『愚者の石』

芹沢 軍鶏






 最後に私が見たのは閃光だった。
 そして……暗転。


 何かが焦げた匂いが鼻についた。
 痺れきっていた感覚が、少しずつ、痛みとなって甦ってくる。
 私は、闇の中で意識を取り戻していた。
 ゆっくりと体を起こそうとする。だが、全身に鋭い痛みが走って、私は再び倒れ
込んだ。
 悲鳴を上げそうになったが、それは堪える。ただ低く呻いただけだ。
 地の上に倒れたままでも、じくじくとした鈍い痛みが私の体中を責め苛んでいる
が、耐えられないほどではない。
 私は、ため息をついた。
 私は思い出していた。自分の身に何が起きたのかを。
 自分が何をしたのかを。


ここは《嘆きの森》に程近い洞窟の中だった。私は、二人の冒険者と共にここを
訪れた。
《愚者の石》の一つを手に入れるために。
だが、それは私の狂言だった。ここには《愚者の石》などない。それに引き寄せ
られて集まった手強い魔物どももいない。
 私が「手を借りたい」と二人の冒険者に声を掛け、この洞窟へ誘い込んだのは、
彼らを殺すためだった。ある街の魔術師ギルドの依頼で。
 なぜギルドが彼らを消そうとしたのか、その理由を私は知らない。だが、私には
ギルドの依頼を受けなければならないわけがあった。そうしなければ、私自身が消
されていたからだ。《愚者の石》を盗み出そうとした罪で。


《愚者の石》は、魔界への扉を開く鍵だった。それを手にした者は、この世界には
存在しない魔法の知識と力を身につけることができると言われていた。
 私が長年追い求めていたその《愚者の石》の一つが、ある街の魔術師ギルドの手
に渡り、メンバーだけがそれに触れることを許されているという。
 旧知の信頼できる情報屋からその話を聞いた私は、すぐにその街を訪れ、ギルド
のメンバーに加わることを願い出た。
 私には、すでに魔術師としては充分な実績があった。高名な冒険者たちの仲間に
加わり、ある国を騒がしていた火炎龍の退治に手を貸したこともあった。だが、そ
のような冒険によって得られる富も名声も、私を満足させるには至らなかった。
 私には、魔術の奥義を極めたいという願望があった。伝説に名を残す幾人かの魔
道士たち――現界と魔界との境を超え万物の真理を知り得た彼らが如き極みに上り
たいというのが私の願いであった。そして、それを叶えてくれるものこそ《愚者の
石》だった。
 だが、ギルドは私の願いを拒んだ。私を畏れたが故に。
 彼らは、《愚者の石》の力を得ていなければ、私などよりも遥かに劣った魔術師
たちだった。逆に言うと、私が《愚者の石》に触れることができれば、彼らよりも
遥かに強大な力を手に入れられるということだ。彼らはそれを畏れたのだ。
 冗談ではない。彼らに《愚者の石》の所有者たる資格はないのだ。
 彼らが《愚者の石》を手に入れたのは、全くの幸運からであった。偉大な魔道士
の息子に生まれついたというだけの分別の足りない凡庸な男が、ただ明日の酒の呑
み代を得たいがためだけに、清貧を貫いた父親の数少ない遺品の全てを金に換えよ
うと魔術師ギルドに持ち込んだ。その中に《愚者の石》が紛れ込んでいた、それだ
けのことだ。
 そうして手に入れた《愚者の石》を、それによって得られた力を、ギルドのメン
バーたちはどのように使ったか。
 愚劣というほかなかった。彼らは、金銭的な利益の追求のためにのみその力を利
用したのだ。土くれを黄金に変える術も、死者に再び生を与える術も、彼らにとっ
ては王侯貴族の前で演じてみせる見世物の仕掛けにすぎなかった。彼らには富と名
声が与えられ、彼らはそれだけで満足していた。《愚者の石》の力をもってすれば、
それ以上のものを自らの手で得られようというのに。
 私は《愚者の石》は正当な所有者の手に渡るべきものだと考えた。それはすなわ
ち私自身のことだ。私ならば、《愚者の石》をもっと有意義に使うことができる。
 私はギルドの本部に侵入を試みた。これまでの冒険で、私は盗賊の真似事をする
のに必要な技を身に着けていた。それに、いざとなれば、彼らと魔術の力比べをし
てもよいという覚悟もあった。《愚者の石》が彼らにどれほどの力を与えたものか、
この目で確かめてくれようと。
 だが、私は甘かった。私はギルドのメンバーを見くびっていた。《愚者の石》は、
私の想像を遥かに超える力を彼らに与えていた。もっとも、そうでなければ、私が
《愚者の石》を得ようと望むだけの価値がないとも言えるのだが……。
 私を捕らえたギルドのメンバーたちは、しかし私を殺そうとはせずに、取引を持
ちかけてきた。二人の男を始末してほしい。ギルドのメンバー自身が動くことはで
きない。二人の男たちはことのほか用心深く、我々は彼らに顔も、我々の扱う術も
知られすぎている。だが、君ならばうまく彼らに取り入り、隙を見て片をつけるこ
とができるだろう。君の力は我々も認めた。もしも依頼を果たしてくれたならば、
我々は喜んで君を仲間に迎えようではないか。
 ギルドのメンバーたちが本当にその約束を守るものとは到底思われなかったが、
それでも私には、彼らに従うほかに道はなかった。いま殺されるか、後で殺される
かの違いだけだろうが。
 彼らは私の左肩に魔法による刻印を焼きつけた。それはギルドへの忠誠の証とし
て、メンバーに加わる者全てに課せられるものだと彼らは言った。だが、それが私
への警告であることは明らかだった。依頼を果たさず逃げようとしても無駄なこと
だ。私の裏切りを知れば、彼らは刻印に込められた術を発動するだろう。刻印は地
獄の業火を呼び起こし、私のこの身を焼き尽くすのだ。


