「レイ...大丈夫?」

優しい声がした。

「...バカだよ、兄さんは...」

頬に涙が伝う。

「帰ろう...家へ...」

頼もしい声と優しい笑顔。

「う...うぅ...」

そして好きな人の胸の中で声を上げて泣いた。

「「シンジっ、レイっ!」」

遠くから呼ぶ2人の女の声が聞こえた。
ユミとアスカの声だとすぐに判った。

「もう大丈夫だよ。」

シンジにも聞こえたらしく、安心させるように微笑みかけてくれる。
その笑顔は昔から変わらない。
優しく、透き通るような笑顔...

バキ...

何かが折れる音がした。
シンジの顔が強張り、自分を抱く腕に力が入る。

バキ...バキバキ...

近くで音が断続的に聞こえる。
どこからかは判らないが、イヤな予感がした。

「危ないっ!」

危険を察知して突き飛ばす。
突然のことに呆気に取られるシンジ。
一瞬の出来事だった。

バキバキバキッ!!
「レイっ!!」

シンジの叫び声が嵐の中、こだました。
根元から折れた大木に巻き込まれ、あと少し遅れていたらシンジもろとも巻き込まれていただろう。
川の濁流に投げ飛ばされる中、レイの脳裏に今までの想い出が走馬灯のように流れる。










「そんな悲しいこというなよ...」










     「ああ、絶対に優勝してみせるよ。」










          「水晶には 『幸せに恵まれますように』 って願いがこめられているんだ。」










               「よ、よろしく、レイちゃん...」
















楽しかったことや哀しかったこと、数々の出逢いと別れ、恋をして敗れ去ったこと、想い出が止めど無く流れる。
最後にシンジに恋をした想い出が流れ、人並みに恋ができたことを嬉しく思った。

(さよなら、兄さん...)

想い出は一瞬にして流れ去り、やがて遠ざかるシンジの哀しむ姿が見えた。
それでもレイは良かったと思えた。
最期の最期でシンジの役に立ち、文字通り死ぬほどシンジを想っていたのだから...




















(大好きだよ、兄さん...)




















冷たく暗い部屋にシンジはいた。
霊安室では家族である人、ユミとレイが静かに眠る。
かつて家族だった人を見下ろすシンジの顔には表情というモノはなかった。

「レイ...」

そっと手を伸ばして、柔らかかった頬に触れてみる。
肌はすでに冷たく、白さを通り越して灰色へと変色する部分もあった。

「辛かったろう...レイ。
 でも、もう苦しまなくてもいいんだよ...」

添えた手をそっと頬からアゴのラインに沿わせ、最後に唇に触れる。
温かい色をしていた唇も、今は冷たい紫色となった。
表情豊かだった愛らしい顔には二度と戻らない。

「ごめんね...護ってみせると約束したのに...」

冷めきった顔で妹を見つめる瞳には、かつての輝きはない。
どれだけ自分のことを愛してくれていたかが、失った今になって、ようやく判る。
だが死んでしまった家族を目の前にしても、涙は流れなかった。

「流す涙もないなんて...」

凍りついた表情と共に、心も凍りついてしまったのかもしれない。
だが目を閉じればレイとの思い出が駆け巡り、思い出の中のレイはいつも微笑んでいた。










「おやすみ、レイ...」

冷たくなった唇にそっと触れた...










大切な人への想い

第七拾参話 過ぎ去った夏(其ノ拾六)











キキィ...ガチャ

タクシーが一台、病院に着いた。
そこから降りてきた3人の大人たちの表情は優れない。

「キョウコ!」

迎えにきたアベルが叫んだ。

「お待ちしておりました、碇さん。」

アベルはまず、碇ゲンドウとユイに挨拶をした。
だが挨拶もそこそこに本題に入る。

「申し訳ありません、私がついていながらユミさんが...」
「いえ、それよりも...会えますか...?」

ユイは神妙な顔つきで尋ねる。
変わり果てた妹に会うのが怖かったが、会わなければならない。

「ハイ...それからシンジ君も目を覚ましました。
 一緒にいるはずですから、元気付けてあげてください...」
「無事なんですね!
 ...よかった...」

ユイの顔が綻んだ。
六分儀家を襲った事故の中で、それだけが唯一の救いだった。

「では、行きましょうか。」

アベルが先頭に立って霊安室へと向かった。
その間、誰も一言も発せず、空気が重く感じられる。
冷たく足音が反響する地下の廊下を歩き、ドアの前で佇むヒデユキとサエコが見つけた。
そのとき、僅かだがユイの顔が曇った。

