「...離しなさい」

少女の声なのに冷たく重みを感じさせる迫力があった。
離れたところにいたヨシカズにさえもそれは伝わっていた。
間近でそれを聞いた2人組は、さすがに戸惑った。

「そんなこと言わないでさぁ」

しかしスゴスゴと引き下がってはプライドが傷つくのか食い下がるのか、下卑た顔を近づけ、いやらしそうな視線を身体に向けた。
少女の顔に僅かだが嫌悪感が現れる。
さらに2人組と少女の距離は縮まる。

(マズイな、早く行かないと...)

2人組の態度にヨシカズも焦りが見え、急いで走った。
だがヨシカズも2人組の男たちも気づかなかったが、少女の足がすり足で肩幅ぐらいに開いた。
同時に自由になる手で相手の手首をガシっと掴む。

「おっ」

それは一瞬の出来事だった。

「オマエたち...!」

ヨシカズが叫ぶと同時に哀れなナンパ野郎が宙に舞った。
時間が緩やかに流れているような錯覚と無重力の感覚。
宙を舞う体はキレイな放物線を描いた。
そしてそのまま背中から地面に叩きつけられる。

ドサっ...

しばらく時間が止まったように誰も動けない。
当然ナンパ野郎は何が起こったか理解不能、ヨシカズは開いた口がふさがらない。
少女は何事もなかったかのように、すました顔で乱れた髪をサっと整える。
その仕草と容姿にヨシカズは目を奪われた。

「...?」

少女はヨシカズのボーっとした顔に気づいた。
目が合ったヨシカズは自分が見られているのに気づくとさすがに慌てた。

「アンタもコイツらの仲間なの...?」
「あ、いや、オレは...」

静かだが迫力のある声がまた聞こえた。
真夏なのに背筋に冷たいモノが走る。

「マズイ...」

本能がそう叫んだような気がした。
ヨシカズはジリジリと後退さる。
しかし面と面が向かい合うと、どこかで見た覚えがある気がした。

「キミは...!」

まるでその言葉が合図だったように、少女の体が素早く動いた。
気づいた頃にはもう手遅れ。
一瞬で間合いが縮まり、気づいた時には完全に腕を極められ、身動きがまったく取れない状態になっていた。

「ちょっ、ちがーう!
 オレはただ...」

ヨシカズの泣きそうな声がセミの鳴き声に混ざって消えた。











大切な人への想い

第九拾参話 誰がために闘う











「...それならそうと早く言いなさいよ」
「言おうとしたんだけどね」

ようやく誤解も極められた腕も解け、ヨシカズは苦笑しながら腕をさする。
大事な商売道具であり、しかも明日が試合なのだから折られでもしたらシャレではすまされない。
しかも勘違いだったなんて日には目も当てられない...
慎重に腕をマッサージする中、アスカはヨシカズの手を見て気づいた。

