闘いは終わった。
両軍ともホームベースを挟んで並び挨拶をする。
観客席からはその試合に惜しみない拍手を贈っている。
そして今まで敵同士だった者達がそれぞれの敢闘を称え握手を交わす。
敗けたチームはグラウンドから去り、新たなるスタートに向けて自分達を見直さなければならない。
勝ったチームはまだ闘い続けなければならない。
自分達の夢を叶える為に、そして敗けた者達の為にも...
両軍とも挨拶を終え、それぞれ応援してくれたスタンドに向かう。
だが二人の球児だけは自軍のスタンドへ向かわずに互いを睨み合い対峙していた。
敗けた方の球児はこの試合に納得出来ないのか睨み続けて動かない。
勝った方の球児はその冷め遣らぬ闘気を軽く受け流す。
そして敗けた方の球児が口火を切る。
「鈴原トウジ!
オマエが勝ったと思ったら大間違いだぞ!
オレは認めないからな...絶対に!!」
敗けた方の球児は怒りを露にして鈴原トウジに食い掛かる。
この試合、確かに二人の活躍を見るとトウジにではなく敗けた方の球児に軍配は上がっている。
しかし勝ったのはトウジのチームだった。
だからこそ、個人の力では劣っていないからこそ納得が出来なかった。
それを見てトウジは落ち着いた口調で言う。
「松田ワタル...やったな。
オノレは何も分かっとらん。
ま、実力やったらワシの敗けや...だがそれ以外の事はワシの足元にも及ばんわ。」
「...何ぃ...それ以外だと?
力以外で何が試合に必要だというんだ!
1年坊主が知った風な事をぬかすな!!」
最早一触即発の状態になってしまった。
両軍とも二人が心配になり集まっているが二人の間に入る事は出来ない。
二人の球児が創り出した空気がそれを許さなかったのだ。
だがこれ以上騒ぎを大きくする訳にはいかないと思ったのか、トウジが最後に言う。
「ワシはオマエにだけは敗けん、敗ける気がせぇへんワイ。
自分一人の力だけで勝てると思ったら大間違いや!」
それだけ言うとトウジはワタルに背中を向けてその場から立ち去る。
取り残されたワタルは尚も食い掛かろうとしたが相洋ナインによって押さえられた。
それでも収まらないのかワタルは叫ぶ。
「オレは認めないからな!
来年、来年こそは...オマエのその言葉を否定してやる!」
甲子園の喧騒の中、ワタルのその言葉が響き渡る。
だがその言葉はトウジの背中に届く事はなく、トウジの言葉はワタルの心に刻み込まれた。
再戦した時にその言葉を否定する為に...
しかしその翌年、否定されたのは松田ワタルだった。
その言葉が何を意味しているかが分かり、現実にその言葉に直面している。
ワタルは去年のその事を思い出し、遠く離れたライバルの事を思う。
「人一人の力では無理か...オマエの言葉は正しかったよ、鈴原トウジ。
...だがまだ敗けた訳ではない、それでも勝たなければ...オレの夏が終わる。
諦めるには...まだ早い。」
松田ワタルは第壱高校を静かに見据える。
大切な人への想い
第参拾伍話 信じる心(後編)
1アウト、三塁。 カウントは1ストライク、2ボール。
8回にシンヤが登板してから第壱高校が初めて得たチャンスだった。
アウトカウント、ボールカウントから見ると当然スクイズも有り得る。
その為内野はバックホーム態勢であった。
しかしカヲルの場合は長打も有り得るので相洋学園にはかなりのプレッシャーが掛かる。
シンヤはその重圧に耐えながら4球目を投げた。
「ボール!」
スクイズを警戒しての投球なのか、それともプレッシャーに負けたのか、ボールはストライクゾーンに入る事はなかった。
初めて経験するその危機にシンヤは困惑する。
今までも危ない場面に遭遇して来たのに、今感じる重圧は比較にはならない程大きい。
シンヤは焦りから息が荒くなり、その表情にも変化が出てきた。
(...汗...このオレが汗を流しているのか?
なんなんだコイツらは? オレの力が怖くはないのか...)
絶え間無く続くプレッシャーにシンヤは戸惑う。
初めて味わう恐怖に本能だけが反応し、頭では理解出来ないでいた。
その事は誰が見ても明らかだった。
そして予想外の早さで崩れ始めたシンヤを早めに交代させるかで相洋学園の監督は迷っていた。
勝利を優先させるならば今すぐにでも交代させるべきなのだが、それではその場しのぎの処置にすぎない。
もしその事を実行すればシンヤは二度と立ち直れなくなる可能性が十分考えられ、次の世代である球児を育てる為にもそれだけは断じて許されない事だった。
その事はワタルも考えていた。
そして自分達の夢を託す為にも、シンヤには今までのように一人で勝つのではなく仲間の力を信頼してほしかった。
この様に相洋学園サイドが焦る一方、カヲルは落ち着きを払いながらも別の意味で焦る。
(恐らく彼は降板になる...となると折角打ち崩すチャンスが出たのに失われてしまうね。
意外と脆かったんだね、彼は...けどこれからどうしよう?
