場所はとある病院の一室。
その中にはアスカ1人だけがいた。
ベッドの上に座るその姿は何かに怯えている。
ヒザを抱え、歯をカチカチと鳴らし、眠っていないのか目の下にはクマができていた。
宝石のような蒼い瞳はどこを見ることなく宙を彷徨(さまよ)う。

「ウ...ウソよ...」

口からは否定の言葉が出てきた。
それはつい先ほど、アベルから聞かされた事実を信じたくないためである。
アスカはうつむき、目をギュッと閉じて現実から逃げようとした。
しかし事実は頭の中を駆け巡り、逃げることを許さない。

「イヤぁ...」

ギリギリと自分の腕に爪が食い込み、血が滲み出てくる。
体に痛みを感じてほしかったが、痛覚がマヒしているのか何も感じない。
その代わりに、心が伝えられた事実に押し潰されていく。
1人でいると考えが悪い方向へと走るのだが、今はどうしても1人になりたかった。

「あのとき...アタシは...」

ゆっくりと思い出してみる。
あのとき山の斜面の遥か下にシンジとレイの姿を見つけることはできた。
自分の隣りにはユミもいた。

「ここまでははっきりと覚えてる...」

そこから先の記憶が曖昧だった。
思い出そうとすると頭が痛くなる。
息ができないくらい苦しかった記憶がある。
ドロ水を大量に飲んだ記憶もある。
あとは痛いくらい強く抱かれていた記憶があった。
思い出せるモノはそれだけ。
気がつくと最初に病室の天井が見えた。

「じゃあ、その間に...」

ガチガチと心の底から震え、罪を犯した咎人のように怯える。
そして震える唇から、アベルから伝えられた事実が出た。

「レイとおばさまが...死んだの...」










あれから2日目のことであった−−−











大切な人への想い

第七拾弐話 過ぎ去った夏(其ノ拾伍)











事故から2日目−−−
2回目の朝日が昇り、部屋の中を明るく照らす。
太陽の明るい光には覚醒作用があり、アスカは目を覚ました。

「...ぅん...あれ...?」

最初に目に入ったのは真っ白な天井だった。
さらに記憶が曖昧なため、混乱する。
しかし何があったのか考える間もなく、名前を呼ばれた。

「アスカ!」
「...ママ...?」

心配そうな母親の声だった。
頭でその声が母親と認識する前に熱い抱擁をされる。
自分がなぜここにいるのか、今は一体いつなのか、何があったのか、その全てが判らない。

「なんでここにいるの...ここは?」

天井を向いたまま、アスカ本人とは思えないような感情のない声。
蒼い目の焦点はどこにも合っていない。

「アタシ...」

覚醒したばかりなので頭が回らず、ゆっくりと思い出していく。
お星地蔵に願掛けするために山を登ったことから始まり、徐々に記憶が整理されていく。
シンジの気持ちを知ったこと、気がついたらペンションに戻っていたことなど、断片的だが見えてきた。
やがて記憶の流れが、シンジがレイを追っていったところまできたとき、アスカの表情が急に強張る。

「あぁ...イヤぁ...」

アスカの脳裏にはシンジとレイが抱き合っている場面が映し出されていた。
その2人はまるで恋人のようにお互いを必要としているように見える。
横にいたユミはホッとしたのか胸を撫で下ろしている。
その表情は母親の顔で我が子の無事が嬉しかった。
だがアスカはシンジが無事であったことが嬉しいはずなのに、素直に喜べない。
記憶の中の自分はレイに対する嫉妬で苦しみ始めていた。










(なんなのよ...あの2人...)

理解できない絆がシンジとレイの間に見えたことに苛立つ。
家族、兄妹といったモノではない。
かと言って恋人でもないのだが、2人はお互いを求め合っている。

(...アタシじゃダメなの...だったらアタシはアイツのなんなのよ!)

気がついたらシンジに向かって走っていた。
ドロだらけになり、山の斜面を滑り落ちる。
後ろからはユミの声が聞こえたような気がしたが、そんなことには構ってられない。
今はただ、シンジのそばに行きたかった。

「アスカっ!?」

驚いたシンジの声が届く。
レイも驚いていた。
アスカはなんとしても2人の間に入りたかった。
そこにいた全員の注意がアスカに向けられたとき、それは起こった。

バキッ!

木がきしむ音がして、悪い予感がしたのかシンジの顔が引き締まる。

バキバキ...