「...アンタも野球やってるんだ」
「ああ、これでも一応エースなんだ...!」

アスカから出た何気ない言葉。
普通ならば聞き逃してしまうだろう。
しかしそこでヨシカズは気づいた。

「やっぱり惣流...アスカ、さん...だよね」

確証はなかったが、いつか見た記事に載っていた写真とそっくりだった。
しかし名前を出したことで空気がガラリと変わった。

「...なぜアタシの名前を?」

アスカの声が先ほどまでより低くなる。
完全に敵対心を剥き出しにしていた。
普通の男だったら尻込みするくらいの迫力があったが、それでもヨシカズは平然と答える。

「さっき 『も』 っていったね。
 そこでピンときたわけだ。
 碇シンジの幼なじみのキミにね」

腕をさすりながら笑顔で答えた。
しかしアスカから警戒心が取れることはなく、逆効果だった。

「シンジを知ってるの?」
「そりゃそうさ。
 次の対戦相手だから」

そこでアスカは目の前の相手が誰だかわかった。
ヒカリから聞いた名前、そしてもう1つのシンジの可能性。
知らず知らずの内にアスカの目が険しくなってくる。

「じゃあアンタが広島商業高校のエース...」
「そっ、青木ヨシカズ。
 明日の試合ではキミの幼なじみの碇シンジ君と闘うことになってるんだ。
 ま、よろしくね」

右手を差し出して握手を求める。
だがアスカは顔をプイっと背けて拒んだ。

「シンジの敵なんかとのん気に握手なんてしてらんないわよ!」

断られたことによって行き場のない手が宙を舞う。
予想通りと言えばそれまでだとはいえ、悲しいものがある。
ヨシカズはただ笑うしかなかった。

「でもうらやましいな。
 こんな美人に応援してもらえるなんて」

お世辞ではなかった。
ヨシカズは素直にアスカのことを綺麗だと思った。
ただ1つ、暗く沈んだ蒼い瞳を除いて...

「...行かないわよ」
「え、明日はくるんじゃないのか?
 なんでだよ...」

そのときヨシカズは記事に書かれていた事故の内容を思い出した。
そして自分の失言に気づいたときにはすでに遅かった。

少女のせいで起こった事故。
その事故で全てを失ってしまった少年。
責任を感じたのか、それとも重圧に耐えられなかったのか、少女は少年と会うことを拒み、別れを選んだ。
好きだったのに別れを選択した想い−−−

(そっか...そうだったな)

その時、なぜか2人の顔には同じ寂しさが見えた。










☆★☆★☆











「あれぇ...確かこっちだったような...」

暑い暑い炎天下の下、道のど真ん中で困り果てた少女がいた。
見覚えのあるものがないかと思い、辺りをキョロキョロと見渡すが何も見つからない。
道行く人たちは汗をかきながらフラフラと歩いている貧血寸前に見える少女の姿を心配そうに見る。

「も〜限界ぃ...
 どこか休めるところは...」

すでに気温は人肌近くにまで達しようとしていた。
熱せられ、陽炎の立つ道路の真ん中で少女はグルっと見渡す。
すると小さな公園を見つけ、そこには水道と木陰まであった。

「や、やった、休める」

見つけるや否や真っ直ぐに目標へと向かう。
と思っているのは本人だけで、実際には右に左にとフラフラと進んでいるので危なっかしい限りであった。
やっとの思いで辿り着いた公園にはセミの鳴き声がうるさいくらいに響き渡っていた。

「み、水...」

力の入らない手を水道の蛇口へと伸ばす。
すると同じように蛇口に伸びる手がもう一本...

「...あれえ...幻覚?」

もう一本の手は日に焼けていてツメは短くきちんと切り揃えていた。
もしかしてと思って視線を上げていくと野球のアンダーウェアが見えた。
それだけで野球をやっているのがわかる。
さらに目を上にやると人の良さそうな顔が見えた。
目が合った少年は小さな笑顔を向けて先に譲る。

「あ、えーと...どうぞ」
「...キミ、どっかで見たような...」
「?」

シンジは全くの初対面のコに戸惑っていた。

「ま、いいや。
 じゃ、お先に」

そう言うと蛇口をひねって水を飲み始めた。
女の子が目を閉じて水を飲む姿になぜかシンジはドキドキしてきた。
視線に気づいた少女はちょっと悪戯っぽい笑顔を浮かべる。
それを見たシンジはなんとなくミサトの笑顔を連想してイヤな感じがした。

「なにジロジロ見てるの?」
「あ、いや、ちょっと...
 ゴメン」
「ああ〜、さては惚れたな?
 はぁ...私ってば罪作りなオンナね...」
「ち、ち、違うよっ」