このままだと4ボールで出塁になる...)
カヲルが懸念する事はこのままだと三塁に居るケイタが生還出来ない事であった。
ふと視線をケイタの方に送ると彼は次のバッターであるタツヤの方を見ていた。
そのタツヤを見てカヲルは我に帰る。
(そっか...僕の後にもまだ先輩達が居るんだった。
しかも三番と四番...僕も一人じゃない事を忘れる所だった)
その考えによりカヲルはいつもの笑顔に戻りプレッシャーを与え始める。
そしてケイタもリードを進めてプレッシャーを与える。
二人からのプレッシャーを受けシンヤの神経はすり減らされ、最早まともな判断が出来なくなる。
戸惑い、焦り、苛立ち。 それでもピッチャーは試合を進めなければならない。
今のシンヤにはマウンドからキャッチャーまでの距離がとても長く感じられた。
「くっ!」
ボールはシンヤの手から放たれた。
しかしコースは大きく外れキャッチャーが大きくジャンプしてなんとかワイルドピッチを避けた。
シンヤはそれを信じられないような顔で見る。
見えない敵との闘いがこれほど辛いモノとは思わなかったようだ。
そして初めて経験する敗退−−− シンヤは一塁に向かうカヲルを濁った目で追うのが精一杯だった。
1アウト、ランナーは一・三塁となり、そこでワタルが動く。
無論ピッチャーの交代を告げる為である。
監督も同じ事を考えていたようで、黙ってピッチャーの交代を承諾した。
「交代だって?
オ、オレが...交代...」
「そうだ、交代だ。」
シンヤの言葉にワタルは冷たく言い放つ。
8回のピッチャー交代により、今まで外野を守っていたピッチャーは既にマウンドに来ている。
後はボールを渡してシンヤがマウンドから去れば交代は成立する。
だがシンヤは俯き、ボールを握り締めたまま動こうとはしない。
そして微かにだが体が震えていた。
「どうした、シンヤ。
...交代だぞ。」
「...オレに逃げろと言うのか...」
体を震わせながらも自分の敗けを認めようとはしない。
しかしそれが単なる虚勢だという事はワタルには分かっていた。
そしてワタルは最後の宣告を告げた。
「もう一度言う...交代だ。」
「テ、テメエ、オレを笑い者にする気なのか!?」
「いい加減にしろ、シンヤ!」
突然横から交代にきたピッチャーに怒鳴られたが、シンヤはそのピッチャーを睨み付ける。
だがそれまでの勢いが何故か急に無くなり黙り込む。
その理由はピッチャーの目にあった。 本気でシンヤに対して怒っていたのだ。
今まで他人の自分に対する怒りという感情を感じた事はあったが、目の前にあるそれは全く別次元の迫力があった。
「オマエ一人の試合じゃないんだぞ!
この試合はオレ達の試合だ、それが分からんのか!!」
「グッ.........」
「ボールを貸せ。」
シンヤは迫力に敗けてボールを渡した。
何もしゃべる事が出来ず、シンヤはただ黙ってマウンドから降りていく。
自分に対する悔しさや不甲斐なさで真っ直ぐ前を見て歩く事が出来なかった。
何をやっても非凡な才能により、他人を圧倒してきた自分が敗けた事を認めるしかなかった。
しかし背を向けたマウンドから声を掛けられる。
「あとは任せろ、シンヤ。
それから...今の自分から目を逸らすなよ。」
「!」
そしてシンヤはマウンドから、グラウンドから去っていった。
初めて経験した敗北−−− それは自分を見直す為のいい機会でも在る。
そこからどう自分を変えていくかが、これから何をなさねばならないかが問われる。
シンヤはその機会を得る事が出来た。
後は変わるだけである。
シンヤがベンチに戻ると監督に話し掛けられた。
「どうだ、シンヤ。 野球はつまらなかったか?」
「!」
シンヤはその言葉に激しい怒りを覚える。
それはかつて自分が口にした言葉だった。
野球はつまらないモノ−−− 確かに自分がその言葉を言った事を覚えていた。
いや、全てのモノがつまらないと感じていたのだ。
だが現実にはその野球に敗北を味あわされ、その事がシンヤに襲い掛かる。
そして初めて敗けたくないと心から願う。
その闘志を失っていないシンヤの姿を見て監督は安堵した。
「いいか、シンヤ。
これからのアイツらの試合から目を逸らすんじゃないぞ。
今までだってこんな状況はざらにあった...だがそれを乗り越えてきたんだ、アイツらは。」
「...今までも...」
「そうだ...だが敗けるかもしれん...