「この部屋です。」

アベルがあまり使われていない部屋の前に立つ。
部屋の名前が示す通りの部屋であり、やけに静かだった。
それがドアを開けるのを躊躇わせる。

「...ユイ...」

短く励ますゲンドウ。

「判っています。」

深く息を吸い込み、意を決してドアを開けた。
部屋の中心に置かれた2つのベッド、それに寄り添うようにシンジは近くにいた。

「ユミ...」

妹の名前を呼んだ。
だが返事は返ってこない。
震える手で冷たく変わってしまった妹に触れる。

「...母さん、キレイですよね...」

ユイが入ってきたとき、口を開かなかったシンジが初めてしゃべった。

「人形みたいでしょう...」

淡々と話すシンジが怖いと感じた。
だがそれ以上に死という事実が怖かった。
心構えはしていたものの、いざ目の前にしてみると涙が止まらない。

「死んでるんです...」

その言葉を合図に、ユイはその場に泣き崩れる。
ゲンドウはユイに寄り添い、支える。
そしてシンジはそんな2人に興味を示さず、物言わぬ母親と妹を眺めていた...










☆★☆★☆










あれから数日が過ぎ、六分儀ユミとレイの葬儀が始まった。
喪主となったのはシンジだったが、葬儀のほとんどはゲンドウとユイの手によって行われた。
ユミの学生時代の友人、仕事仲間、レイやシンジのクラスメイト、学校の関係者もきていた。

「本日は...葬儀に...」

その全ての人に挨拶をするシンジの姿は、どことなく事務的なように見え、冷たい印象が感じられた。
近づきがたい空気を漂わせ、慰めの言葉をかけられても、何も感じられない。

「シンジ...これからどうする気なんだろうな...」

ケンスケが遠くに見える親友の姿を見て、誰にでもなく呟いた。

「特待生テスト、新学期早々やったな...」
「今のシンジじゃ、無理な話だぜ。
 それどころかアイツ、野球辞めるかもしれないな...」

トウジとケンスケは、シンジが野球をやる意味を知っている。
その昔シンジは妹を護れるくらい強くなるために野球を始めた。
総てはレイのため−−−
レイが死んだ今となっては、シンジにとって野球がどれほどの意味を成すのが判らない。
それでも苦楽を共にしてきた仲間としては信じたかった。

「アホなこと言うな、このまま終わるはずないやろ!」
「そうだよな...今は無理かも知れないけど、いつか必ず...」

それでも遠くに見えるシンジを見ると、その気持ちはぐらつく。
周りを見れば亡くなった人のために涙を流す人がたくさんいた。
トウジの妹であるミユキも、親友であったレイのために涙を流す。
レイのクラスメイトもそうであり、他人のために泣いている者がほとんどだった。
だが肉親であるシンジは泣いてはいない。
それがトウジとケンスケの不安をかき立てていた。

「ねえ鈴原...」

近くにいたヒカリが涙声で聞いてくる。

「アスカ、知らない?」

シンジの一番近くにいるはずのアスカの姿がどこにも見えなかった。










「槙村はん!」

トウジたちは事情を全て知る槙村に聞くことにした。

「キミたちか...どうしたんだ?」
「シンジたちに何があったんか、全て知っておきたいんです。」

予想していた言葉が飛んできた。
見ればトウジもケンスケも、ヒカリでさえ真剣な顔をしている。
親友であるからこそ、知る権利はあった。

「そうだな、キミたちには話しておこう...」

あのとき何があったのか、槙村は事故の全貌をトウジたちに伝えた。
話し終わる頃には3人とも顔色が悪くなり、ヒカリに至っては倒れそうになるくらいであった。

「シンジはこれからどうなるんですか...?」

誰もが気になっていたことだった。

「さあね...こればっかりは判らないよ。
 親戚に当たる人はもちろんいるんだけど、引き取られるとなると...」
「じゃ、じゃあ特待生の話は...」
「それどころかここを離れなければならない。」
「ウソやろ...」

葬儀など一切が終われば最後にシンジの問題が上がってくることは判っていた。
順当にいくのならば親類である碇家に引き取られるのは目に見えている。
その場合、捨てなければならないものが多すぎた。
親友たちと別れ、生まれ故郷を離れ、最悪の場合は野球そのものも棄てるのではとヒデユキは密かに思っていた。
となると3人で甲子園へ行くという夢が消えてしまう。
トウジは愕然とする他はなかった。

「あきらめるにはまだ早いだろ、大事なのはシンジの気持ちなんだから!」
「そうか、シンジもケンスケみたいに...」
「ど、どうしたんだい?」
「オレの親父が四国の方に転勤になるんですよ。
 でも東雲高校には学生寮があるんで、オレはそこに入ろうかと思ってたんです。」
「なるほど、そうすれば離れ離れにならないな。」

トウジとケンスケは消えかかった夢が燃え上がるのを感じ、そしてヒデユキはそこにシンジが立ち直るきっかけが見えた。

「いい話を聞かせてもらったよ。
 これならシンジ君を...」

久しぶりに笑顔が戻った。
だがそれもすぐにヒカリの一言で消えてしまう...

