どこをどう歩いてきたのかは判らない。
だがアスカの目の前には泊まっているペンションのブルーフォレストがあった。
おぼつかない足取りで、時間はかかったがなんとか戻ってきたのだ。
雨に打たれるままにである。

ザッザッ...

玄関へ続く階段。
ゆるい土の斜面に、割った丸太を埋めただけの、素朴な造りの階段をゆっくりと登り始める。
力無く1段1段登る姿は夢遊病者を思わせる。

(シンジが、アタシを...)

想い求めてやまなかった人の心が自分に傾いていた。
それだけが頭の中を駆け巡る。

(信じて、いいのよね...)

玄関の前に到着し、ドアノブに手をかけようとしたとき、アスカの心臓の鼓動が早くなった。
先ほどまで幽鬼の如く気配を感じさせなかったとは思えないくらいの変わりようで、顔の毛細血管が開き、白から赤に変色する。
カァ〜という音が聞こえるほどで、しかも頭がくらくらする。

(う〜...しっかりなさいっ!
 惣流アスカともあろう者が、これしきのことで...)

プルプルと頭を振って気を取り直す。

(そうよ、シンジがアタシを好きになって当然なんだから!
 昔っからそうなのよねぇ、アタシがいなきゃ何もできないんだから)

過去を振り返ってみれば、いつもシンジを焚き付けていた。
シンジの手を引っ張って色んなところに行った。
アスカの後ろにいつもシンジがいたのだ。

(シンジにはアタシが必要なんだから...だから、大丈夫...)

自分に言い聞かせてドアを開けた。
中の空気がいつもと違う感じがする。

(シンジ...)

早く顔が見たくて心の中で呟くと、ドタドタと近づいてくる足音がした。
ぼやける視界の片隅で微かに見える愛しき人。
手を伸ばして、少しでも早く温もりを感じたかった。

(どこ...シンジ、どこなの...?)

ふらふらと手が宙を泳ぎ、張り詰めた糸が切れたように倒れる。
アスカは自分を呼ぶ声を聞いたような気がした。










だがそこで意識が途切れた...











大切な人への想い

第七拾壱話 過ぎ去った夏(其ノ拾四)











時間は少し戻り、場所はシンジたちが泊まっているブルーフォレスト。
ガタガタと風が窓を鳴らし、雨がバチバチとあたる。
今、リビングにはシンジ、ユミ、キョウコの3人しかいない。
そして窓から外を見ているシンジの顔色は良くなかった。

「アスカ...レイ...」

近づいた台風の影響で天気は大雨に変わったが、それでもアスカとレイの2人は帰ってこない。
そのためアベルとヒデユキとサエコは心当たりを探しに出ていた。

<台風は現在上陸し...>

テレビのチャンネルを回しても同じことしか流れていない。
今日1日、練習で2人と別行動だったことが悔やまれる。
だがアスカは良いとしても、レイは昨日のことがあるので居辛かったかもしれない。

(こんなにも兄さんを欲しがってる...)

あのときレイはシンジを求めてきた。
だがシンジは拒絶した。
泣き崩れるレイに何もしてやれず、背中の向こうから聞こえる泣き声をただ聞いていただけ。
そこで今まで築いてきた兄妹という関係さえも崩れてしまったように思える。

「くっ...」

シンジはあのとき何もしてやれなかった自分を責める。
だが、あれで良かったんだという自分もいた。
妹としてこれからも接していかなければならない以上、仕方がないと自分に言い聞かせる。

ガタッ

思い悩んでいるそのとき、玄関のドアが開く音がした。
ユミとキョウコが反応するころには、シンジは玄関に走っていた。

(アスカとレイが帰ってきた...)

そう思いながら玄関に向かって走る。
だがそこにいたのはアスカだけだった。

「アスカ...?」

アスカは口をぱくぱくとさせ、手は自分を求めて力無く伸ばされていた。
疑問に思っているヒマなどなかった。

「アスカ!」

その声は届くことはなく、そのままアスカはシンジの腕の中で気を失ってしまった。
全身が雨に濡れ、冷たくなっていた。

「ア、アスカ!」

キョウコが叫ぶ。

「シンジ、早く運んで!」

焦るキョウコを落ち着かせるためにユミが瞬時に指示を出す。
アスカを抱き上げると、ダランと腕が下に落ち、体は異様に冷たかった。
抱いた体をやけに軽いと感じながらも、シンジは部屋に急いだ。










☆★☆★☆










「はぁっはぁっはぁ...」

降りしきる雨の中、涙を流して走る少女がいた。
バシャバシャと地面を蹴るたびにドロが飛び散り足を汚す。
どこをどう走ってきたのかは判らなかったが、そんなことはどうでもいい。
どこか遠くへ逃げ出したかったのだから...

