サラサラサラ...

ん...なにか顔にかかっているぞ...

「...起きなさい...ったく...」

誰だ、この声は?
乱暴で...でも甘いような...声に味があるわけでもないんだから、おかしな言い方だけど。

「ほら、起きろ...シンジ...」

ああ、この声が心地好くて、ますますこのままずっと寝ていたいような気になって...

「ホント困ったヤツねぇ...
 あ、そうだ...ふっふ〜ん、いいこと考えた♪」

もう少し...もう少しだけ、寝かせて...
ふぁ、ふぁ...鼻がムズムズするぞ?

「ふふ...いつまでガマンできるかな...」

は、鼻がこそばゆい...ふぁ、ふぁ...

「っくしょん!
 な、なんなんだよ...ん?」

目の前には栗色の艶やかな髪の毛の先を筆のようにして、ちらつかせているアスカが立っていた。
どうやらそれでくすぐっていたらしい...

「んっふっふ〜。
 おはよっ、バカシンジ。」











大切な人への想い

第六拾七話 過ぎ去った夏(其ノ拾)











「ア、アスカぁ?」
「シンジ、乳搾りに行くわよっ!」
「はぁ?」

起きて早々アスカからのお誘い。

「乳搾りって言ったってさ...
 ええっ、まだ5時じゃないか?!」
「そうよっ!」

目覚し時計はまだそんな時間を指しているのだが、アスカは当然のように立っている。
しかも準備万端という言葉通りの格好をしていた。
サラサラした髪をいつものようにまとめ、クリーム色のワンピース、そして薄っすらと唇を彩るリップ。
いわゆるバリバリの勝負モードである。
シンジですら 「これがアスカ?」 と思わず見惚れてしまうほどの姿だった。

「さっ、行くわよ。」
「...こんな時間からなの?」

なにも聞いてないぞと言わんばかりの顔でアスカを見る。
実際、約束だけはしたが、時間までは言ってない。

「...言ってなかったっけ?」

少々思案してから問いただすアスカ。
しかし心の中では 「そういえば言ってなかったわね」 と思っていた。
浮かれていたとは恥ずかしくて言えない。
そしてアスカの問いにシンジはコクンと首を縦に振った。

「「.........」」

お互いを見詰め合い、気まずい空気が漂い始める。

「...ま、そんなことはどうでもいいわっ!
 と、とにかく行くわよ、準備しなさいシンジ!」

気持ちを切り替え、シーツに手をかけた。

「ちょ、ちょっと待ったアスカ!」

早朝、男子特有の生理現象ゆえに、すかさず引っぺがされないように防御に回るシンジ。

「往生際が悪い...わよ...」

あと少しでシーツが宙に舞うところで気づいた。
シュ〜と湯気を立てて真っ赤になるアスカと、ホッと安堵のため息を漏らすシンジ。
だがそれも束の間の平和であった。

ビュンッ!
スパァン!

シンジは風を切る音が聞こえたと思ったら、ほっぺたに激痛が走った。
そして一緒に聞こえる乾いた音が、なにが起こったかを物語る。

「早く着替えなさい、バカシンジっ!」

気を使ってか、恥ずかしいのか、くるりと背中を向けた。

「...あのね、アスカ。」
「な、なによシンジっ!
 文句でもあるの!!」

癇癪を起こしたアスカが更なる爆発を起こそうとする。
だがシンジの一言により、ピリピリとした緊張感あふれる部屋にそよ風が吹き抜けた。

「...そこにいられると着替えられないんだけど...」










☆★☆★☆










まだ朝モヤがかかる時間、シンジとアスカは2人だけでペンションを出た。
誰もいない、霞がかる、そしてヒンヤリとした空気の漂う林道を歩く。
その道をくぐり抜け、目指すは星降る原牧場。

「もう半分過ぎたんだ。」
「なにが?」
「この旅行にきまってるでしょう!
 ったく相変わらずボケボケっとしてるんだから...
 ま、乳搾りもできるし、思い残すことはないかな?」
「まだ終わったわけでもないんだけどね。
 ...アスカ、ほら、見えてきたよ。」

林道を抜けると、どこまで続いているのか判らないくらい広い草原に出た。
朝モヤが地面を滑り、視界いっぱいに広がる草原には牛がいっぱいいる。
当たり前だがココは牧場だ。

