涙を堪えて噛みしめた唇から血が滲み、ポッターの上に置いた手が震えていた。
 死んでしまった。
 何一つ、苦痛を和らげるようなことがマリアベルにはできなかった。少しずつ、死に近づいていくポッターを見ているだけで、何一つできなかった。
「……ポッター」
 抱き上げたポッターの体は硬直し、寝ていた形のまま固まっていた。
 手から伝わる感触に温もりはない。
 死んでいるのだから……。
 偽ることのできない、分かり易すぎる現実。
「ポッター」
 部屋に戻っていたら、ポッターは死ななかったのではないか?
 助けられたのではないだろうか?
 そんなことがぐるぐると頭の中を回る。
(どうして、わらわの大切なモノは)
 大切なモノはいつでも、指の間からこぼれ落ちていく。
 喜びは刹那……失ったことの痛みは消えることなく心を苛み、失うことへの恐怖は心を縛り続ける。
 求めても、求めても、手に入った瞬間に失われてしまうから、マリアベルは求めることを止めた。少なくとも、そう思っていた。
 猫……ポッターが側にいたことで諦め切れていたはずだった。
 だが、諦めて切れていなかった。
 目の前に現れた青年に心を許し、寂しさを埋めて貰おうとした結果が……少なくともマリアベルはそう感じている……ポッターの死という形で目の前に存在するだけだった。
(……わらわのせいじゃ)
 夢遊病者のようにマリアベルはポッターの亡骸を抱えたまま部屋を出て行った。
 
 庭の土は硬いと言うほどではない。だが、素手で掘るには無理がある。
 緑色には届かない芝の上にポッターを置き、マリアベルは素手で土を掘り返していた。
 指先が痛みを訴えていたが、マリアベルは土を掘り返し続けた。
 大きめの石ころを無理矢理に抉り出そうとして、爪が割れ血が出たがマリアベルは虚ろな眼差しのまま土を掘り続けた。
 ポッターの亡骸を穴に置いて、土をかけ直す。
 血と土に塗れた指先はとっくに限界を迎えている。
 割れた爪の間から血が流れ、土が指にこびり付く。
(……これは罰じゃ)
 痛みに対して、そうマリアベルは考えてしまう。
「何をしているんですか! マリアベル様!」
 そんな慌てた声と共に手首を掴まれていた。
 指先から流れ出た血がマリアベルの手首を掴んでいるアッシュの手に伝う。
「……離すのじゃ」
 声が震えていた。
 マリアベルにとってアッシュは大切だと思える人間だった。
 自分の生活に入り込み、一時期は嫌おうとしていたが、アッシュは面白い人間だった。打算も、卑屈さも感じさせずに、自分を大切にしてくれる教育係……大切な人だ。
 そして、大切なモノは失われてしまう。
(わらわは大切なモノを守ることはできないのじゃ)
 守ることができないのなら、いっそのこと手放してしまおう。
(ポッターすら守れなかったわらわは……縋ってはいけないのじゃ)
 優しさを求めて、拒絶して、そこに残る痛みが罰なのだと心のどこかで考えて、差し出された腕をマリアベルははね除けた。
「……調子に乗るでない、アッシュ」
 差し出された手を掴むのが怖くて。
「お主は所詮、わらわに取り入ろうとしているのであろう?」
 拒絶は簡単だ。思ってもいないことを口に出せばいい。
「そんなマリアベル様……僕は心配なだけです」
 相手の心を踏みにじればいい。そうすれば、去っていく。
 その筈だ。
「お主はわらわの恋人にでもなったつもりか? すぐに調子に乗って厚かましい、これだから信用できないのじゃ。お主などとっとと追い出しておけば良かったのじゃ」
 手に入れるのは難しくて、手放すのは可笑しくなるくらい簡単で。
「どうせ、わらわは代わりに過ぎなかったのじゃろ?」
 憎まれるように、精一杯の毒を言葉に込めて放つ。
「ふん……図星か? もう、わらわに話しかけるでない、迷惑じゃ」
 吐き捨て、マリアベルは屋敷の方へと歩き始めた。
「マリアベル様?」
 不意にマリアベルの手首をアッシュが掴んだ。
 マリアベルは一つだけ思い違いをしていた。
 相手を拒絶すれば去っていく。
 事実だが、それでも優しく抱きしめてくれる人はいることを。
 マリアベルはアッシュがそんな人であると思っていなかった。
 慈しむような笑みを浮かべながらアッシュはそのまま優しくマリアベルを抱きしめた。
「離すのじゃ!」
「離したら、マリアベル様は独りぼっちになろうとするから……離しません」
 マリアベルの心にある痛みを癒すように、幼子を抱きしめる母親のように優しく、優しく。
 