「きゃっ!」

突き出た木の根に足を引っ掛けて転んだ。

「う...ぐす...」

転んだまま立ち上がろうとはせず、そのまま泣き崩れる。
声を出して泣く、声の限りに叫ぶ。
やがてその声も雨の落ちる音にかき消された。

「兄さん...」

愛しい人を呼ぶ。
だがその想いはもはや届かない。
その人の愛しい人は自分ではないことを知ってしまったのだから...





少女はゆっくりと立ち上がった。
着ていた服はドロだらけになり、白い腕も足も、人形のようなキレイな顔も汚れていた。

「あ...」

何かが見えた。
ひっそりと立つ小さな祠の中にある石の人形。

「これが、お星地蔵...?」

小さな祠の中にちょこんと立つ優しい顔立ちの地蔵。
だが少女にはなんの効力も持たない。
名は 「お星地蔵」 と言い、片想いが叶うという謂れがある。

「キミがそうなんだ...
 初めまして、お星地蔵君...」

愛らしい表情の地蔵を見て、レイの表情が変わった。
今までの多くの女たちも同じであっただろう。
地蔵の優しい顔が人の心を和ませる。

「あれ、なんだろ...?」

祠の中に置かれた板のようなモノ、絵馬が何枚もあった。
地蔵に絵馬という組み合わせに疑問を感じ、手に取って見ると...

「あ...なるほどね...」

絵馬には想いが書かれていた。
「この想い、届きますように」 「あの人が気づいてくれますように」 「両想いになれますように」 ...などなど片想いが綴られていた。
手に取った絵馬からその人の想いが伝わってくるかのように温かみがある。
温かさはレイに優しさを取り戻させ、心が落ち着いてくる。
だがそこで自分が山頂近くにいることに気づいた。

「私、こんなところにきていたの...?」

すくっと立ち上がって辺りを見渡す。
そのとき一枚の絵馬がカランと落ちた。
その絵馬を取り、祠に戻そうとしたとき、書かれた想いが目に入った。

「あ...」










☆★☆★☆










バシャッバシャッバシャッ...

雨が地面に叩きつけられる音に混じって、水溜りの中を走る音が聞こえる。
雨宿りのできそうな適当なところへ向かっていた。

「くそっ...ここにもいないか...」

額に流れる汗なのか雨なのかは判らない水滴を手で荒っぽく拭う。
ヒデユキは街の中心である駅前にきていた。
だが台風が近づいてきているためなのか、外に出ている人間は見かけず、ゴーストタウンのようにも見える。

「槙村君!」

声のした方を見ると、自分と同じようにアベルがずぶ濡れになりながら走ってきた。

「どうだった、見つかったか?」
「ダメです、行きそうなところを全部回ったんですがどこにも...」

そのとき車のクラクションが鳴った。

「サエコ!」
「ダメね、市場の方に行ったんだけど、そこにもいなかったわ。」

窓を開けて話す。
サエコも雨に濡れているところから、かなりの場所を捜し回っていた。

「とにかく乗って、一旦戻りましょう。
 ひょっとしたらもう帰ってるかも...」

淡い期待が出る。
だが手掛かりがない以上仕方がなかった。
車を走らせると水飛沫が上がるところが、台風による雨足の凄まじさを物語っていた。










☆★☆★☆










「...」
「...」

アスカの部屋の中で忙しなく女性の話し声がする。
だが肝心のアスカはまだ気を失ったままだった。
ひょっとしたらこのまま目を覚まさないのでは...と思えるくらい安らかな寝顔だ。
その理由としてアスカの手にはシンジの手が重なっていた。
悲痛なシンジの表情。
しかしそれはアスカにだけ向けられているモノではなかった。

「...レイ...」

シンジが護らなければならない妹。
傷つけてしまった少女だった。
幸せになってほしい−−−
いつもそう願っていたのだが、結局は自分の手でその願いを潰してしまった。

ぐぐ...