「あの...アスカはどうしたんですか?」










☆★☆★☆










葬儀も滞りなく行われ、やがてシンジが小さな白い箱を持って墓地にやってきた。
そこで変わり果てた家族を安らかな眠りにつかせるためである。
六分儀と彫られた墓石に2人が入れられ、花を添え、線香を灯し、手を合わせる。
何も語りかけてはくれない墓石がやけに冷たく感じられた。
だがシンジには何も感じられない。
シンジの顔から一切の表情は消えていた。
事務的に言われるままに全てをこなし、納骨式も終わりを告げる。
そして...










キョウコは自分の耳を疑った。

「今、なんて言ったの...ユイ?」

とある一室には大人たちが集まり、最後の問題であるシンジの養育権が話し合われていた。
親類である碇ゲンドウとユイは、甥であるシンジを引き取ることを望んだ。

「私たちがシンジ君を引き取ります。」

他に親族はおらず、自分の妹が残した忘れ形見であるシンジを引き取るのは至極当然である。
そのため話自体はなんの問題もなく進むと思っていた。
だが予想もしなかった親友であるキョウコの反対があった。

「それは賛成できないわ。
 ここにはシンジ君の全てがあるのよ、それを棄てろと言うの?」

だがそれは建前で、本当の理由は愛娘であるアスカにある。
レイとユミの死というショックから、親でさえ心を開かなくなった。
だが想い人ならば救ってくれると信じ、アスカから離れてしまうのは賛成できない。

「その考えには私も賛成です。」

ヒデユキはキョウコの考えを後押しする形となった。

「シンジ君には小さい頃から育ててきた夢があります。
 その夢はあと少しで叶えられるんです。」

だがヒデユキとキョウコには違いがあり、ヒデユキは純粋にシンジのことを想っていた。
家族を失ってしまったシンジにとって、夢まで棄てることは生きる意味すら棄てることに等しい。

「シンジ君には東雲高校から特待生の話まで出てるんです。
 そこに入学して甲子園さえ目指してもらえれば、必ず立ち直れます!」

ヒデユキにとってシンジは弟であり、父親であるソウの死を乗り越え、今のシンジとなるきっかけとなった夢を叶えて欲しかった。

「ではシンジ君をどうしろというんですか貴方は!」
「私が引き取ります。」
「なっ?」

ユイの顔が凍りついた。










☆★☆★☆










アスカは部屋に閉じこもり、人と会うことを拒んでいた。
食事も取らず、眠ることも忘れ、ただひたすら現実から逃げようとしていた。

「アスカ...いるんでしょう...?」

優しい声がした。
誰だかはすぐに判った。

「...ヒカリ?」
「うん、私だよ。
 ...入っていいかな?」
「ダメっ、こないで!!」

親友でさえ拒絶する。
だが大体のことを聞いていたお陰で、さして驚きはしなかった。

「...アスカのせいじゃないよ...」

できるだけ優しく話しかけた。

「...知ってるの?」
「うん、槙村さんから聞いた...」
「そ、そうなの...」

ドア一枚隔ててもアスカが怯え始めたのが判った。

「仕方がなかったのよ、あれは...」
「違うっ、アタシが悪いのよ!
 あのときレイを誘ったりしなければ...1人にしなければ...」
「アスカっ!」

ヒカリの厳しい声が響いた。

「今一番辛いのが誰だか判ってるんでしょう!
 どうしてこんなところにいるの、なんで六分儀君のそばにいてあげないのよ!」

アスカも苦しんでいることは知っていた。
だがシンジと一緒なら2人で支え合ってくれると思った。
それが今、思いつく最良の方法だと確信していた。

「...何も判ってないのね、ヒカリ。
 アタシ、シンジに嫌われたんだ...」
「...ウソ?」
「嫌われたアタシにシンジのそばにいる資格なんてない。
 シンジが本当に必要だったのはレイなのよ...」

アスカの脳裏にはシンジとレイが最期に抱き合い、お互いの無事を喜んでいる姿が映し出された。
シンジとレイの間にだけある絆が見えた。
そこには入り込む隙間はない。
2人は本当に必要とし合っていた。

「でもレイはもういない、死んだのよ...アタシが殺したようなもの...」
「違うわ、あれは事故だったのよ、誰のせいでもないのよ!
 それに六分儀君がアスカを嫌うなんて、そんなのウソよ!!」

ヒカリは知らないことを聞かされ、混乱する。
自分の知るシンジがアスカを嫌うはずがないと信じていた。
だが次の言葉によって、全てが判らなくなってしまう...