 
 軋むベッドに座りながら、マリアベルは跪いて治療をするアッシュを見ていた。
 爪の割れた指先を消毒液で消毒されるたびに痛みが走ったが、マリアベルは居心地の悪さも併せて黙っていた。
「痛いですか?」
 本当は痛いのだが、マリアベルは首を横に振る。
 更にマリアベルにとって居心地の悪い時間が過ぎ、
「アッシュは……どうして」
と口に仕掛けたが、その先は飲み込んでしまう。
「貴方は大切なことを思い出させてくれました」
 叱るわけでもない、怒っているわけでもない、静かな口調だった。
 強いて言えば、友人が諭すような口調だった。
 二人の関係は主従のそれであり、対等な話し合いなどもてないのだが、マリアベルは『拒絶』することで自分の意思を示し、アッシュは『抱擁』と言う形で受け止めた。アッシュの方が大人と言うことなのかも知れないが、互いの意思を示すことは関係を進めることなのだ。
「わらわは……お主の心を踏みにじっただけじゃ……そんな、わらわを構う必要など……」
「貴方は……昨日、『愛することを虚しいと思ってはいけない』と言ってくれました。大切なことを思い出させてくれたから、貴方に僕のような想いを味合わせたくないと思って……ポッターの治癒を行ったから」
 アッシュの傾いていた感情をマリアベルは元に戻した。
 取り戻した感情のままに行った行動はマリアベルを傷つけた。
 そして、アッシュは自虐的になったマリアベルを受け容れた。
「それでも、わらわにはアッシュに受け容れて貰う理由がないのじゃ」
「貴方に理由がないとしても、僕は貴方を受け容れようと思いました。それだけじゃ、不安ですか? 貴方は……」
 自分を見上げる闇色の双眸にマリアベルは小さく悲鳴を上げる。
 冷たい、それでも、温もりを感じさせる手の平が軽く頬に触れ、鼓動が異常に速まる。
「……それでも、不安じゃ」
「大丈夫ですよ」
 気休めを言って、何時もと同じように微笑みを浮かべるアッシュといることにマリアベルは安堵した。
 
 
 倉庫と呼べるだけの広さを持つ部屋の中央には、機械に繋がれた二メートルほどのガラス管が設置されていた。天井には部屋全体を照らせるだけの照明器具が取り付けられ、明かりが点っていたが、そのガラス管の周りの明かりは点けられていなかった。
「……ここまで来て計画に狂いが生じるとは思わなかったわね」
 ガラス管の近くで、報告書に一通り目を通したブリュンヒルデは小さく呟いた。
 『計画』に狂いが生じたという割に彼女の口調に苛立ちや焦りは欠片ほども感じられない。雇った教育係が優しすぎたことが原因なのだが。
「まぁ、修正は幾らでも効くわ。それにアレにとって大切な存在になれば、なるほど……御しやすくなる」
 暗い微笑みを浮かべたブリュンヒルデは指輪を使い小さな炎を生み出し、ガラス管を照らした。
 僅かに濁った液体に満たされたその中には下半身を失った、蒼い瞳と金色の髪を持つ全裸の女性が浮いていた。
「……幾らでも、幾らでも……やり直しが効くわ。お父様、貴方が私を捨てて、アレでやり直そうとしたように」
 ブリュンヒルデはガラス管の表面を愛おしげに撫で、
「……創り出してみせる。大陸最強の生体兵器『カラス』を……この私が」
呟く言葉は闇に溶けて消えた。

(つづく)


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