その想いが知らず知らずのうちに手に伝わり、アスカの手を握り締める。

「ん...」

それに反応するようにアスカが声を漏らす。

「アスカ!」
「んん...」

顔を苦しそうにしかめ、薄っすらと瞼が開いた。

「...誰?」
「僕だよ、シンジだよ!
 ...よかった...」

アスカが目を覚ましたことが嬉しく、涙目になる。

「なに泣いてんのよ...」
「アスカがいけないんだろ!
 ずぶ濡れで帰ってきて...倒れるし...ホントに心配したんだから...」
「心配性なんだから...」

握り締めた手が痛かったが、想われていることを知ったから、むしろ心地好いと思えた。
近くには自分の想い人、その母親、そして優しい自分の母がいる。
アスカは自分が幸せであることを実感した。










「そうだ、アスカ、知らない?」

だがその幸せは突然壊された。
自分を最後まで悩ます少女の姿が見えないことに気づく。
そしてシンジがその名を口にした。

「レイがどこに行ったのか...」










☆★☆★☆










果たして今は何時なのだろうか?
空を見上げても雨雲が太陽の光を遮り、時間の流れを感じさせない。
降る雨が、今、自分がどこを歩いているのか、どこが道なのかを判らなくさせる。
それでもレイは歩き続けた。

「帰らなきゃ...みんなが心配する...」

雨に打たれながらも、しっかりとした足取りで進む。
目印になるモノは無い。
それでも山を降りることだけを考えていた。

「まだ帰れるところがあるんだから...」

ふいに過去が思い出される。
身寄りが無くなったあと、親戚を転々とタライ回しにされた頃。
あの頃には居場所というモノは無く、行きつく先は施設だった。
そこにも居場所なんてモノは無い。
レイはいつも1人だった。
何も無い、何も感じない特異な少女。
そんな時に現れたのが養父である六分儀ソウだった。










「やあ、レイちゃん。」

突然名前を呼ばれた。
何も感じないはずのレイだったが、その声だけは違うのか振り返った。
紅い瞳が自分の名前を呼んだ人を捕らえる。
すると笑顔を返して言った。

「初めまして。
 オレは六分儀ソウって言うんだ。」

自分の目線の高さまでしゃがんだソウは、いきなり手を差し出してきた。
とっさにレイは身を縮み込ませる。
自分に向けられた手は、ほとんどが自分に危害を加えたからだ。
だが何もこなかった。
その代わりに手を握られた。

「よろしくな。」

温かく大きい手が包み込んでくれた。
そのときの笑顔は二度と忘れなかった。
初めて自分に向けられた笑顔だったから...










施設の近くの河原で2人並んで座っていた。

「オレにはレイちゃんと同じくらいの歳の子供がいるんだ。
 名前はシンジ。」

このとき初めてシンジという存在を知った。

「けどな〜んか情けなくってな、近所の子にはいつも泣かされてるし...」

苦笑する。
だが嬉しさも混ざっていた。

「男の子なんだから、もう少ししゃきっとしてもらいたいんだが...」

ソウはまるで独り言のように話す。
しかしレイはその話に興味を持っていた。
それがシンジに対してなのか、ソウに対してなのかは判らない。
だがソウの一言により、対象は完全にシンジに移った。

「そうだ、レイちゃん。
 シンジに逢ってみないか?」










「今日から新しく家族になる...」

レイの目の前にはシンジとユミがいた。
2人ともレイを見ている。

「シンジ、オマエの新しい妹だ。」

妹、という言葉が聞こえた。

「よ、よろしく、レイちゃん...」

戸惑うシンジ。
だが一番戸惑ったのはレイだった。

「...............よ、よろしく。」

何も無かったレイに、兄ができた。










「レイ。」

ソウが呼ぶ。
今までは便宜上に過ぎなかった名前が初めて意味を持った。

「レイ。」

ユミが呼ぶ。
名前を呼ばれるのが嬉しかった。

「レイ。」

シンジが呼ぶ。
初めてできた絆だった。
でも自分はこの人たちに何もしてあげられない。
それがもどかしく、嬉しいはずなのに上手く表現できない自分がイヤになる。

「「「レイ。」」」

それでも手を伸ばし、総てを与えてくれた。










ポタ...










