ぬるま湯のような微睡みの中でマリアベルは夢を見ていた。
 夢の中で彼女は何度も人と出会う。
 顔は黒く塗りつぶされていたが、それが優しい人だとはっきりと理解できた。
 何故なら、怯える自分を撫でる手が温かかったから。
 彼女は別れを繰り返す。
 いなくなるのは何時でも優しい人達だった。
 冷たい人などいなかった。
 初めて自分の頭を撫でてくれた、その手の温もりをマリアベルは覚えている。
 それが例え、雇い主の娘に向ける上っ面だけの優しさでも彼女は嬉しかった。
 時の流れと共に薄れていく思い出が独りぼっちだったマリアベルを支えていたのは事実であった。
「ごめんなさい」
 そして、温もりを与えてくれた人は短い言葉を告げて去っていった。
 残された微かな温もりは孤独を強く感じさせるだけで、なんの慰めにもならない。
 ずっと一緒にいてくれると思っていた。
 手から伝わる温もりは永遠に続く物だと錯覚していた。
 次から次にあてがわれた教育係は唐突にマリアベルの前からいなくなってしまった。
 それでも、彼女は信じたかった。
 祈りのように……届くことのない儚い祈りを繰り替えし、彼女は待ち続けた。
 待ち続ける間に別離は心に小さな傷を作り続けた。
 ある時、気づいてしまう。
 自分の流した血の多さに、手が持つ温もりの大きさに。
 傷つくのは辛く、悲しかったから、マリアベルは人を遠ざける。
 それでも、寂しさを拭うことは出来ない。
 最後に
「ごめんなさい……マリアベル様」
 一人の青年の姿が浮かび上がる。
 微笑んでくれる人だ。
 優しい人だ。
 喚き散らす彼女を抱きしめてくれた唯一の、失いたくない人だ。
 数えるほどしか見たことのない真面目な顔で彼は別れの言葉を告げる。
「待つのじゃ! アッシュ!」
 マリアベルは叫ぶようにして、青年の名前を呼んだ。
 
 ごんっ!!!!
 
 唐突に覚醒したマリアベルが感じたのは軽い衝撃だった。
「ここは何処じゃ?」
 そこは庭だった。
 穏やかな午後の日差しに、柔らかな芝生を全身で感じられる場所など他にはない。
 上半身を起こしたマリアベルが最初に見たのは芝生に鼻血をボタボタと垂れ流す、アッシュの姿であった。
 ポッターの死以来、マリアベルは講義をさぼり、庭でアッシュに膝枕をされて眠るのが、習慣になっていた。それはさぼり以外の何物でもなかったのだが、寝不足気味だったマリアベルにしてみれば、不足しがちな睡眠をとる数少ない機会だった。
 彼女に『甘く』なってしまうのは、押しの弱い部分があるアッシュにとっては断るのは不可能だ。
 初めに誘ったのは自分なのだから仕方がない。
 彼にとって何より不幸だったのは膝を提供することではなく、魘されているマリアベルの顔を覗き込んでしまったことだ。
 跳ね起きたマリアベルの頭突きを鼻っ柱に受けてしまったのだ。
 マリアベルにとっては軽い衝撃程度の物であったが、アッシュにとっては鈍器で殴られたに等しいダメージだ。
「何をしておるのじゃ?」
「……見ての通り鼻血を流してます」
 揃えていた膝を崩しただけなのに変な色気を感じさせるのは反則だとマリアベルは考えもするのだが、今更気にしても仕方がない。
(何もかもが今更じゃな)
 家にいた多くの使用人達がいなくなってしまったことも、そのせいで他人を信頼できなくなっていたことも何もかも過去のことで……アッシュに跳び蹴りを入れたのも過去のことだとマリアベルは思った。
 いつもより鼻血の量が多かったが、マリアベルはそれを無視した。
 
