目を灼く閃光。
 閃光に飲み込まれていく仲間達。
 絶叫は意味を成さず、耳にこびり付き。
 世界に向けられた呪詛は私の心を抉る。
 手を伸ばせ!
 『彼女』の危機に理性が叫ぶ。
 手を伸ばすな!
 生き残ろうとする本能が叫ぶ。
 私は『彼女』のことが命よりも大切だと思っていた。
 けれど、私は手を伸ばすことを躊躇った。
 躊躇ったのだ、私は自分の命惜しさに。
 閃光に飲み込まれる寸前に『彼女』が言葉を紡いだ。
 そして、閃光は私を飲み込んだ。
 
 閃光に飲み込まれた『彼女』が何を……言っていたのか思い出せなかった。
 
 
 その影は音一つ立てずにマリアベルの部屋に侵入した。
暗闇だというのに淀みはなく、訓練された暗殺者のように目的の元にたどり着いた。
 天蓋のある豪華なベッドの上には、マリアベルのいない間に戻ってきた猫のポッターが眠っていた。
 影はポッターの首を押さえつけ、目を覚まして抵抗される前にナイフを突き立てた。溢れ出る血に満足したのか影は侵入した時と同様に部屋から廊下に出ていった。
 
 猫は気紛れな動物だ。構おうとすれば逃げる、構わなければすり寄ってくる。群を作ろうとする犬と違い、猫が飼い主に懐くことはない。
 それが猫の持つ性質なのだから仕方がないが、マリアベルが目を覚ます前にポッターはいなくなってしまう。寂しさを際だたせるだけマリアベルには辛いことだった。
 
 その部屋の天井には幾つかのシミが浮かんでいた。
 目を覚ましたマリアベルはそんな天井を眺めて首を傾げた。しかも掛けられているのは、薄っぺらい毛布だった。その上寝ているのも弾力のないベッドだ。
(ここはどこじゃ?)
ベッドが固かったせいで体の節々が痛んだが、マリアベルは上半身を起こしてしょぼつく目を擦った。いや、擦ろうとして手が止まった。
 高価な寝間着からのびた可愛らしい手は紛れもなく自分の手だと分かったが、手首を掴んでいる白く……なんとなく色気のある……に心当たりがなかった。
 マリアベルはギッ、ギッと錆びた扉のような動作で手首を掴んでいる手から視線を徐々にスライドさせて、絶句した。
 手首を掴んでいるのは見知ったアッシュだ。手首を握ったまま、ベッドの端に頭だけをを乗せて、寝息を立てて眠っている。
「う……ん……」
 呻きながらアッシュは目を覚まし、マリアベルの顔を睨み付けた。見たではなく、本当に睨み付けたと言った方が的確だと思えるような目つきの悪さだ。
「……あ、ア……クタ」
(誰じゃそれは?)
 礼儀知らずの鼻っ柱に正義の一撃を打ち込もうとして拳を握りしめた瞬間、思いも寄らない力で手首が引っ張られ、マリアベルはアッシュに抱きしめられた。
「……アクタ……僕は……」
 泣いているのか判らなかったが、マリアベルにとってアッシュに抱きしめられるのは怖くなるほど心地よかった。
(……駄目じゃ、これ以上関わっては)
 意味もなく沸きあがる恐怖からマリアベルが突き放そうとした瞬間、アッシュはマリアベルの両肩を掴んで逆に突き放した。マリアベルは唐突に失われた心地よさに寂しさを覚えたが、安堵も大きかった。
「……あれ? マリアベル様?」
 震えていた先ほどまでとは違い、お気楽な普段のアッシュがそこにはいた。しかも、寝ぼけていて、何も覚えていないらしい。
「何してるんです?」
 バキィ
 マリアベルが鼻っ柱に叩き込んだ拳によって、アッシュは見事に仰け反り、飛び散った血液が天井に新しいシミを作った。
「……この愚か者めッ! 貴様なんぞ、一人でメソメソ泣いておれッ!」
 ついでに仰け反るアッシュの鳩尾に蹴りを入れて、マリアベルは部屋から飛び出した。
 
 
 ブラウニング家の広い庭に薄い靄がかかっていた。
 朝と夜の温度差が大きい季節では珍しくもないことだが、靄に太陽の光が乱反射することで庭全体が薄く発光しているようにも見える。庭が発光することなど常識的に考えてないことなのだが、それを楽しむ余裕が……先ほどまで床板に張り付いて呻いていた……アッシュにもあった。
「……君かね」   
 2メートルを超えてしまっているのだから巨躯と言ってしまっても良いだろう。体が大きければ鈍重に見えるのが常だが、それを感じさせないのは鍛え上げられた体から放たれる気配が明らかに常人と違っているからだ。
「君は何をしているのだね」
 ブリュンヒルデとの会話で現れていた嫌らしさを全く感じさせずにクルーガーは静かに言葉を紡いだ。
「……何もしていません。強いて言えば風景を見て楽しんでいると言ったところです。貴方は何をしているんですか?」
 クルーガーは手にした長大な剣を軽く持ち上げて、剣の練習をしていたことを示す。今、なお殺し合いの主役は剣だ。模造された魔法は誰にでも使えるが、本物の魔法に著しく劣っている。
「『大戦』が終わっても……貴方は剣を手放さないんですね」
 嫌悪とは言わないまでも、やや咎めるような口調でアッシュが。
「『大戦』が終わったからこそ、より強い力を望むのかも知れないが」
 揺るぎない感情を込めてクルーガーが。
「争いは憎しみを……生み出すだけだというのにですか?」
「争いが憎しみを生み出すというのならば、それすらも斬り捨ててみせる。正義とは時として力を要求するものだ。そして、力をもって正義と平和を守るのが騎士の勤めなのだ」
 平行線である。ただ、どちらも己の視点で物事を見ていることを考えれば、二人はよく似ていた。
「それが正義ですか?」
 アッシュが一歩踏み出した瞬間
「いやぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 マリアベルの叫び声が屋敷中に響いた。 
 