「だってシンジ、アタシのことを抱いてくれなかったんだ...」

今になってレイの気持ちが判った。
抱いてくれず、拒絶され、今までの関係すら崩れてしまった。

「もうシンジに何もしてあげられないのよ...
 必要とされないの、なんの価値も無いのよアタシは...」
「そんな...」

信じていたもの総てが崩れ去り、アスカにかけてあげらる慰めの言葉が見つからなかった。










☆★☆★☆










シンジは1人で部屋にいた。
何も考えず、天井を見つめる。
失った物があまりにも大きかったために、心まで空っぽになってしまった。

「ねえ、シンジ...アタシを抱いて...」

あのときのアスカのセリフが耳に残る。
レイと同じ言葉だった。
2人とも自分を求めてきた。

「抱けるはずないよ...」

だが2人の願いは拒絶した。
レイのときはアスカがいたから、アスカのときはレイがいたから。
シンジの心には2人の少女が住んでいた。
2人とも好きだった。
だから中途半端な気持ちでは少女たちの想いには応えられないと思っていた。
だが、応えられる機会はすでにない。

「あんなことがあったんだ、もう応えられない。
 ...全部終わったな...」










コンコン

「入るぞ、シンジ。」

ゲンドウが入ってきた。
見る者には冷たい印象や威圧感を与える以外何もない。
だが心を閉ざしたシンジにとってはそれすらも感じない。

「どうしたんですか伯父さん...」

力無く話す。

「これからどうする気だ?」

ソウ、ユミ、レイと家族を全員亡くしてしまったが、自分はまだ生きている。
だがシンジにとってはどうでもいいように思えた。
自分が闘う理由がすでにない以上、生きていてもしょうがないとさえ思う。
いっそ死んだ方が楽になるのではとも考えた。

「さあ、判りません...」

素っ気無く答えた。
だが心残りが僅かにだが、確かにあった。
親友であるトウジやケンスケやヒカリ、そしてアスカであった。
一体みんなはどうなるのか−−−
だがそれも一瞬のことであり、考えるのが億劫になって止めてしまう。

「どうでもいいですよ、もう...」

全てをあきらめ、投げ捨てる。
親友も夢も、全てに対して意味を持たなくなってしまった。
だがそんなシンジの心に、ゲンドウの言葉が響いた。

「ならば今日からオマエは 『碇』 と名乗れ。」

言葉は少なかったが、感じるものがあった。

「なぜです...」
「全てを棄てる覚悟があるのだろう?
 ならば私たちのところに来い。」

サングラスに隠された目の奥に強さがあった。

「オマエはどうでもいいと言ったが、六分儀の名を棄てる気はあるのか?」
「六分儀の名を棄てる...」
「そうだ、総てを棄て、碇シンジになれ。」










☆★☆★☆










「シンジ君は私たちが引き取ります!」
「お気持ちは判ります!
 ですが本当にそれがシンジ君にとって最善だと思っているのですか?」

ユイとヒデユキの激論が交わされる。

「私はあの子の伯母にあたります!
 私たちが引き取るのが筋と言うものでしょう!」
「血筋が問題ではありません!
 ここには彼の全てがあるんですよ!
 それを棄てろと言うんですかアナタは!!」

双方ともに一歩も引かず、2人の想いは平行線を辿る。
2人の想いが同じだけに話し合いは熱を帯び、数時間にも及んでいた。
だが時間はやがて冷静さを失わせ、議論を泥沼に誘う。

「...シンジ君のためだと言っても、実はご自分自身のためじゃないんですか?」
「どういう意味ですかそれは?」
「アナタたち夫婦には、お子さんができなかったそうじゃないですか。」
「!」

普段だったら絶対に口にしないことを言ってしまった。

「ちょっと槙村、アナタ何言ってるのよ!」
「野上さんは黙ってて下さい!」

それを聞いたユイもまた普段からは考えられないほど逆上する。

「それを言ったらアナタたちもそうじゃないですか!
 シンジ君のお父様のソウさんが亡くなったのだってアナタたちが!!」
「何故ここで先輩の名前を出す!
 今は先輩は関係無い!」
「関係無いはずはありません!
 ソウさんが健在ならこんなことにはならなかった!
 ...野上さんでしたね、確か...
 アナタが来なければソウさんは死なずに済んだ、違いますか!」

イヤな過去を思い出させられ、愛する人を侮辱され、怒りが込みあがる。

「な...サエコは関係無い!
 アナタは自分が何を言っているのか判っているのか!!」
「...いいのよヒデユキ...その通りだから。」
「あら、名前で呼び合えるなんて仲がよろしいこと。
 アナタは憎くは無いんですか?
 ご自分の面倒を見てくれた恩人を、間接的にとはいえ殺した人なんですよ。
 それとも忘れてしまったのですかアナタは?
 ...そんな人にシンジ君を任せられるモノですか!!」










パーン!










