「ハァっ、ハァっ、ハァっ...」

少年は息を切らして走る。
どこへ向かっているのかはわからない。
ただそこから逃げたい、消えてしいまいたいと心の底から思っていた。

「ハァっ、ハァっ、ハァっ...」

少年は走る。
つい先程見た光景と耳に入ってきた会話を信じたくはなかった。
少年はただひたすらに走っていた。

「うわっ!」

つまずき、地面に倒れこむ。
ユニフォームに泥がついて真っ黒に染まる。
おなじみの土の匂いがしたが、今の少年にとっては無様で惨めなものでしかない。

ポツ...ポツ...

暗く澱んだ空から雨粒が舞い降り、辺りを濡らす。
やがて雨は勢いを増し、地面に水溜りを作る。
少年はそれでも起き上がれなかった。

先程の光景が蘇る。
幼なじみの少年とクラスメイトの少女が交わす抱擁。
思い出すだけで自分が底無しの奈落へ落ちていくような絶望感が渦巻く。

初めて出逢った時、その瞬間、体中に電気が走ったような感覚。
少女と一緒にいられるだけで弾むような気分になれた。
微笑んでくれるだけで心が満たされる。

そう、多分自分は少女に恋していた。
しかし、少女が選んだのは自分ではなく、幼なじみの少年。
同じ夢を持ち、道を同じくする少年だった。

その信じられないと思う気持ちがある反面、どことなく冷めた自分が自分を見ていた。
ぞっとするような冷めた目が合う。
鏡を見ているようだが、そこだけは違った。
そして鏡に映る自分は言う。

「仕方がないよ...」

今まで何度も耳にしてきた言葉だ。
いや、口にしてきた言葉だった。
頑張れば頑張るほど、夢中になればなるほど、最後には裏切られ、あきらめてしまう中途半端な自分の心。
慰めの言葉として、何度繰り返されたかわからないほど聞いて、そして口にしてきた。

ザーーーーーーーーー

本格的に降り出した雨の中、少年はノロノロと立ち上がり、空を眺める。
まるで少年の心を現すかのように、どんよりと曇っていた。
そして少年は今まで何度となく口にした言葉を吐く。










「仕方がない...よ...」










少年は自分の気持ちを無理やり押し込め、冷たい雨に打たれる。
それは今から三年前の、とある夏の日の思い出。
青木ヨシカズの苦い失恋だった−−−











大切な人への想い

第九拾六話 向かい合うための覚悟











「ストライク、バッターアウト!」

審判の叫び声と共に広島商業高校スタンド側から歓声が沸きあがる。
マウンドから降りるヨシカズは最後にもう一度だけシンジに視線を送るとシンジもまたヨシカズを見ていた。
お互いがお互いを意識している。
それを持って2回の表は終了し、広島商業高校が攻撃の番となった。

「なんなんだよあれは...
 あんなに攻撃的なピッチャーじゃないはずなのに」

攻守交代であるのに、打席に立ったまま呆然とするフジオ。
何しろたったの三球で終わってしまったのだ。
こんなことは有り得ない−−−
広島商業高校を分析していた者全てがフジオと同じ考えを持っていた。





「さて、今度はこっちが守る番だ」

カヲルがフェイスマスクとミットを取る。
その時、三塁から戻ってきたリュウスケが話しかける。

「なあカヲル、向うの四番なんだけどさ、よく三振に打ち取れたよな」

リュウスケは先頭打者だったので、今まで聞けなかったのだ。
やはり四番としての血が騒ぐのか、ああも綺麗に空振りをさせたボールが気になる。

「フォークだよな。
 いや、それならアイツも読んでたから違うか...」
「フォークですよ」

あっさりと肯定されて虚をつかれたのか、目が点になった。
しかしすぐさまリュウスケは否定する。

「ちょっと待て、それなら絶対にスタンドインしていたぞ。
 アイツは完璧に読んでいた」
「普通のフォークだったらそうでしょうね。
 でもシンジ君のフォークはちょっと違うんです。
 あのフォークはですね...」

そこで一呼吸おいてから、カヲルは満面な笑みでこたえる。

「揺れるんですよ」

リュウスケは予想通り、きょとんとした顔になり、カヲルはそれに満足したのか、自分の守備へと走る。
ポツンと取り残されたカタチとなったリュウスケには、カヲルの真意がさっぱり分からなかった。
それと同じようなことが反対側、広島商業高校ベンチでも起こっていた。

