『僕の中で彼女の時間は止まっている』

芹沢 軍鶏




「あーあ、猫も杓子もアスカ、アスカか」
「みんな平和なもんや。写真にあの性格はあらへんからな」

 出会いからして最悪だった。
 いきなりくらった平手打ち。
 その瞬間に、俺たちの間での、彼女の絶対的評価は定まった。
 ――イヤな女。
 傲慢で自己中心的でエリート意識の塊の。
 それが彼女――エヴァンゲリオン弐号機パイロット、惣流・アスカ・ラングレー
だった。

     *     *     *

「おう、なんだ相田か」
「あ、先輩すいません。暗室借りてます」

 写真部の部長は、俺のボーイスカウト時代の先輩だった。写真部員でもない俺が、
学校の暗室を使わせてもらっているのは、全くのところ先輩の好意によるものだっ
た。とはいえ俺も、まるっきりタダで使わせてもらうのは申しわけないと思って、
それなりの対価は支払っている。
 つまり――惣流アスカの生写真だ。

「相変わらずかわいく撮れてるじゃんか。モデルもいいけど、腕がいいんだな」
「またまた、先輩もおっしゃいますね」
「いや、マジで。これ、また1枚30円で売るの?」
「ええ。あ、写真部の人に渡す分は、また別に引き伸ばして用意しますので」
「おう。いつも悪いな」
「いえいえ、とんでもないです」
「でも、あれだな。どうせなら、こんな隠し撮りみたいんじゃなくてさ、モデル本
人の承諾をもらって、もっときちんと撮ったらいいのに。おまえ、この子と同じク
ラスなんだろ? 何とか頼めないの?」
「いや、それはあんまり……」
「なんで? ちゃんと撮れば、一枚100円でも売れると思うぜ」
「それはどうですかね。こういう自然な表情をとらえているところが、売れている
理由だと思うんですけど」
「そんなもんかなぁ……」

 惣流に写真のモデルになってくれと頼むなんて、とんでもない話だった。
 あの傲慢な高ビー女のことだ。売り上げの七割か八割くらいモデル料として寄越
せとか言ってくるに決まってる。
 ……それとも、また殴られて終わりかな?

     *     *     *

新しいエヴァンゲリオンが、ネルフ本部に到着した。
 米国で建造された参号機。量産型制式モデルとしては、惣流の乗る弐号機に続く
二体めのエヴァだ。
 そして、そのパイロットに選ばれたのは……

「――シンジか。
 ここから出ていくって本当か。
 本当なんだな。
 でも、何故だよ。
 何故、今さら逃げるんだよ。
 俺はおまえに憧れてたんだ。
 羨ましいよ。俺たちとは違うんだからな。
 畜生、トウジまでエヴァに乗れるっていうのに、俺は……」

『この電話は盗聴されています。機密保持のため、回線を切らせていただきました。
ご協力を感謝いたします』
 ツーッ、ツーッ、ツーッ……

 何故、あのとき俺はシンジを責めてしまったのか。
 あいつのせいじゃないってことは、俺にもわかっていたのに。
 シンジは乗りたくてエヴァに乗っているわけじゃない。
 トウジも乗りたくて乗ったわけじゃない。
 そしてトウジは左足を失い。
 シンジは心に傷を負った。
 それはわかっていた。
 なのに……。

 俺は、どうしてもエヴァンゲリオンに乗りたかったんだ。

     *     *     *

 使徒と呼ばれる敵との戦いは、日ごとに激しさを増している。
 クラスメートや知り合いは次々と疎開していく。
 先輩の写真部部長も、昨日この街を離れた。
 でも俺は、一人で写真部の暗室に通い続けている。
 そして、写真を撮り続けている。
 碇を。綾波を。惣流を。そして彼らが乗ったエヴァンゲリオンを。
 俺は、撮り続けている。

     *     *     *

 綾波レイが死んだ。
 第3新東京市は、消滅した。
 それでも俺は、この場所に残りたかったけれど。
 碇と、惣流の戦いを、最後まで見届けたかったけれど。
 でもそれは、部外者の俺に許されることではなかった。

     *     *     *

 疎開先の街は、あの第3新東京市での戦いが嘘のように、平和な場所だった。
 そこでの生活は、まるで絵に描いたように穏やかな日常だった。
 でも俺は知っている。
 絵の中に描かれたものは、決して本物ではないのだ。
 限りなく本物に近い姿を写しているとしても、それは本物ではないのだ。

     *     *     *

 委員長から電話があった。
 惣流がネルフ本部の病院に入院している、という。
 委員長の家族は、旧第3新東京市から疎開する最後のグループに属していた。
 委員長は、ミサトさんの頼みで、ペットのペンギンを預かるためにマンションを
訪ねたときに、惣流の入院を知らされたのだった。
 実のところ、あの綾波レイが死んだ戦いの以前から、惣流の様子はおかしかった
のだと委員長は言った。