音は断続的に続く。
しかも場所は近くの大木からだった。
それにいち早く気づいたのはレイだった。

「危ないっ!」

いきなり押されてシンジがよろめく。
そのときシンジの視界はモノクロに変わり、時間が緩やかに流れる。
離れていくレイの顔はシンジだけを見て、シンジだけを想ってくれていた。

バキ...バキ...バキッ!!

大木が根元から折れた。
シンジは呆然として巻き込まれるレイの姿を見ている...

「レイっ!!」

レイが巻き込まれ、川の濁流に飲み込まれる中、シンジの叫びがこだました。
そしてシンジがレイを助けるために飛び込もうとしたとき、アスカが間に合った。

「行っちゃダメ!」

シンジの体にしがみついて止めた。
だがそうしている間にもレイは流されていく...
シンジはなんとかアスカを引き剥がそうとした。

「アスカ...離せっ!!」

体を大きく振ってアスカの手を緩めようとする。
その瞬間、シンジの視界を何かが横切った。

「レイっ!」
「か...母さん...?」

ユミが川に飛び込んだ。
ためらいなどは一切無い。
シンジとアスカは呆然として見ているだけだった。

「かあさん...」

濁流に飲み込まれていくユミ。

ズズズ...

地面が鳴った。
揺れを感じ、2人の緊張が高まる。
次の瞬間、辺り一面が地滑りを起こして川の流れに飲み込まれた...










「...あぁ...あれからどうなったのよ...」

そこからのアスカの記憶が途切れていた。
目を覚ましたときはすでに事故から2日経っていた。

「ママ...ママっ、あれからどうなったの!
 シンジは...レイやおばさまはどうなったの!」

狂ったように自分の母親に掴みかかり、事実を聞き出そうとする。
記憶が整理されるにしたがって、思いたくもない結末が形成されていく。

「落ち着けアスカ!」

アベルが慌てて押さえつける。
力任せに押さえたお陰でアスカはキョウコを離した。
解放されたキョウコはゲホゲホとセキが止まらない。

「大丈夫か、キョウコ?」
「ええ...それよりもアスカは...」

幾分落ち着いたのか、いつの間にか静かになっていた。
だがその表情は青ざめ、ガタガタと震えていた。

「...教えて、パパ...あれからどうなったの...?
 シンジたちは?」

アベルは答えるべきか迷う。
その迷いがさらにアスカの不安をかきたてる。

「やっぱり...そうなの...?」

その言葉にアベルの顔が曇る。
だが、わずかな変化から自分の推測が的中したのが判った。

「いやあああああ!!」

アベルに押さえつけられてもなお暴れ出す。
目がいっぱいに開かれ、叫び続け、発狂してしまったかのようにも思えた。

「シンジ君は無事だ!
 だから落ち着けアスカ!」

シンジたちを襲った事故。
せめてもの救いがそれだった。

「シンジが、生きてるの...?」
「ああ、まだ眠っているが無事だ、じきに目を覚ます。」

シンジは現在、意識はまだ回復しておらず、アスカとは違う部屋で眠っている。
無事を聞き、アスカは幾分落ち着きを取り戻した。
だが問題はそこで終わることはない。

「レイちゃんとユミさんは...残念だったが...」

もはや隠しても意味はないと判断したのか、事実を告げた。
特にアベルの場合は引き上げられたばかりの2人の遺体を見ているだけに心が痛む。
すでにレイとユミの遺体は病院の霊安室に運ばれていた。

「あの中、オマエたち2人が助かったのだって奇跡だった...」

アベルはアスカを慰めるが、そう言って自分自身を納得させていた。
だがアスカはそうは思えなかった。
そもそもの原因、アスカがレイを誘わなければ...あのときレイを追っていれば...

「...出てって...」

次々と後悔の念が襲いかかり、その全てがアスカを責め立てる...










「みんなここから出てって!
 アタシを一人にして!!」










☆★☆★☆









シンジの部屋は一人部屋だった。
窓側に置かれたベッドから外の景色を眺める。
台風一過が去ったあとで、天気は晴れ。
青空は澄み渡り、天高く昇った太陽が眩しく、真夏の1日だった。
しかしシンジの心は晴れてはいない。
ボンヤリと外を眺める目には生気は宿っていない。
体のあちこちに手当てした跡があり、右手に巻かれた包帯が痛々しかった。

「右手...どうして?」

シンジは右手を眺める。
力を入れて手を握り締めようと思ったのだが、手は震えるだけで開いたままだった。
そのとき頭に痛みが走る。

「っ痛!」

一緒に記憶の断片が流れた。
凄まじい早さで流れたためか、記憶の混乱が生じる。
左手で頭を押さえて痛みに堪えていると、何か物足りない気がした。
室内を見渡すと、とても心細くなる。
いつもと違うのだ。