「揺れる?」

話の中心にいるのは、そのボールを間近で見たジュンイチ。
ジュンイチはボールの変化を細かく説明する。

「スピードはある。
 本気のストレートよりかは遅いが、それでも普通のピッチャーと同じぐらいだ。
 碇シンジのフォークはスピードもあるから厄介なんだよな」

「それから揺れたのは普通のフォークボールが変化する手前辺りだな。
 ...こうフラフラって横に揺れたんだ」

ボールの軌跡を手でなぞるように見せた。
突然そんなことを言われても、にわかには信じられず、反論が出てくる。

「スライダーかシュートなんじゃないか?」
「いや、あの落ち方はフォーク以外に考えられない」

最初は実際に見た自分でも信じられなかったが、フォークとしか思えない変化だった。
ゆらゆらと揺れたが、最後のベース上でストンと落ちる変化。
四番として様々な変化球を見てきたが、初めて見た変化球だった。

「じゃあどうやって打てばいいんだ?」

五番打者、この回の先頭バッターが聞いてきた。
やはり最終的にはこの質問が出てくる。
しかし初めて見る変化球にジュンイチは何の対策が浮かばずに黙り込んでしまった。

「う〜ん...」

どんなに唸っても、頭を捻っても、いい案は出てこない。
で、結局出てきた答えは...

「いっそのこと捨てるか?
 いくら碇シンジでも、全投球を揺れるフォークでくるわけはないだろう」

しかしこういった消極的な作戦では後になればなるほど精神的に追い詰められていく。
それは百も承知だった。
誰もが分かっていたが、それ以外に道はなかった。
しかし意外にも賛成したのはヨシカズだった。

「それでいこうか」

円陣を組み、みんなの視線が注がれる中、ヨシカズは続ける。

「打てなければ点は取れないけど、逆に打たせなければ点は取られない。
 碇シンジが先か、オレが先か...
 敵の打線はオレが抑えるから、みんなは的ダマを絞って確実に当ててくれ」

その言葉はエースとしてのプライドが言わせた。
それを聞いたナインたちはお互いに顔を見合わせた。
エースとしての自信に満ちた態度が嬉しくて笑みが出てくる。
これで決まった。

「さすがはウチのエースだな...って言いたいが!」
「野球は1人でやるもんじゃないだろ!」
「何がオレが抑えるだ、後にはオレたちがいるんだからちょっとは頼れ!」
「そうだ、オマエだけに良い格好はさせんぞ!」

口々に出てくる叱咤の声。
しかし互いに信頼しているから出た声だった。
今までにない結束感が広島商業高校の中に生まれる。
方針は決定され、最後に監督の号令で広島商業高校は攻撃に移った。

「ようし、じゃあ決まりだな。
 データに無いのは、ばっさりと捨てよう。
 いいか、オマエたちの守備力は今大会中No.1だ、自信を持て。
 そしてチャンスを掴め!」
「「「ハイっ!」」」










☆★☆★☆










その後の試合展開は文字通りの投手戦に突入していった。
第壱高校は揺れるフォークを武器にランナーを出さず、三振か凡打に打ち取る。
一方、広島商業高校は、鉄壁の守備によって三振こそ少ないが、得点を許さない。
2校の違いはそこだった。

シンジが三振を取ると第壱高校スタンドが揺れる。
片や、広島商業高校は打たれても守備力、優れた連系により広島商業高校スタンドを沸かせた。




「たぶん初めて見たボールだよな...」

一杯になったディスクを交換しながらケンスケが呟く。
築き上げた三振の山は、揺れるフォークボールによるものだ。
しかしそのボールは実際に打席に立って初めて分かるものであり、遠くからカメラで追っているケンスケには球筋を見極められない。

「フォークボールなんだよな?」
「だと思います...
 でもただのフォークボールじゃないですよ。
 くると分かっていても打てないんだから」

第壱高校スタンドから歓声が上がる。
どうやら奪三振の数がまた一つ増えたみたいだ。

「今のもフォークボールですよね」
「ああ、あんなにキレイに空振りしたんじゃな」
「フォークで三振...と」

口で呟きながらノートを取る。
見ると決め球のほとんどが問題のフォークボールで占めていた。
ケンスケは無意識の内にペンの先を噛む。
これは昔からのクセだ。
シンジかトウジが近くにいれば即座に注意していただろう。

「変化球に頼るか...
 悪いとは思わないけど、オレの知ってるシンジのイメージじゃないんだよな」

かつてのストレートだけを武器に三振の山を築いていた姿を知っているだけに、ケンスケは今のシンジに戸惑う。
この変化を進化なのか、それとも以前のスタイルに限界を感じたのか−−−
今の時点では答えを出せなかった。