それでもアイツらは諦めない。 そのアイツらの姿を目に焼き付けろ。
...これから起こる事を見逃すな、オマエはそれを見届けなければならん。
敗けたくないと...勝ちたいと願うのならな。」
監督の言葉がシンヤの心深くに刻まれる。
初めての感情に戸惑いながらもそれを受け入れようとする。
シンヤは今の自分と向かい始めた。
そしてこの後の試合の全てを目に、耳に、肌に、全ての感覚器に感じさせ、自分の記憶に焼き付ける。
☆★☆★☆
打席にはタツヤが立つ。
そしてマウンドには7回まで投げていたピッチャーが立つ。
結局シンヤは1回と1/3しか持たなかった。
シンヤを打ち崩す事は成功したが、目の前のピッチャーはまだ倒していない。
実際、ヒットらしいヒットはリュウスケしか出していないといった有り様である。
だが何回かやりあってきた事により、そのボールにもある程度はなれてきた。
注意すべきはあのピッチャーの切り札であるHスライダーだけである。
(巡り巡ってまたあのピッチャーか。
さてどうしようかな...正攻法は多分ダメだろう)
タツヤは考えながら塁に出ているカヲルとケイタに視線を向ける。
一塁にはカヲルが、三塁にはケイタがそれぞれ居る。
そのケイタを見た時、タツヤの豆電球が光りケイタにサインを送る。
(正攻法じゃダメとなると相手の意表を突くしかない...ここはケイタ、オマエに頑張ってもらうぞ)
(エーーーーーーー ウソでしょキャプテン)
(そのウソを実行するんだ、相手はそんな事は頭に入っていない。
いつ決行するかはオマエに任せるからな。 以上、終わりだ)
(そんな事言われても...)
タツヤ−ケイタ間である作戦が囁かれた。
ケイタはその作戦の為の準備を始め、リードが広がる。
その事に気付き相洋学園の内野陣はスクイズを警戒して相変わらずの前進守備に展開していた。
そして第1球が投げられた。
コースはスクイズを警戒してのボール球。
投げると同時に内野も前に出る。
しかしスクイズの気配は無くタツヤはただボールを見送るだけだった。
ボールは返球されピッチャーのグラブに収まり前に出てきた守備は定位置へと帰る。
その光景を見て第壱高校ベンチには緊張が絶え間無く張り巡らされていた。
「ったく、タツヤのヤツはどえらい事を思い付くな。」
「ヨウスケ、その表現は良くないぞ。
せめて柔軟な発想と言ってやれ。」
「どっちも変わらね〜よ、ススム。
なんにしてもオレ達には到底出来ない発想だ。
この場面、しかもキャプテンとしての立場がありながら、よくあんなサインが出せるな...」
タツヤの出したサインの意味を知っている第壱高校ベンチはその発想に驚嘆する。
そして第2球が投げられた。
コースは外角、球種は切り札のHスライダーだった。
それに対してタツヤはバットを振り抜く。
前進していた守備陣がその事を見て警戒し、腰を落とした。
ブン!
だがバットに当たる事は無く空振りに終わった。
Hスライダーが決まり相洋スタンドから歓声が上がる。
ピッチャーは返球を受ける為ボールに集中し、それと同時に守備陣は緊張から解放される。
そしてキャッチャーが軽くボールを投げた。
ザザッ!!
その時、ケイタがスタートを切った。
しかもそのスタートを切った位置はサードを離れ、かなり前に来ていた。
ジリジリと気付かれずにリードを進めていたのだ。
ケイタは自分の能力を限界まで引き出してホームを狙った。
「マズイ! バックホームだ!!」
一瞬の隙を突かれた相洋学園は驚愕し、返球を受けたピッチャーはすかさずホームに投げる。
ボールを受け取ったキャッチャーはクロスプレイの為にボールの入ったミットをケイタに当てようとする。
しかしケイタは上手く自分の体を外に流し、手だけをホームに伸ばす。
「セーフ!!」
主審の言葉が球場に響き渡った。
その言葉通りケイタの手はホームの端に置かれ、キャッチャーミットはそれに届いていなかった。
その事が終わり余韻が冷めぬ間に、更に声が上がった。
「セカンドだ!」
キャッチャーがその言葉を耳にした時は既に遅くカヲルは悠々とセカンドを奪う。
ケイタとカヲルによるダブルスチール−−− しかもケイタの場合は振り逃げからセカンド、サード、ホームと、パーフェクトスチールという記録を打ち立てた。
この誰も思い付かなかった作戦を、最終回という局面でタツヤはその指示を出したのだ。
何よりも仲間への信頼が無ければ実行どころか思い付きもしないモノである。
そしてその事に相洋学園サイドは呆然とし第壱高校サイドは狂喜乱舞の状態へと変貌した。
レイ、マナ、ミサトの3人は輪になって踊り狂い、ベンチでは帰ってきたケイタを称え各々が抱き合って喜ぶ。
その光景を見ていたカヲルはモノ欲しそうな表情で見ている。
(僕もあそこに居たかったな...そうすればシンジ君と...