 私は、口の中で小さく呪文を唱えた。洞窟に入るときにいつも携えているランプ
は、二人の冒険者との戦いのさなかに壊れてしまった。暗闇の中で物を見る術など
心得ていない私には、明かりが必要だ。
 私の術に応じて、風の精霊の眷属たちが集まり、一つの光の塊となっていくのが
確かに感じられた。
 しかし、私には何も見えなかった。私の目が見えていないのか……?
「くそっ!」
 私は叫んだ。精霊たちの気が乱れたが、いまさらどうでもいいことだ。「散れ!」
 精霊たちは四散した。私の言葉に従ったわけではない。意識の集中が乱れれば、
精霊たちは私の支配を離れてしまうのだ。
 だが、ここでじっとしていたところで、誰かが助けに来てくれるはずもない。私
には、医師かあるいは治癒の術を心得た者による手当が必要だったが、私自身の消
耗しきった力では、自分に術をかけることもできない。
 何という皮肉! 私が助けを得ようと思うならば、まず私自身の力でこの洞窟を
出なければならないのだ。
 ともかく、こんな場所でのたれ死にするのは御免だ。
 私は再び立ち上がろうとした。しかし、私の全身はどれほどの深手を負っている
ものか、痛みに耐えながらようやく体を起こすことだけで精一杯だった。
 立ち上がれなければ、這ってでも進むしかない。そして街へ戻るのだ。
 街で待っているのは、ギルドのメンバーによる死の制裁かも知れなかったが。
 そのとき、私は何者かの気配を感じた。
 あの二人の冒険者がまだ生きているのか?
 だが、そんなはずはないと思い直す。
 彼らは、私の術で大地に呑み込まれた。彼らが地の精霊を操る術を心得ていれば、
あるいは逃れる術もあったかも知れないが、彼らはいずれも火の精霊の使い手だっ
た。火の精霊と土の精霊の属性は相反するものであり、火の精霊の使い手の命令に
土の精霊が従うことはあり得ない。
 それに、その気配は並の人間のものではなかった。私が殺した二人とも、そして
私自身とも比べ物にならない強力な魔道士か、あるいは、魔力を備えた人間以外の
存在――すなわち魔物――のものだと思われた。
 まさかギルドのメンバーか? 依頼の成否を確認し、ついでに私を消しにきたの
か?
「そこにいるのは、誰?」
 意外なことに、聞こえてきたのは若い女の声だった。いや、少女と言っていい。
 とはいえ、相手が女性の魔道士ならば、外見通りの年齢であることはまずないと
言っていいから、声だけを聞いて若いなどというのもあてにはならない。
 だが、少なくともその声の調子で、こちらへの害意がないことはわかった。
「怪我をして動けないんだ。手を貸してほしい」
 私が正直に言うと、相手は、何故か動揺したようだった。何者かはわからないが、
その強力な気が乱れたのを、私は感じとっていた。
 どういうことだ? 私を恐れているのか? 私は怪我人だと言ったではないか?
「頼む」
 私は懇願した。救いの手が現れたことを知った私は、それにすがりたい一心だっ
た。「実のところ、目も見えないんだ……」
「……今、そちらに行きます」
 相手は答えた。ゆっくりと、気配が近づいてくるのが感じられる。
 だが、足音がしないことに私は気づいた。洞窟の中だ。普通ならば足音が響くは
ずである。その代わりに、何か重いものを引きずっているような音が聞こえる。
 しかしそれは大した問題ではない。私に必要なのは、私を助けてくれる誰かだ。
それが何ものであるかを問わず。
 私の姿を見て、彼女は息を呑んだ様子だった。
「ひどい傷……」
「そんなにひどいのか?」
 私はきき返した。確かに目は見えていないし、体中に痛みを感じていたが。
 彼女の手が、私の顔に触れた。ぞくっとするほど冷たい手だった。
「大丈夫。私の力で、治せます」
彼女は言って、私の頬を撫ぜた。冷たい手だったが、私は何故かその手に触れら
れて心が休まるのを感じた。あるいは、彼女が何かの術を使ったのかも知れない。
 彼女の手の冷たさと心地よさを感じながら、私はいつしか、眠りに引き込まれて
いた……。


