緊張感が幾分和らいでいた。
それと同時に勝ち急いでいる為に、次の投球で決めようという考えが二人を支配する。


(次で決めるよ、カヲル君)
(じゃあ最後はやっぱりフォークボールで?)
(うん、それで終わりにさせる)


若さ故に、実戦経験が少ない為に、相手を過小評価してしまった為に安易な考えを持ってしまう。
松田ワタルが多くの実戦を積んでいる事を二人は考慮していなかった。
そしてサインは決まり、3球目が投げられる。



レイの胸騒ぎは依然として続いている。
ワタルは次のボールがフォークだと読み、体勢を整える。
シンジはいつも通りのフォームでフォークを投げる。


ビッ!


ボールはシンジの右手から離れ、カヲルのミットへ向かって走る。
ワタルはそれに合わせて左足を踏み込み腰に力を溜める。
そしてバットは振り出され、カヲルがそれを後ろで確認する。






























その時、カヲルの表情は凍り付いた。






























キン!






























快音と共にシンジは驚愕し、ワタルは会心の笑みを浮かべる。
シンジの投げたフォークボールが見事に打たれてしまった。
そして打球はグングンとライト方向に伸びて行き、球場にいる全ての人間はそれから目が離せない。

ライトのリュウスケは懸命に追うが、あまりにも飛距離がある為に途中で諦める。
第壱高校ナインは恨めしそうにフェンスを越えて行く打球を見送る。










ドサ!










静かな音だが球場に響き渡った。
それと同時に球場が震える。
誰も予想する事が出来なかったのか、スタンドは総立ちとなり騒然とした。
まだ信じる事が出来ないのか、シンジは呆然とボールが越えたフェンスの辺りを見詰める。


「そんな...」


それだけ言うのがやっとだった。
そしてファーストに居たランナーがホームベースを踏む、すると相洋学園側スタンドから歓声が上がる。
カヲルの顔から笑みが消え、その光景を黙って見詰める。
ワタルはダイヤモンドを回りながら、呆然と立ち尽くすシンジを見ている。


(甘いな、碇シンジ。
 変化球を打つには読みがモノをいう。
 そしてそれは経験の差がはっきりと出る。
 ...意外なところに弱点があったな)


経験の差−−−
それはシンジ達、第壱高校野球部に足りない物であった。
いかに強い者が居たとしても経験の差はそう簡単には埋まらない。
ましてや実力が均衡している状況ならば尚の事である。

シンジは静かにホームを目指すワタルを複雑な心境で見る。
完全にシンジの投球を読んでいた。
フォークボールは縦に変化するという性質から、打つには完全に読んでいなくてはならない。
松田ワタルに対する認識の甘さが出たのだ。


「1球見ただけで打つ事が出来るなんて...
 甲子園ベスト4の肩書き...伊達じゃないって事か。」


ワタルがホームベースを踏み試合はひっくり返された。
7回に来て1−2と相洋学園のリードとなった。
相洋学園スタンドは2ランホームランで息を吹き返し、応援にも熱が入る。
終盤に差し掛かった時にこの逆転劇で、流れは一気に相洋学園へと変わる。



一方、第壱高校スタンドはすっかり静かになっていた。
シンジ達の力を一番良く知っているレイとマナは驚きを隠せない。
先程のレイの言葉−−− いやな予感が的中したのだ。


「まさか、あのプレッシャーの中でシンジ君のボールを打つなんて...」
「それもフォークボールですよ、今のは...」
「うそ!?
 じゃあアイツはシンジ君の投げるボールを読んでいたというの?」


レイは黙ってうなずく。
甲子園ベスト4の四番の実力はレイとマナが考える程、甘くは無かった。
しかしレイの胸騒ぎは依然収まらない。
冷や汗が流れ、マウンドに立つシンジを心配そうに見詰める。










☆★☆★☆










マウンドには第壱高校ナインが終結した。
もちろんこれから先の事を話し合う為である。
なにしろシンジを始めとする殆どのナインが気落ちしていたのだ。
以前やる気があるのは、ムサシとリュウスケとキャプテンであるタツヤだけだった。


「スイマセン、打たれてしまって...」
「気にするな、シンジ。
 相手はあの松田ワタルだ、経験の差ではオレ達と雲泥の差がある。」
「そうだよ、シンジ君。
 あの時僕がもっと気を付けていれば、こんな事にはならなかった。
 甘く見ていたよ、あのバッターを。」
「でもカヲル君...」


内罰的なシンジは自分を責める。
しかしここでキャプテンであるタツヤがシンジの言葉を強引に断ち切る。
そして全員に言い聞かせるように話す。


「シンジ、自分一人を責めてどうにかなると思ったら大間違いだぞ。
 もっと周りを信じろ。
 取られたモノはオレ達が取り返す。
 だからオマエは今やるべき事を、投げる事を忘れるな!」
「キャプテン...」
「もっと自信を持て!
 オマエは第壱高校のエースなんだぞ!」
「!」


シンジはエースという言葉に反応した。
かつて自分が想い描いたエースの証を、いつの間にか自分が変化球に頼っていた事を思い出す。


( ...僕は普通のピッチャーにはなりたくない)


シンジはその時の想いを忘れてしまった事を恥じる。
すると再びシンジの体に闘志が宿り、目に光が戻った。


「スイマセンでした...あと残りの回は必ず押さえます。
 だからみんなも頑張ってください。」


シンジの言葉に強い意思を感じて第壱高校ナインは安心した。
そして各々が守備に散って行く。
エースが再び自信を取り戻した事により第壱高校ナインも活気付いた。
試合は終盤になったのだがまだ終わってはいない、諦めるのはまだ早いのだ。










「大丈夫かい、シンジ君?」
「ゴメンねカヲル君、心配かけて。
 これからは今まで通りストレートだけでいくから。」
「うん、いいよ。
 その方がシンジ君らしくていいからね。」


カヲルはその言葉に大きく頷いて自分の守備に向かう。
シンジは打席に立とうとする五番打者を見据え、自分が想い描くエースを思い出す。
変化球に頼る事無く、力だけで押さえるというエースの姿を。










「ホウ、立ち直りが早い。
 さすがと言うべきかな?」


ワタルはベンチの中でシンジの姿を見て呟いた。
だがその口許はニヤリと笑っている。
そして今までベンチの中で静かに座っていたシンヤに向かって話す。


「そろそろ出番だぞ、シンヤ。」


その言葉を聞き、シンヤと呼ばれた少年は立ち上がる。



第参拾弐話  完

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