シンジは反論するが、耳まで真っ赤になっていた。
それがおかしかったのか、少女は吹き出してしまう。

「ププっ...冗談よ冗談♪
 私は大高サチコ。
 よろしくね、碇シンジ君」
「からかわないでよっ!」

シンジは真っ赤な顔のままだったので迫力も何もない。
だが、自分が名前で呼ばれたことに気づいた。

「あれ...なんで僕の名前を?」
「開幕第1試合でノーヒットノーラン達成。
 キミって有名人なんだよ」

ハトが豆鉄砲を食らったように、きょとんとした顔を見せるシンジ。

「...ひょっとして知らなかったの?」

自覚症状は全くナシ。
真面目な顔して頷くシンジに半ば呆れかえった。










「キミって広島商業高校なの?」

驚きの声を上げたのはシンジだ。
まさか目の前のコが次の対戦相手の生徒とは思えなかった。
シンジは汗を拭いていたタオルを止めて目を丸くした。

「明日の試合はよろしくね。
 って私が闘うんじゃないんだけど」
「よ、よろしく...」

握手を求めて差し出された手を握る。
シンジの大きい手がサチコの小さい手を包むように握手する。

「ふ〜ん、意外と手が大きいのね」
「そ、そうかな?」
「ピッチャーをやってるからなのかな?
 指なんかやっぱり長いし」

まじまじと手に向けられる視線にシンジは気恥ずかしさを感じた。
そして出た言葉が...

「キミのは小さいけどキレイな手をしてるね」

そんな言葉が自然に出た。
サチコはその言葉に反応してポっと頬を染める。
しかもきれいな笑顔を向けられたせいでサチコは目が奪われてしまった。
ボーっとした顔でしばらくの間、握手をしていた。
が、はっと気づくと見惚れていた自分に慌てて気がつく。

「い、い、い、碇君って女の子にいつもそんなこといってるわけ?」
「そんなこと...?」
「はぁ...これは天然ね」

当のシンジはまたきょとんとした顔を晒す。
手はしっかりと握手を続けていた。










☆★☆★☆











プルルル...プルルル...

テーブルの上に置いてあった携帯電話が無機質な電子音を鳴らす。
着メロでない点が持ち主の性格が伺われる。

プルルル...プルルル...

その呼び出し音がしばらくの間鳴り続ける。
部屋に誰もいないのかと思いきやテーブルに突っ伏して眠っていた。
金髪に白衣がトレードマークの赤木リツコだ。
こんなところまで来て白衣を着ているのはどうかと思うのだが...

プルルル...プルルル...
「うぅ〜ん...」

しつこく鳴り続ける電話にようやく反応して手が伸びる。
しかし半分眠っている状態なので何度か目標を外してしまうが、何とか携帯を取り、完全に寝起きであるとわかってしまうような状態で電話に出る。

「...............はい、赤木です」

不機嫌極まりない感じであった。
だが電話の向こう側の相手はそんなことでは動じないタイプだった。

「やっほ〜、私よ私、ミ・サ・ト♪
 あれれ、ひょっとして寝起きだったかな?」
「だったら声を小さくして欲しいわね。
 あなたの声はただでさえ響くんだから...」

電話の向こう側でこめかみの辺りをさすっている姿がミサトには見えるのか、ケタケタと笑っている。
リツコは腹立たしく思い、さすっていた辺りに怒りマークができた。
大学で知り合ってから以来、2人はン年間もこんな同じことを繰り返してきている。
性格も考え方も正反対なのに、長く続くのも珍しいと周りはいう。
人は自分にないモノを持っている人に惹かれていくのかもしれない。

「で、何の用なの?
 ...何でもないなら切るわよ」
「あーそうそう、例のブツは完成したの?
 明日試合があるじゃない。
 渚君も結構気にしてるみたいだからさ、私が聞きにきたってわけぇ」
「問題無いわよ。
 明日の試合にはちゃんと間に合わせるから」

近くに置いてある手作りのグラブを愛おしく見る。
電子機器関係のモノなら沢山作ってきたが、今回のは初めてのことであり、今までとは違った感情というものが出てきた。
さらに自分の教え子のためともなれば愛情のようなものも込められるようであった。

「...でも手作りって本当に手間がかかるわね」
「その方が作り手の想いがちゃんと篭められるってモノよ。
 もらう側だって既製品よりも手作りって言葉がつく方がいいわよ」
「あら、あなたは手作りのモノをあげたことあるの?」
「そりゃあるわよ。
 私の場合は手料理だけどね」
(...かわいそうな加持君...)

