唇を手で押さえながら、マリアベルは欠伸を口の中でかみ殺した。
 窓から差し込むポカポカした日差しは眠気を誘うのに効果的だ。欠伸を我慢しようと思っても、意識が途切れて眠りの国に飛び立ってしまいそうなほど際どい状況だ。だが、マリアベルは必死で眠気に耐えていた。
「……故に先の大戦は、我が王国の未来を切り開くための……だが、帝国は大陸を支配せんと王国を」
 クルーガーが熱弁を振るっているが、マリアベルは話を真面目に聞いていなかった。窓から庭でも眺めていた方が、クルーガーのつまらない講義を聴くより有意義な気もするが、そんなことをしていると文句を言われるのでマリアベルは講義の内容を出来るだけ覚えることに集中していた。
(まったく、クルーガーの授業はつまらないのじゃ)
 勉強をするのは好きだが、実の所マリアベルは講義を受けるのは嫌いだった。教育係のクルーガーは騎士なので、物事を『正義』と『悪』に二つに分けて話を進める。階級は廃れつつあったが、今なお騎士らしさにこだわるクルーガーの講義は眠気を誘うほどつまらない。眠気を耐えているときに更に眠気を誘うような講義を聴くのは一種の苦行とも言えるだろう。
「……理念なき侵略者達は滅び……正義を……王国は大戦に勝利し……」
 意識の大半は眠気を耐えることに割いているが、マリアベルの耳には一応話が届いている。先ほどからクルーガーが語る『大戦』は大陸を巻き込んだ、有史以来最大規模の戦争だ。初期には、それぞれの国がそれぞれの『正義』を主張していたはずだが、中期には完全に理念は失われ、泥沼の戦争に突入していた。破壊のための破壊、殺戮のための殺戮が繰り返され、魔法により世界のバランスは崩れ大陸は黄昏を迎えていたと言っても良い。
そのような惨事を生み出したのが『正義』であったのだから、マリアベルはクルーガーの言う『正義』の行いをまったく信じていなかったし、興味もなかった。
(『正義』を振りかざして虐殺でも行える奴じゃな)
 欠伸をかみ殺しながらマリアベルはそんなことを考えた。
 
 
 空には雲一つない。見上げた空は澄み切っていて、どこまでも続いているようだった。太陽は真南より東寄りに位置していて、お昼時と言うには少し早い。
 そんな空をアッシュはポケ〜と惚けたように眺めていた。
実の所、彼は暇だった。教育係などと言っても、実質教えているのはクルーガーと無表情なメイドの二人だけで出る幕すらなかった。
「良い天気だなぁ〜」
 そう言いながら再び空を眺めているアッシュに小さな影が忍び寄ってきていた。
 影は足を振り上げ、
 ゴキィ
 首が吹き飛んでしまいそうな衝撃がアッシュに襲いかかった。
 アッシュは「ギャヒィィ!」と意味不明の叫びをあげて緑の芝生の上をのたうち回った。
のたうつ勢いは目に見えて弱まり、やがてアッシュは糸の切れた操り人形のように動かなくなった。
「何が良い天気じゃ! 何もしとらんくせに」
 動かなくなった所を見計らって黒い影……マリアベルは高飛車な態度で言い放った。チェックのミニスカートを履き、毛糸で編んだセーターを着ている。
「何するんですかっ? あんなことされたら普通は死にますよ!」
「ふん! 主人が勉学に励んでいるというのにゴロゴロしている給料泥棒が何を言うか! 恥を知れ!」
 アッシュの必死の言葉はマリアベルの言葉にあっさりと撃墜された。どう見たってマリアベルの方が悪いのだが、
(もしかして、自分は給料泥棒かも)
と思ってしまった時点で彼は負けていた。押しに弱い男である。
「それに郷里に帰れと、わらわは言ったはずじゃが?」
 マリアベルは威圧するように睨み付けつもりだったが、上目遣いのその姿はおねだりをする子犬のようで妙に可愛らしかった。
「いえね。一月分の給料も支度金も貰いましたし、帰れないじゃないですか」
 言うことも、やることも情けなかった。
「それでゴロゴロしておった訳か? 情けない奴じゃ!」
 マリアベルはアッシュの隣に腰を下ろす。立って怒鳴り散らすのが馬鹿らしかったからだ。そうでなくてもクルーガーのつまらない講義で疲れているので無駄な体力を使いたくなかった。
「で、何の勉強を教えることが出来るのじゃ? 神学か? 哲学か? 算術か?」
「はは、どれも自信がないんですよ。マリアベル様の方が良く知っていると思うんですけどね」
 こめかみを人差し指でかくアッシュを見て、マリアベルの顔は見事にひきつった。
(本気じゃ、こ奴本気で言っておる)
 ダメダメっぷりを見せつけられて、マリアベルは諦めにも近い気持ちを抱いてしまった。
「まぁ、話し相手くらいにはなれると思います」
「お主……それでは本当に給料泥棒じゃぞ」
 その通りである。
「それにお主は……ふぁ〜」
 マリアベルは途中で欠伸をし、涙の浮かんだ目をこする。その動作は可愛らしく、少女であることが強調されているようだ。
「眠いのでしたら、膝を貸しますよ。マリアベル様」
 アッシュは正座をして、ポンポンを自分の太股を軽くたたいた。
 その意味を理解するまで少しだけ時間が掛かったが、
「……どうしてもと言うのなら、膝枕をさせてやっても良いのじゃ」
 そのような誘いを受けたことのないマリアベルは顔を赤らめたままボソボソと呟いた。 出会ったばかりの青年が膝枕を提案すること自体変なのだが、不思議とマリアベルは変だとは感じなかった。ただ、照れて顔を赤らめるばかりだ。
「はい……僕に膝枕をさせて下さい」
「そ、そこまで言うのなら、膝枕をさせてやるのじゃ! か、感謝するのじゃぞ!」
 胸を反らしてマリアベルは言い放ち、アッシュの太股に頭を預けた。
「はい、ありがとうございます」
 アッシュは華奢な体つきをしているが、太股はそこそこ柔らかい。その上朝から日向ぼっこをしていたせいか温かく、マリアベルは奇妙な心地よさを感じた。
「どうですか?」
 長い金髪を撫でながら問いかけるアッシュに「悪くないのじゃ」と言った後、マリアベルは無防備な姿をさらして眠った。
 
 
「……本当に役に立たないやつじゃな。そうは思わぬか? ポッター?」
 天蓋の付いたベッドに寝転びながら、マリアベルはポッターに話しかけた。マリアベルは優しい笑顔を浮かべて一足先に丸くなって眠っているポッターをなでた。ポッターはゴロゴロとのどを鳴らし、うっとりとした表情を浮かべる。
「……アッシュ」
 教育係として雇われたにも関わらず何も教えることが出来ない青年の名前を口にする。何も出来ないが、卑屈になるわけでもなく、春の木漏れ日のような笑顔を浮かべて生きている。相当な痛い目にも遭わせているが、彼は優しかった。その優しさが好意を向けてくれているようでマリアベルは嬉しかった。
 初めて向けられた好意。
 孤独な心を温めてくれる心地よさ。
「期待するだけ無駄じゃ」
 けれど、その心地よさは失われることを知っている。
 心を占めていた心地よさが大きければ大きいほど、失われたとき孤独は耐えきれないほどになってしまうから、マリアベルは小さな期待と好意を押し殺して、一粒だけ涙を流した。
 

(つづく)


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