「あれ...
 そうだ...アスカとレイがいないんだ。」

見知らぬところだったが、自分が病院の一室にいるのは判った。
となるとアスカとレイがいないのはおかしい、いた形跡すらなかった。
なぜ、と思った瞬間、再び記憶の断片が流れ始めた。

「あ...あぁ...」

脂汗が流れ、体が震え、目が大きく見開かれた。
常軌を逸した表情で、徐々に蘇る記憶がシンジを怯えさせる。
その記憶の中にはレイ、ユミ、そしてアスカがいた...










「レイ...大丈夫?」

手をレイに差し出す。
ドロだらけの顔で微笑んでいたので、なんだか滑稽にも思えた。
しかしレイを見ると、自然に笑顔が零れる。

「...バカだよ、兄さんは...」

レイは泣いていた。
体中キズだらけの姿を見れば、どれだけ怖くて、心細くて、辛かったのかが判る。
それなのに自分を心配してくれていた。
今でも想ってくれているのが嬉しかった。

「帰ろう...家へ...」

手を取って抱き寄せた。
壊れるくらい力強く抱きしめ、自分の胸の中で泣くレイが愛おしいと思った。
自分を抱きしめてくれるレイの腕が心地好く、レイを護れたことを実感する。

「シンジっ!」

上から声がして見上げると、アスカと母親のユミの姿が見えた。
レイも気づいたのか顔を上げる。
まだ不安な表情は消えておらず、安心させようと笑いかけた。
するとレイの表情も崩れ、安心したのか微笑んでくれた。
そのときシンジは思った。

(どうかこの笑顔が消えませんように−−−)










しかし、そのささやかな願いは叶うことはなかった...









☆★☆★☆









病院の地下室の一室に、ヒデユキとサエコがいた。
その部屋の空気は重く苦しい。
脳裏にわずか2日前のことが蘇り、後悔と自責の念に駆られる。
自分の目の前で静かに眠るレイとユミを見ると、なおさらであった。
ヒデユキはただ唇を噛んで、圧し掛かる重圧に耐えるしかない。
例え口を開いたとしても、なんの意味も持たない言葉しか出ない。
サエコはいたわるようにそばに座っていたが、サエコもまた自分自身を責める。
六年前、シンジの父であるソウを殉職させたことへの罪悪感が蘇り、今回のレイとユミを助けられなかったことと重なる。

「ヒデユキ...これからどうなるの...?」

重圧に耐えられなかったのか助けを求めるように問いかけた。
だがヒデユキはそれに答えられず、その場の空気がより一層重くなる。
そのときドアが開いた。
入ってきたのはアベルだった。

「シンジ君の意識が戻ったそうだ...」
「ホントですか!」

アベルの言葉にガタンとイスを鳴らして立ち上がる。
嬉しさのあまり声が出たが、それもすぐに沈む。

「で、どうする...?
 私が伝えてもいいが...」

アベルが少し控えめに申し出る。
だがヒデユキはアベルの目を真っ直ぐに見ていた。

(あのときオレは何もできなかった...)










ヒデユキが到着した頃にはシンジ、アスカ、レイ、ユミの4人が荒れ狂う川の中にいた。
シンジはアスカを護るように抱き、川の濁流に飲まれてもなお立っている木に、流されまいとしがみついていた。
そしてユミもまた、レイを護るように違う木にしがみついている。
流れは速く、距離もあり、ヒデユキは指をくわえて見ているしかない。

「くそっ...サエコはまだか!」

川の流れとシンジたちを見ても、いつ流されてもおかしくない。
時間だけが悪戯に過ぎて行き、いくら待っても来ない助けがシンジたちの体力を削る。
かといって自分1人では何もできない...
川の流れに揉まれ、流されまいとするシンジとユミの姿が自分の力の無さを責める。

ドドドドドドド...