今までの激論がウソのように静まり、叩いた音だけが響いた。

「いい加減にしろ、ユイ。」

ユイの頬を叩き、2人を止めたのはゲンドウだった。

「あ...ごめんなさい...」

我に返り、自分の奥深くにある醜さに驚愕する。

「妻の非礼は私が謝ろう。
 済まない...」
「いえ、私の方こそカッとなってつい...
 申し訳ありませんでした。」

その場を支配していた険悪さは消え、2人に冷静さが戻った。
そしてゲンドウが議論を続ける。

「キミがシンジを想っているように、私たちもシンジを想っている。
 それだけは理解してもらいたい。
 だがキミは本当にシンジを支えて行けるのか?」
「あ、当たり前です!
 私はシンジ君が小さい頃から見てきた。
 アナタ方より近くに居たのです!」

ソウの死以来、ヒデユキはシンジたちの良き相談相手として接してきた。
そしてこれからも支えて行けるという自信も持っていた。

「それは私たちも重々承知している。
 だがキミはシンジの傍に着いていてやれるのか?」

だがそれをゲンドウは否定する。

「できないだろう。
 ソウですら傍に居られたことは少なかったはず。」
「た、確かにそうですが...」
「だが私たちならば傍に居られる。
 今のシンジに必要なモノは、傍で支えてくれる人間だ。」

徐々に押され、ヒデユキに余裕がなくなってくる。
だが引くわけにはいかなかった。
シンジが今まで育ててきた夢を実現して欲しいと願う。
それは死んでしまったレイもユミも願っていた。
そしてそれをきっかけにして立ち直って欲しいとも願う。
総てがここにある以上、それらを繋ぐために自分があきらめることは許せなかった。
だがゲンドウは冷たく突き放す。

「シンジも私たちと来ると言った。」
「な?」

ヒデユキの顔が凍り付いた。

「これでこの話は終わりだ。
 シンジは私たちが引き取る。」
「...き、汚いぞ!
 勝手に話を進めるなんて!!」

一方的な展開に逆上し、ゲンドウに掴み掛かる。

「落ち着きたまえ槙村君。
 これは本人の希望でもあるのだ。
 それを止めることは誰にもできない、そうだろう。」
「くっ...」










☆★☆★☆










「シンジ君!」

ヒデユキがシンジの部屋に入ってきた。

「聞いたぞ、碇さんについていくんだってな...なぜだ!」
「なぜって...僕は未成年だから親戚に引き取られるんですよ。
 そんなの当たり前じゃないですか。」
「そんなことを聞いてるんじゃない、野球はどうする気だ!」

凄い剣幕で詰め寄るが、シンジは何事も無いように冷めた感じでヒデユキを見ていた。

「もういいんです、そんなの...」
「もういいって...じゃあ今までのやってきたことはどうなるんだ!
 それだけじゃない、キミには一緒に頑張ってきた仲間がいるんだ、彼らをどうする気だ!」

シンジの頭にトウジとケンスケが映し出された。
苦楽を共にし、夢を共有する仲間、かけがえのない親友である。

「鈴原君と相田君だ。
 彼らはキミのことを待っているんだぞ、また一緒に野球をやれることを信じてるんだぞ!」

そして彼らなら立ち直らせてくれると信じていた。
だがシンジには仲間と聞いても何も感じられなかった。

「仲間といっても所詮、他人じゃないですか...
 他人にとやかく言われる筋合いはありません。」
「なっ!?」

ヒデユキは絶句してしまった。
優しかったシンジが親友に対して他人などと言うとは思ってもいなかった。

「僕が投げる理由...闘う理由を知ってますか?
 全部レイのためだったんですよ。」

光の宿らない目を向けられるとゾッとする。

「レイを護れるくらい強くなりたい、そう願ったんです。
 そのために野球を選んだんです、別に野球じゃなくても良かったんですよ。
 ...でも、レイがいないんじゃ...強くなる理由がない...」
「じゃあアスカはどうするんだ!」