「……それで、碇はどうしてるんだよ?」
「どうしてるって……?」
「惣流がそんな状態で、碇は、放っといているのか?」
「碇君は、ずっと家に帰ってないんだって。だから、たぶんアスカのことも知らな
いと思う」
「帰ってない?」
「綾波さんのことがショックだったのよ。だから……」
「そんな……、それじゃあ、誰が惣流のそばにいてやるんだよ!」

 俺は思わず怒鳴っていた。
 自分の感情を抑えることができなかった。
 そんなの、いつもの俺らしくない姿だってことは、自分自身わかっていたけれど。

「碇が綾波を好きだったってことは俺も感づいていた。でも、惣流は、碇のことが
好きだったんじゃないのか?」
「…………、それは……」
「……行こう」
「え?」
「明日の朝一番に……いや、今からならまだ夜行列車に間に合う。それに飛び乗っ
て、すぐにそっちに帰る」
「帰るって……」
「惣流に、会いに行くんだよ!」
「でも、だって、アスカは面会謝絶だって……」
「そんなの、ミサトさんに頼めば何とでもなるだろう! いや、ミサトさんなら、
絶対なんとかしてくれるよ! だから……!」

     *     *     *

 委員長とは新箱根湯本の駅で待ち合わせをした。
 駅前の様子は、俺が疎開する前と少しも変わっていなかった。
 第3新東京市が消えてしまう前とも全く変わっていなかったし、実のところ、あ
のセカンドインパクトが起きる以前から、ここは今と変わらない姿だった。
 俺が肩に下げているカメラケースを見て、委員長はあきれたように言った。

「何よ、カメラなんか持ってきたの?」
「これを持ってないと落ち着かないんだよ。それに、せっかく初めてネルフの本部
に入れるんだ。記念に写真の一枚でもと思ってさ」

 俺が答えて言うと、委員長は「相田らしいわね」と笑ってくれた。
 何だか、委員長とのこういう会話が、とても懐かしいものに感じられた。
 そう、俺たちには、こういう日常もあったのだ。
 今では、遠い昔のことのようだけど。

     *     *     *

惣流が入院しているのは、ネルフ本部の病院でも特別病棟と呼ばれる場所だった。
ミサトさんは、俺と委員長の二人だけを、惣流の病室へ入れてくれた。
 自分には、惣流にかけてやる言葉が見つからないから。
 ミサトさんは寂しげにそう言って、廊下に残った。

 ベッドに横たわった惣流は、まるで別人のようだった。
 ただ天井の蛍光燈の光を照り返しているだけの瞳。
 つややかさを失った肌。
 乾ききって、ひび割れた唇。
 委員長は、言葉を失っている。
 そして、俺は……

「何をしてるの!」

 委員長が叫んだ。
 俺はケースからカメラを取り出していた。
 惣流に向けて、シャッターを切る。
 フラッシュが光る。

「やめて!」

 止めようとする委員長を振り払って、俺はシャッターを切り続けた。
 何枚も何枚も、角度を変えて撮り続けた。
 そのたびに、フラッシュが光り、惣流の無残な姿を照らし出す。
 委員長の悲鳴を聞きつけて、ミサトさんが病室に飛び込んで来る。
 だが、その場に凍りついてしまったかのように、俺を止めることはできないでい
る。
 自分が何をしているのか、俺自身にもわかっていなかった。
 けれど……俺には、惣流を撮りたいという思いだけがあった。
 そう、恐らくは。
 俺は、ずっと同じ思いでいたのだ。

 羨ましかった。
 憧れだった。
 エヴァのパイロット。
 ……でも、俺にとっての彼女は、それだけではなかった。

 たとえば、ここが違う世界で。
 ずっと平和な日常が続いていて。
 そこに、ごく普通の一人の転校生として、彼女が現れていたとしても。
 それでも俺は、彼女を撮っていただろう。
 彼女の姿を、追いかけていただろう。

 俺が知っている彼女は、エヴァンゲリオン弐号機のパイロット。
 傲慢で自己中心的でエリート意識の塊のイヤな女。
 でも、俺の写真の中には、違う彼女の姿も写っている。
 友達と笑い合っていたり、あるいは喧嘩していたり、一人、物思いに耽っていた
り、ときには寂しげな表情を見せていたり。
 写真に写ったものの全てが真実だなんて言うつもりはない。
 でも、俺にとっては、それこそが彼女の本当の姿なのだ。

 委員長の泣きだす声が聞こえた。
 俺も泣いていた。
 涙で曇った目には、ほとんど何も見えていなかったけれど、それでも俺はシャッ
ターを切り続けた。
 カメラが、俺の目の代わりに全てを記憶してくれるはずだった。
 フィルムがなくなって、新しいのと入れ替えて、また撮り続けた。
 いつまでも、俺は撮り続けた。
 それが俺の偽りのない思いだった。

 ――この思いを、彼女に伝えたかった。






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