 穏やかな日々は終わりを告げようとしていた。
 
 
「……それにしても、相変わらずうす気味わりぃところだな」
 何度も来たことがあるのか、クルーガーは吐き捨てるように言った。
 そこは屋敷の地下倉庫を流用した研究室だった。
 何十年も前に作られ、何度も改良を加えられ、空調も行き届いているはずの部屋だが、気味の悪さを感じさせるのはクルーガーとは相容れないためなのだろう。
「別に気に入ってくれなんて言ってないわよ。それに貴方がそんなことを言うなんて思わなかったわ……クルーガー将軍?」
 下半身のない死体の浮かぶガラス管を愛おしげに見つめながらブリュンヒルデは問いかけた。皮肉と、近い将来に得るであろう成功への悦びの混じった声にクルーガーは同じくらいの気味の悪さを感じたが、それを表には出さなかった。
「いまは、ただのクルーガーさ」
 下半身以外は完璧で美しい死体だった。クルーガーには死体を愛でる趣味など欠片もないが、生きているように感じて顔を背けてしまう。
「それにしても、死体を見て顔を赤らめるなんて貴方……病気なの?」
「そんなことはどうでも良い。それより、死体から『カラス』を作り出せたのか。俺にはマリアベルが、ただのガキにしか見えないがな」
「割と簡単よ……まぁ、私の力じゃ複製するのが精一杯だったけれどね」
 魔法を使い生命を探求する試みは古くから行われていた。
 錬金術と称された技術だが、その本質は『金』を生み出すことではなく、神の領域に踏み込むための試みだった。生物の複製も、その過程で生み出されたものだ。
 そして、ブリュンヒルデとクルーガーの言葉はマリアベルが複製された人間であることを示していた。
「あの化け物を量産して、国の実権を握る……ま、俺は返り咲ければ良いけどな。制御できたのか?」
 嫌悪感を隠し切れたのはクルーガーにとっては奇跡的なことだった。
 『カラス』……正義の名の下に作り出された生物兵器によって行われた殺戮の跡をクルーガーは大戦中に何度も目にした。
 累々と死体が横たわる戦場で彼は『カラス』に嫌悪を抱くと同時に一つの真実に気が付いた。それは自分の戦いも目の前に広がる光景だけを見れば、大差がないと言う事実だ。
 彼は認めたくはなかった。
 殺戮を繰り返すだけの化け物と、正義と信念に基づいて行動してきた自分が同じ存在であるなど信じられることではなかった。その疑問を払拭するほど彼の正義は強固ではなく、それを受け入れられるほどに弱くもなかった。
 それ以来、彼は何かから逃げるように殺戮を繰り返し、気が付けば軍を追われていた。
 そして、地方の領が王国に反旗と翻そうとしていることを知った彼は、自分の正しさを確認するために軍に戻ることを決意した。
「私は今まで壊れない程度にマリアベルの精神……心に負荷を掛けながら育ててきた。孤独を感じるように、居場所を欲するように、ね」
 だから、次々と教育係をあてがい引き離した。常に愛情を望むように。
「拠り所を信頼すればするほど操りやすくなる……けど、あの教育係は予想外で済まなかった」
 全ては制御するための装置としてマリアベルの心を形成させる計画だった。最終的に目的を達成できれば良いと考えていたために予想外のことが起きても容易に修正が利くはずだった。ブリュンヒルデは方向を維持するだけで良かったのだが、本来なら従うべきマリアベルがアッシュに心を寄せている。
「困ったものね。予想外のことで計画が倒れる」
「おいおい、反乱はいつ起きるかわからねぇんだぞ」
 クルーガーの言葉にブリュンヒルデは口の端を歪め、
「大丈夫よ。オリジナルが私の手の内にある限り……やり直しは幾らでも効くのよ」
 ガラス管の中にある死体を見つめた。
 