 次に気がついたときには、私は、藁のようなものを敷いた場所に寝かされていた。
 目は見えないままだったが、体中の痛みはかなり和らいでいた。
 近くで焚き火が燃えているらしい。それに、私を助けてくれた女の気配も感じる。
「ここは……?」
 私はたずねた。見えない目に手をやる。包帯が巻かれている。
「私の家です。まだ横になっていてください。あなたはかなり力を消耗しています」
「君の家? だが、ここは洞窟の中だろう? 声の響き方でわかる」
「そう……」
 女は、微かに笑ったようだった。「この洞窟が、私の家なのです」
「ここに人が住んでいるとは、知らなかったな」
私は言った。ここには何もないものだと思って、二人の冒険者をこの洞窟へ誘い
込んだのだが。
 ふと気がついて、私は彼女にたずねた。
「ということは、君は一部始終を見ていたわけか?」
「一部始終?」
「つまり……私があの二人の冒険者を殺したところを」
「…………」
 彼女は、しばらく何も言わなかった。
「私が見たときには、あなたは一人であの場所に倒れていました。その前に、かな
り大きな魔法の力が解放されるのを感じましたが、何があったのかは私にはわかり
ません。……あなたは人を殺したのですか?」
「ああ」
 私は頷いた。「彼らを殺さなければ、私が殺されていた。だが、それがいかに身
勝手な理屈であるかは私にもわかっている。どうする? 私は人殺しだ。君はその
ことを知ってしまった。私は秘密を守るために、君まで殺そうとするかも知れない」
「あなたはそんなことのために人を殺すようには見えません」
「だが、現実に二人殺している」
「あなたはそれを悔やんでいるのですか?」
「悔やむ? そうだな……」
 私は、自嘲の笑みを浮かべた。「だからといって、死んだ二人を哀れみはしない
が、彼らにも殺されるだけの理由はあったのだろうから。だが、私が彼らを殺した
のは、ギルドの脅しに屈したからだ。それは魔術師として屈辱的なことだ。私には
彼らに従わず、誇りを守って死ぬという選択肢もあった」
「ギルドの脅しというのは、左肩の刻印のことですか?」
「見たのか?」
 私は彼女のほうに顔を向けた。目が見えないのだから、そんなことをしても無駄
なのだが。
「ええ。傷の手当てをするときに……」
 彼女は、ためらいがちに答える。「見られたくないものだったのですね……」
「別に構わない」
 私は言った。「君には命を助けられた。それだけでも私は感謝しなければならな
いだろう。そういえば、お礼もまだだったね。――ありがとう」
「いいえ……」
 彼女は、微笑んだようだった。
「もうしばらく眠っていてください。そのほうが、早く力を取り戻せます」
「ああ。そうするよ」
 私は彼女の言うことには素直に従う気になっていた。何か私にそうさせるだけの
ものを、彼女の穏やかな声はもっていた。
「だが、一つだけ、聞いておきたいのだが……」
「何ですか?」
「私の目は、見えるようになるのか? 本当のことを知っておきたいんだ。もしも
一生、このままなら……私も、それなりの覚悟を決めなければならない」
「大丈夫です」
 彼女は言って、私の手をとった。冷たい手だった。
 だが、彼女の心の温もりとでも呼ぶべきものは、確かに伝わって来た。
「きっと、よくなります」