涙が零れ落ち、そして止まらなくなった。
初めて表に出た感情に戸惑い、泣き叫ぶ。
自分を表す術(すべ)をそれしか知らなかった。

「「「レイ。」」」

ソウが慰め、ユミが抱いてくれて、シンジが微笑みかける。
温かく包み込んでくれる人たち。
そこから総てが変わった。










「妹でもいい...」

レイはシンジを追い求める。

「そばにいられるなら...」

その言葉はお星地蔵の祠に置かれていた絵馬の言葉−−−
レイと同じく、届かぬ想いを綴った言葉だった。

(届かなくてもいい、そばにいられるのなら...
 あの人の中に、私の居場所があるのなら...)


そしてレイは川を見つけた。
水嵩が増し、荒れ狂う川を...










☆★☆★☆










ブロロロ...

ブルーフォレストにヒデユキたちが帰ってきた。
雨雲が日の光を遮り、日没でもないのにライト無しではいられない。
さらに雨はやむどころか、徐々にその勢いを増しす...
昨日の比ではなかった。

「もし帰ってないようでしたら、地元の警察に連絡した方がいいですね。」

車から降りて玄関に走る。
だが、その玄関のドアがいきなり開かれた。

「シ、シンジ君!?」

シンジは雨の降る中、脇目も振らずに走って行く。
驚いた顔でヒデユキたちは呆然としていると、再び玄関のドアが開かれて我に返る。

「ア、アスカちゃん!?」
「ま、槙村さんっ、シンジを追って!」

アスカが叫んだ。
だがヒデユキは現状を理解できずに戸惑う。

「レイを捜しに行ったの!
 吉野山の頂上へ!!」

苛立ちを抑えきれず、アスカはただ叫び続けるだけだった。










☆★☆★☆










「川...これに沿っていけば...」

帰れるという淡い期待が出てきた。
しかし川は荒れ狂い、怖さも感じた。
昨日のバーベキューのときは、透き通るほどキレイで静かな川が今は激流と化し、茶色く濁っている。

「でも...他に道がない...」

レイは川に近づかないように距離を置いて川沿いを下ることにした。
ぬかるんだドロが足取りを重くする。
同時に雨が体力を奪い、足元を滑りやすくさせていた。
さらに不味いことに、レイは自分の間違いに気づくことはなかった。










「道が途切れた...」

今まで歩いていた道はそこで終わったのだが、川の流れはまだ続く。
これ以上行くには、山の斜面を進まなくてはならない。
かと言って戻るにも、自分がどう進んできたのかも判らなくなっていた。
雨は容赦なく降り続ける...

「...行くしか...ないよね...」

戻ることも留まることもできず、進むしかなかった。

ザザ...

足場をしっかりと確認しながら斜面を歩き始めた。
一歩間違えば川の濁流に飲み込まれる。
斜面のすぐ下に川は流れているのだ。

「兄さん...」

木にしがみつき、肩で息をしながら呟く。
一歩一歩地面を踏みしめながら川沿いを歩き続けた。
だが雨の影響で体力の消耗が激しくなり、足取りがおぼつかなくなる...










「キャッ!!」

足を滑らせた!
踏ん張ろうと足に力を入れるのだが、ぬかるんだ地面には逆効果だったのか斜面を滑り落ちる。

ザザザザザ...

どこかにしがみつこうと手足を伸ばすのだが、力が入らず自分の体重を支えられない。
細かい枝や葉で切り傷をいくつも作り、ドロ飛沫を上げながら落ちていった。

ドガッ!

大木に背中からぶつかった。
ゲホッと咳が出た途端に息ができなくなり、目の前が真っ暗になる。
しかし運の良いことに、大木のお陰で止まることができた。
そのまま大木の根元にうずくまり...