ヒデユキが発した名前に僅かだがシンジが反応する。
しかも今までにない反応の仕方だった。

「...まさか彼女も他人なんて言うのか...」

ただならぬシンジの雰囲気を感じたのか、悪い予感が走った。
だが返ってきた言葉は予想を遥かに越えていた。

「アスカなんて知るもんか!
 あんなヤツ...どうなろうと関係無い!」
「ホ、本気で言ってるのかシンジ?
 だとしたら見損なったぞ!」

肩を力任せに掴む。
あれだけ仲の良かった2人の関係が壊れたのがウソだと思いたかった。
だが現実は簡単にはいかない。

「槙村さんに僕の気持ちなんて判りませんよ!
 家族全員亡くしたんですよ...僕のことはほっといてください!!」

そこで終わりだった。
結局シンジの気持ちはシンジにしか判らない、シンジとヒデユキとでは立場が違うのだ。
肉親と親しい人では天と地との差があった。

「...疲れたんですよ...僕は...」

そう言ったシンジを見たとき、昂ぶった気持ちが急激に冷やされ、なんの言葉もかけてあげられなかった。










☆★☆★☆










「ユイ...本当に連れていくの?」

とある一室でユイとキョウコが話していた。

「ええ...私の甥だもの、当然よ。」
「でも、ここには全てが残っているのよ?」

半ばあきらめていたが、自分の娘であるアスカを見る度に思い直される。
今のアスカにはシンジが必要だった。
それはユイにも判っていた。
しかし子供に恵まれなかった自分の願いを叶えたかった。

「キョウコ、こうは考えられない?
 残されたモノがシンジ君を追い詰める...」
「追い詰めるって、一体どうして?
 お友達だっているのよ、みんなで支えあっていけば...」
「甲子園に行けるっていうの、もし行けなかったらどうするの?
 いえ...むしろ行けたあとね。
 そのあとどうなるか判らないわ...」

残された夢がシンジを狩り立て、それが全てになってしまう。
その全てが否定されてしまったとしたら、もう二度と立ち直れなくなってしまう。
逆に夢が叶えられたとき、そこで全てが終わってしまうかもしれない。

「だから一度みんな棄てさせるの。
 そこからまた始めていけば、新しい生き方を見つけられる。
 そのときこそ、シンジ君は笑ってくれるわ...」

アスカのこともあるが、全てをシンジに押しつけるわけにはいかない。
自分も母親である以上、子供たちにばかり辛い思いをさせることはできなかった。

「判ったわ、ユイ...
 あなたの言葉、信じるわ。」










☆★☆★☆









「では、お世話になりました...」

シンジが担任に深々と挨拶をする。
養育権を巡るユイとヒデユキの争いから数日が経ち、全ての手続きを終え、転校するために最後の挨拶にきていた。
その挨拶を終えたとき、親友であるトウジとケンスケに呼び止められ、思い出の詰まったグラウンドに向かう。

「なあ...本当に辞めちまうのか?」

ケンスケが尋ねる。
だがシンジは俯いたままであった。

「どうしてだよ。
 オレたち3人は高校に入ったら甲子園に行くって約束したじゃないか。」
「.........」
「なあ、そろそろワシたちと...もっぺん野球、はじめんか?」

トウジが聞いてもシンジは答えない。
それだけシンジのショックは激しかった。

「...あないなことがあったんや、無理はない。
 けどオマエに元気になってほしいんや。」
「.........」
「ワシかてあないなことがあったら落ち込むかも知れん。
 だがいつまでも落ち込んでたらアカン!
 好きな野球でもやって、気ぃ紛らわしたほーがええで。」
「そうだよシンジ、忘れろとは言わない。
 けどあまり考えない方がいいぜ。
 どんどん悪い方へ考えが行っちまうよ。」

元気づけようとして、思いつく限りの言葉をかけていく。
それでもシンジの心には届かない。

「「...はあ...」」

二人は肩を落としてため息をつく。
今はまだそっとしておいた方がいいのかもしれなかった。








「.........んだ。」

初めて言葉を発した。
それを聞いて二人はハッとして顔を上げる。

「...もう、いいんだ。
 僕は、野球を...辞める...」

うつむいたまましゃべった。

「な、なんでや?
 なんで野球を辞めなあかんのや...んな理由ないやろ。」
「そうだよ、辞める理由なんか無い。
 ...それとも野球が嫌になったのか?
 そうじゃないだろ。」

その言葉を予期していたが引き止めないわけにはいかなかった。
やがて雨がぱらつき、少年たちを濡らす。

「...2人とも知ってるんだろ、僕が野球をする理由...
 ...けど...その理由は...もう...いないんだ...
 僕には野球をする理由が...もう...無いんだ...」

うつむいたままの姿勢で振り絞るように言う。

「もっぺん言ってみい!
 いつからオマエはそんなに情けのうなったんや!!
 理由なんかは 『野球が好きだから』、それだけでええやろ!」

胸倉を掴んで怒鳴る。
大切な親友が総てに対しあきらめているのに、なんの力にもなれないことに怒りを感じていた。

「...離して...くれないか。」
「ちゃんとワイの目ぇ見て話さんかい!」

自分から目をそむける親友に怒鳴る。

「もういい...なにもやる気が起きないんだ...
 ...僕のことは...僕がいたこと...忘れてくれ...」
「!」

その言葉を聞いた途端、トウジの目の前が真っ白になった。
そして気がつけばシンジを殴っていた。
最も尊敬する親友を...