腹に響く奇妙な音が耳に入った。
本能がその音に対して恐怖を感じさせる。

「なっ?」

川上からなぎ倒された木や多くの土砂が混ざった土石流がシンジたち目掛けて流れてきた。
ムダを承知で危険を知らせようとする。

「シンジ君、危な...!」

だが流れは速く、土石流はシンジたちを飲み込む。
しがみついていた木も簡単にへし折られ、跡形もなく4人を飲み込んでいった。
どこに流れていったのか、まったく判らない。

「槙村っ!」

シンジたちがいた場所を呆然と眺めていたとき、ようやくサエコが連れてきた助けがやってきた。
だがヒデユキの姿を見た途端に、何があったのかは判った。

「...間に合わなかったの?」

サエコの言葉に沈黙をもって肯定する。
川の流れは止まらず、上流から下流へと茶色く変色した水が次々に流れていくのをただ見ていた。










「お...おい、あそこっ!」

助けにきた消防隊の1人が指した。

「シ、シンジ君っ!?」

奇跡としか言いようが無かった。
川岸にしがみつくようにアスカを抱いている姿を見つけた。
シンジは最後の力を振り絞って川から抜け出す。
するとそこで力尽き、糸が切れた操り人形のように倒れてしまう。

「早く助けるんだ!」

ヒデユキたちは急いでシンジの元に走った。
雨で滑りやすくなった山の斜面を降り、川の流れを警戒しながら近づく。
刻一刻と変化する状況と時間と闘い、やっとの思いでたどり着き、安全な場所まで運ぶ。

「シンジ君!!」

返事は無い。
慌てて左胸に耳を当ててみると鼓動が聞こえた。

「よし、まだ生きている!」

だがひどく衰弱しているのが判る。
アスカの方を見るとサエコが口を合わせて人工呼吸をしていた。
気道を確保し、鼻を摘んで息を吹き込む。
かと思えば胸に両手を当てて心臓マッサージを加える。

「ガハっ!!」

何度かやっていると、突然大きく息を吐いた。
咳と共に飲んだ水も吐く。
蘇生が成功したのだ。
ホっと安心する中、シンジとアスカは待機していた救急車に運ばれた。

「どうします?」

救急隊の1人に付き添うか尋ねられた。
ヒデユキがサエコに目配せすると頷いた。

「私が付き添います。」

一緒にサエコが乗った。

「離れてください、出ますよ!」

ドアを閉められる瞬間、サエコが不安な顔を向けた。
ヒデユキは頷くだけで何も言ってやれなかい。
救急車が出るとサイレンが鳴った。
いつ聞いてもイヤな音だった。

「シンジとアスカは任せよう。
 ...オレは残ったことをやるだけだ...」

残ったこと−−−
ヒデユキは流されてしまったレイとユミの捜索に入った。










雨の降る中、捜索は遅々として進まない。
だが次第に雨は下火になる。
日が変わると台風は過ぎ去り、雲に切れ目が現れ、青空が見え始める。
大勢の人が狩り出されて捜索は続いた。
やがて日が傾いた頃、知らせが入る...

「いたぞ!」

ボートで川の中を調べていた1人が、誰に言うでもなく叫んだ。
他の者は引き上げる作業に入っている。
そしてヒデユキとアベルが現場に着いた頃には作業は終わっていた。
眼前に並んだ毛布に包まれた2つの遺体。
ヒデユキは見慣れているとはいえ、良いモノではなく血の気が引く。

「確認、お願いできますか。」

恐れていた言葉が自分に降りかかる。
恐怖から心臓の鼓動が乱れ、息も荒れてきた。

「槙村君、私が...」
「だ、大丈夫です...」

意を決し、震える手を伸ばす。
今まで何度も同じことをやってきた。
泣き崩れる遺族の方も見てきた。
そして自分の恩師であるソウの時でさえも...










「!」

言葉が出なかった。
その代わりに涙が落ちた。
めくった毛布の端をギュっと握り締め哀しみに耐える。
そこには見慣れた顔があった...

「レイ...」

アベルが名前を呼ぶ。
白くキレイな肌は灰色に変わり、氷のように冷たく感じる。
そっと頬を撫でても硬い感触しか感じられなかった。

「六分儀レイに...間違いありません。」

さらにヒデユキはもう1人を確かめるため、毛布をめくる。
そこにも見知った顔、六分儀ユミの顔があった。

「ユ、ユミさん...」

自分の目を信じたくなかった。
だがそこには確かにユミはいた。
ヒデユキはその場に崩れ落ち、そして泣いた...










こうしてレイとユミの2人は彫刻のように崩れることもなく、そのままの姿で遺体として発見された。

「オレが伝えます。」

毅然とした態度を見せる。
そしてヒデユキは 「霊安室」 と書かれた部屋を出た。










☆★☆★☆









部屋の中にポツンと置かれた真っ白なベッド。
だがそこにはシンジの姿はない。
シンジは自分の手で窓を開け、外を眺めていた。
その目は遠い空の彼方に向けられている。

コンコン...