リツコの脳裏に極限状態に陥った加持の姿が映し出された。










☆★☆★☆











「サチ!」
「ジュンちゃん」

遠くから誰かが走ってきた。
と、良く見ると見覚えがある顔だ。
それもそのはず、明日の対戦相手のキャプテンの村田ジュンイチだった。

「また迷ってたのか」
「へへへ、ゴメンね」

ジュンイチの心配も何のその、サチコは悪びれもせずゴメンの一言ですます。
どうやら毎度のことらしいのでジュンイチもそこはわかっていた。
そこで初めてシンジの存在に気づいた。
どこかで見たような、という目を向けて、はっと気づくと恐る恐る口が開く。

「...もしかして碇シンジ?」
「そうだよ」

ジュンイチの問いにあっけらかんと答えたのはサチコだった。
それからしばらく事の経緯の説明が始まり、終わると同時にジュンイチは頭を下げた。

「すまなかったな碇シンジ君。
 コイツとは中学の時から一緒なんだが、その頃から方向音痴で困らされていたんだ」
「私そんなに方向音痴じゃないもん」
「自覚が無いのは困りモノだな」

ふんっと不機嫌そうな顔に一変する。
コロコロと表情が変わっていくのがサチコの性格を表していた。

「それはそうとヨシカズを知らないか?
 アイツ、ロードワークに行くって言ったっきり戻ってこないんだ」
「ひょっとして迷ったんじゃない?」
「アホ、オマエじゃあるまいし」

2人の会話が弾んでいく。
友達と話しているように軽い言い合いが良い雰囲気のように見える。
ポツンと1人カヤの外のシンジはロードワークを思い出した。

「じゃあ僕はこれで...」
「ああ、サチのこと、ありがとな。
 それから明日はよろしくな」
「こちらこそ」

差し出される手にシンジが応え、握手を交わす。
そしてシンジはロードワークの続きで走って去っていった。
それを見送る2つの影。
辺りはオレンジ色に染まっていた。

「ふーん...あれが碇シンジね...
 意外と落ち着いてるヤツだったな。
 指が長くて...握力もかなりありそうだ...」

握手を交わした手をじっと見つていった。
そこで妙な視線に気づいた。
もちろんサチコの視線である。

「むーっ、今のジュンちゃんヤな感じだぞ」
「しょ、しょうがないだろ...
 碇シンジは明日の対戦相手なんだぜ。
 オレじゃなくても根掘り葉掘り調べるって」




「それにオレはキャプテンだからな。
 明日の第壱高校攻略のポイントも見ておかなけりゃならん」










☆★☆★☆











空気が重かった。
2人の空気は雰囲気が先ほどと比べて、明らかに違っていた。
鋭い視線を見せるアスカ。
それを平然と受け止め、同じくらい鋭い視線を返すヨシカズ。

「...それってどういう意味?」
「どうもこうもないだろ。
 キミはそれで碇シンジをあきらめた−−−
 潔く身を引いて影から見守るか...カッコいいね」

まるで見透かすかのような言い方だった。
その視線には僅かな表情の移り変わりを見逃そうとはしない鋭さを持っていた。

「でも...
 キミは碇シンジをあきらめきれないようだね」

一気に核心を突いてきた。

「自分にそう言い聞かせて今の気持ちを保っている−−−
 でないとキミの想いは膨れ上がるばかりだ」
「...!」

図星を突かれたのか、アスカに困惑の表情が浮かんだ。
だがそれは当然の想いである。
一度好きになった人への想いを簡単に忘れられるはずがない。
想いを閉じ込めようとする理由があったとしてもだ。

「だって...だって、あのときアタシが...」
「キミは自分の気持ちを押し殺せるほど冷静でいられるかな?
 オレだったらできないね。
 そっちの方が人間らしくていい。
 もしできたとしても...オレはそんな自分自身を好きになれない。
 損得勘定で割り切れるほどキミの気持ちはドライなのかな?」
「結果、...憎まれたとしても?」
「そう、それだ」