ケンスケと同じくスコアブックをつける少女が第壱高校ベンチにいた。
言わずもがな、マネージャーであるレイだ。

「これで三振10個目...ですね」
「スゴイじゃないかシンジ君は。
 いつの間にあんなボールを身につけたんだい?」
「...私も知りませんでした」

そのときレイの目に疎外感が見えたような気がした。
シンジとの仲は変わらない。
いや、むしろ深まったかもしれないと周りは思う。
その原因はもちろんシンジがレイに打ち明けた過去にある。
しかし、今のレイにはシンジとの間に見えない壁を感じてペンを持つ手に力が入る。

「...にしてもゼロ行進がこう続くとなぁ」

腕組みをした加持がポツリと呟いた言葉には一抹の不安が感じられた。
試合の流れはどちらにあるのか。
そう聞かれれば、誰もが第壱高校にあると言うだろう。
しかし加持にはそう思えなかった。

今の第壱高校の守りはシンジのピッチングが全てで、1人相撲という感じが否めない。
反対に広島商業高校は打たれても守備がしっかりとカバーしているので、エースのヨシカズかかる負担は少ない。
守備についている1人1人が自分の役割を的確に果たしているので、結束力は広島商業高校にあると見ていた。

「杞憂に終わってくれればいいんだが...」

均衡した状態が破られるのは、いつも些細なことがきっかけである。
考え事に熱中していて、気がつけば第壱高校ナインがベンチへと戻ってきた。
これで試合は後半へと突入した。










☆★☆★☆










ズバァン!

ミットに突き刺さるボールの音は衰えていない。
ジュンイチはホッとした。
回を重ねてきただけに、そろそろ疲れがピッチングに影響してくる。
投球数はシンジと同じ、もしくは多いくらいだった。

(少しくらい打たれてもウチは守備がいいからな)

ヨシカズの後にいるナインたちは良い感じに緊張している。
そして何よりも、ヨシカズの集中力だ。
シンジに対する対抗意識というのがはっきりと感じられる。

(エースなんだから敵のエースに対抗心を持つのはもっともだよな)

その反面、ジュンイチも不安を感じていた。
点が取れなければ勝つことができない。
碇シンジを打ち崩ずさなければならない自分の責任が圧し掛かる。
それと一緒に昨夜のことが思い出される。












みんなが寝静まった後、2人は外に出ていた。
2人だけで明日の試合の打ち合わせがあったのだが、お互いに黙ったままだった。
遠くから微かに聞こえる車の音が、より一層に静けさを感じさせる。
そして長い沈黙の後、ヨシカズがようやく口を開いた。

「なあ、オレって女々しいヤツかな...
 一度はあきらめたのに、まだ未練があるようだ」

それを口火にヨシカズはアスカと出逢った時のことを話し始める。

何をすることもできず、今はただ見ているだけの彼女のこと−−−
彼女がそうなってしまった理由−−−
それを聞いてしまった、出逢ってしまった彼女の為に何かをしてあげたい自分も−−−

切々とした彼女への想いがジュンイチに伝わってきたが、少し意外な感じがした。
初めて出逢ったはずなのに、そこまで彼女を想えるのか。
一目惚れという言葉を思い浮かべたとき、ヨシカズはそれをはっきりと否定した。

「ただ単に似ていただけなんだよ、オレと彼女は」

落ち着いて話す姿は、どこか冷めた感じだった。
好きだった少女の笑顔が思い出され、同時に想いも溢れ出す。
そこから逃げ出すように、いつも少女への想いに背を向けていた。





だって仕方ないじゃないか...





何万回も繰り返してきた言葉は、惨めな自分にふさわしかった。
しかし今日、そんな自分に似た少女と出逢った。
鏡ごしに見える情けない自分の姿と重なる。

「だからオレは彼女のために...」

そこでいったん言葉を区切った。
そして自虐的な笑いを浮かベながら続ける。

「...いや、違うかな。
 オレはただ、自分を慰めたかっただけかもしれない」

ヨシカズが自分から心の内を見せるのは初めてだった。
いつもであれば適当にごまかすか、言葉を濁すだけで終わっていた。
しかし今は違う。
悩み、苦しみ、自分の心をぶつけてきている。
今まで足りないと感じていた絆が、ヨシカズが助けを本当の意味で求めていた。
静かに時が流れ、やがてジュンイチの重い口が開く。