「シンジ、牧場よ、牧場よ!」
「アスカ...見れば判るって...」
「なによ、その言い方はぁ!
 アンタはこの景色を見てなんにも思わないわけぇ!!」

頂上付近に白く万年雪を残した山脈が近くに見える。
薄く万年雪をかぶっただけの岩だらけの山脈は、空気のせいか青白く染まって見えた。
真っ青な空に山の綾線が、切り抜いたようにくっきりと見えるのもやっぱり空気が澄んでいるせいだろう。
なだらかに連なる丘の一面に、見渡す限りの明るい緑の牧草で覆われている。
ずっと向こうに見える白い木の柵か、それとも丘の途切れる辺りの森までが牧草地だ。

「広いなぁ...見渡す限り緑のまきば...遠くには青い山脈に空...」
「なぁに言ってんのよ、シンジっ!
 ...でも牧場って広くて、なんかいい感じね...
 っさ、行くわよ。」
「うん、行こうか。」
「ほら、早く、早くっ!」

感動もそこそこに、手を引っ張って牧場に入っていく。
嬉しそうで、楽しくてたまらない気持ちが、つないだ手と声とアスカの笑顔から伝わってくる。
待ちに待ってた乳搾り。
係りの人に案内されて、牛舎の中の一頭の牛の両側を陣取る。
が、様子がなんかおかしい...

「う、うーーーん...」
「どうしたの、アスカ?」
「いや、なんかこう...結構生々しいモノがあるなぁって。」

アスカは頭に大粒の汗が流し、口に手を当て、思いっきり考えている。
即断即決がモットーのアスカにしては珍しい。

「なに言ってるんだよ、あんなにきたがってたくせに。」
「だって...温かいのよ、牛のおっぱいって...」
「そりゃあ生き物だからね。」
「...そうなんだけど...ははは。」

珍しく力のない笑いを見せる。

(難しい顔をして、なにを悩んでるんだ?
 あれは嬉しい顔じゃないよな、うん)

朝からいつもと違うアスカを見せられたので、シンジは不思議に思っていた。

「指をリズミカルにぎゅっぎゅっと握るのよね...
 って出てこないーーー!」
「あんなにやりたがっててこれなの?」
「だって...な、なによシンジ!
 そういうアンタはなんにもしてないじゃない!
 ちゃんとやりなさい!」

牛を挟んで騒ぎ始める。
いつものことなのだが、牛にとっては迷惑だろう。

「それじゃお手本を見せてあげるよ。」
「ハンっ、どうせ上手くなんか行かないわよ。
 難しいんだからねっ...」
「大丈夫だよ、こういうのは力任せにやってもダメなんだよ。」

そう言うとシンジは軽く握って...
ジャージャージャーっと勢い良くお乳が出た。

「出た...凄いシンジ!」
「やればできるもんだね...」

自分でも信じられないようだった。

「凄い...やっぱり男って違うのね。」

意味深な発言。
だがシンジは鈍感だ。

「ふ〜ん...力任せにやってもでないか。
 指でこう握って...」

シンジのマネをしてイメージトレーニングを行う。
そうこうやっている内に、バケツには牛乳が溜まっていく。

「アスカ、代わろうか?」
「うんっ、今度こそお乳を搾ってやる。」

アスカの体に闘志がみなぎる。
何事にも本気で向かうアスカらしい。
だがメラメラと燃える闘志に押され、牛はちょっと引いていた。










「はい、シンジ。」
「ありがと、アスカ。」

アスカがソフトクリームを持ってきた。
これはここの牧場のオリジナルで、しかも作りたてだ。
それを食べながら、2人は再び林道をくぐる。

「付き合わせて悪かったわね。
 でもすっごく楽しかった。」
「僕も楽しかったよ。
 でも乳搾りはイマイチだったんじゃない?」
「うっ...それは言いっこなしってことで、よろしく。」

片目をつぶってお願いするアスカ。
可愛い仕草がとても似合っていた。
シンジは目を細めて微笑む。

「ま、そんなときもあるよね。」
「そうそう、そういうこと!」

2人はそんな風に他愛もないおしゃべりを交わしながら、ペンションに戻る。
朝日が差し込む林道で、シンジと2人並んで歩くアスカは幸せを感じていた。
久しぶりの2人だけの時間...

(このままペンションに着かなければいいのにな...)