「助け...て...兄さん...」

薄れていく意識の中で、自分を護ってくれる人の名を呼んだ。










☆★☆★☆










「待つんだ、シンジ君!」

先を走るシンジにヒデユキがようやく追いついた。

「今サエコが警察や消防隊に連絡している!
 それまで待った方がいい!」
「待ってられませんよ!
 こうしている間にもレイは...!」

走りながら、少しだけ首を振り向かせて答える。
護らなければならないと決めた人のために急がなければならなかった。
だがヒデユキはシンジを止める。

「落ち着くんだ!
 この雨だ、川の水嵩が増して危険な状態なのは判ってるだろう!」

遥か下では川が渦巻いて濁流と化し、どれだけ危険かは一目見るだけで判った。
それでもシンジの気持ちは揺るがない。

「そんなことは判ってます!
 でもレイが危ないんだ、僕は行きます!」

再び走り出す。
目指すはアスカとレイが行こうとした、お星地蔵がある山頂。

「...護らなくちゃいけない...たった一人の妹だから!」

断固たる決意は誰に求められない。
ヒデユキはシンジの背中を見て、止められない自分の力の無さを呪う。
だがそこにシンジを止められるであろう少女が現れた。

「待って、シンジ!!」
「アスカ!?」

その声にシンジは立ち止まった。
アスカはすかさず抱きつき、その体でシンジを繋ぎ止める。

「行っちゃダメ!
 判るでしょう、どれだけ危ないのか...」

シンジを掴む手に力を込めて言う。

「レイが危ない、僕が助けないと...」
「サエコが助けを呼びに行ったんでしょう!
 だから大丈夫...レイはそっちに任せて...」

アスカの泣き顔がシンジの決意が揺さぶる。
だが突然光った稲妻によって、レイへの想いが蘇る。

「レイを助ける...!」

アスカを無理やり引き剥がした。
危険を省みない。
それがシンジが持つレイへの想いだった。

「...シンジ...」

今のシンジはレイしか見えていない。
今までと同じ、それが憎かった。
狂おしいほどに想いを寄せているのに、シンジの心にはレイがいる。

(行かせない...)

これ以上シンジの心がレイに傾くのが許せなかった。

「アンタ死にたいの!
 こんな嵐の中、アンタみたいな素人がどうやってレイを助けるっていうのよ!」

そこにはレイを想う心など一片もなかった。
ただシンジを行かせないためだけに。

「アスカ...」

アスカを見るシンジの黒い瞳は哀しみの色に染まる。
それでもアスカの心は変わらなかった。
そしてシンジの唇がゆっくりと動く。










ビシャア!!










雷鳴が空を駆け抜け、雨は一層激しく降り、シンジの声はかき消された。
何を言ったのかはアスカには判らなかった。
シンジはそのまま背中を向ける。
その背中がいつの間にか大きく広くなり、少年から男の背中に変わっていた。
そしてシンジはレイの許へ走り出す。










☆★☆★☆










「ん...」

レイの意識が戻り、大木にもたれかかるように倒れていた。
大木のすぐ後ろには増水した川の濁流が押し迫り、あと少しで完全に飲み込まれてしまうほどだった。

「ここ...イタっ!」

意識が戻ったことにより痛覚も戻り体中に激痛が走った。
切り傷やアザだらけになり、体力はほとんど底を尽きて動けない。
耳に入るのは川の凄まじい流れの音だけで、死という言葉が頭によぎる。

「イヤ...」

何もできない、誰もいない。
孤独だった昔の頃の自分が思い出された。
だがあのときとは違い、死への恐怖を感じる。
昔の自分であったならば、そんなモノは感じることもなかった。
むしろ死を苦しみから逃れる方法だということを本能的に感じていたかもしれない。