ドアが叩かれ、シンジはゆっくりと振り向いた。

「...ハイ。」

シンジが返事をするとドアが開かれ、最初にヒデユキが入ってきた。
暗く沈んでいたが、シンジの姿を見た途端、その表情は驚きと共に消える。

「シ、シンジ君っ...もう大丈夫なのかね?」
「右手がまだダメですが...」

そう言ってもう一度右手に力を入れてみるが、震えるだけで直ってはいない。

「と、とにかくシンジ君、横になってた方がいい。
 キミはあれからずっと眠ってたんだ。」

あれから−−−
言い回しであり、事実を避ける用意された言葉だった。
一度躊躇われた言葉を口にするのは難しく、ヒデユキはどう切り出せばいいのか判らなかった。
だが、伝えなければならない。
その役目を買って出たのだから...

「あ...シンジ君...」

無理に作った声だったのか、いつもとは違った声が出る。
この部屋にくるまで頭の中でシミュレートしていたが、いざとなると言葉に出ない。
だがその想いをしっていたのか、シンジの口からその言葉が出る...










「...レイと、母さんが...死んだんですね。」

シンジの記憶はそのときを余すことなく映し出す...










シンジとアスカが立っていた場所ごと、川の中に投げ込まれた。
川の流れは強く、されるがままに流される。
しかしシンジは左腕だけはなんとしても護らなければならなかった。

(ぐ...アスカぁ...)

シンジの左腕はアスカの腰に回され、絶対に離さない。
濁流に飲み込まれ、土砂や流された木々にぶつかりながらも左腕に力を込める。

(...あ、アレだ!)

流され、天と地の判断もつかぬ中、川の流れの中に一本の木が立っているのを見つけた。
届かない距離ではない。
シンジは自由になる右腕を限界まで伸ばす。

パシッ!

右腕は伸びた太い枝を掴んだ。
途端に水の流れが重くなり、シンジの右腕一本に2人分の重圧がかかった。
アスカは気を失っているため、離せばアスカの命の火は消えてしまう。

「がっ!!
 ...ぐ...離す、ものか...!」

水の流れは容赦無くシンジとアスカにぶつかり、遥か彼方に流そうとしていた。
濁流はシンジに当たると大きな水飛沫を上げて流れの強さを見せつける。
右手に力が入り、握力によって掴んだ枝がミシミシと音をたてる。
息をするのも苦しく、目を開けるのもやっとだった。
そんな中、信じられないものを見つめる。

「か、母さん?」

そこから少し離れたところで自分と同じようにレイを護るユミの姿があった。
レイはアスカと同じで気を失っていたが、ユミの腕の中にいる。
一瞬、安心するが所詮は女の非力な力であり、シンジでさえいつ流されてもおかしくない状況だった。
ユミたちが濁流に飲み込まれるのは時間の問題となる。
それでも我が子を護ろうとユミは必死に木に掴まっていた。

「母さんっ!!」

声の限りに叫ぶ。
だが濁流に飲まれ、その声は届くはずはない。
シンジとユミは流れに逆らうように立つ木に、力の限りにしがみつく。

(くそぉ...
 誰でもいい、助けてくれっ!!)

すぐそこにいるのに助けに行けない自分の非力さを呪う。
しかも腕の中のアスカを護らなければならなかった。
目の前で力尽きようとする母と妹がいるのに、今の自分にはアスカしか助けられない。
いや、助けられるかどうかも判らない。
シンジは濁流に耐えながら、レイとユミが流されてしまうのを見ているしかなかった。
やがて時間は体力が徐々に削り、やがて運命の刻は訪れる...

「え...?」

ユミがレイに何かを話したのをシンジは見た。
愛する子供に謝っているように思えた。
川の濁流と嵐の音が鳴り響く中、シンジにはユミが何を言っているのかが読めてしまった。










「ゴメンなさいね、レイ...私のかわいい娘...」










確かにそう言った気がした。

「かあ...さん...」

目や耳や自分のカンを疑う。
そしてレイに向けられたユミの顔が、ゆっくりとシンジに向けられた...










「さよなら、シンジ...」










今度ははっきりと読めた。
そしてユミは微笑んでいた。
小さい頃に見た、幼い我が子をあやすときの、慈愛に満ちた母親の笑顔であった。
シンジの目にはユミの笑顔が焼き付き、やがてユミの手が離さる...