......ザーーーーーーーーーーーーッ

雨が降ってきた。
しかし3人には何も感じない。










「...なんやてぇ...
 勘違えするのもええかげんにせえや!!」

殴られたところを押さえ、うずくまるシンジに向かって叫ぶ。

「自分だけが苦しんどるんとちゃうで!
 ...惣流だって苦しんどるんや、オマエは少しは考えたことあるんか?」

トウジは自分の不甲斐無さに泣いていた。
だが殴られたことが引き金になったのか、シンジは一気に感情を爆発させる。

「知るもんかっ!
 アスカさえいなければあんなことは起こらなかったんだ!」

黒い瞳に憎しみの炎が灯る。

「本気で言っとるんか、いつもの優しいオマエはどこ行った!!」
「アスカさえいなければレイも母さんも死なずに済んだんだ!
 みんなアスカのせいなんだよ!
 あのときアスカが...僕は許さない...絶対に許すもんか!」
「なんでもかんでも惣流のせいにするんかオマエは...
 それでも男か!」
「オイ、よせって...
 今はなに言ってもムダだ。」

見るに見かね、ケンスケが割って入った。

「は、放さんか!
 ワイはコイツを殴らなあかん!
 シンジ、オマエは心配しとる人間に対してよー言えるな!」
「もういい、もういいって! 
 オマエも少し頭を冷やせっ...て...」

なんとかトウジを押さえ、シンジを見たとき、2人は気づいてしまった。
いや、わざと気付かないようにしていたのかもしれない。
シンジは泣いていた...涙を流さずに。
ぎゅっと閉じられた目からは何も流れない。
涙はとうに枯れ果てていたのである。










トウジの怒りは急速に萎えていった。
自分には結局、親友を救えないことが判った。
ケンスケが落ち着いた口調で話し始める。

「今はもうなにも言わない。
 だけどオレたちは待ってるぜ、いつまでも。」

シンジをまっすぐに見て話した。

「...僕は戻らないよ...」
「いや、オマエは戻ってくる、絶対にな。
 オレたちが信じているからな、オマエのことを。」

そう言って2人は後ろを向き離れていった。

「...待っとるからな...グラウンドで。」

後ろを振り返らず、トウジは去っていった。
シンジは雨に打たれたまま動かない。










「...全部、棄てるんだ...」

そして1人の少年がグラウンドから去った...










☆★☆★☆










8月もそろそろ終わりを告げようとする頃−−−
六分儀と名が彫られた墓の前にシンジと1組の夫婦、碇ゲンドウとユイがいた。
シンジは墓標の正面に、ゲンドウとユイは後ろに立つ。
3人が此処に来てから、大分時が経っているのだが動きは全く無い。

ヒュウ...

吹き抜けて行く風が、シンジの癖の無い髪を撫でる。
しかし墓標を見詰めたまま微動だにしない。
まるで彫像のように、その場に立ち尽くしたままであった。
気配はまるで感じられず、現実にそこにいるのかと疑問に思う程、その存在は稀薄であった。
表情は無く、目の焦点はどこにも合っていない。
輝きを失った黒い瞳には何も写っていなかった。










「時間だ、行くぞ。」

ゲンドウが話す。
そしてそのまま他の2人に構わず、自分だけこの場を去って行く。
ユイはシンジのことが心配だったが、最後だけは1人にしてあげようと思い、その場を立ち去る。
そして墓標の前にはシンジ1人となった。
何を想っているのか、目の前の墓標に何を感じるのか、その表情からは何も伺えない。

ビュウゥーーー...

不意に突風が吹き抜ける。
それでも何事も無かったかのように佇む。
だが首飾りがその突風によりなびいた。
シンジはそれを手で優しく受け止める。
その手の中ある水晶の原石、石であるはずなのになぜか温かく想えた。
その石に懸けられた願い、それがそう感じさせているのだろう。
シンジはその石を見詰め、心をこめて握る。
そして目を閉じて石に心で語り掛けた。
自分の今までの想いを石に伝える、そして石に願いを懸けてくれた人を想う。

(僕は大丈夫だよ...多分)

涙は出ない、流れなかった。
だがレイへの想いは泣く、もはや届くことのないその想い。
護らねばならなかった人、今はすでに目の前で静かに眠っている。










シンジは顔を上げた。
そして目の前の墓標に別れを告げる。

「じゃあ...行くね...」

そのとき風が吹いた。
まるで哀しみが消えるように柔らかく包み込む。
そしてシンジは墓標に背を向け歩き出す。

「...さよなら...父さん...母さん...レイ...」

最後にぎゅっと首飾りを握る。
振り返らず、真っ直ぐ前を向いていた。
少年は総てを失った。
愛する人、愛してくれた人、そしてその夢さえも...