 それから何日が過ぎたのか。洞窟の中で寝かされている私には、今が昼か夜かと
いうこともわからなかった。だが、私が眠りから覚めたときには、彼女は必ず私の
そばにいた。そして、まるで家族か恋人であるかのように、私の世話をしてくれた。
 近くで水の湧き出す音は聞こえなかったが、彼女の《家》には、いつも冷たく新
鮮な水があった。私のためにどこからか汲んで来てくれているものだった。彼女が
洞窟の中で捕まえて来るトカゲや蝙蝠などの肉は、慣れてしまえばそれなりに美味
であった。彼女は、ときには洞窟の外から野草を摘んで来て、スープを作ってくれ
たりもした。
 私の全身の傷は、驚異的な早さで回復しつつあった。火傷に由来する体中の痛み
はほとんど消えていたし、私が心配していた目のほうも、包帯越しに微かに光を感
じられるほどになっていた。
 私は、この洞窟で彼女の献身的な介護を受け始めてから、ずっと感じていた疑問
を口にした。
「君は何故、私にここまで親切にしてくれるんだ?」
「傷ついている人を助けるのは、人間にとって自然のことではないのですか?」
「それは確かにその通りだが……。でも、言っていいのかわからないが、まるで他
人を避けるように、こんな洞窟の中で暮らしている君にとって、私の面倒を見るの
は、苦痛ではないのか?」
「……あなたには、見えませんから」
「何……?」
 私は聞き返した。だが、彼女はそれに答えず、
「また野草を採って来ます。洞窟の外まで出かけなければなりませんから、戻るの
は遅くなると思います」
「ああ……」
 私は頷いた。
「わかった。待っているよ……」
 彼女を待つとき、私はいつも少年時代のことを思い出していた。幼い頃に冒険者
の父親を亡くした私は、それからずっと、占い師をしていた母親と二人暮らしだっ
た。母親はいつも私一人を残して仕事に出かけた。私は家で、じっと母親の帰りを
待つだけだった。
 私は何年も前に死んだ母親のことを想いながら、再び眠りに落ちていた。


 血の匂いだった。私はそれを感じて、目を覚ました。
「どうした!」
 私は叫んでいた。彼女が傷ついているのがわかったからだ。
「大したことはありません。この前のあなたの怪我と比べたら」
 彼女はそう言って、笑ったようだった。確かに、彼女の気には、いささかの衰え
も感じられない。だが、それにしても……。
「ひどい血だ。匂いでわかる。待っていてくれ。この私にも、治癒の術の心得くら
いはあるんだ」
 私は藁を敷いた寝床から体を起こし、彼女に近づいていこうとした。目は見えな
くても、すぐそばにいることはわかる。
「待って!」
 彼女は、悲鳴のように叫んだ。「お願い、近寄らないで!」
「どうして?」
 私は驚いて立ち止まった。「一体、どうしたって言うんだ……?」
「私は大丈夫。だからお願い、私を信じてくれるなら……」
 私には、わけが分からなかった。だが、彼女の希望は尊重するしかなかった。
 彼女は、まるで他人との接触を恐れているかのようだった。何が原因なのかはわ
からないが、ともかくそれは、異常なほどの恐怖だった。しかし、彼女ほどの力を
持った魔道士が、何故……?
 あるいは彼女は、その力が強大すぎるが故に、他人を傷つけることを恐れている
のかも知れなかった。