「レイっ!
 母さんっ!!」

濁流に飲み込まれる家族に向かって叫んだ。
一瞬にしてユミとレイを飲み込み、2人を下流へと流れていく。
シンジもまた後を追おうと右手の力を緩ませた。

(追わなきゃ...)

しかし、左腕で支えているアスカの感触がそれをさせない。
今の自分には、その命を懸けて護らなければならない人がいた。

「くっそぉ...!!」

再び右手に力を入れ、アスカを護ろうと木に掴まった。
目をつぶればユミの笑顔が蘇る。
自分は生き延びねばならなかった。

ビキ...ビキビキ...

シンジの握力に耐えきれなくなったのか、押し寄せる濁流に耐えきれなくなったのか、掴んだ太い枝に亀裂が走った。
亀裂は徐々に大きな裂け目となり、次第にシンジとアスカを支えていられなくなる。
そして上流から流れてきた巨大な流れがシンジたちを襲い、掴まった木もろともなぎ倒す。

(アスカぁ!!)

自分にできること−−−
それは両腕でアスカを決して離さないように抱きしめること。
今のシンジにはそれしかできなかった。
護るようにアスカの頭を胸に抱き、両手でしっかりと押さえる。
まわりは何も見えず、あとは流れに身を任せる他はない。










何度離しそうになったか...
その度にアスカの名前を心の中で叫んで抱いた手に力を込める。
川底や流木に何度もぶつかり、やがて流れの合間から外気に触れることができた。

「っプハァ!!」
ビシャァ!!

雷鳴が夜空を走り、辺りを照らす。
それは一瞬の出来事であった。
だがそのお陰でぶつかったところが川岸だというのが判った。

(助かるっ!!)

右腕を伸ばして川岸にしがみつく。
腕に力を入れ、一気に体を引き寄せる。
流れは激しかったが、それでも上半身だけは乗り出すことができた。
川から上がるため、さらに限界以上の力を引き出す。

「ぐぅあっ!!」

酷使してきた右腕は悲鳴を上げたが使い続ける。
ツメが割れ、剥がれ、力が入らなくなった。
それでも左腕にアスカを感じることで力が湧き上がる。

(死にたく...ない...!)

本能が肉体に力を与え、ついに川から這い上がった。
アスカも左腕に抱いている。
川から離れるために、そのまましばらく歩いたかと思うと、突然力尽き、そこで意識が消えた...










シンジの目はただヒデユキに向けられただけであった。
なんの感慨も無い、感情は無かった。
ただ事実を受け入れたことだけがシンジにはあった。

「知っていたのか...?」
「なんとなくですけど...
 一番近くで、見ていたし...」
「そうか...」

シンジが家族をどれだけ愛していたかはヒデユキが一番知っている。
だがなんの反応も出さず、淡々としていたのでヒデユキは戸惑いを感じた。
悲しむ姿を見せたくないと考えればそれまでだが、15歳の少年がそれだけ感情というモノを割り切れるとは思えない。
思いたくなどなかった。

「...あの、会えますか?」

シンジは変わり果てたであろう家族、レイとユミに会うことを望んだ。
ならばヒデユキはその望みは叶えなければならない。

「判った、ついてきたまえ...」

案内するために先頭に立つ。
シンジはヒデユキの後について病室を出る。










「...アスカ...」










その歩みが突然止まった。

「アスカはどうなったんですか!?」

アベルを見るシンジの顔にはアスカを気遣う気持ちが出る。
ようやくシンジに変化が現れた。

「ああ...キミのお陰でアスカは助かったんだ。
 ありがとう、シンジ君...」
「ホントですか!」

なんの感情も表れなかったシンジが初めて喜びへと変わった。
その変化に大人たちも喜んだが、それも束の間の喜びだと気づかされる。

「アスカに会えますか?」

その言葉にアベルは迷う。
今のアスカにシンジを会わせるべきなのか...
シンジはアベルの迷いを打ち消すように言う。










「アスカに会いたいんです...」

シンジは死んだ家族よりも、生きているアスカを選んだ...