見上げれば突き抜けるような蒼い空と照りつける太陽の光、辺りには響き渡るセミの声。
シンジは未だ終わらぬ夏の中を歩いて行く。
過去と別れ、まだ見ぬ未来へと...










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陽炎が立ち昇るグラウンド。
そこに2人の球児が練習をしていた。
汗を流し、ドロまみれになり、踏み止まることなくボールを追い続ける。
全ては想い描いた自分たちの夢のため−−−

「...トウジ、もう行っちまったかな?」
「そういや今日やったな。」
「また、逢えるよな...」
「当たり前や、シンジは必ず帰ってくる!
 だからワシたちは甲子園で待たなあかん。」

真っ直ぐな想いは少年たちを突き動かす。
再会を信じて...










――― 今からたった二年前の話 ―――










六分儀と名のつく人間が眠る場所−−−
そこには3人の少女が集まっていた。

「もう行っちゃったんだね六分儀さん...」
「私、まだ信じられないよ。」

ミユキとノゾミは親友であるレイの墓前にいた。

「お姉ちゃん...
 六分儀さんがアスカさんを恨んでるって本当なの?」

仲が良かった2人が別れてしまったことを信じたくなかった。

「そんなはずないでしょう!
 色んなことがありすぎたんだからしょうがないのよ...」

そうは言うものの、自分の言葉が信じられなかった。
人の心は揺れ動く。
例え愛し合っていた恋人でさえ、別れのときがやってくるときもある。
それでも信じたかった。

「いつか必ず戻ってくるわよ...」










――― 総ての始まりの話 ―――










「これからどうする、ヒデユキ?」

助手席で疲れた顔をしたサエコが尋ねる。
信号待ちでイラついているのか、ヒデユキは掴んだハンドルを持て余している。
メガネ越しに見える景色を凝視しながらヒデユキはこれからのことを、時の流れを感じぬままに考える。

「ヒデユキ、信号変わったわよ!」

だが突然現実に引き戻される。
後ろの車からはクラクションが鳴っていた。
しょうがなくクラッチをゆっくりと繋ぎ、ヒデユキは車を動かした。

「ヒデユキ...」

心配そうに声をかける。
サエコが見ているヒデユキの顔は笑ってはおらず、仕事の顔になっていた。

「...このままじゃ終わらせないさ...」
「え?」
「必ず、連れ戻して見せる...」










――― 過ぎ去った夏の話 ―――










アスカは六分儀家にきていた。
だがそこに人はおらず、荷物などは一切無かった。

「もう行ってしまったわよ...」

アスカの後ろには、いつの間にかキョウコがいた。
壁には家具の跡が残り、まだ生活の匂いも微かに残っている。
ついこの間まで騒がしかった家がヤケに冷たく感じる。
体中の力が抜け落ち、アスカはペタリと座り込む。

「もう忘れなさい、アスカ。」

呆然とした自分の娘に優しく諭す。

「イヤよ...」

だがアスカはすでに心の一部となっている六分儀という名の人たちを忘れられなかった。
ソウ、ユミ、レイ、そしてシンジがここにいたことを忘れたくなかった。

「忘れないよ...アタシは...」

床に着いた手をギュっと握り締める。
その握った手に光の粒が落ちて弾けた。

「アスカ?」
「なんで忘れないといけないのよ!
 シンジが好きなのよ、アタシは!!」

想いの限り泣き叫ぶ。
主のいない家にアスカの声だけが哀しく染み渡る。










――― 少年たちと少女たちの物語 ―――










車窓から見える景色が次々と流れていく。
シンジは暇つぶしに眺めるだけだった。

「第3新東京市か...」

第2の故郷となる地であり、初めての地。

「碇シンジか...」

新たなる自分であり、もう六分儀には戻れない。
親友も、夢も、故郷も、名前も、幼馴染みも、持っていたモノ総てを棄てたのだから。

「見つけられるかな、新しい自分...」

不安だけが募る。

「忘れられるかな...全部...」

シンジを乗せた新幹線は、第3新東京市を目指す。




















そして物語は現在へと戻る





















第七拾参話  完

つづく




落書き

ヘイっ、ようやくシンジ君の過去の話が終わりました。
今回はどっかから持ってきた場面が結構ありましたね。
それにしても9月から始めて終わったのが年越してる...ギリギリ年内終了予定だったのが(笑)
相変わらず謎が残ってますけど無事に(?)終わって良かったです。

さて、次回からやっと話が戻ります。
もうほとんど忘れてるっス。
実際書いてて戸惑うところがたくさんあって困ってます。
というワケで最新話は2月くらいになると思います。
スイマセン、話がまだ出来てないんです。

そうそう、予定では綾波レイ中心に話が進んでいきます。




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