そして到着したころにはすでに時計は7時を回っていた。










☆★☆★☆










時は一気に流れて夕食の時間−−−
シンジも練習の汗を流し、すでに晩ゴハンを食べている。
...が、様子が変だった。

「な、なあキョウコ...子供たちは一体どうしたんだ?」

アベルがたまらずに聞いてきた。
時間は家族団欒の夕食だというのだが...会話らしい会話は存在しないのだ。
マシンガンのようなアスカのおしゃべりも、弾むようなレイの声も、ボーっとしてそれでいて心を和ませるシンジの言葉もない。
険悪なムードが停滞しっぱなしであった。

(こんなのは久しぶりだな...
 でも原因は一体...ってアレしかないか)

1人だけで納得してしまう。
アベルの言う原因とは乳搾りであった。
昨日の工芸教室からの帰り、牧場でアスカが乳搾りの予約を取ったのを見ていたからである。
あのときの期待に胸を膨らます娘の笑顔が浮かび上がる...

(恋をすれば女は変わるというが、我が娘ながら変わるところは変わっていたな...)

目を閉じて娘の成長を喜ぶアベル。
彼は親バカだった。

(...変わらんところはまったく変わらんがな...やれやれ、シンジ君も苦労するなこりゃ)

考え事も完結し、食事を再開する。
そのときアスカが席を立った。

「ごちそうさま。」

そのままくるりと背中を向けて去っていく。
それをシンジ、ユミ、アベル、キョウコ、ヒデユキ、サエコは恐る恐る見送る。
レイだけはじっとテーブルに視線を落としたままだった。
そのレイも早々に食事を切り上げ、部屋へと逃げるように向かう始末である。





「ふぅ...」

誰かがたまらずにため息を吐く。
それを合図に緊張の糸がほぐれ、全員肩の力を抜くことができた。
息を吐いたのはヒデユキだった。

「シンジ君、一体どうしたというんだ?」
「どうもこうも判らないんですよ。
 今朝、アスカと牧場から帰ったら、いきなりこんなになって...」

「アスカと」 という言葉にピクッと反応する。
シンジとアスカが帰ってきたときのことはこうだった。










「ただいま〜。」

朝早くにペンションを出て帰ったのは結局7時を回っていた。
この時間にもなると、ほとんどの者は起きており、レイは朝食の準備に追われている。

「おかえり、兄さん。」

それでもレイはシンジを迎えるために玄関までやってくる。
ニコニコといつものエプロンを身にまとい、それで濡れた手を拭きながらである。
だがその笑顔もすぐに凍り付く。

「あ、アス姉...」

驚いた表情で見るアスカの姿は、同じ女であるレイの目から見ても、とても綺麗だった。
そして横にいるシンジはとても楽しそうに笑っている。

「...どこ行ってたの、2人とも...?」

レイの問いかけがアスカに重く圧し掛かった。

「そ、それは...その...」

しどろもどろになり、上手く言葉が出ない。

「牧場だよ。」
「シっ、シンジっ!」
「そうなんだ...2人で...」
「乳搾りができてね、すごく楽しかったよ。」

シンジは嬉しそうにいう。
それを聞くレイの心を知らずにである。
アスカは気まずく、この場から逃げ出したかった。
だがそれはレイも同じであった。
好きな人から、自分ではない人とのデートの話など聞きたくはない。
ともかく、このときからアスカはレイを、レイはアスカを避けるようになり始めたのだ。










「牧場に?」
「ええ、今朝、アスカと一緒に乳搾りに行ってきたんですよ。」
「...なるほどね、それでか。」

瞬時に答えが導き出される。
周りを見るとその他の大人たちもみんな納得していた。

「え、槙村さんには判ったんですか?
 すごいな、さすが刑事だ...」

鈍感ここに極まれり。
この場にいる全員がシンジのことを呆れ果てて見ていた。

「シンジ...あなた本当に判らないの...?」

これ以上ないくらいに情けなさい顔を向ける母親のユミ。

「ええっ、母さんも判ったの?」
「あなたね...」

我が息子ながらなんて鈍感なんだろうと嘆くしかできなかった。










☆★☆★☆










ここはレイの部屋−−−
部屋を暗くして、ベッドのスタンドライトだけを灯していた。
オレンジ色の光が水晶の原石を照らす。

「水晶のネックレスか...」

去年の13歳の誕生日にプレゼントしてもらった大切な物。
愛おしそうに見つめ、石にシンジの温かさを感じる。

「幸せに恵まれますように...
 ...うん、確かに幸せだよ、兄さん。」

シンジの願いがこのちっぽけな石に込められていた。
大それた願いではなく、ごくありふれた願い。
しかしそれでも誰もが願うこと。

「だから、これ以上望むのは贅沢なのかな...」

シンジへの想い−−−
願っても叶えられない想いなのかと、今まで何度も考えてきた。
そしていつも導き出される答えは1つ。
シンジが幸せなら、そばにいるだけで、それでいい...
それだけを願い、自分の想いを心の奥にしまいこむ。
しかし...