☆★☆★☆









新幹線は一路西を目指して走り続ける。
その車内では窓から見える眺めは、まるで溶けるようにして流れていく。
しかし窓側の席に座っている女性はそんな風景を見ている余裕などない。
なぜかひどく疲れた顔をしていた。

<次は新大阪...到着予定時刻は...>

車内放送が告げると、降りる乗客は荷物をまとめに入った。
この女性も次の駅で降りるのだが、先ほどの放送は耳には入っていない。

「気をしっかり持て...」

隣りに座る男が気遣う。
無愛想な表情、サングラス、伸ばしたヒゲと、見る者には威圧感を与えるが、実は心の優しい男だった。

「判っています...でも、どうして...」

手で口を抑えて嗚咽を止めようとするが、その代わりに涙が溢れる。
それを見かねた男がそっと手を重ねる。
すると痛いくらいに握り返してくる。

「私たちがしっかりしないでどうする。
 今、一番辛いのは...」
「ええ...そうですね...」

涙を拭き取るが目は腫れたままだった。
やがて新幹線は新大阪駅に到着し、2人は降りる。
駅構内は人で溢れ、喧騒に包まれていた。
人が行き交い、人ゴミにもまれる。
急いでいる者、ゆっくりと歩く者、待ち合わせをする者など、多種多様である。
2人が改札を抜けると、そこには見知った女性が待っていた。

「久しぶりね、キョウコ...」

久しぶりの再会。
だが嬉しさは無い。

「ええ...あの日以来だから、6年ぶりね...ユイ...」










☆★☆★☆









アベルを先頭にシンジたちが付き添い、とある病室のドアの前で止まった。

「ここがアスカの部屋だ。」

アベルが教える。
心なしか顔色が優れない。
ふぅ、と息を静かに吐いてドアに向かって話す。

「アスカ、起きてるか?」

病室のドアをノックした。
だが壁一枚隔てた向こう側から返ってくる答えは今までと同じ。
この部屋の主であるアスカが1人になってからずっと同じだった。

「入ってこないで!!」

事実を告げられてから人と会うのが怖いのか、アスカは総てを拒絶する。
予想していた答えだったが、実際に聞くと辛くなる。
それが自分の娘ならばなおのことだ。
アベルは助けを求めるようにシンジを見る。
するとシンジは頷き、ドアの向こうにいるアスカに話しかけた。

「アスカ...僕だよ。」

できるだけ優しく声をかけた。
名前は言わなかったが、アスカなら声だけで判ることを知っていた。
シンジはじっとドアを見つめ、その向こうにいるアスカのことを想う。

「アスカ、入るよ。」

シンジは自分が護り抜いた命を確かめたかった。
アスカこそが家族を失ったシンジの唯一の救いだった。
だがアスカからは何も返ってこない。
大人たちが見守る中、シンジはノブに手をかけた。

「...お願い...」

そのとき、アスカの声が返ってきた。
姿は見えなくても、シンジにはアスカが泣いているのが判る。
早く会いたいという気持ちを抑え、次の言葉を待った。

「...シンジだけ、入ってきて...」

微かに聞こえたアスカの言葉に戸惑う。
アベルを見ると、ただ黙って頷くだけだった。
時が止まったかのように、シンジは動けなくなる。
親でさえ会うのを拒絶したのにシンジにだけ会うのを望んだ。
シンジもまたアスカに会いたかった。
会って話がしたいと心から思った。

「アスカ、入るよ...」

静かにドアを開け、シンジだけが中に入った。
部屋を見渡さなくても、怯えているアスカはすぐに見つかる。
アベルたちはやがてくるゲンドウとユイを迎えるために病院のロビーにいることにした。










「よかった...無事だったんだね、アスカ。」

護ることができた唯一の人。
本当にそう思えた。

「...ホントにそう思ってるの...?」

否定するように呟く。
事実を知っているだけにシンジの言葉を信じられなかった。

「...死んだのよ、レイとおばさま...」
「知ってるよ...」
「だったらなんでよかったって思えるのよ!」

アスカの言葉が胸に刺さる。

「そうだね...そうだったね...」

なんとなく、そうではないかと感じていた。
そしてヒデユキから聞かされた事実。

「...でも、僕たちだけでも助かったんだ...
 僕はよかっと思うよ...」

これも本心だった。
生き延びたことをシンジは喜びたかった。
でなければ気が狂いそうになる。

「...アタシは...シンジみたいに思えないよ...」

事実を受け入れられなかった。
アスカはシンジの存在を忘れ、ヒザを抱える。
なにかを思い出しては体を震わせ、そのヒザを涙で濡らした。
シンジは声をかけることもできず、ただアスカを見ていた。










「ねえ、シンジ...アタシを抱いて...」

アスカの体はカタカタと小刻みに震えていた。

「寒いの?」
「そうじゃない、アタシのカラダを抱いて欲しいの...」
「バ、バカなこと言うなよ!」

どこかで聞いたセリフにシンジはギクリとした。

「めちゃくちゃにされたいの...
 でなければ狂ってしまうかもしれない...!」

ヒザを抱えていたアスカがシンジに迫る。
涙を流して懇願していた。
それが一層シンジの記憶から、あの場面を鮮明に蘇らす。
紅い瞳に吸い込まれそうになるように、今は蒼い瞳に引き寄せられる。

「や、やめてよアスカ...」
「お願い、抱いて...」

逃げようとするシンジを追い詰める。
いや、追い詰められているのはアスカなのかもしれない...