 
 夜。
 薄汚れたカーテンの隙間から下半分を闇に覆われた月が見える。
 安物のイスに寄りかかりながらアッシュは月を一瞥し、ベッドに寝転んでいるマリアベルに視線を移した。
 マリアベルはいつも通り、遠慮の欠片もなくベッドを占領していた。シャツの裾を足首まで伸ばしたような白い寝間着を着ている。それを『ネグリジェ』と呼ぶべきか、別の名前のものなのか。アッシュは考え込んだが、後者に違いないと判断した。
 マリアベルはゴロゴロと寝転びながら読書を楽しんでいる。
 そのように見えるが、チラチラとアッシュの方を盗み見ているので、純粋に本を読みたくて来ているわけではないようだ。
 マリアベルは『読書』をするためと主張しているが、素直に部屋に来られないマリアベルが考えた口実にすぎないのは明白だ。
(素直じゃないですね)
 そう考えながらアッシュは微苦笑する。
 最悪と言っても過言ではない出会い方をした二人が同じ部屋で温かく緩やかな時間を過ごしている。
 歳が離れているから、大人のように色々なものを持ち込まずにすんだ。
 時間の問題かもしれないが、二人の間に流れる空気は優しかった。
「その本は……面白いですか?」
「う……よく意味が分からないのじゃ」
 マリアベルは言い淀み、顔を朱に染めたが、無理もないことだった。
 表紙に『大戦』とだけ銘打たれたそれは専門書に属するからだ。専門書が全て難しいというわけではないが、この本はかなり深く大陸の歴史に通じていなければ理解できない代物である。しかも、抽象的な表現が用いられ、何を意図して書かれたのか判然としない。
 筆者がそれを狙ったかどうかは分からないが、奇書の類であることは間違いなかった。「今度は、その本より簡単なものを貸しますね」
 言いながらアッシュはイスから立ち上がった。これは「夜も遅いですから、部屋まで送りますよ」と言う動作である。もう少しだけマリアベルは一緒にいたかったが、アッシュを困らせたくはなかったので「部屋に戻ることにするのじゃ」と最近の決まり事を言ってベッドから立ち上がった。
 
 数えるのも馬鹿馬鹿しくなるほど剣を振るい、すっかり堅くなった手でクルーガーは壁に固定してある剣を手に取った。
 素振りに使っている肉厚の大剣ではなく、屋内でも十分に振り回すことができる長さのものだ。ただ、屋内戦に向いているとは言い難い。十分に振り回すことが出来ても、その機能を十分に活用できるとは限らない。
 馬上なら槍が、屋内で距離がそれなりに広ければ、ボウガンや普及しているとは言えないが銃などの飛び道具が有利と言える。だが、クルーガーは敢えて、その剣を選んだ。
「あの教育係を追い出すだけなら、解雇するのが手っ取り早いんだろうが……そうもいかない、殺すことも出来ない。残された道が一つとは予想外も良いところだな」
 クルーガーは剣に埋め込まれた宝石に軽く口づけをし、
「さて……戦いの時間だ」
 肉食獣のようなどう猛な笑みを浮かべた。
 
「……いつもながら、少し怖いですね」
 廊下を歩きながらアッシュは小さく呟いた。
 暖かな日差しが窓から差し込む光景を見慣れているせいか、夜の、それも深く澄んだ青色に染まる廊下は容易に人の心をざわつかせ、そこに恐ろしい何かが存在しているような錯覚を与える。
「意外に……見た目通りかも知れぬが、恐がりじゃな?」
 マリアベルのからかうような口調に至極まじめにアッシュは肯く。線の細い青年と言った容貌を持つ彼の中に、心の強さをマリアベルは感じていたが、その強さが何処で培われたのか疑問に思った。
「ところで……アッシュは」
「よう! お二人さん……こんな夜中に逢い引きか?」
 マリアベルの言葉は低く、変に陽気な声によってかき消された。その声の主は二人から少し離れたところに立っていた。
「……クルーガー? どうしてこんな所にいるのじゃ?」
 振り向いた先にクルーガーを確認したマリアベルは少し慌てた様子で問いかけた。だが、マリアベルは「何故、そんな格好をしているのか?」と問いかけるべきだった。剣を収めた鞘を腰に下げるクルーガーの姿はあまりにも不自然だった。
「何……大した用事じゃねぇが」
 クルーガーは一歩足を踏み出し、一気に間合いを詰め、一瞬にして剣を鞘から抜き放ち、首を狙って凪ぎ払う。呆れるほど修練を繰り返し、人の命を吸い、磨き上げられた達人の技術とスピードにマリアベルは反応できない。
 だが、斬撃はマリアベルを捉える寸前に現れた影を切り裂くに止まった。
「!」
 クルーガーの双眸が驚愕に見開かれた。
 影……アッシュは剣が降り抜かれると同時に床に倒れた。
 浅いと言っても腹部から流れ出す血の量を見れば、それは決して楽観視できるレベルのものではなかった。事実、血はゆっくりと床に広がっていた。
「アッシュっ?」
 腹を押さえて床に倒れている姿がポッターに重なる。
 それ以上に、何も出来ない彼女自身が、一緒にいてくれる彼に傷を負わせる原因になった自分が許せなかった。
 一瞬……一瞬のうちに逆上したマリアベルはクルーガーに向けて突進していた。
 激情に駆られたマリアベルはクルーガーよりも早く動いていた。
「ヒナの分際で吠えてるんじゃねぇ!」
 首を狙って水平に振るわれた剣をマリアベルはわずかに身を屈めてかわす。訓練も、実戦経験も積んでいないマリアベルが避けられるはずのない一撃だった。だが、マリアベルにはクルーガーの振るう剣が見えていた。
 妙に鋭くなった感覚と緩やかになった時間の中でマリアベルはクルーガーの大腿部に拳を叩き込んだ。岩でも殴ったような衝撃が腕を這い上がってきたが、内部に衝撃を伝えるために肩を返して振り抜く。マリアベル自身の拳も痺れたが、クルーガーは片膝をついていた。
 マリアベルは、両膝を床について半ば気絶しているアッシュを引きずり、走り出した。
「このクソガキが! 必ず、殺してやるぞ! 化け物がッ!」
 憎しみの込められた言葉と視線が背中に突き刺さったが、それはマリアベルの逃走を止める役には立たなかった。
 