「...死にたく...ないっ!」

だが今は違う。
死にたくない、生きていたい、失いたくないモノがある。
死への恐怖から涙が流れ、ぎゅっと手を握り締め、心の中で好きな人を呼び続ける。

「死ぬのはイヤ...もう一度...逢いたい...!」

いつも自分を護ってくれた人の顔が浮かぶ。
そして今度も護ってくれると信じてその名を叫んだ。










「助けて兄さん!!」










☆★☆★☆










「!...
 ま、まさか...」

遠くから微かに聞こえた声をシンジの耳は拾った。
普通だったら雨の音や雷鳴にかき消されてもおかしくないのだが、確かに聞こえた。

「...きっとそうだ...!
 間違いない!」

その昔、いつも聞いていた声だったことを思い出す。
自分に助けを求める声、この世でたった1人の妹の声だった。

「レイ!
 どこにいる!!」

立ち止まって力の限り叫ぶ。
今までも、そしてこれからも護り続けるのだから、必ず届くと信じていた。
辺りを見渡し、耳を澄ませる。

「レイ!!」

もう一度呼んだ。
必ずどこかで自分の助けを待っているはず−−−
シンジは何度も呼び続ける。
そして遠くから自分を呼ぶ声を、はっきりと聞いた。

「兄さん!!」
「レイ、そこか...!!」

だがシンジは自分の目を疑った。
レイは山の斜面の遥か下の方で、ドロだらけになって倒れていたのだ。
しかもあと少しで川の激流に飲み込まれようとしている。

「待ってろ、レイ!」

一歩間違えれば自分も激流に巻き込まれてしまう。
だがシンジはそれでもレイを助けるために向かった。










「今からそっちに行く!!」

自分の危険も省みず、ただレイを助けたかった。










☆★☆★☆










「シンジ...」

シンジが何を言ったのか聞き取れなかった。
判っているのはシンジが今レイを見ていることと、自分を見てくれないことだった。
気がつけばシンジの背中は小さくなり、激しく振る雨の中に消えた。
アスカは何もできず、呆然と雨に打たれるだけだった。

「アスカちゃん、あとはオレに任せてくれ。
 シンジ君とレイちゃんは必ず連れ戻す...!」

ヒデユキは遠回しに戻るように言う。
だが聞こえてないのか、アスカはぶつぶつと何かを呟いていた。

「アスカ!」
「!」

ヒデユキが叫んだ。

「聞こえなかったのか!
 キミは戻るんだ、いいな!」

先ほどとは違い、明らかに命令していた。
だがアスカは聞き入れない。

「イヤよ...アイツの心がレイに向くなんて...」

何かに取り憑かれたような生気を失った顔をしていた。
常軌を逸脱した表情にヒデユキが思わず引いてしまう。










「イヤアアアアアア!!
 アタシを置いてかないでシンジ!!」

アスカの絶叫が響き、シンジの後を追った...










☆★☆★☆










「今からそっちに行く!!」

ぬかるんだ山の傾斜をシンジが降りてくるのが見えた。
嬉しさが込み上げ、助かる希望が見え始める。
だがレイは思い出した。

「ダメ...
 来ないで、兄さん!!」

好きな人を危ない目に遭わせたくない。
ここがどれだけ危ないかを知っているレイはシンジを止めようとした。
それでもシンジはひるまず、助けようと山の斜面を降りてくる。
それが嬉しくもあり、哀しくもあった。

(まただ...助けられてばかりで...何もできないの...?)

結局、寄りかかることしかできない自分の力の無さを恨み、身が千切れるような想いでシンジが降りてくるのを待つしかなかった。
ふと、後ろを流れる川の濁流を思い出す。

(...これ以上危険なことをさせたくない...)

バカな考えが頭に取り憑き、生と死の狭間で思い悩む。
だが、突然手が差し伸べられた。
昔もよく見た感じの光景...










「レイ...大丈夫?」










上から聞こえる優しい言葉。
見上げるといつもと同じ笑顔があった。
昔と同じように助けてくれたのだ。

「...バカだよ、兄さんは...」

シンジへの想いから涙が零れ落ちる。
結局自分は好きな人のために死ぬ勇気も無い、何もできない女だということが判った。
だが、それでもシンジが好きだった。

「帰ろう...家へ...」

シンジはレイの手を取り、自分の胸の中へ抱き寄せた。
力強く抱かれ、レイはこんなにも想われることを知る。

「う...うぅ...」










そしてシンジの胸の中で泣いた。
シンジに引き合わせてくれたせ、家族という絆を与えてくれたソウに感謝する。
そのとき、遠くから呼ぶ2人の女の声が聞こえた。
ユミとアスカの声だとすぐに判った。
シンジにも聞こえたらしく、安心させるように微笑みかけてくれる。
その笑顔は昔から変わらない。
優しく、透き通るような笑顔...










それが−−−










          最期に見た−−−










                    愛しい人の−−−










                              笑顔だった−−−


第七拾壱話  完






―――予告―――



アスカの父、惣流アベルだ

嵐という大自然の驚異がみんなに襲いかかった

今回は前編というわけで、まだ大事には至ってないようだが...それでも危険な状況だ

そして次回はなんと2日後に飛ぶ!

それぞれが嵐の記憶を辿り、事実を受け入れなければならない

それから...あ、ユイさんじゃないですか、お久しぶりです





次回

大切な人への想い

「過ぎ去った夏(其ノ拾伍)」



注) 予告はあくまで予定です





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