「お父さん...お母さん...
 なんで...なんで兄妹なの?
 ...じゃなければよかった...」

想いを閉じ込めれば、それだけ想いは消えることなく募る。
忘れられない想いが、絶ち切れぬ想いがレイの心を狂わせる...

「そんなのイヤだよっ、ずっとそばにいたい!
 パパ、ママ...」
 
もはや言わなくなった言葉。
父親の、ソウの死とともに使わなくなった心地好い言葉。
その時を境にシンジもレイも変わり始めた。
シンジはレイのために、レイはシンジのために、それぞれが強くなるために−−−

しかしそれでも変わらないモノもある。
それがアスカであった。
周りの人は同情や哀れみの視線を向ける中、アスカだけはいつもと変わらぬ言葉と態度を向けた。
時には厳しく、時には優しく包み込むように、変わらずに接し、シンジとレイをアスカが支えてくれた。
アスカがいなければ、シンジもレイも、或いはここまで強くはならなかったかもしれない。
それが自分とアスカの差であった。

「アス姉なら、兄さんを支えられる...
 大きいよね、この差は...」

誰よりもシンジを理解する他人。
親よりも、妹である自分よりもシンジを知っているアスカ。
どちらがシンジのそばにいるのが相応しいか−−−
考えずともその答えは、ずっと以前から出ていた。

「寄りかかってばかりの私より、支えてくれるアス姉の方が...」

怖くて先送りにしていた答えを出すときが、すぐそこまできているのが判った。

「...妹なんだから...兄妹なんだから...それだけでも恵まれすぎね...」

別れの刻が−−−










☆★☆★☆










シンジはなんだか落ち着かなかった。
原因はアスカとレイの不仲にあるのだが、その原因が自分にあるとは思ってもいない。
ユミなど大人たちに聞いても呆れ果てた顔を向けられるだけで理由は教えてくれなかった。
そんな訳でリビングには居られず、1人になって考えるために裏庭へと足を向けた。
勝手口から裏庭に出ると、そこにはレイが1人いた。

「あ...兄さん。」
「こんなとこでなにやってるの?」
「今日もなんか飲んじゃって...
 頭がガンガンするから涼みにきたの。」

レイの顔にはいつの間にか夕食のときの暗さはすでに消えていた。

「...兄さん、ほら、見てごらんよ。」
「ん?」

キョロキョロと辺りを見渡す...が、なにもない。

「くすっ、空だよ、空。」

優しく笑いながら空を指差す。
そこには、見上げた空には満天の星空が輝いていた...
吸い込まれるような満天の星空...恋人と愛を語り合うには最高のステージだった。
シンジもレイも、空に広がる星の海に圧倒される。

「ね、空がすごくキレイでしょ...」
「うん...星があんなにたくさん...凄いな。」
「今にも星が降ってきそうな空だよねぇ...なんかとっても感動する。」

そういったレイの顔がいつもと別人のように大人びて、シンジの胸はドキドキと高鳴る...

「子供の頃は近所の空き地で星座を見つけてた記憶があるんだけど、最近じゃこんな星空は見れないね...」
「そうだね、こんなに違うんだなって思うと不思議よね。」
「あたりが暗いから星がキレイに見えるんじゃないかな?」
「それもあるだろうけど、やっぱり空気が澄んでいるからなんじゃないかな?
 ホントに宇宙の真ん中に放り出されたみたい...」

目を閉じて星空にそう願えば、叶えられるような気がした。
キラキラと輝く無数の星たち。
幾百、幾千もの歴史を綴らせ、その光は届く。
その輝きに比べれば、人の想いなど取るに足らないちっぽけなモノ。
それでも人は出逢い、惹かれ合い、愛し合い、別れ、そしてまた巡り合う。
レイはシンジと出逢った。
そして惹かれ、愛してしまった。
ならば別れの刻がやってくるのだろうか...
そんなことにはならないよう、レイは星空に願いをかける。

「へぇ...レイもロマンチックなんだね。」
「こう見えても女の子だよ。
 兄さんもこの星空に感動するくらいの気持ち持ってよ。」
「感動はしてるけど...そうは見えない?」
「あれ、そうだったの?
 ボーっとしてたのは星空に見惚れてたからだったんだぁ。」
「あのね...」

ちょっと傷ついてしまう。

「でもさ、兄さんのそういう間の抜けた顔、結構かわいいぞ!
 な〜んてね☆」

屈託のない笑みを向けて言う。
カワイイといわれて嬉しがる男は滅多にいないと思うが、なぜかシンジも笑っていた。










リー、リー、リー...