「アタシにはそれしかできない...」
「なにを言ってるんだよ...」
「アタシが悪いのよ!
 あのとき...アタシが...」

思い出される事故となる原因−−−
あのときレイを追っていれば、山を登ると誘わなければと責め立てる。
だが全ては過ぎてしまった過去のことであり、時計の針は戻せない...

「それだけじゃない...
 シンジを止めようとしたのだって、ホントはアタシだけを見てほしかっただけ...
 アンタの心がレイに傾くのが許せなかった!!」
「アスカ、落ち着いて...」
「アタシのことが好きなんじゃないの?
 欲しくないの、アタシが?」

問い詰められ、シンジは逃げようとする。
そんな態度がアスカをさらに苛立たせる。

「お願い、忘れたいの...忘れさせてよシンジ!」

責めるような目でシンジを見る。
その蒼い瞳が紅い瞳の少女と重なった。
湖の浮島での出来事が蘇り、レイのすすり泣く声が聞こえる。

「あ...あぁ...」

だがもはやこの世にはいない、護りたかった少女はすでにいない。
記憶の中でしか会えなくなった。
護ると誓ったはずなのに−−−
それがシンジを責め立てる。

「レイ...」

レイと一緒に流されていくユミの姿も思い出される。
そのときのユミの顔が忘れられない。
死の間際に、なぜ自分に微笑んでくれたのか判らなかった。

「かあさん...」

頭の中ではレイとユミの最期が映し出される。

「女も抱けない意気地ナシなの?」

目の前ではアスカが迫る。

「やめてよ...」

アスカはレイを思い出させ、レイは 「死」 という事実を思い出させ、ユミの最期の笑顔は頭から離れない。
シンジは護れなかったという事実に責め立てられ、追い詰められ...

「やめろ!!」
「ひぃ!」

部屋が震えるほど大きな声で叫び、アスカが怯えた。

「...僕は...意気地ナシなんかじゃないつもりだ。
 だけど、アスカをめちゃくちゃにするくらいなら...意気地ナシでいい!」

ドアを力任せに開け、シンジは逃げるように走っていった。
そして1人になったアスカは泣き崩れる。

「だったらアタシはどうすればいいのよぉ...」










☆★☆★☆









「ハァッハァッハァ...」

病院の廊下を全力で走る。
どこに向かっているのかは判らない。
シンジはただ現実から逃げ出したかった。
壁や物にぶつかり、何人もの人にもぶつかった。

「クソ...」

悲しくて涙が流れ、無性に腹が立って仕方なかった。

バン!!

気がついたら扉を開けて屋上に出た。
頭上にはどこまでも澄み渡る青空が広がり、太陽の陽射しが照り付けていた。

「レイ!
 母さん!!」

今はもういない人を呼ぶ。
二度と自分に話しかけてくれない、笑いかけてもくれない。
六年前、父ソウが死んだときとは違う。
家族と呼べる人はもういないのだ。










「危ないっ!」










年下の女の子、護るべき妹のはずなのに、最後にレイは自分を庇ってくれた。










「大好きだよ、兄さん...」










好きだと告白され、嬉しかった。










「見てよ、私を見て...なんでダメなのよ!」










それなのにレイの想いに応えられなかった。
もし応えていたのなら、レイは死なずに済んだかもしれない。
憎まれても恨まれても当然なのに、レイはそれでも愛し、最期に自分だけを想ってくれた。
母親のユミにしてもそうかもしれない。










「さよなら、シンジ...」










最期に向けてくれた笑顔は自分だけのモノだった。
今でもはっきりとユミの笑顔が想い出せる。




















「うあああああああああっ!!」

シンジの叫びは、辺りから聞こえるセミの鳴き声に消えていった...



第七拾弐話  完






―――予告―――



惣流キョウコです

シンジ君が家族を失い、ついに終わってしまいました...

でも、総てを失ったわけではありません

夢と仲間たちと...そして、アスカがそうです

しかしユイによって、それすらも...

長かった夏も、ようやく終わりを告げます





次回

大切な人への想い

「過ぎ去った夏(其ノ拾六)」



注) 予告はあくまで予定です





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