 その夜。いや、夜だったのか。ともかく、私が眠ろうとして横になっているとき
に、彼女が声をかけてきた。
「人を殺したって言いましたよね? そうしなければ、自分が殺されていたからと」
「ああ……」
 私は、頷いた。
「私も今日、人を殺しました。三人も……」
「え……」
 私は驚いて、彼女のほうを向いた。まだ目は見えていないままだったが。
「彼らは、《愚者の石》を手に入れようとやって来た冒険者でした。どこからここ
に《愚者の石》があるなどという風雪が流れたのかわかりませんが、彼らがその噂
を信じてここに来たということは、いずれ再び別の冒険者たちもまた、ここに来る
かも知れないということを意味しています。そろそろ、潮時かもしれません。私は
これ以上、人間と争いたくない」
 私は愕然とした。この洞窟に《愚者の石》がある。それはまさしく、私が二人の
冒険者をこの洞窟へ誘うために吐いた嘘だった。
 彼らがここに《愚者の石》があるという話を他の人間たちにも明かしてしまって
いたのか? 私と二人の冒険者たちが戻らないので、我々が何らかの理由で探索に
失敗したものだと思い、二人の話を聞いていた人間が、《愚者の石》を自分のもの
にしようと乗り込んで来たというわけか?
「あのとき、あなたを助けたのは、間違いではなかったと思っています。でも、あ
なた以外の人間に姿を見られたのは、私の不注意でした。私はやはり、人間たちの
前に姿を現すべきではなかったのです」
「…………」
 私には何も言うことはできなかった。不注意だったのは、私のほうだ。全ては、
私の嘘から始まったことなのだ。
「私は次の新月の夜、この洞窟を去ります。本当は今すぐにでもここを離れたいの
ですが、新月の夜、《愚者の石》の力がもっとも弱まったときでなくては、魔界の
扉を開くことによって生じる危険を抑えられないのです」
「《愚者の石》!」
 私は思わず叫んでいた。「《愚者の石》が、本当にここにあるのか!」
「そう。ここにあります。私はそれを守護するために、魔界からやって来ました」
「魔界からだって? すると君は、魔界の人間なのか?」
 たずねる私に、彼女は、ふっと微笑んだようだった。
 寂しげに。
「魔界には、人間はいません。人間に似た姿をしたものさえも。私の姿は、人間た
ちには恐怖と嫌悪しか与えません。あなたも、私の本当の姿を知れば……」
「そんな……、まさか……」
 私は、首を振った。
 魔界。人ならぬものたちが住む世界。私の憧れの地。そこから来たという彼女。
人に似た姿すらもたぬもの……。
「《愚者の石》は、本来この世界にあってはならないものです。だが、いかなる造
物主の悪戯か、それは確かに存在しています。理学が支配するこの世界において、
魔界への扉を開く鍵などは、無から有を生み出すがごとく矛盾した存在なのですが」
「そう、《愚者の石》は確かに存在する。そして、君の故郷である魔界も。私は魔
界のことを知りたかった。その知識と力を手に入れたかった。そのために、《愚者
の石》を我がものにすることを望んだ」
「この世界の人間が、《愚者の石》の力で魔界への扉を開くことは、私たち魔界に
住むものに大きな危険をもたらします。あなたがたが魔界の力に触れるということ
は、同時に、私たちがこの世界を支配する力に触れるということでもあるのです。
あなたがたが魔界の力を畏怖するように、私たちはこの世界の力を恐れています。
だから、私はこの世界へ遣わされました。人間たちが不用意に《愚者の石》に触れ
ることのないよう、監視するために。必要であれば、実力をもってそれを阻止する
ために」
「《愚者の石》は、この世界の人間が触れるべきものではないと言うのか?」
「その通りです」
 彼女は答えた。
 何ということだ……。私はその《愚者の石》を追い求めるために、ついには人ま
で殺したというのに。
「あなたとも、これでお別れです。あなたと出会えて本当によかった。この世界の
人間と話をできたのは、私にとって貴重な経験でした。明日の朝、あなたを洞窟の
外の街道まで送っていきます。そこでしばらく待っていれば、誰かが通りかかって
助けてくれることでしょう。あなたの目は大分よくなっています。もう二、三日も
すれば、包帯もとれることでしょう。私はあなたと別れたあと、魔界へ帰る前にこ
の洞窟に術をかけ、人々の目から隠します。力のある魔術師ならば、すぐに封印に
気づいてしまうでしょうが、でもそれは仕方のないことです。この世界には、まだ
いくつもの《愚者の石》が眠っています。それらを守ることが、これからの私の使
命になるでしょう」
「ここにある《愚者の石》を、他の場所へ隠すことはできないのか?」
「私が持って運んでですか?」
 彼女は、くすくすと笑いながら言った。それは、私がいつも聞いているのと同じ、
あの少女のようなあどけなさの残る声だった。
「洞窟の外では、私の姿は目立ちすぎます。それに、外に持ち出して人目に触れる
危険を冒すくらいなら、この洞窟の奥深くに隠しておいたままのほうがいい」
「そんなものだろうか……」
「では、おやすみなさい。明日は、本当にお別れです」
 彼女はそう言って、会話を打ち切ろうとした。
「待ってくれ」
 私は言った。「君が魔界へ帰るのは、次の新月の晩だろう? それまで、ここに
一緒に居させてくれないか」
 数日間を共に過ごして、私にとっての彼女の存在は、とても大きなものになって
いた。それは、彼女が人間ではないとわかった今でも、変わらなかった。
 彼女は、しばらくためらってから、答えた。
「……あなたが、そうしたいと言うのなら」