風が吹き、辺りの木々の枝を鳴らす。
虫の音が静かに響き渡る夜の静寂さが新鮮に感じられた。

「ふふっ...さ〜てと、そろそろ中に戻ろっかな。」
「そうだね、夏といってもここは高原だから。」

レイは軽いステップで勝手口まで戻る。
その後に続くシンジ。
しかしその歩みは止まった。

「兄さん...」

勝手口のドアに手をかけたままシンジを呼ぶ。
暑くもないのに手に汗が滲み出て、心臓が高鳴ってきた。
極度の緊張のためか、ノドがカラカラになる。

「んっ、なに、レイ?」
「...お、おやすみ...」

辛うじて出た言葉がそれだった。
なにを言いたかったかは、レイ本人にしか判らない。

「うん、おやすみ、レイ。」

背中にかかる優しい言葉。
レイは急いでペンションの中へと戻る。
そうしなければ今まで押さえてきた想いが止められないような気がした。





レイが中に入った後、シンジはしばらくの間、裏庭に残っていた。
備え付けられたイスに腰を下ろす。

(ここって、こんなに静かな場所だったんだ...)

レイが去っただけで裏庭は急に暗さを増したように思えた気がした。
シンジは星空を見上げ、ついさっきのことを思い浮かべる。

(...レイがほんのちょっぴり可愛く見えた、なんて言ったらどんな顔したかな...)





だがシンジは知らない。
そのときのレイがなにを考えていたのかを。
レイはアスカの部屋のドアをノックした...










☆★☆★☆










あれからどれくらいの時が過ぎたのだろうか?
実際にはそれほどの時間は経っていない。
だが、そう思えるほど部屋の中の時間の流れは狂っていた。
レイがアスカの部屋のドアをノックし、アスカが中へ招き入れた時から...

チッ...チッ...チッ...チッ...

時計の秒針の刻む音が静かに響く。

ギシ...

アスカがイスに座り直した。
この場の空気が重過ぎるのだ。
そしてそれを創り出したのは、なにもしゃべろうとはせず、イスに座ったまま微動だにしないレイだった。

(...レイったら一体なんの話があるのかしら...)

アスカは思う。
レイはアスカに 「大切な話があるの...」 と言った。
それが冗談ではないというのは始めから判っている。
不退転の決意を秘め、怖くて逃げ出したいのだが、立ち向かおうとする姿勢。

(まさかシンジを...)

理由は明確だったので、アスカはそこから逃げ出したかった。
今のレイを相手にして、勝てる見込みが薄いのを肌で感じる。
それぐらいの覚悟を今のレイは持っていた。
やがて長い沈黙の後、レイの唇が動き始めた...










「...私ね、兄さんのこと、好きだよ。」










静かに自分の想いを口にした。
その言葉を聞き、アスカの心がざわめく。

(そんなことは判ってる!
 ...でも、シンジだけは...そんなの許せないっ!)

アスカは心の中で叫んだ。
急に現れ、シンジとの間に割り込んできた。
それからはずっと自分よりシンジに近い位置にいる。
それでもなおシンジを奪おうとする。
しかしアスカには余裕が無く、今のレイの本当の心を知る由も無い。
心の壁が立ち塞がり、理解しようとする優しさを見失わせる。
それはレイの次の言葉で、さらに増大した。

「兄としてじゃなくて...
 六分儀シンジという男の人が好き...愛しているよ...」

愛している−−−
その言葉を口にするだけで心が暖まる。
とても神聖で、人を想う最高の言葉。
今まで何度、心の中で繰り返し言ってきただろうか...
レイの顔は優しさが溢れ、アスカの顔にはそんなモノなど現れず、逆に苛立ちが出てきた。
だが急にレイの表情が曇った。





「でも...でもね...」





熱いものが込み上げてくる。





「アス姉だったら...」





言いたくない、口にしたくない言葉が...