気づいたようにヨシカズはアスカの言葉にすぐさま反応した。

「なぜ碇シンジがキミを憎むのかがわからないね」

ヨシカズにとってのただ一つの疑問。
その理由がわからなかった。

「それはアタシがレイを...!」
「キミは碇シンジの幼なじみなんだろ。
 なんでそんな簡単に憎むことができるんだ?」

確かにそうだった。
ユミとレイが死んだとき、病院にいたときはまだシンジはアスカを想っていた。
だから一番辛い時でもシンジは優しく接していた。

「碇シンジは少なからずキミに好意を持っていたはずだ」

それなのにシンジが去る間際にアスカを憎んでいることをトウジとケンスケに漏らした。
その間に何があったのかは誰にもわからない。
ましてやアスカはその間、ずっと塞ぎ込んでいたからわかるはずもない。

「キミは碇シンジを良く知ってるはずだ。
 その碇シンジがキミを手のひらを返したように嫌いになれるのか?」

人の心ほど脆く、うつろい易いモノはないかもしれない。
だからといって、それが全てではないはずだ−−−
そうヨシカズは思いたかった。

「そんなの...面と向かって言われたんだから仕方ないじゃない...
 だって...あの時...」

思い出される再会の日。
あの時のシンジの表情と言葉が胸を締めつけ、殴られた頬が疼く。
アスカの仕草で何があったのかが予想できたが、にわかには信じられなかった。
その疑問と驚きの表情が顔に出てしまったのか、それを見たアスカは無言で頷く。

「...知らなかったとはいえ、そんなヤツに憧れてたとはな」

吐き捨てるような感じの言葉。
ヨシカズの口調が途端に低くなる。
そこには静かな怒りが秘められていた。

「何も知らないくせに...!」
「ああそうさ、何も知らないよ。
 キミと碇シンジの関係なんて知らないさ。
 ...けど許せないね」

シンジへの怒りからか、ヨシカズの拳は硬く握られていた。

「どんな理由があるにしても女に手を上げるようなヤツは男じゃない」
「何よ...何も知らないくせに...」

自分の期待を裏切られたこと。
そして男としても絶対に許すわけにはいかなかった。
怒りはヨシカズに断固たる決意を促した。

「決めたよ。
 明日の試合、絶対に碇シンジを敗かせてやる」
「アンタなんかにシンジが敗けるはずないわ」
「なぜそう言い切れる?」
「シンジが特別だからよ」

きっぱりと言い切った言葉にヨシカズは呆れた。

「特別ね...
 どうやらキミは勘違いしているようだな」
「勘違い?」
「そうさ。
 碇シンジだけが特別じゃないってことさ」

ヨシカズはアスカを見上げていった。
握った拳が熱く感じる。

「甲子園にきたヤツらは全員特別なのさ。
 キミだって知ってるだろ、甲子園に出るのがどれだけ大変なのかを。
 碇シンジのそばにいたキミなら」

ヨシカズの言葉には想いが込められていた。
その想いがシンジへの怒りを増幅させる。

「毎日毎日泥だらけになるまで練習して、仲間のヤツらを蹴落としてレギュラーになって、寝ても覚めても野球のことばかり。
 普通に高校生活を送ってるヤツらに比べたら犠牲になるものばかりさ。
 それを覚悟してもなお甲子園の土を踏めなかったヤツらはゴマンといる」

自分たちの後ろには広島県の敗れていった高校がいる。
彼らもまた自分たちと同じ夢を追っていた。
その彼らを打ち負かしてきたからこそ、やっと甲子園に辿り着いた。

「甲子園にきたヤツなら誰だって知ってるんだ。
 影でたくさんの涙が流れてきたのをな」

そのためにも勝ち続けなければならない。
そして碇シンジにだけは敗けるわけにはいかなかった。
人の痛みを分からない碇シンジにだけは敗けるわけにはいかなかった。

「甲子園にきたヤツらは全員が特別なんだ。
 碇シンジはその中の1人に過ぎない」

強い意思を感じさせる目がアスカを捕らえる。
一瞬シンジを感じさせたが、それは違った。
その目は男だったら誰でも持っていた。
自分のためではなく、人のために闘う本当の男の目。