 私は、彼女と別れる最後の日まで目の包帯をとらなかった。彼女の姿を見てみた
いという気持ちもあったが、私の聞いた声と、私に触れた冷たい、だが心地の良い
手こそが、彼女の本当の姿だと私は思い直した。
 彼女は私の左肩の刻印を消してくれた。それはギルドのメンバーたちが《愚者の
石》の力で得た魔界の術によって焼き付けたものだったが、彼女にとってはそれを
封じるなどたやすいことだった。
 私は彼女から魔界に関する興味深い話をいくつも聞いた。それは私の想像を掻き
立てるものであったが、その内容については他言してはならないと釘をさされた。
 彼女と私は、共に過ごした最後の日々、家族であり、そして、恋人同士でもあっ
た。私は彼女の手にしか触れることができなかったが、それでも私は、彼女の全て
に接することができたと信じている。
 私たちの別れに涙はなかった。それは私たちには似つかわしいものではなかった
から。私たちにとっての別れは、何かを失うことではなく、それぞれが新しい何か
を得るためのものであったから。
 私は、洞窟を出たところで目の包帯をとった。
 十数日ぶりに開いた私の目には、新月さえも眩しく感じられた。
 彼女が洞窟の中から私を見送っているのがわかった。しかし、私は振り返らずに、
まっすぐ前を見て、その場を立ち去った。


 告白しよう。私はその翌朝、すぐにあの洞窟へと戻った。彼女が施した封印も、
私を欺くことはできなかった。私はずっと目を閉じていたから。彼女の残した気配
を、彼女の心だけを感じとろうとしていたから。
 私は洞窟の入口を探し当てると、ためらうことなく奥へ進んだ。《愚者の石》は、
確かにそこにあった。
 私はそれを自分のものにした。他の誰かの手に渡すくらいなら、そのほうがいい
と考えたのだ。
 そして、《愚者の石》を手に入れた私の心に、ある一つの考えが宿った。


 私はいずれ《愚者の石》の力で、魔界への扉を開くつもりだ。それは彼女への裏
切りになるのかも知れないが、私はどうしても魔界を訪ね、そして、もう一度彼女
に会いたかった。
 彼女の声を聞き、彼女の手に触れ、彼女の心を感じてみたかった。


 ……彼女は私を許してくれるだろうか?




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