「私...わたし...」





だが総ての、今までの想いを絶ち切るように声を絞り出す。




















「...私、あきらめられるよ。」










今まで押し込めてきた想い、別れの言葉−−−
それを人に話すのは初めてだった。
俯いた顔からは表情は読めない。
だがキラキラとした光の粒が落ち、膝に置かれた手の甲で弾けて消える。
それだけでアスカの心に、レイの気持ちは痛いほど伝わってきた。





(ああ、レイもアタシと同じだったんだ...)





もう1人の自分が目の前で泣いていた。





(怖くて、臆病で、自分に自信を持てなくて、今の関係を壊したくなかった...)





恋に破れるのが怖い少女が目の前と、自分の中にもいるのを感じる。





(でも、それでもシンジが好き...)





性格は違えどもシンジを想う気持ちは変わらない。
アスカは今、初めてレイという少女を知ったと思った。
心の壁は崩れたのだ...
そしてアスカに優しさが戻る。

「レイ、アナタもシンジが好きなんでしょう?」

毅然とした、ハッキリした口調で言い切った。
レイにはアスカの気持ちを計り知ることができずにいる。
自信に満ち溢れた顔を見せ、アスカは続ける。

「だったらアタシたちはライバルね。」

予想もしなかった言葉が聞こえた。
驚きを隠せず、レイはアスカの瞳を見る。

「...いいの?
 私が兄さんを好きになってもいいの?」

レイは親からはぐれた子犬のような目をアスカに向ける。

「いいに決まってるでしょっ!
 この惣流アスカに二言ナシ!!」

勝てる自信はあるかどうかも判らない。
しかしその言葉はアスカなりの優しさである。
何事にもフェアじゃなければ気が済まない。
それでダメだったら、あきらめも着くというのか...

「でもね、アタシはアンタになんか、絶っっっ対に敗けないわよ!
 それでもいいんだったら、かかってきなさい。
 なんと言ってもアタシたちはライバルなんだからね。」

その言葉に涙も拭わずにアスカを見るレイの表情に笑顔が戻っていく。
それを見るアスカにも笑顔が浮かぶ。
シンジとレイは兄妹だが、アスカとレイもまた姉妹であった。

「...うん、ありがとう。
 だからアス姉って大好きっ!」
「こらっ、抱きつくんじゃない!
 それにアタシはアンタなんかに好きって言われても、嬉しくもなんっともないのよ!!」
「む〜〜〜、アス姉のいけずぅ...
 このレイちゃんがこれほど想っているのにさ。」
「冗談じゃないわよ、アタシにはそんな趣味ないの!」
「女同士ってのも悪くはないんじゃない?」
「アンタバカァ?
 いい、アタシたちはねぇ...」
「「ライバルなの!!」」

2人仲良くユニゾンする。
お互いの顔を見ると、瞳の中には自分が映る。
その自分の顔がどんどん崩れていき...

「「...っぷ...アハハハハっ!」」

アスカの部屋からは2人の心からの笑い声が聞こえた。











「さてと、明日兄さんをデートにさそおっと。」
「なに言ってるのよ、そんなことはさせないわっ!!」
「いいじゃない、アス姉は今日デートしたんだから。」
「ぐっ...
 そんなこと言ったらレイだって昨日はデートだったじゃない!」
「あれは買い出しだよ。」
「ダメったらダメ!
 2人っきりだったら同じことよ。」
「じゃ、順番でいったら...」
「順番もクソもないわ、早い者勝ちよ!」
「クソだなんて、はっずかしい...
 兄さんに嫌われちゃうよ。」
「言葉のアヤよ、アンタそんなことも判らないの...ってレイっ、どこ行くのよ!」
「早い者勝ちなんでしょ?
 これからデートの約束しに行こうかなってね。」
「ああっ、待ちなさーい!!」
          :
          :
          :

シンジの受難はまだまだ続きそうだった。



第六拾七話  完






―――予告―――



惣流アスカよっ

...ったくホント、レイには困ったわ

でもこういうのは白黒ハッキリとさせた方がいいもんね

正々堂々、真っ正面から返り討ちにしてあげるわ!!

そんなワケで来週の話ね...ふんふん、来週はバーベキューか

...そ、そのあとは...くっ、今回だけは譲ってあげるわ、レイっ





次回

大切な人への想い

「過ぎ去った夏(其ノ拾壱)」



注) 予告はあくまでも予定です





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