「だから−−−勝てる!」

強靭な意志にアスカは驚きと同時に怖さを感じた。
今まで見てきた同じ年の男子とは思えないほど大人びていた。
いたとしてもトウジぐらいであろう。
それが今まさに自分に向けられている。

「いや...いやぁ...」

不安と戸惑いが混ざり合い、アスカはうろたえる。
不安とはシンジと同等かそれ以上に感じられるヨシカズの強い意思。
そして戸惑いとは自分に向けられた想い。
ヨシカズは今、アスカのためにも闘おうとしていた。

「惣流アスカ。
 オレは明日、碇シンジに勝つ!」

今のシンジとアスカを否定するために勝つ必要があった。
それが一方的な考えかもしれないのはヨシカズにはわかっていた。
頑なに自分の考えを否定するアスカを気づかせるためには、シンジに勝つ以外、できることがない。
自分のためだけでなく、予選で敗れ去った学校のため、強いてはアスカのためにもヨシカズは勝ちたいと心から思った。

「だから明日の試合を見にきてくれ」

アスカに手を伸ばす。
鍛え上げ利き腕。
マメだらけのボロボロの手。
野球を愛しているから、この手を誇りに思っていた。
その手を伸ばしたことは、それだけアスカを強く想ったからであった。

「.........」

アスカはその手をじっと見つめる。
それを取れば、シンジと別れて以来、人の温もりに触れられる。
ずっと独りきりだった二年間、寒くて寂しくて気が狂いそうになったこともある。
ヨシカズの手を取れば、それから解放できるかもしれない−−−
自分のために差し伸べられた力強い手がすぐそこにある。
それだけ想われたことなど、この二年間ありはしなかった。

(この手を取れば−−−)

アスカの脳裏に駆け抜ける。
手が差し伸べられた手に伸びようとする。

「さあ...」





が、しかし−−−

「−−−!」

目の前に現れるやさしい顔立ちの少年とその妹。
その瞬間に現れる驚愕と恐怖と自己嫌悪。
アスカは伸ばそうとした手を、もう一方の手で強く自分の下へと引き寄せた。

「はぁっ...はぁ...」

まるで力を出し尽くしたかのように全身で息を切らせていた。
額には冷たい汗が流れ、髪がべったりと貼りつく。
誘惑−−−
自分の心の弱さが表に現れた。
だから自分はヨシカズの手を取ろうとしたんだと自分の弱さに気づき、一歩、また一歩と、ヨシカズから離れていく。
そして...

「何も知らないアンタが偉そうに言うなっ!」

走り去っていくアスカ、取り残されたヨシカズ。
去り際、アスカが泣いているのではないかと思ったが、ヨシカズは追わなかった。
アスカの走り去る後姿が自分と重なる。










しばらくの間、立ちつくしていたが不意に顔が崩れた。

「はははっ...自分の気持ちを押し殺せるほど冷静でいられるかな...か」

自嘲気味な笑いが今までの強い意思を消し去り、全くの別人を思わせる目。
それはアスカに良く似ていた。
追わなかったのではなく、追えなかったのだ。
今のヨシカズには、はっきりと弱さが表に出ていた。
それが普段の自分であることは、ヨシカズが一番よくわかっている。

「オレもよく言うな...」

ある女の子の笑顔が頭によぎる。
それは多分好きだったかもしれない女の子の笑顔。
その子の笑顔を見るだけで幸せだった想い出。

「似てたのかな、やっぱり...オレ...」

そう、それは全て矢のように駆け抜けていった想い出だった。



第九拾参話  完

第九拾四話へつづく




...1年ぶりです。
今年も熱い夏がきて、開幕した甲子園に触発されてなんとか更新です。
それから長い間更新もしないのに感想Mailを送ってくださった方々、ありがとうございます。
本編の方は2回戦に突入しまして、そろそろアスカが絡んでくるところです。
ここは相当な難産が予想されるので気長にお待ちください。



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