 
 部屋に漂っている血の匂いは濃密と言うには足りない。
 マリアベルは血まみれになったポッターを抱きしめながらベッドの上で震えていた。凝固していないためにマリアベルの着ている寝間着に血が染みこんでいた。
「……ポッター、返事をするのじゃ。ポッター」
 重傷を負った、もしくは死にかけているポッターを抱きしめながら震えているマリアベルを見て、駆けつけたばかりのアッシュは安堵に近い気持ちを抱いた。
「……マリアベル様」
 涙でグシャグシャになったマリアベルの顔を見て沸いてきたのは同情だった。マリアベルにとってポッターは唯一の親友であったのだろう。
(なんとかしてあげたいですよね)
 そう考えた瞬間、ドクンと心臓の鼓動が強くなるのをアッシュは感じた。沸きあがってくるのは形容しがたい高揚感、そして、髪の毛の先にまで末端にまで力が染み渡るような感覚だった。高揚感は普段浮かべている微笑みを消し去り、アッシュはゆっくりと足を踏み出した。
 ポッターは死にかけていた。
 大量出血のために小刻みに痙攣をしているポッターを横目に、アッシュはマリアベルに場違いなほど優しく声を掛けた。
「息を整えて」
「何を言っておるのじゃ! アッシュっ!」
 今まで感じたことのない高揚感の中でアッシュは……必要がないにも関わらず……意識を集中させた。
 世界の全てが変化したような感覚。
 それを感じたのと同時に淡い光を放つ緑色の粒子が二人と一匹の周りを浮遊し始めた。
 それは模倣された魔法ではなく、受け継がれてきた本当の魔法だった。
「……治癒の魔法は攻撃よりも遙かに」
 治癒の魔法は他の魔法に比べて圧倒的に難しいことは魔導師ならば誰でも知っている事実だった。
「これは何じゃ?」
 陶酔感はマリアベルを巻き込み、緑色の粒子は魔法として……世界の在り方を書き換える力として……徐々に影響を及ぼし始めた。
 圧倒的とも言える陶酔感の中に存在する異質な感覚。
 それはマリアベルの精神に徐々に浸食した。その感覚はおぞましくもあり、浅い眠りの中にいるような不思議な感覚を与えていた。
 ポッターの傷がゆっくりと塞がる。毛細血管、筋肉、皮膚、傷つけられた肉体が修復される。それは時間にして数十秒程度だったが、マリアベルにとっては数時間のようにも感じられた。
「うぁっ!」
 ポッターの傷が完全に塞がると唐突に陶酔感が遮断され、マリアベルはその場で喘いだ。
「何をしたのじゃ?」
 アッシュが何をしたのかは判っていた。魔法を……それも、限られた一族にしか使えない本物の魔法を……アッシュが使ったのだ。
「治癒の魔法を使いました」
 やや引きつった微笑みを浮かべながらアッシュは答えた。顔色の悪さを見れば、治癒の魔法がアッシュに相当な負担を強いたのは予想がついたが、マリアベルは興奮しポッターを抱きしめた。
「なら……ポッターは助かるのじゃな?」
 マリアベルの問いに対してアッシュは顔を横に振った。魔法は万能の力ではない。治癒の魔法は治癒にしか過ぎない。それはポッターを健康体に戻すことができないことを意味していた。
「せめて……看取ってあげて下さい」
 結局、アッシュがしたことは死を先に延ばした、もしくは限りなく低い可能性を押しつけただけなのだ。
「……分かったのじゃ」
 マリアベルは小さく呟き、アッシュは部屋から出た。
 
 マリアベルの部屋から出たアッシュは壁にもたれ掛かり、ズルズルと崩れ落ちた。顔色は蒼白になっていたが笑みだけは崩していない。
「はははっ……僕は何をしているんでしょうね。アクタとマリアベル様を重ねて、下らない同情で苦しみを押しつけて」
 右手で顔を覆い、そこから流れるのは一筋の涙だ。
「今日は泣いているんですか?」
 神出鬼没のメイを指の隙間から眺め、アッシュは小さく息を吐いた。
「泣いちゃ駄目ですか?」
「少なくとも……今は。そして、マリアベル様がポッターの看病をしている間は」
 アッシュは力無く立ち上がり、歩き始めた。
「……マリアベル様のことは頼みます」
 背中に投げかけられた言葉がアッシュには痛かった。 
 

(つづく)


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