「オマエが何をあきらめたかは、今は聞かないでおくよ」





知っていたよ。





「でもな、人が人の為に何かをする...
 それはとても素晴らしいことだぞ」





伊達に何年も幼なじみをしているワケじゃない。





「オマエは彼女、惣流アスカのことを思って言ったんだろう。
 だったら自分を信じろ」





しかし、気づいたのはいつからだっただろう−−−





「オマエが彼女にやろうとすることは正しい」










偽善的だなと自分でも思い、自己嫌悪に陥る。
カッコいいセリフを並べているが、自分はズルイ男だと。
ヨシカズがサチコを好きなのは知っていたが、自分の優位な立場を失いたくはなかった。
しかしヨシカズが忘れられなかった以上、もはや自分も向かい合わなければならないと覚悟を決めるしかない。





「ただ、オレから言わせてもらえば...きっちりとケリをつけたほうがいいな。
 ...それならあきらめもつくさ」





それが精一杯だった。
しかし伝わったはずだ。
お互いに闘うことを。






長く静寂した時が流れ、時折吹く風が夏の暑い夜に心地好いひとときを与える。
やがて意を決したようにヨシカズはゆっくりと立ち上がた。
空を仰げば辺り一面に広がる星がそこにある。
子供の頃から見上げてきた空は何も変わらなかったが、心の中は違う。

「こんな気分は初めてだな...」

ヨシカズは凛とした顔でいつまでも夜空を眺めていた。
結局2人はお互いに目を合わせることはなかった。











(やっぱりあのときに決めたんだよな)

マウンドに立つヨシカズの顔は、その時と同じく凛としていた。
今更ながらヨシカズの覚悟を感じ、碇シンジに怯える自分が不甲斐なく思う。
自分にできること、自分にしかできないことをやろうと心に決める。

(食らいついてでも碇シンジのボールを打ってやるさ。
 敗けるワケにはいかない...!)

腹を括ればもう迷いはなかった。
四番として、キャプテンとしてチームを引っ張るのは自分だと言い聞かせる。
そして立ち上がり、大きく息を吸い込んで仲間たちに檄を飛ばした。










☆★☆★☆










「なんでこんなに苛つくのよ...」

部屋のテレビを見ながらアスカは悪態をついた。
今、映っているのはシンジではなくヨシカズだった。
激しい投手戦が展開し、試合は中盤の終わりに差しかかる。
四番ですらことごとく三振に切り捨てるシンジの姿は鮮烈であり、広島商業高校の前に大きな壁として立ち塞がる。
片や鉄壁の守備に守られ、点を取れない第壱高校にも焦りが見える。

そんな均衡した状況に立たされても、マウンドに立つヨシカズは臆することはなかった。
仲間を信じて投げ続けるその姿は、仲間たちを奮い立たせようとする。
スタンドにいる観客たちにもヨシカズの心は届いていた。

しかしアスカにとって今のヨシカズの姿は心を乱させる−−−

ヒザを抱え、親指のツメを噛む。
何故自分がこうも苛ついているのか分からなかった。










流れ落ちる汗を拭う仕草が気に入らない。





「なんなのよコイツ...」





声を上げて仲間を奮い立たせる姿が気に入らない。





「どうしてこんな目をしていられるのよ...」





全力で腕を振り下ろすフォームも気に入らない。





「勝てないくせに!」





何よりもヨシカズの目が気に入らなかった。
未だ衰えぬ、その眼光。
ヨシカズが自分に何を伝えたいのか分からなかった。

「なんで投げ続けるのよ...」

押し殺した声と共にブツっというイヤな音がした。
そこでアスカは自分の親指のツメを噛み潰したことに気づいた。
テレビの画面にはヨシカズの姿が映っている。
試合開始から変わらない真っ直ぐな顔−−−










ガチャ...

アスカはゆらりと立ち上がるとドアに手をかけた。
少し考えた後、何かを断ち切るかのように意を決して部屋から出る。

バタン...

静かにドアが閉じる音がした。
その直後、甲子園の大空に白球が舞った。
大きくアーチを描きながら飛び、時が止まったような静けさがスタンドを覆う。
打ったのは第壱高校の四番、榊リュウスケだ。
リュウスケは打球を目で追い、そして小さく、しかし力強く拳を握る。










「入った...!」










自分の言葉通りに球場の全員が見守る中、ボールはレフトスタンドに消えた。
この瞬間、試合の均衡はついに破られた−−−


第九拾六話  完

第九拾七話へつづく





レイ久々の登場...
アスカもやっと移動開始...
でも話の中心は相変わらず敵エース...
試合は進むが話は進まない(涙)



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