 
 声がする。
 恐怖に震える、嗚咽混じりの声だ。
「……アッシュ」
 名前……それは自分の名前だった。それが自分には確認のための記号にしか過ぎなかったことも、そう考えて時々、自嘲しそうになってしまうことも彼は覚えていた。
 だが、その頼りなさげな、泣いている子どもの声がアッシュには気になった。
 だから、彼は目を開けた。
 
「結構……血が出たみたいですね〜」
 彼……アッシュは血で染まった服を見るなり、妙に間延びした口調でそんなことを言った。傷を負った……武器を持った相手に斬りつけられたにしては、かなり危機感のない口調だった。
 どんな人間でも脈絡なく襲われれば、混乱する。意味もなく混乱するよりはましかも知れないが、普通の反応ではなかった。
「血が出たみたいではないのじゃ!」 
 隣に座っていたマリアベルは、アッシュの笑みを浮かべるほど余裕のある態度に憮然とした表情で言った。
「マリアベル様……無事ですか?」
「お主に比べれば無事じゃ!」
 マリアベルが腫れた拳を隠しながら答える。マリアベルの拳は鍛えられていない。同年代、普通の大人には通用するが、クルーガーのように戦闘用に体を鍛え上げた相手と正面から戦うには不十分だった。
 辺りを見渡しながら、アッシュは目を細めた。やや大きめの窓から差し込む月明かりが周囲を浮き上がらせ、そこが何処であるかはすぐに分かった。水道、香辛料と瓶の並んだ棚、様々な用途に使われる大きめの台には小振りのナイフが放置されている。そして、微かに漂う香ばしい匂い。それらのことからアッシュは厨房にいることに気づいた。
 多少傷が痛むが、アッシュはそれを気にしないようにして立ち上がった。
 意外に鋭い刃だったのか、摩擦で切れたのか分からなかったが、アッシュの着ていた上着は鳩尾の辺りを真一文字に切り裂かれていた。
「お主は怪我をしているのじゃぞ! 無理をするでない!」
「それは分かっていますけど、応急処置くらいはしないといけませんからね」
 微笑みを浮かべながらアッシュは棚まで歩く。そこで立ち止まったが目当ての瓶を探し当て、元の位置に戻る。
 服の切れ目から見える傷口は素人目には決して軽いようには見えなかったが、アッシュは瓶の蓋を開けると中に入っていた液体を注いだ。
 液体がかかった途端、ビクンとアッシュの体が跳ね上がる。
「な、何をしておるのじゃ!」
「いえ、変な病気になったら困るんで蒸留酒で消毒をしただけですよ。幸い傷自体は浅いので縫わなくても平気だと思うんですけど……」
 マリアベルに対してアッシュは場違いなほど気軽に答える。
 嗅いだだけでクラリとくる匂いで蒸留酒であることがマリアベルに察しが付いたが、無造作とも言えるアッシュの応急処置に驚きを隠せない。
「そ、それは分かる……じゃが、もう少し体を労っても良いはずじゃ」
「そうですね……そうします」
 
 応急処置と言っても大したことはしなかった。傷を蒸留酒で消毒し、上着を裂いて包帯を作り、きつめに巻く。その程度のことだった。
「さてと……これからどうしますか?」
 アッシュはマリアベルが不安になるほどの笑みを浮かべた。

(つづく)


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