いや、やっぱりそういう事は甲子園でやった方がいいかな...)
そこで相洋学園がタイムを取りマウンドにナイン全員が集結した。
同点に追い着かれた事により重苦しい空気がその場を支配する。
カウントは1アウト、しかもランナーは得点圏内の二塁に居る。
そして迎えるバッターはあと三番と四番。
「スマナイ、まさかあそこでスチールを狙ってくるとは思わなかった...」
最初に口を開いたのはピッチャーだった。
だがそれは誰も気付かなかった事であり、むしろその事を考えたタツヤを賞賛すべきだろう。
相洋ナイン達にはその事に理解していたが、ピッチャーの気持ちを考えるとただ黙るしかない。
そしてこの場を押さえたとしても自分達が第壱高校から得点する事はかなり難しい事も分かっていた。
ワタルでさえ今のシンジのボールを打つ事が出来るかどうか分からない。
試合の流れは第壱高校へと移り変わったのだ。
一方のタツヤはこの状況で何をするかを考える。
アウトカウントと打順からすると送りバントが最適だった。
ランナーを三塁に進めて四番に後を任せる−−− だがタツヤはそれをためらう。
流れは完全に変わっているので、相手のピッチャーを打ち崩すのは今しかないと考え、それを実行する。
キン!
バットの芯にボールが当り、綺麗な音が鳴らして打球は一塁線を駆け抜ける。
長打コースとなった事を確認するとカヲルはサードを蹴りホームを目指す。
普通だったらホームを踏める筈だったのだがライトから矢のような送球がホームに帰ってきた。
ボールはカヲルの目の前でキャッチャーミットに突き刺さりアウトとなる。
「スイマセン...ホームを狙わずに三塁で止まっていれば...」
カヲルがベンチに戻ってきて最初に出た言葉はこれだった。
しかしあの時の状況だったら何がなんでもホームを狙っていた事は可笑しくない。
あのライトの強肩があったからこそアウトになったのだ。 ここはライトの実力を褒めるべきだろう。
強肩を持ってホームを死守した事により相洋学園は幾分盛り返した。
だが打ったタツヤが二塁まで進んでおり、未だピンチは乗り切れていない。
そして打席には四番のリュウスケが立ち、球場は水を打ったように静まり返る。
(同点、2アウトで二塁にはタツヤが...ここで打たなきゃ四番失格だな)
リュウスケは自然体で打席に立ちピッチャーを見据える。
その時、四番としての風格は完成された。
その迫力に押され、ピッチャーの頬には冷汗が流れ落ちる。
闘う前から勝敗は決まっていたのだ。
しかしピッチャーは勇気ある決断を下し、敬遠策をとった。
その事に第壱高校スタンドからはブーイングが上がり、ピッチャーには精神的疲労が加わる。
投げる前からキャッチャーが立ち上がり、そこへボールに力を込めず投げた。
ザザッ!
敬遠策と分かった事により、二塁に居たタツヤは盗塁策を取った。
完全に虚を突かれ、しかもボールにあまりスピードが無かった為に三塁への送球に遅れが生じる。
ボールがサードに届いたが間に合わない。
その結果セーフとなり相洋学園には更なるプレッシャーがかかり、再度マウンドに相洋ナインが集まりキャプテンのワタルが激を飛ばす。
「全員落ち着け!
思い出してもみろ、オレ達は今までだってこんな状況にはあってきた。
だがそれでも勝ってきたんじゃないか。 焦ればそれだけ相手にチャンスを与えてしまうぞ。
余計な事は考えず、今はこの回に集中するんだ!」
ワタルはキャプテンとして、四番としての意地でその言葉を伝える。
次の裏の攻撃では四番である自分に必ず回ってくる。
その事はナイン全員が分かっていた。 そしてワタルならば必ず打ってくれると信じる。
それ故に自信を取り戻し、決意を新たに守備へと散って行く。
守備に散って行くナイン達の背中を見送り、次の打席で必ず打たなければ−−− とワタルは勝つ為に固く誓った。
2−2の同点、9回の表、2アウト、ランナー三塁−−−
試合は佳境を迎え、四番のリュウスケは4ボールにより一塁へと駒を進める。
第参拾伍話 完
第参拾六話を読む
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